第222話 長すぎる問いを削ると、残したい言葉の方が見えてくる
翌朝、アリシアが生活観測区画の共用室へ入った時、最初に聞こえたのは紙の擦れる音だった。
窓の外には薄い雲が広がっていたものの、雨の気配はない。朝日だけが雲越しに柔らかく落ち、長机の上へ置かれた白い紙や木製の食器を淡く照らしている。昨日より風が弱いため、開けられた窓から入る空気も穏やかだった。
音の正体は、子供が二枚の紙を慎重に持ち上げているところだった。
昨日摘んだ葉を挟んだ紙である。
「おはよう」
「おはよう」
子供は挨拶を返すと、紙を少しだけ開いて中を確認した。
「まだ?」
「まだ湿ってる?」
「ちょっと」
「じゃあ、もう少しだね」
「今日、袋に入れない?」
「乾いてからの方がいいと思う」
子供は少し残念そうな顔をしたものの、すぐに紙を閉じた。
「待つ」
「うん」
それだけで会話は終わった。
アリシアも、それを研究へ結びつけようとはしなかった。
葉っぱは葉っぱだ。
乾くまで待つだけである。
食堂へ入ると、ノアはすでに窓辺にいた。前足を揃えて座り、外を歩く職員を眺めている。
「おはよう」
『おはよう』
「今日も研究」
『知ってる』
「昨日の続き」
『それも知ってる』
「今日は短くする」
ノアがようやくこちらを見た。
『何を?』
「次の試験の問い」
『髪?』
「何で髪なの」
『あなたが何を短くするのか主語を言わないからでしょう』
「昨日の話してたじゃん」
『昨日から今日まで、あなたが考えるものが一個しかないと思わないで』
アリシアは一瞬黙り、それから小さく笑った。
「それ、昨日の私に言ってほしかった」
『昨日も似たようなこと言った気がするけど』
「言ってないよ」
『じゃあ今言ったからいいでしょう』
朝食を受け取り、席へ着く。
パンと卵、それから野菜の入った温かなスープだった。昨夜のうちに今日の研究について考えすぎないようにしたつもりだったが、食事を始めると自然に昨日書いた一文が頭へ戻ってくる。
既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動を、事前に決めた長い観測時間と同じ報告方法で行った時、対象三反応が今回もまとまって確認または非確認になるかを見ること。
長い。
改めて思う。
「ノア」
『何?』
「やっぱり長いよね」
『何が?』
「問い」
『今度は分かった』
「昨日書いたやつ」
『長かったわね』
「どこ削ればいいと思う?」
『知らない』
「読んだじゃん」
『読んだからって、私が研究計画書の添削係になる理由はないでしょう』
「一個くらい」
『“既存安全範囲内”は問いじゃなくて条件じゃない?』
アリシアの匙が止まった。
「……添削してるじゃん」
『今のは独り言』
「私に向かって言ったよ」
『気のせい』
「絶対違う」
少し離れた席で朝食を取っていた職員が笑っている。
アリシアは気づいて頬を少し膨らませたが、以前のように恥ずかしさで黙り込むことはなかった。
それより、ノアの言葉の方が気になった。
問いと条件。
昨日は一つの文章へ全部入れようとした。
けれど、安全範囲も観測時間も報告方法も、「何を知りたいか」そのものではない。
「分ければいいのかな」
『何を?』
「問いと、試験の条件」
『さあ』
「今絶対分かってるでしょ」
『朝ご飯くらい普通に食べなさい』
「逃げた」
『スープ冷めるわよ』
確かに少し冷め始めていた。
アリシアは練習帳を取り出したい気持ちを抑え、食事へ戻った。
今日は午後に研究室へ行く。
それまで待てる。
◇
午前の授業は基礎魔術理論だった。
昨日の地理実習とは違い、今日は机へ向かって教本を読む時間が長い。教師が黒板へ三種類の簡単な術式を書き、それぞれの構造から不要な部分を探す課題を出した。
「ただし、消して動かなくなったら減点だ」
教師が言うと、教室のあちこちから笑いが起こった。
「それ当たり前じゃないですか」
前の方の男子生徒が声を上げる。
「毎年、見た目をきれいにしようとして必要な線まで消す者がいる」
「誰ですか、それ」
「去年の生徒だ。今年のお前たちが同じことをしない保証はない」
教室がまた笑う。
アリシアも教本へ目を落としながら口元を緩めた。
隣の友人が小声で言う。
「今日のアリシア得意そう」
「何で?」
「削るんでしょ」
「術式だよ」
「午後も何か削るって言ってなかった?」
「言ってない」
「朝、廊下で会った時、今日は短くするって」
「聞いてたの?」
「すれ違ったじゃん」
「ノアに言ったのに」
「声普通だったよ」
アリシアは少しだけ頬を赤くした。
「研究の問いを短くするだけ」
「また難しいことやってる」
「難しくしたの私かも」
「自分で?」
「全部一文に入れたから」
「じゃあ二文にすれば?」
「……それじゃ駄目なの」
「何で?」
「一個の問いにしたいから」
「でも二文でも一個のこと聞けるよ?」
アリシアは友人を見る。
友人はすでに課題の術式へ視線を戻していた。
研究のことを深く考えて言ったわけではないのだろう。
それでも少し引っかかった。
一文にすること自体が目的になっていないか。
学院長が昨日言ったのは、「次の試験で何を確認したいのかを一文で事前固定する」ということだった。
けれど、短ければ正しいわけでもない。
「アリシア」
「ん?」
「これ消せる?」
友人が術式の端を指した。
「たぶん駄目。そこ、こっちの線と繋がってる」
「危な」
「先生に減点されるよ」
「アリシアが止めたから大丈夫」
「自分でも見てよ」
「共同作業」
「課題は一人ずつだよ」
教師がこちらを向いた。
「そこ、共同作業ではないぞ」
「聞こえてた」
友人が小さく肩を竦め、周囲から笑いが漏れる。
アリシアも笑いながら、自分の術式へ戻った。
研究は午後。
今は必要な線を消さないことの方が大事だった。
◇
二時間目が終わった後、廊下の掲示板に新しい紙が貼られていた。
植物管理体験授業の参加者一覧だった。
「あった」
友人がすぐに見つける。
アリシアも横から覗く。
二人の名前が並んでいた。
「ちゃんと申し込めてる」
「アリシアが出したからね」
「一緒に出したでしょ」
「私はアリシアについてった」
「書類は自分で書いたじゃん」
「でも忘れない係がいたから」
「その係、正式じゃないよ」
「じゃあ今日から正式」
「勝手に決めないで」
掲示板の前には他にも数人の生徒が集まっている。
植物管理だけでなく、古文書整理、簡易治療補助、結界保守見学など、選択授業の体験日程が次々と決まり始めていた。
「植物管理、温室前集合だって」
「知ってる。昨日見た」
「集合十分前?」
「書いてあるね」
「じゃあ私、何分前に来ればいい?」
「十分前」
「忘れない係としては?」
「十五分前」
「厳しい」
「遅れそうだから」
「信頼ないなあ」
「昨日、自分で予定忘れるって言ってたじゃん」
「覚えてたの?」
「忘れない係だから」
言った瞬間、友人が笑った。
アリシアも自分で可笑しくなり、少し俯く。
「認めた」
「今のは違う」
「正式就任」
「してない」
近くにいた女子生徒が「仲いいね」と笑い、友人が当然のように「でしょ」と答えた。
アリシアは一瞬だけ目を瞬かせた。
けれど、その言葉を否定しようとは思わなかった。
「……うん」
小さく答える。
友人が少しだけこちらを見た。
何か特別なことを言うでもなく、そのまま「じゃあ十五分前ね」と話を続ける。
「十分前でいいよ」
「忘れない係が十五分って言った」
「正式じゃないってば」
アリシアの声は、さっきより少しだけ明るかった。
◇
昼食後、午後の授業を終えたアリシアは研究棟へ向かった。
空は朝より明るくなっていた。
雲の切れ間から午後の日差しが落ち、石造りの渡り廊下には柱の影が長く伸びている。風が通るたび、庭木の葉が重なって乾いた音を立てた。
研究室へ入る。
今日は中央の机に、昨日使った三枚の大紙は置かれていなかった。
代わりに、一枚の白紙。
その横に、昨日アリシアが最後に書いた長い文章を写した紙が一枚。
「晒されてる」
アリシアが立ち止まる。
若い観測員が首を傾げた。
「何がです?」
「私の長い文章」
「今日使いますから」
「分かってるけど、真ん中に置かれると恥ずかしい」
『昨日は自分で書いたのに』
「自分の練習帳にあるのと違うの」
「消しますか?」
副学院長が尋ねる。
アリシアは少し迷ってから首を振った。
「消さない。今日、短くするから」
「では、その前に状態確認をしましょう」
サーラの声で、研究へ入る。
身体疲労は二。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸部冷感なし。
恐怖は一。
参加希望は八。
「今日中に問いを決めたい気持ちは?」
「八」
「昨日より上がりましたね」
「昨日、候補まで決まったから」
「決まらなかった場合の残念さは?」
アリシアは少し考えた。
「五」
「昨日より高い」
「今日は決められそうな気がするから」
『そうやって自分で期待を上げるのね』
「悪い?」
『別に。決まらなくても紙を破らないなら』
「破らないよ」
「では、その言葉も記録しておきますか?」
若い観測員が冗談めかして言う。
「しなくていい!」
研究室に笑いが起こった。
アリシアも笑ったあと、中央の席へ座った。
◇
「まず、昨日の文章を読みましょう」
学院長に促され、アリシアが紙を読む。
「『第一候補は、既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動を、事前に決めた長い観測時間と同じ報告方法で行った時、対象三反応が今回もまとまって確認または非確認になるかを見ること。原因を一回で決める試験にはしない』」
読み終え、顔をしかめる。
「やっぱり長い」
「内容に問題があるとは限りません」
「でも問いがどこか分かりにくい」
「その通りです」
副学院長が白紙を三つの欄に分けた。
上から、
『問い』
『条件』
『解釈の制限』
「昨日の文章には、この三つが一緒に入っています」
アリシアは朝のノアの言葉を思い出した。
「やっぱり」
『何が?』
「朝、ノアが言ってた。既存安全範囲内って問いじゃなくて条件じゃないかって」
研究室の視線が一斉に窓辺のノアへ向いた。
ノアが耳をわずかに伏せる。
『何よ』
「優秀ですね」
若い観測員が言う。
『猫を研究員に数えないで』
「助手くらいなら」
『嫌』
「即答」
アリシアが笑う。
「じゃあ分けよう」
まず『条件』へ移した。
既存安全範囲内。
早い位置の意図的小変動。
既存と同じ主観報告方法。
十分な観測時間。
結果を見て途中で条件を変えない。
「最後のも条件?」
「運用規則ですね。広い意味ではこちらに置いて構いません」
「観測時間はまだ具体的に決まってない」
「今日は数値まで決めません」
「また残る」
「観測担当と装置担当で確認が必要です」
アリシアは不満そうに唇を尖らせたが、昨日ほど焦らなかった。
次に『解釈の制限』へ移す。
この一回だけで原因を決めない。
一回の反応確認・非確認だけで必要条件や十分条件を決めない。
事前に指定していない新しい特徴を、結果を見た後で「これが原因だった」と扱わない。
「三つ目、長い」
「意味は重要です」
「短くできる?」
副学院長が考える。
「『事後に見つけた特徴は探索候補として扱う』では?」
アリシアは少し考えた。
「分かる。でも私、あとで読んで“探索候補なら結構強い”って思わない?」
「思いそうですね」
「自分で言ったのに」
「なら、あなたが誤解しにくい言葉にしましょう」
アリシアは紙へ書いた。
『結果を見てから気づいた違いは、次に確かめる候補。今回の答えにはしない。』
「これ」
「良いと思います」
「長いけど分かる」
『あなたは短さより誤解しない方を選んだ方がいいわね』
「今は問いを短くする話」
『全部短くしなくていいでしょう』
その言葉に、アリシアの筆が止まる。
そうだ。
条件まで短くする必要はない。
解釈の制限も、必要なら長くていい。
短くしたいのは、中心にある問いだけだ。
「じゃあ……」
白紙の一番上を見る。
まだ空欄の『問い』。
「ここだけ」
「はい」
「何を聞くかだけ、短くする」
◇
最初の案は、昨日の候補Cをそのまま縮めた。
『次の意図的小変動でも、対象三反応はまとまって確認または非確認になるか。』
アリシアは書いた後、何度か読み返した。
「“次の”いる?」
「試験計画としてはなくても通じます」
若い観測員が答える。
「じゃあ消す」
消す。
『意図的小変動でも、対象三反応はまとまって確認または非確認になるか。』
「“でも”って何と比べてる?」
アリシアが自分で気づいた。
「過去の試験でしょうね」
「じゃあ、これだけ読んだ人には分かりにくい?」
「少し」
書き直す。
『既存範囲の意図的小変動に対し、対象三反応はまとまって確認または非確認になるか。』
「既存範囲は条件にある」
今度は魔導具教師が指摘する。
「あ、本当だ」
消す。
『意図的小変動に対し、対象三反応はまとまって確認または非確認になるか。』
アリシアは少し満足した顔になる。
「これ?」
学院長はすぐに肯定しなかった。
「“まとまって”とは、何を意味しますか?」
「三つ全部が出るか、三つ全部が出ないか」
「一つだけ出た場合は?」
「まとまらなかった」
「二つなら?」
「それもまとまらなかった」
「時間的に同時という意味は含みますか?」
「含まない」
即答した。
「時間窓は別。三つが同時に起きるって意味じゃない」
「では、その意味が問いから読み取れますか?」
アリシアは文章を見た。
「……ちょっと危ない」
「はい」
「“三反応の確認有無は一致するか”?」
書いてみる。
今度はサーラが首を傾げた。
「アリシアさんの主観反応を“有無”だけで扱うと、強さや内容を捨てるように見えませんか?」
「捨てないよ。記録は全部残す」
「なら、問いが対象としているのは?」
「対象反応の確認判定」
「そうですね」
アリシアは書き直す。
『意図的小変動後、東側奥部・私・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。』
室内が少し静かになる。
アリシアは読み返した。
「これなら、時間が同時って意味じゃない」
「はい」
「強さを捨てるわけでもない。細かい記録は残す」
「はい」
「三つ全部確認なら一致。三つ全部非確認でも一致。一つか二つだけなら不一致」
「その定義を条件書へ明記すれば、再現できます」
「……短くなった?」
ノアが窓辺から答える。
『昨日よりは』
「褒めて」
『意味が分かる』
「それ褒めてる?」
『かなり』
アリシアは少し笑った。
けれど、すぐに笑みが消える。
「待って」
「何か気づきましたか?」
「“意図的小変動後”って書いたら、東側奥部が小変動より前に何か変わってた場合は?」
副学院長の目が少し細くなる。
「良い指摘です」
「対象の追加低下は、小変動に対応してるかを見るんだよね。でも時間窓が重なるとか、始まりがはっきりしないこともある」
「はい」
「“後”って決めすぎ?」
「可能性があります」
アリシアは頭を抱えそうになった。
「また長くなる」
『言葉を短くするために現象を曲げたら本末転倒でしょう』
「分かってる」
消す。
しばらく白紙を見つめる。
研究室の誰も急かさない。
窓の外では、風が枝を揺らしている。
廊下を通る生徒たちの足音が一度近づき、遠ざかっていった。
アリシアは筆先を紙へ触れさせた。
『意図的小変動を含む試験で、東側奥部・私・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。』
「これなら?」
「かなり明確です」
「“私”でいい?」
サーラが微笑む。
「アリシアさんの計画書なら分かりますが、正式記録では『アリシアの対象感覚』としましょう」
「じゃあ正式にはそっち」
書き直す。
『意図的小変動を含む試験で、東側奥部・アリシアの対象感覚・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。』
長さは増えた。
けれど、昨日とは違う。
条件を全部詰め込んだ長さではない。
何を聞くのかを曖昧にしないための長さだった。
「……これ、好き」
アリシアが言った。
学院長が少し笑う。
「研究計画の問いに“好き”という評価をする人は珍しいですね」
「だって、昨日より分かる」
「では、“分かりやすい”で記録しますか?」
「好きでいい」
若い観測員が吹き出した。
「何で笑うの」
「いえ。そこは残すんだなと思いまして」
「研究の正式記録には書かないよ」
『書いたら面白いけどね』
「ノアまで」
◇
問いが形になったところで休憩に入った。
アリシアは立ち上がり、大きく伸びをする。
肩が少し固くなっていた。
「疲労は?」
サーラが尋ねる。
「三」
「休みましょう」
「うん」
廊下へ出ると、窓から差し込む光はさらに傾いていた。
飲み物を受け取り、今日は中庭へ出る。
研究棟の中庭は生徒の多い校舎側より静かで、石畳の間から小さな草が伸びている。中央には低い木が一本あり、その下に古い木製ベンチが置かれていた。
アリシアが座ると、ノアも隣へ飛び乗る。
「決まった」
『まだ正式じゃないでしょう』
「問いは決まった」
『条件は残ってる』
「観測時間」
『局所形状も』
「それは次の試験に入れるか決めるだけ」
『十分残ってるじゃない』
「でも、昨日より進んだ」
『それはそうね』
アリシアは飲み物を一口飲む。
「三つ一致してほしいと思う?」
『私に聞くの?』
「うん」
『別に』
「何で」
『一致しても不一致でも、あなたたちが騒ぐでしょう』
「騒がないよ」
『あなたは絶対騒ぐ』
「……ちょっとは」
『ほら』
「でも、一個だけ違ったらびっくりする」
『でしょうね』
「三つ全部出たら?」
『あなたが嬉しそうにする』
「全部出なかったら?」
『それでも嬉しそうにする可能性がある』
「何で?」
『新しい無反応が欲しいって言ってたじゃない』
アリシアは黙った。
確かにそうだ。
「じゃあ何が出ても嬉しい?」
『一つだけ違ったら一番騒ぎそう』
「……それも見たい」
『欲張り』
「知ってる」
少し笑ったあと、アリシアは膝の上で両手を組んだ。
「でも、問いを決めたから、どれが出ても“これが見たかった”って言わないようにできるかな」
『完全には無理じゃない?』
「無理?」
『人間なんだから、結果見て何か思うでしょう』
「じゃあ駄目じゃん」
『思うのと、記録を変えるのは別でしょう』
アリシアは横を見る。
ノアは前を向いたままだ。
「最近、研究員みたいなこと言うね」
『やめて』
「助手」
『もっと嫌』
「じゃあノア」
『最初からそうしなさい』
アリシアは笑った。
結果を見て嬉しいと思う。
残念だと思う。
驚く。
それは止めなくていい。
止めるべきなのは、その感情に合わせて問いの意味や記録の扱いを変えることだ。
そこを分ければいい。
◇
休憩後は、次の試験で局所形状を事前項目へ含めるかが議題になった。
魔導具教師が別の資料を持ってくる。
九枚の反応結果記録ではない。
装置の調整時に取られた基準記録だった。
「今日は反応確認・非確認の九記録を使いません」
「形の測り方だけ考えるから?」
「はい。結果を知っている九記録を見ながら“違って見える形”を探すと、その九記録に都合の良い測り方を作る危険があります」
「だから別の記録」
「装置調整時の波形なら、東西の対象反応とは関係なく取得されたものが多数あります」
机へ何枚か並べる。
アリシアは身を乗り出した。
細かな揺れがある。
同じくらいの高さでも、尖ったもの。
丸いもの。
片側が急で、戻りが緩いもの。
小さく揺れた後に、もう一度わずかに揺れるもの。
「いっぱい違う」
「そうですね」
「これを数字にする?」
「できるものもあります」
「例えば?」
魔導具教師は一枚を指した。
「立ち上がりと戻りの傾きの差。頂点付近に留まる時間。左右の非対称性。一定の幅を超えた区間の長さ。いくつか候補は作れます」
「全部?」
「全部を次の試験へ入れるつもりはありません」
アリシアは苦笑した。
「また私が全部って言うと思った?」
「少し」
「言おうとはした」
『ほら』
「まだ言ってない」
教師も笑い、それから真面目な表情へ戻る。
「重要なのは、装置調整記録だけを使って、誰が測っても同じ値になりやすい方法を先に決めることです」
「九枚は見ない」
「測定法を固定するまでは」
「固定した後なら?」
「九枚へ適用することはできます。ただし、その結果は探索的な整理として扱います。次の新規記録を独立した確認に使うなら、試験前に固定されていることが重要です」
アリシアは頷く。
「今日決められる?」
「難しいでしょう」
「また?」
「候補を一つか二つへ減らすところまでなら」
「次の試験、遠くなってない?」
「数日遅れる可能性はあります」
アリシアは口を閉じた。
嫌ではない。
でも、早く新しい記録が見たい気持ちはある。
「局所形状を入れずに先に試験することもできるんだよね」
「できます」
「入れるまで待つこともできる」
「はい」
「どっちがいい?」
学院長が逆に尋ねた。
「今回の問いに、局所形状は必要ですか?」
アリシアは中央に置かれた問いを見る。
『意図的小変動を含む試験で、東側奥部・アリシアの対象感覚・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。』
「……いらない」
ゆっくり答える。
「三つの確認判定が一致するかを見るだけなら、局所形状が測れなくても答えられる」
「はい」
「じゃあ次の試験のために待つ必要はない?」
「必須ではありません」
「でも、測れるようになってたら一緒に記録できる」
「そうです」
「それが欲しい」
「欲しいことと、必要なことを分けましょう」
「分かってる」
アリシアは唇を尖らせた。
「分かってるけど、欲しい」
『欲張り』
「今日何回目?」
『数えてない』
「じゃあ局所形状は別で進める。次の試験の日を決める条件にはしない」
言ってから、少し惜しそうに基準記録を見る。
「ただし、試験前に測定法がちゃんと決まったら入れる?」
「安全面や運用上の問題がなければ候補にできます」
「決まらなかったら入れない」
「はい」
「あとから次の記録だけ形を測って、九枚と比べたりしない?」
「測定法自体が固定されていれば、後から九枚へ同じ方法で適用することは可能です。ただし、何を根拠に何を主張するかは分けます」
「……そこはまた考える」
「今日はそれで十分です」
アリシアは基準記録から身体を離した。
見れば見るほど面白い。
だからこそ、今ここで九枚まで持ってきて比べたくなる。
けれど、今日はしない。
局所形状は局所形状。
次の試験の問いは、すでに別に決まった。
◇
最後に残ったのは観測時間だった。
ここでは、その場で具体的な終了時刻を決めなかった。
装置担当が東側と西側の記録容量を確認し、治療担当がアリシアの標準化された主観観測をどこまで無理なく続けられるかを検討する必要がある。
「西側は、既知の最も遅い反応時間帯より先まで取りたい」
アリシアが言う。
「その方向で検討します」
「どれくらい先?」
「今日ここで数字を決めると、装置側の制約を確認していないので危険です」
「分かった」
以前ならもう一度聞いていたかもしれない。
今日は一度で引いた。
「ただ、無反応だった時に“もっと後だったかも”ってすぐならないくらいは欲しい」
「完全に“もっと後”を消すことはできません」
「うん」
アリシアはすぐ頷いた。
「永遠には見られないから」
「そうです」
「だから、事前にどこまで見たら今回の非確認区間として十分とするか決める」
「はい」
「前の長い無反応記録より、絶対長くしなきゃ駄目?」
「必ずしもそうではありません。既知の陽性時間窓と、装置の安定運用、安全性、実務上の継続可能時間を見て決めます」
「長ければ長いほど強いわけじゃない?」
「情報は増える可能性がありますが、無制限に長くする意味はありません」
「私も疲れるし」
「それも重要です」
アリシアは自分の腕を見る。
人工刺激そのものだけでなく、その後ずっと身体感覚へ注意を向け続けることにも疲労はある。
「観測時間が長くなるなら、途中で疲労確認する?」
「それも検討します。ただし、その質問自体が主観報告へ影響しない形を考える必要があります」
「何でも影響するね」
「人を観測する以上、完全にゼロにはできません」
「私が研究に詳しくなったのも?」
「はい」
「昨日話したやつ」
「それも含めて、今後の記録条件です」
アリシアは少しだけ息を吐いた。
過去の自分へ戻れない。
だから、新しい自分のまま、できるだけ同じ方法を守る。
それでいい。
◇
研究終了時、中央の白紙には、昨日よりずっと整理された内容が残っていた。
問いは一つ。
条件は別。
解釈の制限も別。
未決定事項は、観測終了時刻の具体値と、局所形状測定法が試験前に固定できた場合に追加するかどうか。
そして、次回入力の第一候補は、既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動。
理由は、過去に反応したからでも、無反応だったからでもない。
小変動後の観測時間を確保しやすいから。
「正式決定?」
アリシアが尋ねる。
「問いについては、研究チーム内の第一案として固定してよいでしょう」
「第一案?」
「安全担当と治療担当の最終確認で、実施そのものに問題が出れば変更されます。ただし、結果を見て変えるわけではありません」
「まだ結果ないもんね」
「はい」
「入力も?」
「早い位置を第一候補とします。装置確認で問題がなければ採用する方向です」
アリシアはしばらく紙を見た。
「昨日よりいっぱい決まった」
「そうですね」
「残念さ、今は一」
「試験日が決まっていないことへの残念さは?」
サーラが尋ねる。
「……四」
室内に笑いが起きる。
「別だったんですね」
「別だよ」
『都合よく細かく分けるわね』
「感情は分けていいでしょ」
『研究の結果まで都合よく分けなきゃね』
「分かってる」
アリシアは笑いながら紙を見た。
今日は新しい波形を一つも見ていない。
それでも、次の一枚が何を答えるためのものなのかは、昨日より明確になった。
◇
生活観測区画へ戻った時には、空が薄い橙色に染まり始めていた。
庭の端で子供が職員と一緒に、朝の葉をもう一度確認している。
「乾いた?」
アリシアが近づく。
「まだちょっと」
「明日かな」
「たぶん」
子供は紙を閉じた。
「研究決まった?」
「昨日より決まった」
「刺激する?」
「まだ」
「まだ?」
「まだ」
子供は少し考えたあと、笑った。
「長い」
「うん。長いね」
「何決めた?」
「次に何を聞くか」
「一個?」
「一個」
「何?」
アリシアは答えようとして、正式な長い文章が頭へ浮かんだ。
けれど、子供へそのまま言う必要はない。
「東と私と西が、次も一緒に反応するか、一緒に反応しないか。それとも一つだけ違うのかを見る」
「違ったら?」
「すごく気になる」
「同じなら?」
「それも気になる」
「どっちでも?」
「うん」
「ずるい」
「何で?」
「どっちでも気になるから」
アリシアは笑った。
「研究だからいいの」
『便利な言葉ね』
後ろからノアの声がする。
「今日はちゃんと使ってるよ」
『どうだか』
◇
夕食後、子供は数字札を持ってきた。
「やる?」
「今日も?」
「うん」
「今度は負けないよ」
前回は何度か負けた。
今日はアリシアも本気で覚えるつもりだった。
札を裏返して並べる。
子供が二枚めくる。
外れ。
アリシアが二枚めくる。
こちらも外れ。
「そこ三だった」
「覚えてる?」
「うん」
「私も覚えた」
数巡後。
アリシアが自信満々に札をめくる。
七。
「こっちも七」
隣をめくる。
二。
「……違った」
子供が声を上げて笑った。
「そこ二!」
「分かってたの?」
「うん!」
「言わないでよ」
「遊びだから」
「それはそうだけど」
子供は次の番で七の組を取った。
「ずるい」
「何で?」
「私が教えたみたいになった」
「アリシアがめくった」
「そうだけど」
ノアが椅子の上で丸くなりながら言う。
『結果を見てから場所を覚えるのは、この遊びでは正しいわね』
アリシアはノアを見る。
「研究の話にしないで」
『私が?』
「今したじゃん」
『あなたが何でも研究に聞こえるだけじゃない?』
「絶対わざと」
子供が二人を見比べて笑っている。
その後は研究の話をしなかった。
アリシアはまた負けた。
◇
夜、自室へ戻る。
研究用練習帳を開く前に、学院生活用の手帳へ植物管理体験の日を確認した。
友人との約束。
十五分前。
「十分前でいいのに」
『何が?』
「植物管理」
『まだ言ってるの』
「友達が十五分前って」
『あなたが言ったんでしょう』
「忘れない係として聞かれたから」
『正式就任したの?』
「してない」
『じゃあ断れば』
「でも遅れそう」
『結局やるのね』
アリシアは手帳へ小さく印をつけた。
それから研究用練習帳を開く。
今日決まった問いを書く。
『意図的小変動を含む試験で、東側奥部・アリシアの対象感覚・西側の対象反応の確認判定は三領域で一致するか。』
その下に、条件を書こうとしてやめた。
正式な紙に残っている。
全部を自分の練習帳へ写す必要はない。
代わりに一行だけ書いた。
『問いを短くすることと、条件を削ることは同じではなかった。』
もう一行。
『残したいのは、次の一枚が何に答える一枚なのか。』
筆を置く。
昨日より短い。
それでいて、昨日より意味がはっきりしている。
次の試験日はまだ決まっていない。
観測終了時刻も具体値は未定。
局所形状の測定法も完成していない。
未決定は残っている。
それでも、今日決まったものまで未決定へ戻す必要はない。
「ノア」
『何?』
「明日、試験日決まるかな」
『知らない』
「決まってほしい」
『でしょうね』
「反応、出るかな」
『知らない』
「出ないかな」
『知らない』
「一個だけ違ったりするかな」
『知らない』
「全部知らないね」
『まだやってないんだから当然でしょう』
アリシアは笑った。
「うん」
知りたい。
だから試験をする。
その単純なところへ、少しだけ戻れた気がした。
ただし、以前とは違う。
何でも一度に知ろうとはしない。
問いを一つ決め、その問いに必要な条件を別に守り、結果を見た後で問いそのものを作り替えない。
次の一枚がどんな形になっても、まずは決めた問いへ答えてもらう。
そこから先の疑問は、その後でいい。
アリシアは練習帳を閉じた。
明日は、今日残った観測時間の具体化と安全確認が進むかもしれない。
進まないかもしれない。
けれど、今夜は昨日のように長い文章を抱えて眠る必要はなかった。
次の一枚に何を尋ねるのか。
その問いだけは、もう机の上に残っている。
削ったからこそ、消してはいけない言葉が見えるようになっていた。




