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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第230話 雨上がりの一日

 朝、カーテンを開けたアリシアは、窓の向こうに青空を見つけて少しだけ目を細めた。


 昨日一日降り続いた雨は夜のうちに上がったらしい。庭の土はまだ濃い色をしており、石畳の窪みには小さな水溜まりが残っている。木々の葉にも透明な雫が連なり、朝日を受けるたび、風に揺れながら細かな光を散らしていた。


「晴れた」


 誰に言うでもなく呟く。


 寝台の端では、ノアが丸くなったまま片耳だけを動かした。


『見れば分かる』


「返事してるじゃん」


『独り言じゃなかったの?』


「独り言だった」


『なら放っておけばよかった』


「でも返事した」


『面倒ね』


「ノアがね」


 いつものやり取りを交わしながら、アリシアは制服へ着替えた。


 胸に違和感はない。


 冷たさもない。


 息苦しさも痛みもなく、昨日まで残っていたわずかな身体の重さも、今朝はほとんど感じなかった。


 研究室で聞かれれば、身体疲労は一と答えると思う。


 けれど今日は、朝から研究室へ行く予定はない。


 人工刺激もしない。


 昨日の話し合いで、それは最初から決めてある。


 明日の放課後が、同じ問いをもう一度確かめるための試験候補日。


 今日元気だからといって前倒しにはしない。


 予定を一日早めれば、それは昨日決めた運用とは違うものになる。


 そこまで考えたところで、アリシアは鏡の前で髪を整えていた手を止めた。


「……また朝から研究考えてる」


『明日試験なんだから仕方ないんじゃない?』


「今日は普通の日なのに」


『普通の日に研究のこと考えたら普通じゃなくなるの?』


「ならないけど」


『じゃあいいでしょう』


 ノアはようやく身体を起こし、大きく伸びをした。


『考えないように頑張る方が不自然よ』


「それもそうか」


 忘れる必要はない。


 考えてはいけないわけでもない。


 ただ、今日一日を明日の待ち時間にしなければいい。


 アリシアは鞄を持った。


「朝ご飯行こ」


『先に行けば』


「ノアも来るでしょ」


『行く』


「じゃあ一緒じゃん」


『結果としてね』


「素直じゃない」


 部屋を出る。


     ◇


 共用室へ入ると、昨日床へ並べられていた色紙が、今朝は机の上へ移されていた。


 赤、青、薄い黄色、緑、茶色。


 全部ある。


 子供は椅子に座り、その中から二枚を重ねたり離したりしていた。


「まだ決まってない?」


 アリシアが尋ねる。


「何が?」


「作るもの」


「決まった」


「決まったんだ。何作るの?」


「箱に貼るやつ」


 アリシアの視線が一瞬だけ止まった。


「箱?」


「木の箱じゃないよ」


 子供がすぐ付け足した。


 指差した先には、小さな紙箱が置かれている。菓子か何かが入っていた空き箱らしく、蓋の角が少し潰れていた。


「あ、そっち」


「こっち」


「何入れるの?」


「まだ決めてない」


「作るものは決まったのに?」


「箱に貼るのは決まった」


「中身はまだ?」


「うん」


 アリシアは思わず笑った。


「一個ずつなんだ」


「何が?」


「ううん。何でもない」


 子供は緑の紙を紙箱の側面へ当てる。


「これと、黄色」


「綺麗だね」


「青もいる?」


「私に聞くの?」


「うん」


「自分で決めなくていいの?」


「アリシアはどれ好き?」


 選んでほしいのではなく、好みを聞いているらしい。


 アリシアは並んだ紙を見る。


「青かな」


「じゃあ青はアリシア」


「私?」


「貼るかはまだ分かんない」


「私の青なのに貼られないかもしれないんだ」


「うん」


「厳しい」


 子供が少し笑った。


 朝食を運んできた職員も、その会話を聞いて微笑んでいる。


 アリシアは席へ座った。


「今日は試験しないんだよね」


 子供が聞いた。


「しないよ」


「元気?」


「元気」


「元気でもしない?」


「うん」


「昨日言ってた」


「覚えてたんだ」


「明日?」


「明日は予定。でも朝と、その前に元気か確認してから」


「今日元気なのに?」


「今日と明日は違うから」


 子供は少し考え、黄色の紙を置いた。


「明日も元気だといいね」


 あまりにも普通に言われて、アリシアは一瞬返事を忘れた。


「……うん」


 胸の奥が少しだけ温かくなる。


「ありがと」


『それは数字にしないの?』


 椅子の下からノアが言った。


「しない」


『即答』


「これはしなくていいの」


 子供が不思議そうに二人を見る。


「何の数字?」


「何でもないよ」


「また研究?」


「ノアが持ち込んだ」


『人聞きが悪い』


「本当でしょ」


 朝食の席に小さな笑いが落ちた。


     ◇


 学院へ向かう道は、昨日とはまるで違っていた。


 雲の切れ間から差し込む光が濡れた石畳に反射し、道のあちこちが白く眩しい。昨夜の雨で落ちた葉が端へ寄り、踏まれた土からは湿った匂いが立ち上っている。


 アリシアは水溜まりを避けながら歩いた。


 昨日滑りかけた友人のことを思い出す。


「今日は走らないといいけど」


『誰が?』


「友達」


『あなた、完全に世話係になってない?』


「なってない」


『忘れない係で、遅刻しないよう十五分前を指定して、雨の日は走らないか心配する』


「並べないで」


『事実を並べただけ』


「研究みたいに言わないでよ」


『研究じゃないわよ。観察』


「もっと嫌」


 そんなことを言いながら正門をくぐる。


 そして昇降口へ入る直前。


「アリシア!」


 後ろから声がした。


 振り返る。


 友人が歩いてくる。


 今日は走っていない。


 アリシアは少し安心した。


「今、走ってないって顔した?」


「したかも」


「昨日一回滑っただけなのに」


「三歩走ってた」


「覚えてるの?」


「忘れない係だから」


 言ってから止まる。


 友人も止まった。


 数秒の沈黙。


 アリシアは目を逸らした。


「……今のもなし」


「二回目!」


「言い間違い!」


「もう無理だよ。二回は正式採用だよ」


「そんな規則ないから」


「私の中にある」


「勝手に作らないで」


 友人が嬉しそうに笑う。


 昨日の雨が嘘のように明るい朝だった。


     ◇


 一時間目は魔法史だった。


 教師が持ち込んだのは、古い魔法器具の複製図だった。


 現物ではない。


 大きな紙へ正面、側面、内部構造を描いたもので、現在使われている簡易器具と比べながら、どの部分が変わってきたかを見る授業らしい。


「今日は年代を当てる授業ではない」


 教師が最初に言った。


「形だけ見て『古そう』と言った者には理由を聞く。『何となく』は理由に含めない」


 教室から小さな笑いが起きる。


「先生、それ先に言うってことは、前の組で誰か言ったんですか?」


 一人の生徒が尋ねた。


「三人言った」


「多い」


「しかも三人とも自信満々だった」


 さらに笑いが広がる。


 アリシアも頬を緩めながら、配られた複製図へ目を落とした。


 円筒状の器具。


 細い導線。


 側面に複数の刻み。


 内部には現在の器具より大きな魔力保持部がある。


 机を寄せた四人で、現在型との違いを探す。


「これ何?」


 友人が側面の刻みを指した。


「番号じゃない?」


 別の生徒が言う。


「文字じゃなくて?」


「資料に書いてない」


「じゃあ分かんない」


 友人がすぐ答える。


 アリシアは少しだけその線を見た。


 木箱の中にある、暗く硬い細長い物体。


 表面の浅い線。


 似ている、と言うには何も足りない。


 この器具の線が何なのかさえ、授業資料には書かれていない。


 アリシアは視線を戻した。


「今は分かんないね」


「アリシアも?」


「うん」


「何か知ってそうな顔してた」


「見てただけ」


「じゃあ先生に聞く?」


 友人が手を上げようとする。


「待って。今の課題そこじゃないでしょ」


「気になる」


「あとで聞けば?」


「じゃあ覚えといて」


「何で私が」


「忘れない係」


「……自分で書いて」


 アリシアは友人の紙の余白を指差した。


 友人は笑いながら「側面の線」と書く。


 その後、四人で構造の違いを拾っていった。


 保持部が大きい。


 導線が太い。


 現在型にはある調整部が見当たらない。


 逆に、古い図にだけ存在する空間がある。


 教師が机の間を歩きながら、それぞれの班の会話を聞いていく。


「違いを見つけたら、それが何を意味するかまで無理に決めなくていい」


 教師が教室全体へ言った。


「今日は構造変化を見る授業だ。理由が資料にないものまで想像で埋めるな。想像するなら想像だと分かるようにしておけ」


 アリシアの手が一瞬止まった。


 友人が横から覗き込む。


「どうしたの?」


「何でもない」


「研究思い出した?」


「……ちょっと」


「先生、アリシアに効いたみたい」


「聞こえているぞ」


 教師が遠くから返した。


 教室が笑う。


 アリシアは恥ずかしそうに顔を伏せた。


 教師は何も知らない。


 研究のために言ったわけでもない。


 ただ授業として当然のことを言っただけだ。


 だから、それ以上は結びつけないことにした。


     ◇


 授業の終わり際、友人は本当に教師へ質問した。


「先生、この側面の線って何ですか?」


「資料だけでは断定できない」


「先生も分からないんですか?」


「分からないものは分からない」


「番号とか?」


「候補の一つだが、現存資料が足りない。製作者の識別、製造単位、組み立て位置の目印という説もある」


「文字?」


「文字体系と見る研究者もいるが、確定していない」


 アリシアは静かに聞いていた。


 それ以上、木箱のことは考えなかった。


 似た線がある。


 それだけで同じ意味にはならない。


 授業が終わると、友人が満足そうに紙へ追記した。


「聞いてよかった」


「答えは分からないだったけど」


「分からないにも種類あるじゃん」


「……うん」


「何?」


「いや、いいこと言うなって」


「今の褒めた?」


「たぶん」


「たぶん!?」


 友人が抗議する。


 アリシアは笑いながら次の授業の教科書を取り出した。


     ◇


 昼休みになる頃には、空から雲がほとんど消えていた。


 昨日使えなかった中庭の長椅子も、日当たりの良い場所は乾いている。


 友人たちと外へ出る。


 濡れた土の匂い。


 葉から時々落ちる水滴。


 少し湿った風。


 雨上がりの空気は冷たすぎず、日向に座っていると心地よかった。


「明日、アリシア研究なんだっけ?」


 友人がパンを食べながら尋ねた。


「放課後ね」


「何するの?」


「試験の予定」


「前やったやつ?」


「同じ条件でもう一回」


「怖くない?」


 その問いに、アリシアは少しだけ考えた。


「少しは」


「どれくらい?」


「……それ聞く?」


「研究だと数字で言うんでしょ?」


「今は友達と昼ご飯食べてるんだけど」


「あ、そっか」


 友人はあっさり引いた。


「じゃあ少しなんだね」


「うん。今はそれでいい」


「嫌になったらやめられる?」


「やめられるよ」


「ならいい」


 友人はそれ以上、試験内容を聞かなかった。


 代わりに、自分の昼食の包みから焼き菓子を一つ取り出す。


「半分いる?」


「何で?」


「多かった」


「じゃあもらう」


「研究頑張れのお菓子じゃないからね」


 アリシアが受け取ろうとした手を止めた。


「今、私何も言ってないよ」


「前にそういうの嫌そうだったから」


「嫌っていうか……何でも研究のご褒美になるのが嫌だっただけ」


「じゃあ普通に半分」


「うん」


 焼き菓子を割る。


 綺麗に半分にはならず、一方が少し大きくなった。


「大きい方どっち?」


「アリシア」


「何で?」


「私が割るの失敗したから」


「それ理由になってる?」


「なってる」


「じゃあもらう」


「遠慮しないんだ」


「くれるって言ったじゃん」


 友人が笑う。


 アリシアも笑いながら、大きい方を受け取った。


 甘い香りがする。


 研究とは関係ない。


 明日の試験とも関係ない。


 ただ昼休みに友達から半分もらった焼き菓子だった。


     ◇


 午後の授業を終えたあと、アリシアはいつものように鞄を持った。


 廊下へ出る。


 そこで足が自然に、研究棟へ向かう側へ少しだけ動いた。


「あ」


『何?』


「間違えた」


『どこ行くつもりだったの?』


「研究棟」


『癖になってるじゃない』


「今日行かないのに」


『行っても誰かいるでしょうけど』


「でも予定ない」


 アリシアは廊下の分岐で立ち止まる。


 研究棟へ向かう道。


 図書室へ向かう道。


 正門へ向かう道。


 今日は研究棟ではない。


「図書室行く」


『本返すの?』


「まだ。続きを読む」


『部屋で読めば?』


「今日は図書室で読みたい」


『好きにすれば』


 進路を変える。


 それだけのことなのに、少し変な気分だった。


 明日試験がある。


 研究室では装置の確認が進んでいるかもしれない。


 局所形状の測定法について、教師たちが何か話しているかもしれない。


 前回の新規記録も保管されている。


 行けば、何か一つくらい新しい話を聞けるかもしれない。


 けれど今日は、行かないと決めている。


 研究側から呼ばれてもいない。


 なら、図書室へ行く。


     ◇


 放課後の図書室は、昼間より静かだった。


 雨上がりの光が高い窓から差し込み、長机の端を淡く照らしている。湿気を含んだ外気とは違い、室内には紙と古い木材の乾いた匂いがあった。


 アリシアは借りている冒険物語を持って、窓際の席へ座った。


 ノアは足元。


 栞を挟んでいた場所を開く。


 昨日、船は嵐へ入った。


 今日はその続き。


 主人公たちは目的の港へ進むか、近くの小島へ避難するかで揉めている。


「絶対島行った方がいい」


 小声で呟く。


『何で?』


「嵐なんだから」


『目的地遅れるじゃない』


「沈んだら終わるじゃん」


『でも物語だから沈まないでしょう』


「それ言ったら駄目でしょ」


 近くの席にいた生徒がちらりとこちらを見る。


 アリシアは慌てて口を閉じた。


 ノアが楽しそうに尾を動かす。


『怒られた』


「ノアも喋ったじゃん」


『私は猫だから』


「ずるい」


 さらに声を落とす。


 本へ戻る。


 船は結局、小島へ向かう。


 けれど島の港も荒れており、すぐには入れない。


 何度か波をやり過ごし、風向きが変わるのを待つ。


 物語は思っていたよりゆっくり進んだ。


 それが嫌ではなかった。


 早く目的地へ着いてほしいと思う一方で、途中の小さな出来事も面白い。


 船員同士の言い合い。


 濡れた荷物。


 食料を守るために走り回る主人公。


 怖がっているのに強がる少年。


 島へ着く前だけで、何ページも使っている。


「まだ着かない」


『嫌なの?』


「ううん」


『じゃあいいじゃない』


「うん」


 アリシアは次のページをめくった。


     ◇


 どれくらい読んだだろう。


 窓から差し込む光の角度が変わり、机の上に伸びていた影が少し長くなった頃だった。


「アリシア?」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。


 同じクラスの女子生徒が、本を二冊抱えて立っていた。


 普段よく昼食を一緒に取る友人とは別の生徒だ。


「あ、こんにちは」


「何読んでるの?」


「冒険物語」


「アリシア、そういうの読むんだ」


「読むよ」


「もっと難しい本ばっかり読んでるのかと思ってた」


「何で?」


「研究してるから?」


「研究してても普通の本読むよ」


「あ、そっか」


 女子生徒は少し照れたように笑った。


「面白い?」


「面白い。今、嵐で島に逃げてる」


「どの本?」


 表紙を見せる。


「あ、それ兄が読んでた」


「知ってる?」


「私は読んでない。長いって聞いた」


「長いよ」


「どこまで?」


「半分よりちょっと後」


「結構読んでるじゃん」


「昨日も読んだ」


 研究以外の話を、普段そこまで話さない相手としている。


 以前なら、質問に答えたところで会話を終わらせていたかもしれない。


 今日は少しだけ、相手の本が気になった。


「そっちは?」


「あ、これ?」


 女子生徒が抱えていた二冊を見せる。


 一冊は植物図鑑。


 もう一冊は料理の本だった。


「すごい組み合わせ」


「植物管理の体験行くから、ちょっと見ようかなって。でもこっちは普通にお菓子」


「体験行くの?」


「うん。アリシアも名簿にいたよね」


「いる」


「一緒だ」


「友達もいるよ」


「知ってる。掲示の前ですごい喋ってた」


「見られてたんだ……」


「忘れない係?」


「そこまで聞いてたの!?」


 思わず声が大きくなった。


 司書が遠くからこちらを見る。


 二人揃って肩を縮める。


「ごめんなさい」


「ごめんなさい」


 小声が重なった。


 女子生徒が口元を押さえて笑う。


「有名になってるかも」


「やめて」


「植物管理の日、十五分前?」


「それは友達だけ」


「私は十分前でいい?」


「正式集合が十分前だから、それでいいでしょ」


「じゃあアリシアたちだけ五分早いんだ」


「私は巻き込まれてるだけ」


『指定したのあなたでしょう』


 足元からノアが言った。


 女子生徒がさらに笑う。


「ノアもそう言ってる」


「ノアは黙ってて」


『事実』


「もう」


 図書室なので声を抑えなければならない。


 そのせいで余計に可笑しくなり、二人とも肩を震わせた。


     ◇


 女子生徒と別れたあと、アリシアはしばらく本へ戻れなかった。


「忘れない係、広がってる」


『良かったじゃない』


「何が?」


『役職が定着して』


「役職じゃない」


『無給?』


「そういう問題じゃないよ」


 小声で返す。


 それでも嫌ではなかった。


 恥ずかしい。


 少し困る。


 けれど、本当に嫌なら、友人へやめてと言えばいい。


 そこまでは思わない。


「……まあ、いいか」


『認めた』


「役職は認めてない」


『面倒ね』


「ノアに言われたくない」


 ようやく本へ戻る。


 船は島へ着いていた。


 主人公たちは濡れた荷物を乾かすため、古い倉庫を借りる。


 その場面を読んでいる途中で、アリシアはふと時間に気づいた。


「そろそろ帰ろう」


『読み終わらなかったわね』


「まだ返却日まであるし」


 本を閉じる。


 以前なら、区切りの良いところまで読み切りたくなっていたかもしれない。


 今日は途中でも平気だった。


 明日も読める。


 明後日でもいい。


 物語は逃げない。


     ◇


 生活観測区画へ戻る頃には、空が橙色に染まり始めていた。


 玄関で靴を履き替え、共用室へ入る。


 朝の紙箱が完成していた。


「できた?」


「できた」


 子供が見せる。


 小さな箱の側面には、緑と薄い黄色の紙が貼られている。


 蓋には茶色。


 青は使われていなかった。


「あ、青ない」


「使わなかった」


「私の青」


「アリシアが好きな青」


「そうだった」


 子供は青い紙を別に置いていた。


「残したの?」


「うん」


「何に使う?」


「まだ決めてない」


「そっか」


 アリシアは笑った。


 紙箱を受け取る。


 貼り方は少し歪んでいる。


 角では紙が余り、職員に手伝ってもらったらしい部分だけ綺麗に折られていた。


「何入れるか決めた?」


「まだ」


「空っぽ?」


「今は」


「見てもいい?」


「いいよ」


 蓋を開ける。


 本当に何も入っていない。


 木箱とは違う。


 中身を確認することに怖さもない。


 ただの小さな紙箱だ。


「綺麗だね」


「黄色好き?」


「うん」


「青は?」


「好き」


「二つ好き?」


「いっぱい好きでもいいでしょ」


「一個じゃなくて?」


「一個じゃなくていいよ」


 子供は少し考え、青い紙を見た。


「じゃあ青も取っとく」


「うん」


 アリシアは箱を返した。


     ◇


 夕食前、顔のない存在が生活観測区画の窓際に座っていた。


 職員が少し離れた位置で記録を取っている。


 胸部の十一の光は見える。


 けれど、アリシアは近づかなかった。


 子供も今日は数を数えていない。


 歩かせようともしていない。


 そこに座っている。


 それだけだった。


 以前なら、胸の光が昨日と違うか気になって、自分でも確認したくなったかもしれない。


 今も気にならないわけではない。


 ただ、職員が記録している。


 なら自分が毎回見なくても記録は残る。


「今日は歩いた?」


 アリシアが子供へ尋ねる。


「分かんない」


「見てなかった?」


「箱作ってた」


「そっか」


 それで会話は終わった。


 歩いたかどうかを職員へ聞きに行くこともしなかった。


     ◇


 夕食後、アリシアは明日の準備をした。


 制服。


 教科書。


 提出物。


 借りた本。


 いつも通りの学院用鞄。


 研究試験用に自分で持っていく特別なものはない。


 必要な記録用紙や装置は研究棟側が準備する。


 だから、鞄の中は普通の学生の荷物だけだった。


「明日だね」


 子供が言う。


「うん」


「怖い?」


 朝とは違う問いだった。


 アリシアは少し考える。


「今は二くらい」


「二」


「でも明日になったら変わるかも」


「三?」


「三かもしれないし、一かもしれない」


「六なら?」


「やめる」


「五?」


「相談する」


「覚えてる」


「うん」


 子供が頷く。


「やりたい?」


「今は八」


「十じゃない?」


「十じゃない」


「何で?」


 アリシアは答えを探した。


 やりたい。


 結果を見たい。


 次の一枚が欲しい。


 それは確かだ。


 でも、今夜から全部を明日の試験へ向けて尖らせるほどではない。


「他にもやりたいことあるからかな」


「本?」


「本も」


「植物?」


「それも」


「展示?」


「うん」


「ご飯?」


「それは毎日」


「寝る?」


「大事」


『私?』


 ノアが口を挟む。


「何で自分から入ってくるの?」


『一応聞いただけ』


「ノアと喋るのも」


『ついでみたい』


「いっぱいある中の一個」


『まあいいわ』


 アリシアは笑った。


「だから八」


「八でもいっぱい?」


「いっぱい」


 子供は納得したように頷いた。


     ◇


 自室へ戻る。


 机の上には学院用の予定表がある。


 今日の放課後欄は空白のまま。


 そこへ後から「図書室」と書き足す必要もない。


 予定していなかったから行った。


 それだけだ。


 明日の欄には昨日書いた文字が残っている。


『放課後 研究棟 試験候補』


 安全確認次第。


 アリシアはその文字をしばらく見た。


 書き直さない。


 「試験」に変えない。


 候補は候補のまま。


 明日の自分の身体は、今夜の自分には分からない。


 装置の状態も分からない。


 だから、今の時点で決まっている以上のことを書かない。


『また予定表見てる』


 ノアが寝台から言った。


「見てるだけ」


『研究帳は?』


「今日は開かない」


『四日目?』


「昨日も開かなかったけど、数えなくていいよ」


『あなたなら数えそうだから』


「数えない」


 アリシアは予定表を閉じた。


 それから借りた冒険物語を持って寝台へ座る。


「船、島着いたよ」


『結局沈まなかった』


「だから沈ませないで」


『次は?』


「荷物乾かしてる」


『地味』


「そこがいいの」


『嵐の次に荷物乾かす話を読むの?』


「嵐の次だからでしょ。全部濡れたんだから乾かさないと」


『物語なのに?』


「物語でも」


 ページを開く。


 主人公たちは、濡れた毛布を倉庫の梁へ掛けていた。


 食料の一部は駄目になった。


 航海図は無事だった。


 船体の修理には時間がかかる。


 目的地へ出発できるのは、早くても二日後。


「二日休むって」


『あなたたちみたいね』


 ノアが何気なく言った。


 アリシアは本から顔を上げる。


「……今のはちょっと似てる」


『あなたから言った』


「でも船と研究は違うから」


『分かってる』


「じゃあ言わないでよ」


『似てるって言っただけ』


「私が結びつけると止めるくせに」


『私は猫だからいいの』


「ずるい」


 小声で笑う。


 また本へ戻った。


     ◇


 翌朝。


 アリシアは目覚ましより少し早く目を覚ました。


 まだカーテンの向こうは薄暗い。


 寝台の中で天井を見上げる。


 最初に思い浮かんだのは、今日の試験だった。


(今日だ)


 胸の奥が、昨日までより少しだけ落ち着かない。


 怖い。


 楽しみ。


 早く知りたい。


 ちゃんと報告できるだろうか。


 前と同じ条件で、また三つとも確認されるだろうか。


 そんな考えが一度に浮かぶ。


 アリシアは布団の中で身体の状態を確かめた。


 痛みはない。


 息苦しさもない。


 胸部冷感もない。


 頭痛なし。


 腕や脚の重さもほとんどない。


 疲労は一。


 怖さは――。


「三かな」


『起きてたの?』


 ノアの声がした。


「今起きた」


『朝から数字?』


「今日は確認する日だから」


 アリシアは身体を起こした。


「でも、これは今の数字」


『午後は変わるかもしれない』


「うん」


 カーテンを開ける。


 昨日の雨を残した水溜まりは、ほとんど消えていた。


 空には薄い雲がある。


 朝日はまだ弱い。


 今日の放課後。


 状態確認と装置確認に問題がなければ、二枚目の新規記録を取る。


 同じ問い。


 同じ入力条件。


 同じ観測規則。


 同じ判定基準。


 変える理由のないものは変えない。


 そして、結果だけは決めない。


「行こう、ノア」


『朝ご飯?』


「うん」


『試験じゃなくて?』


「まだ朝だから」


 アリシアは制服へ袖を通した。


 今日は試験の日だった。


 けれど、試験が始まるまでにも朝食があり、学院への道があり、授業があり、昼休みがある。


 その時間を飛ばす必要はない。


 何が起きるか分からない一枚は、まだ白いまま研究室で待っている。


 アリシアはそれを急いで埋めに行くのではなく、まずいつもの朝を始めるために部屋を出た。

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