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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第229話 同じ問いを、もう一度



 翌朝、生活観測区画の窓を細かな雨粒が叩いていた。


 強い雨ではない。屋根を鳴らすほどでもなく、灰色の空から細い糸のように落ちてくる雨が、庭の土と石畳を静かに濡らしている。窓を少し開ければ湿った土と葉の匂いが入り、閉じれば雨音だけが薄い硝子越しに残った。


 アリシアが共用室へ入った時、子供は窓辺に立っていた。


 昨日まで一本だけ残されていた枝は、もう机の上にない。


「あれ?」


 アリシアは朝食の席へ向かう途中で足を止めた。


「枝、なくなったね」


「戻した」


 子供は窓の外を見たまま答える。


「雨なのに?」


「昨日の夜」


「あ、昨日戻したんだ」


「うん」


「じゃあ、全部なくなった?」


「なくなった」


「何も作らなかったね」


「うん」


 子供は少しも残念そうではなかった。


 拾った。


 残した。


 減らした。


 最後には戻した。


 それで終わりらしい。


「また拾う?」


「欲しくなったら」


「そっか」


 アリシアもそれ以上は聞かなかった。


 机の端には、枝が置かれていた跡すらほとんど残っていない。少しだけ乾いた土の粉があり、職員が朝食後に拭けば消える程度だった。


『今度こそ研究に結びつけない?』


 後ろからノアの声がした。


 アリシアは振り返る。


「ノアが言わなければね」


『先に釘を刺した』


「刺した時点で結びついてるよ」


『難しいわね』


「普通に枝がなくなっただけ」


『そういうことにしておく』


「本当にそうなの」


 アリシアは少し笑って朝食の席へ座った。


 身体の調子は悪くない。


 疲労は一か二。


 痛みなし。


 息苦しさなし。


 胸部冷感なし。


 昨日の夜は研究帳を開かず、借りた冒険物語をかなり読み進めた。そのせいか、頭の中も昨日より軽い。


 けれど、研究のことを忘れたわけではない。


 九枚と一枚。


 昨日固定した置き場所。


 総変位量は既存九記録を綺麗に分けなかった。


 結果を見た後に思いついた「総変位量と東側事前平均傾斜を組み合わせる」という案は、その場で試さず、組み合わせる理由そのものを考える候補として残した。


 そして、昨日の新規一件。


 結果を見る前に問いと扱いを決めて取得した一枚では、三領域すべての対象反応が確認された。


 次に何をするのか。


 そこだけは、まだ決まっていない。


「今日、研究?」


 子供が尋ねる。


「たぶん話し合い」


「試験?」


「今日はしないと思う」


「何話すの?」


「次に何するか」


「決まってない?」


「うん」


 子供はパンを一口食べる。


「昨日決めなかったの?」


「昨日は、昨日の一枚をどこに置くか決めた」


「今日は次?」


「たぶん」


「明日は?」


「それは今日決めるかもしれないし、決めないかもしれない」


 子供が少し眉を寄せた。


「研究、決まらないこと多い」


「多いね」


『ようやく気づいた?』


「前から知ってるよ」


 ノアが椅子の下で尾を揺らす。


 アリシアはスープへ匙を入れながら、少しだけ笑った。


     ◇


 雨は学院へ向かう頃にも続いていた。


 傘へ当たる雨粒の音は一定ではなく、木の下を通ると一度弱くなり、開けた道へ出ると細かな音が増える。足元には浅い水溜まりができ始めていて、生徒たちはいつもより道の端を避けながら歩いていた。


 正門近くで、前方から聞き覚えのある声が飛んでくる。


「アリシアー!」


 友人だった。


 片手で傘を持ちながら、もう片方の手を上げている。


「走らない方がいいよ」


「走ってない!」


「今ちょっと走った」


「三歩だけ」


「滑るよ」


「大丈夫――」


 言いながら、水溜まりを避けようとした友人の靴が石畳の上で少し滑った。


「ほら」


「今のは雨が悪い」


「雨の日に雨のせいにするの?」


「じゃあ石畳」


「自分は?」


「悪くない」


「すごい」


 アリシアは呆れながら笑った。


 友人が横へ並ぶ。


「植物管理の日、雨だったらどうするんだろ」


「温室だから中じゃない?」


「集合まで外歩くじゃん」


「傘使えば」


「正論しか言わない」


「何て言えばいいの?」


「『私が傘持ってあげる』とか」


「自分の傘あるでしょ」


「冷たい」


「昨日も言われた」


「誰に?」


「あなたに」


「あ、そうだっけ」


「忘れない係、交代しようかな」


「待って。それは困る」


 校舎の軒下へ入ると、友人が傘を閉じる。


 周囲でも何人もの生徒が濡れた傘を振り、入口付近の床には細かな水滴が散っていた。


「展示週間、初日に行く?」


 友人が尋ねる。


「まだ決めてない」


「研究?」


「予定がまだ分からないから」


「じゃあ空いた日」


「うん」


「私が忘れたら?」


「展示週間そのものを?」


「可能性はある」


「掲示いっぱい出ると思うよ」


「でも忘れない係いるし」


「正式じゃない」


「昨日自分で言った」


「言い間違い」


 昨日から続いているやり取りに、近くで靴を履き替えていた同級生が吹き出した。


「もう認めればいいのに」


「認めません」


「即答」


「そこだけ速いね」


 友人まで笑う。


 アリシアは少し頬を膨らませながら、濡れた髪の先を指で払った。


 朝から研究のことを考えていたはずなのに、いつの間にか展示週間と忘れない係の話になっている。


 それでよかった。


     ◇


 午前最後の授業は実技だった。


 強い魔法を使うものではなく、一定量の魔力を小さな器具へ送り続け、光の明るさを保つ基礎練習だった。


 教室ではなく実習室。


 長机ごとに三人ずつ座り、掌ほどの透明な球へ順番に魔力を流す。


「明るすぎても駄目。暗すぎても駄目。規定線の範囲へ十数える間、保て」


 教師が説明する。


「競争ではない。隣より明るくする必要もない。昨日より上手く見せる必要もない。器具を壊した者は片付けまで担当だ」


 最後の一言で教室のあちこちから笑いが起きた。


 アリシアの組には、友人と、以前計算問題で声を掛けてきた男子生徒がいる。


「俺、前の実技で三つ点けたんだよな」


 男子生徒が器具を見ながら言う。


「今日は一個だけだよ」


 アリシアが返す。


「分かってる」


「本当に?」


「まだ疑ってる?」


「前科があるから」


「前科って言うなよ」


 友人が笑いを堪える。


「アリシア、結構言うようになったね」


「何が?」


「そういうの」


「普通じゃない?」


「前なら『……うん』で終わってた気がする」


 アリシアは少しだけ返事に詰まった。


 自分では、いつから変わったのか分からない。


 大きな出来事があったわけではない。


 誰かに「もっと話せ」と言われて頑張ったわけでもない。


 毎日顔を合わせて。


 授業を受けて。


 昼食を食べて。


 失敗を見て笑ったり、自分が間違えて笑われたりして。


 少しずつ、返す言葉を探す時間が短くなった。


「……前の私、そんなに喋らなかった?」


「今よりは」


「今も多くないよ」


「ノアといる時はすごい喋ってそう」


『余計な想像しないで』


 机の下から声がした。


 友人が笑う。


「当たってる?」


「ノアが勝手に喋るから」


『あなたが返すからでしょう』


「返さなかったらずっと言うじゃん」


『試したことある?』


「ない」


「仲いいね」


 男子生徒が何気なく言った。


 アリシアは以前ほど、その言葉に戸惑わなかった。


「長いからね」


『何が?』


「一緒にいるのが」


『それだけ?』


「……それだけじゃないけど」


 友人が何か言いたそうな顔をしたので、アリシアは先に器具を指差した。


「ほら、実技」


「逃げた」


「授業だから」


 教師の「始めろ」という声が響き、会話はそこで切れた。


     ◇


 アリシアの光は、最初だけ少し弱かった。


 魔力量をほんのわずか増やす。


 透明球の中心に淡い光が灯り、規定線の範囲へ入る。


 一。


 二。


 三。


 数えている途中で、隣の男子生徒の球が一瞬だけ明るくなった。


「上げすぎ」


「分かってる」


「競争じゃないって言われたばっかり」


「競争してない!」


「アリシア、集中」


 友人に言われる。


「そっちもね」


「私はまだ順番じゃない」


「じゃあ静かにして」


「ひどい」


 十まで保つ。


 終了。


 教師が確認して頷いた。


「問題なし。次」


 ただそれだけの実技だった。


 何か特別なことが起きたわけではない。


 それでも、授業が終わる頃には朝から頭の片隅にあった「次の試験をどうするか」という問いが、少し遠くなっていた。


     ◇


 昼休み。


 雨はまだ止んでいなかったため、今日は中庭へ出ず、教室で昼食を取ることになった。


 窓の近くへ机を寄せる。


 雨に濡れた校庭では、人影がほとんどない。


 友人が包みを開きながら、ふと思い出したように言った。


「そういえば、植物管理の体験って何するんだろ」


「説明に、植え替え補助と温室の環境管理って書いてあった」


「土触る?」


「たぶん」


「爪に入るかな」


「手袋借りたでしょ」


「そうだった」


「忘れてる」


「忘れない係」


「自分で覚えて」


「手袋持っていくのも教えて」


「……前の日にね」


「やった」


「何で私が負けたみたいになってるの」


 友人が嬉しそうに笑う。


 アリシアも結局笑った。


「でも楽しみ」


 友人が言う。


「うん」


「アリシア、植物好きなの?」


「嫌いじゃない。詳しくはないけど」


「私も。枯らしたことある」


「何を?」


「小さい花」


「水忘れた?」


「逆」


「やりすぎた?」


「毎日いっぱいあげた」


「……それは」


「良かれと思って」


「植物にも都合あるんだね」


「難しい」


 そんな話をしているうちに昼休みは過ぎていった。


 研究とは関係のない予定が少しずつ増えている。


 展示週間。


 植物管理の体験。


 借りた本の続き。


 授業。


 友人との昼食。


 それらは研究の邪魔ではなかった。


 研究が、それらを押し退けて生活全部になる必要もなかった。


     ◇


 放課後、研究室へ入ると、昨日までとは机の配置が少し違っていた。


 既存九記録も、新規一記録も、最初からは置かれていない。


 中央には一枚の大きな紙。


 その上に、二つの短い文が書かれている。


『同じ条件で、同じ問いをもう一度確かめる』


『条件を変えて、別の問いへ進む』


 アリシアは鞄を置く前に、その紙の前へ立った。


「二択?」


「二択ではありません」


 副学院長が答える。


「何もしない、という選択もあります」


「三つ」


「もっとあります。測定法の整備だけを続けることもできますし、自然観測へ戻ることもできます」


「いっぱいある」


『研究、決まらないこと多い』


 ノアが朝の子供の言葉を真似する。


「覚えてたんだ」


『耳はいいから』


「では、先に状態確認をしましょう」


 サーラに促され、アリシアは席へ座った。


 身体疲労二。


 痛みゼロ。


 息苦しさゼロ。


 胸部冷感ゼロ。


 恐怖一。


 研究参加希望八。


 次の試験を決めたい気持ち。


 アリシアは少し考える。


「七」


「昨日の新規記録をさらに分析したい気持ちは?」


「八」


「新しい条件を試したい気持ちは?」


 少し長く考えた。


「……六」


「同じ条件をもう一回やりたい気持ちは?」


「八」


 ノアが顔を上げる。


『もう答え出てない?』


「気持ちだけ」


「その通りです」


 副学院長が言う。


「希望は記録しますが、それだけで決定はしません」


「分かってる」


 アリシアは大きな紙へ視線を戻した。


     ◇


「昨日、新規一件について何が分かったかを整理しました」


 副学院長が話し始める。


「事前に問い、入力条件、観測範囲、判定規則を固定した一件で、対象三領域はすべて確認されました」


「うん」


「同時に、総変位量は既存九記録を単独で明瞭に分けませんでした」


「うん」


「局所形状の独立測定法はまだ固定されていません」


「うん」


「そして、既存九記録と新規一件の役割は区別したまま保持しています」


「九プラス一」


「はい」


「じゃあ次、同じのもう一回やったら九プラス二?」


 副学院長が少し笑った。


「実施して記録が得られれば、そう呼んでも構いません」


「増える」


『数集めが目的になってない?』


「違うよ」


 アリシアはノアへ返してから、自分でも少し考えた。


「……たぶん」


「そこを今日考えます」


 学院長が穏やかに言った。


「同じ条件で同じ問いをもう一度確かめることに、今どんな意味があるのか」


 アリシアは黙る。


 昨日の新規一件は陽性だった。


 三領域すべて確認。


 なら、もう一度同じ条件で試して、また三つ出るかを見る。


 それは自然に思える。


 けれど、「前回出たから次も出るか見たい」だけでは、少し足りない気もした。


「再現するか?」


 アリシアが言う。


「それは一つです」


「同じ早い位置の意図的小変動で、また三つとも確認されるか」


「はい」


「もし出なかったら?」


「それも記録です」


「前の無反応二件みたいに?」


「条件が完全に同一という意味では、既存記録との比較には注意が必要ですが、新しい事前固定試験としては重要です」


「昨日と同じ条件なのに、今度は一つも出なかったら……」


 アリシアはそこで少し言葉を止めた。


「面白い」


『嬉しいじゃないのね』


「ちょっと残念にはなると思う。でも面白い」


「一つだけ違った場合は?」


 サーラが尋ねる。


「もっと気になる」


「なぜ?」


「三つがいつも一緒じゃない新しい一枚になるから」


「では三つとも確認されたら?」


「それも嬉しいし、同じ問いで二枚続く」


「どの結果でも意味がある?」


「うん」


 アリシアは答えてから、少しだけ眉を寄せた。


「……でも、何でも意味あるって言えば、何してもよくならない?」


 研究室が少し静かになる。


 学院長が小さく頷いた。


「良い疑問です」


「同じのやっても意味ある。違うのやっても意味ある。何もしなくても意味あるって言ったら、決められない」


「だから、今どの不確かさを減らしたいかを考えます」


「不確かさ」


「昨日の新規一件について、最も単純に残っている不確かさは何でしょう」


 アリシアは紙を見る。


 昨日の一件。


 早い位置の意図的小変動。


 三領域一致。


「……たまたまかもしれない」


「はい」


「一回だけだから」


「その通りです」


「じゃあ同じ問いをもう一回やるのは、“一回出た”から少し進むため?」


「そう考えられます。ただし二回出れば真実になる、という意味ではありません」


「三回でも?」


「回数だけで真実にはなりません」


『五回でも?』


 ノアが割り込む。


「ノアまで増やさないで」


『あなたが昨日やってたでしょう』


 アリシアは少し笑った。


     ◇


 次に、条件を変える案を見る。


「例えば、何変えるの?」


「候補はいくつか考えられます。しかし今日は具体的な新刺激を決めるために並べません」


「何で?」


「候補をたくさん見せると、どれが結果を分けそうかという視点で選びたくなる可能性があるからです」


「……ありそう」


「特に、既存九記録をすでに詳しく見ています」


「遅い位置、早い位置、自然揺れ、東側の傾斜……いっぱい知ってる」


「はい。その状態で新しい条件を選ぶなら、なぜその条件を変えるのかを先に明確にする必要があります」


「結果が分かれそうだから、は駄目?」


「探索として試すこと自体は絶対に駄目ではありません。ただ、確認と探索を混ぜないことが重要です」


「今は?」


「昨日の新規一件で始めた確認を、もう少し続ける価値があると考えています」


 アリシアは二つの文を見る。


『同じ条件で、同じ問いをもう一度確かめる』


『条件を変えて、別の問いへ進む』


 今の自分は、前者へ少し強く引かれている。


「先生たちは、同じ方がいいと思ってる?」


「研究側の第一候補はそうです」


「理由は?」


「昨日の一件が、事前固定した問いに対する最初の新規記録だからです。条件をすぐ変えるより、同じ運用がもう一度実施可能か、結果がどうなるかを独立した次の一件として確認する情報価値が高いと判断しています」


「同じ運用って、刺激だけ?」


「いいえ」


 副学院長が別の紙を出す。


「入力条件だけでなく、観測方法も含みます」


 既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動。


 入力開始を共通零点とする。


 東側奥部、アリシア対象感覚、西側対象反応を同じ固定基準で判定。


 既存の入力側・事前状態側の固定項目を記録。


 固定観測終了点まで観測を続ける。


 途中で反応が出ても、結果を理由に終了点を変えない。


 反応が出なくても、結果を理由に延長しない。


 安全停止条件は従来通り優先。


 アリシアは時間順を当てようとせず、感覚があれば自然に報告する。


 東西の結果は試験中に知らせない。


 生波形を保存。


 局所形状は、独立測定法が試験前に固定されない限り、今回も事前確認項目へ入れない。


「昨日と同じ」


「基本的には」


「総変位量は?」


「測定法はすでに固定されていますので、記録します」


「でも主質問じゃない」


「はい」


「主質問は三つの確認判定が一致するか」


「そのままです」


 アリシアは紙を上から下まで読む。


「変えないんだ」


「変える理由がありますか?」


 問われる。


 アリシアは少し考えた。


「……ない」


「昨日陽性だったから、もっと反応しやすくするとかは?」


「したくない」


「なぜ?」


「次も出るように条件変えたら、同じ問いじゃなくなるから」


「はい」


「逆に無反応も欲しいから弱くするのも違う」


「その通りです」


 アリシアは頷いた。


「じゃあ、同じのがいい」


     ◇


「ただし」


 安全担当者が口を開いた。


 アリシアの視線がそちらへ向く。


「研究上同じ条件が望ましくても、安全面から実施間隔は別に考えます」


「今日やらない?」


「やりません」


「明日?」


「まだ決めません」


「また?」


『顔』


「分かってるよ」


 アリシアは少し不満そうにしながらも、椅子へ座り直した。


「前回の試験後、翌朝に疲労四が残りました」


「うん」


「その後、昨日は二程度まで低下。本日も一から二程度。痛み、息苦しさ、胸部冷感の持続はありません」


「はい」


「身体的には回復傾向ですが、人工刺激を短い間隔で反復した時の負担を軽く扱うべきではありません」


「一日一条件だから?」


「それだけではありません。一日一条件は、同日に条件を重ねないための最低限の運用です。毎日刺激してよい、という意味ではありません」


「……うん」


 これは以前から何度も確認している。


 人工刺激を日課にしない。


 研究が進んだからといって、毎日行うものにしない。


「では、いつなら?」


「少なくとも明日は刺激を行わず、通常生活と状態確認を優先する案です」


「明後日?」


「第一候補にはできます。ただし、当日の状態確認で延期する可能性があります」


「決めても、絶対じゃない」


「はい」


「痛み一なら中止」


「即申告のうえ、安全側で判断します」


「息苦しさ一も」


「はい」


「冷感が試験前からあったら?」


「程度と性質を確認します。対象感覚と混同する状態なら延期が妥当です」


「恐怖六なら止める」


「はい」


「五なら相談」


「その通りです」


「やりすぎそうな気持ち九なら相談」


「覚えていますね」


「自分のだから」


 アリシアは少しだけ胸を張った。


『そこは忘れない係』


「ノアまで言うの?」


 研究室に笑いが広がった。


     ◇


 そこで一度休憩になった。


 廊下へ出ると、窓の外では朝からの雨が少し弱くなっていた。


 雨粒の間隔が広がり、屋根の端から落ちる水滴が一つずつ見える。


 アリシアは窓辺へ寄った。


「同じの、もう一回」


『嬉しそう』


「うん」


『反応してほしい?』


 聞かれて、アリシアはすぐには答えなかった。


「……してほしい」


『そう』


「でも、しなかったら嫌ってほどじゃない」


『前よりは?』


「前よりは」


 窓硝子に残った水滴がゆっくり下へ流れる。


「昨日の一枚があって、次も三つ出たら嬉しい」


『うん』


「でも次、三つとも出なかったら、昨日と同じ条件でも違う結果になるって分かる」


『うん』


「一つだけ違ったら、もっとびっくりする」


『うん』


「ノア、全部うんって言ってない?」


『聞いてるから』


「何か言ってよ」


『あなたがもう言ってる』


 アリシアは少し口を尖らせる。


「じゃあノアは何が出てほしい?」


『またそれ?』


「前も聞いたけど」


『何でも』


「ずるい」


『三つ出たら、あなたが嬉しそうだから面白い。出なかったら、あなたが難しい顔するから面白い。一つ違ったら、先生たち全員の顔が固まりそうだから面白い』


「私じゃなくて顔見たいだけじゃん」


『退屈しないのが一番』


「研究向いてない」


『なる気ない』


 アリシアは笑った。


 その時、廊下の向こうからサーラが来る。


「休めていますか?」


「はい」


「研究の話をしていませんでした?」


「……少し」


『かなり』


「ノア」


「疲労は?」


「二」


「では、あと少しだけ話し合って今日は終わりましょう」


「もう?」


「試験日は今日決めるとしても、刺激はしません」


「分かってる」


 アリシアは窓から離れた。


     ◇


 研究室へ戻ると、最後の確認へ進んだ。


 まず、次回試験の主質問。


 昨日と同じ文を、そのまま使う。


『意図的小変動を含む試験で、東側奥部・アリシアの対象感覚・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。』


 アリシアは読み上げる。


「変えない」


「はい」


「一致の意味も変えない。三つ確認なら一致、三つ非確認でも一致、一つか二つだけ確認なら不一致」


「はい」


「同時って意味じゃない」


「はい」


「時間窓は別に残す」


「その通りです」


「入力は前回と同じ、既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動」


「装置側で再現可能であることを当日にも確認します」


「観測終了点も同じ?」


「同じ固定機器時刻を使用する案です」


「西側の今までの陽性時間窓より後まで見る」


「はい。ただし、前回同様、安全停止が必要なら予定終了点より前でも終了します」


「その時、三領域全部の無反応って言えるのは、三つともちゃんと見られた共通区間まで」


「覚えていますね」


「前にいっぱいやったから」


 アリシアは苦笑した。


 次に、主観報告。


「私は順番を当てない」


「はい」


「早く言おうともしない。遅く言おうともしない」


「はい」


「感じたら普通に言う」


「その通りです」


「途中で“今東が出たかな”って考えちゃったら?」


「考えたこと自体を失敗とはしません。試験後に気づいた範囲で報告してください」


「東と西の結果は終わるまで教えない」


「はい」


 昨日と同じ。


 それが、今日は妙に心強かった。


 新しい工夫を増やさない。


 昨日の結果に合わせて質問を変えない。


 陽性だったから入力を強くしない。


 もっと綺麗な結果を欲しがって、観測法をいじらない。


「局所形状は?」


「測定法が明日までに独立して固定された場合のみ、次回試験前に採用可否を判断します」


「間に合わなかったら?」


「入れません」


「試験を延期しない?」


「局所形状だけを理由には延期しません」


「生波形は残す」


「はい」


「あとで見られる」


「探索としては」


「うん」


 アリシアは一つずつ確認した。


 確認しながら、前回の試験前とは少し気持ちが違うことに気づく。


 前回は、新しい一枚を取ることそのものに緊張していた。


 今は、一枚ある。


 その次を取る。


 同じ問いで。


 同じ条件で。


 同じルールで。


 結果だけは、まだ分からない。


     ◇


「実施候補日は、明後日の午後とします」


 安全担当者が告げた。


 アリシアの指先がわずかに動いた。


「決定?」


「第一候補として決定です。ただし、当日午前と直前の状態確認を通過すること。装置側の事前確認に問題がないこと。その他、安全上の中止理由がないことが条件です」


「明日元気でもやらない?」


「やりません」


「明後日」


「はい」


「学院の授業は?」


「通常通り受けてもらいます。午後の授業後に研究棟へ来てください」


「植物管理の体験と重ならない?」


 予定表が確認される。


「重なりません」


 アリシアは小さく息を吐いた。


「よかった」


『研究よりそっち?』


「両方大事」


『欲張り』


「それはもう知ってる」


「当日、疲労が高ければ延期です」


 サーラが念を押す。


「はい」


「無理に低い数字を申告しないこと」


「しない」


「本当に?」


「……しない」


『間があった』


「だってやりたいから」


「やりたいことと、身体状態は分けて報告してください」


「分かってる」


 アリシアは少し照れたように視線を落とす。


「参加希望十でも、疲労六なら六って言う」


「はい」


「怖さも」


「はい」


「冷感あったら隠さない」


「はい」


「ちゃんと言う」


 今度は間を置かずに答えた。


     ◇


 話し合いが終わったあと、アリシアは大きな紙をもう一度見た。


『同じ条件で、同じ問いをもう一度確かめる』


 こちらに、小さな印がつけられている。


 もう一方の『条件を変えて、別の問いへ進む』は消されていない。


 捨てたわけではない。


 今ではないだけだ。


「これ、残すの?」


「はい」


「次に使うかもしれない?」


「いつかは。ただし、どの条件を変えるかはまだ決めません」


「候補のまま」


「そうです」


 アリシアは頷いた。


 何かを選ぶことは、他の道を全部消すことではない。


 少なくとも今は。


     ◇


 研究棟を出ると、雨はほとんど止んでいた。


 空はまだ灰色だが、西の方だけ雲が薄くなり、淡い光が滲んでいる。


 アリシアは傘を開かずに歩いた。


 木の枝から時々大きな水滴が落ちてくる。


 一滴が肩へ当たった。


「冷たっ」


 思わず声が出る。


 ノアが見上げた。


『胸?』


「肩。雨」


『ならよし』


「今の確認早かったね」


『必要だから』


 アリシアは濡れた肩を手で払った。


「明後日か」


『そうね』


「同じの」


『そうね』


「次も三つ出るかな」


『知らない』


「一つだけ違うかな」


『知らない』


「全部出ないかも」


『知らない』


「ノア、それしか言わない」


『まだ起きてないから』


「……うん」


 アリシアは少し笑った。


「それでいいか」


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は床に何枚かの色紙を並べていた。


 枝の代わりに、今度は紙らしい。


「何してるの?」


「選んでる」


「何を?」


「使う色」


「何作るの?」


「まだ決めてない」


「色が先なんだ」


「うん」


 赤。


 青。


 薄い黄色。


 緑。


 茶色。


 子供はその中から青を持ち上げ、少し眺めて戻した。


「研究決まった?」


「決まったよ」


「何する?」


「前と同じ試験を、もう一回」


「同じ?」


「うん」


「何で?」


 アリシアは荷物を置きながら考えた。


 難しく説明しようと思えばいくらでもできる。


 でも、子供に全部話す必要はない。


「前は一回だけだったから。もう一回やったら、次も同じになるか見られる」


「三つ?」


「そう。東と私と西」


「また全部?」


「全部になるかもしれないし、ならないかもしれない」


「どっちがいい?」


 アリシアは少しだけ迷った。


「全部出たら嬉しい」


「じゃあ全部?」


「でも違っても、ちゃんと見る」


「嬉しくない?」


「ちょっと残念かもしれない。でも、違ったって分かるのも大事」


 子供は色紙を見ながら考える。


「難しい」


「うん。私も」


「いつ?」


「明後日の予定」


「明日じゃない?」


「明日は休む」


「何で?」


「毎日やらないから」


「元気でも?」


「元気でも」


 子供はそこで顔を上げた。


「休むの決まってる?」


「決まってる」


「じゃあ明日は研究しない?」


「少なくとも刺激はしないよ」


「何する?」


「学校行く」


「普通?」


 アリシアは笑った。


「普通」


     ◇


 その夜、アリシアは研究帳を開かなかった。


 三日続けて、というわけではない。


 机へ座り、明後日の予定だけを学院用の小さな予定表へ書き込んだ。


『放課後 研究棟 試験候補』


 その下には、安全確認次第と小さく付け足す。


 研究帳ではなく、ただの予定表。


 植物管理体験の日。


 展示週間。


 授業の提出物。


 図書室の本の返却日。


 それらと同じ紙の上に、研究試験の予定がある。


「明日は何も書いてない」


 アリシアが呟く。


 寝台で丸くなっていたノアが片目を開ける。


『授業あるでしょう』


「予定表の放課後」


『じゃあ空いてるんじゃない』


「本読もうかな」


『まだ読み終わってないの?』


「結構長いよ」


『船は?』


「昨日、嵐に入った」


『沈んだ?』


「沈んでない。勝手に終わらせないで」


『じゃあ明日読めば』


「うん」


 予定表を閉じる。


 明後日には、もう一度同じ問いを持って研究室へ行く。


 次も三つとも確認されるかもしれない。


 今度は何も確認されないかもしれない。


 一つだけ、あるいは二つだけ違うかもしれない。


 どれになるのかは、まだ誰も知らない。


 だから今日は決めない。


 明日も、結果を先に作らない。


 アリシアは机の灯りを少し落とし、読みかけの本を手に取った。


 窓の外では雨が止み、軒先から残った水滴が、ときどき小さな音を立てて落ちていた。


 同じ問いをもう一度確かめる日は、明日ではない。


 その一日の空白を、アリシアは埋めようとはしなかった。

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