第228話 新しい一枚の置き場所
翌朝、アリシアが共用室へ下りると、窓際の机に置かれていた枝が一本になっていた。
昨日までは二本あった。
その前は三本だった。
朝食の準備をしている職員の横を通り、アリシアは机の前で足を止めた。残っている一本は特別に真っ直ぐでもなく、綺麗な色をしているわけでもない。少し曲がり、先の方には小さな節がある。
「また減ったんだ」
声を掛けると、床に座って布袋の中を覗いていた子供が顔を上げた。
「うん」
「最後の一本?」
「今は」
「これが一番好きだった?」
「昨日は二本だった」
「今日は?」
「これ」
「じゃあ明日はゼロかも?」
「分かんない」
子供は当然のように答えた。
アリシアは一本だけ残った枝を見る。
昨日好きだったものと、今日残したいものが同じとは限らないらしい。
理由を尋ねようかと思ったが、やめた。
別に理由がなくてもいい。
「何か作るの?」
「まだ決めてない」
「ずっと決まらないね」
「決めないと駄目?」
「駄目じゃないよ」
子供は満足したように頷き、また布袋へ手を入れた。
アリシアも朝食の席へ向かう。
途中で、窓際に座っていたノアがこちらを見た。
『研究に結びつけなかった』
「何が?」
『枝』
「……今、ノアが結びつけた」
『褒めたのに』
「だったら言わないでよ」
『面倒ね』
「ノアが始めたんでしょ」
朝から少しだけ言い合いながら席へ着く。
昨日より身体は軽かった。
肩の重さはほとんど消えている。
脚にも疲労感は残っていない。
胸部冷感なし。
痛みなし。
息苦しさなし。
頭痛もない。
自分から数字へするなら、疲労は二くらい。
ただし、今日は研究室で正式に確認する予定があるかどうかさえ、まだ知らなかった。
「今日、九枚見る?」
子供がパンをちぎりながら尋ねた。
「分かんない」
「昨日も見なかった」
「うん」
「今日も我慢?」
「我慢するかどうかも、まだ分かんない」
「見たい?」
「それは見たい」
『そこだけは毎日変わらないわね』
ノアが椅子の下から言う。
「変わってない」
「いっぱい?」
「いっぱい」
「九?」
子供が聞いた。
アリシアは少し考え、それから笑った。
「今日は数字にしなくていいや」
「何で?」
「朝ご飯だから」
子供はしばらくアリシアを見たあと、「そっか」と言ってスープへ戻った。
数字を使わないことにも、少しずつ慣れてきたらしい。
◇
学院へ着くと、昇降口の近くに人だかりができていた。
何かあったのかと思って近づくと、来月の小規模展示週間について、新しい案内が貼り出されている。
以前話題に出た学院内の展示だ。
研究発表のような堅いものだけではなく、生徒が作った簡易魔導具、授業で育てた植物、古い教材の展示、魔法史関係の複製資料なども並ぶらしい。
「アリシア!」
人だかりの向こうから友人の声がした。
「こっち!」
「見えてる」
「日程出た!」
「今見てる」
アリシアは人の隙間から掲示を見る。
展示週間は来月。
以前話していた通り、複数日に分けて小規模に開催される。
授業そのものがなくなるわけではなく、昼休みや放課後に見て回れる時間が設けられていた。
「一緒に行けそう?」
友人が横へ並ぶ。
「予定見ないと分かんない」
「研究?」
「それもあるし、植物管理の体験もある」
「あ、それ私も」
「知ってるよ」
「忘れてるかと思った」
「忘れない係だから」
言ったあと、アリシアはしまったと思った。
友人の目が輝く。
「認めた!」
「違う。今のなし」
「自分で言った!」
「言い間違えた」
「聞いた人!」
友人が周囲を見回す。
近くにいた同級生が笑った。
「聞いた」
「私も」
「証人二人」
「そんな証人いらないから」
アリシアの頬が少し熱くなる。
友人は満足そうに掲示へ向き直った。
「じゃあ忘れない係、植物管理の日もよろしく」
「十五分前」
「早くない?」
「前も言ったよ。あなた遅れそうだから」
「私そんなに信用ない?」
「十分前集合に十分前着く人じゃない」
「五分前には着く」
「だから十五分前って言ってるの」
周囲の同級生たちがまた笑う。
アリシアも、途中から反論するのを諦めた。
展示週間の日程をもう一度確認する。
まだ先だ。
研究予定と重なるかも分からない。
だから今ここで、絶対一緒に行くとは決められない。
「予定合ったら行こう」
アリシアが言う。
「うん。約束ね」
「予定合ったら、だからね」
「分かってる」
友人の返事は軽かった。
それで十分だった。
◇
午前の授業では、昨日借りた冒険物語の続きを考える暇も、人工刺激の記録を考える暇もあまりなかった。
計算の授業で、教師が普段より多めの練習問題を出したからだ。
教室のあちこちから小さな溜息が上がる。
「多い」
友人が隣で呟いた。
「まだ半分ある」
「言わないで」
「見れば分かるでしょ」
「見ないようにしてた」
「減らないよ」
「アリシア、冷たい」
「昨日は冷たかったよ」
言った瞬間、二人とも止まった。
友人がゆっくり顔を上げる。
「……研究の?」
「うん」
「今は?」
「ないよ」
「ならいいけど」
友人は一度だけアリシアの胸元へ視線を向け、それ以上は聞かなかった。
アリシアも説明しなかった。
「ほら、問題」
「現実に戻された」
「あと半分」
「言わないでってば」
再び紙へ向かう。
数分後、今度は後ろの席から声が飛んできた。
「ここ、答え合わないんだけど」
「どこ?」
「四番」
アリシアが振り返る。
途中式を見る。
「最初の単位違うよ」
「あ」
「そこ直せば合うと思う」
「ほんとだ。ありがとう」
「どういたしまして」
教師が前から声を上げた。
「相談してよいとは言ったが、答えだけ写すなよ」
「写してません!」
後ろの男子生徒が慌てて返す。
教室に笑いが広がる。
アリシアも笑いながら自分の問題へ戻った。
昨日の研究結果は、授業の外に置いたままだった。
◇
昼休み。
食堂の窓際で友人たちと昼食を取りながら、展示週間の話が続いた。
「魔導具展示、今年もあるって」
同級生の一人が言う。
「靴紐のやつは?」
「去年で終わりじゃない?」
「改良されてたりして」
「今度はほどけなくなるとか」
「悪化してる」
笑いが起きる。
以前聞いた、靴紐を必要以上に強く結んでしまう魔導具の話だった。
「アリシアなら何作る?」
友人に聞かれる。
「作らないよ」
「もし作るなら」
「前も言ったけど、本読んで寝た時に閉じてくれるやつ」
「それ欲しい」
「顔に落ちないようにしてほしい」
「そこまで?」
「寝ながら読む人向けなら必要」
「ノア用は?」
「ノア本読まない」
「猫用魔導具」
「何するの?」
「勝手に毛を取る」
「怒ると思う」
「絶対怒るね」
アリシアは笑いながらスープを飲んだ。
研究の話をしない昼休みは珍しくない。
それでも今日は、意識して避けている感じもなかった。
昨日の一枚はもう存在している。
見たい気持ちは消えていない。
けれど、今この瞬間に見なくてもなくならない。
その感覚が、少しずつ身体へ馴染んできていた。
◇
午後の授業が終わり、アリシアは友人と校舎の出口まで歩いた。
「今日は研究?」
「一応行く。でも何するかはまだ分かんない」
「昨日も行ってたよね」
「昨日は記録整理」
「今日も?」
「かもしれない」
「研究って、毎日すごいことするわけじゃないんだね」
「……うん」
アリシアは少し考える。
「待つ日もあるし、紙見るだけの日もあるし、何もしない日もある」
「それなら私でもできそう」
「何もしない日だけ?」
「そこ担当する」
「一番得意そう」
「でしょ」
二人で笑う。
友人と別れ、研究棟へ向かう。
昨日ほど身体は重くない。
走るほど急いでもいない。
ノアが隣を歩く。
『今日は何を見ると思う?』
「珍しくノアから聞くんだ」
『あなたが朝から九枚九枚言わないから』
「言ってたよ」
『昨日より少ない』
「数えたの?」
『適当』
「……私は、九枚見るかもしれないと思ってる」
『見たいから?』
「それもある。でも昨日、新しい一枚だけ固定したから」
『ふうん』
「今日なら並べてもいいのかなって」
『先生に聞けば』
「そうする」
研究棟の扉を開けた。
◇
研究室の中央机を見た瞬間、アリシアは足を止めた。
昨日と違う。
九枚の記録は、まだ出ていない。
代わりに机の中央へ、三枚の紙が置かれていた。
一枚目。
『昨日の新規記録で、事前に決めた問いへ答えられたこと』
二枚目。
『昨日の新規記録だけでは答えられないこと』
三枚目。
『既存記録と比較する場合の扱い』
「……今日は紙三枚なんだ」
『前にも似たようなの見たわね』
ノアが言う。
「でも中身違う」
「その通りです」
副学院長が近づいてくる。
「まず状態確認から始めます」
「はい」
アリシアは席へ座った。
身体疲労二。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部冷感ゼロ。
恐怖一。
研究参加希望八。
九枚を見たい気持ち。
「……九」
「そこも測りますか?」
サーラが少し笑う。
「昨日聞かれたから」
「今日は正式項目ではありません」
「じゃあ消していい?」
「記録しても構いませんが、試験参加可否とは関係ありません」
「じゃあ九」
『結局言うのね』
「言いたかった」
室内に少し笑いが起こる。
昨日より空気は軽かった。
人工刺激直後ではない。
身体状態も戻っている。
それでも、研究側はすぐ九枚を出さなかった。
「昨日の記録確認で、転記や測定手順に問題はありませんでした」
副学院長が説明する。
「入力側、東側、主観記録、西側とも、固定済み手順通りに整理されています」
「総変位量も?」
「はい」
「時間窓も?」
「はい」
「じゃあ昨日の一枚は完成?」
「一次整理としては完成です」
アリシアは一枚目の紙を見る。
「じゃあ、最初はこれ?」
「はい」
◇
一枚目には、事前に決めた主質問が改めて書かれた。
『既存の早い位置の意図的小変動に対し、固定観測区間内で対象三反応がまとまって確認されるか。』
昨日まで何度も読んだ文だ。
その下には、今回の結果。
東側奥部――確認。
アリシア対象感覚――確認。
西側対象反応――確認。
三領域判定――一致。
「これが今回の答え?」
「今回の一試行についての答えです」
「三つとも確認された」
「はい」
「ここは昨日と変わらない」
「変わりません」
副学院長は続ける。
「重要なのは、これは結果を見る前に決めていた問いだという点です」
「うん」
「入力条件も事前に決めていました」
「早い位置の意図的小変動」
「はい。観測終了点も固定していました」
「途中で反応出ても終わらなかった」
「その通りです。反応が出なければ延長する、ということもしませんでした」
アリシアは頷く。
「だから、この一枚は前の九枚とちょっと違う?」
「違う部分があります」
「どこ?」
「既存九記録は、今の問いと今の補助測定項目をすべて固定した後に取得された記録ではありません」
「あ……」
「昨日の新規記録は、少なくとも今回の主質問については、問い・入力条件・観測範囲・判定規則を先に固定したうえで取得しています」
アリシアは紙へ視線を落とした。
前の九枚が弱いわけではない。
無価値でもない。
けれど、役割が違う。
「昨日の一枚は、答えを見てから質問作ってない」
「はい」
「九枚を見て作った質問ではある?」
「そこは重要です」
副学院長が頷いた。
「今回の問い自体は、これまでの記録と分析から生まれています。したがって、昨日の一件だけで過去の観察から完全に独立した大規模な確認ができた、とは言えません」
「でも昨日の結果は、質問決めたあと」
「はい。少なくとも新規記録として、結果を見る前に扱いを決めた一件です」
「……一枚だけ」
「一枚だけです」
アリシアはその言葉を嫌がらなかった。
むしろ、はっきり言われた方が安心した。
「じゃあ、“三つはいつも一緒”とは言えない」
「言えません」
「“六つ目がつないでる”も言えない」
「言えません」
「東が私を冷たくして、西へ送ってる、も?」
「言えません」
「うん」
分かっていた答えだ。
それでも一つずつ確認する。
「言えるのは?」
「事前に固定した条件と観測規則のもとで取得した今回の一件では、対象三反応がすべて確認され、事前定義した三領域一致に該当した」
「長い」
『研究者向け』
「私向けにすると?」
副学院長が少し考える。
「決めてから取った新しい一枚でも、今回は三つとも確認された」
アリシアの表情が明るくなる。
「それがいい」
『短くなった』
「大事なところ残ってる」
アリシアはもう一度、一枚目を見る。
決めてから取った新しい一枚でも、今回は三つとも確認された。
それ以上でも、それ以下でもない。
でも、それだけで十分に嬉しかった。
◇
二枚目へ移る。
『昨日の新規記録だけでは答えられないこと』
その下には、あえて空欄が多く残されていた。
「書くの?」
「一緒に確認しましょう」
サーラが筆を持つ。
「まず、何が答えられないと思いますか?」
アリシアは少し考えた。
「原因」
「広いですね」
「六つ目が何してるか」
「はい」
「東と西が本当に直接つながってるか」
「はい」
「東が先で西が後っていう、本当の順番」
「時間窓がありますから、点時刻として固定できません」
「うん。それと……意図的小変動があれば絶対三つ出る、も言えない」
「なぜ?」
「前に二件、出なかったから」
「それもありますし、一件の新規陽性だけで十分条件を証明することもできません」
「必要条件も?」
「証明できません」
「滑らかな入力では今まで出てないけど、三件だけだし」
「はい」
アリシアは指を折らず、頭の中で整理する。
「総変位量が原因かも、まだ分からない」
「昨日の値一つだけでは分かりません」
「東側の事前状態も」
「同じです」
「自然揺れの間隔も」
「はい」
「形も……そもそも正式な物差しまだない」
「その通りです」
サーラが空欄へ短く書き込んでいく。
原因。
必要条件・十分条件。
固定した時間順。
総変位量との関係。
事前状態との関係。
自然揺れ諸項目との関係。
未固定の局所形状。
アリシアは途中で苦笑した。
「答えられないこと多い」
『一枚で世界全部分かったら先生たち失業するわよ』
「それは困る」
「私たちも困ります」
魔導具教師が真顔で返し、周囲から笑いが起きる。
「でも、前ならこれ見たら残念だったかも」
アリシアが言う。
「今は?」
「ちょっとだけ。二」
「何が二ですか?」
「答えられないことが多い残念さ」
「では、答えられたことへの満足は?」
「八」
『数字増えた』
「聞かれたから」
アリシアは笑った。
◇
そして三枚目。
『既存記録と比較する場合の扱い』
ここで、アリシアの背筋が少し伸びた。
「九枚?」
「はい」
「今日見る?」
「その前に、どう置くかを決めます」
「昨日の一枚を?」
「はい」
副学院長が新規記録の表紙を机へ置く。
まだ既存九記録は出ていない。
「昨日の一件を九枚へ追加して、十枚を同じものとして扱うことはできますか?」
問われて、アリシアはすぐ答えなかった。
「……できるけど、全部同じじゃない」
「なぜ?」
「昨日のは、問い決めてから取った」
「他には?」
「観測の終わりも先に決めた。私が時間順を当てようとしないっていうのも決めた。東と西の結果を隠すのも」
「はい」
「前の記録も安全条件とかは決まってたけど、今の質問のために全部取ったわけじゃない」
「その通りです」
「じゃあ混ぜたら駄目?」
「比較すること自体が駄目ではありません」
副学院長は言う。
「ただし、役割を消してはいけません」
「役割」
「既存九記録は、これまでの探索と仮説形成に大きく使ってきました。昨日の新規記録は、その後に問いと扱いを固定して取得した一件です」
「新しい方を、九枚の一員にして役割なくしちゃ駄目?」
「少なくとも最初から同一群としてだけ扱うべきではないと考えています」
アリシアは机の上の表紙を見つめた。
「じゃあ、十枚目じゃない?」
若い観測員が少し笑う。
「昨日からそこにこだわりますね」
「九の次だから十じゃん」
「時系列では十件目ですよ」
「でも比較では?」
「まずは『既存九記録』と『新規独立一記録』として分けて保持します」
「九プラス一」
「そうですね」
「十じゃなくて?」
「合計は十です」
「じゃあ十でもある」
『何と戦ってるの?』
ノアの声に、研究室の空気が緩んだ。
「だって呼びにくい」
「呼び方より役割を忘れない方が大切です」
サーラが笑う。
「分かった。九プラス一」
アリシアは自分で言ってみる。
少し変な呼び方だが、嫌いではなかった。
◇
「では、既存九記録を出します」
副学院長が言った。
アリシアの表情が一瞬で変わった。
『顔』
「今はいいでしょ!」
ノアへ返した声が少し大きくなり、何人かが笑う。
保管されていた九記録が運ばれてくる。
ただし、机へ無造作に十枚並べることはしない。
左側に既存九記録。
右側に昨日の新規一記録。
間には、はっきり空間を空けた。
アリシアはその配置を見ただけで、意味が分かった。
「混ぜない」
「まずは」
「でも比べる」
「固定済みの項目については比較できます」
「新しい境界線探さない?」
「探しません」
「昨日の一枚が綺麗に入るように、組み合わせ変えない?」
「変えません」
「総変位量は?」
「昨日までに測定法を固定しているので、既存九記録へ同じ式を適用できます」
「それは見る?」
「今日はそこまで進める予定です。ただし、疲労状態を途中で再確認します」
「うん」
アリシアは既存九記録へ視線を移した。
久しぶりというほどではない。
それでも、昨日一日開かなかっただけで少し違って見えた。
七件の反応陽性記録。
二件の無反応記録。
それぞれに、これまで固定してきた項目が並んでいる。
入力立ち上がり。
復帰時間。
東側事前平均傾斜。
変動性。
自然揺れの数。
振幅。
算出可能なものについては間隔。
時間窓。
そして今日、総変位量が同じ式で追加される。
「結果隠して計算する?」
アリシアが尋ねた。
「算出そのものは装置記録から機械的に行います。式は固定済みですから、結果群を見て式を変えることはありません」
「私、計算しない方がいい?」
「その必要はありませんが、今日は算出作業を担当者に任せます」
「何で?」
「疲労を増やさないためです」
「そこ?」
「そこです」
アリシアは少し笑った。
「じゃあ見るだけ」
「見るだけでも考えすぎないように」
『無理じゃない?』
「ノア」
「完全に考えない必要はありません」
副学院長が言う。
「ただし、最初に確認します。総変位量の値が綺麗に反応有無を分けなくても、それは測定失敗ではありません」
「うん」
「逆に、綺麗に見えても、それだけで原因とはしません」
「九枚で見つけた境界なら、九枚で確認したことにならない」
「はい」
「昨日の新しい一枚は?」
「総変位量については、昨日の試験の主質問ではありませんでした」
アリシアは少し考える。
「でも式は昨日の結果を見る前に決めてた」
「そうです。そのため、新規記録に対して同じ式を適用した値を、既存九記録から得た探索的な見方と照らすことはできます。ただし、一件です」
「また一件」
「大切です」
「分かってる」
◇
算出が始まった。
既存九記録それぞれについて、同じ基準線、同じ対象区間、同じ計算式を使う。
結果を見ながら範囲を伸ばさない。
反応陽性だから広く取ることもしない。
無反応だから狭くすることもしない。
一件ずつ数値が埋まっていく。
アリシアは途中から、紙そのものより担当者の手元を見ていた。
以前なら、数字が出るたびに「大きい」「小さい」と反応していたかもしれない。
今日は最後まで待つ。
九件分。
そして右側には、昨日の新規一件。
「終わりました」
装置担当者が言う。
数値一覧が机へ置かれた。
アリシアが身を乗り出す。
まず九件を見る。
七件の反応陽性。
二件の無反応。
総変位量は同じではない。
当然、少しずつ違う。
大きめのもの。
小さめのもの。
中間。
アリシアの視線が二件の無反応へ向かう。
そして七件の陽性へ戻る。
「……分かれない」
最初に出たのは、その言葉だった。
無反応二件だけが小さいわけではない。
大きいわけでもない。
陽性群の範囲と重なっている。
一本の単純な境界で、綺麗に二群へ分けられるようには見えない。
「はい」
「昨日のは?」
右側を見る。
新規一件の総変位量。
その値も、既存記録の範囲から極端に外れてはいない。
しかも、既存陽性記録の一部に近い。
同時に、それだけで特別な場所へ孤立しているわけでもない。
「……普通に中にいる」
「少なくとも、既存九記録の総変位量範囲から大きく外れた値ではありません」
「じゃあ総変位量でも分かれなかった」
「現時点の九記録では、単独で反応有無を明瞭に分離する特徴には見えません」
「昨日の一枚入れても?」
「一件追加して十件を一群として再探索する言い方は避けましょう」
「あ」
アリシアはすぐ頷く。
「九枚では分かれなかった。昨日の一枚は、その範囲の中にある」
「その表現が適切です」
「……残念」
「どれくらい?」
サーラに聞かれる。
「四」
『思ったより高い』
「ちょっと期待してたから」
「その期待は事前に記録していませんでしたね」
「うん。だから今言うだけ」
アリシアは数字一覧を見つめる。
総変位量。
昨日まで、少し期待していた。
局所的な形を無理に分類するより、基準線からどれくらい動いたかを全体量として見れば、何か違いが出るかもしれない。
結果は、少なくとも今の九枚では綺麗に分けなかった。
「でも消さない」
「もちろんです」
「測り方も変えない?」
「結果を見たからという理由では変えません」
「もっと長い区間にしたら分かれるかも、とか」
「それを今この結果を見て変更すれば、別の探索になります」
「だよね」
アリシアは椅子へ背中を戻した。
少し残念。
けれど、前ほど胸が沈まない。
分かれなかった一項目が増えただけだ。
それは、何も得られなかったこととは違う。
◇
「休憩しましょう」
サーラが言った。
「もう?」
「顔が疲れています」
「顔で分かるの?」
『出る人だから』
「ノアは黙って」
立ち上がると、確かに頭が少し重かった。
休憩室へ移る。
窓の外は午後の光が傾き始めている。
アリシアは水を飲み、椅子へ座った。
「総変位量、駄目だった」
『何が駄目?』
「分けなかった」
『測れなかったの?』
「測れた」
『なら測れたんでしょう』
「……先生みたい」
『嫌な評価ね』
「褒めたのに」
『ならもっと分かりやすく褒めて』
アリシアは少し笑った。
「でもさ」
『何?』
「九枚で分けなかったのに、昨日の一枚は三つとも出た」
『そうね』
「昨日の一枚、何が違うんだろ」
ノアはすぐには答えなかった。
窓辺から外を見る。
『それを今から探し回ったら、また何でも違いに見えるんじゃない?』
アリシアは黙った。
「……うん」
『私は研究者じゃないけど』
「今のは研究助手っぽい」
『やめて』
「前も嫌がってた」
『猫で十分』
アリシアは水の入った杯を両手で持つ。
「違いを探すのは悪くない。でも、昨日の一枚が出たからって、九枚と違うところ全部探し始めたら……」
『終わらないでしょうね』
「うん」
『先生たちに止めてもらえば』
「自分でも止まりたい」
そう言ってから、少しだけ考える。
「今日、もう一個見たいものあったけど、やめようかな」
『何?』
「総変位量と東の事前傾斜を一緒に並べたらどうなるか」
『今思いついた?』
「今」
『じゃあ言えば? 思いついたって』
「見るんじゃなくて?」
『そこは先生に聞きなさい』
「うん」
◇
研究室へ戻ると、アリシアは席へ着く前に口を開いた。
「一個、思いついた」
「どうぞ」
「総変位量と東側の事前平均傾斜を一緒に見たらどうなるかなって」
副学院長は否定しなかった。
「なぜその二つですか?」
「……総変位量が今分けなかったから」
「他には?」
「前に東側の事前傾斜も単独では分けなかった。でも二つ合わせたら……」
そこまで言って、自分で止まった。
「結果見てから思いついた」
「はい」
「しかも、二つを組み合わせる理由が現象側からあるわけじゃない」
「現時点では明確ではありません」
「じゃあ今日は見ない」
「探索候補として記録しますか?」
アリシアは少し迷った。
「記録はする。でも、“次に確かめる候補”?」
「その前段階ですね。まず、なぜその組み合わせを見る価値があるのかを考える候補です」
「候補の候補?」
「そう言っても構いません」
『どんどん遠くなる』
「でも、今見ない理由は分かる」
アリシアは小さな紙へ自分で書いた。
『総変位量+東側事前平均傾斜――結果を見た後に思いついた。組み合わせ理由未整理。今は分離探索しない。』
書き終える。
「これでいい?」
「はい」
「見たいけど」
「それも書きますか?」
「書かない」
周囲に小さな笑いが起きた。
◇
再確認した疲労は三だった。
休憩で少し戻っている。
そこで今日の最後の議題として、昨日の新規一件を今後どう扱うかが話し合われた。
「新規記録は、既存九記録と分けて保存します」
副学院長が言う。
「今回の主質問に対しては、事前定義された一致判定を満たした一件として保持します」
「次も同じ試験する?」
アリシアが尋ねる。
「まだ決めません」
「同じ問いでもう一枚取れば、二枚になる」
「そうですね」
「三枚なら?」
「数だけ先に決めないでください」
「五枚?」
『増やすな』
ノアに止められた。
「だって、一枚だけって何回も言われるから」
「一件だけで強い結論へ進まないことと、ただ同じ試験を繰り返せばよいことは同じではありません」
学院長が穏やかに言う。
「次に何を取るべきかは、今回の記録を十分に整理したうえで考えます」
「昨日の一枚が三つとも確認だったから、もう一回同じので再現するかもしれない?」
「候補にはなります」
「確定じゃない」
「はい」
「無反応側をもう一枚取りたいって考えるのも?」
「結果を選ぶことはできません」
「あ、そうだった」
「同じ条件で行っても、反応するかしないかは事前には分かりません」
「欲しい結果を取りに行くんじゃない」
「その通りです」
アリシアは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「まだ言っちゃう」
『前から欲張りだから』
「分かってる」
ただ、以前とは少し違う。
反応が欲しい。
無反応も欲しい。
違うものも見たい。
全部本心だ。
だからこそ、どれか一つを「正しい結果」にしない。
◇
「もう一つ確認しておきたいことがあります」
魔導具教師が口を開いた。
机の端へ、小さな封筒を置く。
「局所形状の測定法についてです」
アリシアの視線がすぐ動いた。
「できた?」
「まだです」
「……そっか」
「ただし、独立した校正波形を使った検討は続いています。昨日の新規記録は、その測定法を決めるためには使っていません」
「昨日の形、まだ見てない?」
「生波形としては記録されていますが、局所形状を分類するための基準作りには使用していません」
「何で?」
「昨日の結果を知っていますから」
「三つとも確認って知ったあとに、その波形見て“この形が反応する形だ”って作りたくない」
「その通りです」
アリシアは封筒を見る。
「じゃあ、別の校正記録だけで作ってる」
「はい」
「できたら、昨日の一枚にも使える?」
「測定法が完全に独立して固定できたなら、探索的に適用することは可能です。ただし、昨日の主質問に後から追加された確認項目にはしません」
「分かった」
ここでも、昨日の一枚の置き場所は変わらない。
後から何か面白い特徴が見つかるかもしれない。
その可能性は残す。
けれど、最初から見ていたことにはしない。
「今日、封筒開けない?」
「開けません」
「聞いただけ」
『顔は開けたそう』
「ノア今日それ多い」
◇
研究終了時、疲労は三。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸部冷感なし。
恐怖一。
総変位量が単独で分離しなかった残念さは、四から二まで下がっていた。
「何で下がったと思いますか?」
サーラに聞かれる。
アリシアは少し考えた。
「分けなかったことに慣れたから……だけじゃない」
「他には?」
「昨日の一枚の意味がなくなったわけじゃないから」
「はい」
「総変位量が分けなくても、昨日は決めてから取った一枚で三つとも確認された。それはそのまま残る」
「その通りです」
「あと、総変位量も消さない」
「はい」
「分けなかったっていう結果で残す」
アリシアは机を見る。
左側に九枚。
右側に一枚。
最後まで混ぜられなかった配置。
「これ、次も分けて置く?」
「少なくとも役割を区別する必要がある間は」
「九プラス一」
「はい」
「ちょっと好きになってきた」
『昨日は十枚目って呼びたがってたのに』
「十でもあるよ」
『まだ言う』
笑いながら立ち上がる。
今日も人工刺激はなかった。
大きな発見もない。
総変位量は、期待したほど綺麗な答えをくれなかった。
それでも、昨日の一枚がどこに置かれるべきなのかは、昨日よりはっきりした。
◇
生活観測区画へ戻ると、朝残っていた一本の枝はまだ窓際にあった。
「残ってる」
アリシアが言う。
子供は床で布袋の口を結びながら頷いた。
「今日は残した」
「明日は?」
「分かんない」
「そっか」
「九枚見た?」
「見たよ」
子供の手が止まる。
「十枚になった?」
アリシアは思わず笑った。
「それ、私も聞いた」
「何て?」
「九枚と、新しい一枚」
「十じゃないの?」
「合わせたら十」
「じゃあ十」
『味方がいたわね』
ノアが言う。
「でも、同じ場所には置かなかったんだよ」
子供は首を傾げる。
「何で?」
「新しい一枚は、先に何を見るか決めてから取ったから」
「九枚は?」
「九枚を見ながら、何を見たらいいか考えてきた」
「違う?」
「ちょっと違う」
子供はしばらく考えたが、やがて枝へ手を伸ばした。
「これも一本」
「うん」
「ほかの枝と一緒にしたらいっぱい」
「うん」
「でもこれは今日残した一本」
アリシアは一瞬、言葉を止めた。
ノアを見る。
『私を見るな』
「何も言ってない」
『研究に結びつけるなら自分でやりなさい』
「結びつけないよ」
アリシアは笑った。
「これは枝だから」
「枝」
「うん」
子供も頷く。
一本の枝は一本の枝。
研究記録ではない。
そこを無理に重ねる必要はなかった。
◇
夕食を終え、自室へ戻ったアリシアは、昨日読みかけだった冒険物語を机の上へ置いた。
研究用練習帳も隣にある。
今日は少しだけ迷った。
「どっち?」
ノアが寝台へ上がりながら尋ねる。
「本」
『研究帳じゃないの?』
「今日は研究室でいっぱい書いたから」
『珍しい』
「昨日も書かなかったよ」
『二日連続』
「駄目?」
『別に』
アリシアは寝台へ座り、本を開く。
昨日、港を出た小さな船は、まだ目的地へ着いていなかった。
途中で風向きが変わり、予定していた港へまっすぐ進めなくなっている。
「大変そう」
『戻れば?』
「物語終わるじゃん」
『じゃあ進めば』
「簡単に言う」
ページをめくる。
しばらく読んでから、ふと研究室の机が頭へ浮かんだ。
左に九枚。
右に一枚。
合わせれば十。
でも、最初から全部同じ役割ではない。
総変位量は九枚を分けなかった。
昨日の新しい一枚も、その値だけで特別な場所には立たなかった。
それでも、新しい一枚は失敗ではない。
決めてから取った記録として、今回の問いに一つ答えた。
アリシアは研究帳へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
『何?』
「書こうと思った」
『書けば?』
「明日でも覚えてる」
『なら本読めば』
「うん」
手を戻す。
新しい一枚の置き場所は、今日決まった。
だから今夜まで、その続きを決める必要はない。
アリシアはもう一度物語へ視線を落とした。
窓の外では風が少し強くなり、木の葉が擦れる音がしていた。
研究室に残された九枚と一枚は、今夜も勝手に並び替わったりはしない。
次に開く時まで、それぞれの場所で待っている。




