第226話 始める前の答え
人工刺激試験の予定日になった朝、アリシアは目覚めてすぐには起き上がらなかった。
薄いカーテンの向こうはもう明るく、窓辺には朝の光が細長く落ちている。夜の冷気がわずかに残る室内で、遠くから生活観測区画の職員が歩く音と、食堂の方で食器を重ねる小さな音が聞こえていた。
身体を動かす前に、胸のあたりへ意識を向ける。
冷たくない。
痛くもない。
息をゆっくり吸い込み、吐く。
苦しくない。
腕や脚にも、昨日の疲れが強く残っている感じはなかった。
そこでようやく、アリシアは自分が起きてからずっと、無意識に身体の状態を確かめていたことに気づいた。
「……やってる」
小さく呟くと、寝台の足元で丸くなっていたノアが片目を開けた。
『朝から何を?』
「確認」
『何の?』
「身体」
『でしょうね』
ノアは欠伸をしてから、もう一度目を閉じようとした。
「痛くない」
『そう』
「苦しくない」
『そう』
「冷たくない」
『朝の正式確認はここじゃないでしょう』
「分かってるよ」
『なら、今から合格したみたいな顔しない』
アリシアは思わず自分の頬へ触れた。
「そんな顔してた?」
『してた』
「どんな?」
『今日できそう、って顔』
「……できそうとは思った」
『朝の寝台でね』
刺さった。
アリシアは布団の上へ両手を置いたまま、しばらく黙る。
今日の予定は人工刺激試験だ。
けれど、それは昨日まで何度も確認した通り、「今日必ず人工刺激を行う」という約束ではない。
学院へ行く。
授業を受ける。
午後まで普通に過ごす。
研究室へ着いたら休む。
その後で身体状態と気持ちを確認し、装置と人員と安全条件も確認する。
全部が整って、初めて始められる。
「……朝は朝だね」
『そう』
「でも、今は大丈夫」
『それはそれで覚えておけば』
「うん」
アリシアはようやく寝台から足を下ろした。
床の冷たさが足裏へ伝わる。
それは胸の奥に現れる対象感覚とは明らかに違う、ごく普通の朝の冷たさだった。
◇
朝食の席では、試験の話はほとんどしなかった。
子供は昨日まで集めていた枝のうち一本を職員へ渡し、端が尖っているから少し削ってもらえるか相談していた。何を作るかはまだ決めていないらしいが、触っていて痛くないようにはしたいらしい。
顔のない存在は少し離れた席で朝食を取っている。
職員が近くにいるが、特別な変化が起きている様子はない。
アリシアはパンをちぎり、温かいスープへ少し浸した。
「今日だね」
子供が言った。
アリシアの手が一瞬止まる。
「予定ではね」
「朝は?」
「今は大丈夫」
「やりたい?」
昨日までなら数字で答えていたかもしれない。
けれど、ここは正式な状態確認の場ではない。
「やりたいよ」
「いっぱい?」
「いっぱい」
子供が頷く。
「じゃあできる?」
「それはまだ分かんない」
「元気でも?」
「午後まで元気か分かんないから」
「嫌になるかも?」
「それもある」
自分で言ってみると、少し変な感じがした。
今の自分はかなりやりたい。
昨夜もそうだった。
朝起きても変わっていない。
それでも、午後の自分が違う答えを出す可能性を残している。
「嫌になったら言う?」
「言う」
子供はスープを一口飲んだ。
「ノアにも?」
「昨日頼んだ」
『何で私が監視役みたいになってるのよ』
椅子の下からノアが言う。
「頼んだら分かったって言ったじゃん」
『覚えてるわよ』
「じゃあお願い」
『あなたが自分で言うのが先』
「分かってる」
子供が二人を見比べて笑う。
そのまま話題は、今日の昼食に何が出るかへ移った。
人工刺激の予定日でも、朝食は朝食だった。
◇
学院へ向かう道は穏やかだった。
数日前の強風が嘘のように風は弱く、道沿いの木々もほとんど揺れていない。空には薄い雲があるが雨の気配はなく、歩いていると制服の上着の内側が少しずつ暖かくなってきた。
アリシアは意識して普段と同じ速度で歩いた。
急がない。
今日は試験日だからといって、朝から何かを節約する必要もない。
それでも、学院の屋根が見えてくると胸が少し高鳴る。
『緊張?』
隣を歩くノアが尋ねた。
「期待」
『恐怖じゃなく?』
「今は違うと思う」
『思う、ね』
「研究室でちゃんと確認するから」
『ならいい』
正門を抜けると、校庭には朝の生徒たちが広がっていた。
友人同士で立ち話をしている者。教室へ急ぐ者。朝から何かを忘れたらしく寮の方向へ走って戻る者。今日がアリシアにとって特別な研究予定日であることなど知らない生徒たちが、それぞれの一日を始めている。
「おはよう」
横から声を掛けられた。
いつもの友人だった。
「おはよう」
「今日、結界実技だよ」
「覚えてる」
「私、昨日ちょっと練習した」
「紙の?」
「うん。支点の順番間違えた」
「今日大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「本番に強いから」
「昨日、教本忘れてた人が?」
「それとこれは別」
友人は胸を張った。
アリシアは笑う。
「アリシアは?」
「構造は見たよ」
「できそう?」
「たぶん」
「同じじゃん」
「本番に強いとは言ってない」
二人で校舎へ向かう。
廊下へ入る直前、友人がふとアリシアを見る。
「今日、放課後研究なんだよね」
「うん」
「昨日言ってたやつ?」
「そう」
「じゃあ実技で無茶しないでね」
アリシアは少しだけ目を瞬いた。
「普通にやるよ」
「無茶しないならいいけど」
「研究のために手を抜くのも違うから」
「真面目」
「授業だもん」
「私が失敗したら助けて」
「一人ずつだよ」
「知ってる。気持ちだけ」
「それなら応援する」
「珍しく優しい」
「いつも優しいよ」
「それはどうかな」
「応援やめるよ?」
「ごめんなさい」
昨日までと同じような軽いやり取りをしながら、二人は教室へ入った。
◇
午前の座学は静かに過ぎた。
アリシアは何度か放課後のことを思い出したが、そのたびに目の前の授業へ意識を戻した。教師の話を聞き、板書を写し、途中で出された問題を解く。
時計を見る回数だけは、普段より少し多かった。
二時間目が終わる。
短い休憩。
そして三時間目。
基礎結界の実技だった。
実技場へ移動すると、床には一人分ずつ間隔を空けて簡易術式用の円が描かれている。窓が高い位置にある広い部屋で、外より少しひんやりしていた。
教師が前へ立つ。
「昨日説明した通り、今日は四支点式の小規模結界を一人ずつ展開する。出力を競う授業ではない。形を安定させ、四点へ均等に魔力を流せれば合格だ」
教室の何人かが返事をする。
「強く張れば評価が上がると思うな。むしろ必要以上の出力は制御不足として減点する」
その言葉に、後ろの方から小さな笑いが起きた。
以前、基礎魔法の授業で三つの術式をまとめて光らせてしまった男子生徒が、周囲から視線を向けられている。
「何で俺見るんだよ」
「先生が言ったから」
「俺の名前言ってないだろ」
「顔に書いてある」
教師が咳払いする。
「そこ。始まる前から余計な魔力を使うな」
また笑いが広がった。
アリシアも少し笑ったあと、自分の場所へ入る。
床の四支点を見る。
今日は研究のために魔力を温存するのではない。
かといって、必要以上に使う理由もない。
授業で求められている量だけ。
それでいい。
順番が進む。
友人は二つ目の支点への配分が少し強くなり、最初の一回は結界が片側へ歪んだ。
「あっ」
「止めろ。崩れる前に切れ」
教師の指示で魔力を止める。
光の膜が消えた。
友人が悔しそうに自分の手を見る。
「もう一度。今度は二点目で押し込むな」
「はい」
二回目。
今度は四つの支点がほぼ同じ明るさになり、薄い結界が円形に立ち上がった。
「よし。維持三呼吸」
友人の肩に少し力が入る。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
「解除」
光が消える。
「合格」
友人がほっと息を吐いた。
戻る途中、アリシアと目が合う。
小さく拳を握ってみせたので、アリシアも同じように返した。
そして自分の順番が来る。
「アリシア」
「はい」
円の中央へ入る。
四つの支点。
右前。
左前。
右後ろ。
左後ろ。
手を前へ出し、ゆっくり魔力を流す。
最初の支点が淡く光った。
次。
三つ目。
四つ目。
光が円をつなぎ、薄い膜が立ち上がる。
「少し右前が強い」
教師の声が飛ぶ。
アリシアは慌てて弱めず、他の三点との釣り合いを見ながら流量を少し落とした。
結界の歪みが消える。
「そこで維持」
呼吸を数える。
一。
二。
三。
「解除」
魔力を切る。
光の膜が消えた。
「合格。最初の偏りを自分で戻せたのはいい。ただし次は最初から揃えろ」
「はい」
円から出る。
思ったより疲れてはいない。
それでも、魔力を使った直後特有の軽い熱が腕に残っていた。
「どうだった?」
友人が近づいてくる。
「できた」
「見てた。私より綺麗だった」
「私も最初ずれたよ」
「でも一回で直した」
「次は最初からって言われた」
「先生厳しい」
「普通だよ」
「今日それ言うの好きだね」
「昨日から言ってる気がする」
笑いながら、自分の場所へ戻る。
アリシアは水を一口飲んだ。
腕の熱は少しずつ引いている。
今の疲労を数字にするなら、たぶん三。
けれど正式に決めるのはまだ先だった。
◇
昼休みになる頃には、実技直後の熱っぽさは消えていた。
食堂へ入ると、焼いた肉と香草の匂いが広がっている。今日は混んでおり、食器の触れ合う音と生徒たちの話し声が天井の高い室内へ重なっていた。
友人と少し奥の席を見つける。
「疲れた?」
座るなり尋ねられた。
「少し」
「研究、大丈夫?」
「今は大丈夫だと思う。でも放課後にちゃんと見る」
「今日やるかまだ決まってないんだっけ」
「うん」
「ここまで準備してても?」
「うん」
友人は少し不思議そうだったが、昨日よりは驚かなかった。
「もし今日やらなかったら、次いつ?」
「予備日はある」
「じゃあ、今日じゃなくても終わりじゃないんだ」
「そう」
「ならいいね」
簡単な言葉だった。
アリシアは一瞬だけ返事を忘れた。
研究室では、延期条件を何枚もの紙へ書き、何度も確認した。
けれど友人からすれば、今日できなければ別の日がある。
それだけのことなのかもしれない。
「うん。終わりじゃない」
「じゃあ食べよ。午後眠くなる前に」
「食べすぎた方が眠くならない?」
「じゃあ半分にする?」
「それは嫌」
「研究よりご飯」
「比べなくていいでしょ」
友人が笑った。
アリシアも食事を始める。
食欲は普通にある。
胃が重い感じもない。
会話もできる。
自分の状態を確認しようと思えば、何でも試験前の情報に見えてしまう。
だから途中からは考えるのをやめた。
昼食は昼食として食べた。
◇
午後の授業が終わった。
鐘が鳴った瞬間、アリシアの心臓が一度強く打った。
教室のあちこちで椅子が動き、生徒たちが帰り支度を始める。友人も教本を鞄へ入れながら、こちらを見た。
「行く?」
「うん」
「走らないでね」
「何でみんなそれ言うの」
「走りそうだから」
「走らないよ」
「じゃあ明日、どうだったか聞いていい?」
アリシアは少し考えた。
「言える範囲なら」
「研究の細かいのはいらないよ。できたか、できなかったかくらい」
「うん。それなら」
「頑張って、は違う?」
「……たぶん」
「じゃあ、普通に行ってらっしゃい」
友人が笑う。
「行ってきます」
教室を出る。
廊下を歩く。
階段を下りる。
研究棟へ向かう渡り廊下が見えても、走らなかった。
ノアが隣にいる。
『本当に走らないのね』
「走らないって言ったでしょ」
『偉い』
「子供扱いしないで」
『昨日まで三回くらい念押しされてた人が言う?』
「みんな心配しすぎ」
『あなたが楽しみにしすぎなの』
研究棟が近づく。
胸の高鳴りは、朝より明らかに強かった。
「ノア」
『何?』
「今、怖いかも」
ノアが足を止めた。
アリシアも止まる。
『どれくらい?』
「まだ数字にしない。研究室でやる」
『じゃあ、怖いって思ったことだけ覚えておきなさい』
「うん」
『隠さない』
「うん」
再び歩き出す。
研究棟の扉を開けた。
◇
研究室へ入っても、すぐ中央席へは案内されなかった。
「まず休憩してください」
サーラが言う。
「はい」
アリシアは素直に研究室脇の休憩室へ入った。
机には水と、少量の薄い飲み物が用意されている。窓は少し開けられ、外から穏やかな風が入っていた。
座る。
鞄を足元へ置く。
ノアが向かいの椅子へ飛び乗った。
「どれくらい休む?」
「時間は決まってる」
『知ってるなら聞かない』
「落ち着かない」
『見れば分かる』
アリシアは水を一口飲んだ。
指先が少し冷たい。
胸ではない。
緊張している時の冷え方に近い。
「怖さ、上がってる」
『そう』
「朝一だったのに」
『試験室まで来たんだから上がることくらいあるでしょう』
「四だったら相談」
『そうね』
「五なら延期」
『そうね』
「もし五だったら……」
言葉が止まる。
ノアは急かさなかった。
アリシアは両手で杯を包んだ。
「残念だと思う」
『思えば?』
「すごく」
『それでも五なら今日はなし』
「うん」
返事をしてから、自分の中を探る。
試験を失いたくないから、四にしたくなる気持ちはないか。
ある。
ほんの少し。
数字を一つ下げれば今日できる。
そんな考えが一瞬浮かんだ。
そのこと自体が嫌だった。
「ノア」
『何?』
「今、四って言いたくなってる」
『本当は?』
「まだ分かんない」
『じゃあ分からないまま行きなさい』
「え?」
『ここで都合のいい数字作るよりましでしょう。先生たちと確認すれば』
アリシアはノアを見る。
「それでいいの?」
『私に聞かないで。私は猫』
「便利だね、それ」
『便利よ』
少し笑えた。
その笑いで、肩の力がわずかに抜けた。
◇
休憩時間が終わり、サーラが迎えに来た。
「移動できますか?」
「はい」
「急がなくて大丈夫です」
「うん」
研究室へ戻る。
今日は中央机の配置がいつもより簡素だった。
目の前にあるのは、開始前確認票と、昨日までに固定した試験計画書。
九枚の既知記録はない。
総変位量の比較表もない。
東西の現在波形をアリシアから見える位置へ出すこともしていない。
研究員たちも、必要な担当者だけが決められた位置にいる。
学院長。
副学院長。
サーラ。
安全担当。
治療担当。
魔導具教師。
若い観測員。
装置担当者。
人数は少なくない。
それでも、以前のように視線が一斉に自分へ集まる圧迫感は弱かった。
誰がどこへ立つかも、事前に決められている。
「開始前確認を行います」
サーラの声は普段と変わらない。
アリシアは頷いた。
「まず、身体疲労」
朝からの授業。
結界実技。
昼食後の座学。
研究棟まで歩いた。
休憩もした。
身体の重さを確かめる。
「三」
「昨日の研究終了時と同程度?」
「うん。でも種類が少し違う」
「どう違いますか?」
「昨日は頭も疲れてた。今日は身体が少し疲れてる感じ。実技やったから」
治療担当が記録する。
「疲労三。授業負荷による身体疲労感あり。休息後に増悪なし」
次。
「痛み」
「ゼロ」
「息苦しさ」
「ゼロ」
「胸部付近に、対象感覚と区別しにくい違和感は?」
アリシアは少し時間をかけた。
胸へ手は当てない。
呼吸を普通に続ける。
「ない」
「冷感も?」
「ない」
「分かりました」
サーラが一度筆を置く。
「恐怖」
来た。
アリシアはすぐには答えなかった。
研究室が静かになる。
誰も急かさない。
装置担当者もこちらを見続けず、自分の記録紙へ視線を落としている。
「休憩室で……四って言いたくなった」
アリシアが先にそう言った。
「四“だった”ではなく?」
「四って言いたくなった」
「理由は?」
「五だったら延期だから」
サーラは表情を変えなかった。
「では、今の感覚をもう一度確認しましょう。延期条件を気にせず、どの程度ですか?」
アリシアは膝の上で指を組んだ。
怖い。
刺激そのものが怖いというより、これから何が出るか分からないこと。
また胸が冷たくなるかもしれない。
何も起きないかもしれない。
一つだけ違うかもしれない。
その瞬間、自分が時間順を当てようとしてしまうかもしれない。
ずっと準備してきた一枚が、思っていたより何も教えてくれないかもしれない。
期待と怖さが重なっている。
「……四」
今度は、さっきとは違った。
数字を選んだというより、そこに落ち着いた感じがした。
「四ですか」
「うん」
「開始前恐怖四は、必ず相談する条件です」
「分かってる」
「今、試験をしたくない気持ちはありますか?」
「怖いからやめたい、はない」
「やりたい気持ちは?」
「九」
「怖さ四、参加希望九」
「うん」
「この二つは同時に存在している?」
「してる」
サーラが治療担当と安全担当を見る。
ここでアリシアは口を挟まなかった。
四なら自動的に実施ではない。
相談する。
判断を待つ。
安全担当が尋ねる。
「恐怖の内容を、もう少し分けられますか。刺激によって身体へ強い異常が起きることへの恐怖か、結果が分からないことへの緊張か」
「両方少し。でも……結果の方が大きいと思う」
「胸部冷感そのものへの恐怖は?」
「二くらい」
「地下へ行くことへの恐怖は?」
「今日は地下へ行かないよね」
「行きません」
「じゃあない」
「装置に対する恐怖は?」
「一」
「中止したくなったら言えると思いますか?」
アリシアはノアを見そうになった。
途中で止める。
自分で答える。
「言えると思う。でも、言いにくくなったら聞いてほしい」
「分かりました」
治療担当がアリシアの顔色、呼吸、手の震えなどを確認する。
「身体状態に、恐怖四による明確な過緊張は見られません。会話も安定しています」
安全担当が頷く。
「恐怖四のため相談条件には該当していますが、本人の意思確認ができ、身体状態も安定。現時点で延期を必要とする状態とは判断しません」
アリシアの肩から、少しだけ力が抜けた。
その瞬間をサーラが見逃さない。
「今、安心しましたね」
「……うん」
「安心したことで恐怖の数字を下げる必要はありません」
「分かってる」
「では、四のまま記録します」
「うん」
◇
次は本人意思の確認だった。
ここは、昨日までの確認より丁寧だった。
「アリシアさん」
「はい」
「今日の人工刺激試験に参加したいですか?」
「参加したい」
「研究側が準備済みであること、装置が使用可能であること、他の担当者が待機していることは、あなたが参加を選ぶ理由に含めなくて構いません」
「うん」
「今ここで『今日はやらない』と答えても、責められません。予備日があります」
「分かってる」
「それでも参加したいですか?」
アリシアは一度息を吸った。
怖さ四。
参加希望九。
どちらも消さない。
「やりたいです」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「理由は?」
「次の記録を見たいから。三つがどうなるか知りたい。でも……今日じゃないと駄目だからじゃない。今の私が、今日やりたい」
サーラが静かに頷く。
「分かりました」
学院長が確認票へ署名する。
それでも、まだ始まらない。
◇
装置側の確認へ移る。
入力装置は、既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動。
新しい強度は使わない。
変動回数を増やさない。
途中で結果を見て入力条件を変えない。
入力波形は通常通り保存する。
昨日固定した総変位量は、試験後に同じ計算式で算出する。
復帰後安定化時間は正式項目に入れない。
東側奥部の事前状態がどう見えていても、それを理由に実施・延期を決めない。
西側の計測装置も校正済み。
三領域の観測は、事前に固定した終了時刻まで継続する。
途中で一領域に反応が見えても、それを理由に予定より早く観測を終えない。
逆に何も見えなくても、後から観測時間を延ばさない。
「入力装置、異常なし」
魔導具教師が告げる。
「東側記録装置、校正範囲内」
別の担当者。
「西側、連続記録可能。予定終了時刻まで余裕あり」
若い観測員が続ける。
安全担当が人員を確認する。
必要担当者は全員いる。
治療担当も待機。
標準手順を維持できる。
一つずつ、延期理由がないことが確認されていく。
アリシアは聞きながら、嬉しさが少しずつ増していくのを感じていた。
けれど、途中で「できる」と口にはしなかった。
最後まで確認する。
◇
「主質問を確認します」
副学院長が一枚の紙を出した。
何度も書き直した一文。
『既存の早い位置の意図的小変動に対し、固定観測区間内で対象三反応がまとまって確認されるか。』
アリシアは声に出さず読んだ。
「原因を特定する試験ではありません」
「うん」
「総変位量と反応有無の関係を確認する試験でもありません」
「うん」
「東側事前状態の違いが原因か確認する試験でもありません」
「うん」
「三領域の時間順を当てる試験でもありません」
ここでアリシアの視線が上がった。
「……うん」
「あなた自身も、時間順を当てようとする必要はありません」
「分かってる」
「感覚があれば、これまで通り自然に申告してください。早く言おうとしない。遅らせようともしない」
「うん」
「東側・西側の結果は、試験中あなたへ伝えません」
「うん」
「もし自分が『今、東が先だったかな』『西はもう出たかな』などと考えていることに気づいたら?」
「その時は無理に消そうとしない。試験のあとに、考えたって言う」
「その通りです」
アリシアは膝の上の手を一度開き、握り直した。
これで準備はほとんど終わった。
そう思った時、安全担当が最後の確認をする。
「開始前最終意思確認まで、まだ数分あります。今の段階で質問はありますか?」
アリシアは首を横へ振りかけた。
途中で止める。
「一個」
「どうぞ」
「もし、東だけ出て、私と西が出なかったら……その場で教えないんだよね」
「教えません」
「逆も?」
「はい」
「全部出ても?」
「予定観測終了までは結果を伝えません」
「分かった」
「それが不安ですか?」
「ちょっと」
正直に答える。
「何か感じた時、みんなの顔見て分かりそうで」
室内に小さな沈黙が落ちた。
それはすでに以前から対策している問題だった。
担当者の位置。
表情。
記録板の動き。
質問回数。
アリシアへ条件を推測させないため、できる限り標準化している。
「本日も、アリシアさんから見える位置の担当者は、結果に応じて配置を変えません」
副学院長が答える。
「記録板も?」
「あなたから見えない位置です」
「みんな、顔に出さない?」
『それは人によるんじゃない』
「ノア」
「可能な限り統一します」
学院長が苦笑した。
「ただし、人間ですから完全ではありません。だからアリシアさんも、こちらの表情から結果を読もうとしないでください」
「……頑張る」
『そこは頑張らなくていいんじゃない?』
ノアが言った。
「え?」
『気づいたら気づいたで、あとで言えばいいでしょう。見ないように頑張りすぎたら、それはそれで変になる』
アリシアは少し考える。
「そっか」
「ノアさんの言う通りです」
サーラが頷いた。
「通常通りでいてください。完全に何も意識しないことを要求しているわけではありません」
「分かった」
◇
試験用の観測室へ移動する。
扉を一枚くぐるだけなのに、空気が変わったように感じた。
実際には室温も照明も、事前に決められた範囲へ整えられている。
アリシアが座る椅子もいつもと同じ。
手元には状態申告用の簡単な札。
ノアは決められた位置にある椅子へ移る。
人工刺激中は、余計な言葉を掛けない。
アリシアの報告を誘導しないためだ。
そのことも、もう何度も経験している。
それでも今日は、いつもよりノアが少し遠く感じえた。
「ノア」
まだ開始前なので呼ぶ。
『何?』
「そこにいるよね」
『見れば分かるでしょう』
「確認」
『いるわよ』
「途中、喋らない?」
『必要がなければ』
「うん」
『終わったら喋る』
「分かった」
それだけで少し落ち着く。
治療担当が近づき、最終状態を確認する。
休憩と説明を終えた後。
疲労三。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部対象違和感ゼロ。
恐怖。
アリシアは少し考えた。
「三」
「先ほど四でした」
「説明終わって、何するか決まったら少し下がった」
「参加希望は?」
「九」
「今、やりたくない気持ちは?」
「ない」
「開始してよいですか?」
アリシアはすぐに答えなかった。
ここが最後だ。
予定表ではない。
昨日の自分でもない。
朝の自分でもない。
友人でも研究員でもノアでもなく、今ここに座っている自分が答える。
胸に冷たさはない。
身体は少し疲れているが、重くはない。
怖さは三。
知りたい。
やりたい。
もし途中で嫌になれば止められる。
痛みや苦しさが出れば申告する。
何も出なくても、それは失敗ではない。
全部出ても、すぐ原因が分かるわけではない。
一つだけ違っても、その一枚をそのまま残す。
アリシアは顔を上げた。
「始めたいです」
「確認しました」
安全担当が開始許可を出す。
装置担当者が準備へ入った。
◇
室内が静かになる。
完全な無音ではない。
計測器の低い作動音。
記録装置が一定間隔で刻む微かな音。
遠くの廊下を誰かが歩く足音。
窓は閉じられているため、外の風は聞こえない。
アリシアは正面を見る。
波形表示は見えない。
入力条件も、実施タイミングを細かく予測できないように必要以上の情報は与えられない。
ただし今日は、人工刺激を行う日だと知っている。
早い位置の意図的小変動。
そこまでは合意済みだ。
驚かせるための試験ではない。
「基準観測開始」
担当者の声がする。
アリシアは普通に呼吸する。
一度。
二度。
数えないようにする。
数えること自体が悪いわけではない。
ただ、自分から刺激の時刻を当てようとしたくなかった。
指先を膝の上へ置く。
力を抜く。
胸は普通。
喉も普通。
呼吸も普通。
どこかで紙へ筆が触れる音がした。
それだけで、「何かあった?」と思いそうになる。
違う。
記録員は何もなくても書く。
以前にも学んだ。
視線を前へ戻す。
時間が長く感じる。
まだだろうか。
もう入っただろうか。
考えない。
いや、考えないようにすることも意識しすぎない。
普通にいる。
それが一番難しかった。
◇
東側の観測室では、アリシアから見えない場所で記録が進んでいた。
入力装置の基準状態。
東側奥部の事前波形。
西側の基準記録。
どれも決められた時間幅で保存されていく。
研究員たちは、今日の事前状態を見て試験条件を変えない。
東側が平坦に見えても。
下降して見えても。
細かな揺れが多くても少なくても。
予定した入力は同じ。
それが今回の条件だった。
装置担当者が所定の確認を終える。
安全担当へ合図。
安全担当から実施許可。
人工刺激が入力される。
既存安全範囲内。
早い位置。
一度だけ。
意図的小変動。
◇
アリシアには、入力された瞬間そのものは分からなかった。
少なくとも、「今だ」と確信できるものはない。
何も感じない。
そう思った直後だった。
胸の中央よりわずかに左。
皮膚ではない。
服が冷えたのでもない。
内側へ細い冷たさが触れたような感覚。
強くない。
けれど、知っている。
「……冷たい」
声が出た。
誰かの顔を見ない。
正面を向いたまま続ける。
「胸。弱い。今、来た」
治療担当が決められた言葉だけで確認する。
「痛みは?」
「ない」
「息苦しさは?」
「ない」
「冷感の程度は?」
アリシアは感覚を追う。
「一……一くらい」
それ以上は言わない。
東がどうなったか聞かない。
西がどうなったか考えない。
――今、東も出た?
頭の中に浮かんだ。
気づく。
消そうとしない。
あとで言う。
胸の冷たさは、強くならない。
少し残ってから薄れていく。
「弱くなってる」
自然に報告する。
「痛みなし。苦しくない」
そこから先は、また待つ時間になった。
◇
誰も「反応しました」とは言わなかった。
誰も喜ばない。
誰も残念そうな声を出さない。
決められた通り、観測が続く。
アリシアにとっては、ここからが長かった。
自分の冷感が確認された。
それだけは、自分で分かる。
では東は。
西は。
知りたい。
ものすごく知りたい。
けれど聞かない。
記録装置の音が続く。
担当者の足音。
紙の音。
何かが動いた気配。
その一つ一つに意味をつけたくなる。
アリシアは自分の膝を見た。
手は震えていない。
胸の冷たさはほとんど消えた。
「冷感、ほぼゼロ」
申告する。
「確認しました」
それだけ返ってくる。
また時間が過ぎる。
以前なら、反応が出た時点で「何が起きたの」と聞きたくなっていた。
今も聞きたい。
でも、予定観測区間はまだ終わっていない。
一領域に反応があっても終えない。
そこも今日の試験の一部だった。
◇
観測終了時刻が来た。
「固定観測区間終了」
その声を聞いた瞬間、アリシアは大きく息を吐いた。
自分が思っていたより、呼吸を浅くしていたらしい。
「そのまま座っていてください」
「はい」
まだ結果は出ない。
まず終了後状態確認。
痛みゼロ。
息苦しさゼロ。
胸部冷感ゼロ。
身体疲労四。
恐怖二。
緊張が抜けたせいか、腕と肩が少し重い。
「気分不良は?」
「ない」
「立ちくらみ?」
「ない」
「頭痛?」
「ない」
治療担当が確認する。
安全上の問題なし。
それでもすぐには立たない。
水を受け取る。
アリシアは一口飲み、ようやくノアを見る。
ノアもこちらを見ていた。
『終わった?』
「終わった」
『お疲れ』
「……喋った」
『終わったからね』
それだけで、アリシアの表情が少し緩んだ。
◇
「結果、聞いていい?」
休息を数分取った後、最初に出た言葉だった。
学院長はすぐには答えない。
「その前に、試験中の主観について確認します」
「分かってる」
アリシアは少しだけ肩を落とした。
『順番』
「分かってるってば」
若い観測員が主観記録用紙を開く。
「冷感を最初に報告した時、それ以前に何か異常感覚はありましたか?」
「なかったと思う」
「入力時刻を推測していましたか?」
アリシアは正直に答える。
「最初は、まだかなって考えた。冷たくなったあとに、“今、東も出たかな”って思った」
「西側については?」
「観測が続いてる途中で、もう出たかなって何回か考えた」
「何か担当者の動きから推測しましたか?」
「紙の音とか、歩く音でちょっと気になった。でも分からなかった」
「誰かの表情から判断した感覚は?」
「ない。あんまり見なかった」
「意図的に見ないよう努力しましたか?」
「最初ちょっと。でもノアが言ったの思い出して、途中から普通にした」
記録される。
「冷感を早く申告しようとしましたか?」
「感じた時に言った。早く言わなきゃ、って思う前に声出た」
「遅らせようとは?」
「してない」
「ありがとうございます」
アリシアは膝の上で手を組む。
「これで聞ける?」
「もう一つ」
「まだある」
「試験中、停止したいと思った瞬間は?」
「なかった」
「開始前の恐怖四について、今どう感じますか?」
「始まる前が一番怖かった」
「刺激後は?」
「冷たくなった時は、怖いより“来た”って思った」
「分かりました」
ようやく用紙が閉じられる。
アリシアは学院長を見る。
「今度こそ?」
「はい」
室内の空気が変わった。
結果を伏せる必要がなくなる。
ただし、ここで大きな解釈へ飛ばない。
まず、今日の記録で何が確認されたかだけ。
「今回、東側奥部では、既存基準を満たす追加低下が確認されています」
アリシアの目が少し大きくなる。
一つ。
自分の冷感は知っている。
二つ。
残るのは。
「西側は?」
声が少し速くなった。
「固定観測区間内に、既存基準を満たす遅延弱波形が確認されています」
アリシアは息を止めた。
三つ。
室内は静かだった。
誰かが拍手するわけでもない。
大発見を宣言する者もいない。
それでもアリシアの口元は、抑えようとしても少しずつ上がっていった。
「……三つ」
「はい」
「今回も?」
言ってから、自分で止まる。
「いや、今回の一枚では、三つとも確認」
「その言い方が適切です」
副学院長が答える。
「今回の一記録では、対象三反応すべてが既存基準内で確認されました」
「まとまった」
「はい」
「じゃあ……」
原因が分かった?
そう言いかけた言葉を、アリシアは飲み込んだ。
今日の問いはそこではない。
「今日の問いには、確認側?」
「そうです」
「三領域一致」
「はい」
アリシアは小さく息を吐いた。
嬉しい。
明確に嬉しかった。
何も出なかった記録も大切だと分かっている。
一領域だけ違う記録が出れば、それも大きな意味を持つかもしれない。
それでも、自分が冷たさを感じた時、東と西でも対象反応が確認されていたと知ると、胸の奥が熱くなる。
「嬉しい」
そのまま言った。
「それは記録を変えません」
サーラが微笑む。
「うん」
「喜んで構いません」
「うん」
アリシアはもう一度頷いた。
ノアを見る。
『よかったわね』
「うん」
『でも顔が“次は?”になってる』
アリシアの笑顔が固まる。
「まだ言ってない」
『顔』
「また顔」
研究室に小さな笑いが起こった。
◇
しかし、今日の確認はそこで止められた。
東側追加低下の詳細な時間窓。
アリシアの主観窓。
西側遅延弱波形の開始窓。
総変位量。
既存陽性七記録との位置関係。
九枚へ新しい補助項目を適用するか。
それらは今日すぐには開かない。
「何で?」
アリシアが尋ねる。
不満というより、本当に理由を確認したかった。
「今日は新規記録を取得した日です」
副学院長が答える。
「すでに疲労四まで上がっています。ここから詳細解析へ入る必要はありません」
「見るだけでも?」
「見ると考えるでしょう」
『確実に』
「ノア」
「それに、今回の主質問への一次判定は得られました。三領域とも既存基準で確認です。ここから先は、時間窓作成や入力補助項目の算出を手順通り行う分析段階です」
「今日やる必要ない?」
「ありません」
アリシアは少しだけ唇を尖らせた。
「見たい」
「知っています」
「総変位量も」
「明日以降です」
「九枚も?」
「開きません」
「……全部明日?」
「明日すべて行うとは言っていません」
「増えた」
『何が?』
「待つもの」
『研究してるんだから仕方ないでしょう』
アリシアは机へ視線を落とした。
それでも以前ほど強い焦りはなかった。
今日、新しい一枚は得られた。
しかも、決めた問いに対する一次結果もある。
三領域とも確認。
それ以上を今日中に欲張る必要はない。
「分かった」
アリシアは顔を上げる。
「今日はここまで」
「はい」
「でも、今日の記録は十枚目って呼んでいい?」
若い観測員が少し考える。
「九枚比較表へ正式に追加するかは、記録整理後に決めた方がよいでしょう」
「じゃあ、まだ十枚目じゃない?」
「新規独立記録一件、です」
「固い」
『研究なんだから』
「ノアまで」
また小さな笑いが起こった。
◇
研究室を出る頃には、外の光が夕方へ傾いていた。
長い一日だった。
朝起きた時には、今日実施できるかさえ決まっていなかった。
学院へ行き、授業を受け、結界を張り、昼食を食べた。
研究室へ来た時には恐怖が四まで上がった。
延期条件の境目を意識して、四と言いたくなっている自分にも気づいた。
それでも誤魔化さず相談した。
そして実施できた。
胸に弱い冷たさが来た。
東側奥部でも追加低下。
西側でも遅延弱波形。
三領域が、今回の一枚ではまとまって確認された。
渡り廊下へ出る。
窓の向こうの空は薄い橙色になっていた。
「疲れた」
アリシアが言う。
『四でしょう』
「今は五かも」
ノアが足を止める。
『本当に?』
「研究終わったから、どっと来た」
『なら寄り道なし』
「しないよ」
『帰ったら休む』
「うん」
『分析しない』
「練習帳くらいは」
『短く』
「……うん」
アリシアは少し笑った。
今日はもう、新しい答えを増やさなくていい。
胸の冷たさは消えている。
痛みもない。
ただ、身体は重い。
研究棟の出口へ向かって、普段よりゆっくり歩いた。
正門の近くまで来たところで、昼に友人から言われた言葉を思い出す。
今日できなくても、終わりではない。
結果として今日はできた。
でも、その言葉があったからこそ、始める前に自分の怖さを正直に四と言えた気もした。
今日やらなければならない、ではなかった。
今日やりたい。
その二つは、似ているようで違う。
アリシアはその違いを抱えたまま、生活観測区画への道を歩いた。
次に何を調べるかは、まだ決めない。
今日の一枚には、今日の一枚として残る時間が必要だった。




