第223話 長く見ればいいわけじゃないから、終わる時刻を先に決める
朝から、風が強かった。
生活観測区画の窓は閉じられていたが、それでも庭木の枝が揺れる音は室内まで届いてくる。時折、細い枝先が外壁を掠めるような乾いた音を立て、そのたびに窓辺で丸くなっていたノアの耳だけが小さく動いていた。
アリシアは食堂へ入る前に、一度だけ庭を見た。
昨日まで紙に挟んで乾かしていた二枚の葉は、朝のうちに子供が確認している。今日はもう十分乾いていたらしく、職員から薄い紙袋を一枚もらい、その中へ大切そうにしまっていた。
「二枚とも入れたの?」
「うん」
アリシアが尋ねると、子供は袋の口を折りながら頷いた。
「混ざらない?」
「違う形だから分かる」
「そっか」
「細いのと、丸いの」
「名前は?」
「分かんない」
「調べる?」
子供は少し考えてから首を横へ振った。
「今日はいい」
「じゃあ、そのままだね」
「うん」
名前が分からないままでも、袋へ入れておける。
アリシアはそれ以上何も言わず、食堂へ向かった。
今朝の朝食は小さな丸パンと豆の煮込み、それから薄く焼いた卵だった。湯気の立つ皿を持って席へ着くと、ノアが窓辺からこちらを見た。
『今日は研究?』
「午後」
『何を決めるの?』
「観測をいつまで続けるか」
『長くすれば?』
「昨日それは駄目って話した」
『覚えてるじゃない』
「試した?」
『何を?』
「私がちゃんと覚えてるか」
『そんな面倒なことしないわよ』
「じゃあ何で長くすればって言ったの」
『あなたがどう返すか気になっただけ』
「それ試してるじゃん」
『研究じゃないからいいの』
「ずるい」
向かいで食事をしていた子供が笑う。
アリシアはノアへ少しだけ不満そうな視線を向けたが、すぐにパンを千切った。
次の試験で何を尋ねるのかは、昨日ようやく形になった。
意図的小変動を含む試験で、東側奥部、アリシアの対象感覚、西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。
問いは決まった。
早い位置の意図的小変動を第一候補とする理由も決まっている。
けれど、まだ人工刺激を実施する日は決まっていない。
今日の研究では、前回残った大きな未決定事項の一つ――入力開始を基準として、三領域をどこまで観測し続けるかを詰める予定だった。
「今日決まったら、刺激する日も決まる?」
子供が尋ねる。
「たぶん、それだけじゃ決まらない」
「まだある?」
「安全確認とか、装置がちゃんと使える日とか」
「いっぱい」
「いっぱいだね」
「早くしたい?」
昨日と同じ問いだった。
アリシアは少しだけ考える。
「したい。でも、今日の授業もあるから、今はそっち」
「何する?」
「今日は……」
手帳を思い出す。
「午前に魔力制御の実習。午後の授業は文章記録」
『また記録?』
「研究じゃないよ」
『あなた、記録ばっかりね』
「学院なんだから仕方ないでしょ」
『そのうち昼ご飯まで記録し始めるんじゃない?』
「しない」
「昨日何食べた?」
子供が尋ねる。
「え?」
「覚えてる?」
「……昼?」
「うん」
アリシアは止まった。
昨日の食堂。
友人。
同じ机。
話した内容は思い出せる。
けれど、肝心の料理がすぐに出てこない。
「……何だっけ」
『ほら』
「記録しないから忘れただけ!」
『今の話でしょう』
「昼ご飯なんて覚えてなくても困らないよ」
子供がまた笑った。
「今日は覚える?」
「覚えようとしなくていいの」
言いながら、アリシア自身も笑っていた。
朝の研究用練習帳は、今日も鞄の中に入ったままだった。
◇
学院へ着く頃には、風がさらに強くなっていた。
制服の裾が何度も揺れ、正門近くの掲示紙は四隅を留められているにもかかわらず、中央部分がぱたぱたと音を立てている。生徒たちは髪を押さえたり、帽子を片手で掴んだりしながら校舎へ急いでいた。
「アリシア!」
背後から声を掛けられ、振り返る。
いつもの友人が髪を片手で押さえながら走ってきた。
「おはよう」
「おはよう。風すごいね」
「うん」
「髪ぐちゃぐちゃになった」
「ちょっとだけ」
「どこ?」
「後ろ」
「直して」
「私が?」
「見えないもん」
友人が背中を向ける。
アリシアは少し戸惑ったものの、跳ねた髪を指で整えた。
「これで大丈夫」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん?」
「鏡じゃないから」
「アリシアを信じる」
「急に責任重くしないでよ」
二人で校舎へ入る。
玄関では、同じように風に髪を乱された生徒が何人も鏡代わりの窓へ顔を向けていた。男子生徒の一人が「もう直しても外出たら同じだろ」と言い、近くの女子生徒から「そういう問題じゃない」と返されている。
アリシアは友人と顔を見合わせて笑った。
「植物管理の日、風強かったらどうするんだろ」
友人が言う。
「温室だから中じゃない?」
「外もやるかも」
「まだ内容知らないでしょ」
「土触る?」
「たぶん」
「虫いる?」
「植物だからいるんじゃない?」
「アリシア平気?」
「小さいのなら」
「大きいのは?」
「嫌」
「一緒だ」
「普通だと思う」
「ノアは?」
「たぶん追いかける」
『勝手なこと言わないで』
足元から声がした。
友人が笑う。
「いたの忘れてた」
『失礼ね』
「静かだったから」
『朝から風に文句言っても止まらないでしょう』
「賢い」
『今さら?』
「自分で言うんだ」
そんな会話をしながら教室へ向かう。
研究室へ行くのは放課後だ。
それまでは学院生でいればいい。
◇
一時間目の魔力制御実習では、小さな光球を一定の高さへ保つ課題が出た。
派手な魔術ではない。
机の上から手のひら一枚分ほどの高さへ光球を浮かべ、指定された時間だけ位置と明るさを保つ。魔力を強く流しすぎれば光球は膨らみ、弱ければ沈む。
「大きくする課題じゃないぞ」
教師が最初に念を押したにもかかわらず、開始から間もなく教室の端で一つの光球が拳ほどまで膨らんだ。
「だから言っただろう!」
「すみません!」
笑い声が広がる。
アリシアも一瞬そちらへ視線を向けたせいで、自分の光球が少し沈んだ。
「あ」
「人の見てるから」
隣の友人が笑う。
「そっちも揺れてるよ」
「え?」
友人が慌てて自分の光球へ視線を戻す。
今度はアリシアが笑った。
「お互い見ない方がいいね」
「終わったら見る」
「うん」
再び集中する。
光球を高くする必要はない。
明るくする必要もない。
決められた範囲を維持するだけだ。
途中、アリシアの光球がわずかに横へ流れた。
反射的に強く戻そうとしかけ、指先へ込める力を抑える。
急に修正すると、逆側へ振れる。
教師から何度も言われてきたことだ。
ゆっくり戻す。
光球は中央へ近づいた。
「今の上手かった」
隣から小さな声が聞こえる。
「見ないんじゃなかったの?」
「見えた」
「自分のは?」
「大丈夫」
確かに友人の光球も保たれている。
アリシアは小さく笑い、残り時間へ集中した。
終了の合図が鳴る。
光球を消すと、教室のあちこちから一斉に息を吐く音がした。
「地味なのに疲れる」
友人が机へ肘をつく。
「派手なのより疲れるかも」
「ずっと見てるからね」
「途中で終わりって言ってほしくなった」
「時間決まってたじゃん」
「分かってても長いものは長い」
アリシアはその言葉に一瞬だけ午後の研究を思い出した。
けれど、すぐに教師の講評が始まったため、そちらへ意識を戻した。
今の実習を研究の例えにする必要はない。
光球は光球である。
◇
二時間目と三時間目を終え、昼休みになった。
今日は風が強いため、外で食べる生徒は少ない。食堂はいつもより混雑しており、料理を受け取る列も長く伸びていた。
「席あるかな」
「先に取るの駄目だよ」
「分かってる」
「前やって怒られてた人いたね」
「私じゃないよ?」
「知ってる」
「今の言い方、私がやったみたいだった」
「してないの知ってるって」
列が少し進む。
今日の昼食は、鶏肉と根菜を煮込んだものに、硬めのパン、それから小さな果物だった。
料理を受け取ったあと、二人は教室の違う女子生徒二人と相席することになった。
「ここいい?」
「どうぞ」
アリシアが少し身体を寄せる。
以前なら、知らない相手との相席だけで食事中ずっと緊張していたかもしれない。
今もまったく気にならないわけではない。
けれど、席を譲り合い、皿を置く場所を少し空ける程度なら自然にできる。
「風やばかったね」
相席した女子生徒が言う。
「朝?」
「うん。寮から出た瞬間、課題の紙飛んだ」
「取れた?」
「後ろの子が踏んで止めてくれた」
「踏んだの?」
友人が笑う。
「踏まないと飛んでくから」
「汚れた?」
「端だけ。先生に見せたら、“内容まで風で飛んでなければいい”って」
「何それ」
四人で笑う。
食事が進むうち、話題は自然に授業へ移った。
「午後、記録文章でしょ?」
「うん」
「私あれ苦手」
「何が?」
「見たことだけ書けって言われるやつ。感想書くと消される」
相席の女子生徒が言う。
「去年、“鳥が寂しそうに鳴いた”って書いたら、“鳥に確認したのか”って赤で書かれた」
アリシアは思わず笑った。
「先生厳しい」
「アリシア得意そう」
友人が言う。
「何でまた私?」
「研究でそういうのやってるじゃん」
「研究と授業は違うよ」
「でも、“見たものと考えたこと分ける”みたいなのやるでしょ?」
「……やるけど」
「ほら」
「じゃあ教えて」
相席の女子生徒が身を乗り出す。
「授業始まる前から?」
「予習」
「私もまだ課題知らないよ」
アリシアが困っていると、友人が笑った。
「研究の人でも知らないものは知らないって」
「研究の人じゃないよ」
「研究もしてる人」
「それなら……」
言いかけて、アリシアは止まる。
否定する必要もない。
「それなら合ってる」
「認めた」
「学院生でもあるからね」
「知ってるよ」
友人は当たり前のように答えた。
アリシアは少しだけ目を伏せ、鶏肉を一口食べた。
今朝、子供に昼食を覚えているかと聞かれたことを思い出す。
今日は覚えていられそうだった。
◇
午後の文章記録の授業では、教師が教卓へ一つの鉢植えを置いた。
小さな白い花が三輪咲いている。
「十分間観察し、その後、鉢を片づける。見たものを記録しろ。ただし、観察中は文章を書いてもいいし、単語だけ残してもいい。最終提出では、他人が読んで観察内容を再現できる文章へ整えること」
教室から小さなどよめきが起こる。
「花だけですか?」
「花だけだ」
「動かないですよね?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「風で揺れるかもしれん」
笑いが起こった。
アリシアも紙を用意する。
白い花。
三輪。
高さ。
葉の数。
茎の向き。
鉢の縁に小さな欠け。
最初は順調だった。
しかし、しばらく見ているうちに、どこまで書けばいいのか分からなくなる。
葉脈。
土の乾き具合。
花弁の微妙な色の違い。
茎の根元。
鉢の傷。
全部書こうと思えば、いくらでも書ける。
「時間」
教師が告げ、鉢植えを布で覆った。
「え、もう?」
教室のあちこちから声が上がる。
「もうだ」
「まだ葉っぱ数えてた」
「全部数えろとは言っていない」
「じゃあ何見ればよかったんですか?」
「それを考えるのも課題だ」
生徒たちが不満そうな声を漏らす。
教師は黒板へ大きく一文を書いた。
『記録量の多さと、記録の目的への適合は同じではない。』
アリシアはそれを見て、思わず額へ手を当てた。
友人が隣から囁く。
「午後の研究と同じ?」
「……ちょっとだけ」
「やっぱり」
「でも授業は授業」
「今、自分に言った?」
「うん」
教師がこちらを見る。
「私語する余裕があるなら書け」
「はい」
二人は同時に返事をした。
提出用の文章へ整える。
アリシアは、観察したすべてを書かなかった。
課題は、鉢植えの状態を別の生徒がある程度想像できる記録にすることだった。
白い花が三輪。
葉は左右へ広がり、一部に小さな欠けがある。
土の表面は乾いて見える。
鉢の縁にも一箇所欠けがある。
花弁の一枚一枚の形までは書かなかった。
提出後、友人と互いの文章を見せ合う。
「アリシア短い」
「必要そうなところだけにした」
「私、花びらのこといっぱい書いた」
「綺麗だったから?」
「うん」
「じゃあ、それも見たことだし間違いじゃないんじゃない?」
「でも先生の目的には多い?」
「分かんない。採点されないと」
「研究の人でも分かんない」
「だから研究の人って呼ばないでよ」
友人は笑った。
アリシアも笑いながら、自分の提出紙を教師の机へ置いた。
◇
放課後、研究棟へ向かう頃には風が少し弱まっていた。
ただ、空にはまだ速く流れる雲が残っている。
研究室へ入ると、今日は中央机に三本の横線が引かれた長い紙が置かれていた。
上から東側奥部。
アリシア。
西側。
三つの線は左端が揃えられている。
左端には『入力開始=零』。
右側はまだ空白だった。
「今日はこれ?」
アリシアが鞄を置く。
「はい」
若い観測員が答える。
「終わりを決めます」
「三つとも同じ?」
「そこも含めて検討します」
ノアがいつもの窓辺へ向かう。
『今日こそ決まるといいわね』
「決める」
『昨日も似たこと言ってた』
「昨日は問い決まったもん」
『じゃあ今日も期待しておけば』
「してるよ」
サーラが状態確認を行う。
身体疲労は三。
午前の実習と午後の授業があった分、昨日より少し高い。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸部冷感なし。
恐怖は一。
研究参加希望は八。
「人工刺激は今日ありません」
「分かってる」
「念のためです」
「うん」
「観測時間が今日決まらなかった場合の残念さは?」
アリシアは少し考えた。
「四」
「昨日より控えめですね」
「昨日、問いが決まったから。今日は決まらなくても、理由があるなら待てる」
『成長したみたいな顔してる』
「してないよ」
『してる』
「ノア見てないじゃん」
『声で分かる』
「そんなの分かる?」
『長く一緒にいるからね』
さらりと言われ、アリシアは返事が少し遅れた。
「……そっか」
ノアはすでに窓の外を見ている。
アリシアは小さく息を吐き、中央机へ向かった。
◇
最初に確認したのは、過去の陽性七記録で作った時間窓だった。
ただし、今日は九枚の波形そのものを机へ広げない。
すでに固定された時間窓の一覧と、それぞれの観測終端だけを使う。
「また七枚見る?」
「時間窓だけです」
副学院長が答える。
「波形の新しい特徴を探す作業ではありません」
「うん」
東側奥部の対象追加低下。
アリシアの対象感覚。
西側の遅れた弱い波形。
それぞれの既知の確認時間帯が、入力開始を基準とした帯として示される。
西側は三領域の中で、最も遅い側へ広がっている。
「ここより後まで見る?」
アリシアが、既知の最遅側の窓を指した。
「それが第一条件です」
「ぴったりここまでじゃ駄目?」
「駄目とは言いませんが、測定不確実性や記録処理の幅を考えると、既知の最後尾ぎりぎりで終了する理由は弱いでしょう」
「少し余裕を取る」
「はい」
「どれくらい?」
「そこを今日決めます」
装置担当が別の紙を出した。
西側計測器を連続運用した場合の安定性。
記録媒体の容量。
長時間運転時の校正ずれ。
それぞれが整理されている。
アリシアは数字を追い、途中で眉を寄せた。
「記録容量はかなり長い」
「容量だけなら、ですね」
「でも、長くすると校正ずれが少し増える?」
「そうです。ただし今回検討している範囲では、許容範囲を大きく超えるわけではありません」
「じゃあ長くしてもいい?」
「ここで、今日の大事なところです」
魔導具教師が言った。
「長く記録できることと、長く記録すべきことは同じではありません」
「午後の授業でも似たの聞いた」
「何を?」
「記録量が多いのと、目的に合ってるのは同じじゃないって」
「良い授業ですね」
「先生に言っとく?」
「機会があれば」
少し笑いが起きる。
アリシアは紙へ視線を戻した。
「でも、短くして後から来たら嫌」
「その気持ちは分かります」
「前の一枚みたいに、西側だけ最後まで届いてないってなるかもしれない」
最初の無反応記録。
東側とアリシアについては既知の陽性時間帯を十分越えて観測できていたが、西側だけは最も遅い陽性窓の後端より先まで届いていなかった。
記録そのものが無価値になったわけではない。
けれど、西側については「その後に遅い反応がなかった」とまでは言えない。
「だから次は長くしたい」
「はい」
「でも、ずっとは無理」
「そうですね」
「じゃあ、“今まで出た一番遅いところより、ちゃんと後まで”」
「それを数値にします」
アリシアは頷いた。
◇
まず東側奥部について検討した。
既知の対象追加低下は、西側ほど遅くない。
装置の応答遅れと記録不確実性を含めても、必要な観測時間は比較的短い。
「東側だけ先に終わらせる?」
アリシアが尋ねる。
「技術的には可能です」
「でも、三領域の確認判定が一致するかを見るなら?」
「共通して有効な観測区間を確保するという意味では、三領域を同じ終了時刻まで維持する方が解釈は簡単です」
「じゃあ全部、西側に合わせる?」
サーラがそこで口を挟んだ。
「アリシアさんの主観観測も、機械と同じように扱えるでしょうか」
「あ」
アリシアは自分の胸へ視線を落とした。
機械なら、動かし続けるだけでいい。
自分は違う。
「ずっと胸だけ気にしてるの、疲れる」
「はい」
「前にも長く見たけど」
「今回、観測時間を伸ばすなら、その負担を改めて考える必要があります」
「でも私だけ早く終わったら、三つ一緒に見られない」
「そうです」
アリシアの表情が曇る。
「じゃあ我慢する」
「その決め方はしません」
サーラの声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「我慢できる最大時間を採用するのではなく、安全かつ無理なく同じ報告方法を維持できる範囲を考えます」
「でも、長い方が情報増えるんでしょ?」
「増える可能性はあります。しかし疲労で報告の仕方が変われば、長くしたことで別の問題が生じます」
「……途中から何でも冷たく感じるとか?」
「可能性としてはあります。逆に、注意が疲れて小さな感覚を報告しにくくなるかもしれません」
「どっちも嫌」
「だから長ければ良いわけではありません」
アリシアは椅子へ座り直した。
機械の記録容量だけ見ていた時には簡単に思えた。
長くできる。
なら長くする。
それで済むと思った。
けれど、自分自身も三領域の一つだった。
「前の試験で、私が無理なく同じ報告を続けられた時間は?」
「複数あります」
サーラが過去の安全記録を出す。
ここでは反応の有無ではなく、試験後の疲労と集中状態を見る。
アリシアが対象感覚を報告したかどうかは伏せられている。
「これ、私の?」
「はい」
「結果見せないの?」
「今必要なのは疲労ですから」
「徹底してる」
『あなたが余計なところ見るからでしょう』
「ノアだって見たら気になるでしょ」
『別に』
「絶対気になる」
『猫に人間の研究欲を押しつけないで』
アリシアは小さく笑い、記録へ戻った。
過去の試験後。
疲労二。
三。
二。
ある記録では四。
ただし、その日は午前の授業負荷も高かった。
「これだけじゃ、時間だけで疲れたか分かんない」
「はい」
「試験前の疲労も違う」
「その通りです」
「今日なら三」
「人工刺激をする日は、開始前状態を改めて確認します」
「疲労高かったら延期?」
「程度によります。既存の停止・相談基準に加えて、今回は観測継続負荷も考えます」
「試験したいから低く言うのは禁止だよね」
「当然です」
『先に言われたわね』
「するつもりないよ」
『本当に?』
「……ちょっとくらい二って言いたくなるかもしれないけど、言わない」
「今の発言も大切です」
サーラが真面目に言う。
「実施したい気持ちが評価へ影響しそうだと自覚しているなら、当日はそこも確認しましょう」
「また項目増えた」
「安全のためです」
「それならいい」
アリシアはすぐに頷いた。
◇
次に、観測中の確認方法が話題になった。
「途中で“疲れた?”って聞かれたら、私、その瞬間に身体を探すと思う」
「そうですね」
「“冷たい?”って聞くのはもっと駄目」
「それは以前から避けています」
「じゃあ、どうやって疲労確認する?」
サーラは少し考え、用意していた案を示した。
「試験開始前に、一定時刻で一度だけ一般状態確認を行うことを知らせます。ただし、“胸部冷感がありますか”とは聞きません。痛み、息苦しさ、継続困難感を含めた安全確認を定型文で行います」
「その質問をする時刻も先に決める?」
「はい」
「反応が出たから聞く、とかはしない」
「緊急時を除いては」
「私が何か言ったら?」
「痛み、息苦しさ、恐怖上昇など停止基準に関わる申告なら、当然その場で安全確認します」
「それは別」
「そうです」
アリシアは少し考えた。
「定型文、今決める?」
「今日は候補を確認できます」
「聞きたい」
サーラが紙を見る。
「『現在、試験を続けることに身体的なつらさはありますか。痛み、息苦しさ、その他の継続困難があればそのまま申告してください』」
アリシアは一度聞き、目を閉じてみる。
「冷たいか探せって感じはしない」
「恐怖については別に確認します」
「それも時間決める?」
「はい」
「いっぱい聞かれる?」
「一度の予定です。ただし、アリシアさん自身からの申告はいつでもできます」
「それなら平気そう」
「本番前にも再確認します」
アリシアは頷いた。
長く見るために、途中で余計な誘導を増やしてはいけない。
でも、長く見るために安全確認を減らすのも違う。
その間を探す。
思っていたより面倒だった。
けれど、嫌ではなかった。
◇
休憩に入った時、アリシアは研究室の窓から外を見た。
午前ほどではないが、まだ風は残っている。
雲の切れ間が広がり、夕方の光が研究棟の壁を斜めに照らしていた。
「今日も数字決まらない?」
飲み物を受け取りながら尋ねる。
副学院長が答える。
「かなり絞れています」
「かなり」
「不満ですか?」
「ちょっと」
「残念さ四?」
「今は二」
「下がったんですね」
「ちゃんと理由があるから」
『今日はよく自分で褒めるわね』
「褒めてない」
『待てる私、偉いって顔してる』
「してないってば」
ノアは返事の代わりに欠伸をしかけ、途中で口を閉じた。
アリシアがじっと見る。
『何よ』
「欠伸」
『したら何?』
「別に」
『記録しないでしょうね』
「しないよ!」
近くにいた若い観測員が笑う。
以前、友人から「ノアの欠伸でも記録するのか」と冗談を言われたことを思い出したのだろう。
「笑わないで」
「すみません」
「今日は欠伸の話禁止」
『勝手に禁止しないで』
重くなりかけていた研究室の空気が少し緩んだ。
アリシアは飲み物を口にしながら、中央机の三本線を見る。
左端は決まっている。
入力開始。
右端だけがまだ空白だ。
「終わりを決めるのって、始めるより大変なんだね」
何気なく言う。
副学院長が少し考えてから答えた。
「研究に限らず、そういうことはあります」
「授業も?」
「私は授業を延長しすぎて生徒に嫌がられたことがあります」
「副学院長でも?」
「ありますよ」
「何分?」
「それは秘密です」
「長かったんだ」
「休憩は終わりです」
「逃げた」
アリシアは笑いながら席へ戻った。
◇
休憩後、ようやく具体的な時間候補が示された。
ただし、それは一つではない。
三つだった。
「また候補」
アリシアが呟く。
「比較せずに決める方が危険です」
「分かってる」
一番短い案。
既知の西側最遅時間窓の後端を、装置側の不確実性を含めても一定の余裕を持って越える。
中間案。
そこからさらに標準的な安全観測区間を追加する。
一番長い案。
装置が安定運用できる範囲をかなり広く使う。
「長いのが一番いっぱい見られる」
「はい」
「でも私の負担も一番大きい」
「はい」
「短いのでも、今まで確認された西側の一番遅いところは越える」
「十分な余裕を含めて越えるよう設計しています」
「じゃあ、長いのを選ぶ理由は“もっと遅い未知の反応があるかもしれない”?」
「主にはそうなります」
「それって、どこまで行っても終わらないよね」
室内が静かになる。
アリシアは紙を見たまま続けた。
「もっと遅いかもしれないって言ったら、その長い案より後かもしれない。さらに長くしても、その後かもしれない」
「そうです」
「だったら、今回の問いに必要なところで止める方がいい?」
「その考え方が重要です」
「今回の問いは、三領域の確認判定が一致するか」
「はい」
「今まで対象反応として確認されてきた時間帯をちゃんと覆って、それより先にも余裕を取る。それで出なかったら、“今回決めた観測区間では非確認”」
「はい」
「“絶対に何も起きなかった”にはしない」
「その通りです」
アリシアは一番長い案から目を離した。
「じゃあ、長いのはいらない気がする」
「理由は?」
「知らないものを全部捕まえるためなら終われないから。今回は、今まで対象反応として扱ってる範囲を、余裕込みでちゃんと見たい」
学院長が頷く。
「私も同意します」
「短い案と中間案は?」
今度はサーラが資料を見る。
「主観観測負荷だけなら、どちらも過去の無理なく継続できた範囲内です。ただし中間案の方が、一般状態確認を一度入れる意味があります。短い案では、確認直後に終了時刻が近くなります」
「じゃあ質問するなら中間?」
「それだけで選ぶわけではありませんが、運用上は中間案の方が自然です」
装置担当も続ける。
「東西計測器とも、中間案までなら安定性に問題ありません。長い案も技術的には可能ですが、校正ずれの補正幅が少し増えます」
「だったら中間?」
アリシアはすぐには決めず、三つを見比べた。
「短い方でも問いには答えられる?」
「現在の既知範囲を基準にすれば、一定の情報価値はあります」
「中間は?」
「既知の最遅窓からさらに余裕があり、三領域共通の観測区間としても扱いやすい」
「長いのは?」
「未知の遅延反応を拾う可能性は増えますが、今回の問いに対して必要以上の延長となる可能性があります」
アリシアは数秒黙った。
「中間がいい」
「理由を言えますか?」
「一番長いからじゃない。今までの対象反応の時間帯を越えて余裕がある。私の主観観測も過去の無理のない範囲。装置も安定してる。途中の安全確認も、終わる直前じゃなくてちゃんと意味がある位置に置ける」
「はい」
「あと、もっと後があるかもしれないって理由だけで延ばし続けない」
「十分です」
若い観測員が三本の線の右端へ、同じ位置で縦線を引いた。
初めて、三領域の線に終わりができた。
アリシアはその線を見た。
「決まった?」
「観測終了時刻の案として固定できます」
「案?」
思わず顔を上げる。
研究室に笑いが広がった。
「また案!」
「正式実施前の最終安全確認がありますから」
「それは分かるけど」
『今日中に世界の全部を正式決定したいの?』
「そうじゃない」
『じゃあいいでしょう』
「ノアは簡単に言う」
『私、刺激受けないもの』
その一言で、アリシアの表情が少し変わった。
「……うん」
ノアがこちらを見る。
『だから、あなたが納得して決めなさいってこと』
「分かってる」
『ならいい』
アリシアはもう一度、右端の線を見る。
誰かに決められた終わりではない。
長く取れるから長くしたのでもない。
早く試したいから短くしたのでもない。
何を知りたいか。
どこまでなら同じ方法で安全に見られるか。
その両方から選んだ終わりだった。
◇
続いて、試験中の一般状態確認を入れる時刻も固定した。
入力開始を基準にした一定時刻。
対象反応が出たかどうかにかかわらず実施する。
質問文も固定する。
痛み、息苦しさ、その他の継続困難があれば申告する。
恐怖についても、決めた聞き方で確認する。
ただし、アリシア自身からの申告はいつでも可能。
痛み一。
息苦しさ一。
それらは即時申告。
胸部冷感が安全基準へ達した場合も従来通り。
恐怖五で相談。
六で停止。
「変えないところ、多いね」
アリシアが言った。
「変える必要がないからです」
「新しい試験だからって、全部新しくしない」
「はい」
「入力も前にやった範囲」
「はい」
「質問もできるだけ同じ」
「はい」
「新しいのは、問いを先に一個決めたことと、観測終端を前よりはっきり決めたこと?」
「それから、アリシアさん自身が時間順序を以前より意識しているという研究環境上の変化を事前記録していることですね」
「あった」
「局所形状は?」
「明日以降、装置調整記録を使って測定法の検討を続けます。ただし、次回試験の実施条件にはしません」
「決まらなくても試験はできる」
「はい」
「もし試験前に決まったら?」
「その時点で追加項目とするか、別の確認用に保留するかを判断します。九枚の結果を見て都合よく決めることはしません」
「うん」
アリシアは大きく息を吐いた。
肩の力が抜ける。
「今日、結構決まった」
「残念さは?」
「ゼロ」
「試験日がまだ決まっていないことについては?」
アリシアはサーラを見る。
「……三」
『別勘定』
「いいでしょ」
また笑いが起きた。
◇
研究室を出た時には、風はほとんど止んでいた。
朝から揺れ続けていた木々も静かになり、雲の向こうには夕焼けの色が広がっている。
廊下を歩いている途中、前から友人がやってきた。
「あ、まだいた」
「うん。今終わった」
「研究?」
「そう」
「今日は決まった?」
「何が?」
「短くするやつ」
「それ昨日決まった」
「じゃあ今日は?」
「終わる時間」
友人が不思議そうな顔をする。
「研究って、終わる時間まで研究するの?」
「試験の観測をどこで終わるか」
「ああ」
「長く見ればいいってわけじゃないから」
「疲れるもんね」
「それもある」
「私、一時間目の光ずっと見てるだけで疲れた」
「私も」
「午後の花も」
「今日は見る授業多かったね」
「もう今日は何も見たくない」
「歩く時は前見て」
「それは見る」
二人で笑う。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
友人が階段の方へ向かう。
アリシアはその背中を見送ってから、正門へ向かった。
『普通に帰るの?』
ノアが尋ねる。
「何で?」
『試験日聞きに戻るかと思った』
「戻らないよ」
『本当に?』
「……ちょっと聞きたいけど」
『でしょうね』
「でも、まだ装置と安全の最終確認あるって言ってたから」
『待てる?』
「三くらい」
『数字で答えると思った』
「聞いたのノアじゃん」
アリシアは笑った。
◇
生活観測区画では、夕食の準備が始まっていた。
子供は共用室の机で、葉を入れた紙袋へ小さな印を描いている。
文字ではない。
細い葉の袋には細長い形。
丸い葉の袋には丸い形。
「分かりやすいね」
「うん」
「名前なくても分かる」
「こっち細い」
「うん」
「こっち丸い」
「うん」
子供は満足そうに二つの印を見比べた。
アリシアは隣へ座る。
「研究、終わった?」
「今日の分は」
「時間決めた?」
「決めた」
「長い?」
「前よりちゃんと長く見る。でも、できるだけ長くじゃない」
子供が首を傾げる。
「何で?」
「ずっと見てたら疲れるから。それに、どこまでも長くしたら終われないし」
「途中でやめる?」
「最初から、ここで終わるって決める」
「何もなくても?」
「うん」
「何かあったら?」
「危なかったらその前でも終わる」
「安全だから?」
「そう」
子供は少し考えた。
「じゃあ、終わるところ二つ?」
「二つ?」
「普通に終わるところと、危ない時に終わるところ」
アリシアは目を瞬かせた。
「……そうだね」
『子供の方が説明上手いじゃない』
ノアが後ろから言う。
「今のは分かりやすかっただけ」
『負け惜しみ』
「負けてないよ」
子供が笑う。
アリシアも笑った。
共用室の少し離れた場所では、顔のない存在が静かに座っている。職員が日常の観測記録をつけていたが、今日は誰も歩数の話を持ち出さなかった。
そのまま夕食になった。
研究の話も、木箱の話も、それ以上は続かなかった。
◇
夜、自室で二冊の手帳を机へ置いた。
学院生活用の手帳には、植物管理体験の日付。
研究用練習帳には、昨日決めた問い。
アリシアは後者を開き、その下へ今日のことを書く。
『観測を長くできることと、長くする必要があることは違う。』
少し考え、続ける。
『次回は、既知の対象反応時間帯を余裕を持って越え、三領域で共通して観測でき、私も無理なく同じ報告方法を続けられる終了時刻を事前固定する。もっと遅い何かがあるかもしれない、だけでは延ばし続けない。』
最後に、さらに短く一行。
『非確認なら、“決めた区間で非確認”。その後まで無かったとは言わない。』
筆を止めた。
これは、以前の無反応記録を見た時に覚えたことでもある。
記録が終わった後は、空白だ。
何も起きなかったと決めていい場所ではない。
だからこそ、今度は終わりを先に決める。
「ノア」
『何?』
「試験日、いつだと思う?」
『知らない』
「明日決まるかな」
『知らない』
「明後日?」
『知らない』
「その次?」
『知らない』
「全部知らない」
『昨日も似た会話したわね』
「したっけ」
『した』
アリシアは少し考え、笑った。
「じゃあやめる」
『珍しい』
「日が決まってから楽しみにする」
『もう楽しみにしてるでしょう』
「……それはそう」
否定できなかった。
早く新しい一枚が見たい。
三つとも確認されるのか。
三つとも確認されないのか。
それとも、これまでのまとまりを崩す一枚になるのか。
知りたい気持ちは強い。
けれど、今夜はその結果を頭の中で何度も作る必要はない。
問いは決めた。
観測の終わりも決めた。
安全確認の入れ方も形になった。
局所形状の測定法は、次の試験を止めずに別で検討する。
残っているのは、装置と安全の最終確認。
そして、実施日。
アリシアは研究用練習帳を閉じ、今度は学院生活用の手帳を開いた。
植物管理体験の日付の横へ、友人との集合時刻を書こうとして手が止まる。
「十分前……」
『十五分前じゃなかった?』
「聞いてたの?」
『昨日あれだけ話してたでしょう』
「ノアも忘れない係?」
『絶対嫌』
「じゃあ十分前」
『友達に怒られても知らないわよ』
「私が十五分前って言ったんだった」
『そうよ』
「……十五分前」
書き直す。
研究の観測終了時刻ほど難しくはない。
けれど、こちらも約束した時間は先に決めておいた方がいい。
「これなら遅れない」
『あなたが寝坊しなければね』
「しないよ」
『未来のことなのに言い切った』
「そこはいいの!」
ノアの尾が揺れる。
アリシアは笑いながら手帳を閉じた。
明日になれば、また未決定のものが一つ減るかもしれない。
あるいは、確認の途中で別の問題が見つかるかもしれない。
どちらでもいい、とまではまだ思えない。
できれば進んでほしい。
できれば早く次の一枚を見たい。
その気持ちは消えていなかった。
ただ、早く見たいから観測を短くする必要もなければ、不安だから際限なく長くする必要もない。
始める前に終わりを決める。
危険なら、その前でも止まる。
そして決めた終わりの向こう側については、知らないまま残す。
以前なら、その「知らない」が嫌だった。
今も好きではない。
けれど、知らない場所まで知ったふりをしないことが、次の一枚を大事にする方法なのだと分かり始めていた。
アリシアは灯りを落とした。
窓の外では、朝から吹き続けていた風がようやく静まり、枝葉の音もほとんど聞こえなくなっている。
今日一日続いていた風が、いつ止んだのか。
その正確な時刻を、アリシアは知らなかった。
けれど今夜は、それを確かめるために窓を開けようとは思わなかった。




