第224話 試す日を決める前に、試さない理由も残しておく
翌朝、生活観測区画の庭には、昨日の強風が残したものがいくつも落ちていた。
細い枝、まだ青い葉、どこから飛んできたのか分からない小さな紙片。夜のうちに風そのものは止んでいたが、地面を見れば昨日一日どれだけ木々が揺さぶられていたのかが分かる。職員が箒で通路を掃いており、乾いた葉が石畳の上を擦れる音が、朝の静かな空気へ規則正しく混じっていた。
アリシアは朝食前、子供と一緒に庭へ出ていた。
「これ、昨日の?」
子供が足元の枝を指す。
「たぶん」
「折れた?」
「風で落ちたんじゃない?」
「木、大丈夫?」
見上げる。
枝を何本か落としてはいるものの、庭木そのものに大きな損傷は見当たらない。職員もすでに確認しているらしく、危険な枝が残っていないか一本ずつ見上げていた。
「大丈夫みたい」
「拾う?」
「職員さんが掃除してるから、邪魔にならないように聞いてからね」
近くの職員へ尋ねると、通路から外れた場所の小枝なら集めても構わないと言われた。
子供はすぐにしゃがみ込んだ。
アリシアも一緒に二、三本拾う。
「何にするの?」
「分かんない」
「集めたいだけ?」
「うん」
「じゃあ集めよう」
昨日まで乾かしていた葉は、もう紙袋の中に収まっている。
今日は枝。
何かを作る予定があるわけでもない。
ただ、拾って並べたいらしい。
長さの違う枝を三本ほど持った子供が、地面へ順番に置いていく。
「長い」
「うん」
「これ真ん中」
「うん」
「これ短い」
「分かりやすいね」
そこへノアが庭へ出てきた。
『朝から何してるの?』
「枝拾い」
『見れば分かる』
「じゃあ聞かなくていいじゃん」
『何のために拾ってるのか聞いたの』
「決まってない」
子供が答える。
ノアは一瞬だけ黙った。
『それなら別にいいんじゃない』
「ノアも拾う?」
『嫌』
「一本だけ」
『猫に枝を運ばせないで』
「口で咥えれば?」
『もっと嫌』
子供が笑う。
アリシアも笑いながら立ち上がった。
研究のことを考えるのは、学院へ着いてからでいい。
そう思ったところで、昨夜の練習帳に書いた一文が頭へ浮かんだ。
始める前に終わりを決める。
昨日は、そこまで進んだ。
今日、装置と安全面の最終確認が通れば、次の人工刺激試験の実施日まで決まる可能性がある。
期待はしている。
かなり。
それでもアリシアは、その期待を口にせず、子供が拾った枝を共用室の端へ運ぶのを手伝った。
◇
朝食を終えて学院へ向かう道では、昨日とは違ってほとんど風がなかった。
空も明るい。
雨上がりというわけではないのに、強い風で空気中の埃が払われたのか、遠くの建物まで輪郭がはっきり見える。
「今日、決まるかな」
結局、アリシアは正門へ着く前に口にした。
『何が?』
「試験日」
『朝は言わないようにしてたでしょう』
「何で分かったの」
『顔』
「そんな顔してた?」
『枝拾いながら三回くらいぼんやりしてた』
「見てたんだ」
『一緒に住んでるんだから見るでしょう』
「……決まってほしい」
『そう』
「ノアは?」
『何が?』
「決まってほしい?」
『安全なら』
短い答えだった。
アリシアは少し歩いてから頷いた。
「うん。私も」
『本当に?』
「本当」
『“安全じゃなくても少しくらい”って思ってない?』
「思ってない」
即答した。
そのあと、少しだけ間を置く。
「……早くしたいとは思ってるけど」
『それは知ってる』
「でも、安全じゃなかったらしない」
『ならいいんじゃない』
正門をくぐる。
朝の校庭にはすでに多くの生徒がいた。
走って教室へ向かう者、友人と立ち話をしている者、昨日の風で倒れた校庭の小さな案内板を職員と一緒に起こしている上級生。学院は研究棟とはまるで違う速度で一日を始めている。
「アリシア!」
聞き慣れた声が飛んでくる。
友人だった。
「おはよう」
「おはよう。今日、髪大丈夫」
「昨日だけでしょ」
「昨日ひどかったから」
「今日は風ないもん」
「じゃあ直してもらえない」
「直す必要ないよ」
「残念」
「何で残念なの」
「ちょっと楽だった」
「自分でやってよ」
友人が笑いながら隣へ並ぶ。
「今日の昼、食堂?」
「うん」
「席取れたら一緒に」
「先に取るのは禁止だよ」
「昨日からそれ覚えてるね」
「昨日話したから」
「忘れない係」
「まだ言うの?」
「正式だから」
「正式じゃない」
教室へ向かう間、研究の話は出なかった。
アリシアからも出さなかった。
◇
午前の一時間目は、基礎救護の授業だった。
今日の課題は包帯の固定である。
二人一組になり、手首や前腕を想定して布を巻く。強すぎれば圧迫し、弱すぎればずれるため、巻き方だけでなく力加減も評価される。
「きつかったら言って」
アリシアは友人の手首へ包帯を巻きながら言った。
「今は大丈夫」
「指動く?」
「動く」
「色は?」
「普通」
「感覚は?」
「ある」
「先生みたい」
「確認しろって言われたでしょ」
「言われたけど」
「じゃあするよ」
巻き終えたところで教師が来る。
友人の手首を確認し、指先の状態を見る。
「少し緩いな」
「え」
「動けばずれる」
教師が友人の腕を軽く動かす。
確かに包帯がわずかにずれた。
「締めすぎを怖がったか?」
アリシアは頷く。
「はい」
「怖がるのは悪くない。ただ、緩すぎても固定の役目を果たさない。相手へ確認しながら適切なところを探せ」
「はい」
教師が離れた後、友人が笑う。
「優しすぎた?」
「緩かっただけ」
「次はもう少し強くしていいよ」
「痛かったらすぐ言ってね」
「分かった」
巻き直す。
今度は先ほどより少しだけ強く。
途中で何度か指先の状態を確認し、友人にも感覚を尋ねる。
再確認に来た教師は、今度は頷いた。
「これならいい」
「よかった」
役割を交代する。
今度はアリシアが巻かれる側になった。
「痛かったら言ってね」
友人がさっきと同じ言葉を使う。
「うん」
「遠慮しないで」
「しないよ」
「研究の時みたいに数字で言ってもいいよ」
「授業では普通に言う」
「じゃあ、きつさ三?」
「だから普通に言うってば」
近くで同じ課題をしていた生徒が笑った。
アリシアは少し頬を赤くしたものの、友人の手元から腕を引っ込めることはなかった。
「今はちょうどいい」
「本当?」
「うん」
「じゃあ続ける」
それで十分だった。
◇
授業が終わると、教室では次の時間までの短い休憩になった。
友人が鞄の中を探り、眉を寄せる。
「ない」
「何が?」
「次の教本」
「机の中は?」
「ない」
「昨日持って帰った?」
「たぶん」
「たぶん?」
「……寮かも」
「忘れたの?」
「忘れない係」
「私は持ち物係じゃないよ」
「今日だけ」
「私の一緒に見る?」
「神」
「大げさ」
「助かった」
机を少し寄せる。
一冊の教本を二人で見るため、友人がアリシア側へ椅子を近づけた。
肩が軽く触れる。
以前なら、それだけでも身体を固くしていたかもしれない。
今は教本の中央を見やすい位置へずらす方が先だった。
「ここまで昨日やったよね」
「うん」
「次ここ?」
「先生が来たら分かる」
「忘れない係なのに」
「授業の進度まで全部覚えてないよ」
「役に立たない」
「貸さないよ?」
「ごめんなさい」
「早い」
二人で笑う。
授業開始の鐘が鳴り、教師が入ってくる。
研究室で次の試験を待っているアリシアと、友人へ教本を半分貸している今のアリシアは、どちらも同じ一人だった。
そのことをわざわざ考える必要すらないくらい、午前は普通に過ぎていった。
◇
昼食後。
午後の授業が始まる前に、研究棟から小さな連絡札が届いた。
教師から手渡された紙には、簡潔に書かれている。
『放課後、通常時刻に研究室へ。安全・装置確認結果共有。人工刺激実施なし。』
アリシアは二度読んだ。
人工刺激実施なし。
今日はない。
それは最初から分かっていた。
気になるのは、その前。
「結果共有……」
友人が横から覗こうとする。
「研究?」
「うん」
「何か決まった?」
「放課後に分かる」
「嬉しそう」
「まだ分かんないよ」
「でも嬉しそう」
「……ちょっと」
連絡札を鞄へしまう。
午後の授業が始まる。
今日は簡単な歴史資料の照合だった。
二つの古い記録を読み、同じ出来事について書かれた部分を探す。片方は町の役人が残した公的記録、もう片方は旅人の日記の写しだった。
同じ祭りの日について書かれているのに、記述はかなり違う。
役人の記録には天候、参加人数、警備配置、事故件数。
旅人の日記には屋台の匂い、演奏の音、混雑への不満、買った菓子の味。
「同じ日なのに全然違う」
友人が小声で言う。
「見てるものが違うから」
「どっちが正しいの?」
「両方じゃない?」
「参加人数は日記にないよ」
「日記の人は数えてないんじゃない?」
「役人の方、菓子の味ない」
「仕事だからじゃない?」
「かわいそう」
「何で?」
「祭りなのに味の記録ない」
アリシアは笑いそうになった。
教師が近くを通ったため、二人とも口を閉じる。
課題は、二つの記録を一つに混ぜることではない。
どちらが何を記録しているかを分けたうえで、共通して確認できる出来事と、片方にしかない情報を整理することだった。
アリシアは途中まで書き、ふと手を止める。
同じ日の記録でも、使える問いが違う。
人数を知りたいなら役人の記録。
祭りの雰囲気を知りたいなら旅人の日記。
以前、九枚の記録を一つの表へ戻した時に考えたことが一瞬だけ重なった。
けれど、その考えを長く追わなかった。
今は授業だ。
アリシアは旅人が書いた菓子の感想の横へ、『公的記録には対応記述なし』と記した。
◇
放課後。
研究棟へ向かう足は、普段より少し速かった。
『速い』
「普通」
『いつもより速い』
「ノアも普通についてきてるじゃん」
『猫だから』
「理由になってない」
『走ってないだけましでしょう』
言われて、アリシアは歩幅を少しだけ小さくした。
「決まってたらどうしよう」
『試験日が?』
「うん」
『喜べば?』
「決まってなかったら?」
『残念がれば?』
「簡単に言うね」
『感情まで事前固定する必要ないでしょう』
アリシアは一瞬黙り、少し笑った。
「それはそう」
研究室の扉を開く。
中央机には、昨日の三本線の紙が残されていた。
入力開始を示す左端。
三領域共通の観測終了候補を示す右端。
その横に、今日は三枚の確認書が置かれている。
装置担当。
安全担当。
治療担当。
「来ましたね」
学院長が声を掛ける。
「はい」
「まず状態確認から」
「分かってる」
アリシアは席へ着いた。
身体疲労は二。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸部冷感なし。
恐怖は一。
参加希望は九。
サーラの筆が止まる。
「九ですね」
「うん」
「昨日は八でした」
「日が決まるかもしれないから」
「決まってほしい気持ちは?」
「九」
「決まらなかった場合の残念さは?」
「……六」
『上がった』
「今日は仕方ないでしょ」
「仕方ない、で済ませず記録しておきましょう」
サーラが穏やかに言う。
アリシアは少しだけ唇を尖らせたが、頷いた。
「うん」
「そして、もう一つ確認します。今日、実施可能と判断されても、今日中に人工刺激は行いません」
「分かってる」
「今から実施したい気持ちは?」
アリシアは答える前に少し迷った。
「……七」
「高いですね」
「できるって言われたら、早く見たいから」
「それでも今日は行わないことに納得できますか?」
「できる」
今度は迷わなかった。
「今日は結果を聞く日だから」
「ありがとうございます」
状態確認が終わる。
ノアは窓辺へ上がり、尻尾を前足の周りへ巻いた。
アリシアは中央の三枚へ視線を向けた。
「見ていい?」
「順番に説明します」
「はい」
◇
最初は装置担当からだった。
「東側、西側とも、昨日固定した中間観測案で連続運用可能です。予定時間内での記録容量、校正安定性に問題はありません」
「通った?」
「装置側は」
「入力側は?」
「既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動について、過去と同じ調整条件を再現可能です。事前点検でも異常なし」
アリシアの表情が少し明るくなる。
「じゃあ装置は大丈夫」
「現時点では」
「当日も確認する?」
「当然です」
「分かってる」
次は安全担当。
「観測終了時刻、中間一般状態確認、既存の停止基準について確認しました。今回の計画に、新しい刺激強度や新しい変化幅は含まれていません。既存安全範囲を超える要素はありません」
「通った?」
「安全計画としては実施可能です」
アリシアの指が膝の上で少し動く。
二つ。
残る一枚へ目が向く。
サーラがそれに気づいた。
「治療担当からも説明します」
「うん」
「アリシアさんの過去の試験前後の状態、観測継続時の疲労、現在の停止・相談基準を確認しました。昨日決めた観測時間は、開始前状態が通常範囲なら実施可能と判断します」
アリシアの目が少し大きくなった。
「じゃあ……」
「ただし」
サーラが続ける。
アリシアの口が閉じた。
「実施可能と、実施日決定は同じではありません」
「……うん」
分かっていた。
分かっていたのに、肩が少しだけ落ちる。
「何が残ってる?」
「日程を決める前に、延期条件を明文化します」
「延期条件?」
「はい」
アリシアは眉を寄せた。
「停止条件はあるよね」
「あります。ですが停止条件は、試験を始めた後に止める条件です」
「延期は、始める前?」
「そうです」
副学院長が一枚の白紙を中央へ置く。
「次の試験は、アリシアさんが強く希望している試験です」
「うん」
「研究側も、新しい記録を得たいと考えています」
「うん」
「装置も安全計画も通りました。だからこそ、“実施できる日”だけでなく、“実施しない日”を先に決めておく必要があります」
アリシアは白紙を見る。
まだ何も書かれていない。
「何で?」
問いは素直に出た。
「その日になって、私が疲れてたら延期するのは分かる。でも、それならその時決めればいいんじゃない?」
「その時、アリシアさんが今日と同じくらい試験をしたがっていたら?」
「……」
「研究側も予定を空け、装置も準備済みだったら?」
「……やりたくなる」
「私たちも、“少しくらいなら”と考える危険があります」
安全担当の言葉に、アリシアが顔を上げる。
「研究する人も?」
「人ですから」
以前にも聞いた言葉だった。
結果を見て期待する。
都合の良い解釈をしたくなる。
それはアリシアだけではない。
「だから、今日決める?」
「はい。実施日を決める前に」
アリシアは少し黙った。
試験日が決まると思って来た。
装置は通った。
安全も通った。
治療側も、開始前状態が通常なら実施可能と言った。
あと少し。
その気持ちがある。
「……今日、日まで決めない?」
「延期条件が固まれば、その後に候補日まで進められる可能性はあります」
「可能性」
『その言葉、最近嫌いになってない?』
ノアが言う。
「嫌いじゃない」
『顔』
「ノアは顔ばっかり」
『分かりやすいから』
アリシアは息を吐いた。
「分かった。先に決める」
◇
最初に挙がったのは、身体状態だった。
「痛みが一以上ある状態で開始しない」
アリシアが言う。
「現在の即時申告基準と揃えますか?」
「うん。試験前から痛いのに始めるのおかしいから」
「息苦しさも同様でよいでしょう」
「うん」
白紙へ書かれる。
開始前の痛み一以上。
開始前の息苦しさ一以上。
延期。
「胸の冷感は?」
「対象感覚と区別できない状態で開始すると、基準状態が曖昧になります」
サーラが答える。
「じゃあ、始める前から冷たい感じがあったら延期?」
「程度だけでなく、普段と違う対象部位の感覚が残っている場合は相談し、原則延期とした方がよいでしょう」
「ゼロじゃなかったら全部?」
「日常的な冷えや衣服の影響まで対象にすると過剰です。今回問題になるのは、試験で追っている胸部付近の対象感覚と区別しにくいものです」
「分かった」
その表現も書かれる。
次は疲労。
「ここが難しいですね」
サーラが言った。
「今、三くらいでも研究してる」
「人工刺激がない日と同じにはできません」
「前に疲労三で試験したことある?」
「あります」
「じゃあ三ならできる?」
「過去にできたことと、今回の観測時間で安全に実施できることは同じではありません」
アリシアは考える。
「四は?」
「数字だけで切るのも慎重に考える必要があります。睡眠不足、授業負荷、頭痛の有無、集中状態などでも意味が変わります」
「でも、何も決めないと当日また迷う」
「その通りです」
しばらく話し合い、疲労については二段階にした。
疲労五以上なら延期。
疲労四は必ず相談し、授業負荷、睡眠、その他の身体状態を含めて治療担当が確認。少しでも継続負荷に懸念があれば延期。
三以下でも、数字と実際の状態が一致しないと治療担当が判断した場合は延期可能。
「最後のやつ、数字意味ないみたい」
「数字だけが命令ではないでしょう?」
サーラに言われ、アリシアは目を瞬かせた。
「子供にも言ってるやつ」
「はい」
「私も同じだ」
「もちろんです」
「……そっか」
アリシアは少し笑った。
「じゃあ残す」
◇
次は恐怖だった。
「六で停止」
「それは開始後ですね」
「始める前から六なら絶対やらない」
「当然です」
「五は相談」
「開始前なら延期にしませんか?」
安全担当の提案に、アリシアは少し驚いた。
「五でも?」
「試験中に五へ上がった場合は相談し、状況を確認して継続可否を判断する現在の基準があります。しかし開始前から五なら、そこから人工刺激を加える理由は弱いと考えます」
「……なるほど」
アリシアはすぐには答えなかった。
恐怖五。
怖い。
でも、試したい。
その状態なら、自分はたぶん「大丈夫」と言う。
早く知りたいから。
「延期でいい」
「よろしいですか?」
「うん。始める前から五なら、その日はしない」
「四は?」
「相談?」
「そうしましょう」
恐怖五以上で延期。
四なら必ず相談。
それ以下でも本人が継続に迷う場合は延期できる。
白紙へ文字が増えていく。
アリシアはそれを眺めていた。
延期条件。
言葉だけを見ると、試験から遠ざかっているように見える。
けれど、少しずつ別の感覚も生まれていた。
この条件があるなら、当日の自分は「やりたいから大丈夫」と無理に言わなくていい。
最初から、やらない理由が用意されている。
◇
「次に、実施希望そのものです」
副学院長が言った。
「え?」
「アリシアさんが当日、試験をしたくない場合」
「それはしないでしょ」
アリシアは即答した。
室内が静かになる。
ノアの尾が一度だけ動いた。
「……何?」
サーラが穏やかに尋ねる。
「本当に、絶対にありませんか?」
「だって、今こんなにやりたいし」
「当日のあなたは、今日のあなたと同じ状態とは限りません」
「でも……」
「例えば朝、理由はうまく言えないけれど今日は嫌だと思ったら?」
アリシアは黙った。
「怖さは二。痛みも息苦しさもない。疲労も二。それでも、今日はやりたくないと思った場合です」
「理由なく?」
「理由があっても、言葉にできなくても構いません」
「それだけで延期するの?」
「私は、するべきだと思います」
サーラの答えは明確だった。
アリシアは他の人を見る。
学院長も、副学院長も、安全担当も反対しない。
「研究したいのに?」
「研究したいからこそです」
学院長が答えた。
「あなたは観測対象である前に、参加者です。今まで何度も確認してきたことですが、試験が増えるほど、手順の一部として埋もれやすくなる」
アリシアは自分の指先を見る。
最初の頃は、地下へ行くこと自体が怖かった。
自分の感覚が何を意味するのかも分からなかった。
今は違う。
研究が面白い。
知りたい。
自分から次の試験を望んでいる。
だからこそ、「望んでいる自分」が当たり前になりすぎている。
「当日、やりたくないって言ったら……みんな困る?」
「予定変更は発生します」
「装置準備も?」
「やり直しになるものはあります」
「研究員も集まってる」
「はい」
「それでも?」
「それでも延期です」
副学院長が答えた。
「理由を説明できなくても?」
「はい」
「私があとで、やっぱりやればよかったって言っても?」
「その日は実施しません」
「そこまで?」
「当日一度明確に拒否した後、周囲の準備状況を見て撤回した場合、本当に意思が変わったのか、迷惑をかけたくないと思ったのか判断しにくくなります」
アリシアは息を止めた。
それは、ありそうだった。
とても。
「……私、言いそう」
「何を?」
「みんな準備してるから、やっぱりやるって」
『言うでしょうね』
ノアが即答する。
「ノアまで」
『あなた、そういうところあるもの』
「……ある」
否定できなかった。
「じゃあ、一回嫌って言ったらその日はしない?」
「明確な拒否なら、その方がよいと考えています」
アリシアはしばらく考えた。
少し怖い。
試験を逃すことが。
一度「嫌」と言っただけで、その日の新しい記録がなくなる。
次の機会まで待たなければならない。
「残念になりそう」
「そうでしょうね」
「でも……」
アリシアはゆっくり顔を上げた。
「その条件、入れる」
「よろしいですか?」
「うん。私が当日、やりたくないって言ったら延期。理由はなくてもいい。一回はっきり嫌って言ったあと、みんなが準備してるの見てやっぱりやるって言っても、その日はしない」
「記録します」
「あと……」
少し迷う。
「言いにくそうにしてたら、聞いてほしい」
サーラの表情が柔らかくなる。
「もちろんです」
「私、自分から止めるの苦手な時あるから」
「分かりました」
アリシアは頷いた。
胸の奥が少しだけ軽くなった。
◇
休憩に入る。
今日は研究室ではなく、渡り廊下の端にある小さな休憩場所へ出た。
窓が大きく開けられている。
昨日とは違い風は穏やかで、庭から土と葉の匂いが薄く入ってくる。
アリシアは長椅子へ座った。
ノアが隣へ飛び乗る。
「試験日決めるだけだと思ってた」
『甘かったわね』
「延期条件こんなに決めると思わなかった」
『嫌だった?』
「最初は」
『今は?』
アリシアは少し考える。
「ちょっと安心してる」
『何で?』
「当日、私が変になってもやらなくていいから」
『変って何よ』
「疲れてるのにやりたいって言ったり、怖いのに平気って言ったり」
『それは今日決めなくても止められるでしょう』
「そうだけど、先に決まってた方が……私が自分と喧嘩しなくて済む」
ノアがこちらを見る。
「やりたい私と、今日は嫌な私がいた時、今日の私が嫌って言ったらそっち優先って決まったから」
『なるほど』
「ノアはどう思う?」
『いいんじゃない』
「短い」
『長く言う必要ある?』
「ないけど」
『あなたが嫌ならやらない。それだけでしょう』
「うん」
『研究が一日遅れたくらいで世界は終わらないし』
「一日とは限らないよ」
『細かい』
「大事」
『じゃあ数日でもいいわよ』
アリシアは笑った。
「ノアは待てる?」
『私は別に答えを急いでないもの』
「六つ目が何かも?」
『知りたいけど、あなたが壊れるほど急いではない』
アリシアの笑みが止まった。
ノアは前を向いている。
いつもの少し刺々しい口調のままだった。
「……うん」
『何?』
「何でもない」
『変な顔』
「してない」
『してる』
「ノアは顔ばっかり」
朝と同じ言葉を返す。
今度はノアが小さく鼻を鳴らした。
◇
休憩後。
延期条件の最後は、研究側と装置側だった。
アリシアの状態が良くても、東西どちらかの装置に基準外の揺れがある場合は延期。
入力装置の調整が予定範囲へ収まらない場合も延期。
必要な担当者が欠け、標準手順を維持できない場合も延期。
東側奥部の事前状態が「反応しそう」「反応しなさそう」に見えることを理由には延期しない。
「これは大事」
アリシアが言った。
「前にやった」
「はい」
「東側が平らだからやるとか、下がってるから今日はやめるとかしない」
「その通りです」
「結果が出そうな日に合わせない」
「はい」
「でも、装置が変ならやらない」
「はい」
「見たい状態と、測れない状態は別」
副学院長が頷く。
「良い整理です」
白紙の延期条件が完成する。
アリシアは最初から読み直した。
開始前の痛み。
息苦しさ。
対象感覚と区別しにくい胸部違和感。
疲労。
恐怖。
本人の拒否。
装置異常。
標準手順を維持できない人員・環境。
そして、結果が出そうかどうかを延期理由にしないこと。
「これで全部?」
「現時点では」
「また現時点」
『慣れなさい』
「分かってる」
アリシアは紙を置く。
「じゃあ……」
少しだけ声が上ずった。
「日、決める?」
学院長が予定表を出した。
「候補日は二つあります」
アリシアの目が予定表へ落ちる。
一つは二日後。
もう一つはそのさらに二日後。
「明日は?」
「装置調整記録を使った局所形状候補の検討日です。それとは別に、入力装置の再点検があります」
「じゃあ無理」
「無理というより、急いで明日へ詰め込む理由がありません」
「二日後なら?」
「担当者、装置、治療側とも確保できます」
「授業は?」
「午後の授業終了後に十分な準備時間があります。ただし、午前の授業負荷を確認します」
「何の授業?」
アリシアが自分の手帳を開く。
午前は座学中心。
午後前半に軽い実技。
「実技ある」
「内容は?」
「基礎結界。たぶん強くは使わない」
「当日、授業後の疲労を確認します」
「それで疲労高かったら延期」
「はい」
アリシアは二つ目の候補を見る。
「こっちは?」
「授業負荷は低いですが、そこまで待つ研究上の必要性も今のところありません」
「二日後でいいんじゃない?」
「私たちも第一候補は二日後と考えています」
心臓が少しだけ速くなる。
「決まり?」
「条件付きで」
「また条件付き」
アリシアは笑った。
今度は嫌そうではなかった。
「二日後を実施予定日とします。ただし、今日決めた延期条件のいずれかに該当した場合は実施しません。予備日はその二日後」
「……うん」
「よろしいですか?」
「うん」
もう一度。
「二日後」
「はい」
「次の試験」
「予定です」
「分かってる」
アリシアの口元が緩む。
抑えようとしても、完全には隠せない。
『嬉しそう』
「嬉しいよ」
今度は否定しなかった。
「やっと決まった」
「では、期待値も確認しましょうか」
若い観測員が言う。
アリシアは少し考える。
「試験したい気持ち九。知りたい気持ち九」
「結果への希望は?」
そこですぐには答えなかった。
三領域一致。
全部確認。
全部非確認。
あるいは不一致。
どれが見たいのか。
「……不一致、ちょっと見たい」
正直に言う。
「どれくらい?」
「六」
「三領域一致は?」
「八」
「両方高いですね」
「だって、どっちも知りたいから」
『欲張り』
「今日は言われてもいい」
「全部確認と全部非確認では?」
アリシアはさらに考えた。
「全部確認は七。全部非確認も七」
「同じ?」
「今は」
「記録します」
「二日後に変わっててもいい?」
「感情は変わって構いません。試験の問いと判定基準は変えません」
「うん」
それが一番大事だった。
◇
研究終了後、アリシアは予定表の写しを一枚受け取った。
二日後。
人工刺激試験予定。
早い位置の意図的小変動。
既存安全範囲。
観測終了時刻固定。
三領域の対象反応確認判定。
そして、一番下に大きく書かれている。
『延期条件に該当した場合、実施しない。』
アリシアはその一文を指でなぞった。
「大きいね」
「大切なので」
「試験内容より目立つ」
「当日見落とさないためです」
「私が忘れると思ってる?」
安全担当が少し笑う。
「アリシアさんだけのためではありません。私たち全員のためです」
「……そっか」
自分だけではない。
研究側も止まるための紙。
「じゃあ大きいままでいい」
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は朝拾った枝を机の上へ並べ替えていた。
長さ順だったものが、今度は太さ順になっている。
「変えたの?」
「うん」
「何で?」
「こっちもできるから」
「そっか」
アリシアは隣へ座った。
「試験日、決まった」
子供の手が止まる。
「いつ?」
「二日後」
「刺激する?」
「予定」
「予定?」
「その日の私が疲れてたり、怖かったり、嫌だったりしたらしない」
「嫌でも?」
「嫌ならしない」
「みんな待ってても?」
アリシアは少し驚いた。
「うん。みんな待ってても」
「怒らない?」
「怒らないって」
「本当?」
「うん」
子供は少し考えたあと、枝を一本持ち上げた。
「箱も?」
木箱のことだとすぐに分かった。
「箱も、嫌なら開けないよ」
「途中でも?」
「途中でも」
「みんな見たくても?」
「見たくても」
子供は枝を戻した。
「じゃあ同じ」
アリシアはすぐに「同じ」とは言わなかった。
「少し似てるね。でも、箱と私の試験は別のこと」
「うん」
「嫌なら止めていいところは似てる」
「分かった」
それだけで終える。
箱の研究へは進まない。
今日は枝を並べる日らしい。
「二日後、やりたい?」
子供が尋ねる。
「今はやりたい」
「九?」
「九」
「高い」
「高いね」
「二日後は?」
「その日に聞いて」
子供が笑った。
「変わるかも?」
「変わるかもしれないから」
◇
夕食後。
アリシアは珍しく研究用練習帳をすぐには開かなかった。
共用室でカード遊びをし、途中から職員も一人加わった。ノアは参加しないと言いながら机の端に座り、誰がどの札を持っているのかだけはずっと見ていた。
「ノア、見えてるでしょ」
『何が?』
「私の札」
『見える位置に持つ方が悪い』
「言わないでよ」
『誰に?』
「子供に」
「何?」
子供が顔を上げる。
「何でもない」
『アリシアの一番左――』
「ノア!」
慌てて札を胸へ抱える。
子供と職員が笑った。
『まだ何も言ってないでしょう』
「言おうとした!」
『証拠は?』
「今の言い方!」
『推測ね』
「絶対だった!」
その夜はアリシアが勝った。
ノアが「私のおかげ」と言ったので、勝った気分が少し減った。
◇
自室へ戻ってから、ようやく練習帳を開く。
今日の日付。
その下に、二日後の予定を書く。
『次回人工刺激試験予定――二日後。』
書いただけで、少し胸が高鳴った。
続けて条件を書く。
しかし、延期条件をすべて写すことはしなかった。
正式紙に残っている。
自分の練習帳には、今日一番残したいことだけを書く。
『試す日より先に、試さない日を決めた。』
少し考える。
『当日の私が嫌なら、その日はしない。理由をうまく説明できなくてもいい。』
筆先が止まる。
その一文を見ていると、不思議な感じがした。
自分は二日後を楽しみにしている。
今すぐなら、たぶん「絶対やる」と言いたいくらいだ。
それでも、二日後の自分へ「絶対」を押しつけない。
今日の自分が未来の自分へ命令しない。
「ノア」
『何?』
寝台の端から返事がする。
「二日後、私が嫌って言ったら、本当に止めてね」
『私が止めなくてもみんな止めるでしょう』
「ノアにも言ってほしい」
『何を?』
「今日決めたでしょって」
『分かった』
返事はすぐだった。
「あと、私が“やっぱりやる”って言っても」
『一回はっきり嫌って言った後なら?』
「うん」
『今日はなしって言えばいいのね』
「うん」
『分かった』
アリシアは少し安心した。
「でも今はやりたい」
『それも知ってる』
「すごく」
『九でしょう』
「覚えてた」
『さっきから何回言ってると思ってるの』
「二日後、十になってたら?」
『十だからやる、にはならないでしょう』
「……うん」
『数字は命令じゃないんでしょ』
アリシアは笑った。
「それ、私が子供に言ってる」
『自分にも言いなさい』
「分かった」
練習帳へ最後の一行を書く。
『やりたい気持ちが強いことは、やる理由の一つにはなる。でも、やらない理由を消す力にはしない。』
少し長い。
けれど、今日は削らなかった。
問いではないから。
アリシアは練習帳を閉じる。
次の試験まで、あと二日。
明日は人工刺激をしない。
装置調整記録から局所形状の測定候補を検討する予定になっている。
それが次回試験へ間に合うかは分からない。
間に合わなくても、試験そのものはできる。
そして二日後も、必ず実施するとは限らない。
以前のアリシアなら、「せっかく決めたのに」と不安になっていたかもしれない。
今も少しだけ残念に思う未来は想像できる。
けれど、予定と約束は違う。
二日後に約束されているのは、人工刺激そのものではない。
その日の自分の状態を確かめ、安全条件を確かめ、それでも参加したいと思えているかを確認してから決めること。
そこまで含めて、次の試験だった。
灯りを消す。
暗くなった室内で、ノアが寝台の端から小さく言った。
『興奮して寝られないとかやめてよ』
「寝るよ」
『明日寝不足で、明後日に残ったら笑えないから』
「分かってる」
『本当に?』
「寝るってば」
アリシアは布団を肩まで引き上げた。
目を閉じる。
二日後の波形を想像しそうになり、やめた。
全部確認。
全部非確認。
一つだけ違う。
どれも、まだ紙の上にはない。
だから今夜は、どれか一つを先に選ばなくていい。
明日は明日の仕事をする。
二日後になったら、その日の自分にもう一度尋ねる。
やりたいか。
怖くないか。
身体は大丈夫か。
そして、その答えが今日と違っていても構わない。
試す日を決めたからこそ、試さない自由まで先に残しておく。
それは遠回りではなく、アリシア自身が次の一枚へ向かうために必要な余白だった。




