第231話 二枚目は、まだ白い
生活観測区画の廊下へ出ると、朝食の匂いがいつもより早く鼻へ届いた。
焼いたパンと温かいスープ、それから少しだけ香ばしい匂いが混ざっている。窓から入る朝の光はまだ弱く、昨日の雨を残した庭では、草の先に小さな雫が光っていた。
アリシアは鞄の肩紐を直しながら、共用室の扉を開けた。
「おはよう」
「おはよう」
子供はすでに席についていた。
昨日作っていた小さな紙箱は、窓辺の棚に置かれている。緑と薄い黄色の紙が貼られた箱の隣には、使わなかった青い色紙が一枚だけ残されていた。
顔のない存在も少し離れた席にいる。胸元には十一の淡い光が見えていたが、今朝は職員がそちらの記録を担当しており、アリシアは足を止めなかった。
「今日?」
子供が尋ねる。
「うん。予定では」
「まだ予定?」
「まだ朝だからね」
椅子を引いて座ると、足元へ来たノアが尾を一度だけ揺らした。
『朝の数字だけで午後を決めないって、自分で昨日言ってたものね』
「うん」
「今は元気?」
子供がパンを手にしたまま聞く。
「元気だよ」
「怖い?」
アリシアはすぐに数字を口にしなかった。
目を閉じるほどではない。ただ、自分の内側へ少しだけ意識を向ける。胸の奥に冷たさはない。痛みも息苦しさもなく、身体の重さもほとんど感じない。
それとは別に、今日の放課後を考えると、胸のもっと深いところが少し落ち着かなくなる。
「三くらい」
「朝と同じ?」
「うん」
「やりたい?」
「八……かな」
『そこは昨日から変わらないのね』
「今はね」
職員がスープを置いてくれる。
アリシアは礼を言い、匙を取った。
温かい湯気が頬へ触れる。
(今日、もう一枚取る)
頭の中でそう言葉にした途端、指先がわずかに止まった。
一枚目では三つとも確認された。
東側奥部。
自分の胸の冷たさ。
西側の遅れた弱い反応。
同じ問いを、同じ条件でもう一度。
(また三つ出てほしい)
その気持ちは、やはりある。
否定する必要もない。
けれど、願っていることと、記録に何が残るかは別だった。
「アリシア?」
子供に呼ばれ、顔を上げる。
「何?」
「スープ止まってる」
「あ」
『朝からもう研究室に半分入ってるじゃない』
「入ってない」
『匙が三十秒くらい止まってた』
「数えてたの?」
『適当』
「じゃあ言わないでよ」
子供が笑う。
アリシアも小さく息を吐き、今度こそスープを口へ運んだ。
まだ朝だ。
試験は放課後。
その間には学院がある。
昨日と同じように、その時間を飛ばす必要はなかった。
◇
学院へ向かう途中、道端の水溜まりはほとんど消えていた。
石畳の端だけがまだ少し濡れており、木陰には昨日の雨が残っている。風が吹くと葉から遅れて雫が落ち、朝日を受けて一瞬だけ白く光った。
正門が見えてきたところで、アリシアは少し歩調を落とした。
昨日は友人が後ろから来た。
今日も来るだろうか。
そう思ってしまった自分に気づき、少しだけ可笑しくなる。
『待ってるの?』
「待ってない」
『速度落ちたけど』
「水溜まり」
『ないわよ』
「……ノア、細かい」
『研究者の近くにいるから』
「それ理由にするのやめて」
その時、本当に後ろから足音が聞こえた。
「アリシア!」
振り返る。
友人が来る。
今日は走ってはいない。
「おはよう」
「おはよう。今日は走ってないよ」
「何も言ってない」
「顔が言ってた」
「言ってないよ」
「昨日も心配してたでしょ」
「滑ったからでしょ」
「一回だけ!」
友人が隣へ並ぶ。
二人で正門をくぐりながら、昨日までより乾いた石畳を歩いた。
「今日、放課後だっけ?」
「うん」
「試験」
「予定ではね」
「まだ決まってないの?」
「直前に元気か確認するから」
「朝は?」
「元気」
「じゃあ大丈夫そう?」
「午後はまだ分かんない」
友人は少し考えてから、「そっか」とだけ答えた。
それ以上、「絶対できるよ」とも「頑張って」とも言わない。
アリシアはそのことに少し安心した。
「植物管理の体験、忘れてない?」
代わりに出てきたのは、まったく別の話だった。
「忘れてないよ」
「手袋」
「ある」
「十五分前」
「それはあなたに言っただけ」
「忘れない係」
「……その名前、本当に広がってるからやめない?」
「昨日誰かに言われた?」
「図書室で」
「誰?」
「同じクラスの子」
「もう定着してる!」
「嬉しそうにしないで」
「だってアリシアの役職じゃん」
「違うってば」
昇降口へ着く頃には、試験の話は消えていた。
◇
午前の授業は文章読解から始まった。
教師が黒板へ書いたのは、短い紀行文だった。
昔の旅人が山間の町へ入り、夜明け前に宿を出て、谷を渡るまでを書いた文章らしい。
「今日は内容そのものより、書かれている事実と、読み手が補っているものを分ける」
教師が教卓へ資料を置く。
「『旅人は寒さに震えながら橋を渡った』と書いてあれば、寒かったことと震えたことは本文にある。では、『旅人は橋が怖かった』まで言えるか」
「言えない」
前方の生徒が答える。
「なぜ?」
「寒くて震えただけかもしれないから」
「そうだな。怖かった可能性はある。しかし、可能性と本文に書かれたことは同じではない」
アリシアは配られた文章へ目を落とした。
昨日の魔法史に続いて、妙に研究へ重なって聞こえる。
けれど今日は、それをいちいち研究へ持ち帰らないことにした。
授業は授業だ。
旅人は旅人。
東側の波形ではない。
「じゃあ次。『宿を出た時刻が早かったから、旅人は急いでいた』は?」
「分からない」
「理由は?」
「いつも早く出る人かもしれない」
「天気の都合かもしれない」
「目的地が遠いだけかも」
教室のあちこちから声が上がる。
教師が頷いた。
「そうだ。文章に書かれていない理由を一つに決めない。読解では想像力も必要だが、想像したことを本文の事実に変えてはいけない」
隣の友人が、ちらりとアリシアを見る。
目が合った。
友人の口元が少しだけ上がる。
「何?」
アリシアが小声で聞く。
「研究っぽいって思った?」
「……ちょっと」
「やっぱり」
「でも今日は授業だから」
「私、何も言ってないよ」
「顔が言ってた」
「さっきの仕返し?」
「違う」
「絶対そう」
教師がこちらを見る気配がして、二人とも慌てて資料へ視線を戻した。
◇
二時間目と三時間目を終えても、身体の調子に変化はなかった。
胸部冷感なし。
息苦しさなし。
痛みなし。
疲労は一から二の間くらい。
ただ、昼が近づくにつれて、試験のことを考える回数は少しずつ増えていった。
廊下の時計を見る。
授業の終わりを確認する。
昼食後には、あと何時間かと考える。
そのたびに、アリシアは無理に頭から追い出そうとはしなかった。
(気になるのは仕方ない)
そう思ってから、今やっていることへ戻る。
考えてしまうことと、試験のために一日を捨てることは違う。
◇
昼休みは中庭へ出た。
昨日より地面は乾いている。
長椅子の周りでは何組かの生徒が昼食を取り、少し離れた場所では男子生徒たちが丸めた布を投げ合っていた。風が吹くたび木の葉が揺れ、まだ残っていた雫がぱらぱらと落ちる。
「ここ大丈夫?」
友人が長椅子を手で触る。
「乾いてる」
「座ってから濡れてたら嫌だから」
「昨日晴れてたよ」
「でも木の下だよ」
「じゃあ私が先座る?」
「お願い」
「何で私が試すの」
「忘れない係だから」
「関係ない」
結局、アリシアが先に座った。
濡れていない。
「大丈夫」
「ありがとう」
「次から自分でやって」
「善処します」
「絶対しない言い方」
昼食を広げる。
今日は小さなパンと野菜、それから果物。
友人はしばらく普通に食べていたが、半分ほど終えたところでアリシアを見た。
「今、怖い?」
朝より少しだけ声が静かだった。
アリシアは手を止める。
「四……くらいかも」
「上がった?」
「うん」
「大丈夫?」
「四なら相談する数字」
「相談?」
「試験の前に先生たちと」
「じゃあ、ちゃんと言ってね」
「言うよ」
「三って言った方が試験できそう、とか思わない?」
アリシアの指が止まった。
前の試験前。
恐怖を四と言いたかった。
本当は五かもしれないと思ったのに、五なら延期になるから。
そのことを正直に話して、もう一度自分の状態を見直した。
友人は、その出来事を知らない。
それなのに、偶然ほとんど同じところを突いてきた。
「……思うかもしれない」
アリシアは正直に答えた。
「思うんだ」
「やりたいから」
「じゃあ余計に、ちゃんと言わないとね」
「うん」
「試験したい数字と、怖い数字は別なんでしょ?」
アリシアは友人の顔を見た。
「何で分かるの?」
「前に聞いたから。やりたい気持ちも数字にするって」
「覚えてたんだ」
「私だって忘れない係できるよ」
「係じゃないってば」
友人が笑う。
アリシアも少し遅れて笑った。
恐怖四。
その数字は、笑ったから三になるわけではない。
でも、四のままでも昼食は食べられる。
友人と話せる。
怖さがあることと、今日一日が怖さだけになることも違う。
◇
午後最後の授業は計算だった。
いつものように紙と筆記具を出し、教師が黒板へ問題を書く。
複数の荷物を二台の運搬具へ分けた時、それぞれの負荷が規定範囲へ収まる組み合わせを求める問題だった。
「一番軽くすればいいんですか?」
誰かが聞く。
「違う。両方とも規定内へ入れる」
「ぴったり?」
「ぴったりでなくていい」
教師が黒板を軽く叩く。
「条件を勝手に増やすな。『最小にしろ』とも『同じにしろ』とも書いていない」
教室から「ああ」と声が上がった。
アリシアも問題へ目を戻す。
今日は本当に、どの授業も妙なところで研究を思い出させる。
(でも、これも計算)
小さく息を吐き、数字を書き始めた。
隣では友人が早くも消しゴムを使っている。
「間違えた?」
「まだ間違えたって決まってない」
「消してるじゃん」
「途中で気が変わっただけ」
「それを間違えたって言うんじゃない?」
「アリシア、今日厳しくない?」
「普通」
友人が頬を膨らませる。
アリシアは少し笑い、再び自分の計算へ戻った。
問題は思ったより時間がかかった。
それが良かった。
数字を追っている間、放課後まであと何分かを考えずに済んだ。
◇
終業の鐘が鳴った瞬間、教室の空気が一気にほどけた。
椅子が動き、鞄を閉じる音が重なり、部活動へ向かう生徒たちが廊下へ流れ出していく。
アリシアはすぐには立たなかった。
机の上の筆記具を一本ずつしまう。
教科書を閉じる。
提出物が残っていないか確認する。
「行く?」
友人が鞄を肩へ掛けながら尋ねた。
「うん」
「今、怖さは?」
「……たぶん四」
「ちゃんと言う?」
「言う」
「なら、行ってらっしゃい」
前と同じ言葉だった。
頑張って、ではない。
成功してきて、でもない。
アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
「行ってきます」
「明日、結果聞いていい?」
「話せる範囲なら」
「じゃあそれで」
友人が手を振る。
アリシアも小さく手を上げ、教室を出た。
◇
研究棟へ向かう道は、普段より少し長く感じた。
空は明るい。
風も穏やかで、学院の敷地では部活動へ向かう生徒の声が聞こえている。
研究棟へ近づくにつれ、人の数が減る。
アリシアの歩調も、自然に少しだけ遅くなった。
『四?』
ノアが隣を歩きながら聞く。
「たぶん」
『たぶん?』
「四だと思う。でも研究棟見えたら、ちょっと上がったかも」
『なら、そのまま言えば』
「四と五の間って言っていいかな」
『数字は檻じゃないでしょう』
「うん」
玄関前で立ち止まる。
扉の向こうには、すでに準備を進めている人たちがいる。
装置も。
記録紙も。
東側と西側の観測担当も。
けれど、それらが準備されていることは、アリシアが今日必ず試験を受けなければならない理由にはならない。
前にも確認した。
今日も同じだ。
「ノア」
『何?』
「今、四と五の間」
『じゃあそう言いなさい』
「うん」
扉を開けた。
◇
最初に案内されたのは、試験室ではなく休憩室だった。
サーラと治療担当教師、安全担当者がいる。
机には水だけが置かれており、試験用の資料はまだない。
「お疲れさまです」
「はい」
「まず座ってください。急いで確認しません」
アリシアは椅子へ座る。
ノアはいつものように隣の椅子へ飛び乗った。
「学校は通常通り?」
「はい」
「実技は?」
「今日はなかったです。最後は計算」
「昼食は?」
「全部食べました」
「頭痛、吐き気、眩暈は?」
「ないです」
「では、身体疲労からお願いします」
アリシアは少し考えた。
「二」
「朝は?」
「一」
「学校で一つ上がった感覚?」
「はい。普通に授業受けた分だと思います」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部冷感、あるいは今回の対象感覚に似た違和感」
「ゼロ」
ここまでは迷わなかった。
「恐怖は?」
アリシアは口を開きかけて、止める。
昼は四。
研究棟が見えたところで、少し上がった。
五と言い切るほどなのか。
四と言うには、少し違う。
「四と五の間……です」
安全担当者が記録する。
「四・五相当として扱いますか?」
「……はい」
「参加したい気持ちは?」
「八」
「恐怖を低く言えば試験できる、という考えはありますか?」
その問いに、アリシアは一度ノアを見た。
ノアは何も言わない。
ここは自分で答えるところだ。
「あります」
「どの程度?」
「四って言った方が、たぶん進みやすいって思いました。でも、四だけじゃない感じがしたから……四と五の間って言いました」
「ありがとうございます」
治療担当教師が柔らかく答える。
「では、ここで一度止めます。今すぐ試験室へは移動しません」
「はい」
分かっていた。
恐怖四は相談。
五なら延期を含めて判断。
四と五の間なら、当然そのまま通過にはならない。
それでも、胸の奥が少し沈む。
(延期になるかもしれない)
その考えははっきりしていた。
だからこそ、アリシアは自分の手を膝の上で組んだ。
「今、延期になるかもって思って、残念?」
サーラが尋ねる。
「はい」
「どれくらい?」
「……六」
「怖さより大きい?」
「今は、たぶん」
「それでも恐怖を四へ下げて言い直したい?」
アリシアは少し黙った。
「したくは、ないです」
「なぜ?」
「それやったら、今日の試験が始まっても……最初から一個嘘になるから」
部屋が静かになる。
窓の外から、遠くの生徒たちの声が微かに聞こえた。
「私は今日やりたいです。でも、怖さが四と五の間なのも本当です」
言葉にすると、胸の奥の落ち着かなさが少し形を持った。
「だから、四にはしません」
安全担当者が頷く。
「分かりました。では、恐怖の中身を分けましょう」
◇
試験そのものの何が怖いのか。
人工刺激。
胸部冷感。
装置。
研究室。
結果。
止められなくなること。
アリシアは一つずつ考えた。
「刺激そのものは……二くらい」
「前回の胸部冷感は?」
「一くらい。弱かったから」
「強くなるかもしれないことは?」
「それは三」
「装置や部屋」
「一」
「結果」
ここでアリシアは少し迷った。
「……三か四」
「どういう怖さですか?」
「三つとも出なかったら、ちょっと残念だと思うし……一つだけ違ったら、すごく気になると思います。でも、嫌っていうより、分からなくなる感じが怖い」
「結果が予想と違うこと?」
「はい」
「三つとも確認されると予想していますか?」
「予想っていうか……してほしいって思ってます」
「願いと予想を分けるなら?」
アリシアはしばらく考えた。
「予想は……分からないです。前は三つ出た。でも同じ種類でも出なかった記録もあるから」
「では、結果への怖さは?」
「三」
「他には?」
アリシアの視線が、自分の膝へ落ちる。
「今日、できなくなるのが怖い」
サーラが少しだけ表情を和らげた。
「試験そのものではなく、延期が?」
「はい」
「どのくらい?」
「……四」
『そこが大きいのね』
ノアが初めて口を挟んだ。
アリシアは頷く。
「今日やりたいから」
「つまり、恐怖の一部に『試験を受けることへの恐怖』ではなく、『試験できないかもしれない不安』が含まれている」
治療担当教師が確認する。
「はい」
「それでも全体として四・五相当と感じる?」
アリシアはもう一度、自分の身体と気持ちを確かめた。
話しているうちに、研究棟へ入った直後の張りつめた感じは少し薄れている。
けれど、ここで「下がった」と言えば試験へ近づけると分かっている。
その知識が、自分の答えを引っ張っていないか。
(下がったって言いたい)
はっきりそう思った。
アリシアは唇を結び、それから顔を上げる。
「今すぐは、数字変えたくないです」
「理由は?」
「下がったって言いたい気持ちがあるから。本当に下がったか、まだ分からない」
安全担当者がペンを置いた。
「では休憩しましょう」
「どれくらい?」
「時間は先に決めません。短時間で答えを作るための休憩ではありませんから」
アリシアは頷いた。
◇
休憩室から研究関係者が一度出ていった。
残ったのはアリシアとノアだけだった。
水を一口飲む。
窓の外を見る。
夕方にはまだ早い。
学院の屋根が光を受け、遠くでは部活動の掛け声が聞こえている。
『延期でも死なないわよ』
「分かってる」
『明日すぐやるとも限らないけど』
「分かってる」
『怒った?』
「怒ってない」
『声がちょっと低い』
「……やりたいんだもん」
アリシアは机へ額をつけるほどではなく、少しだけ前屈みになった。
「昨日、ちゃんと休んだ。今日も授業普通に受けた。身体も元気。痛くないし、冷たくないし、息苦しくない」
『うん』
「だから、怖さだけで延期になったら……残念」
『うん』
「でも、怖くないって言うのも違う」
『うん』
「ノア、また全部うん」
『今日は聞く方がいいでしょう』
アリシアは返事をせず、水の入った杯を見る。
表面がわずかに揺れている。
自分の指が机へ触れるたび、その振動が伝わっているらしい。
「前も、数字を都合よくしたくなった」
『そうね』
「今回も同じ」
『まったく同じ?』
アリシアは顔を上げる。
「……違う」
『何が?』
「前は、怖いこと自体を少し隠したかった。今日は……怖いのも分かってる。でも、延期が嫌だから下げたい」
『なら、その違いも言えば』
「うん」
しばらく沈黙する。
外で鳥が一羽、窓の前を横切った。
アリシアは背もたれへ身体を預ける。
呼吸を意識して整えようとはしない。
試験へ通るために落ち着こうとするのも、何か違う気がした。
ただ座る。
水を飲む。
ノアの尾が椅子の端から垂れているのを見る。
今日試験できるかどうかとは関係なく、時間は進んでいく。
◇
再確認が行われたのは、それからしばらく経ってからだった。
サーラたちが戻ってきても、すぐ数字を聞かれなかった。
「立ってみてください」
「はい」
立つ。
「眩暈は?」
「ないです」
「少し歩きましょう」
部屋の中をゆっくり歩く。
息苦しさなし。
脚の重さもない。
席へ戻る。
「今、試験をしないと言われたら?」
安全担当者が尋ねた。
アリシアは少し眉を寄せた。
「残念です」
「強く反対しますか?」
「……しないです」
「説得しようとは?」
「ちょっとしたい」
サーラが笑いを堪えたような顔になる。
「正直ですね」
「でも、駄目って決まったら、たぶん帰ります」
「明日以降、研究室へ勝手に来て刺激を求める?」
「しません」
『そこまでしたら私が引きずって帰る』
「ノアに引きずられたくない」
少し笑いが起きる。
その笑いが収まってから、改めて恐怖を聞かれた。
アリシアは今度も急がなかった。
「四」
「先ほどより下がった?」
「はい」
「下げたい気持ちは?」
「あります。でも……今は四だと思います」
「根拠は?」
「試験できなくなるかもって考えた時の焦りが、さっきより小さいです。延期でも帰れるって思えてる。刺激そのものが怖い感じは、二か三くらいのままです」
「参加希望は?」
「八」
「止めたい時に止められる?」
「はい」
「もし開始直前に怖さが五へ上がったら?」
「言います」
「試験が延期になっても?」
「……言います」
最後だけ少し間が空いた。
けれど、言葉は変えなかった。
◇
治療担当と安全担当が一度席を外し、短い協議を行った。
その間、アリシアには内容を聞かせない。
自分がどんな答えを言えば通るかを、これ以上考えさせないためでもある。
戻ってきた安全担当者は、椅子へ座ると記録紙を机へ置いた。
「現時点では、身体状態に実施を妨げる所見はありません。恐怖四のため相談条件には該当しますが、休憩後に悪化せず、内容を分けて説明でき、延期時にも受け入れ可能と確認できました」
アリシアの指先がわずかに動く。
「ただし、これで実施決定ではありません」
「装置?」
「それもあります。そして、最終的な本人意思確認も残っています」
「はい」
「試験室へ移動して、装置側の確認結果と手順を聞いてから、最後に選んでください」
胸の奥が少し軽くなる。
それでもアリシアは「やった」とは言わなかった。
まだ決まっていない。
◇
試験室の前室には、すでに副学院長、魔導具担当教師、若い観測員、装置調整担当者が揃っていた。
学院長も奥の席にいる。
机には前回と同じ形式の確認紙が置かれていた。
ただし、前回の結果を示す記録は一枚もない。
既存九記録も、新規一件の波形も見えない。
「装置側の事前確認から報告します」
魔導具担当教師が話し始める。
「入力装置、東側観測系、西側観測系、共通時刻同期、記録保存系、すべて正常です。今日使用する入力条件は前回の新規試験と同じ、既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動です」
アリシアは頷く。
「強さは変えない?」
「変えません」
「位置も?」
「既定の再現許容範囲内で同じ条件を使用します」
「総変位量は?」
「前回と同じ固定式で試験後に算出します。今日の実施判断には使いません」
「局所形状は?」
「独立測定法の固定が間に合っていません。したがって事前確認項目には加えません」
「延期もしない」
「それを理由にはしません」
「生波形は残す」
「はい」
アリシアは一つずつ聞く。
昨日確認したことと同じだ。
新しい項目は増えていない。
「主質問を読みます」
副学院長が紙へ視線を落とした。
「『意図的小変動を含む試験で、東側奥部・アリシアの対象感覚・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか』」
「はい」
「三領域すべて確認なら一致。三領域すべて非確認でも一致。一領域または二領域のみ確認なら不一致。この一致は同時性を意味しません」
「はい」
「観測終了点は前回と同じ固定時刻。途中で対象反応が確認されても、結果を理由に終了を早めません。確認されなくても延長しません。安全停止のみ例外です」
「はい」
「試験中、東側と西側の結果はアリシアさんへ知らせません。観測員の反応や記録動作も、可能な範囲で標準化します」
「はい」
「アリシアさんは、順番を当てることを課題にしません。対象感覚があれば自然に報告してください。早く言おう、遅く言おうと調整しないこと」
「はい」
「もし途中で『今、東も反応したかもしれない』『もう西が出たかもしれない』などと考えたことに気づいた場合、それ自体を失敗とはしません。終了後に報告してください」
「分かりました」
最後に安全条件。
痛み。
息苦しさ。
対象感覚とは別の異常。
恐怖の急上昇。
中止希望。
装置異常。
どれかがあれば結果より安全を優先する。
アリシアは最後まで聞いた。
◇
「ここまでで、質問はありますか?」
副学院長に尋ねられる。
アリシアは紙を見る。
前回と同じ問い。
前回と同じ条件。
前回と同じ終わり方。
違うのは、今日の結果だけ。
まだ何も書かれていない二枚目。
「一個だけ」
「どうぞ」
「前回と同じ結果が出たら、前回が正しかったって言えますか?」
副学院長はすぐには答えなかった。
「『正しかった』の意味によります」
「三つ一緒に出るってこと」
「同じ事前固定条件で二件続けて三領域確認になれば、その条件下で同じ確認判定が再び得られた、とは言えます。しかし、それだけで原因や必然性までは確定しません」
「じゃあ、前回と違ったら?」
「同じ事前固定条件でも異なる確認判定が得られた、という重要な記録になります」
「一つだけ違ったら?」
「三領域一致という主質問に対しては不一致です。そのうえで、どの領域が異なったかを記録します」
「……どれでも、後から質問を変えない?」
「変えません」
「分かりました」
アリシアは息を吐く。
「もう大丈夫です」
◇
最終状態確認へ進む。
疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部冷感・対象様違和感ゼロ。
恐怖四。
参加希望八。
止めたい気持ちゼロ。
やりすぎそうな気持ちは――。
「七」
「理由は?」
「結果を見たいから。でも、今日できなかったら帰れるし、途中で止める必要があったら止められると思います」
安全担当者が頷く。
「最後に確認します。準備した人がいます。装置も動かせます。前回は三領域すべて確認されました。今日が候補日として設定されています。しかし、それらは参加を強制する理由ではありません」
「はい」
「今からやめても構いません。延期しても構いません。理由を詳しく説明する必要もありません」
「はい」
「それでも、今日始めたいですか?」
アリシアは膝の上の手を見た。
指は震えていない。
胸も冷たくない。
怖さはある。
前回より結果を知っている分、むしろ別の怖さもある。
三つ出てほしい。
けれど、それを言えば出るわけではない。
(私は、同じ結果が欲しいから試験するんじゃない)
その考えを自分の中で確かめる。
(同じ問いに、今日の一枚がどう答えるのか見たい)
顔を上げた。
「始めたいです」
◇
試験室へ入る。
空気は少し冷たい。
装置の低い作動音が床から伝わり、壁際では記録器の細い光が一定間隔で明滅している。
アリシアは指定された椅子へ座った。
ノアは少し離れた定位置へ移る。
試験中は話しかけない。
観測担当者も必要以上に動かない。
紙の擦れる音。
遠くで機器が一度だけ小さく鳴る。
「基準観測を開始します」
声が入る。
アリシアは正面を見る。
入力がいつ行われるかは知らされない。
知ろうともしない。
呼吸を数えない。
装置音から推測しない。
ただ、自分の身体に何かあれば報告する。
時間がゆっくり流れる。
胸は普通だ。
肩も。
指先も。
何もない。
少しして、アリシアは自分が待っていることに気づいた。
(来るかな)
思った瞬間、その考え自体が気になる。
けれど消そうとはしない。
考えた。
それだけ。
あとで必要なら報告する。
視線を正面へ戻す。
装置の低い音は変わらない。
観測員も動かない。
ノアの尾だけが床へ沿って伸びている。
そして――。
胸の奥に、ほんのわずかな感覚が生まれた。
アリシアは息を止めそうになった。
前回のような、はっきりした「冷たい」ではない。
冷たいのか。
ただ意識したせいなのか。
胸の中心より少し左。
何かが触れたような、ごく薄い違和感。
「……今、少し変です」
自分でも迷いを含んだ声になった。
観測員の表情は変わらない。
「場所をお願いします」
「胸。少し左……冷たい、とはまだ言い切れないです」
「強さは?」
「一より弱い……零点五くらい」
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「継続していますか?」
アリシアは意識を向ける。
「……今、薄くなってます」
数呼吸もしないうちに、その違和感はほとんど消えた。
「もう、ほぼゼロ」
「分かりました」
それ以上の質問はない。
試験は続く。
◇
アリシアの胸の中に、別のざわめきが生まれた。
(今のは対象感覚なのかな)
前回はもっと分かりやすかった。
冷たい。
そう言えた。
今回は、最初に出た言葉が「少し変です」だった。
(東は?)
思ってしまう。
すぐに気づく。
(今、考えた)
それも後で言えばいい。
西側は。
そこまで考えかけて、アリシアは正面へ視線を固定した。
当てる必要はない。
考えてしまったことを消す必要もない。
何も言わず、観測を続ける。
胸部違和感は戻らない。
痛みなし。
息苦しさなし。
身体に別の異常もない。
時間だけが進む。
前回なら、もう何か起きていたのだろうか。
その問いも浮かんだ。
けれど、時計を見ない。
観測員の顔も読まない。
紙の音を意味へ変えない。
やがて、固定された終了時刻を告げる音が鳴った。
「対象観測区間、終了です」
アリシアの肩から、少しだけ力が抜けた。
ノアが初めて身体を動かす。
『お疲れ』
「……うん」
まだ結果は知らない。
◇
試験後の身体確認が先だった。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸の違和感ゼロ。
頭痛なし。
眩暈なし。
吐き気なし。
疲労は三。
恐怖は二。
「途中で止めたいと思いましたか?」
「思わなかったです」
「最初の違和感以外に、対象感覚らしいものは?」
「ないです」
「最初の違和感を、今振り返って『冷感だった』と変更したいですか?」
アリシアは少し考えた。
「……変えたくないです」
「理由は?」
「あの時、冷たいって言い切れなかったから。今、前回と比べて冷たかったことにしたくない」
「分かりました」
「でも、何もなかったとも言いたくないです。変な感じはありました」
「そのまま記録します」
アリシアは頷いた。
「途中で結果を推測しましたか?」
「はい」
「どの時点で?」
「違和感を言った後に、東はどうだったかなって思いました。そのあと西も考えそうになりました」
「報告を早めたり遅らせたりしましたか?」
「してないと思います」
「確信は?」
「完全には分からないです。でも、感じてから言葉を探した時間はありました。冷たいって言っていいか迷ったから」
「その迷いも記録します」
前回とは違う。
少なくとも、自分の感覚の記録は同じではない。
アリシアの胸が少しざわつく。
(じゃあ、今回は不一致?)
まだ分からない。
東も西も知らない。
それに、自分の「少し変」が既存の対象感覚確認基準でどう判定されるのかも、まだ聞いていない。
◇
主観記録が固定されるまで、東西の結果は開示されなかった。
若い観測員がアリシアの発言時刻と内容をそのまま確認し、治療担当者が身体症状との区別を記録する。
最初の発言は、
「……今、少し変です」
その後、
「胸。少し左……冷たい、とはまだ言い切れないです」
強さは零点五程度。
痛み・息苦しさなし。
短時間で薄れ、ほぼゼロ。
「対象感覚の確認判定は?」
アリシアが尋ねる。
「既存基準へ照らします。少し待ってください」
「はい」
前回なら「冷たい」と明確に言えた。
今回は違う。
だから、結果を知った後で自分の感覚を強く言い換えてはいけない。
アリシアは手を膝の上へ置いた。
待つ。
◇
最初に確定したのは、アリシア側だった。
「今回の主観記録は、対象感覚の確認基準には達しません」
若い観測員が告げた。
アリシアは目を瞬いた。
「非確認?」
「はい。ただし、『何も感じなかった』ではありません。弱い胸部違和感の報告あり、既存の対象感覚確認基準には未達、という記録です」
「消さない?」
「消しません」
「零点五の変な感じは残す?」
「そのまま残します」
アリシアは小さく頷いた。
胸の奥に、残念さが生まれる。
けれど、それと同時に強い興味も湧いた。
(私だけ違うのかな)
思った瞬間、自分で気づく。
まだ東西を知らない。
「東と西、聞いていい?」
「主観記録固定は完了しました。開示できます」
副学院長が二枚の確認紙を受け取った。
研究室の空気が少しだけ変わる。
ノアも顔を上げた。
「まず、東側奥部」
アリシアは息を止めないよう意識した。
「既存基準を満たす追加低下――確認です」
指先がわずかに動く。
「東は、出た」
「はい」
「私だけ今のところ非確認」
「現時点ではそうです」
「西は?」
副学院長がもう一枚を見る。
少しの沈黙。
「西側。固定観測区間内に、既存基準を満たす遅延弱波形――確認です」
アリシアは動かなかった。
東、確認。
自分、非確認。
西、確認。
三つ揃わない。
「……不一致」
声が小さく出る。
「主質問の事前定義では、不一致です」
副学院長が答えた。
研究室は静かだった。
誰もすぐに理由を言わない。
誰も「失敗」と言わない。
アリシアは自分の胸へ手を当てた。
今は何も感じない。
「二つ出たのに、私だけ基準に届かなかった」
「今回の記録上は、その通りです」
「初めて?」
問いかけたあと、アリシアはすぐに言い直す。
「今までの比較できる記録の中で、東と西が確認なのに私だけ非確認って、ありました?」
若い観測員が既存整理表を確認する。
「現在比較に使っている記録群では、少なくとも同じ確認判定の組み合わせはありません」
アリシアの目が少し大きくなる。
「新しい」
「はい」
「……すごい」
残念だったはずなのに、声に別の色が混じった。
『嬉しいの?』
ノアが尋ねる。
「分かんない」
アリシアは少し笑った。
「ちょっと悔しい。前みたいに三つ出てほしかった。でも……これ、今までなかったんだよね」
「現行の比較範囲では」
「じゃあ、すごく気になる」
予想通りだった。
一つだけ違えば、きっと気になる。
その通りになった。
◇
「ただし、ここで理由を決めません」
副学院長が静かに言った。
「はい」
アリシアはすぐ頷いた。
「私の感じ方が弱かったから、とか?」
「候補にはなり得ますが、今この一件だけで原因とはしません」
「東と西が本当に同じ現象で、私だけ外れた、ともまだ言えない」
「はい」
「私の報告が遅れたとか、言葉にできなかったとかも?」
「検討候補にはできます。しかし、結果を見てから都合よく確認基準を下げることはしません」
「零点五を、やっぱり冷感一だったことにしない」
「その通りです」
「もし私を確認に変えたら、三つ一致になるから」
「はい」
アリシアは自分の記録紙を見る。
そこには、自分がその場で言った言葉が残っている。
冷たいとは言い切れない。
弱い違和感。
零点五程度。
それを今から強く書き換えれば、前回と同じ三領域一致へ近づく。
でも、それをしてはいけない。
「このままがいい」
アリシアは言った。
「私、非確認で」
「確認基準上はそう固定します」
「違和感は残す」
「はい」
「両方」
「はい」
アリシアは紙から目を離した。
◇
総変位量は、その場ではまだ算出されなかった。
時間窓の詳細分析も行わない。
東側と西側が確認されたからといって、今夜すぐに順序を決める作業へ進まない。
「今日はここまで?」
アリシアが聞く。
「身体状態をもう一度確認して終了です」
「時間窓は?」
「明日以降」
「総変位量も?」
「明日以降です」
「私の違和感の時間は残ってる?」
「生の発言時刻も保存されています」
「対象感覚非確認でも、時間窓作るの?」
副学院長が少し考えてから答える。
「『確認された対象感覚の時間窓』としては扱えません。ただし、弱い違和感報告があった時刻情報そのものは残します。どう分析へ使うかは、事前ルールと区別して検討します」
「勝手に八個目の陽性みたいにしない」
「しません」
「でも捨てない」
「捨てません」
アリシアは満足そうに頷いた。
『その顔、もう次の分析始めてるでしょう』
「ちょっとだけ」
『今日は帰るのよ』
「分かってる」
『本当に?』
「疲労三だから」
『数字を盾にしない』
「盾じゃないよ」
周囲から小さな笑いが起きた。
張りつめていた空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
◇
最後の身体確認でも異常はなかった。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部違和感ゼロ。
頭痛、眩暈、吐き気なし。
疲労三。
恐怖二。
結果をもっと知りたい気持ちは九。
「九なので相談します」
アリシアが自分から言うと、安全担当者が少し笑った。
「何を相談しますか?」
「今日は帰った方がいいですか?」
「帰ってください」
「即答」
『相談終わったわね』
「もう少し考えてくれても」
「明日、記録は残っています」
サーラが言う。
「今日ここで考え続けなくても消えません」
「……はい」
「明日の朝、胸部違和感が残っていたり、痛みや息苦しさが出た場合は?」
「すぐ言います」
「何もなければ?」
「学校行きます」
「その後の分析参加は状態を見て」
「はい」
アリシアは立ち上がった。
◇
研究棟を出ると、空は夕方の色へ変わり始めていた。
西日が建物の壁を淡い金色に染め、長い影が道へ伸びている。部活動の声はまだ遠くから聞こえていた。
アリシアは歩きながら、何度か自分の胸へ意識を向けた。
何もない。
「ノア」
『何?』
「二つ出た」
『そうね』
「私だけ出なかった」
『基準上はね』
「でも変な感じはあった」
『そうね』
「何なんだろ」
『知らない』
「早い」
『今日決めないんでしょう?』
「決めない」
少し歩く。
「でも、前は三つだった」
『うん』
「今日は二つ」
『うん』
「同じ問い、同じ条件」
『うん』
「……面白い」
『さっき悔しいって言ってなかった?』
「悔しいし面白い」
『忙しいわね』
「どっちか一個じゃなくていいでしょ」
『それはあなたが最近よく言うわね』
アリシアは少し笑った。
生活観測区画へ続く道の先で、木々が夕方の風に揺れている。
前回の一枚は、三つとも確認。
今日の一枚は、東と西が確認され、自分の対象感覚だけが基準未達。
だからといって、六つ目が不要だとは言えない。
自分が感じなくても何かが起きるとも、まだ言えない。
弱い違和感が本当は同じものだったとも決められない。
(今は、二枚目がこうだった。それだけ)
言葉にすると、少し落ち着いた。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供が共用室の床に座っていた。
青い色紙を細く切っている。
「おかえり」
「ただいま」
「できた?」
アリシアは鞄を置く。
「できたよ」
「三つ?」
子供は前回のことを覚えていたらしい。
アリシアは少し迷ってから、首を横へ振った。
「今日は二つ」
「二つ?」
「東と西は確認された。でも私は、いつもの冷たい感じって言えるほどじゃなかった」
「何もなかった?」
「ちょっと変な感じはあった」
「じゃあ三つじゃない?」
「研究の決めた線には届かなかったから、三つにはしないの」
子供は鋏を止めた。
「線?」
「これくらいなら確認って、前から決めてたところ」
「今日だけ変えない?」
「変えない」
「変えたら三つ?」
「たぶん近づく。でも、それはしない」
子供は少し考える。
「何で?」
アリシアは隣へしゃがんだ。
「三つにしたいから線を動かしたら、次も都合いい方に動かしたくなるかもしれないから」
「三つがいいのに?」
「三つがよかったよ」
「じゃあ残念?」
「残念」
「でも嬉しそう」
アリシアは目を瞬いた。
ノアが横から笑うように尾を揺らす。
『見抜かれてる』
「だって、今までなかった組み合わせだったから」
「新しい?」
「うん。新しい」
子供は納得したように青い紙へ戻る。
「じゃあよかった?」
「……半分くらい」
「半分」
「残念半分、気になる半分」
『数字にしないんじゃなかったの?』
「今のは例え!」
子供が笑った。
◇
夕食の時間になっても、アリシアは研究帳を持ってこなかった。
今日の記録は研究棟にある。
自分が覚えていることを今すぐ全部書き出さなくても、生記録は消えない。
食卓には温かい煮込み料理とパンが並んでいる。
子供はさっき切っていた青い紙を紙箱の蓋の内側へ貼ったらしい。
外からは見えない。
「青、使ったんだ」
「うん」
「中なんだね」
「開けたら見える」
「そっか」
それ以上の意味は聞かなかった。
青が内側だから何かを隠している、などと考える必要もない。
子供がそうしたかっただけだ。
顔のない存在はいつもの場所で静かに食事を取っている。
十一の光もある。
研究は研究。
こちらの生活は、こちらの生活だった。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、机の上の予定表を開いた。
今日の欄。
『放課後 研究棟 試験候補』
その横へ、小さく一文字だけ書く。
『済』
結果は書かない。
詳細は研究記録にある。
予定表は予定表だ。
明日の欄は空いている。
「分析って書かないの?」
寝台へ上がったノアが聞く。
「書かない」
『行く気満々でしょう』
「行きたいけど、明日の状態見てから」
『成長したじゃない』
「何その言い方」
『前なら書いてたでしょう』
「……書いてたかも」
アリシアは予定表を閉じる。
机の隅には、読みかけの冒険物語がある。
船はまだ小島にいる。
研究の二枚目も、まだ分析途中。
どちらも今日中に先へ進めなくていい。
本を持って寝台へ移動する。
「少し読む」
『研究帳じゃなくて?』
「今日はこっち」
『船、直った?』
「まだ」
『研究も船も待ってばっかりね』
「ノアが言うと嫌な感じ」
『褒めたのに』
「絶対違う」
ページを開く。
けれど、最初の数行を読んだところで、今日の記録がまた頭へ浮かんだ。
東は確認。
西も確認。
自分は対象感覚としては非確認。
弱い違和感だけが残った。
(どうしてだろう)
その問いは消えない。
けれど、答えを今夜作る必要もない。
アリシアは一度目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
(明日、記録を見よう)
それで終わりにする。
再び本へ視線を落とした。
二枚目は、もう白くない。
けれど、そこに何が書かれているのかを決める作業は、まだ始まったばかりだった。




