第232話 線の内側に残ったもの
翌朝、アリシアが目を覚ました時、最初に聞こえたのは窓を細かく叩く雨の音だった。
強い雨ではない。薄い雲に覆われた空から細かな雨粒が落ち続け、窓硝子へ触れるたび、規則性のない小さな音を残している。部屋の中はいつもの朝より少し暗く、机の上に置いた読みかけの本も、青みがかった薄明かりの中へ沈んでいた。
身体を起こす前に、アリシアは胸へ意識を向けた。
冷たくない。
昨日感じた、冷たいと言い切るには弱すぎた違和感も残っていない。深く息を吸っても苦しさはなく、頭痛も吐き気もなかった。
(大丈夫そう)
そう思ってから身体を起こす。
寝台の端へ腰掛け、少しだけ腕を伸ばしたところで、足元から黒い塊がのそりと動いた。
『起きた?』
「うん」
『胸は?』
「何もない」
『疲れは?』
アリシアは少し考えた。
「二」
『昨日の夜より下がったわね』
「寝たから」
『当たり前のことを自信満々に言うじゃない』
「普通に答えただけなのに」
ノアが大きく伸びをしてから床へ降りる。
アリシアは制服へ着替えながら、机の上の予定表をちらりと見た。
昨日の欄には『済』。
今日の欄には何もない。
分析、とも書いていない。
昨夜はそれでいいと思った。
今朝になっても、その判断を後悔してはいなかった。
ただし。
(見たい)
昨日の記録は見たい。
東側がいつ反応したのか。
西側はどこだったのか。
自分の弱い違和感は、その二つの間のどこにあったのか。
前回の新規記録と何が同じで、何が違ったのか。
総変位量はいくつだったのか。
知りたいことは、起きた瞬間からいくつも浮かんでいた。
『顔が研究棟へ行ってる』
「まだ部屋にいるよ」
『身体の話じゃないわよ』
「……分かってる」
アリシアは鞄を持ち上げた。
「でも学校が先」
『えらいえらい』
「子供扱いしないで」
『昨日の夜、自分でそう決めたんでしょう』
「そうだけど」
扉へ向かいながら、もう一度だけ予定表を見る。
今日の欄は空白のままだった。
◇
共用室では、子供が昨日作った紙箱の蓋を何度も開け閉めしていた。
外側には緑、薄黄色、茶色。
蓋を開けば、内側に青。
何を入れるのかはまだ決まっていないらしい。
「おはよう」
「おはよう。胸、どう?」
挨拶の直後に聞かれ、アリシアは少し笑った。
「何ともないよ」
「変な感じも?」
「ない」
「よかった」
子供はそれだけ言うと、また紙箱へ視線を戻した。
昨夜の続きを細かく聞いてくるわけではない。
顔のない存在は窓際に座っている。胸部の十一の光については朝の担当職員が確認しており、アリシアは遠くから一度見ただけで食卓へ向かった。
朝食は柔らかな卵料理とパン、それから温かい飲み物だった。
雨のせいか、室内にはいつもより少し湿った空気がある。開けられた小窓から土の匂いが入り、食器の触れ合う音に混じって、屋根を叩く雨音が続いていた。
「今日、研究する?」
パンをちぎりながら子供が聞く。
「まだ決まってない」
「試験はしない?」
「今日はしないよ」
「絶対?」
「うん。昨日やったから」
「元気でも?」
「元気でも」
子供は納得したように頷く。
「じゃあ見るだけ?」
「たぶん記録を見る。でも、それも学校のあと」
『この子の方があなたより予定を理解してそうね』
「私も理解してるよ」
『朝起きて最初に記録のこと考えてたけど』
「考えるだけならいいでしょ」
「何考えてたの?」
子供に聞かれ、アリシアは少し迷った。
「昨日、私が変だって感じた時に、東と西がどうなってたのかなって」
「まだ知らない?」
「出たことは知ってる。でも、いつだったかは詳しく見てない」
「今日見る?」
「たぶん」
「分かったら教えて」
「分かる範囲ならね」
子供はまた箱へ戻った。
アリシアも朝食を続ける。
今日は刺激をしない。
だから急ぐ必要はない。
それでも昨日とは違う種類の期待が、胸の内側に静かに残っていた。
◇
学院へ向かう頃には、雨は少し弱くなっていた。
傘へ当たる音は細かく、道沿いの木々から落ちる大きな雫だけが時々強い音を立てる。石畳は黒く濡れ、歩く生徒たちの靴が浅い水を踏むたび、小さな水音が続いた。
「おはよう!」
正門の少し手前で友人の声がした。
今日は傘を差しているため、走ってはいない。
「おはよう」
「昨日できた?」
「できたよ」
「どうだった?」
アリシアは一瞬だけ答えを考える。
「前とは違った」
「え」
「東と西は確認された。でも、私はいつもの冷たい感じって言えるほどじゃなかった」
「じゃあ二つ?」
「決めた基準では二つ」
友人は傘を少し傾けた。
「それ、悪かったの?」
「悪くはないよ」
「残念?」
「ちょっと」
「嬉しい?」
「ちょっと」
「どっち?」
「両方」
友人は数秒アリシアを見てから笑った。
「アリシア、研究の話すると面倒くさいね」
「ひどい」
「だって残念で嬉しいんでしょ?」
「今までなかった組み合わせだったから」
「それで嬉しいの?」
「気になる」
「やっぱり面倒くさい」
「もう話さない」
「待って待って。聞きたいって」
校舎へ向かう生徒の流れに入りながら、二人で傘を並べる。
友人はしばらく昨日の結果について聞いていたが、研究の細かな内容までは追わなかった。
「今日はまたやるの?」
「やらない」
「元気でも?」
「元気でも」
「へえ」
「何?」
「前なら、元気ならやりたいって言いそう」
「……今もやりたいことはあるよ」
「じゃあやらないの?」
「昨日の記録をちゃんと見る方が先だから」
「なるほど」
友人は少し考え、それから急に話を変えた。
「そういえば植物管理の体験、雨でもやるのかな」
「温室だからやるんじゃない?」
「外作業あるかもよ」
「案内に雨天中止って書いてなかった」
「さすが忘れない係」
「それとこれ関係ないよね?」
研究の話は、そこで終わった。
◇
一時間目は音楽史だった。
大きな実技室ではなく普通の教室で、教師が古い楽譜の複製を黒板へ留めている。
現在使われている記号とは少し形が違い、同じ高さの音でも時代によって書き方が異なるらしい。
「この記号、何ですか?」
前の席から質問が飛ぶ。
「分からない」
教師があっさり答えたため、教室のあちこちから小さな笑いが起きた。
「先生でも?」
「教師が全部知っていると思うな。分からないものは分からない」
教師は黒板の端を指す。
「ただし、何も分からないわけではない。この記号が出る位置、前後の音、同時代の別資料との比較から、いくつか候補はある。演奏上の指示かもしれないし、当時だけ使われた補助記号かもしれない」
「じゃあ正解は?」
「新しい資料が見つかれば変わるかもしれない」
「演奏するとき困らないんですか?」
「困る」
また笑いが起きた。
「だから、復元演奏では『この解釈を採用した』と明示する。分からない部分を勝手に消して、最初から分かっていたことにはしない」
アリシアの筆が止まる。
昨日、自分が感じた弱い違和感。
確認基準には届かなかった。
けれど、なかったことにもしていない。
少しだけ似ている。
そう思ったところで、アリシアは自分のノートへ視線を戻した。
(授業は授業)
昨日も似たことをした。
何でも研究へ結びつけなくていい。
ただ、教師の言葉が少し記憶に残っただけだった。
◇
昼休みになっても雨は続いていたため、今日は教室で食べることになった。
窓際へ机を寄せ、友人と向かい合う。
周囲にも何組か残っており、弁当の蓋を開ける音や笑い声が教室の中へ重なっていた。
「今日、放課後は研究?」
「たぶん」
「たぶん?」
「身体は大丈夫だから、記録見るくらいはできると思う。でもまだ先生たちと約束してない」
「じゃあ図書室は?」
「今日は行かないかも」
「船どうなった?」
アリシアは少し驚いた。
「覚えてたの?」
「昨日言ってたじゃん。島で修理してるやつ」
「まだ直ってない」
「遅いね」
「二日以上かかるって書いてあったから」
「主人公、暇じゃないの?」
「島を見て回ってる」
「何か見つけた?」
「まだそこまで読んでない」
「研究ばっかり行ってるからじゃん」
「昨日も読んだよ」
「どこまで?」
「三ページくらい」
「少なっ」
「眠かったの」
友人が笑う。
「じゃあ今日、研究早く終わったら読めば?」
「うん」
アリシアはパンを一口食べる。
研究の結果が気になっていても、本の続きも気になる。
植物管理体験もある。
展示週間も。
昼食を食べながら友人と話す時間も。
昨日、自分が「やりたい気持ちは十ではない」と言った理由が、今日もちゃんと残っている。
◇
放課後、アリシアは一度だけ研究棟とは反対方向を見た。
図書室へ向かう廊下。
今日は行かない。
けれど、行けないわけではない。
その違いを自分の中で確かめてから、研究棟へ向かった。
雨はほとんど止んでいた。
雲の切れ間から淡い光が差し、濡れた道が白く反射している。空気は冷たく、雨上がり特有の土と草の匂いが強かった。
『今日は走らないのね』
「昨日試験したばっかりだから」
『記録見たくて走るかと思った』
「走らないよ」
『成長したわね』
「昨日も言ってた」
『便利な言葉だから』
「同じの使いすぎ」
『厳しい』
研究棟へ着いても、今日は試験室へは向かわなかった。
案内されたのは小さな解析室だった。
◇
部屋の中央には大きな机があり、その上へ昨日の記録だけが置かれていた。
既存九記録はない。
前回の新規記録も、別の封筒に入れられたまま端へ置かれている。
「体調は?」
サーラに聞かれる。
「疲労二。痛みゼロ、息苦しさゼロ、胸の違和感ゼロです」
「頭痛、吐き気、眩暈」
「ないです」
「研究参加希望は?」
「九」
『高い』
「見るだけだから」
『そういう問題?』
若い観測員が笑いながら椅子を引いた。
「今日は人工刺激を行いません」
「はい」
「昨日の記録整理のみです。まず、昨日の新規記録そのものを固定します。その後、事前に決めていた範囲の解析へ進みます」
「前の記録と比べる?」
「段階的にです。最初から重ねません」
「どうして?」
「昨日の記録そのものを、前回へ引っ張られず整理するためです」
アリシアは頷いた。
「昨日は昨日だけ」
「そうです」
机の中央へ一枚の記録票が置かれる。
「まず主質問の結果から」
「東、確認。私、非確認。西、確認」
「はい。したがって事前定義上は三領域不一致」
「私の弱い違和感は別に残る」
「その通りです」
記録票には、確認判定とは別の欄に主観報告の原文が残されていた。
『今、少し変です』
『胸。少し左……冷たい、とはまだ言い切れないです』
強度は零点五程度。
その後、薄くなり、ほぼゼロ。
痛み・息苦しさなし。
「ここ、変えない?」
アリシアが尋ねる。
「変えません」
「東と西が確認だったから、対象感覚だったかもしれないって書き足さない?」
「解釈欄へ『東西確認後に対象現象との関連候補として検討可能』とすることはできます。ただし、当時の主観判定は変更しません」
「それならいい」
アリシアは紙を見つめる。
自分の言葉が、そのまま残っている。
少し変。
冷たいとは言い切れない。
昨日よりも落ち着いた状態で読み返しても、その表現を変えたいとは思わなかった。
「じゃあ次は時間?」
「はい」
◇
若い観測員が三本の横線が描かれた紙を出した。
一番上が東側。
中央がアリシア。
一番下が西側。
左端には共通零点として入力開始が置かれている。
「昨日と同じく、入力開始を基準零点にします」
「はい」
「まず東側奥部。追加低下は既存基準を満たしています。ただし、装置の応答と記録処理に不確実性があるため、一点時刻ではなく時間窓で置きます」
東側の線へ短い帯が描かれる。
アリシアは黙って見ていた。
「次に西側。遅延弱波形も既存基準を満たしています。こちらは東側とは別の装置・処理系なので、同じ幅の不確実性ではありません」
下段へ、東側より後ろ側に帯が置かれる。
「中心位置は?」
「今回も西側の方が後ろです」
「でも絶対に東が先とは言わない」
「はい。窓の境界と装置不確実性を無視して、実際の現象が一点順序で必ず東→西だったとは断定しません」
アリシアは二本の帯を見比べる。
東。
その後ろに西。
これだけなら、これまでの陽性記録と似ている。
「私のは?」
若い観測員の手が止まった。
「ここが今回少し扱いの違うところです」
「確認じゃないから?」
「そうです。対象感覚の確認時間窓として、陽性記録と同じ表へ入れることはしません」
「でも時刻はある」
「あります」
別の色ではなく、線の種類を変えた枠が中央へ描かれた。
「これは『対象感覚確認窓』ではありません。昨日の弱い胸部違和感報告が生じ得た時間範囲です」
「私が最初に『少し変』って言ったところから?」
「その発言時刻だけを一点にしません。これまでと同様、発話までの遅れを考慮します。ただし、今回は最初の発言が明確な『冷たい』ではなく、弱い違和感報告です」
「前に『今、何かあった?』って言った時とも違う?」
「違います」
アリシアは少し身を乗り出した。
以前、質問形の曖昧な発言をどう扱うかで、時間窓を広く取った記録があった。
あの時は、最初の言葉だけでは身体感覚の報告かどうかが曖昧だった。
「今回は質問じゃない」
「はい。『少し変です』と身体側の異常を報告しています。その直後に胸部位置も明示している。したがって、報告そのものは主観的な身体違和感として扱えます」
「でも冷感確認ではない」
「そこを混ぜません」
「……うん」
中央の破線枠が置かれる。
アリシアは三段を見た。
東側の確認窓。
自分の弱い違和感報告範囲。
西側の確認窓。
「重なってる?」
「東側とは一部近接しています。アリシアさんの弱い違和感報告範囲と西側確認窓の間には、現行の窓構成では間があります」
「じゃあ、東の近くで私が変って感じて、その後に西?」
「そう見える配置ではあります」
副学院長が言葉を挟んだ。
「ただし、その文章をそのまま因果順序へ変えないでください」
「分かってる」
アリシアは紙から目を離さない。
「東が私に何かして、私が西に送った、とは言わない」
「はい」
「しかも今回は私は対象感覚として非確認」
「その点も重要です」
アリシアの眉が少し寄る。
「でも……変な感じは東の近くにある」
「現在の窓ではそうです」
「偶然かもしれない」
「はい」
「確認基準に届かない弱い反応だったかもしれない」
「候補にはなります」
「全然別の身体感覚だったかもしれない」
「それも残ります」
「測り方の問題かもしれない」
「その可能性もあります」
「……増えた」
『昨日より謎が増えて嬉しそうね』
「嬉しいっていうか」
アリシアは少しだけ口元を緩めた。
「気になる」
『知ってる』
◇
時間窓の整理が終わると、次は入力側の記録へ移った。
「総変位量?」
「はい」
前回の試験前に、結果を見ない独立校正記録だけを使って測定法を固定した項目。
基準線からのずれを、固定された区間内で時間に沿って積み上げる。
山の高さだけでもない。
長さだけでもない。
入力が基準からどれくらい、どの程度の時間外れていたかをまとめた値。
「式は前回から変えてない?」
「変えていません」
「昨日の結果を見て調整してない?」
「していません」
「じゃあ計算する」
「その前に、アリシアさんが計算しますか?」
若い観測員が尋ねる。
「私?」
「式自体はそれほど複雑ではありません」
アリシアは少し迷ってから頷いた。
「やる」
『授業の計算より真面目な顔』
「授業も真面目だよ」
『昨日、友達の消しゴム見て笑ってたけど』
「それは関係ない」
紙と筆記具が渡される。
基準線。
固定区間。
区間ごとの偏差。
装置側で既に数値化された細かな値を、固定式へ順に入れていく。
途中で一度計算を間違え、アリシアは眉を寄せた。
「ここ違う」
「どこ?」
「足すところ一個飛ばした」
『友達のこと笑えないわね』
「今それ言う?」
『昨日の報い』
「ノア、覚えてたんだ……」
周囲から小さな笑いが起きる。
アリシアは計算をやり直した。
今度は合う。
若い観測員が独立して出した値とも一致した。
「これが昨日の総変位量」
「はい」
「高い?」
言った直後、アリシアは止まった。
「……高いって、何と比べて?」
「その問いが必要です」
「一個だけ見ても高いか低いか分からない」
「装置の安全範囲に対してなら位置づけられます。しかし、対象反応が出る/出ないという意味で高いか低いかは、この一件だけでは言えません」
「前回の新規一件とは比べられる?」
「測定法は同じなので比較できます」
机の端に置かれていた封筒へ視線が集まる。
前回の新規記録。
三領域すべて確認された一枚。
「開ける?」
アリシアが尋ねる。
「その前に確認します」
副学院長が言った。
「前回との比較は、何を目的に行いますか?」
アリシアは口を閉じた。
ただ見たい。
それだけなら簡単だ。
でも、見た後に違いを見つければ、それを理由にしたくなるかもしれない。
「同じ条件で、入力がちゃんと同じくらいだったか確認する?」
「それは一つの目的になります」
「総変位量が違ったら、昨日だけ反応が違った理由って言わない」
「はい」
「同じだったら、総変位量は関係ないって決めない」
「はい」
「二件しかないから」
「その通りです」
「じゃあ……同条件試験として、入力側がどの程度再現されていたかを見る」
「その目的なら妥当です」
封筒が開かれた。
◇
前回の総変位量。
今回の総変位量。
二つの値が並ぶ。
完全に同じではない。
装置で作る波形である以上、小さな違いはある。
けれど、既定の再現許容範囲には十分収まっていた。
「近い」
「はい」
「でも同じじゃない」
「はい」
「この差が結果を変えたかは?」
「分かりません」
「この二件だけじゃ分からない」
「その通りです」
アリシアは二つの値を見る。
前回は三領域確認。
今回は東・西確認、アリシア非確認。
総変位量は近い。
(じゃあ総変位量だけでは……)
そこまで考え、止める。
近いからといって、関係がないとはまだ言えない。
ほんの小さな差が重要な可能性も、別の条件との組み合わせで意味を持つ可能性もある。
逆に、本当に関係がないかもしれない。
「これ、答えにならないね」
『残念?』
「ちょっと」
『嬉しい?』
「……ちょっと」
『昨日から面倒な子』
「友達にも言われた」
ノアが喉を鳴らす。
◇
「次に、二件を確認判定だけで並べます」
若い観測員が新しい紙を出す。
一件目。
東側――確認。
アリシア――確認。
西側――確認。
二件目。
東側――確認。
アリシア――非確認。ただし弱い胸部違和感報告あり。
西側――確認。
アリシアは二行を見比べた。
「一個だけ違う」
「はい」
「これで、前回の三つ一致が偶然だったって言える?」
「言えません」
「三つは本当は別々って言える?」
「言えません」
「私の感覚だけ不安定って言える?」
「二件だけでは強く言えません」
「……何も言えない」
アリシアが少し頬を膨らませる。
副学院長が笑った。
「何も、ではありません」
「何が言える?」
「同じ事前固定条件で取得した二つの新規独立記録のうち、一件は三領域一致確認、一件は東・西確認かつアリシア対象感覚非確認という不一致だった」
「それだけ?」
「それだけ、ではありません。それが今回得た答えです」
アリシアはもう一度紙を見る。
自分が欲しかったのは、もっと大きな答えだったのかもしれない。
六つ目が何をしているのか。
なぜ東と西が動くのか。
なぜ自分の胸が冷たくなるのか。
けれど今回聞いたのは、そこではない。
同じ条件で三領域の確認判定が一致するか。
一件目は一致。
二件目は不一致。
(ずっと同じになるわけじゃなかった)
それは小さくない。
「同じ条件でも、三つがいつも同じ確認判定になるとは、今の二件では言えない」
「はい」
「むしろ一回違った」
「はい」
「でも、東と西は二回とも確認」
若い観測員の手が止まる。
「そこは記録上の事実です」
「……二回だけだけど」
「はい」
アリシアは少し考えた。
「次、東と西だけを主質問にしたくなる」
「候補として書くことはできます」
「今決めない?」
「今日は決めない方がいいでしょう」
「何で?」
「今、二回とも東西が確認されたという結果を見た直後だからです」
アリシアは「あ」と小さく声を出した。
「結果見てから、都合よく次の中心を変えようとしてる」
「次の問い候補にすること自体は悪くありません。ただし、『二回そうだったから重要に違いない』だけで確認試験へ進めるのではなく、なぜ東西関係を独立して問う価値があるのかを整理する必要があります」
「……候補止まり」
「はい」
「書いていい?」
「もちろん」
アリシアは余白へ記した。
『候補:東側奥部確認と西側確認の関係を、アリシア対象感覚判定から分けて問う意味があるか』
書いたあと、二重線も丸もつけなかった。
ただの候補だ。
◇
「もう一個」
アリシアが言う。
「弱い違和感」
「はい」
「これも次の質問にしたくなる」
「どういう質問ですか?」
「確認基準に届かない感覚も、東や西と関係あるか」
「自然な候補ですね」
「でも昨日見つかったから、すぐ確認扱いしない」
「はい」
「昔の記録を探して、『冷たいって言わなかったけど何か変って言ってた』のを全部拾ったら?」
「探索としては可能です」
「確認にはならない」
「その通りです」
「じゃあ、昔の記録を見ちゃ駄目?」
「駄目ではありません。ただし目的を明示する必要があります」
アリシアは少し考える。
「弱い違和感みたいな報告が他にもあったか探す。あったら次の問いを作る材料にする。でも、それで昨日の結果を証明したことにはしない」
「それなら探索として扱えます」
「今日やる?」
サーラが時計を見る。
「今日はそこまで広げない方がいいでしょう」
「時間?」
「時間もあります。それに、今は昨日の記録を整理した直後です。興味が高い状態で古い記録を大量に開くと、似ているものばかり拾いたくなる可能性があります」
「……ある」
『自覚が早い』
「だって探したいもん」
「だからこそ、探し方を先に決めてからにしましょう」
アリシアは渋々頷いた。
「明日?」
「明日とはまだ決めません」
「また」
『予定表に書けないわね』
「書かないよ」
言いながら、少しだけ不満そうな顔になる。
◇
解析の最後に、昨日の新規記録へ正式な固定印が付けられた。
一回目の新規前向き記録とは別の番号。
結果欄には、
『三領域判定:不一致』
東側奥部対象反応――確認。
アリシア対象感覚――非確認。
補足として弱い胸部違和感報告あり。
西側対象反応――確認。
入力条件は事前固定条件内。
観測終了点は固定通り。
安全停止なし。
結果を理由とした条件変更なし。
アリシアはその紙をしばらく見ていた。
「これで二枚?」
「新規前向き記録としては二枚です」
「九枚と合わせて十一枚?」
「数だけならそうなります。ただし、役割を同じにしません」
「九枚と、新規二枚」
「はい」
「まだ十一枚の一個の表にしない」
「目的が決まるまでは、その方が適切です」
アリシアは頷く。
一回目の封筒の横へ、二回目の封筒が置かれる。
二つは同じ色だった。
外側だけ見れば、どちらが三領域一致で、どちらが不一致か分からない。
「どっちがどっちか書かないの?」
「管理番号で分かります」
「外に結果書かないんだ」
「結果を見ずに扱う必要がある作業では、外側から分からない方が便利ですから」
「なるほど」
『開けたくなる箱が増えたわね』
「木箱と一緒にしないで」
『言ってないけど』
「顔が言ってた」
『猫の顔を読みすぎ』
◇
研究棟を出た時、雨は完全に止んでいた。
西の空には雲の切れ間があり、低い位置から差した光が濡れた道を淡く照らしている。木々の葉にはまだ水滴が残り、風が通るたび、ぱらぱらと遅い雨のように落ちていた。
「図書室、まだ開いてるかな」
『行くの?』
「少しだけ」
『疲労は?』
「二か三」
『研究参加希望は?』
「今は七」
『下がったわね』
「見たかったところ見たから」
『じゃあ船でも見てきたら』
「うん」
研究棟から学院本館へ戻る。
昨日とは逆だった。
昨日は教室から研究棟へ。
今日は研究棟から図書室へ。
どちらも同じ一日の中にあっていい。
◇
図書室には、雨上がりの湿った匂いが少し入り込んでいた。
窓が細く開けられている。
放課後も遅い時間になったため、生徒は少なかった。
アリシアはいつもの棚から読みかけの本を取り出し、窓際の席へ座った。
ノアは椅子の隣で丸くなる。
「船、直るかな」
『私は知らないわよ』
「二日って書いてあった」
『二日で直るとは書いてないんでしょう?』
「……そうだけど」
『研究で鍛えられた読み方しなさい』
「本くらい普通に読ませてよ」
ページを開く。
物語の中では、主人公たちが島の高台へ向かっていた。
船の修理を待つ間、ただ浜辺で座っているのではなく、食料になる植物や安全な水場を探しているらしい。
アリシアはゆっくり読み進める。
途中で一度、昨日の三本の線が頭へ浮かんだ。
東。
弱い違和感。
西。
けれど、本を閉じるほどではなかった。
(あとで考えられる)
そのまま次の行へ進む。
主人公たちは高台から、島の反対側に古い石造りの建物らしきものを見つけた。
「何か見つけた」
『研究?』
「本!」
『分かってる』
「絶対わざとでしょ」
声を抑えて言うと、近くにいた生徒が一瞬こちらを見た。
アリシアは慌てて本へ顔を戻す。
ノアの尾だけが楽しそうに揺れていた。
◇
生活観測区画へ戻った頃には、空がかなり暗くなっていた。
共用室の灯りが窓から漏れている。
中へ入ると、子供が昨日の紙箱へ小さな木の実を一つ入れていた。
「入れるもの決まった?」
「まだ一個だけ」
「木の実?」
「うん」
「青いところ見えなくなっちゃうね」
「出したら見える」
「そっか」
子供が蓋を閉める。
「研究、分かった?」
アリシアは鞄を下ろした。
「ちょっと分かった」
「何が?」
「昨日、私が変って感じたのは、東の反応に近い時間だった」
「じゃあ同じ?」
「それは分からない」
「西は?」
「もっと後ろ」
「前と同じ?」
「似てるところもある。でも、私は昨日は確認になってないから、前と同じにはしない」
子供は少し考えてから箱を持ち上げた。
「これ、前と同じ箱?」
「違うよ」
「でも箱」
「うん」
「じゃあ、箱ってだけで同じにしない?」
アリシアは一瞬言葉を失った。
ノアが横で喉を鳴らす。
『分かりやすい先生がいるじゃない』
「先生じゃないよ」
「何?」
「何でもない」
アリシアは笑った。
「うん。箱ってだけで同じにはしない」
子供は満足したように紙箱を棚へ戻した。
そのすぐ近くには、長く調査を急がず置かれている本物の木箱がある。
見た目も、重さも、中身も、意味も違う。
ただ同じ言葉で呼べるだけで、一つにはならない。
アリシアはそれ以上考えず、手を洗うために立ち上がった。
◇
夕食後、自室へ戻っても研究帳は開かなかった。
今日の解析内容は研究棟に正式記録として残っている。
代わりに、机へ植物管理体験の案内紙を置く。
「集合、温室入口」
『十分钟前』
「私は十五分前」
『忘れない係だから』
「違う」
『手袋』
「準備してある」
『友達の分も?』
「借りられるって確認してある」
『完璧じゃない』
「だから係じゃないって」
案内紙を鞄へしまう。
それから、今日借りてきた冒険物語を机の端へ置いた。
船はまだ直っていない。
島の反対側には、何かがある。
研究では、二枚目の前向き記録が一枚目とは違う答えを出した。
どちらも続きが気になる。
けれど、どちらも今夜すべて知ることはできない。
「ノア」
『何?』
「次、何すると思う?」
『研究?』
「うん」
『知らない』
「考えてよ」
『候補ならいくらでもあるでしょう。東と西を見る。弱い違和感を調べる。局所形状の測り方を作る。もう一回同じ試験をする。刺激せず休む』
「いっぱいある」
『だから今日決めなかったんじゃないの』
「うん」
アリシアは椅子の背へ身体を預けた。
二枚の新しい記録。
一枚目では三つが揃った。
二枚目では、真ん中だけが決めた線の内側へ入らなかった。
けれど、その外側に何もなかったわけではない。
零点五ほどの弱い違和感。
東側の確認窓に近い位置。
それを「対象感覚だった」と今から決めることもできない。
「無意味だった」と捨てることもできない。
(線の外にあるものも、消えるわけじゃない)
確認基準は、世界を二つに切り分ける魔法ではない。
研究で答えるために、どこからを確認と呼ぶか決めた線だ。
線の外側に残ったものには、別の問いが必要になることもある。
アリシアは机の上の何も書かれていない紙を一枚手に取った。
けれど、研究の候補を書き始める代わりに、それを元の場所へ戻した。
「今日は書かない」
『珍しい』
「明日になっても気になるなら、その時考える」
『もっと珍しい』
「ノア」
『褒めてる』
「絶対違う」
窓の外では、屋根から最後の雨粒が落ちた。
昨日の二枚目は、もう整理された。
けれど、その一枚から生まれた問いまで、同じ日に答えへ変える必要はない。
アリシアは灯りを少し落とし、読みかけの本を開いた。
二本の確認された線と、その間に残った弱い感覚は、研究棟の記録の中で消えずに待っている。
今夜は、それで十分だった。




