第220話 九枚をきれいに分ける組み合わせを探さないなら、次に確かめる条件は結果を見る前に決める
朝の学院へ向かう道には、二日前まで降っていた雨の名残がまだ少しだけ残っていた。
石畳の隙間には細い水の筋があり、道沿いの植え込みでは、葉の先に残った雫が朝日を受けて光っている。空は昨日よりも青く、風も湿ってはいるものの冷たくはない。制服の上着を着たまま歩いていても暑さを感じるほどではなく、授業へ向かうにはちょうどいい朝だった。
アリシアは学院の門を抜けたところで、一度だけ鞄の横を触った。
研究用の練習帳は入っている。
昨日、最後に書いた一文も覚えていた。
一つずつの特徴で九枚がきれいに分かれなかったからといって、二つ、三つと好きに組み合わせて、最も都合よく分かれる形を探さない。
組み合わせるなら、先に理由を決める。
そこまではいい。
問題は、その「理由」をどう決めるのかだった。
「また難しい顔」
横から声をかけられ、アリシアは顔を上げた。
昨日、植物管理実習の体験へ申し込んだ友人が隣へ並んでいる。
「そんなにしてる?」
「してる。眉間がちょっとこうなってる」
友人が自分の眉間を指で寄せてみせる。
「そんな顔してないよ」
「してたよ」
「朝から?」
「今見つけたばっかりだから、その前は知らない」
「じゃあ朝からって言わないで」
「言ってないじゃん」
「……ほんとだ」
「アリシア、まだ寝てる?」
「起きてる」
二人で昇降口へ入る。
朝の学院には多くの生徒が集まり始めていた。靴を履き替える音、誰かを呼ぶ声、廊下を走りかけて教師に注意される一年生の声が重なり、静かな生活観測区画とはまるで違う賑やかさが広がっている。
友人が靴箱を閉じながら言った。
「植物の体験、来週だって」
「見た」
「手袋、学院の貸し出しあるって」
「じゃあ買わなくてよかったね」
「昨日ちょっと買おうか迷った」
「体験だけなのに?」
「形から入るの大事じゃない?」
「爪に土が入るの嫌だっただけでしょ」
「それも大事」
アリシアは笑いながら上履きへ足を入れた。
「何育てるんだろうね」
「説明には、鉢植えの状態確認って書いてあった」
「花?」
「分かんない」
「野菜だったら持って帰れるかな」
「体験一回で収穫まで行かないでしょ」
「じゃあ果物」
「もっと無理そう」
「夢がないなあ」
「植物管理の授業だよ?」
階段を上がる頃には、研究のことを考えていた眉間の力は抜けていた。
答えは午後に考えればいい。
今は授業がある。
最近は、それをわざわざ自分へ言い聞かせなくても、少しずつ切り替えられるようになっていた。
◇
二時間目は、基礎魔術実習だった。
今日の課題は、薄い木板の上に描かれた複数の魔法陣へ、指定された順番で一定量の魔力を流すことだった。強く流せばいいわけではなく、弱すぎても反応しない。隣接する陣へ余計な魔力を漏らさず、一つずつ淡く発光させるのが目的だった。
実習室の長机には三人ずつ座る。
アリシアの班は、普段よく話す友人ではなく、以前に救助実習で同じ班になった男子生徒と、別の女子生徒だった。
「俺、これ苦手なんだよな」
男子生徒が開始前から嫌そうな顔をする。
「まだやってないよ」
アリシアが言うと、向かいの女子生徒が笑った。
「前回、三個まとめて光らせてたからじゃない?」
「あれは魔力が元気だった」
「言い方変えても失敗は失敗だよ」
「元気すぎたんだって」
「今日も元気だったら離れていい?」
「アリシアまで!?」
近くの班からも笑い声が上がる。
担当教師がこちらを見た。
「元気なのは結構だが、机を壊すほど元気にするなよ」
「先生まで聞いてた!」
「声が大きい」
また笑いが広がった。
実習が始まると、さすがに三人とも真剣になる。
最初は女子生徒。
次がアリシア。
最後が男子生徒。
アリシアは掌から流す魔力を細く整え、一つ目の陣へ触れさせた。淡い光が輪郭をなぞり、隣へ漏れることなく消える。
二つ目。
三つ目。
途中で少しだけ出力が強くなったが、隣の陣が反応するほどではなかった。
「上手いな」
男子生徒が覗き込む。
「今ちょっと強かったよ」
「でも漏れてない」
「次は気をつける」
「真面目だなあ」
「三個光らせるよりいいでしょ」
「まだ言う?」
男子生徒が本当に三個まとめて光らせたのは、その数分後だった。
木板の上で三つの陣が一斉に明るくなり、周囲から歓声と笑いが起こる。
「ほら!」
アリシアが思わず声を上げる。
「違う、今のは二個半!」
「三個光ってるよ」
「端は薄い!」
「光ってるものは光ってる」
女子生徒まで加わり、男子生徒は机へ突っ伏した。
「俺の魔力、今日も元気だわ……」
「元気すぎ」
「次、弱くすればいいじゃん」
アリシアが笑いながら言うと、男子生徒は顔だけを上げた。
「アリシア、前より容赦なくない?」
「そう?」
「そう」
「じゃあ応援する。頑張って」
「急に雑!」
教師から「喋る余裕があるならもう一回やれ」と飛んできて、三人とも口を閉じた。
けれど、その後もしばらく笑いは残っていた。
◇
昼休み。
食堂は混んでいたため、アリシアたちは中庭に面した渡り廊下のベンチで昼食を取った。
雨上がりの庭では、用務員が倒れた細い枝を集めている。離れた芝生では数人の生徒が昼食を食べながら話しており、ときどき風に乗って笑い声が届いた。
「そういえば、植物の体験」
友人がパンをちぎりながら言う。
「さっきも話したよ」
「違う。集合場所」
「あ」
「温室前だって」
「教室じゃないんだ」
「危なかったね」
「まだ一週間あるよ」
「アリシア、教室行きそう」
「行かないよ」
「私は行くかも」
「じゃあ何で私に言ったの?」
「忘れない係」
「またそれ?」
向かいに座っていた別の女子生徒が首を傾げる。
「何の係?」
「私が予定忘れないようにアリシアが覚えておく係」
「勝手に作られた」
「大変だね」
「引き受けてないから」
「でも覚えてくれてる」
「今聞いたからでしょ」
三人で笑う。
アリシアは昼食を食べながら、ふと自分の鞄へ目を向けた。
午後の研究。
昨日残した問題。
九枚の記録を使って、どんな特徴の組み合わせを見てもよいのか。
考え始めれば、いくらでも候補が浮かびそうだった。
入力前の平均傾きと自然揺れの間隔。
自然揺れの回数と振幅。
入力の立ち上がり時間と復帰時間。
入力位置と東側奥部の事前状態。
いくつもある。
けれど、今ここで一人で候補を作り始めるのは違う気がした。
「アリシア?」
「ん?」
「また考えてた?」
「ちょっとだけ」
「研究?」
「うん」
「午後?」
「うん」
友人はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ今は食べなよ。午後お腹減るよ」
「食べてる」
「止まってた」
見ると、確かに手が止まっている。
アリシアは少し笑い、残っていたパンを口へ運んだ。
◇
午後の研究室には、昨日使った九枚の資料は出されていなかった。
机の上には大きな白紙が一枚。
その周囲に、これまで固定してきた比較項目の名前だけを書いた小さな札が並べられている。
入力側。
東側奥部の入力前状態。
自然揺れ。
時間関係。
それぞれがさらに分かれていた。
「九枚、今日は隠したんだ」
アリシアが鞄を置く。
「結果を見ながら組み合わせを選ばないためです」
副学院長が答える。
「昨日の数字も?」
「必要になるまで伏せます」
「私、覚えてるのあるよ」
「完全に忘れる必要はありません。ただ、机へ並べない方がよいでしょう」
「うん」
アリシアは席へ着く。
サーラによる状態確認を終えた。
身体疲労二。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸部冷感なし。
参加希望八。
焦り四。
昨日ほど「今すぐ数字を見たい」という感じは強くなかった。
代わりに、今日は別の興味がある。
「組み合わせ、どこまでなら見ていいか決めるんだよね」
「はい」
「一個ずつだと分かれなかったから」
「その言い方には少し注意しましょう」
魔導具教師が穏やかに返す。
「すべての項目が完全に無意味だったわけではありません。たとえば入力位置だけでは反応の有無を決められず、入力前平均傾斜だけでも決められず、自然揺れ間隔だけでも単純な境界は作れなかった、ということです」
「うん。だから二個なら?」
「そう考えたくなるところです」
「三個ならもっと」
「昨日も言っていましたね」
「夜も考えた」
『でしょうね』
ノアがアリシアの椅子の横から言う。
「でも、いっぱい試したらどれか当たりそうって思った」
「そこから始めましょう」
学院長が白紙の中央へ大きく書いた。
『組み合わせが増えるほど、“偶然きれいに見えるもの”も見つけやすくなる』
アリシアは文字を読む。
「偶然?」
「たとえば九人の生徒を二組に分ける方法を考えてみましょう」
「九人?」
「身長だけで分ける。髪の長さだけで分ける。誕生月だけで分ける。靴の大きさだけで分ける。好きな食べ物だけで分ける。さらに二つずつ組み合わせる」
「……いっぱいできる」
「三つならもっと増えます」
「でも、その中から一番きれいに五人と四人に分かれるやつを探したら、何か見つかりそう」
「そうですね」
「でも、その分け方が本当に大事とは限らない」
「その通りです」
アリシアは少し考えた。
「昨日の九枚でも同じ?」
「はい。記録数が多くないほど、特に注意が必要です」
「じゃあ、全部の組み合わせ試すのは駄目」
「少なくとも、“最もきれいに反応あり・なしを分けるものを探す”という目的で無制限に試すのは危険です」
アリシアは札を見る。
数はかなりある。
しかも、まだ正式な項目になっていない局所形状まで含めれば、さらに増える。
「じゃあ、理由がある組み合わせだけ」
「昨日の結論ですね」
「でも、その理由を今日決める」
「はい」
◇
最初にアリシアが選びたくなったのは、昨日測った自然揺れ間隔と、東側奥部の入力前平均傾斜だった。
「何でその二つ?」
副学院長に尋ねられる。
「無反応の一個は傾きが強かったし、間隔も気になってたから」
「もう一つの無反応例は?」
「傾きは比較的平らだった」
「では、その二つを組み合わせたい理由は?」
「……一個目に合いそうだから?」
口にした瞬間、アリシアは眉を寄せた。
「駄目だ」
「なぜ?」
「九枚の結果を知ってるから選んでる」
「はい」
「一個目の無反応を説明できそうな二つを持ってきただけ」
札へ伸ばしかけていた手を引く。
「これ、すごく簡単にやっちゃうね」
「そうですね」
「私、理由あると思ってた」
「完全に理由がないわけではありません。どちらも入力前状態に関係する観測です」
「でも、今選んだ理由の中に“一個目がそうだったから”が入ってる」
「そこに気づけたことは重要です」
アリシアは練習帳へ書く。
『組み合わせの理由が、現象の考え方から来ているのか、九枚の並びを知った後の都合から来ているのか分ける。』
「じゃあ、同じ種類のもの同士なら?」
「具体的には?」
「自然揺れの回数と振幅」
「なぜ?」
「前から一緒に測ってたから」
「それは一つの理由になります」
「同じ固定区間で、同じ自然揺れを見てる」
「はい」
「間隔もそこに入る?」
魔導具教師が少し考える。
「自然揺れという同じ現象群を記述する項目ではあります。ただし、間隔は昨日ようやく測定法を固定した新しい派生量です」
「じゃあ三個まとめて見たら?」
「何を知りたいのですか?」
「自然揺れの……全体?」
「“全体”ではまだ曖昧ですね」
「回数が多くて、振幅が大きくて、間隔が短いと……」
アリシアは途中で止まった。
「それって回数と間隔、似てない?」
「固定時間内であれば、ある程度関係します」
「いっぱい揺れたら、間隔短くなりやすい」
「はい」
「じゃあ別々の情報みたいに三個足すのも変かも」
若い観測員が頷いた。
「そこも重要です。同じ現象を別の数字で何度も数えているだけの場合、項目数が増えても独立した情報が増えたとは限りません」
「難しい……」
アリシアは札を見つめた。
「二個にすれば強くなるわけじゃないんだ」
「そうです」
「似た数字二個なら、一個を二回言ってるみたいになることもある」
「場合によっては」
『大声で二回言えば正しくなるわけじゃないのと同じね』
ノアが口を挟む。
「ノアの悪口は二回聞くと強く感じるよ」
『それは正しく伝わってるだけよ』
「ほら強い」
若い観測員が笑う。
重くなりかけた空気が少し緩んだ。
◇
次に札を動かしたのは、学院長だった。
入力側の「立ち上がり時間」と「復帰時間」を並べる。
「これは?」
アリシアが尋ねる。
「二つとも、意図的な小変動そのものの時間形状を表すため、以前から一組として記録してきました」
「九枚が分かれるからじゃなくて?」
「いいえ。反応の有無を比較する前から、入力側の再現性を確認する目的で使っています」
「じゃあ組み合わせてもいい?」
「少なくとも、組として見る理由は結果を見る前から存在しています」
「でも、これで反応ありなしを線引きしていい?」
「そこは別です」
「また別?」
「二つを同時に眺めることと、“この境界よりこちらなら反応する”という新しい判定線を九例へ合わせて引くことは違います」
「あ……」
アリシアは納得して札を見た。
「二個一緒に見るのはいい。でも、九枚がきれいに分かれるように斜めの線とか引いたら駄目?」
「少なくとも、その線を今回の九例だけから作って“反応条件”と呼ぶのは危険です」
「見つけるだけなら?」
「探索として記録することはできます。ただし、確かめたこととは分けなければなりません」
「探索……」
アリシアはその言葉を練習帳へ書いた。
「探すのと、確かめるのを分ける?」
「はい」
「今まで、そこちょっと混ざってたかも」
「候補を見つける作業自体が悪いわけではありません」
「でも見つけた九枚で、そのまま正しいって言わない」
「そうです」
アリシアは少し長く黙った。
古い参照記録から自然揺れ間隔が気になった時。
入力前の傾きが気になった時。
どちらも候補を見つけた。
その後、別の記録を見れば崩れたものもあった。
平らなら反応するわけではなかった。
早い位置なら反応するわけでも、遅い位置なら反応するわけでもなかった。
候補が出る。
確かめる。
崩れる。
それは失敗ではない。
「じゃあ、九枚で組み合わせを探すこと自体を全部禁止しなくてもいい?」
「はい。ただし、何をしているのか名前を間違えないことです」
「九枚で見つけた組み合わせは、九枚の中で見つけた候補」
「その通りです」
「それを確かめるには……」
アリシアはそこで止まった。
答えが分かった。
「別の記録がいる」
「はい」
「まだ見てないやつ」
「理想的には、候補を固定した後に得られる新しい記録です」
研究室が静かになった。
アリシアは学院長を見る。
「新しい試験?」
「可能性の一つです」
胸の奥が少しだけ動いた。
人工刺激。
しばらく行っていない。
最近は過去記録の整理が中心だった。
「今日やる?」
「やりません」
「分かってる」
『聞く前に分かってなさいよ』
「確認しただけ」
学院長も少し笑った。
「今日は新しい刺激条件も決めません」
「じゃあ何を決めるの?」
「九枚をこれ以上掘り続ける前に、探索と確認をどう分けるかです」
◇
そこからの話し合いは、数字をほとんど使わなかった。
机にあるのは札と白紙だけ。
アリシアは途中から、そのことが少し面白くなっていた。
九枚の結果を見ていないのに、次に九枚をどう扱うかを決めている。
「まず、結果を見る前から組として扱う理由があったもの」
アリシアが札を動かす。
「入力の立ち上がりと復帰」
「はい」
「自然揺れの回数と振幅も、前から同じ固定区間で一緒に記録してた」
「はい」
「平均傾きとばらつきも、東側奥部の入力前状態を見るために一緒に決めた」
「そうですね」
「この三組は、九枚を分けるために今作った組じゃない」
「はい」
「でも、この三組の中で境界線を新しく作るなら、それは九枚から作った候補になる」
「その整理でよいでしょう」
アリシアは三つの枠を白紙へ描いた。
次に、異なる種類をまたぐ組み合わせ。
入力の立ち上がり時間と東側奥部の平均傾き。
自然揺れ間隔と入力位置。
振幅と復帰時間。
作ろうと思えば、いくらでも作れる。
「これは全部やらない?」
「“全部試して最もきれいなものを採用する”ことはしません」
「じゃあ、理由があれば?」
「その理由を九枚の結果とは独立して説明できるなら、探索候補として検討する余地はあります」
「でも今、そんな理由ある?」
誰もすぐには答えなかった。
アリシアも考える。
東側奥部の入力前状態が、意図的な小変動を受けた後の反応しやすさに関係する可能性。
それ自体は以前から考えていた。
だから入力側の特徴と東側奥部の事前状態を一緒に見ることには、現象としての理由がないわけではない。
けれど、どの入力特徴とどの事前状態を組み合わせるのか。
そこから先は、急に選択肢が増える。
「“入力側と受ける側の状態が両方関係するかも”は前からある」
「はい」
「でも、立ち上がり時間と平均傾きだけって選ぶ理由はまだない」
「そうですね」
「復帰時間とばらつきでもいいかもしれない」
「はい」
「全部試したら、また一番きれいなの選びたくなる」
アリシアは両手を机の下で組んだ。
「じゃあ今は、異なる種類をまたぐ組み合わせは作らない方がいい?」
「私はそう考えます」
副学院長が答えた。
「少なくとも、現在の九例だけを使って原因候補を絞る目的では、自由度が高すぎます」
「学院長は?」
「同意します」
「先生は?」
魔導具教師も頷く。
「同じです。ただし、“今後ずっと見ない”ではありません。次の記録を取る前に仮説を限定できれば、その仮説に必要な組み合わせを事前に指定できます」
「次の記録を見る前」
「はい」
アリシアはその言葉を二度、頭の中で繰り返した。
◇
休憩を挟んだあと、ようやく昨日の九枚が机へ戻された。
ただし、全項目を自由に組み合わせるためではない。
結果を見る前から一組として扱っていた三つの組だけを、二次元の紙へ配置してみることになった。
最初は入力の立ち上がり時間と復帰時間。
横軸に立ち上がり。
縦軸に復帰。
一枚ずつ点を置く。
反応が確認された記録と、確認されなかった記録には異なる印を使う。
アリシアは最初の数点を見ながら息を詰めた。
「近い」
「はい」
無反応記録の一つの近くに、反応確認記録がある。
もう一つの無反応記録も、孤立した場所にはいない。
「これも分かれない」
「少なくとも、明瞭な二群には見えません」
次は入力前の平均傾斜とばらつき。
こちらも同じだった。
一つ目の無反応記録は傾きが強い側へ寄る。
だが、その近くには反応確認記録も存在する。
二つ目の無反応記録は比較的平らな側だが、そこにも反応確認記録がある。
「前に一個ずつ見た時と同じだね」
「二つ同時に見ても、少なくとも簡単な境界は見えませんね」
アリシアは少しだけ肩を落とした。
「二個にしたら急に分かれるかもって、ちょっと思ってた」
『昨日からずっとね』
「ノアは黙ってて」
『はいはい』
三組目。
自然揺れの回数と振幅。
ここでも、反応確認と非確認は入り混じった。
無反応二例だけが一角へ集まることはない。
アリシアは三枚の図を順番に眺めた。
「……きれいじゃない」
「そうですね」
「でも、線引こうと思えば引ける?」
若い観測員が少し困った顔をする。
「複雑な線なら、九点をかなり細かく避けて分けることはできるかもしれません」
「やらない?」
「やる理由がありますか?」
アリシアは首を横へ振った。
「ない。九枚を分けたいだけになる」
「はい」
「丸く囲むのも?」
「同じです」
「無反応二個を別々の小さい丸で囲んだら、絶対囲めるもんね」
室内に小さな笑いが起こった。
「それ、何も見つけてない」
「良い表現です」
学院長が言う。
アリシアも笑った。
少し残念ではある。
けれど昨日ほどではない。
二つ組み合わせれば何か出るかもしれないという期待はあった。
それでも、今日は最初から「きれいに分けるものを探さない」と決めていた。
だから、三枚の図が混ざったままでも、慌てて別の札へ手を伸ばさずに済んだ。
「残念さは?」
サーラが尋ねる。
「三」
「昨日より低いですね」
「今日は最初から、分けるためにやってないから」
「それでも少し残念?」
「うん。二個なら何か出るかもって思ってた」
アリシアは正直に答えた。
「でも、三くらい」
◇
そこで学院長が、三枚の図を机の端へ寄せた。
「ここからが今日の大事なところです」
アリシアが姿勢を正す。
「今ある九例から、これ以上自由に組み合わせを探索しない方針にするとします」
「うん」
「では、次に何をしますか?」
アリシアはすぐには答えなかった。
新しい記録。
さっきその言葉が出た。
「新しい試験をする?」
「候補です」
「でも、何を確かめるか決めてない」
「はい」
「じゃあ先にそれ」
「何を?」
アリシアは机の三枚の図を見る。
入力位置だけでは決まらなかった。
入力前の傾きだけでも決まらなかった。
自然揺れ間隔も単純な境界にはならなかった。
入力の立ち上がりと復帰を組にしても、二群へ分かれなかった。
平均傾斜とばらつきを一緒に見ても同じ。
回数と振幅も同じ。
「……新しい特徴を探す?」
言ってから、自分で迷う。
「それだとまた増える」
「そうですね」
「局所形状もまだ残ってる」
「はい」
「でも、それを見る前に……」
アリシアはしばらく黙った。
窓の外で風が木の枝を揺らす。
紙の端が少し浮き、若い観測員が重しを置いた。
「今の九枚って、過去の記録なんだよね」
「はい」
「反応ありかなしも、もう知ってる」
「はい」
「だから何見ても、あとから見つけた候補になる」
「その可能性があります」
「だったら、新しい試験をするなら、その前に見るもの全部決める?」
学院長が少しだけ目を細めた。
「詳しく言ってみてください」
「入力は今までの安全な範囲から変えない」
「はい」
「新しい強さとか、変な二回揺らすのとかしない」
「はい」
「観測時間は……前に無反応の一個で西側が途中で終わったから、今まで一番遅く反応した時間より先まで取る」
「それはすでに将来試験の候補として出ていましたね」
「うん。二個目の無反応ではそこまで見ても出なかったけど、次も最初から長く取る」
「はい」
「それで、入力前に見る項目も先に決める。平均傾き、ばらつき、自然揺れの回数、振幅、間隔……」
途中で止まる。
「多い?」
「多いこと自体が悪いわけではありません。すでに測定法が固定され、継続的に記録している項目なら、記録することには問題ありません」
「でも、その中から結果が出た後で一番当たったやつだけ選ばない」
「そうです」
「じゃあ全部残す」
「はい」
「それと、局所形状は?」
「まだ測定方法が固定されていません」
「じゃあ次の試験より前に決められたら入れる。決められなかったら入れない」
魔導具教師が頷いた。
「良いでしょう」
アリシアの声が少しずつ速くなる。
「あと、反応が出たら時間窓も同じ方法。出なかったら、三つの観測終端と共通区間を残す」
「はい」
「アリシアの報告方法も変えない」
「はい」
「スタッフの位置も、質問の順番も」
「これまでの標準化を維持します」
「……これなら、新しい一枚は九枚と違う?」
副学院長が答える。
「少なくとも、“結果を知った後で測るものを選んだ記録”にはなりません」
その言葉に、アリシアはしばらく黙った。
新しい一枚。
十枚目。
ただ数が一つ増えるだけではない。
何を見るか。
どこまで見るか。
どう測るか。
反応が出た時と出なかった時をどう記録するか。
それを先に決めてから得る記録。
「やりたい」
アリシアが言う。
すぐに続けた。
「でも、今日じゃない」
『成長したわね』
「それくらい分かるよ」
『前なら“明日?”って聞いてたでしょう』
「……明日は?」
研究室に笑いが広がった。
「聞いた!」
若い観測員が思わず声を上げる。
「確認!」
『便利な言葉ね』
アリシアは頬を赤くした。
「で、明日は?」
学院長は笑いを収めてから答えた。
「刺激試験は行いません」
「そっか」
「まず、次の試験を行う価値と安全条件、記録項目、観測時間を正式に整理します。局所形状を事前項目へ入れられるかも、その前に判断します」
「じゃあ、次は試験の前の準備」
「はい」
「いつやるかはまだ決めない?」
「まだです」
アリシアは少し残念そうに息を吐いた。
けれど、すぐに頷いた。
「分かった」
◇
その日の研究の最後に、白紙の中央へ一つの枠が作られた。
『次回以降の新規記録を取る前に固定するもの』
その下へ、皆で項目を書き込んでいく。
人工入力は既存の安全範囲内。
一日一条件。
入力条件を反応結果に応じて当日変更しない。
東側奥部の入力前状態は、既存の固定項目で記録する。
自然揺れの回数・振幅・間隔も、現在固定された方法で残す。
局所形状は、試験前に独立した測定法を固定できた場合のみ事前項目として追加する。
アリシアの主観報告方法は変更しない。
東側奥部、アリシア、西側の観測は、それぞれ十分な時間を確保する。
特に西側は、これまで確認された最も遅い反応時間帯より先まで記録する計画を立てる。
反応が確認された場合は既存の時間窓規則を使う。
確認されなかった場合は、各観測終端と三領域共通の観測区間をそのまま残す。
結果を見てから、特定記録だけ観測区間や測定規則を変えない。
そして最後。
『新しい記録が得られる前に、何を確認したい試験なのかを一文で書く』
アリシアはそこを長く見た。
「一文?」
「長い説明ではなく、その試験で何を確かめたいのかを先に固定します」
「まだ書かない?」
「今日は書きません」
「何で?」
「現在の候補が多いからです」
「じゃあ次に決める?」
「はい」
アリシアは練習帳へ同じ文を書いた。
「これ、難しそう」
「何がですか?」
「一個にするの」
「そうでしょうね」
「今知りたいこと、いっぱいある」
「だからこそ一回の試験へ全部背負わせない方がよいでしょう」
アリシアは頷いた。
一回で全部知ろうとしない。
以前から何度も言われてきた。
けれど今は、その意味が少し違って感じられる。
安全のためだけではない。
一つの記録へ質問を詰め込みすぎれば、結果を見た後で「これはこの理由だった」「あれも関係した」と好きな説明を作りやすくなる。
「一日一条件って、刺激を一個しか変えないだけじゃないんだね」
アリシアが言う。
「どういう意味ですか?」
「聞きたいことも、あんまりいっぱいにしない方がいい」
学院長がゆっくり頷いた。
「その考え方は大切ですね」
アリシアは少し嬉しくなった。
褒められたからだけではない。
今まで別々に見えていたものが、少しだけつながった気がしたからだ。
ただし、その「つながった」という感覚を研究結果にはしない。
それくらいはもう分かる。
◇
研究室を出た時、空は夕焼けに染まり始めていた。
廊下の窓から差し込む橙色の光が床を長く伸び、帰宅する生徒たちの影がその上を横切っていく。
アリシアはノアと一緒に階段を下りながら、今日の研究を思い返していた。
「結局、今日も原因分かんなかった」
『そうね』
「九枚も増えてない」
『そうね』
「でも次の一枚、ちょっと違うかも」
『まだ取ってないけどね』
「分かってる」
『しかも、いつ取るかも決まってない』
「分かってるって」
『ならいいけど』
「楽しみ」
『刺激試験が?』
「それもあるけど……先に決めてから見るのが」
ノアがアリシアを見上げる。
『前は逆だったのにね』
「何が?」
『早く見たい、早く試したいって言ってたでしょう』
「今も早く見たいよ」
『でしょうね』
「でも、見てから決めると面倒なのも分かった」
『研究が面倒なのは最初から分かってたでしょう』
「違う面倒」
『面倒に種類作らないでよ』
「あるよ」
アリシアは笑った。
階段を下りきったところで、朝の実習で同じ班だった男子生徒が前から歩いてきた。
「あ、アリシア」
「今日、三個光らせた人」
「第一声それ!?」
「二個半だっけ?」
「そう、二個半」
「三個だったよ」
「まだ言うのかよ!」
近くを歩いていた生徒たちが笑う。
男子生徒も最後には笑いながら手を振った。
「次は一個ずつやるからな!」
「頑張って」
「今度はちゃんと応援してる?」
「たぶん」
「たぶん!?」
その声を背中で聞きながら、アリシアは玄関へ向かった。
◇
生活観測区画では、子供が昨日作った布袋へ新しい物を増やしていた。
「今度は何?」
アリシアが覗き込む。
「葉っぱ」
「乾かしてからの方がよくない?」
「何で?」
「そのまま入れたら、しおれるかも」
子供が袋の中を見る。
「じゃあ出す」
すぐに取り出されたのは、小さな緑の葉だった。
「どこに置く?」
「紙に挟む?」
「本?」
「本は汚れるかもしれないから、いらない紙の方がいいかも」
職員が乾いた紙を二枚持ってきてくれた。
子供はその間へ葉を置き、上からそっと押さえた。
「明日入れる?」
「明日じゃまだ乾いてないと思う」
「いつ?」
「何日か?」
「長い」
「袋は逃げないよ」
言った瞬間、アリシアは少しだけ笑った。
「何?」
「何でもない」
研究の九枚と同じだ、とは言わなかった。
葉は葉。
袋は袋。
今日くらいはそれでよかった。
木箱は棚に置かれたままだった。
子供も開けたいとは言わない。
顔のない存在は共用机から少し離れた椅子へ座っていた。夕食前、一度だけ身体を前へ傾けたが、立ち上がらずに姿勢を戻す。
子供がそちらを見た。
「今日は歩かない?」
「今は歩いてないね」
「あとで歩く?」
「分かんない」
「歩かなかったら?」
「今日は歩かなかったって残るだけじゃない?」
子供は少し考えて頷いた。
「悪いじゃない?」
「歩かなかっただけで、悪いって決めない方がいいと思う」
「うん」
それ以上、二人とも顔のない存在へ期待するような視線を向けなかった。
◇
夕食後、アリシアは子供と簡単な札遊びをした。
数字の書かれた札を裏返し、同じ数字を探すだけの遊びだったが、子供は妙に強かった。
「また?」
「同じ」
「何で分かるの?」
「覚えた」
「私も覚えてるよ」
「でも違った」
「……次は勝つ」
『研究者が子供相手に本気になってるわよ』
「研究者じゃなくて今は遊んでるの」
『なら負けてもいいでしょう』
「嫌」
子供が笑う。
「アリシア、負けたくない?」
「負けたくない」
「どれくらい?」
「九」
『そこ数字にする必要ある?』
「聞かれたから!」
職員まで笑い始める。
二回目もアリシアが負けた。
三回目でようやく勝つと、思わず両手を上げそうになって途中で止めた。
「勝った」
「嬉しい?」
「八」
『だから数字にしなくていいって』
「もう癖なんだよ」
自分で言って、また笑った。
研究で数字を使う。
安全確認でも使う。
でも、全部の気持ちを数字にしなければならないわけではない。
「やっぱり、すごく嬉しい」
「八じゃない?」
「今日はこっちでいい」
子供は少し考えてから笑った。
「じゃあ、すごく悔しい」
「次やる?」
「やる」
四回目が始まった。
その夜は、木箱の紙も研究の波形も出てこなかった。
◇
自室へ戻ったアリシアは、机の灯りをつけた。
最初に学院生活用の手帳を開く。
植物管理体験の日。
温室前集合。
小さく書き足す。
友人が忘れそうだから、前日に言う。
「引き受けてるじゃない」
寝台へ上がったノアが言った。
「何を?」
『忘れない係』
「違う。私も行くから確認するだけ」
『同じじゃない』
「違うよ」
『好きにしなさい』
アリシアは手帳を閉じ、研究用の練習帳を開いた。
今日のページには、たくさんの札の名前と三つの図が写されている。
入力の立ち上がりと復帰。
東側奥部の平均傾斜とばらつき。
自然揺れの回数と振幅。
どれも二つ一緒に見た。
けれど、反応確認と非確認を簡単に分ける形にはならなかった。
その下へ、アリシアはゆっくり書く。
『九枚をきれいに分けるために、組み合わせを増やし続けない。九枚を見てから選んだ組み合わせは、見つけた候補として残すことはできても、それだけで確かめたことにはしない。』
少し間を空ける。
『次の新しい記録を取るなら、取る前に何を見るか、どう測るか、どこまで観測するか、何を確かめたいのかを決める。結果が出た後で、一番合う質問へ変えない。』
筆を止めた。
「ノア」
『今度は何?』
「次の試験、反応出ると思う?」
『知らない』
「出てほしい?」
『どっちでも』
「ほんとに?」
『反応が出たら出た記録が増える。出なかったら出なかった記録が増えるんでしょう?』
「うん」
『ならどっちでもいいじゃない』
アリシアは頬杖をついた。
「私は出てほしいかも」
『でしょうね』
「でも、出なかったのも見たい」
『欲張りね』
「だって二個しかないから」
『それは研究の話?』
「うん」
『なら好きに欲張りなさい。ただし一回で両方は無理でしょうけど』
「それは分かってる」
アリシアは練習帳の空白へ、最後にもう一つだけ書いた。
『今の希望。次の試験では反応が出てほしい気持ちもある。無反応の新しい記録も欲しい。どちらを強く望んでいるかはまだ決められない。試験の質問を決める時、この希望と混ぜない。』
書き終えると、肩から力を抜いた。
九枚を見続ければ、まだ何か見つかるかもしれない。
線を増やせば。
数字を組み合わせれば。
複雑な境界を引けば。
二つの無反応記録だけを囲う方法くらい、いつか作れるのかもしれない。
けれど、それが本当に六つ目や東西地下の仕組みに関係する線なのか、それとも九枚だけに合わせて作った線なのかは、同じ九枚を見続けるだけでは分からない。
だから、いったん手を離す。
答えがないから諦めるのではない。
次に得る一枚へ、今の九枚から作った都合のいい答えを押しつけないために。
窓の外では、雲の少ない夜空に星が広がっていた。
アリシアは灯りを落とし、寝台へ入る。
「明日は刺激しないんだよね」
『今日そう言ってたでしょう』
「分かってる」
『なら聞かない』
「確認」
『便利な言葉ね、本当に』
暗がりの中でアリシアは少し笑った。
次の一枚がいつ増えるのかは、まだ決まっていない。
反応が出るのかも分からない。
何を確かめる一枚にするのかさえ、まだ一文にはなっていない。
けれど、だからこそ今なら決められる。
結果を見る前に。
自分が欲しい答えを知る前に。
どんな記録が出ても、同じ問いとして受け取れるように。
九枚を無理にきれいな二組へ分ける作業は、今日でいったん止まった。
次に必要なのは、九枚の中から最も都合のいい線を見つけることではない。
まだ存在しない次の一枚へ、先に一つの問いを置くことだった。




