第227話 十枚目を急いで並べない
人工刺激試験の翌朝、アリシアは目を覚ましてから、しばらく右腕を布団の外へ出せなかった。
痛いわけではない。痺れているわけでもなく、昨日感じた胸の冷たさが残っているわけでもなかった。ただ身体全体が、いつもより一枚重い布を被せられているようにだるかった。
窓の外は明るい。
薄い雲を通した朝日が部屋へ入り、机の上に置いた学院の教本と、昨夜ほとんど開かなかった研究用練習帳を淡く照らしている。
「……重い」
呟くと、寝台の端で眠っていたノアが耳だけを動かした。
『何が?』
「身体」
『昨日、帰りに五かもって言ってたでしょう』
「寝たら戻ると思った」
『戻らなかった?』
「ちょっと戻った」
ようやく腕を出し、ゆっくり上体を起こす。
頭痛はない。
胸部冷感もない。
呼吸は普通。
肩から腕にかけて軽い疲労感があり、脚にも昨日一日分の重さが残っている。
「四くらい」
『何が?』
「疲労」
『朝から研究始める気?』
「違うよ。昨日から残ってるかなって」
『なら覚えておけば』
昨日も聞いた言葉だった。
アリシアは寝台の端へ座ったまま、足先を床へつける。
冷たい。
普通の床の冷たさ。
昨日、人工刺激のあとに感じた胸の内側の冷感とはまるで違う。
その瞬間、昨日の試験が頭へ戻ってきた。
弱い冷たさ。
自分の報告。
固定観測区間が終わるまでの長い待ち時間。
そして、最後に知らされた結果。
東側奥部の追加低下。
アリシアの対象感覚。
西側の遅延弱波形。
三領域とも確認。
「……三つ」
『朝からそれ?』
ノアが今度は目を開けた。
「昨日、本当に三つだったんだよね」
『夢だと思ってる?』
「思ってないけど」
『なら三つだったんでしょう』
「時間窓、どうなったかな」
『知らない』
「西、どれくらい遅かったかな」
『知らない』
「総変位量は?」
『知らない』
「九枚と比べたら――」
『朝ご飯』
ノアが言葉を切った。
「まだ最後まで言ってない」
『言わなくても分かる』
「気になるんだもん」
『昨日、今日は分析しないって言われたでしょう』
「昨日は昨日」
『今日は先生たちが決める』
「分かってるよ」
口ではそう言いながらも、アリシアの頭の中では、すでに昨日の波形が想像で作られ始めていた。
東側はどこで下がったのか。
自分の「冷たい」はどこに置かれるのか。
西側はその後だったのか。
七件の反応陽性記録と同じ並び方なのか、それとも少し違うのか。
九枚へ昨日固定した総変位量を当てたら、何か見えるのか。
聞きたいことが多い。
それでも、アリシアは机へ向かわなかった。
まず制服へ着替える。
今日は学院へ行く日だった。
◇
共用室へ下りると、昨日まで机の端へ置かれていた枝が三本だけ残っていた。
子供はその三本を床へ並べ、少し離れた位置から眺めている。
「減ったね」
アリシアが声を掛けると、子供は振り返った。
「多いの、戻した」
「外に?」
「うん。使わないから」
「この三本は使うの?」
「まだ分かんない」
「分かんないのに残したんだ」
「好きだから」
「そっか」
理由はそれだけだった。
長さが特別だからでも、色が珍しいからでもない。
子供が好きだったから残した。
アリシアはそれ以上理由を聞かなかった。
「昨日、やった?」
「うん」
子供の視線がアリシアの胸へ向く。
「冷たかった?」
「少しだけ」
「痛かった?」
「痛くなかったよ」
「苦しくない?」
「大丈夫」
子供はそこで少し安心したように息を吐いた。
「三つ?」
「覚えてたの?」
「東と、アリシアと、西」
「三つとも確認された」
「一緒?」
アリシアは一瞬だけ迷う。
「昨日の決め方だと、一致」
「同じ時?」
「それはまだ見てない」
子供が首を傾げる。
「一緒なのに?」
「三つとも確認されたって意味で一緒。時間まで同じって意味じゃないよ」
「難しい」
「私も前、そこ混ぜそうになった」
子供は少し考えたあと、床の枝へ視線を戻した。
「今日見る?」
「たぶん、昨日の記録は見ると思う」
「九枚も?」
「それはまだ分かんない」
「見たい?」
「すごく」
「じゃあ見る?」
「見たいから見る、にはしない」
「何で?」
アリシアは答えようとして、少し笑った。
「朝から難しい話になるからやめる」
「分かんない?」
「私が説明すると長くなる」
『自覚あるのね』
後ろからノアが歩いてきた。
「あるよ」
子供がノアを見る。
「ノアは分かる?」
『九枚を見たくて仕方ない人が、勝手に開けないよう我慢してる』
「それだけ?」
『今朝はそれで十分』
「ノアの方が短い」
「……私もそれでよかったかも」
アリシアは少し悔しかった。
◇
朝食後、学院へ向かう頃になっても身体の重さは残っていた。
歩けないほどではない。
むしろ普通に歩いていると少しほぐれる。
ただ、昨日の朝より身体が軽くないことははっきり分かった。
「学院休むほどじゃないよね」
歩きながらアリシアが言う。
『私に聞かない』
「聞いてない。確認」
『誰に?』
「自分」
『なら声に出さなくても』
「ノアにも聞いてほしい」
『面倒』
「でも聞いてる」
『耳は閉じられないもの』
道沿いには朝露の残る草が光っていた。
昨日より空気は少し湿っている。風は弱く、歩いている生徒たちの制服の裾もほとんど揺れていない。
学院の正門へ着く頃、アリシアは研究のことを考える時間を減らそうとした。
今日は試験翌日。
少なくとも人工刺激はしない。
それは決まっている。
なら、学院へいる間くらい、昨日の波形を頭の中で勝手に描き続ける必要はなかった。
「おはよう」
正門を抜けたところで、友人が横から現れた。
「おはよう」
「昨日どうだった?」
いきなり来た。
アリシアは少しだけ目を瞬く。
「できたよ」
「研究?」
「うん」
「体調大丈夫?」
「ちょっと疲れた。でも大丈夫」
「痛くない?」
「ないよ」
「ならよかった」
友人はそれ以上、研究結果を聞かなかった。
昨日、「できたか、できなかったかくらい」と言っていた通りだった。
「何か聞かないの?」
「何を?」
「結果とか」
「聞いて分かる?」
「……たぶん分かんない」
「じゃあいい」
「早い」
「アリシアが嬉しそうだから、悪くはなかったんでしょ」
アリシアは自分の顔へ触れた。
「また顔?」
「何が?」
「昨日も顔に出てるって言われた」
「誰に?」
「ノア」
「じゃあ出てるんじゃない?」
「そんなに?」
「今はちょっと嬉しそう」
アリシアは困ったように口元を押さえた。
「隠さなくていいじゃん」
「研究の結果で顔変わると、試験中に周りの顔から結果読めちゃうから」
「……何の話?」
「ごめん。研究の話になった」
「朝から難しいの禁止」
「子供にも似たこと言われた」
「じゃあ今日は普通の話しよう」
「何?」
「植物管理の手袋、借りた?」
「借りたよ」
「忘れてなかった」
「私は忘れない」
「言ったね?」
「……絶対とは言ってない」
「弱くなった」
二人で笑いながら校舎へ向かった。
◇
一時間目は読み物の授業だった。
教師が配った短い紀行文を読み、その土地を訪れた人物が何を見て、何を事実として書き、何を本人の印象として書いているかを分ける課題だった。
アリシアは最初の数行を読んだところで、少しだけ手を止めた。
事実。
印象。
昨日の研究に似ている。
そう思った。
だが、すぐに筆を動かす。
今日は何でも研究へ結びつけない。
文章の中で、川幅が「広い」と書かれている。
これは数字がない。
書き手の印象かもしれない。
一方、橋を渡るのにかかった時間は具体的に書かれている。
隣では友人が眉を寄せていた。
「これ、寒いって事実?」
小声で聞かれる。
「どこ?」
「『朝の空気は骨まで冷えるほど寒かった』」
「書いた人が寒かったのは本当かもしれないけど、気温がどれくらいかは分かんない」
「じゃあ印象?」
「私はそうした」
「『雪が積もっていた』は?」
「事実でいいんじゃない?」
「雪見たなら寒いのも事実じゃない?」
「雪あっても、その人がどれくらい寒いかは別でしょ」
「難しい」
「先生に聞けば?」
「アリシアに聞いた方が早い」
「間違ってたら一緒に間違うよ」
「仲間」
「そこは嬉しくない」
教師が机の間を歩いてくる。
「相談は構わんが、答えを一つに決める前に根拠を書け。『どちらか』より『なぜそう考えたか』を見る」
友人が小声で囁く。
「もっと難しくなった」
「ちゃんと書こう」
「アリシア今日真面目」
「今日も」
友人は笑いながら自分の紙へ戻った。
アリシアも紀行文を読み進める。
途中から、昨日の研究のことは本当に頭から離れていた。
◇
二時間目が終わった頃、身体の疲労感は朝より少し軽くなっていた。
ただし、眠気がある。
休み時間、友人たちが廊下へ出ていく中で、アリシアは席に残って机へ頬杖をついた。
「眠い?」
前の席の男子生徒が振り返る。
「ちょっと」
「昨日夜更かし?」
「してない」
「じゃあ授業がつまらなかった?」
「先生に言うよ」
「やめて」
「今の授業の先生まだ廊下いるよ」
「本気じゃないから」
男子生徒が慌てて前を向く。
アリシアは少し笑った。
以前なら、あまり話したことのない男子生徒から突然話しかけられただけで、返事を考える時間が必要だったかもしれない。
今は、そこまで意識しない。
自分でも変化を数えようとは思わなかった。
ただ眠い時に話しかけられて、少し冗談を返した。
それだけだった。
◇
昼食後、今日は友人と別れ、図書室へ寄った。
調べ物ではない。
返却期限が近い本が一冊あり、そのついでに次に読むものを探すためだった。
図書室は昼休みでも静かで、窓から差す白い光が長机の上へ広がっている。本棚の間には数人の生徒がいて、司書が返却された本を棚へ戻していた。
アリシアは借りていた本を返す。
「次も借りますか?」
「はい」
「新着棚、入れ替わっていますよ」
「見てみます」
新着棚へ向かう。
魔法史。
植物図鑑。
古い地方伝承をまとめた本。
物語。
研究と関係がありそうな本へ目が向きかける。
けれど、今日は薄い冒険物語を一冊手に取った。
表紙には、小さな船と大きな鳥が描かれている。
『それ?』
足元からノアが見上げる。
「うん」
『研究じゃないのね』
「今日はこっち」
『珍しい』
「失礼」
少しページをめくる。
主人公が海辺の町から船へ乗る話らしい。
それだけで十分だった。
貸出手続きを済ませ、図書室を出る。
午後の授業まで少し時間がある。
廊下の窓辺で数ページだけ読んだ。
東も西も出てこない。
波形も数字もない。
それが少し心地よかった。
◇
放課後。
昨日とは違い、研究棟へ向かう足取りはゆっくりだった。
急ぐ必要がないから、というだけではない。
身体疲労がまだ完全には抜けていない。
今日は人工刺激をしない。
研究室で行うのは、昨日取得した記録の整理と、事前に固定していた測定法を機械的に適用する作業が中心になる予定だった。
ただし、アリシアがどこまで参加するかはまだ決まっていない。
「疲労、今いくつ?」
研究棟の手前で自分から口にする。
『私に聞いてる?』
「自分」
『また声に出してる』
「三か四」
『研究室で言えば』
「うん」
扉を開ける。
昨日とは違う空気だった。
人工刺激装置の準備はない。
安全担当も昨日のように開始位置へ立っていない。
机の上には数枚の白紙と、封をした記録束が置かれている。
九枚ではない。
昨日の新規記録だった。
アリシアの視線がそこへ吸い寄せられる。
「見たいですか?」
サーラに聞かれた。
「すごく」
「まず状態確認です」
「はい」
素直に席へ座る。
疲労は四。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部冷感ゼロ。
恐怖一。
研究参加希望七。
「昨日より低いですね」
「疲れてるから」
「分析結果を知りたい気持ちは?」
「九」
「参加希望七、結果を知りたい気持ち九」
「違う」
「どう違いますか?」
「結果は知りたい。でも全部の作業に参加する元気はない」
「分かりました」
サーラが記録する。
アリシアはその様子を見ながら、少しだけ自分に驚いていた。
以前なら、知りたい九なら参加希望も九にしていたかもしれない。
今日は違う。
見たい。
でも疲れている。
なら全部やらなくていい。
「今日はどこまでやるの?」
「まず昨日の新規記録について、既存基準をそのまま適用した一次整理を行います」
副学院長が答える。
「時間窓?」
「はい。ただし、昨日の試験終了直後に伝えた『三領域すべて確認』という一次判定を、詳細な時刻情報へ落とします」
「総変位量は?」
「算出します」
「九枚は?」
「今日は開きません」
アリシアは一瞬だけ黙った。
「まだ?」
「まだです」
「理由聞いていい?」
「もちろん」
副学院長が机の上へ二枚の紙を置く。
一枚目には『新規記録の固定』。
二枚目には『既存九記録との比較』。
「昨日取得した記録は、まだ正式な比較表へ追加していません。まず、この一件を既存の規則だけで最後まで整理します」
「それから九枚?」
「その後に、比較へ進むかを決めます」
「今日、整理終わったら開く可能性は?」
「ありません」
「決まってるんだ」
「今日はアリシアさんの疲労も四です」
「私が帰ったあと先生たちだけで開く?」
「開きません」
「何で?」
「今日の目的を新規記録の固定までに限定しているからです」
アリシアは少し唇を尖らせた。
『不満そう』
「見たいもん」
「見たいことは問題ありません」
学院長が言う。
「ただ、昨日の一件を得た直後に九枚へ戻ると、昨日の結果を基準に既存記録を見直したくなる可能性があります」
「昨日は三つとも確認だったから?」
「はい。例えば、昨日の入力総変位量がある値だったとして、その値に近い既存記録だけを急に重視したくなるかもしれない」
「……やりそう」
「だから今日は、昨日の記録を昨日の記録として固定します」
「十枚目にする前に?」
「そう考えて構いません」
アリシアは封をされた記録束を見る。
「じゃあ今日は、九枚と並べない」
「はい」
「分かった」
◇
最初に開かれたのは、入力装置の記録だった。
結果側ではない。
昨日、実際にどのような意図的小変動が入力されたかを確認する。
装置担当者が記録を表示する。
基準入力。
そこから予定された早い位置で、小さな変動が立ち上がる。
戻る。
その後、固定された観測区間が続く。
「予定範囲内?」
アリシアが尋ねる。
「はい。立ち上がり時間、復帰時間ともに既存安全範囲内です」
「途中で変な二重になってない?」
「なっていません」
「自然揺れは?」
「固定済みの方法で後ほど算出します」
「総変位量は?」
「今からです」
昨日決めた新しい補助項目。
基準線からの偏差を、固定された方法で時間方向へ積み上げる。
アリシア自身が計算するわけではない。
装置記録から既存校正基準を使い、同じ式で算出される。
数値が出る。
アリシアは思わず身を乗り出した。
「これ、大きい?」
「まだ比較しません」
「あ」
すぐに戻る。
「九枚見てないもんね」
「はい」
「装置として異常値?」
「いいえ。調整記録で確認した範囲内です」
「それなら言える?」
「言えます。これは結果群との比較ではなく、装置側の運用範囲との比較です」
「なるほど」
アリシアは数字を見つめる。
大きいか小さいか。
反応した記録に近いか。
無反応記録と違うか。
それはまだ知らない。
今分かるのは、昨日の入力が安全な既存運用範囲内であり、固定式で総変位量を一つの値として残せたことだけ。
「この式、変えない?」
「変えません」
「昨日三つ出たから、もっと細かく見るとかもしない?」
「しません」
「うん」
その答えが少し嬉しかった。
◇
次に、東側奥部の記録が開かれた。
アリシアは自然と姿勢を正した。
昨日、自分には見えなかった波形。
入力開始を共通の基準零点とし、その前後が表示される。
「ここが入力?」
「はい」
「追加低下は……」
指を伸ばしかけて止める。
若い観測員が既存判定規則に従って範囲を示す。
「この区間です」
東側奥部の波形は、入力前から完全な水平ではなかった。
ごく小さな変動を含みながら推移している。
そこへ、既存基準を満たす追加低下が現れている。
「昨日、これ出てたんだ」
「はい」
「事前状態は?」
「固定項目で算出します。平均傾斜と変動性を記録します」
「平坦?」
「その言葉だけでは判定しません」
「そうだった」
アリシアは苦笑する。
以前なら「平坦だった」「下がっていた」で大きく分けたくなっていた。
今は数字として残す。
それでも数字が原因だとは決めない。
「追加低下の時間窓は?」
「これから固定規則で作成します」
装置側の応答不確実性を含める。
点ではなく幅。
開始の可能性がある左端。
終了側。
既存の規則を変えない。
一本の帯が紙上へ置かれた。
アリシアはその帯を見た。
「次、私?」
「その前に休憩します」
「まだそんなにやってない」
「疲労四です」
「……はい」
言われれば従う。
今日は昨日とは違う。
刺激を受ける日ではないが、疲労を押して分析へ張り付く必要もなかった。
◇
休憩室で、アリシアは椅子の背へ身体を預けた。
ノアが窓辺へ飛び乗る。
「東、出てた」
『昨日聞いたでしょう』
「波形で見た」
『だから?』
「本当にあったんだなって」
『昨日先生が嘘ついてたと思ってた?』
「そうじゃない」
アリシアは水を飲む。
「自分が冷たかった時、向こうでも何かあったって聞くのと、線で見るの違う」
『そう』
「時間、重なるかな」
『まだ作ってる途中でしょう』
「うん」
『先に予想する?』
アリシアは少し考えた。
「……しない」
『珍しい』
「予想したら駄目じゃないけど、今日は疲れてるから」
『それ理由?』
「今予想すると、当たった外れたで余計疲れそう」
『それならしない方がいいわね』
「ノアも予想しない?」
『興味ない』
「少しは持って」
『結果出たら聞く』
「ずるい」
『楽でしょ』
アリシアは笑った。
休憩室の窓からは、研究棟の小さな中庭が見えた。
低い木の枝に鳥が一羽止まっている。
少しして飛び立った。
その行き先を追わず、アリシアは椅子へ深く座り直した。
◇
休憩後、アリシア自身の主観記録へ移った。
昨日の最初の発話。
『……冷たい』
その直後。
『胸。弱い。今、来た』
そして程度一。
その後、弱くなっているという報告。
最終的にほぼゼロ。
以前決めた規則通り、最初の発話だけを一点時刻にはしない。
発話には遅れがある。
感じてから声にするまでの幅。
ただし、昨日は曖昧な質問形ではない。
最初から対象感覚として「冷たい」と報告している。
「前の『今、何かあった?』みたいな広げ方はしない?」
「はい。昨日の最初の発話は対象感覚の明示です」
「でも発話前の幅は入れる」
「入れます」
「分かった」
アリシアの主観窓が作られる。
東側の帯と同じ紙へ重ねる前に、それぞれ別に固定する。
結果を見て窓幅を縮めない。
広げない。
アリシアはそこを何度も確認した。
「私の窓、東に合わせてない?」
「合わせていません」
「西見てから変えない?」
「変えません」
「うん」
『疑い深い』
「大事だもん」
『自分で決めたルールでしょう』
「だから守れてるか見るの」
若い観測員が少し笑う。
「確認してもらった方が助かります」
「ほんと?」
「はい。ただし同じ質問を十回されると困ります」
「まだ三回くらい」
『数えてる時点で危ない』
「もう聞かない」
アリシアは口を閉じた。
◇
最後に、西側の記録。
ここで研究室の空気が少しだけ締まった。
昨日、既存基準を満たす遅延弱波形が確認されたこと自体は知らされている。
だが、どこに現れたかはまだ知らない。
表示された波形は、東側とは違う処理を通しているため形も単純には比較できない。
既存の西側用判定規則を使う。
処理遅延。
開始不確実性。
弱い波形の立ち上がり。
そこから、時間窓が作られる。
「……後ろ」
アリシアが小さく言った。
「中央位置としては、東側より遅い側です」
「前の七件と同じ?」
「その比較はまだ行いません」
「あ、そっか」
今日は昨日の一枚を固定する日。
七件との詳細比較も、九枚との総比較もまだ先。
「私とは?」
「三つの窓を固定した後に重ねます」
「今重ねる?」
「はい。それは今日の新規記録内部の整理です」
アリシアは息を整えた。
三つの時間窓が同じ時間軸へ置かれる。
入力開始が基準零点。
東側奥部の追加低下。
アリシアの対象感覚。
西側遅延弱波形。
紙の上へ三本の帯が並ぶ。
アリシアは、すぐには何も言わなかった。
東側と自分の窓には重なる部分がある。
西側は、中央位置としては後ろ側。
ただし、端の扱いを見れば単純な点順序にはできない。
見覚えのある構図ではある。
けれど、過去のどれと同じかはまだ比較していない。
「昨日も、西は後ろ側だった」
「記述としてはそうです」
「でも、“東が先で、西が後”って原因みたいに言わない」
「はい」
「私も真ん中って決めない」
「はい」
「三つとも確認されたことと、時間順は別」
「その通りです」
アリシアはしばらく三本の帯を見た。
昨日、子供へ説明した「一緒」は、やはり時間が同じという意味ではなかった。
三領域すべて確認。
その一次判定は変わらない。
でも中身には、位置と幅がある。
「これ、面白い」
『顔』
ノアが言う。
「今は出ていいでしょ」
『誰も止めてない』
「じゃあ言わないで」
◇
詳細な数値はその場で結論へ使わず、固定記録として保存された。
入力側。
東側事前状態。
東側追加低下窓。
アリシア主観窓。
西側弱波形窓。
固定観測終了点。
総変位量。
自然揺れ関連の既存項目。
必要な欄が一つずつ埋まる。
復帰後安定化時間の欄はない。
昨日採用しなかったからだ。
「あとから追加しないんだ」
「波形そのものは保存していますから、将来その測定法が独立に固定された場合、探索的に適用することはできます」
「でも今日の正式項目ではない」
「はい」
「結果見てから、昨日入れとけばよかったって言わない」
「言っても構いませんが、確認項目だったことにはできません」
「……言うのはいいんだ」
「感想まで禁止していません」
アリシアは少し笑った。
「じゃあ、ちょっと入れたかった」
『昨日自分で急がないって決めたでしょう』
「決めた。でも見たいのは見たい」
『欲張り』
「知ってる」
昨日の記録整理が終わる。
若い観測員が一枚の表紙を用意した。
「新規独立記録として固定します」
「十枚目?」
「まだそれ言いますか」
「だって九枚の次だから」
「時系列上は十件目として扱えますが、既存九記録と同じ比較表へ入れるかどうかは別問題です」
「じゃあ“新規一件”」
「それが無難です」
「固い」
アリシアは笑った。
それでも、昨日より少しだけ納得していた。
◇
「今日はここまでです」
副学院長が告げた。
「え」
アリシアは壁の時計を見る。
「まだ少しできる」
「疲労を再確認しましょう」
サーラに促される。
身体へ意識を向ける。
座っていただけなのに、頭が重い。
数字と波形を追っていたせいか、朝とは違う疲れ方をしている。
「……四。ちょっと五寄り」
「なら終了です」
「九枚……」
「開きません」
「明日は?」
「明日、あなたは通常の学院生活を優先してください」
「研究なし?」
「少なくとも人工刺激はありません。比較作業を行うかは、今日の記録整理を研究側で確認してから決めます」
「私いなくても確認する?」
「今日固定した記録に転記ミスがないか、測定手順が既存規則通りかなどの確認は行います」
「新しい解釈は?」
「今日はしません」
「九枚も?」
「開きません」
アリシアは大きく息を吐いた。
「本当に開かないね」
『何回言わせるの』
「だってすぐそこにある感じするんだもん」
「保管庫です」
若い観測員が訂正する。
「そういう意味じゃない」
研究室に笑いが広がる。
アリシアも笑った。
そして、今度は素直に立ち上がった。
「帰る」
「はい。今日は十分です」
「昨日より研究時間短い」
「昨日が試験日ですから」
「明日元気だったら?」
「明日考えます」
「……はい」
◇
生活観測区画へ戻る途中、アリシアは図書室で借りた本の存在を思い出した。
「今日読もうかな」
『研究帳じゃなく?』
「本」
『いいんじゃない』
「ノアも見る?」
『文字読むの面倒』
「話だけ聞く?」
『面白かったら』
「先に読まないと分かんない」
『じゃあ先に読んで』
「注文多い」
夕方の道は少し涼しかった。
学院から帰る生徒たちが前後を歩いている。
誰かが今日の授業の話をしている。
別の生徒は夕食の話をしている。
アリシアもその中を歩く。
昨日は試験の結果を抱えて帰った。
今日は、三本の時間窓を見た。
それでも九枚は開かなかった。
何も進まなかったわけではない。
昨日の新しい一枚を、まず一枚として固定した。
その順番を守った。
◇
夕食後、子供が三本の枝のうち二本を机へ置いていた。
残り一本はなくなっている。
「また減った?」
「うん」
「どうしたの?」
「戻した」
「好きだったんじゃないの?」
「今日見たら、こっち二つの方が好きだった」
「変わったんだ」
「うん」
子供は何でもないことのように答えた。
アリシアも「昨日は好きだったのに」とは言わなかった。
昨日残したものを、今日も残さなければならないわけではない。
「何作るか決めた?」
「まだ」
「そっか」
「アリシア、九枚見た?」
「見てない」
「我慢した?」
「……した」
「偉い?」
「自分で言うの恥ずかしい」
『別に偉くはないでしょう。決めた通りにしただけ』
「ノア厳しい」
「普通?」
子供が尋ねた。
アリシアは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「それ、最近よく言ってた」
「普通?」
「うん。たぶん普通」
子供も笑った。
◇
自室へ戻ったアリシアは、机の前を通り過ぎた。
研究用練習帳はそこにある。
昨日の最後には、短く書いた。
新しい物差しを一つ決めても、明日の答えは増やさない。
今日は書きたいことがもっとある。
三領域確認。
東側と自分の窓の重なり。
西側の中央位置が後ろ側。
総変位量。
九枚はまだ開いていない。
書こうと思えば何ページでも書けそうだった。
けれど、身体が重い。
頭も少し疲れている。
アリシアは机へ座らず、寝台へ上がった。
借りてきた冒険物語を開く。
ノアが足元へ丸くなる。
「海の町から始まるんだって」
『ふうん』
「主人公、船乗ったことないのに乗るらしい」
『無謀ね』
「まだ一ページしか読んでないのに決めないで」
『乗ったことない船に乗るんでしょう』
「みんな最初は初めてでしょ」
『それもそうね』
ページをめくる。
しばらくすると、研究のことを考えていない自分に気づいた。
そのことを意識した瞬間、また三本の時間窓が頭へ戻りそうになる。
アリシアは本へ視線を戻した。
今日はもう十分見た。
新しい一枚は逃げない。
九枚も逃げない。
明日になっても、記録はそこにある。
物語の中では、小さな船が港を離れ始めていた。
アリシアはその続きを追った。
研究帳は、今夜は閉じたままだった。




