第221話 次の一枚に何を尋ねるか、それを決めるだけでも一日は足りない
翌朝、生活観測区画の食堂には、焼いたパンの匂いと温かなスープの湯気が満ちていた。
昨夜から空気が少し乾いたらしく、開けられた窓から入る風にも雨上がりの湿っぽさはほとんど残っていない。庭では朝の光を受けた草が明るく揺れ、遠くから鳥の声が途切れ途切れに聞こえていた。
アリシアはパンを一口食べたところで、向かいに座る子供がじっと自分を見ていることに気づいた。
「何?」
「今日、研究?」
「午後はね」
「刺激する?」
「しないよ」
昨日、学院長からはっきり言われている。次の人工刺激をいつ行うかは決まっておらず、その前に試験の目的や観測方法を整理する必要があった。
子供はスープの中へ匙を入れながら、少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、何する?」
「次に刺激する時、何を知りたいのか決める」
「まだ決まってない?」
「知りたいことはいっぱいある。でも、一回の試験で何を一番確かめたいのかは決まってない」
「いっぱいじゃ駄目?」
「全部一緒に聞くと、あとで何の答えだったのか分からなくなりそうだから」
言いながら、アリシア自身も昨日よりその意味を理解できている気がした。
記録する項目は複数あっていい。むしろ、すでに固定している項目は同じように残した方がいい。
けれど、「何を確かめるための試験なのか」まで何個も詰め込んでしまえば、結果を見た後で好きな問いだけ拾うことができる。
「一個だけ?」
「たぶん、一個」
「決めるの大変?」
「……結構」
アリシアが正直に答えると、窓辺の椅子で毛繕いをしていたノアが顔を上げた。
『昨日は新しい試験が楽しみって言ってたじゃない』
「今も楽しみだよ」
『その前の準備で困ってるのね』
「だって、知りたいこと多いんだもん」
『欲張り』
「昨日も言われた」
『じゃあ直ってないわね』
「一日で直す必要ある?」
『別に。あなたの場合、直したら研究しなくなりそうだし』
アリシアはパンを持ったままノアを見る。
「それ褒めてる?」
『半分くらい』
「残り半分は?」
『面倒くさいって言ってる』
「そっちの方が大きそう」
子供が笑った。
アリシアも少し頬を緩め、朝食へ戻る。
共用棚には、木箱が昨日と同じように置かれていた。布袋も近くにあるが、今朝は子供も触れていない。顔のない存在は少し離れた席で静かに食事を取り、職員が必要な範囲で様子を見ている。
研究をしない朝。
箱を開けない朝。
歩数を数えない朝。
それでも時間は普通に進んでいく。
アリシアはスープを飲みながら、今日の研究用練習帳をまだ鞄から出していないことに気づいた。
少し前なら、朝から候補を書き始めていたかもしれない。
今日は午後まで待てそうだった。
◇
学院へ着くと、一時間目の教室がいつもより少し騒がしかった。
原因は教卓の横に置かれた大きな箱だった。
木製の浅い箱の中に、細長い色付きの札が何十本も入っている。赤、青、黄、緑、白。長さも少しずつ違い、端には小さな数字が書かれていた。
「何あれ?」
席へ着いたアリシアが友人へ尋ねる。
「知らない。朝来たらあった」
「実習?」
「たぶん」
「魔術?」
「一時間目、地理だよ」
「地理であれ使うの?」
「だから知らないって」
教室のあちこちで同じような会話が交わされている。
やがて教師が入ってくると、生徒たちはそれぞれの席へ戻った。
「今日は地図を読む前に、距離の感覚を少し確かめてもらう」
教師が箱を持ち上げる。
「二人一組。札には実際の道の長さを縮めた値が書いてある。地図を見ず、まず札だけを使って『歩いて近い』『馬車なら近い』『日帰りは面倒』の三つへ分けろ。その後、地図上の地形を確認する」
教室がざわついた。
「距離だけで?」
誰かが尋ねる。
「最初はな。平地か山道か、橋があるか、川を渡るかは後で見る」
「絶対変わるじゃん」
「変わる。そのためにやる」
教師の返答に笑いが起こった。
アリシアは友人と一組になり、配られた十本の札を机へ並べた。
「これ近い」
友人が短い札を左へ置く。
「これは?」
「歩きたくない」
「距離で分けるんでしょ」
「私の気持ちも大事」
「課題ではいらないよ」
「厳しいなあ」
アリシアは笑いながら、数字を見て札を三つの群へ分けていく。
境目では少し迷った。
「これ、歩いて近い?」
「私は嫌」
「あなたの基準じゃなくて」
「じゃあアリシアは?」
「天気よかったら歩ける」
「それも気持ち入ってるじゃん」
「あ」
「ほら」
二人で顔を見合わせて笑う。
教師から「そこ、相談はいいが旅行計画を始めるなよ」と声が飛び、周囲の生徒まで笑った。
最初の分類を終えると、今度は地図が配られた。
そこで印象が変わった。
距離だけなら近い場所でも、間に急な丘がある。
少し遠い場所でも、整備された街道が一直線に通っている。
川沿いを大きく迂回しなければならない場所もあった。
「これ、さっき近いにしたけど面倒そう」
友人が札を指す。
「丘あるね」
「こっちは遠いけど馬車なら楽そう」
「道が太い」
「札だけじゃ分かんないじゃん」
「最初から先生そう言ってたよ」
「分かってるけど」
授業の後半、教師は各班の分類を見ながら、単純な直線距離だけで移動時間を決めないよう説明した。
アリシアは話を聞きながら、一度だけ午後の研究を思い出した。
一つの数字では分からない。
二つなら分かるとも限らない。
けれど、だからといって地図上の情報を全部適当に足して「一番当たりそうなもの」を選ぶわけでもない。
そこまで考えたところで、アリシアは首を小さく振った。
授業は授業だ。
研究へ何でも重ねる必要はない。
今は目の前の地図を読む。
「アリシア、次ここ」
「あ、ごめん」
「研究してた?」
「ちょっとだけ」
「先生に言う?」
「やめて」
友人が楽しそうに笑い、アリシアも地図へ顔を戻した。
◇
昼休みは食堂へ入れた。
今日は早めに教室を出たため、窓際の四人席が一つ空いている。アリシアと友人、それから午前の別授業で一緒になった二人の生徒が座り、昼食を広げた。
話題は、来月に予定されている学院内の小規模な展示週間だった。
「今年も魔導具研究科が変なの出すらしいよ」
男子生徒が言う。
「変なのって?」
「去年、自動で靴紐結ぶやつ出したらしい」
「便利じゃない?」
「一回結んだら固すぎて解けなかったって」
「駄目じゃん」
友人が吹き出す。
「今年は自動で本を閉じる道具とか?」
アリシアが言うと、女子生徒が首を傾げた。
「何で閉じるの?」
「寝た時」
「寝たら閉じなくてよくない?」
「顔に落ちるかもしれない」
「それ、本を持ったまま寝る人が悪いよ」
「ノアなら絶対そう言う」
「猫?」
「うん」
「猫が本読むの?」
「読まない。私に文句言うだけ」
アリシアが答えると、三人が笑った。
「相変わらず厳しい猫だね」
「すごく厳しいよ」
「でも一緒にいるじゃん」
「いるね」
その返事は、考えるより先に出た。
だからといって何か特別な気持ちを言葉にする必要はない。ノアが一緒にいることは、もう日常の一部だった。
昼休みが終わる鐘が鳴り、四人は食器を返却してそれぞれの教室へ戻った。
午後の研究まで、あと二時間。
アリシアはそれを数えなかった。
◇
放課後、研究室の扉を開けると、昨日とは机の様子が大きく違っていた。
九枚の記録はない。
特徴名を書いた札もない。
代わりに、中央へ三枚の大きな紙が置かれている。
一枚目には「入力について」。
二枚目には「入力を受ける前の状態について」。
三枚目には「下流三反応について」。
それだけだった。
「少ない」
アリシアが最初に言う。
「今日は減らすための話ですから」
副学院長が答えた。
「減らせる?」
「分かりません」
「そこは言い切ってほしかった」
『研究で都合よく安心させてもらおうとしない』
ノアがアリシアの足元を通り過ぎ、窓際へ向かう。
「まだ始まってないのに」
『始まる前から欲張ってるでしょう』
「今日は一個にするんだよ」
『できればね』
言い返そうとしたところで、サーラに呼ばれた。
まず状態確認を行う。
身体疲労は二。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸部冷感なし。
恐怖は一。
参加希望は八。
「次の試験を早く決めたい気持ちは?」
サーラが尋ねる。
アリシアは少し考えた。
「七」
「かなりありますね」
「刺激したいっていうより、何を聞くのか決めたい」
「それを今日中に決めたい?」
「できれば」
「決まらなかった場合の残念さは?」
「今なら四くらい。でも、夕方になったら上がるかも」
若い観測員が笑いをこらえる。
「何?」
「いえ。先の残念さまで予測するようになったなと」
「予測しちゃ駄目?」
「駄目ではありません」
「じゃあ笑わないでよ」
「すみません」
謝っているが、まだ少し笑っている。
アリシアもつられて口元を緩めた。
学院長が三枚の紙を指した。
「昨日、次の新規記録を得る前に、何を確認したい試験なのかを一文で書くと決めました」
「うん」
「今日は、その一文の候補を作ります」
「候補?」
「最初から一つへ決めようとすると、今ある疑問を無理に押し込める可能性があります。まず、現在何を知りたいのかを分けましょう」
アリシアは三枚の紙を見る。
「いっぱい書いて、最後に一個?」
「必ず今日一つへ絞るとは約束しません」
「……やっぱり」
「その顔をすると思いました」
「分かってたなら一個にしてよ」
『そういうところよ』
ノアの声が窓際から飛んできた。
◇
最初に扱ったのは、「入力について」と書かれた紙だった。
学院長がアリシアへ筆を渡す。
「今、入力について何を知りたいですか?」
「意図的な小変動がある時に反応しやすいのか」
アリシアはすぐ答えた。
「もう少し正確に」
「滑らかな十呼吸では今まで三回とも対象の三反応が出てなくて、意図的小変動を入れた制御試験では八回のうち六回は三つが一緒に確認されて、二回は確認されなかった」
「そこから何を尋ねたい?」
「……小変動が必要なのか?」
書こうとして、手が止まる。
「でも、それは今の記録だけじゃ分かんない」
「なぜですか?」
「滑らかな方で出てないから、関係ありそうではある。でも小変動を入れても二回出てないから、小変動だけで十分じゃない」
「はい」
「必要かどうかを確かめるなら……同じような状態で、小変動ありとなしを比べたい?」
言ってから、アリシアは眉を寄せた。
「でも“同じような状態”が作れない」
東側奥部の事前状態は学院側が操作しているわけではない。
平均傾斜も、ばらつきも、自然揺れも、観測しているだけだ。
「そうですね」
「じゃあ次の一回だけで“小変動が必要か”は聞けない」
「少なくとも、一回で決着させる問いとしては大きすぎます」
アリシアは紙へ書いた。
『候補A:意図的小変動の存在は対象三反応に必要なのか』
その横へ、自分で小さく書き足す。
『一回では大きすぎる。』
「消さない?」
「消す必要はありません。長期的な問いとして残しましょう」
アリシアは頷いた。
次に浮かんだのは、小変動を置く位置だった。
「早いか遅いか」
「現在の記録では?」
「どっちにも反応ありとなしがある」
「では次の一回で何を聞きますか?」
「……早い方をもう一回?」
「なぜ早い方ですか?」
アリシアは口を閉じた。
理由を探す。
安全性。
情報量。
過去の数。
けれど最初に頭へ浮かんだ本当の理由は、早い位置の無反応例が一つあるからだった。
「無反応だったのが気になるから」
「それは感情として記録できます」
「試験条件を選ぶ理由としては弱い?」
「単独ではそうですね」
「じゃあ遅い方でも同じだ。そっちにも無反応あるし」
アリシアは筆の柄を指で転がした。
「選べない」
「今はそれで構いません」
「もう候補一個目から決まらない」
『今日一日で足りないんじゃない?』
「まだ始まったばっかり!」
◇
二枚目は「入力を受ける前の状態について」。
ここでは、さらに時間がかかった。
東側奥部の入力前平均傾斜。
ばらつき。
自然揺れの回数。
振幅。
そして、測定法を固定したばかりの間隔。
どれも、反応確認と非確認を単純には分けなかった。
けれど、それで「事前状態は関係ない」とは言えない。
「これが一番気になる」
アリシアが言った。
「どれですか?」
「一個じゃなくて、“受ける前の状態”そのもの」
「広いですね」
「分かってる」
少し悔しそうに答える。
「入力が同じくらいでも、出る時と出ない時があるなら、受ける側が違うのかもしれないって思う」
「可能性の一つですね」
「でも、今測ってる数字では分かれてない」
「はい」
「じゃあ、まだ測ってない違いがある?」
「可能性はあります」
「局所形状?」
「それも候補です」
アリシアの視線が少し強くなる。
以前から残っていたものだ。
自然揺れを回数や振幅だけでなく、その一つ一つの形として見る。
ただし、どの形をどう数字へするかはまだ固定されていない。
「次の試験までに局所形状の測り方を決めたい」
「なぜですか?」
「受ける前の状態を、今より細かく見たいから」
「九枚を分けるためではなく?」
質問され、アリシアはすぐには答えなかった。
「……両方ある」
正直に言う。
「九枚で違いが出るかもって思ってる。だから気になる。でも、それだけじゃなくて、今の平均とか回数だけだと、同じ数字でも波の形が違うことがあるから」
魔導具教師が初めて少し身を乗り出した。
「後半は、測定項目を検討する理由として成立します」
「同じ回数、同じくらいの振幅でも形が違う?」
「あります」
「じゃあ形を見る意味はある?」
「あります。ただし、“どの形が反応を起こすか”を九例から探すことと、“形を再現可能に記述する方法を作ること”は分ける必要があります」
「昨日までと同じだね」
「はい」
「だったら、次の試験の問いを決める前に、局所形状の測り方を作る?」
副学院長が答える。
「それが本当に次試験へ必要かを先に判断しましょう。測定法の固定に何日も必要なら、局所形状を入れずに行う試験にも価値があるかもしれません」
「入れないまま試験したら、あとで“形を見ればよかった”ってならない?」
「なる可能性はあります」
「嫌だ」
「だからといって、思いつく項目をすべて完成させるまで一度も新規記録を取らないという方針にも問題があります」
「何で?」
「新しい疑問は今後も増えるからです」
アリシアは言葉を失った。
確かにそうだった。
一つ測れば、別の違いが気になる。
時間窓を作れば観測終端が気になった。
観測終端を整理すれば記録ごとの使える範囲が気になった。
九枚を同じ表へ置けば、新しい特徴を足したくなった。
自然揺れ間隔を測れば、今度は組み合わせたくなった。
「全部終わる日は来ない?」
『研究そのものを終わらせるなら来るんじゃない?』
ノアが答える。
「そういう意味じゃない」
『知ってる』
魔導具教師が苦笑しながら続けた。
「必要十分な観測計画を作ることと、考え得るすべてを測ることは違います」
「……じゃあ、局所形状は“入れたい”だけで決めない」
「はい」
「次の問いに必要なら先に決める。必要じゃなかったら、別で測定法を作ってもいい」
「その整理がよいでしょう」
アリシアは二枚目の紙へ書いた。
『候補B:入力前状態の違いが、同程度の意図的小変動への反応有無と関係するか。』
その下へ、小さく追記する。
『広すぎる。どの事前状態を事前指定するか必要。局所形状はまだ未固定。』
書き終えた時には、最初よりも候補が増えた気がした。
「減らす話だったよね?」
「はい」
「増えてない?」
「整理の途中ではよくあります」
「その言葉、便利だね」
『あなたの“確認”ほどじゃないわよ』
「まだ言うの?」
◇
三枚目の紙へ移る前に休憩となった。
研究室の外へ出ると、廊下は西日の色へ変わり始めていた。まだ下校時間には早く、遠くの教室から授業を終えた生徒たちの声が聞こえる。
アリシアは飲み物を受け取り、窓辺へ寄った。
ノアも後からついてくる。
「今日中に決まらない気がしてきた」
『朝からそう言われてたでしょう』
「でも、三枚しかなかったから」
『紙の枚数で簡単さ決めるのやめなさい』
「だって昨日より少なかった」
『中身は多いでしょうが』
アリシアは杯を両手で持つ。
温かい飲み物ではないのに、指を添えていると少し落ち着いた。
「私、次の試験で何が見たいんだろ」
『それを今やってるんでしょう』
「反応が出るところは見たい」
『うん』
「出なかったところも見たい」
『うん』
「東側が変わるかも見たいし、冷たくなるかも知りたいし、西側が出るかも知りたい」
『全部いつも記録するんでしょう?』
「そうなんだけど」
『じゃあ、それは“何を見るか”じゃなくて、“何を答えてほしいか”の話じゃない?』
アリシアはノアを見る。
黒猫は窓の外を見ていた。
「今、いいこと言った?」
『知らない』
「もう一回言って」
『嫌』
「何で」
『聞いてたでしょう』
アリシアは少し考えた。
三反応は全部記録する。
東側奥部。
自分。
西側。
それは次の試験でも変わらない。
だから「どれを見るか」を一つにする必要はない。
問われているのは、その一枚から何を判断したいのかだ。
「……分かったかも」
『休憩終わってから言いなさい』
「今言いたい」
『なら勝手にどうぞ』
「戻る」
『飲み物』
「あ」
半分残っていた。
ノアが呆れた顔をする。
「今のは研究のせい」
『何でも研究のせいにしない』
◇
休憩後、三枚目の「下流三反応について」へ移った。
アリシアは座るなり、先ほどのことを話した。
「三つ全部見るのは変えなくていいんだよね」
「はい」
「次の試験で一個にするのは、“何を記録するか”じゃなくて“何を確かめるか”」
「その通りです」
「じゃあ、三反応が一緒に出るかを確かめる?」
学院長がすぐには答えず、アリシアを見る。
「現在までの制御試験では?」
「意図的小変動で反応した六回は、東側奥部の追加低下と、私の弱い冷感か違和感と、西側の遅れた弱い波形がまとまって出てる。出なかった二回は三つとも確認されてない」
「滑らかな入力では?」
「三回とも三つとも確認されてない」
「では、“三反応が一緒に出るか”という問いは?」
アリシアは考える。
「今までの記録では、もうかなり見てる」
「はい」
「次の一回でまた三つ一緒だったら、例が一個増える」
「そうですね」
「でも、何で一緒になるかは分からない」
「はい」
「一個だけ違ったら、すごく大事」
「その可能性もあります」
アリシアは紙へ候補を書いた。
『候補C:次の安全範囲内の意図的小変動でも、対象三反応はまとまって確認/非確認になるか。』
書いてから首を傾げる。
「これ、問いとして弱い?」
「弱いというより、記述的ですね」
「記述的?」
「何が起きるかを同じ基準で記録する問いです。原因を直接試すものではありません」
「駄目?」
「いいえ」
副学院長が答えた。
「原因を一度に決める試験だけが価値ある試験ではありません。特に現在は、六例対二例という比較的小さな制御記録しかありません。事前に方法を固定した新しい記録を増やすこと自体に意味があります」
「じゃあ、これならできる?」
「できます。ただし、入力条件をどう選ぶかは別途必要です」
「早いか遅いか」
「はい」
「また戻った……」
アリシアは机へ額をつけそうになり、途中で止めた。
若い観測員が笑う。
「研究は円を描いているわけではありませんよ」
「同じところに戻ってる気がする」
「戻った時に持っている情報が増えています」
「それ、慰め?」
「半分くらいは」
「ノアと同じ言い方」
『真似しないでほしいわ』
室内に笑いが広がる。
アリシアも肩の力を抜いた。
◇
候補Cを残したまま、入力条件を考えた。
新しい強さは使わない。
新しい速度も使わない。
二重の小変動も使わない。
これまで安全に実施した条件から選ぶ。
「早いのと遅いの、どっちが多い?」
アリシアが尋ねる。
装置調整担当が資料を確認する。
ただし、ここでは結果ではなく実施回数だけを見る。
「完全に同数ではありませんが、どちらも反応確認例と非確認例があります」
「少ない方を増やす?」
「それは一つの選び方です」
「安全は?」
「これまでの範囲では、どちらも同じ停止基準の下で実施されています。明確に一方だけ安全性が高いという根拠はありません」
「じゃあ、比較しやすさ」
「そうですね」
魔導具教師が過去の入力設定表だけを開いた。
反応結果の欄は伏せる。
「装置側の再現性で見ると、どちらも許容範囲内です。ただし、早い位置の方が入力後の観測時間を長く確保しやすいという実務上の利点はあります」
アリシアの目が少し動いた。
「西側を長く見るなら?」
「入力開始を基準に同じ記録終了時刻を設定する場合、早い位置の方が小変動後の観測余裕は長くなります」
「それ、反応ありなしと関係ない理由だよね」
「はい。記録設計上の理由です」
「じゃあ早い方?」
言ったあと、すぐに決定とはしなかった。
「でも、遅い方を選ばない理由は?」
「遅い条件を排除する必要はありません。次回の一回について、観測余裕を重視するなら早い条件が合理的というだけです」
「次の一回だけ」
「はい」
「その次も早いって決めるわけじゃない」
「そうです」
アリシアは練習帳へ書いた。
『次回候補:既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動。理由は、反応結果ではなく、小変動後の観測時間を長く確保しやすいこと。』
書き終え、何度か読み返す。
「これ、ちゃんと理由になってる?」
「なっています」
「無反応だった一枚が気になるから、じゃない」
「はい」
少しだけ嬉しくなった。
けれど、その直後に別の疑問が浮かぶ。
「じゃあ、何を確かめる一文は候補C?」
「まだ決めません」
「ええ……」
思わず漏れた声に、研究室の何人かが笑った。
「何で?」
「候補Cは実行可能ですが、もう一つ考える価値のある問いがあります」
「増やすの?」
「候補を比較するためです」
「今日、減らす日だったよね?」
「最後に減らせれば問題ありません」
「本当に最後に減る?」
「約束はしません」
アリシアは椅子の背へ身体を預けた。
「今日中に決まらない方へ賭けたくなってきた」
『何を賭けるのよ』
「何もないけど」
『なら賭けじゃない』
◇
もう一つの問いは、学院長ではなくサーラから出た。
「アリシアさん自身の参加という点から考えてみませんか」
「私?」
「はい。次の試験で、アリシアさんにとって特に確認しておきたいことはありますか?」
「冷たくなるか?」
「それは結果ですね」
「……安全?」
「もう少し具体的に」
アリシアは考えた。
これまでの弱い冷感は、強い痛みや息苦しさを伴っていない。
それでも、人工刺激を行う以上、自分の感覚は安全管理の一部でもある。
「今までと同じくらいの弱い冷たさなら、ちゃんとすぐ言えるか」
「それは毎回確認していますね」
「じゃあ……」
しばらく答えが出ない。
サーラは急かさなかった。
「私、次に反応が出たら、時間を正確に言おうとしすぎるかも」
やがてアリシアが言った。
「どうしてそう思いますか?」
「時間窓をいっぱい見たから。前より“いつ始まったか”気にしてる」
室内の空気が少し変わった。
副学院長が手元の紙へ視線を落とす。
「重要ですね」
「前は、変だと思ったら言えばよかった。でも今は、早く言わなきゃとか、東側より前だったか後だったかとか、考えちゃうかもしれない」
「試験中に?」
「分かんない。でも、ありそう」
自分で言ってから、不安が少し出た。
恐怖ではない。
研究を知ったことで、自分の報告が変わってしまう可能性。
「それ、駄目?」
「駄目ではありません。むしろ事前に気づけたのは良いことです」
サーラが静かに答えた。
「次の試験では、アリシアさんに時間順序を当ててもらう必要はありません。これまで通り、何かを感じた時点で、その感覚をできるだけ自然に報告してください」
「早く言おうとしなくていい?」
「意図的に遅らせる必要も、早める必要もありません」
「東側が先か考えない?」
「考えなくて構いません。そもそも試験中、東側の結果は知らせません」
「西側も?」
「もちろんです」
アリシアは胸の前へ手を当てた。
冷たくはない。
「時間窓を勉強したせいで、報告変わったら嫌だな」
「完全に過去と同じ状態へ戻ることはできません」
学院長が言う。
「知識を忘れることはできませんから」
「じゃあ比較できなくなる?」
「そこまで単純ではありません。今後の記録では、アリシアさんが時間関係を意識していること自体も、研究環境の変化として認識しておく必要があります」
「でも、報告方法は変えない」
「はい。質問の順序、スタッフの位置、刺激条件を知らされる範囲など、維持できるものは維持します」
「私も、当てようとしない」
「それを“成功しなければならない課題”にはしないでください」
「……難しい」
「意識してしまったら、そのことを後で教えてください。それで十分です」
アリシアはゆっくり頷いた。
新しい一枚を取る。
それは、装置だけを同じにすれば過去と同じになるわけではない。
自分も変わっている。
研究を知った。
七枚の時間窓を見た。
無反応二枚の観測終端も知った。
西側が後ろ寄りに見えることも知っている。
その知識を消すことはできない。
「これも、試験前に書く?」
「はい」
アリシアは新しい行へ書いた。
『私は以前より時間関係を知っている。次の試験中、順番を当てようとしたり、報告を早めようとしたりする可能性がある。感じたものを感じた時に報告する。時間順序を当てることを課題にしない。意識してしまった場合は試験後に申告する。』
文字を見て、少しだけ安心した。
自分が変わったことまで、隠さなくていい。
◇
研究終了予定時刻が近づいた頃、机の上には三つの候補が残っていた。
一つ目は、意図的小変動が対象三反応に必要なのかという長期的な大きな問い。これは次の一回だけでは答えられない。
二つ目は、入力前状態の違いが同程度の小変動への反応有無に関係するかという問い。これも現状では「入力前状態」の指定が広すぎ、局所形状を含めるかも決まっていない。
三つ目は、既存安全範囲内の意図的小変動を、事前固定した観測方法と十分な観測時間の下でもう一度実施した時、対象三反応がまとまって確認または非確認となるかを見る問い。
アリシアは三枚を順番に見た。
「Cが一番できそう」
「私もそう考えます」
副学院長が答える。
「でも原因は分からない」
「一回で原因まで求めますか?」
アリシアは首を横へ振った。
「求めたいけど、求めない」
「違いは?」
「気持ちは欲しい。でも、試験には背負わせない」
言い終えてから、自分で少し驚いた。
以前なら、こんな言い方はしなかっただろう。
学院長が微笑んだ。
「では、候補Cを次回試験の第一候補として残しましょう」
「決定じゃない?」
「安全管理担当、装置担当、治療担当との最終確認がまだです。また、観測終了時刻を具体的に決める必要があります」
「今日決まらなかった」
アリシアは時計を見る。
朝に予想した通りだった。
「残念さは?」
サーラが尋ねる。
「……三」
「予想より低いですね」
「候補は決まったから」
少し考え、付け加える。
「あと、早い位置を選ぶ理由も、無反応だったからじゃなくて観測時間を取りやすいからって決められた」
「はい」
「だから三」
『夕方には上がる予想、外れたわね』
ノアが言う。
「外れてよかった」
『珍しいこと言うじゃない』
「予想は当てるためにするんじゃないでしょ」
『研究の話ならね』
「今のも研究の話」
研究室に小さな笑いが広がった。
その空気のまま、今日の作業は終了した。
人工刺激はない。
九枚の再解析もない。
新しい数値も一つも増えていない。
それでも、次の一枚へ向かう問いの輪郭は昨日よりずっと狭くなっていた。
◇
学院を出る頃には、夕方の風が少し冷たくなっていた。
アリシアは鞄を肩へ掛け直し、ノアと並んで正門へ向かう。
途中、掲示板の前で友人が手を振ってきた。
「アリシア!」
「どうしたの?」
「展示週間の参加一覧見てた」
「出るの?」
「見るだけ」
「参加じゃないじゃん」
「見学参加」
「それ普通に見に行く人だよ」
「アリシアも行こうよ」
「いつ?」
「まだ細かい日程出てない」
「じゃあ決められない」
「予定空いてたら」
「うん。それなら」
「猫も?」
「ノア?」
『勝手に人数へ入れないで』
足元から返事が飛ぶ。
友人が笑う。
「嫌だって」
「まだ日程も出てないよ」
『だから余計に決めないわよ』
「アリシアより慎重」
「ノア、こういう時だけ慎重なんだよ」
『こういう時だけって何よ』
数人の生徒がこちらを見て笑い、アリシアも自然に笑い返した。
友人と別れたあと、正門を出る。
夕方の街道には帰宅する学院生が何人も歩いていた。商店から夕食の準備らしい香ばしい匂いが流れ、遠くで荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
「ノア」
『何?』
「今日、一日足りなかったね」
『題名みたいに言わないで』
「題名?」
『何でもない』
「変なの」
アリシアは首を傾げたが、それ以上追及しなかった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は庭にいた。
昨日、紙へ挟んだ葉とは別の葉を見比べている。
「これ違う」
アリシアが近づくと、子供は二枚を見せた。
一枚は細長い。
もう一枚は丸い。
「違うね」
「同じ木じゃない」
「どこから取ったの?」
子供が庭の端と、窓の近くにある低木を指す。
「そりゃ違うよ」
「袋に入れていい?」
「乾かすなら」
「二枚とも?」
「自分の袋なんだから好きな方でいいんじゃない?」
「二枚」
「じゃあ二枚」
子供は満足そうに職員のところへ紙をもらいに行った。
アリシアはそれを見送り、共用室へ入る。
顔のない存在は窓際に座っていた。
今日は胸部の光について職員が記録している最中だったが、アリシアは覗き込まなかった。必要なら後で共有される。自分が毎回確認する必要はない。
木箱も棚の上にある。
何も変わっていないように見える。
それでよかった。
夕食前、子供が戻ってくる。
「研究、決まった?」
「半分くらい」
「半分?」
「次に何を聞くかの候補は決まった。でも、本当にそれで試験するかはまだ」
「刺激する日?」
「まだ決まってない」
「長い」
「私もそう思う」
「早くしたい?」
「したいよ」
アリシアは笑った。
「でも、今は待てる」
「どれくらい?」
「今日は数字にしない」
子供が目を丸くする。
「何で?」
「何でも数字にしなくていいって、昨日思ったから」
「じゃあ、すごく?」
「うーん……結構」
「結構したい?」
「結構したい」
子供が笑った。
アリシアも笑う。
『結局、言葉が変わっただけじゃない』
ノアが椅子へ飛び乗りながら言う。
「いいの。今日はこれで」
◇
その夜、アリシアは研究用練習帳を開いたものの、昨日までのように長く書き始めなかった。
今日すでに研究室で十分書いた。
候補A。
候補B。
候補C。
早い位置の意図的小変動を次回候補とする理由。
自分が以前より時間順序を意識していること。
全部残っている。
だから自室では、一つだけ書くことにした。
『次の一枚へ全部を聞かない。』
そこで筆を止める。
少し考え、その下へ続けた。
『第一候補は、既存安全範囲内の早い位置の意図的小変動を、事前に決めた長い観測時間と同じ報告方法で行った時、対象三反応が今回もまとまって確認または非確認になるかを見ること。原因を一回で決める試験にはしない。』
さらに小さく追記する。
『まだ正式決定ではない。安全・装置・治療側の確認、観測終了時刻の固定が必要。』
アリシアは筆を置いた。
「一文じゃなくなった」
『何が?』
「次の試験の問い」
『長いわね』
「明日短くする」
『明日もそれやるの?』
「たぶん」
『植物の授業は?』
「まだ先」
『残念』
「ノア、植物見たいの?」
『土の匂いは嫌いじゃないわ』
「来る?」
『気が向いたら』
「友達も来るよ」
『それが何?』
「別に」
アリシアは学院生活用の手帳も開き、植物管理体験の日付を確かめた。
研究。
授業。
友人との予定。
生活観測区画での夕食。
子供の葉。
ノア。
全部が同じ日にある。
研究だけが一日を埋めているわけではない。
それでも、明日になればまた次の一枚について考えるだろう。
今度は、候補を増やすためではない。
今日残った長い問いを、誰が読んでも同じ試験を想像できるところまで狭くするために。
人工刺激を行う日はまだ決まっていない。
局所形状を次の試験へ含めるかも決まっていない。
観測をどこまで続けるか、その具体的な時刻も決まっていない。
そして何より、次の一枚が反応確認側へ増えるのか、非確認側へ増えるのかは誰にも分からない。
アリシアはそこまで考え、練習帳を閉じた。
以前なら、その「分からない」が落ち着かなかった。
今も知りたい気持ちは強い。
早く見たい。
反応が出てほしい。
無反応の新しい一枚も欲しい。
矛盾した願いが胸の中に同時にある。
けれど、そのどちらかを次の試験へ押しつける必要はない。
次の一枚が答える問いだけを先に決めておけばいい。
その問いを一つにするだけで、今日一日は足りなかった。
なら、明日も続きを考えればいい。
急がないことは、止まることとは違う。
灯りを消す直前、アリシアは机の上に置いた二冊の手帳を見た。
どちらも明日へ続いている。
それが今夜は、不思議なくらい自然に思えた。




