第233話 次の問いは、まだ丸をつけない
昼休みを知らせる鐘が鳴る少し前から、教室の窓には明るい日差しが戻っていた。
朝のうちは昨日の雨を引きずるような薄い雲が残っていたものの、二時間目が終わる頃には青空が広がり、濡れていた中庭の石畳もほとんど乾いている。開けられた窓からは風が入り、黒板の脇へ貼られた展示週間の案内紙をかすかに揺らしていた。
アリシアは教師の説明を聞きながら、机の上に置かれた細長い木片を指で押さえていた。
今日の基礎魔法実技は、魔力を強く出す練習ではない。
木片の中央へ刻まれた三つの小さな印へ順番に魔力を通し、それぞれ同じ程度の明るさで発光させる。どれか一つだけ強く光らせても失敗で、三つすべてを必要な範囲へ収めることが目的だった。
「二つ目、強すぎるぞ」
教師の声が前方から飛ぶ。
「えっ、これで?」
「一つ目と見比べろ。明らかに違う」
「光ってればよくないですか?」
「三つ光らせるだけなら今日の課題にする必要がない」
教室のあちこちから笑いが起こる。
アリシアの隣では、友人が木片を睨んでいた。
「これ嫌い」
「まだやってないよね?」
「見ただけで分かる。絶対二個目だけ強くなる」
「何で二個目?」
「何となく」
「じゃあ二個目を弱くしすぎそう」
「先に嫌なこと言わないでよ」
友人が頬を膨らませる。
アリシアは少し笑ってから、自分の木片へ視線を戻した。
順番が来る。
一つ目。
魔力を細く流すと、淡い光が浮かんだ。
二つ目。
最初と同じ程度を意識する。
三つ目。
そこで少しだけ出力が弱くなった。
「三つ目、もう少し」
教師に言われ、アリシアは一度魔力を切った。
「途中から足してもいいですか?」
「今回は最初からやり直せ。途中で調整する課題じゃない」
「はい」
木片の光が消える。
アリシアは息を整え、もう一度最初から魔力を通した。
今度は三つとも大きな差なく光る。
「よし」
教師が次の生徒へ移った。
アリシアは木片から手を離す。
隣で友人が不安そうな顔をしていた。
「次、私」
「うん」
「三つ目弱くなったらどうしよう」
「やる前から三つ目に決めない方がいいよ」
「アリシアの見たから」
「私と同じになるとは限らないでしょ」
「……それもそうか」
友人が木片へ手を置く。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
「二つ目、強い」
「やっぱり!」
「何で嬉しそうなの」
「予想当たったから」
「課題は失敗してるよ」
「そこは言わなくていい!」
周囲の生徒が笑う。
教師まで口元を緩めていた。
アリシアも笑いながら、友人が二回目へ挑むのを見守った。
研究のことは、ほとんど考えなかった。
昨日までなら、三つの印が揃うかどうかというだけで、東側と自分と西側を思い出していたかもしれない。
今日は違う。
これは授業で、こちらは木片だ。
友人が二回目で三つの光を揃えた時も、アリシアはただ「できた」と笑った。
◇
昼休みになると、友人は弁当を持ったまま窓の外を確認した。
「外行けそう」
「乾いてるかな」
「昨日よりは」
「昨日は雨だったよ」
「だから昨日よりは絶対乾いてる」
「比較する意味ある?」
「あるよ。気持ち的に」
結局、二人は中庭へ出た。
日陰にはまだ少し湿った場所が残っていたが、いつもの長椅子は乾いている。先に友人が手で座面を確認し、得意そうに振り返った。
「今日は私が確認した」
「えらい」
「忘れない係に任せてばっかりじゃ駄目だから」
「だから私、その係じゃないって」
「じゃあ今日から乾いてる係?」
「もっと嫌」
二人で腰を下ろす。
近くの芝生では数人の生徒が昼食を広げており、少し離れた木陰では上級生らしい集団が展示週間の話をしていた。校舎の開いた窓からも声が聞こえ、穏やかな風に混じって焼いたパンの匂いが流れてくる。
友人が弁当箱を開けながら尋ねた。
「昨日、研究見たんだよね?」
「うん」
「分かった?」
「少し」
「また少し?」
「全部分かったら終わっちゃうでしょ」
「研究って終わるの?」
「知らない」
「終わらないんじゃない?」
「そんなこと言わないで」
友人が笑う。
「で、何が分かったの?」
アリシアはパンを一口食べてから答えた。
「私が弱く変だって感じた時間は、東側の反応に近かった」
「へえ」
「でも、同じものだったとはまだ言えない」
「西は?」
「もっと後ろ」
「じゃあ東、アリシア、西?」
「そういう並びに見えるけど、そう決めない」
「何で?」
「時間に幅があるし、装置も違うし……」
そこまで説明して、アリシアは友人の顔を見る。
「難しい?」
「ちょっと」
「じゃあ、東の近くで私が変って言った。でも、それだけで東が私に何かしたとは決められない」
「あ、それなら分かる」
「西はその後ろ側にあった」
「じゃあ西も、アリシアが何かしたって決められない?」
「うん」
「ふうん」
友人はしばらく食べながら考えていた。
「でもさ、前は三つだったんでしょ?」
「うん」
「今回は二つ」
「私の弱い違和感はあったけど、決めてた確認の線には届かなかったから二つ」
「次はどうするの?」
その問いに、アリシアの手が少し止まった。
「まだ決めてない」
「珍しい」
「何で?」
「アリシアならもう『次これやりたい』って言ってそう」
「候補はあるよ」
「何個?」
アリシアは指を折りかけて、やめた。
「……いっぱい」
「やっぱり」
「でも、いっぱいあるから決めてない」
「一番やりたいのは?」
すぐには答えられなかった。
東と西だけの関係を見る。
弱い違和感を調べる。
もう一度同じ条件で記録を取る。
局所形状の測定法を先に作る。
人工刺激をせず、自然な記録を増やす。
どれも気になる。
「分かんない」
「全部やれば?」
「一回に全部やると、何を確かめたのか分からなくなる」
「じゃあ順番決める?」
「それを今日、たぶん相談する」
「なるほど」
友人は頷き、それから果物を一つ口へ入れた。
「じゃあ研究の人と決めるんだ」
「うん。でも、私も決める」
「そこ大事なんだ?」
「参加するの私だから」
友人は少しだけ真面目な顔になった。
「そっか」
アリシアも頷く。
それ以上、研究の話は続かなかった。
展示週間で何を見たいか。
植物管理体験の日に雨が降ったらどうするか。
昼食後に購買へ寄るか。
話題はすぐに別の方向へ流れていった。
◇
放課後、アリシアは研究棟へ向かった。
昨日とは違い、今日は解析結果を早く見たいという強い焦りはない。
代わりに、頭の中にはいくつもの候補が並んでいた。
(どれを先にするんだろう)
考えながら歩く。
自分の中では、弱い違和感が一番気になっている気もする。
けれど、それは昨日初めて出たから目立っているだけかもしれない。
東と西が二回とも確認されたことも気になる。
同じ条件をもう一度試したい気持ちもある。
局所形状も途中だ。
『また全部やりたい顔』
足元からノアの声がした。
「顔で分かるの?」
『歩きながら指折ってた』
「……見てたんだ」
『三本目でやめたけど』
「いっぱいあったから」
『研究棟に着くまでに十本超えなくてよかったわね』
「そんなにないよ」
『今のところは』
「増やさないで」
研究棟の入口へ着く。
今日は試験ではない。
身体状態の簡単な確認だけを済ませ、会議室へ案内された。
◇
机の上には、昨日固定した二つの新規前向き記録の封筒が置かれていた。
その横には白紙が一枚。
既存九記録は出ていない。
局所形状の校正記録もない。
「今日は何を見る?」
アリシアが座る前に尋ねると、副学院長が白紙を指した。
「まず、何も見ません」
「何も?」
「昨日の結果を受けて、次に何を問う価値があるかを整理します」
「記録開けないの?」
「必要になるまでは」
アリシアは椅子へ座った。
ノアは隣の椅子へ飛び乗る。
「昨日、候補が二つ出ましたね」
若い観測員が言う。
「東と西だけを見るのと、弱い違和感」
「はい」
「それ以外にもあります」
「同じ試験をもう一回」
「それも」
「局所形状」
「はい」
「自然観測」
「候補にはできます」
「……五個」
『昼より増えた?』
「自然観測忘れてた」
『増えてるじゃない』
副学院長が白紙の上へ五つの項目を書いた。
一、同条件での前向き記録を追加する。
二、東側奥部と西側対象反応の関係を独立した問いとして整理する。
三、確認基準未達の弱い主観違和感を探索対象として整理する。
四、局所波形形状の独立測定法を継続して整備する。
五、人工刺激を行わず自然記録を蓄積する。
アリシアは五行を見つめた。
「全部必要?」
「それも含めて考えます」
「一個ずつ消す?」
「消す必要はありません。優先順位を決めることと、価値がないと判断することは別です」
「後に残すのもある」
「はい」
アリシアは少し安心した。
一つ選ぶために、他を捨てる必要はない。
◇
「まず、一番目。同条件で三件目の前向き記録を取る場合」
副学院長が一行目へ小さな印をつける。
「何が分かりますか?」
アリシアは考えた。
「一回目は三つ確認。二回目は東と西だけ確認。もう一回同じにしたら……どっちに近いか分かる?」
「『どちらが多いか』は三件の範囲で数えられます。しかし、それを主目的にしますか?」
「……違う気がする」
「なぜ?」
「二対一になったからって、そっちが正しいって決められないから」
「はい」
「じゃあ、同じ条件でもまた違う判定になることがあるか、記録を増やす?」
「それなら意味はあります。ただし、二件目で既に『同条件でも三領域判定が必ず同じではない』ことは一度観測しています」
「同じことをもう一回見る価値が、前より少し下がった?」
「そう考えることもできます」
「でも一回だけ違ったから、たまたまかもしれない」
「はい」
「……どっち」
『研究って便利ね。どっちも言える』
「便利じゃないよ」
アリシアは眉を寄せる。
副学院長が少し笑った。
「だから、何を知りたいかを先に決める必要があります」
「三件目を取るなら、『一回目と二回目のどっちが普通か』じゃない」
「はい」
「同じ条件での判定の変動を、もう一件独立に見る」
「それなら明確です」
一行目の横へ、その言葉が補足された。
◇
「二番目」
東側奥部と西側対象反応。
アリシアは昨日から気になっていた。
「新しい二枚は、東と西が両方確認」
「はい」
「既存の記録でも、東が出た時に西も出ること多かったよね」
「比較可能な制御記録では、三領域が共に確認された六件と、三領域が共に非確認だった二件があります」
「だから東と西だけで見ると、一緒に出てる」
「既存のその範囲では」
「新しい二枚も東西は一緒」
「はい」
アリシアの目が少し輝く。
「じゃあ強い?」
「何がですか?」
「東と西の関係」
副学院長はすぐには答えなかった。
「関連候補としては、以前より注目する理由が増えています」
「でも関係あるって確定じゃない」
「はい。共通の入力条件や別の未測定状態に、両方が反応している可能性もあります」
「東が西を動かしてるとは限らない」
「その通りです」
「六つ目が間にいるとも限らない」
「はい」
アリシアは二行目を見る。
「これを次の主質問にするなら?」
「そこが問題です」
「問題?」
「何をもって東西の『関係』とするかが、まだ広すぎます」
若い観測員が補足する。
「確認判定が一致するか。時間配置が一定か。波形量が連動するか。片方が確認された時にもう片方も確認されるか。『関係』という一語に複数の問いが入っています」
「……一個にしないと駄目」
「少なくとも前向き確認試験の主質問にするなら、絞る必要があります」
「今のまま丸つけられない」
「はい」
アリシアは二行目の横へ、自分で小さく書いた。
『広い。分ける必要あり』
◇
「三番目」
確認基準未達の弱い主観違和感。
アリシアは自然と姿勢を正した。
「これ、一番気になる」
『やっぱり』
「だって私のことだもん」
「気になること自体は重要です」
サーラが言う。
「ただし、研究上どう扱うかは別に整理しましょう」
「昨日の零点五みたいなのが、昔もあったか探す」
「探索としては可能です」
「探し方を先に決める」
「はい」
「『冷たい』だけじゃなくて、『変』『重い』『何かあった』とか?」
「そこを今、思いつくまま増やすと危険です」
アリシアの口が止まる。
「何で?」
「昨日の言葉に似た表現を拾いたい気持ちが強いからです。似ている言葉だけを後から選べば、結果に合わせた探索になります」
「じゃあどうする?」
「まず、過去の主観報告を分類する規則そのものを、東西結果を見ない状態で作る方法があります」
アリシアは目を瞬いた。
「東と西隠す?」
「はい。アリシアさんが何を言ったか、身体状態、発言順序だけを見て、主観報告を分類する。その分類を固定した後で、東西記録と比較する」
「それなら、東が出た時の言葉だけ選べない」
「その通りです」
「……やりたい」
即答だった。
ノアが尾を揺らす。
『丸つけそうな顔』
「だって面白そう」
「面白そうだから、今日決める?」
副学院長に尋ねられ、アリシアは止まった。
「……駄目?」
「駄目とは言っていません。ただ、昨日最も目立った新情報が弱い違和感だったことは覚えておきましょう」
「新しいから気になってるだけかもしれない」
「はい」
「でも、私の主観報告を東西結果なしで分類する方法は、昨日の結果がなくても意味ある?」
部屋が少し静かになる。
若い観測員が頷いた。
「あります。これまで『対象感覚確認/非確認』という二値判定を主に使ってきましたが、生の主観報告には強度、部位、言葉、確信度、持続などが残っています。それを結果非参照で整理すること自体には独立した価値があります」
「じゃあ昨日を説明するためだけじゃない」
「そうですね」
アリシアは三行目を見つめる。
丸はつけない。
けれど、少しだけ気持ちがそちらへ傾いた。
◇
「四番目。局所波形形状」
この項目については、魔導具担当教師が資料を出した。
ただし、昨日の試験記録ではない。
結果ラベルのない独立校正波形だけだった。
「少し進展があります」
「決まった?」
「まだです」
アリシアの肩が少し落ちる。
『分かりやすい』
「だってずっとやってるから」
「だからこそ急がないんです」
教師が数本の校正波形を並べる。
「戻り後の安定化時間を測る案について、安定とみなす幅と継続時間を固定しようとしています。ただ、装置固有の小さな揺れをどこまで許容するかで、同じ校正波形でも測定値が変わる問題が残っています」
「人によって違う?」
「規則を同じにすれば大きくは違いません。しかし、どの規則を採用するかの独立理由がまだ弱い」
「九枚とか新しい二枚を見て、分かれやすい規則にしない?」
「しません」
「じゃあまだ待つ」
「はい」
「これを先に完成させてから次の試験?」
「必須にはしません」
「前と同じだ」
「そうです」
四行目には『独立整備継続・次試験の必須条件ではない』と書き足された。
◇
「最後。自然記録」
アリシアが五行目を見る。
「刺激しないで、東とか西とか私に何か起きるか見る?」
「それも含みますが、広すぎます」
「また広い」
『今日は広いものばっかりね』
「自然状態は制御が弱い分、何を記録するかを決めておかないと、後から何でも拾えてしまいます」
副学院長が説明する。
「既存の日常観測自体は続いています。だから、人工刺激を休むことと、新しい自然観測研究を始めることは同じではありません」
「休む日は普通に記録は残ってる」
「はい」
「新しい自然研究をするなら、また問いを作る必要がある」
「その通りです」
アリシアは五行目の横へ『今は日常観測継続。新しい主質問は未設定』と書いた。
◇
五つの候補を一通り見終えた時、白紙だった紙は文字で埋まっていた。
けれど、どこにも丸はない。
「……決まってない」
アリシアが言う。
「今日は決める日でしたか?」
「違うの?」
「整理する日です」
「最初に言ってよ」
『言ってた気がするけど』
「次に何を問う価値があるか整理するって」
『それ』
「でも決めると思うじゃん」
『思わないわよ』
「ノアは参加しないから」
『猫だからね』
アリシアは紙をもう一度見る。
五つ。
その中で、今の自分が一番気になるのは三番目。
弱い主観違和感。
ただし、その理由には「昨日出たばかりだから」が混じっている。
一番目は、同条件での変動をもう一件見るという明確な問いにできる。
二番目は重要そうだが、まだ「東西の関係」という言葉が広すぎる。
四番目は独立して進められる。
五番目は、現状の日常観測を続けながら、必要になれば改めて問いを作ればいい。
「一個聞いていい?」
「どうぞ」
「三番目の主観報告の分類って、人工刺激しなくてもできる?」
「できます」
「昔の記録使うから?」
「はい。東西結果を伏せた形で、主観報告だけを整理する設計にできます」
「じゃあ、次の刺激を決めるのと別にできる」
「その通りです」
アリシアの目が少し大きくなる。
「じゃあ、同時に二つ進められる?」
「同じ一回の試験へ二つの主質問を詰めるのではなく、別作業としてなら可能です」
「主観報告の分類は記録整理。次の刺激は別」
「はい」
「局所形状も別」
「はい」
「……三本進む」
『欲張りが復活した』
「でも混ぜてないよ」
『そこは偉い』
「本当に褒めた?」
『珍しく』
アリシアは少し笑った。
◇
「では、今日決められる範囲を確認しましょう」
副学院長が新しい紙を一枚出す。
「一つ。昨日の弱い違和感を受け、過去の主観報告を東西結果から独立して分類する方法を設計する。これは探索準備であり、昨日の結果を過去記録で直ちに確認する作業ではない」
「はい」
「二つ。局所波形形状の独立測定法整備は継続する」
「はい」
「三つ。次の人工刺激試験については、本日決定しない」
アリシアの返事が少し遅れた。
「……はい」
「不満?」
「ちょっと」
「なぜ?」
「もう一回やりたいから」
「何を知るために?」
アリシアは口を閉じる。
同じ条件でもう一件。
それ自体には意味がある。
でも、今の自分は単に次の結果が見たい気持ちも強い。
「まだ、ちゃんと言えない」
「なら今日はそこまででいいでしょう」
「次に来るまで考えていい?」
「もちろん。ただし、結果をどうしたいかではなく、何を知りたいかを考えてください」
「三つ揃ってほしい、じゃなくて」
「はい」
「東西だけ揃ってほしい、でもなくて」
「はい」
「……難しい」
『研究なんだから簡単だったら困るんじゃない?』
「ノア、たまに正しいこと言うね」
『たまに?』
部屋に笑いが広がった。
◇
その後、主観報告分類の方法について、ほんの入口だけ話し合った。
過去の記録をすぐ開くことはしない。
まず、何を分類対象にするか。
刺激試験時に記録されたアリシアの発言だけにするのか。
刺激のない観測時の身体報告も含めるのか。
胸部だけに限定するのか。
「冷たい」「変」「重い」といった言葉をどう扱うのか。
強度値を先に見るのか。
発言順序をどう残すのか。
考え始めると、すぐに項目が増えた。
「待って」
アリシアが自分から止めた。
「またいっぱいになってる」
「そうですね」
「今日ここまで?」
「その方がいいでしょう」
「次は分類規則を決める?」
「少なくとも、どの記録を対象にするかを先に決める必要があります」
「東西結果は隠したまま」
「はい」
「昨日の記録も?」
若い観測員が少し考える。
「昨日の内容はアリシアさん自身が覚えています。完全に盲検にはできません」
「忘れられない」
「なので、アリシアさん自身が分類規則を作る作業へどこまで関与するかも考える必要があります」
「私、外れた方がいい?」
「それも候補です」
アリシアの表情が曇る。
「参加したい」
「参加できないとは言っていません」
「でも私が昨日の言葉知ってるから、昨日に合う規則作っちゃうかもしれない」
「その危険はあります」
「じゃあ、先生たちだけで作る?」
「それにも別の偏りはあり得ます。方法を考えましょう」
「……ここも決まらない」
『今日は決まらない日ね』
「嫌な名前つけないで」
アリシアはため息をついたが、怒ってはいなかった。
むしろ、自分が知っていることそのものが研究条件になるという事実が、少し面白かった。
時間窓を知ったことで、報告の早さを意識するようになった。
昨日の弱い違和感を知ったことで、今度は分類規則を作る時にそれへ寄せる可能性が生まれる。
(知ったことは、なかったことにできない)
だから、その状態でどう確かめるかを考える。
知らなかった頃へ戻るのではなく、知っている自分を含めて方法を作る。
「次、それ考えたい」
「主観報告分類へのアリシアさんの関与方法?」
「うん」
「分かりました。候補として残します」
◇
研究棟を出た時には、夕方の光が学院の屋根を赤く染め始めていた。
雨上がりの湿気はもう薄れ、代わりに乾いた風が制服の裾を揺らしている。
「結局、今日何も決まらなかった」
アリシアが歩きながら言う。
『二つ決まったでしょう』
「何?」
『主観報告の分類方法を作る準備をする。局所形状の整備は続ける』
「次の試験が決まってない」
『それを何も決まってないって言うの、研究の人に怒られるんじゃない?』
「怒られないよ」
『じゃあ呆れられる』
「もっと嫌」
アリシアは歩きながら鞄の中へ手を入れた。
研究棟でもらった候補一覧の写しがある。
取り出しかけて、やめる。
「帰ってから見ようかな」
『夕食の後?』
「うん」
『研究帳開く?』
「……開かない」
『間が怪しい』
「紙だけ見る」
『それで済む?』
「済ませる」
ノアは何も言わず、尾を揺らした。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は床へ何枚かの色紙を並べていた。
紙箱は横に置かれている。
昨日入れた木の実は一度出したらしい。
「ただいま」
「おかえり」
「何してるの?」
「次、何貼るか考えてる」
「箱に?」
「うん」
床には赤、白、紫、それから細く残った青。
「決まった?」
「まだ」
「いっぱいあるね」
「うん」
「全部貼る?」
「貼らない」
「何で?」
「ごちゃごちゃするから」
アリシアの足が止まった。
ノアが横から顔を上げる。
『何?』
「何でもない」
アリシアは靴を脱いで、子供の隣へ座った。
「どれにするの?」
「まだ決めてない」
「今日決める?」
「明日でもいい」
「そっか」
子供は色紙を一枚ずつ重ねていく。
アリシアはその手元を見ていたが、研究の話にはしなかった。
候補がたくさんあるからといって、全部を一度に使わなくていい。
そんなことをわざわざ子供へ言わせる必要もない。
ただ、少しだけ笑った。
◇
夕食後、自室へ戻ったアリシアは、鞄から候補一覧の紙を出した。
机へ置く。
一から五まで。
同条件の追加記録。
東西関係。
弱い主観違和感。
局所形状。
自然記録。
どれにも丸はない。
アリシアは筆記具を手にした。
『開いた』
寝台の上からノアが言う。
「研究帳じゃないよ」
『紙に書くんでしょう』
「一個だけ」
『何を?』
「今、一番知りたいこと」
『丸つけるの?』
「つけない」
紙の下へ小さく書く。
『次の結果を見たい、ではなく、次に何を知りたいか考える。』
そこで筆を止めた。
「終わり」
『本当に?』
「終わり」
『珍しい』
「最近そればっかり」
『最近珍しいことが多いのよ』
アリシアは筆記具を置き、紙を折った。
明日見た時も同じ候補が気になるとは限らない。
それでいい。
昨日の結果を見た勢いだけで、次の試験へ丸をつけない。
自分が知りたいことと、結果を見たいだけの気持ちを、もう少し分けてから決める。
机の上には、植物管理体験の案内も置かれていた。
温室入口。
集合時刻。
用意した薄手の手袋。
研究以外の予定も、ちゃんと次の日々へ続いている。
アリシアは候補一覧を案内紙の隣へ置き、灯りを少し落とした。
(次の問いは、まだ決めなくていい)
決めないことは、止まることではない。
五つの候補は消えていない。
ただ今夜は、そのどれにも丸をつけなかった。




