第218話 測る場所を先に決められないなら、気になる間隔もまだ数字にはしない
夜のあいだ降り続いていた雨は、朝になる頃にはほとんど止んでいた。
生活観測区画の窓には細かな水滴が残り、庭の草や低木は普段より濃い色をしている。雲の切れ間から差し込んだ弱い朝日が濡れた葉へ触れるたび、小さな光があちこちで揺れた。
アリシアは共用机へ着くと、いつもの席へ鞄を置いた。
研究用の練習帳は中に入ったままだ。
代わりに取り出したのは、学院生活の予定を書いている小さな手帳だった。
「申し込むの?」
向かいにいた子供が尋ねる。
「何を?」
「昨日の草」
「草じゃなくて植物管理」
「同じ?」
「……ちょっと違うと思う」
子供はよく分からないという顔をした。
アリシアも説明しようとして、やめた。
「体験授業の申し込み。まだ空いてたら行ってみようかなって」
「何するの?」
「植物を育てたり、土とか水とか見るみたい」
「花?」
「花もあるかも」
「木?」
「あると思う」
「野菜?」
「どうだろう」
「何も知らないね」
「だから体験するんだよ」
言い返すと、子供は納得したように頷いた。
机の端には昨日の小さな袋が置かれている。縫い目は三辺のうち二辺ほどまで進んでいたが、まだ口の部分は広く開いていた。
「そっちは今日もやる?」
「たぶん」
「箱は?」
子供は少しだけ木箱の置かれている棚を見た。
「今日はまだ分かんない」
「そっか」
「開けた方がいい?」
「何で私に聞くの?」
「研究するから」
「研究するからって、何でも開ければいいわけじゃないよ」
アリシアがそう答えると、子供は袋の端を指でつまんだ。
「じゃあ、開けたい時に考える」
「うん。それでいいと思う」
窓辺では、ノアが濡れた庭を眺めていた。
アリシアは少し迷ってから声をかける。
「ノア」
『何?』
「植物管理の体験、申し込もうと思う」
『昨日から何回私に報告する気?』
「まだ申し込んでなかったから」
『今度は申し込んでから報告して』
「じゃあ今日する」
『好きにしなさい』
「興味なさすぎない?」
『あなたの選択授業に私が興奮してたら怖いでしょう』
それは確かに少し怖い。
アリシアが笑うと、朝食を運んできた職員まで口元を緩めた。
今日の午後も研究室へ行く予定が入っている。
昨日残った二つの候補。
入力前の自然な揺れの時間間隔。
そして、入力小変動そのものの局所形状。
どちらも、まだ正式な比較項目ではない。
特にアリシアが気になっているのは一つ目だった。
古い参照記録を比較した時、現在の九例を本格的に並べるより前に違いの候補として現れていたもの。
だから、九例を見てから都合よく作った候補よりは安心できる。
昨日はそう書いた。
けれど、安心できることと、測れることは別だった。
◇
学院へ着いたアリシアは、午前最初の授業が始まる前に職員室近くの受付へ寄った。
選択授業の体験申込用紙が置かれている。
植物管理実習。
名前を書こうとしたところで、横から声がした。
「あ、本当に行くんだ」
昨日一緒に昼食を取っていた友人だった。
「来たの?」
「見に来ただけ」
「申し込まないの?」
「私は生活魔導具」
「植物も見ればいいのに」
「土触るんでしょ?」
「たぶん」
「爪に入るの嫌」
「そこ?」
「大事だよ」
友人は真剣な顔をしている。
アリシアは少し笑いながら申込欄へ名前を書いた。
「書いた」
「これで逃げられないね」
「体験だよ?」
「でも申し込んだ」
「嫌だったら選ばないよ」
「アリシアって、そういうところ意外とちゃんとしてるよね」
「どういうところ?」
「気になるって言ったら本当に見に行くところ」
「普通じゃない?」
「私は気になるって言って行かないこといっぱいある」
「それはあなたでしょ」
「そうとも言う」
後ろに別の生徒が並んだため、二人は受付から離れた。
友人が廊下を歩きながら尋ねる。
「研究あるのに大丈夫?」
「体験の日は今のところ重なってない」
「重なったら?」
「その時相談する」
「研究優先?」
アリシアは少し考えた。
以前なら、迷わずそう答えていた気がする。
「内容による」
「へえ」
「何?」
「絶対研究って言うと思った」
「私も授業あるもん」
「そうだけど」
「それに体験、一回しかないかもしれないし」
友人は少し笑った。
「じゃあちゃんと行きなよ」
「行くよ」
「土、爪に入ったら教えて」
「何で?」
「どのくらい嫌か知りたい」
「自分で来なよ」
そんな話をしているうちに教室へ着いた。
研究のことを考えたのは、席へ座って鞄の中の練習帳へ触れた一瞬だけだった。
◇
午前の授業は、魔法史と文章読解だった。
魔法史では古い街道沿いに設置された魔力標識の変遷について扱い、文章読解では複数の証言から事実と推測を分ける短い記録文が教材になった。
後者では、教師が黒板へ三つの文章を書いた。
『鐘の音を聞いた』
『鐘楼の方向から音がした』
『鐘が鳴らされた』
「同じことを言っているように見える者?」
教室のあちこちで手が上がる。
アリシアも途中まで上げかけて、止めた。
教師がそれを見逃さなかった。
「アリシア、今やめたな」
「……ちょっと違う気がしました」
「どこが?」
「最初は聞いたことだけ。二つ目は方向も入ってる。三つ目は……誰かが鳴らしたみたいになってる」
「そうだな。三つ目だけ、音を聞いた者が直接確認していない行為まで文章に入る可能性がある」
前の席の男子生徒が振り返った。
「でも鐘なら誰か鳴らしてるんじゃない?」
「風かもしれない」
別の生徒が言う。
「魔法かも」
「鳥がぶつかったとか」
「どんな鳥だよ」
教室に笑いが起きる。
教師も少し笑ってから黒板を叩いた。
「原因を想像するなとは言わない。ただ、記録された事実と自分の補った部分を混ぜるな、という話だ。試験にも出す」
「最後の一言で嫌になった」
誰かが呟き、また笑いが広がった。
アリシアも笑った。
研究のことを思い出さなかったわけではない。
けれど、黒板の三つの文章を見て「今の研究と同じだ」と口にすることはしなかった。
授業は授業だった。
◇
昼休みを挟み、午後の研究室へ入る。
今日は昨日と違い、大きな長机ではなく、通常の研究机が使われていた。
九つの資料束も見えない。
代わりに、机の中央へ一枚の長い紙が置かれている。
「今日はこれだけ?」
アリシアが鞄を置く。
「最初は」
魔導具教師が答えた。
学院長、副学院長、サーラ、若い観測員、装置調整担当も揃っている。
ノアはアリシアより先に椅子の横へ陣取り、尻尾を前足へ巻きつけた。
「自然揺れの間隔?」
「はい」
アリシアは少し身を乗り出した。
「測る?」
「その前です」
「またその前?」
『嫌そうな顔しないの』
「嫌じゃないよ。ちょっとだけ早く見たいだけ」
「昨日の基準を覚えていますか?」
副学院長に尋ねられ、アリシアは指を折りながら答えた。
「見る理由がある。反応ありなしを知らなくても同じように測れる。測り方が人で大きく変わらない。九個を分けるために境界を動かさない。九個から見つけた候補なら、それだけで答えにしない」
「十分です」
「今回は九個より前から候補があった」
「はい」
「だから今日は測り方」
「その通りです」
魔導具教師が長い紙をアリシア側へ向けた。
そこに描かれているのは、実際の九例ではない。
人工的に作った練習用の波形だった。
「偽物?」
「模擬波形です」
「本物見ないんだ」
「先に本物を見ると、どの程度の揺れを一つとして数えるか、どの区間を使うかを結果へ合わせる危険があります」
「だから練習用で決める?」
「決められるかどうかを試します」
アリシアは紙を覗き込んだ。
中央を走る細い線には、小さな上下がいくつもある。
大きいもの。
小さいもの。
ほとんど震えにしか見えないもの。
少し離れているもの。
二つの揺れが連続して一つの山のようになっている部分。
「……これ、どれを一個って数えるの?」
「そこからです」
アリシアの期待が少しだけしぼんだ。
「思ってたより面倒そう」
『三日連続で言ってない?』
「今日はまだ一回目」
『数えてるじゃない』
「ノアが数えるから」
サーラが笑いを堪えながら、模擬波形を指した。
「まず、アリシアさんならどこを“揺れ”として数えますか?」
「決めていいの?」
「今は練習です」
「じゃあ……」
アリシアは紙へ顔を近づけた。
最初の山。
これは一つに見える。
次の小さな上下は、少し迷う。
その次には、上がって少し下がり、完全に元へ戻る前にまた上がっている部分がある。
「ここ、二個?」
「なぜですか?」
「山が二個あるから」
「ではこれは?」
少し離れた位置を示される。
同じように二つの山があるが、間の谷が浅い。
「……一個かも」
「違いは?」
「真ん中まで戻ってない」
「“真ん中”とは?」
「最初の高さ?」
「どの時点の?」
「……分かんない」
アリシアは眉を寄せた。
見れば分かると思っていた。
しかし、言葉にしようとすると曖昧だった。
「目なら分かるのに」
「その感覚をそのまま使うと、実際の九例を見た時に判断が変わる可能性があります」
「反応ありの方は二個に見えて、無反応は一個に見えたり?」
「意識していなくても起こり得ます」
「じゃあ数字で決める?」
「その方法を検討します」
◇
最初の問題は、何を「一つの自然揺れ」とするかだった。
装置には、ごく小さな測定ノイズもある。
それを全部数えれば、間隔はほとんど装置の細かな震えを測ることになってしまう。
一方で、最低振幅を高く設定しすぎれば、本当に存在する弱い自然変動まで消える。
「前に振幅を見た時の基準使えないの?」
アリシアが尋ねる。
「候補の一つです」
魔導具教師が答える。
「固定事前区間で自然揺れの回数と振幅を比較した際に用いた基準があります。それをそのまま使えば、今回の九例を見て新しい閾値を作る必要はありません」
「じゃあそれでいいじゃん」
「本当に?」
「……何かある?」
「間隔を測る場合、“一つの揺れの時刻をどこへ置くか”が必要になります」
アリシアは紙を見る。
「一番高いところ?」
「上向きの揺れだけなら考えられます」
「下向きは?」
「最も低い点でしょうか」
「上と下を同じ一個として数える時は?」
「そこが次の問題です」
「まだあるの?」
『楽しくなってきたわね』
「ノアは絶対楽しんでないでしょ」
『あなたの顔は面白いわ』
アリシアは反論しながらも、視線は波形から外さなかった。
自然な揺れとは、単純な山だけではない。
上がって戻る。
下がって戻る。
上がったあとに下へ抜ける。
小さく二度震える。
どれを一つとするかで、間隔は変わる。
「古い記録で“間隔が違うかも”って思った時は、どう見てたの?」
「目視です」
「じゃあ、まだ数字じゃなかった?」
「はい。だから候補のままです」
「私、もっとちゃんとした候補だと思ってた」
「がっかりしましたか?」
サーラに尋ねられ、アリシアは波形を見たまま答えた。
「ちょっと。昨日、一番見たいって書いたから」
「今も見たいですか?」
「見たい。でも、これで適当に数えるのは嫌」
少し考えてから続ける。
「目で見て違うって思ったのを、後から数字にするために数え方選んだら、たぶん数字も違うようにできるよね」
「できます」
「それは嫌」
「では、どうしますか?」
アリシアはしばらく黙った。
窓の外では、屋根から残った雨水が一定ではない間隔で落ちている。
一滴。
少し間が空き、二滴続く。
また長く空く。
その音を聞きながら、アリシアは目の前の模擬波形を見た。
「前に使った揺れの基準は変えない」
「はい」
「時刻の置き方も、本物見る前に決める」
「はい」
「決められなかったら、今日は測らない」
副学院長が頷いた。
「それがよいでしょう」
「……せっかく九個あるのに」
『逃げないから安心しなさい』
「分かってる」
『本当に?』
「分かってるよ」
◇
次に検討したのは、どの時間区間を使うかだった。
これについては比較的簡単に思えた。
「入力前の固定区間でしょ?」
「基本案はそうです」
「前の回数と振幅で使ったところ」
「はい」
「じゃあ決まりじゃない?」
アリシアが言うと、装置調整担当が首を横へ振った。
「端の扱いがあります」
「端?」
「区間が始まる直前に揺れが一つあり、区間内に次の揺れがある場合、その間隔を測りますか?」
「あ」
「反対に、区間内最後の揺れから、区間終了直後の揺れまでの間隔は?」
アリシアは口を閉じた。
区間内に存在する揺れだけを使えば、最初と最後には間隔を作れない。
しかし、外側の揺れまで使えば、固定区間の外へ出る。
「中にある揺れ同士だけ?」
「一番単純です」
「でも、一個しか揺れがなかったら間隔ゼロ個?」
「そうなります」
「二個なら一個?」
「はい」
「揺れが少ない記録は、間隔ほとんど取れないね」
「その可能性があります」
アリシアは少し困った。
「外も使いたい」
「なぜですか?」
「数が増えるから」
言った瞬間、自分で気づいた。
「あ、駄目か」
「必ずしも駄目ではありません。ただ、なぜ外を使うのかを先に定義する必要があります」
「数を増やしたいからって理由は?」
「測定精度を上げる目的としては理解できます。しかし、どこまで外へ広げるかという新しい問題が生じます」
「また端」
「はい」
アリシアは額へ手を当てた。
「時間の端、ずっと出てくるね」
「記録には始まりと終わりがありますから」
「無反応の時もだった」
「そうですね」
今回は対象が違う。
無反応記録の観測終端ではなく、入力前の自然揺れを測るための区間端だ。
それでも、「見えているから全部使う」では済まないところは似ている。
「固定区間の中だけにした方が、前の回数と振幅とも同じ条件になる?」
「比較可能性は高くなります」
「じゃあ、まずそれがいい」
「ただし、間隔数が少なくなる記録があることを受け入れる必要があります」
「少ないからって後から広げない」
「はい」
アリシアは練習帳へ書いた。
『事前固定区間内に基準を満たす揺れが二つ以上ある場合、その区間内の揺れ同士だけで間隔候補を作る。少ない記録だけ外側を足さない』
書いてから、筆先を止める。
「“間隔候補”?」
「まだ揺れの時刻定義が決まっていませんから、その表現でよいでしょう」
「まだ測れないんだ」
「はい」
アリシアは残念そうに息を吐いた。
◇
昼過ぎから始めた検討は、思っていたより長くなった。
途中で一度、温かい飲み物が運ばれてきた。
アリシアは器を両手で包み、椅子へ深く座る。
疲労は強くない。
ただ、頭の中に細かな線が増えすぎた感じがした。
「今日、九枚見られると思ってた」
ぽつりと言う。
「最初から見る予定とは言っていませんよ」
副学院長が返す。
「分かってる。でも、模擬波形でこんなに時間かかると思わなかった」
「やめますか?」
「やめない」
「即答ですね」
「だってまだ疲れてない」
サーラがアリシアの表情を見る。
「疲労以外は?」
「嫌になってるかってこと?」
「それも含めて」
アリシアは器の中を見た。
「面倒。でも嫌じゃない。早く本物見たい気持ちは八くらい」
「かなり高いですね」
「うん」
「焦りは?」
「……六?」
「少し高めですね」
アリシアは自分で言ってから、もう一度考える。
「五かも。でも、“今日数字出したい”は七」
『細かいわね』
「聞かれたから考えてるの」
「今日は安全上の停止条件ではありませんが、その七は覚えておきましょう」
学院長が言う。
「どうして?」
「今日中に数字を出すことが目的へ変わると、定義を甘くする可能性があるからです」
アリシアは器を机へ置いた。
少し痛いところを突かれた気がした。
「……あるかも」
「どの辺りでそう思いますか?」
「さっき、外側の揺れも使いたいって思った時。数が増えるからって」
「はい」
「あと、山の一番高いところでいいじゃんって、早く決めたかった」
「それ自体が誤りとは限りません」
「でも理由より先に、“それなら今日測れる”って思った」
室内が少し静かになった。
責められているわけではない。
誰も眉をひそめてもいない。
だからこそ、アリシアは自分の気持ちをそのまま見られた。
「今日は数字出ないかもしれないね」
「はい」
「候補が消えるかもしれない?」
「測定定義を作れなければ、少なくとも今の形では正式項目にできません」
「昨日、一番見たいって思ったのに」
『昨日のあなたに謝る?』
「謝らないよ」
『ならいいでしょう』
ノアは前足を舐めている。
「ノア、適当」
『昨日見たかったものが今日測れなかったからって、昨日見たかったことまで間違いにはならないでしょう』
アリシアは少しだけ目を丸くした。
「……うん」
『それに、まだ消えてないんでしょう?』
「うん」
『なら飲みなさい。冷めるわよ』
「最後だけ普通」
『飲み物に研究的な助言を求めないで』
アリシアは小さく笑い、器を持ち直した。
◇
休憩後、揺れの「時刻」をどう置くかに戻った。
魔導具教師が新しい模擬波形を三枚並べる。
一枚目は単純な上向きの山。
二枚目は下向きの谷。
三枚目は、上がってから下へ振れ、その後ゆっくり基準付近へ戻る形だった。
「一つ目なら頂点」
アリシアが言う。
「二つ目なら底?」
「自然でしょう」
「三つ目は?」
「そこです」
アリシアは紙を睨んだ。
「一番最初に基準から離れ始めたところ?」
「開始点を使う案ですね」
「でも開始って決めにくそう」
「ノイズがありますからね」
「一番大きく離れたところ?」
「上側と下側、どちらを取りますか?」
「大きい方」
「では同程度なら?」
「……先?」
「なぜ?」
「早いから」
「それは測定上の理由ですか?」
「違う」
アリシアはすぐに認めた。
次に若い観測員が提案する。
「揺れを一つのイベントとして認定した上で、その振幅の重み付き中心を時刻にする方法はどうでしょう」
「重み付き?」
アリシアが首を傾げる。
魔導具教師が簡単な図を描いた。
「大きく基準から離れている部分ほど強く扱って、揺れ全体の中心時刻を計算する方法です」
「それなら上とか下とか関係ない?」
「絶対値を使うなら、方向に左右されにくくできます」
「難しい?」
「計算自体は装置で可能です」
「じゃあそれでいい?」
アリシアが言うと、今度は学院長が止めた。
「その前に確認です。その方法は、今回の九例を見る前から一般的に妥当と言えますか?」
若い観測員が少し考える。
「魔力波形の局所変動をイベント化する方法としては不自然ではありません。ただ、この装置の自然揺れへ適用した実績は少ないです」
「じゃあ新しい方法?」
「新しい適用、と言う方が近いでしょう」
「それなら試していい?」
「模擬波形や、今回の九例とは別の記録で挙動を確認する価値はあります」
アリシアの表情が少し明るくなる。
「別の記録ある?」
「あります」
装置調整担当が答えた。
「人工刺激を行っていない日の基準記録が複数残っています。今回の反応あり・無反応の分類とは無関係です」
「それで試せる?」
「はい」
アリシアは思わず身を乗り出した。
「今日やる?」
学院長が時計を見る。
まだ時間はある。
けれど、副学院長はすぐに資料を出さなかった。
「その前に、何を確認するか決めましょう」
「また?」
アリシアの声に、室内から小さな笑いが起きた。
「もう分かった。言うと思った」
「では、アリシアさんから」
「この方法で……同じ揺れを何回やっても近い時刻に置けるか?」
「よいですね」
「人が違っても?」
「イベント認定の最初の部分に人の判断が残るなら、それも必要です」
「あと……変な形でも一個として扱えるか」
「はい」
「小さいノイズまで拾わないか」
「重要です」
アリシアは指を折りながら続ける。
「それでうまくいったら、九個に使う?」
「すぐではありません」
「まだあるの?」
「基準を満たす揺れの認定方法と、固定区間内だけを使うという規則を一緒に確定してからです」
「遠い」
『研究室の向こう側くらい?』
「もっと」
『じゃあ廊下?』
「そういう遠いじゃない」
ノアのくだらない返しに、張っていた肩の力が少し抜けた。
◇
結局、その日は九例を開かなかった。
代わりに、人工刺激を行っていない日の基準記録から、反応有無の分類とは関係のない三つの短い波形だけが選ばれた。
しかも、それらを使って本格的な数値比較をしたわけではない。
新しい時刻定義の候補が、極端に不自然な結果を出さないかを確認しただけだった。
一つ目の単純な山では、目視の頂点と重み付き中心は近い。
二つ目の下向きの谷でも大きな問題はない。
三つ目の複雑な上下を含む揺れでは、目視で「どこが時刻か」と尋ねた時より、計算上の中心の方が一つの値として安定した。
ただし、それだけで採用とはならない。
「今日はここまで?」
アリシアが尋ねる。
「はい」
「九個、出なかったね」
「出しませんでしたね」
「最初は残念だったけど……今はちょっと怖い」
「何がですか?」
「もし最初に九個出してたら、たぶん私、反応ありと無反応で間隔違うかずっと見てた」
「そうでしょうね」
「それ見た後で、山の数え方決めてたかもしれない」
「可能性はあります」
「違って見える数え方を選んだかも」
アリシアは自分の手元を見る。
わざとではない。
嘘をつこうと思っているわけでもない。
むしろ、本気で答えを知りたいからこそ、自分の期待する違いへ寄ってしまう。
「気づかないでやるのが一番嫌だ」
サーラが静かに頷いた。
「だから、今日のような手順があります」
「面倒だけど」
「はい」
「でも、今日は面倒でよかったかも」
『四回目』
「数えてたの!?」
『暇だったから』
「研究聞いててよ」
『聞いてたから四回って分かるのよ』
若い観測員が耐えきれず笑い、魔導具教師まで肩を揺らした。
アリシアは恥ずかしそうに頬を膨らませた。
「もう言わない」
『明日には言うわよ』
「言わない」
『記録しておく?』
「それこそいらない!」
研究室の空気が柔らかくほどけた。
◇
帰る前、アリシアは今日の決定事項を練習帳へ整理した。
自然揺れの間隔候補について。
揺れとして認定する最低基準は、過去に固定事前区間の回数・振幅比較で使った既存基準を出発点とする。
比較区間は、既存の入力前固定区間から勝手に広げない。
区間内の揺れが少ない記録だけ、外側を追加しない。
揺れの時刻は単純な頂点・底だけでは複雑波形へ一貫して適用しにくい。
局所変動全体の重み付き中心を使う案を、九例とは独立した基準記録で先に検証する。
この方法が安定しなければ、九例へ適用しない。
最後に、アリシアは少し迷ってから一行を足した。
『今日、数字を出したい気持ちが七くらいあった。だから、測る方法を早く決めたくなった。結果だけじゃなく、“早く結果を出したい”も物差しを動かすかもしれない』
書き終えると、しばらくその文章を眺めた。
「これ、残す」
「はい」
学院長が答える。
「次も数字出したくなると思う」
「それ自体は問題ではありません」
「でも、なったら言う」
「そうしてください」
アリシアは練習帳を閉じた。
◇
生活観測区画へ戻った頃には、雨雲の向こうから夕日が差し始めていた。
庭の水滴が橙色に光り、窓際の床にも淡い色が落ちている。
子供は共用机で袋を縫っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「進んだ?」
「ここ」
見せてもらう。
三辺目もかなり縫われている。
「もうすぐじゃん」
「うん」
「何入れるか決めた?」
「まだ」
「完成の方が先になりそう」
「それでもいい?」
「朝も言ったけど、いいんじゃない?」
「アリシアは測った?」
「測ってない」
子供の手が止まった。
「昨日も?」
「昨日も」
「二日決めてる」
「そうだね」
「まだ見るだけ?」
「今日は見る前の練習した」
「何を?」
「揺れてる線の、どこを一個にするか」
子供は分からなそうな顔をした。
「線?」
「うん」
「箱の?」
「違うよ。研究の波形」
「ああ」
子供は納得し、また針を動かした。
「いつ測る?」
「ちゃんと同じ測り方ができそうなら」
「できなかったら?」
「測らないか、別の方法考える」
「見たいのに?」
「見たいよ」
「我慢?」
アリシアは少し考えた。
「我慢もある。でも、変な数字を見るよりいい」
「変な数字?」
「私が見たい答えに合わせて作っちゃった数字」
子供は完全には理解していないようだった。
それでも、少し考えてから言う。
「嘘?」
「嘘をつくつもりはないの。でも、嘘じゃなくても間違えることあるから」
「難しいね」
「難しい」
子供はそれ以上聞かなかった。
針を布へ通し、ゆっくり引く。
糸が長く伸び、最後に布の端へ収まった。
その少し向こうでは、顔のない存在が椅子へ座っている。
今日はまだ歩いていないらしい。
誰もそれを悪いこととは言わなかった。
◇
夕食後、子供の袋が完成した。
「できた!」
珍しく少し大きな声だった。
アリシアが振り向く。
手のひらより少し大きな、素朴な布袋。
縫い目は完全には揃っていない。
最初の辺は少し大きく、後半になるほど細かくなっている。
「すごい」
「できた」
「ちゃんと袋だ」
「最初から袋だよ」
「途中は布だったよ」
「袋作ってた」
「じゃあ途中の袋」
子供が笑う。
ノアも近くへ来た。
『何入れるの?』
「まだ決めてない」
『作ってから考えるのね』
「駄目?」
『別に。穴が開いてなければ袋としては使えるでしょう』
「ノアの毛」
『却下』
「落ちてるの」
『好きにしなさい』
子供が嬉しそうに床を探し始める。
「今探すの?」
「一本だけ」
『何で最初の中身が私の抜け毛なのよ』
「記念?」
『何の記念よ』
アリシアは声を上げて笑った。
子供も笑う。
職員の一人まで肩を揺らしている。
しばらく探した末、子供は黒い毛を一本見つけた。
「これ」
『見せなくていいわよ』
「入れる」
『勝手にしなさい』
布袋の最初の中身は、ノアの抜け毛一本になった。
「軽すぎて入ってるか分からない」
子供が袋を揺らす。
「じゃあ他のも入れれば?」
「明日考える」
『私の毛を捨てないための袋みたいになってるじゃない』
「違うよ」
『早めに別の物を入れてちょうだい』
子供は袋を胸元へ抱え、何度も頷いた。
研究とは何の関係もない、小さな完成だった。
アリシアはそれを見ながら、今日はこれくらい分かりやすい「できた」が一つあってよかったと思った。
◇
夜、自室へ戻る。
机へ座ったアリシアは、まず学院生活用の手帳を開いた。
植物管理体験の欄に、今度は小さく「申込済」と書く。
「本当に申し込んだ」
『朝そう言ってたでしょう』
「忘れてないよ」
『なら確認しなくていい』
「ちょっと嬉しいの」
『授業一個申し込んだだけで?』
「いいじゃん」
『駄目とは言ってないわ』
アリシアは手帳を閉じる。
次に研究用の練習帳を開いた。
今日の記録を読み返す。
九例を一枚も開かなかった。
自然揺れの間隔を一つも計算しなかった。
昨日残した二候補のうち、局所形状についてはほとんど進めてもいない。
それでも、何もしていない一日ではなかった。
どの揺れを一つと数えるか。
どの区間を使うか。
端をどう扱うか。
時刻をどこへ置くか。
そして、結果を早く見たい自分が、測定方法を早く決めようとしていないか。
アリシアは最後の空白へ筆を置いた。
『明日、重み付き中心の方法が基準記録で安定しても、すぐ九枚を開かない。揺れの認定方法と時刻の置き方を先に一つの手順にする。それができてから、九枚全部へ同じように使う』
そこで一度止まり、もう一行続けた。
『できなければ、気になる候補のまま残す。見たいから数字にする、はしない』
筆を置く。
少し残念だった。
本当なら今日、九枚の自然揺れの間隔が並んでいるところを見たかった。
反応あり六例と無反応二例の間に、何か違いが見えるか確かめたかった。
見えれば嬉しい。
見えなければ悔しい。
そんなところまで、朝には想像していた。
実際には、その入口にすら届いていない。
けれど今は、朝ほど焦っていなかった。
九枚は逃げない。
古い参照記録も消えない。
気になる候補も、今日数字にしなかったから無価値になるわけではない。
窓の外では、雲の切れ間に星が一つ見えていた。
アリシアは灯りを少し落とし、寝台へ向かう。
「明日、数字出るかな」
『さあね』
「出てほしい」
『なら、出すために規則曲げないことね』
「曲げないよ」
『今日、外側まで使おうとしてたでしょう』
「途中で止めたもん」
『なら明日も止めればいいわ』
「うん」
寝台へ腰を下ろし、アリシアはもう一度机の上の練習帳を見る。
見たいものがある。
だから測りたい。
その順番だけなら、たぶん間違っていない。
けれど、見たいものがあるからこそ、どこからどこまでを測るのか、何を一つとして数えるのかを先に決めなければならない。
気になる間隔は、まだ数字になっていない。
明日も数字にならないかもしれない。
それでも、数字になる前の今なら、まだ物差しを結果から守れる。
アリシアはそう思いながら、研究用の練習帳を閉じたまま夜を終えた。




