第219話 同じ物差しで九枚を測れたなら、分かれなかった結果もそのまま机に残す
翌朝、生活観測区画の窓から見える空は、昨日までの雨を忘れたように明るかった。
庭の土にはまだ濃い湿り気が残り、低い場所には小さな水たまりもある。けれど雲の切れ間は大きく、東から差し込む光が窓際の床を長く照らしていた。開けられた窓から入る風には、濡れた土と葉の匂いがわずかに混じっている。
アリシアが共用机へ近づくと、子供は昨日完成させた布袋を両手で持ち上げていた。
「増えた?」
挨拶より先に尋ねると、子供は得意そうに袋の口を開いた。
「三個」
「ノアの毛以外も?」
「うん」
机の上へ一つずつ出していく。
最初に出てきたのは黒い毛だった。
次に、小さな丸い石。
最後は、庭で拾ったらしい薄茶色の木の実だった。
「ちゃんと袋っぽくなったね」
「最初から袋」
「中身の話」
「昨日も袋だった」
「そこは譲らないんだ」
子供は真剣に頷いた。
窓辺で身体を丸めていたノアが片耳だけ動かす。
『私の毛を一番に出すのやめてくれない?』
「最初に入れたから」
『順番まで守らなくていいのよ』
「大事」
『何が?』
「最初」
『そう』
ノアはそれ以上争う気がないらしく、再び目を閉じた。
アリシアは椅子へ座り、自分の朝食が来るまでの間、子供が袋へ三つの物を戻すのを眺めた。
木箱は棚の上にある。
昨日と同じ場所だ。
紙に写した線も、その近くへまとめられている。
けれど子供はそちらへ手を伸ばさなかった。
「今日は箱やる?」
「まだ決めてない」
「袋は?」
「もうできた」
「じゃあ今日は何するの?」
子供は困ったように首を傾げた。
「まだ分かんない」
「そっか」
「アリシアは?」
「学校行って、午後は研究」
「今日は測る?」
その質問に、アリシアは一瞬だけ答えを止めた。
昨日の夜、自分でも同じことを考えていた。
数字が出てほしい。
九枚を測りたい。
けれど、その気持ちが測り方を決める理由になってはいけない。
「測れるところまで決まったら測る」
「決まらなかったら?」
「今日も測らない」
言ってから、胸の中を確かめる。
嫌だ。
できれば測りたい。
昨日よりも、その気持ちははっきりしている。
それでも口にした言葉を撤回したくなるほどではなかった。
「でも、今日は測りたい」
「どっち?」
「測りたい。でも、決まらなかったら測らない」
「難しい」
「うん。私もそう思う」
『朝から自分で難しくしてるだけでしょう』
ノアが目を閉じたまま言う。
「簡単にしたら駄目なところなんだよ」
『知ってるわよ』
「じゃあ言わないで」
『あなたが朝から難しい顔してるからよ』
アリシアは頬へ手を当てた。
「そんな顔してた?」
「してた」
子供まで即答した。
「二人ともひどい」
『二対一ね』
「研究じゃないから多数決していいの?」
『知らないわよ』
アリシアは笑い、運ばれてきた朝食へ手を伸ばした。
今日は測れるかもしれない。
測れないかもしれない。
どちらになっても、それを先に決めるのは九枚の結果ではない。
そのことだけは、朝のうちにもう一度自分の中へ置いておきたかった。
◇
午前の授業が二つ終わったあと、アリシアは友人と一緒に学院の購買へ向かっていた。
目的は特別なものではない。
友人の筆記具の替え芯がなくなっただけだった。
「昨日買えばよかった」
「昨日もなくなりそうって言ってなかった?」
「言った」
「何で買わなかったの?」
「帰る時には忘れてた」
「じゃあ今日も忘れるんじゃない?」
「だからアリシア連れてきた」
「私、何の役?」
「忘れない係」
「聞いてないよ」
「今頼んだ」
「断っていい?」
「もう購買の前」
「ずるい」
二人が話している間にも、生徒たちが購買へ出入りしている。
昼休み前なので混雑はしていないが、授業用の紙や筆記具を買いに来た生徒が数人並んでいた。
友人が替え芯を探している間、アリシアは棚の端に置かれた園芸用の小さな手袋へ目を留めた。
「あ、それ」
友人が気づく。
「植物管理の?」
「たぶん」
「買うの?」
「体験授業で必要って書いてなかったよ」
「じゃあいらないでしょ」
「見てるだけ」
「もう興味ある人みたい」
「興味あるから申し込んだんだよ」
「土、爪に入るよ」
「まだ言ってるの?」
「重要だから」
「手袋あるじゃん」
「……それなら少しだけいいかも」
「来れば?」
「体験、まだ空いてるかな」
「昨日は空いてたよ」
「あとで見る」
「今行けば?」
「替え芯買った後」
「忘れそう」
「忘れない係がいる」
「その役、引き受けてないからね」
友人は笑いながら替え芯を籠へ入れた。
結局、買い物を終えたあと二人で受付まで寄り、友人も植物管理の体験申込欄を確認した。
空きはまだある。
「……申し込んじゃおうかな」
「爪は?」
「手袋あるなら」
「それだけで決めるの?」
「体験なんだからいいじゃん」
「まあ、そうだけど」
友人が名前を書く。
アリシアは隣から覗き込んだ。
「本当に来るんだ」
「誘ったのアリシアでしょ」
「昨日は来ないって言ってた」
「昨日と今日で変わった」
「軽いなあ」
「選択授業の体験に人生かけてないもん」
「それはそう」
二人で笑いながら教室へ戻った。
その途中、アリシアは午後の研究を思い出した。
けれど、今すぐ練習帳を開きたいとは思わなかった。
午前は午前。
午後になれば、研究室へ行く。
そのくらいの距離が、今はちょうどよかった。
◇
午後。
研究室へ入ったアリシアが最初に見たのは、昨日と同じ三枚の基準記録だった。
九枚はまだ出ていない。
ただし、昨日とは少し違う。
三枚の横に、追加で五枚の短い波形記録が置かれていた。
「増えてる」
「昨日の方法候補を確認するための基準記録です」
装置調整担当が答える。
「全部、人工刺激なし?」
「はい。今回比較したい九例とは独立しています」
「反応ありとか無反応とかもない?」
「その分類を行うための記録ではありません」
アリシアは椅子へ座った。
学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、若い観測員、装置調整担当が揃っている。
ノアは今日は窓際の椅子へ飛び乗り、研究机から少し離れたところへ身体を丸めた。
「昨日の続きから?」
「はい。ただし、先にアリシアさんの状態を確認します」
サーラに促され、アリシアは自分の身体へ意識を向ける。
「身体疲労は一。頭痛なし。痛みなし。息苦しさなし。胸の冷たい感じもない」
「研究への参加希望は?」
「九」
「高いですね」
「今日は測れるかもしれないから」
「焦りは?」
昨日の自分を思い出す。
「五。数字を見たい気持ちは……八」
「昨日より上がりましたね」
「うん」
隠しても意味がない。
アリシアは少し照れながら続けた。
「でも、測り方が決まらなかったら九枚は開かないって、朝も言った」
「誰に?」
「子供とノア」
『私を証人扱いしないで』
窓際から声が飛んでくる。
「言ったでしょ?」
『言ってたわよ。難しい顔で』
「それまで言わなくていい」
室内に小さな笑いが広がった。
緊張が少し抜ける。
副学院長が机上の基準記録へ手を置いた。
「では、昨日の方法候補を確認しましょう」
◇
昨日残った案は、自然揺れを一つの局所変動として認定し、その変動全体について基準線からの離れ方を使った重み付き中心時刻を求めるというものだった。
単純な山なら、目で見た頂点の近くになる。
単純な谷でも同じ。
上と下が連続する複雑な形なら、「一番高いところ」や「一番低いところ」だけへ時刻を置かず、変動全体を一つとして扱える可能性がある。
問題は、その前段階だった。
どこからどこまでを「一つの局所変動」とするのか。
そこが人によって変われば、中心時刻を精密に計算しても意味が薄い。
「昨日の最低基準は変えないんだよね」
アリシアが確認する。
「はい。以前、入力前固定区間の自然揺れ回数と振幅を比較した際に使用した基準を出発点にします」
「小さすぎるノイズは数えない」
「そうです」
「区間も同じ」
「はい」
「区間の外からは足さない」
「その方針です」
アリシアは頷いた。
「じゃあ今日は、一個の揺れをどこまでってするか?」
「主にそこです」
魔導具教師が最初の基準記録を示した。
波形は緩やかに上がり、戻り、その後しばらくして小さく下へ振れている。
「これ、二個に見える」
「昨日の基準で認定すると?」
装置調整担当が数値を確認する。
「二つとも最低基準を超えています」
「じゃあ二個」
「ただし、最初の変動が基準線へ完全に戻りきる前に、次の変動が始まっているようにも見えます」
「……ほんとだ」
アリシアは紙へ顔を近づけた。
目でざっと見れば二つ。
けれど細かく見れば、一つ目の揺れが終わった場所ははっきりしない。
「完全に戻ったら別?」
「それは一案です」
「戻らなかったら全部一個?」
「そうすると、緩やかな基準変動の上に複数の揺れが乗った場合、一つの巨大な変動として扱う危険があります」
「じゃあ駄目だ」
「すぐに駄目と決める必要もありません」
「……今日もこれかあ」
『まだ面倒とは言ってないわね』
「言わせようとしないで」
ノアは尻尾の先だけ動かした。
アリシアは紙へ戻る。
「前に回数を数えた時は、どう分けたの?」
「そこが使えます」
魔導具教師が別紙を出した。
過去に固定した自然揺れの回数認定規則。
最低振幅だけではなく、一つの揺れとして数えた後、次の揺れを別個に認定するために必要な回復幅も定められていた。
「あったんだ」
「回数を比較した時に使っています」
「じゃあ新しく作らなくていい?」
「その可能性が高いです」
「何で昨日すぐ出さなかったの?」
「間隔測定にもそのまま適用できるかを確認する必要があったからです」
「同じ回数の規則なら使えそうなのに」
「“使えそう”と“使う”の間を昨日から確認しているんです」
アリシアは少しだけ口を尖らせた。
「分かってる」
それでも、胸の中では少し嬉しかった。
新しい規則を九枚に合わせて作らなくてもよいかもしれない。
すでに別の目的で固定された規則がある。
それなら、少なくとも「反応ありと無反応を分けるために揺れの切れ目を決めた」という問題は避けやすい。
◇
八枚の基準記録へ、既存の揺れ認定規則と昨日の重み付き中心案を適用した。
最初は装置調整担当が処理する。
次に若い観測員が、どの部分を一つの変動として認定するかを独立して確認する。
アリシアには途中結果を見せず、二人が別々に印を付けた。
「同じ?」
作業が終わると、アリシアは待ちきれずに尋ねた。
「八記録中、認定された変動の大部分は一致しています」
「大部分?」
「二か所だけ判断が分かれました」
「駄目?」
「確認しましょう」
二枚の紙が並べられる。
一つ目の不一致は、基準ぎりぎりの小さな揺れだった。
片方は認定。
片方は非認定。
「何で違ったの?」
「振幅そのものではなく、前の揺れからの回復幅を読む位置に差がありました」
「機械で決められない?」
「できます」
装置調整担当が答える。
「元の規則では目視補助を許容していましたが、今回は時間間隔を扱うため、ここを装置値で固定した方がよいでしょう」
「それ、新しい規則にならない?」
アリシアがすぐ尋ねる。
「良い質問です」
副学院長が答えた。
「完全な新規規則というより、既存規則の曖昧な部分を機械値へ置き換える案です。ただし、今回の九例へ適用する前に決める必要があります」
「今の八枚で決める?」
「可能です。九例とは独立していますから」
「じゃあ、どの値?」
「既存規則に書かれている回復幅そのものを使います。目で“だいたい戻った”と判断していた部分を、数値上その幅へ達したかで決めます」
「数字は変えない?」
「変えません」
「それならいいと思う」
「もう一つの不一致も見ましょう」
二つ目は複雑な波形だった。
上向きの変動から戻り、その直後に小さく下へ振れている。
若い観測員は一つ。
装置調整担当は二つとしていた。
「こっちは?」
「既存の回復幅規則を機械値で適用すると、一つです」
「じゃあ揃う?」
「はい」
アリシアは少し息を吐いた。
「よかった」
「何がよかったんですか?」
サーラが尋ねる。
「同じにできそうだから」
「九例が分かれそうだから、ではなく?」
「まだ九例見てないもん」
答えてから、自分で少し笑った。
「今なら、そっちは言えない」
「その通りです」
既存の最低振幅。
既存の回復幅。
既存の入力前固定区間。
区間外の揺れは足さない。
区間内で認定された各局所変動について、基準線からの変位量を用いた重み付き中心時刻を算出する。
隣接する認定変動の中心時刻差を、自然揺れの間隔として残す。
揺れが一つ以下なら、その記録では間隔値を作らない。
少ないからといって、区間を延ばさない。
方法が一つの形になった。
アリシアは板に書かれた手順を、最初から最後まで二度読んだ。
「これ、九枚見た後に変えない?」
「少なくとも今日の比較結果を理由には変えません」
「変えるとしたら?」
「方法そのものに明確な欠陥が見つかった場合は、その欠陥を記録した上で九例すべてへ同じ修正を適用する必要があります。ただし、都合の悪い結果が出たからという理由では変えません」
「うん」
アリシアは自分の練習帳へ大きく書いた。
『九枚を開く前。自然揺れ間隔の測定手順を固定。結果が分かれないからという理由では変更しない』
筆を止める。
胸が少し速くなっている。
「今、数字見たい気持ち九」
「上がりましたね」
「だって決まったから」
「焦りは?」
「六……かな」
「休憩しますか?」
アリシアは反射的に「まだ」と言いかけた。
けれど、一度口を閉じる。
「五分だけ」
学院長が頷いた。
「そうしましょう」
◇
休憩中、九枚は出されなかった。
アリシアは窓際へ移動し、ノアの隣へ立った。
外では、雨上がりの中庭を何人かの生徒が歩いている。水たまりを避けて大きく回る者もいれば、気にせず踏んで靴を濡らしている者もいた。
「九」
『聞こえてたわよ』
「高いよね」
『見たいんでしょう』
「うん」
『なら高いんじゃない?』
「結果、分かれてほしい」
『それも聞こえてたようなものね』
「言ってないよ」
『顔に書いてある』
「そんなに?」
『朝からずっと』
アリシアは窓へ映る自分の顔を見た。
別に「分かれてほしい」と文字が浮かんでいるわけではない。
「もし分かれたら、嬉しい」
『でしょうね』
「無反応の二枚だけ間隔が違ったら、すごく気になる」
『でしょうね』
「でも、分かれなかったら……」
そこで止まる。
ノアは続きを急かさなかった。
「たぶん、がっかりする」
『それで?』
「それだけ」
『なら別にいいじゃない』
「いいの?」
『がっかりしたら記録を書き換えるの?』
「しない」
『数字を捨てる?』
「しない」
『なら、がっかりくらい好きにしなさいよ』
アリシアは少し笑った。
「ノアって、たまに優しいよね」
『今のどこが?』
「がっかりしていいって言った」
『がっかりするなと言ったところで勝手にするでしょう』
「やっぱり優しくなかった」
『何を期待してるのよ』
五分はすぐに過ぎた。
研究机へ戻る前、アリシアは練習帳へ短く書き足した。
『見る前の希望。無反応側に違いが出てほしい。特に二例に共通する違いがあったら嬉しい。分かれなければ残念だと思う』
それを閉じてから、席へ戻った。
「いいです」
アリシアが言う。
「九枚、見たい」
◇
棚から資料束が運ばれた。
一枚ずつ。
机へ置かれていく。
すでに何度も見た記録ばかりなのに、今日は違って見えた。
時間窓を調べた時とも、無反応記録の観測終端を確認した時とも違う。
今日は入力前だけを見る。
入力後に何が起きたかは、測定処理を行う者へ見えないよう資料の後半部分が覆われた。
「そこまで隠すの?」
アリシアが少し驚く。
「できるなら、見えない方がよいでしょう」
副学院長が答える。
「誰が反応ありか分からないように?」
「処理中は、できる限り」
「私、形で分かるかも」
「なので、アリシアさんは測定処理には参加しません」
「えっ」
思わず声が出た。
「見るだけ?」
「処理結果が出てから確認してもらいます」
「私も数えたかった」
「反応有無を覚えているでしょう?」
「……覚えてる」
「なら今回は観察側です」
「決めたの私も一緒なのに」
『決めたからって全部自分でやる必要ないでしょう』
ノアが横から言う。
「分かってるけど」
少し不満はある。
けれど、理由も分かる。
「じゃあ、見ない」
アリシアは椅子を少し後ろへ引いた。
若い観測員と装置調整担当が、記録番号だけを付け替えた九枚へ同じ処理を適用していく。
入力前固定区間。
基準を満たす自然揺れ。
機械値で固定された回復幅。
重み付き中心。
隣接中心間の時間差。
処理は一枚ごとに進んだ。
アリシアは途中で何度も机を見たくなった。
しかし、見ても数字の意味はまだ分からない。
代わりに手元の練習帳の端を指で撫でる。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
時間がかかる。
以前なら、その時間が長く感じられただろう。
今日は別の意味で長かった。
方法を決めるまで二日かかった。
その二日を使って、ようやく今、数字が出ようとしている。
だから余計に、何かが見えてほしかった。
◇
九枚すべての処理が終わった時、窓から差し込む光の角度はかなり低くなっていた。
「終わった?」
「終わりました」
「見ていい?」
「まず、欠測があります」
アリシアの表情が止まった。
「欠測?」
「測れなかった?」
「正確には、固定区間内に基準を満たす自然揺れが一つしかなく、間隔を作れない記録があります」
「あ……」
昨日決めたことだった。
二つ以上なければ間隔は作れない。
少ないからといって区間を広げない。
「何枚?」
「二枚です」
アリシアは唇を結んだ。
「その二枚だけ、外を見たら……」
言いかけて止まる。
誰も何も言っていない。
それでも、自分で分かった。
「見ない」
「はい」
「昨日決めたから」
少し悔しい。
九枚全部へ数字が並ぶと思っていた。
けれど、手順を決めた時点で、こうなる可能性も聞いていた。
「二枚は“間隔なし”じゃないよね」
アリシアが確認する。
「重要です」
魔導具教師が頷く。
「自然揺れが存在しないという意味ではありません。固定区間内で、基準を満たす二つ以上の変動から間隔値を作れなかった、というだけです」
「数字ゼロにもならない?」
「なりません」
「空白?」
「欠測理由を記した上で、間隔値なしとします」
アリシアは練習帳へ書いた。
『二枚は間隔値を作れない。ゼロではない。揺れなしでもない。区間を広げない』
「じゃあ、残り七枚」
「見ますか?」
「見る」
◇
最初に見せられたのは、各記録の間隔値そのものだった。
一つの記録に複数の揺れがあれば、間隔も複数ある。
だから一枚につき一個の数字ではない。
短い間隔が二つ続くもの。
やや長いものが一つだけ取れるもの。
短いものと長いものが混じるもの。
アリシアは想像していた表と違うことに、まず戸惑った。
「平均にしないの?」
「できます。ただし、まず生の間隔を残します」
「前の時間窓と同じ?」
「全く同じではありませんが、元の情報を消さないという点は似ています」
七枚分の値が並ぶ。
まだどれがどの記録なのかは伏せられている。
「これだけだと分かんない」
「はい」
「結構重なってるね」
「そう見えますね」
短い間隔は複数の記録にある。
中くらいの間隔も複数にある。
長めの値を持つ記録も一つだけではない。
アリシアは少しずつ眉を寄せた。
もっと分かりやすい違いを期待していた。
「……分かれなさそう」
「まだ対応を開いていません」
「でも」
「予想としては残して構いません」
アリシアは黙った。
胸の中で、期待が少しずつしぼんでいく。
嫌な感じではない。
ただ、残念だった。
ようやく測れた。
二日かけて物差しを作った。
だから、その先に何か目立つものがあってほしかった。
「開けて」
アリシアが言った。
記録番号と元の資料の対応が戻される。
一枚。
また一枚。
アリシアは自分の記憶と照らし合わせる。
反応が確認された記録。
確認されなかった記録。
早い位置へ意図的な小変動を置いたもの。
遅い位置へ置いたもの。
過去から選ばれた比較可能な記録。
それぞれの位置が明らかになる。
そして――。
「……違う」
アリシアの声が小さくなった。
期待していた並びではなかった。
無反応側だけが短いわけではない。
長いわけでもない。
一方の無反応記録に近い間隔を持つ反応確認記録がある。
もう一方についても同じだった。
それどころか、無反応の二例同士が特別近い形でもない。
「二個、同じじゃない」
「少なくとも、今回固定した自然揺れ間隔の見方ではそうですね」
「反応ありの中にも似てるのある」
「はい」
アリシアは紙を見た。
しばらく言葉が出なかった。
思っていたより、残念だった。
胸が痛いわけではない。
怖くもない。
ただ、二日間ずっと「見たい」と思っていたものが、期待した答えをくれなかった。
「残念?」
サーラが静かに尋ねる。
アリシアは頷いた。
「七」
「かなりですね」
「うん」
少し笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「もっと、何かあると思ってた」
誰もすぐには励まさなかった。
その沈黙がありがたかった。
アリシアは紙から目を離さず、指先を膝の上で組んだ。
「古い記録で違って見えたのに」
「はい」
「だから、今の九枚でも違うかもしれないって思った」
「自然な期待だと思います」
「でも違わなかった」
「“違わなかった”という言い方も少し注意が必要です」
魔導具教師が穏やかに言う。
アリシアは顔を上げる。
「違うの?」
「今回の方法で測った自然揺れ間隔が、反応確認側と非確認側を明瞭に分ける形にはならなかった、というのが今言える範囲です」
「間隔が絶対関係ない、ではない?」
「はい」
「……また残るんだ」
「残ります」
アリシアは小さく息を吐いた。
「それ、ちょっとずるい」
「研究が?」
「うん。分かれなかったら終わりって言ってくれた方が簡単なのに」
『簡単にしたかったの?』
ノアが尋ねる。
「今はちょっとだけ」
『朝と言ってること違うわね』
「朝はまだ期待してたから」
『なるほど』
ノアはそれ以上何も言わなかった。
◇
しばらく休んだ後、アリシアはもう一度七枚分の間隔値へ目を戻した。
今度は「違いを探す」ためではない。
今日の結果を、そのまま言葉にするためだった。
「無反応の二枚が同じところに固まってない」
「はい」
「反応ありの方も一種類じゃない」
「はい」
「短い間隔があるから反応する、でもない?」
「少なくとも、この記録群だけからそのような単純な規則は支持されません」
「長いから反応しない、でもない」
「同様です」
「じゃあ、昨日まで見た回数とか振幅とか、平均傾きとかと同じ?」
副学院長が少し考える。
「“単独で明瞭に分ける特徴にはならなかった”という点では近い結果です。ただし、それぞれ別の項目です。まとめて同じものとして扱わない方がよいでしょう」
「うん」
アリシアは練習帳へ書く。
『自然揺れ間隔。固定した方法で測定。九枚中二枚は固定区間内で間隔値を作れず、欠測理由を保持。残る記録では、反応確認側と非確認側を単純に分ける並びにならなかった。非確認二例同士も特別同じではない。』
そこで筆が止まる。
「“役に立たなかった”って書いたら駄目?」
「アリシアさんはそう感じていますか?」
「ちょっと」
「では、感想として別に書くなら構いません」
「結果には書かない?」
「結果として“役に立たない”と確定したわけではありませんから」
アリシアは少し考え、別の行へ書いた。
『感想。二日かけて測り方を決めたから、分かれてほしかった。分かれなくてかなり残念。最初は“役に立たなかった”と思った。でも、それは結果の言葉ではなく私の感想。』
書いた文字を見つめる。
「これならいい?」
「はい」
サーラが答えた。
アリシアは筆を置いた。
「でもさ」
「何でしょう」
「二日かけたの、無駄じゃない?」
今度は学院長が答えた。
「アリシアさんはどう思いますか?」
「質問で返した」
「考えている顔をしていたので」
「……ずるい」
それでも考える。
もし初日に九枚を広げていたら。
目で揺れの間隔を見て、違っているように感じた場所を探したかもしれない。
揺れの切れ目を変えたかもしれない。
固定区間の外まで見たかもしれない。
間隔が一つしか取れない記録だけ範囲を広げたかもしれない。
無反応二例が近くなる数え方を見つけて、「これかもしれない」と喜んだかもしれない。
「……無駄じゃない」
「理由は?」
「分かれなかったって、ちゃんと言えるようにしたから」
学院長は何も足さず、続きを待った。
「適当に数えて分かれなかったのと違う。あと、分かれるように数え方を変えなかった」
「はい」
「二枚、間隔が作れなかったのも、無理に数字にしなかった」
「はい」
「だから……欲しかった答えじゃないけど、これはこれで残せる」
口にした途端、少しだけ胸が軽くなった。
残念さは消えていない。
それでも、「何も得られなかった」と思っていた時とは違う。
『七からいくつ?』
ノアが尋ねる。
「何が?」
『残念』
「……五」
『まだ結構あるわね』
「あるよ。分かれてほしかったもん」
『なら五くらい残しとけば?』
「残していいの?」
『勝手に消えるまで置いときなさいよ』
アリシアは少し笑った。
◇
ここで新しい特徴探しへ進むことはしなかった。
局所形状の候補も残っている。
東側奥部の細かな変化についても、以前から気になる点はいくつかある。
けれど、今日の結果を見た直後に別の項目へ飛びつけば、「今度こそ分けてほしい」という気持ちが強いまま新しい物差しを作ることになる。
「今日は局所形状やらない?」
アリシア自身が尋ねた。
「どうしたいですか?」
「見たい」
「理由は?」
「今のが分かれなかったから、次なら分かれるかもって……」
言いながら、アリシアは顔をしかめた。
「駄目そう」
「禁止ではありません」
「でも今やる理由が、“次こそ”になってる」
「そうですね」
「じゃあ今日はやめる」
以前なら、ここで悔しさが強く残っただろう。
今も残念ではある。
けれど、自分で止めたことへの不満はそれほど大きくなかった。
「次はどうする?」
「次回は、今日の間隔測定結果を既存項目とどう並べるかを整理しましょう」
「組み合わせる?」
「すぐに組み合わせて答えを作るわけではありません」
「違うの?」
「単独で完全に分けなかった特徴が複数あります。だからといって、あらゆる組み合わせを試して最もきれいに九例を分ける組み合わせを探し始めると、昨日話した問題がさらに大きくなります」
アリシアの顔が固まった。
「できそう」
「何がですか?」
「いっぱい組み合わせたら、分けられるやつ見つかりそう」
「見つかる可能性はあります」
「それ、すごくやりたい」
若い観測員が苦笑した。
「率直ですね」
「だって、傾きと間隔とか、揺れの回数と入力位置とか、二個ずつ組み合わせたら……」
そこまで言って、アリシアは自分で止まった。
「……いっぱいできる」
「はい」
「三個ならもっと」
「はい」
「それ全部試したら、どれか当たりそう」
「そこが次の問題です」
アリシアは背もたれへ身体を預けた。
「また増えた」
『よかったじゃない。研究が終わらなくて』
「ノア、絶対面白がってる」
『少しね』
「認めた」
学院長が板へ新しい文字を書いた。
『複数特徴の組み合わせを、同じ九例だけで探索してよいか』
アリシアはその一文を見る。
今日、答えは出さない。
けれど次に考えるべき問題は、はっきりした。
一つずつの特徴で分かれなかった。
なら二つ組み合わせれば。
三つなら。
そんな発想が自然に出てくる。
そして、それはたぶん、今まで以上に簡単に「きれいな答え」を作れてしまう。
「これ、危ない気がする」
「なぜ?」
「選べる組み合わせが多いから」
「はい」
「九枚見ながら、一番きれいなの選べちゃう」
「はい」
「じゃあ、次は組み合わせる前に決める?」
「何を?」
「どういう組み合わせなら試していいか」
学院長が頷いた。
「それを考えましょう」
◇
研究室を出た時には、夕方の光が廊下の窓から斜めに差し込んでいた。
アリシアは鞄を肩へ掛け、ノアと並んで階段を下りる。
途中、午前中に一緒に購買へ行った友人とすれ違った。
「あ、アリシア」
「今帰り?」
「うん。そっちは研究?」
「終わったところ」
「何か分かった?」
以前なら、この質問へどう答えるか迷ったかもしれない。
研究内容を全部説明する必要はない。
だからアリシアは少し考えてから答えた。
「見たかった数字は出た。でも、思ってたみたいには分かれなかった」
「残念?」
「結構」
「そっか」
友人はそれ以上、研究の中身を尋ねなかった。
代わりに言う。
「植物の体験、私も申し込んだからね」
「見てたよ」
「忘れないでよ」
「一緒の日でしょ」
「そう」
「あなたこそ忘れそう」
「その時は忘れない係よろしく」
「だから引き受けてないって」
二人で笑い、別れる。
数歩進んでから、ノアが見上げた。
『普通に残念って言うのね』
「駄目?」
『別に』
「研究のこと全部説明しても分かりにくいし」
『そうね』
「でも残念だったのは本当だから」
『それでいいんじゃない?』
アリシアは小さく頷いた。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は床へ何枚かの紙を広げていた。
木箱の線の紙ではない。
色鉛筆で描いた絵だった。
昨日の紫色の葉を持つ木。
庭。
窓。
布袋。
その中に、一枚だけ妙に黒いものがある。
「これ何?」
アリシアがしゃがみ込む。
「ノア」
『また?』
少し離れたところから本人が不満そうな声を出した。
「前より丸い」
「今日は丸く描いた」
『前が長すぎたのよ』
「今日は太い」
『どっちにしても悪口じゃない?』
子供が笑う。
アリシアも隣へ座った。
「研究、測った?」
「測った」
「分かった?」
「数字は出た。でも、思ってたみたいにはならなかった」
「嫌だった?」
以前にも似た質問をされたことがある。
アリシアは少し考えた。
「嫌っていうより、残念だった」
「どれくらい?」
「最初七。今は四か五」
「下がった」
「うん」
「数字、捨てた?」
「捨ててないよ」
「じゃあある?」
「ある」
子供はそれで納得したらしい。
黒い猫の絵へもう一本ひげを足した。
「長い」
アリシアが言う。
「ノアのひげ長い」
『実物見なさいよ』
「見てる」
『そんな長くないわ』
「絵だからいいんじゃない?」
『あなたまでそっちにつくの?』
子供がさらに一本足した。
ノアは諦めたように床へ伏せた。
顔のない存在は窓際の椅子へ座っている。
今日は立つ様子もない。
職員は必要な生活記録だけを取り、誰も歩かせようとはしなかった。
アリシアも見守ったが、数を待たなかった。
今日は自分の数字だけで十分だった。
◇
夜。
自室へ戻ったアリシアは、いつものように机へ二冊の手帳を置いた。
最初に開いたのは学院生活用だった。
植物管理体験の欄を見る。
自分の名前だけでなく、友人も申し込んだ。
だからといって何かが変わるわけではないが、少し楽しみが増えた気がした。
次に研究用の練習帳を開く。
今日の結果はすでに研究室で書いた。
ここでは、それをもう一度きれいに写すつもりはなかった。
代わりに、見た瞬間の自分について書く。
『分かれてほしかった。二日かけて方法を決めたから、余計に期待した。無反応二例が同じ側へ並ばなかった時、最初に“役に立たなかった”と思った。』
少し間を置く。
『でも、方法を先に決めたから、“分かれなかった”を結果として残せた。九枚を見てから数え方を選ばなかったことには意味があった。』
さらに、その下へ今日最後に出た問題を書く。
『次に気をつけること。一個ずつで分かれないからといって、九枚を見ながら特徴を二個、三個と好きに組み合わせて、きれいに分かれる組み合わせを探さない。組み合わせるなら、その理由を先に決める。』
書いたところで、アリシアは筆を止めた。
「ノア」
『何?』
寝台の上から返事がある。
「もし二個組み合わせたら、分かれると思う?」
『知らないわよ』
「予想」
『できるほど理解してない』
「じゃあ、分かれてほしいと思う?」
『私は別に』
「本当に興味ないね」
『あなたが知りたいなら付き合うけど、私まで同じ答えを欲しがる必要はないでしょう』
アリシアは少しだけ振り返った。
ノアは前足へ顎を載せている。
「そっか」
『何よ』
「何でもない」
机へ向き直る。
ノアが同じ答えを欲しがっていないことが、少し安心した。
研究室の人たちもそうだ。
アリシアが「分かれてほしい」と思っていても、皆が同じ方向へ期待しているわけではない。
だから、自分の期待を口にできる。
隠して公平なふりをするより、その方がずっといい。
最後の一行を書く。
『今日の間隔は、答えをくれなかったのではなく、“この測り方の間隔だけでは九枚を単純に分けられなかった”という答えをくれた。理由はまだ分からない。』
筆を置く。
窓の外は静かだった。
昨日までの雨雲はなく、夜空には細かな星がいくつも見える。
自然揺れの間隔。
平均傾き。
ばらつき。
揺れの回数。
振幅。
入力側の立ち上がりと復帰。
これまで残してきた特徴は、一つずつでは綺麗な境界を作らなかった。
けれど、だからといって全部を一つの大きな表へ放り込み、最も都合よく分かれる組み合わせを探してしまえば、今度は選択肢の多さそのものが自分の欲しい答えを作る道具になる。
そこまで考え、アリシアは少しだけ苦笑した。
「答え探すのに、答え見ないようにしないといけないんだね」
『何それ』
「九枚見ながら組み合わせ決めたら駄目って話」
『ああ』
「変なの」
『でも今さらでしょう』
「うん。今さら」
練習帳を閉じる。
二日かけて作った物差しは、期待した線を引かなかった。
それでも捨てない。
分かれなかったから測り直さない。
次の特徴へ逃げ込まない。
そして、複数の特徴を組み合わせるなら、九枚が教えてくれる「きれいな答え」より先に、なぜその二つを見るのかを決める。
明日すぐに答えが出るとは思わない。
けれど、今日のアリシアにはそれが前ほど残念ではなかった。
九枚はまだ机の上に残っている。
分かれなかった数字も、そのまま残っている。
次に線を引くなら、その線が見えてから定規を選ぶのではなく、どの定規を使うのかを先に決める。
今夜は、それだけを次へ持っていけばよかった。




