第217話 違いを探す前に、どんな違いなら確かめる価値があるのかを決める
翌朝、アリシアが生活観測区画へ入った時、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日まで床へ伸びていた明るい陽射しはなく、庭の草木も少しくすんだ色に見える。窓がわずかに開けられているため、湿り気を含んだ風がときどき室内へ入り、朝食の温かな匂いをゆっくりと散らしていた。
共用机では、子供が昨夜の続きらしい小さな袋を膝へ載せていた。
まだ朝食前なので針は持っていない。ただ、布を両手で広げて縫い目を眺め、端の辺りを指先で何度か撫でている。
「できた?」
アリシアが隣へ座りながら尋ねると、子供は首を横へ振った。
「まだ。ここまで」
「昨日より増えてる」
「ちょっと」
「何入れるか決まった?」
「まだ」
「そっちもまだなんだ」
「完成してからでもいい?」
「いいんじゃない?」
「袋なのに?」
「袋って、作る前に入れる物を決めないと怒られるの?」
子供は少し考え、それから首を振った。
「怒られない」
「じゃあ大丈夫」
アリシアが笑うと、子供も小さく笑った。
その向こうでは生活担当の職員が朝食を並べている。顔のない存在は窓寄りの椅子へ座ったままで、胸元の光については別の担当者がいつもの記録を済ませているところだった。
アリシアはそちらを一度見たが、今日は何個光っているのかを聞かなかった。
歩くかどうかも待たない。
昨日、九枚の記録を同じ机へ戻したからといって、生活観測区画まで何もかも観察対象へ戻す必要はなかった。
「アリシアは今日、何するの?」
子供が袋を机へ置いた。
「午前は普通に授業。午後は研究室」
「また九個?」
「たぶん九個は出す。でも、昨日みたいに全部の列を見るんじゃないと思う」
「じゃあ何見る?」
「それを決める」
子供が目を瞬いた。
「見るものを?」
「うん」
「研究室で?」
「うん」
「見ないの?」
「……見るものを決めるために、見ないようにするかも」
自分で言ってから、アリシアは少し変な顔になった。
子供も同じらしい。
「難しい」
「私も今、言ってて難しいと思った」
窓辺から声が飛んできた。
『朝から意味不明な会話をするのやめてくれない?』
長椅子の端でノアが前足を伸ばしている。
「起きてたんだ」
『あなたが来る前からね』
「じゃあ聞いてた?」
『嫌でも聞こえるのよ』
「今日ね、新しい違いを探す前に、何なら見る価値があるか決めるの」
『昨日の夜に書いてたやつでしょう』
アリシアが振り返った。
「見たの?」
『横にいたでしょうが』
「読んでないと思ってた」
『声に出してたわよ、途中まで』
「……出してた?」
『小声で』
アリシアは少し頬を押さえた。
最近、考えながら書いているときに口へ出てしまうことがある。
「変なこと言ってなかった?」
『だいたいいつも変だから分からないわ』
「聞いた私が悪かった」
『学習して偉いわね』
子供がくすくす笑っている。
アリシアはノアへ細く目を向けたが、そのまま朝食の皿を自分の前へ引き寄せた。
◇
午前最後の授業は、基礎魔法実習だった。
今日の課題は攻撃魔法でも防御魔法でもない。机の上へ置かれた三種類の素材に、ごく弱い魔力を一定時間だけ流し、それぞれの変化を観察するという地味なものだった。
教室の前方には、薄い金属板、小さな透明石、乾燥させた植物繊維が並べられている。
「壊した者は自分で片づけるように」
教師が言うと、教室のあちこちから笑いが起こった。
「先生、それ先に言うってことは誰か壊すと思ってます?」
男子生徒が声を上げる。
「毎年いる」
「今年はいないかもしれないじゃないですか」
「君が最有力候補だ」
今度はもっと大きな笑いが広がった。
言われた男子生徒は不満そうな顔をしながらも笑っている。
アリシアも友人と顔を見合わせた。
「壊さないでね」
「何で私に言うの?」
「闇属性って強そうだから」
「弱く流す練習だよ」
「強く流して壊す人が毎年いるんでしょ?」
「それと属性関係ないよ」
今日の実習は二人一組だった。
アリシアと組んだのは、普段は別の席に座っている女子生徒だった。何度か授業で一緒になったことはあるが、昼食を共にするほど近い相手ではない。
「どっち先にやる?」
相手が尋ねる。
「私、金属からでいい?」
「じゃあ私、石」
二人はそれぞれの素材へ指先を近づける。
一定量の魔力を流すだけなら難しくない。
問題は、強くしすぎず、途中で揺らさず、教師が指定した時間を保つことだった。
アリシアは呼吸を整え、細く魔力を流した。
金属板の表面に、わずかな光沢の変化が生まれる。
「アリシア、安定してるね」
「そっちも」
「私、最初だけちょっと強かった」
「石の端、光ったもんね」
「見てた?」
「見えるよ」
「自分のやりながら?」
「近いから」
「余裕あるじゃん」
「金属、変化分かりにくいんだもん」
「先生、これ本当に変わってます?」
女子生徒が教師へ声をかける。
教師は別の組を見ていたが、こちらへ歩いてきた。
「石は端部の光量が少し増えている。金属は表面温度だ」
「温度?」
アリシアが金属板へ触れようとして、教師に止められた。
「魔力を切ってから」
「あ」
「観察対象を触って条件を変えるな」
「すみません」
隣の女子生徒が肩を震わせた。
「笑わないでよ」
「だって、すごく自然に触ろうとしたから」
「温度って言われたら触りたくなるでしょ」
「研究してる人なのに」
「今は授業だから」
「それ関係ある?」
「ある」
教師がまだ横にいる。
「ない」
「先生まで」
周囲の生徒がまた笑った。
アリシアは耳まで少し熱くなったが、以前のようにその後ずっと黙り込むことはなかった。
「じゃあ、どうやって温度見るんですか?」
「机の端に測定板がある」
「あった」
「説明を聞け」
「聞いてました」
「聞いていた者は触ろうとしない」
「……はい」
女子生徒がとうとう声を出して笑った。
アリシアも困ったように笑いながら測定板を取る。
金属板は開始前よりわずかに温度が上がっていた。
「ほんとだ」
「次、植物繊維やろう」
「うん」
実習はそのまま続いた。
植物繊維は魔力を流すとわずかに柔らかくなり、透明石は光量が変わり、金属板は温度が上がる。
同じ弱い魔力を流しても、現れる変化は違う。
けれど、アリシアはそれを午後の研究へ結びつけようとはしなかった。
これは授業だ。
決められた課題をこなし、隣の生徒と笑い、教師に注意される。
それだけで十分だった。
◇
昼休み、アリシアはいつもの友人たちと中庭の端で食事をしていた。
雲は朝より薄くなり、時折陽射しが落ちてくる。風は穏やかで、木陰へ座っていても寒くはなかった。
「さっき先生に怒られてたね」
友人がパンをちぎりながら言った。
「怒られてない。注意されただけ」
「触ろうとしたんでしょ?」
「何で知ってるの?」
「聞いた」
「誰から?」
「一緒だった子」
「早いよ」
「面白かったって」
「何が面白いの」
「研究してるのに説明聞かず触ろうとしたところ」
「説明は聞いてた!」
思わず声が大きくなり、少し離れた場所で昼食を取っていた生徒がこちらを見る。
アリシアは口を閉じ、それから小さな声で続けた。
「……測定板のところだけ抜けたの」
「それを聞いてないって言うんじゃない?」
「全部聞いてないわけじゃない」
「必死だね」
「だって違うもん」
友人たちが笑う。
アリシアは頬を膨らませたまま、自分の昼食へ手を伸ばした。
しばらくして話題は選択授業へ移った。
「植物管理の体験、行く?」
「予定が合えば」
「私は生活魔導具」
「名前だけで決めたやつ?」
「昨日より一個情報増えたよ」
「何?」
「小型の保温具作るらしい」
「それはちょっと楽しそう」
「でしょ?」
「でも植物も気になる」
「二つ行けば?」
「日が違うなら行ける」
「じゃあ行こうよ」
「あなた植物も行くの?」
「行かない」
「何で誘ったの」
「アリシアが行きたいなら行けばって意味」
「紛らわしい」
そんな話をしている間、午後の研究について考える時間はほとんどなかった。
食事を終えて教室へ戻る頃になって初めて、アリシアは鞄の中に研究用の練習帳が入っていることを思い出した。
忘れていたことに、少し驚く。
でも嫌ではなかった。
◇
午後の研究室では、昨日使った長机がそのまま残されていた。
ただし、九つの資料束はまだ棚の中にある。
机の上へ置かれているのは白紙と筆記具、そして大きな板が一枚だけだった。
アリシアは入口から机を見て、少し足を止めた。
「九枚ない」
「今日は最初に出さない予定です」
副学院長が答える。
「本当に見ないで決めるの?」
「少なくとも最初は」
アリシアは自分の席へ座った。
学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、装置調整担当、若い観測員が揃っている。
ノアはいつものようにアリシアの横へ来たが、今日は机へ飛び乗らず、足元へ座った。
「昨日の最後に、アリシアさんが書いた内容から始めましょう」
学院長が言った。
「私が書いたやつ?」
「新しい違いを探すなら、九例を見ながら違うところ探しを始めない方法を先に決めたい、という部分です」
「読んだの?」
「共有してよい部分として提出されていましたから」
「あ、そっか」
アリシアは少し恥ずかしくなった。
夜、一人で書いた文章を翌日読み上げられると、自分の言葉なのに妙に他人のもののように聞こえる。
「今日の目的は、新しい測定項目そのものを決定することではありません」
副学院長が続ける。
「違うの?」
「候補を考える可能性はあります。ただ、その前に“何を根拠に候補として採用するのか”を整理します」
「理由の方?」
「はい」
アリシアは白紙へ視線を落とした。
「昨日、学院長先生が言ってたやつだ」
「覚えていますか?」
「何を測るか、何で測るか、どう数えるかを先に決める。九個をきれいに分けるものを探すんじゃない」
「その方向です」
アリシアは筆を取った。
書き始めようとして、止まる。
「何から?」
「それを一緒に考えます」
◇
最初に出たのは、魔導具教師からの提案だった。
「候補となる特徴には、少なくとも三種類の根拠が考えられます」
「三つ?」
「一つは、装置や魔力伝達の仕組みから事前に意味があると考えられるもの。二つ目は、過去の別種の試験や既存資料で重要性が示唆されているもの。三つ目は、今回の九例から気づいたものです」
「三個目、駄目じゃないの?」
「駄目ではありません」
アリシアは顔を上げた。
「九個見て違うところ探しちゃ駄目って言ってたのに」
「“気づくこと”と、“それを同じ九例だけで確定した条件として扱うこと”は別です」
「……あ」
「九例を見て、新しい候補に気づくこと自体は避けられません。問題は、その九例を最もきれいに分けるように定義を調整し、同じ九例で強い結論まで出してしまうことです」
アリシアは少し考える。
「見つけるのはいい。でも見つけた紙だけで、“ほら当たった”ってしない?」
「かなり簡略化すれば、そうです」
「じゃあ三個目から出た候補は、次の記録で確かめる?」
「それが一つの方法です」
アリシアは白紙へ書いた。
『九例を見て気づいた違い=禁止ではない。同じ九例へぴったり合うよう作って、その九例だけで正解にしない』
書いたあとで首を傾げる。
「ぴったり合わなかったら?」
「どういう意味ですか?」
「九個見て気づいたけど、六対二をきれいに分けない違い」
「それでも候補にはなり得ます」
「分けないのに?」
「原因が一つとは限りませんから」
その言葉に、アリシアの筆が止まった。
分けられない特徴は、役に立たない。
どこかでそう思っていた。
反応あり六例と無反応二例を見た時、六と二を完全に分ける線を探していた。
「全部当てなくてもいいの?」
「“全部当てる特徴”だけを求める方が危険な場合があります」
「でも、原因なら全部同じにならない?」
今度は学院長が答えた。
「原因が一つで、他の条件に左右されず、それだけで反応有無が決まるなら、そうなるかもしれません。しかし今、その前提はありません」
「二個とか三個が一緒に必要かもしれない?」
「可能性としてはあります」
「一個が足りなくても、別の何かで補われるかもしれない?」
「それも可能性の一つです」
「じゃあ、六と二を一列で分けるものが見つからないからって、その列が意味ないとは言えない」
「はい」
アリシアは昨日の比較表を思い出した。
立ち上がり時間。
復帰時間。
自然な揺れ。
東側奥部の平均傾き。
ばらつき。
どれも六対二を完全には分けなかった。
だから、少しずつ「違うものを探さないと」と思っていた。
けれど、それは一つの特徴だけで答えが決まることを、無意識に期待していたのかもしれない。
「昨日、全部分けられないから残念って言った」
「言っていましたね」
サーラが頷く。
「今日も残念?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「少し。でも昨日と違う残念かも」
「どう違いますか?」
「昨日は、分けられないから使えないってちょっと思ってた。今は、分けられないだけで捨てるのも違うって思う」
サーラは穏やかに頷いた。
「それなら、昨日並べた意味がもう一つ増えましたね」
◇
大きな板の上に、候補を採用するための理由が少しずつ書き込まれていった。
一つ。
既知の装置特性や魔力現象から、測る意味を説明できること。
二つ。
測定方法を、反応あり・なしを知らない状態でも同じように適用できること。
三つ。
曖昧な印象ではなく、できる限り再現可能な定義を作れること。
四つ。
同じ九例をきれいに分けるためだけに、境界や区間を動かさないこと。
五つ。
九例から見つけた候補なら、それだけで結論にせず、将来の別記録や別試験で確かめる余地を残すこと。
そこまで書いたところで、アリシアが手を上げた。
「一個いい?」
「どうぞ」
「二つ目の、“反応ありなしを知らない状態でも同じように測れる”って、前にやった時間窓と似てる?」
「考え方は近い部分があります」
「結果見てから窓狭くしないのと同じ?」
「はい。ただし今回は時間窓だけではなく、新しい波形特徴全般に対する原則です」
「例えば、線の曲がり方を見るって決めたら、反応ありだけ細かく曲がりを見るのは駄目?」
「比較するなら、同じ規則を無反応側にも適用すべきでしょう」
「無反応の方だけ違う区間を見るのも?」
「その理由が反応有無とは独立して説明できなければ、問題になります」
アリシアは板を見る。
「これ、結構厳しいね」
『今さら楽だと思ってたの?』
足元からノアが言った。
「思ってない。でも、違い探すだけならもっと簡単」
『そりゃそうでしょう。違うところなんて探せばいくらでもあるもの』
「ノアも違うところいっぱいあるよ」
『誰と比べてるのよ』
「普通の猫」
『比較対象が雑すぎるわ』
若い観測員が笑う。
アリシアも少し笑ったが、すぐに板へ視線を戻した。
「でもさ」
「はい」
「九個から見つけた候補を、次の記録で確かめるって言っても、次の記録っていつできるの?」
室内の空気が少し変わった。
これは、単なる方法の話ではない。
新しい人工刺激をいつ行うのかという問題へ近づく。
学院長は急いで答えなかった。
「そこは今日、決めません」
アリシアは少しだけ肩を落とした。
「やっぱり」
「新しい刺激条件へ進むのか、既存安全範囲内で同条件の再現を増やすのか、あるいは過去資料から独立した記録を探すのか。候補はいくつかあります」
「まだ決めない?」
「はい」
「私、やりたいって言ったら?」
「意見として記録します」
「決定にはならない?」
「あなた一人で決めることではありませんし、私一人で決めることでもありません」
「分かってる」
アリシアは少し口を尖らせた。
それでも、以前ほど強い不満はなかった。
人工刺激を受けるのは自分だ。
だから自分の意思は必要だ。
けれど、自分が知りたいからという理由だけで実施するものでもない。
「やりたい気持ちはある」
「どの程度ですか?」
安全確認ではないが、学院長はあえて尋ねた。
アリシアは少し考えた。
「かなり。でも、今日やりたいわけじゃない」
「その違いは?」
「次の記録は欲しい。でも何を見るか決めないまま刺激しても、あとでまた違うところ探すだけになる気がする」
副学院長が小さく頷いた。
「では、その気持ちも今日の記録へ残しておきましょう」
◇
休憩を挟んだ後、ようやく九つの資料束が棚から出された。
アリシアは思わず背筋を伸ばした。
「出すんだ」
「出します。ただし、今日は新しい違いを自由に探すためではありません」
「じゃあ何するの?」
「今決めた基準を使って、以前から気になっていた候補のうち、次に検討する価値があるものを選べるか確認します」
魔導具教師が別の紙を置いた。
そこには、これまでの研究中に保留された候補が書かれている。
アリシアは上から読む。
入力小変動の細かな形状。
入力直前の自然揺れの間隔。
東側奥部の下降の仕方。
東側奥部の局所的なばらつき方。
入力から東側奥部追加反応までの関係。
ほかにもいくつかあるが、どれも過去に一度は話題になり、その場で正式な比較項目へ追加しなかったものだ。
「いっぱいある」
「だから全部を測り始めません」
「どれ選ぶ?」
「まず理由を確認します」
アリシアは一番上を見る。
「入力小変動の細かな形状」
「これは装置側から一定の理由があります」
魔導具教師が説明する。
「同じ程度の小変動でも、変化がどの程度急峻か、復帰が滑らかか、局所的な形状がどう違うかで、伝達先への影響が変わる可能性は理論上あります」
「立ち上がり時間と復帰時間はもう見てるよね」
「はい。ですから、単に同じものを別名で増やしてはいけません」
「じゃあ形って何?」
「そこが問題です」
教師は九枚へ手を伸ばさなかった。
「“形”では曖昧すぎます。先に測定可能な定義へ落とせなければ、候補として採用しません」
「丸いとか尖ってるとか?」
「それを目で見て決めるだけでは再現性が弱い」
「前に丸さ増やさなかったのと同じだ」
「そうです」
アリシアは納得して頷いた。
次は自然揺れの間隔。
「これはもう回数と振幅見てる」
「はい。間隔そのものは正式項目にしていません」
「何で候補に残ってるの?」
「古い自然小変動記録を比較した時、応答候補ありとなしで細かな揺れの間隔に違いがあるように見えたからです」
「あった」
アリシアは覚えている。
ただし、古い記録だった。
制御試験ほど条件が揃っていない。
「九個見て気づいたんじゃない?」
「完全には違います。現在の九例を本格的に並べる前、古い参照記録から候補が出ています」
「じゃあ少し独立してる?」
「少なくとも、現在の六対二を最もきれいに分けるために作った候補ではありません」
「測り方は決められる?」
「可能です。ただし、“間隔”をどの区間で、どの大きさ以上の揺れを一つと数えるかは事前に固定する必要があります」
アリシアは少し身を乗り出した。
「これ、候補としていいんじゃない?」
「まだ決定しません」
「何で?」
「理由がある、測定可能である、という二点を満たしそうだと確認しただけです」
「厳しい」
『さっきも言ってたわね、それ』
ノアの声に、アリシアは口を閉じた。
◇
東側奥部の候補も同じように確認した。
下降の仕方。
局所的なばらつき方。
平均傾きと全体のばらつきはすでに測っているため、それらと重複しない新しい情報が本当にあるのかを考える必要がある。
「細かくすればするほど、何か違い出そう」
アリシアが言った。
「その通りです」
副学院長が答えた。
「だから危ない?」
「はい。区間を短く分け、位置をずらし、数え方を変えれば、九例のどこかに特徴的な差は見つかるでしょう」
「それ、見つけちゃ駄目なの?」
「見つけること自体ではなく、その差をどの程度信じるかの問題です」
「またそれだ」
「研究では何度も出てきます」
アリシアは唇を尖らせた。
「一回覚えたら終わりじゃないんだね」
「状況が変わるたび、同じ考え方を別の形で使います」
「面倒」
『二回目』
「数えないで」
『今日はよく言うから』
アリシアはノアを睨んだ。
しかし、確かに面倒だった。
答えを知りたいだけなのに、答えへ近づくほど「どうやって知ったことにするか」を考えなければならない。
けれど、それをしなければ、自分の欲しい答えを見つけてしまうかもしれない。
それはもっと嫌だった。
◇
検討を続けた結果、今日のうちに正式な新項目は一つも採用されなかった。
代わりに、次回さらに定義可能性を検討する候補が二つだけ残った。
一つは、入力前の固定区間における自然揺れの時間間隔。
もう一つは、入力小変動そのものの局所形状について、既存の立ち上がり時間・復帰時間と重複しない定量化が可能かどうか。
ただし二つ目は、測り方そのものが作れなければ候補から外す。
東側奥部の局所変化については、現在の九例を見ながら区間を細分化すると後付けになりやすいため、今日は保留された。
「二個まで減った」
アリシアが板を見る。
「候補です。採用ではありません」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるよ」
少し間を置いてから、アリシアは付け加えた。
「……一個目は結構見たいけど」
「それも記録しておきますか?」
「書く」
練習帳へ、
『自然揺れの間隔は見たい。古い参照記録で先に候補が出ていたから、九例だけを見て作った違いより少し安心する。でも、それで当たるとは決めない』
と書く。
「安心って変?」
「いいえ」
サーラが答えた。
「なぜそう感じるか分かっているなら、そのまま残してよいと思います」
「じゃあ残す」
アリシアは筆を置いた。
時計を見る。
昨日より少し早い。
「今日は九個の数字、ほとんど見なかったね」
「はい」
「研究した感じ薄い」
「そうですか?」
「紙いっぱい見たけど、結果が増えてない」
「方法を決めるのも研究です」
「分かってるけど、地味」
魔導具教師が微かに笑った。
「地味な日が続きますね」
「先生、絶対好きでしょ」
「否定はしません」
「昨日もそれ言った」
「事実が変わっていないので」
アリシアは笑った。
◇
研究室を出たところで、廊下の窓に小さな雨粒が当たった。
「あ、降ってる」
朝の雲が戻ってきたらしい。
まだ弱い雨だが、学院の中庭では生徒たちが軒下へ移動し始めている。
アリシアは鞄から折り畳んだ傘を出した。
『今日は持ってきたのね』
「朝、曇ってたから」
『成長したじゃない』
「何その言い方」
『前は私まで濡らしかけたでしょう』
「ちゃんと入れたよ」
『途中からね』
「今日は最初から入れる」
傘を開き、ノアが入れるよう少し低くする。
『歩きにくい』
「じゃあ抱く?」
『それはもっと嫌』
「注文多いなあ」
『猫だからね』
「便利だね、それ」
外へ出る。
雨は細く、石畳へ淡い点を増やしていた。
アリシアは傘を少しノア側へ傾けながら歩く。
今日は答えが増えなかった。
新しい測定項目さえ決まらなかった。
それでも、昨日の夜に書いた「違いを探す前に決める」という言葉は、少しだけ具体的になった。
違いを見つけること自体を怖がる必要はない。
ただ、なぜ見るのか。
どう測るのか。
結果を知らなくても同じ規則を使えるのか。
同じ九枚へ合わせて形を作っていないか。
それを先に考える。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供の袋は朝より少しだけ縫い進められていた。
「雨」
アリシアが言うと、子供は窓を見る。
「ほんとだ」
「今日は外出ない方がいいね」
「うん」
「袋やってた?」
「ちょっと。あと絵」
机の端には一枚の紙が置かれている。
庭の木らしい。
葉は緑だけではなく、青や黄色も混じっていて、実際の木よりずっと鮮やかだった。
「これ、朝の木?」
「違う。こういう木があったらいいなって」
「想像?」
「うん」
「いいね」
「本当の木と違ってもいい?」
「想像ならいいんじゃない?」
「紫の葉も?」
「好きにしていいよ」
「じゃあ増やす」
子供は嬉しそうに色鉛筆を取った。
アリシアはその隣へ座る。
研究室では、実際に記録されていない線を勝手に足してはいけない。
でも、ここでは存在しない紫色の葉を好きなだけ描いていい。
その違いを、わざわざ子供へ説明する必要はなかった。
「アリシアは見るもの決まった?」
紫の色鉛筆を動かしながら、子供が尋ねた。
「二個、候補が残った」
「見る?」
「まだ」
「何で?」
「ちゃんと測れるか決めてないから」
「じゃあ明日?」
「明日決まるかも分からない」
「遅いね」
「遅い」
アリシアは笑った。
「でも、今はそれでいい」
子供は「ふうん」と答え、また絵へ戻った。
少し離れた椅子では、顔のない存在が静かに窓の雨を見ているような姿勢を取っていた。何を見ているのかは分からない。
しばらくすると、ゆっくりと身体を前へ傾ける。
子供の手が止まった。
顔のない存在は椅子から立ち上がった。
誰も声をかけない。
担当職員も少し離れた場所から見守っている。
一歩。
そこで止まる。
長い間があった。
雨粒が窓を流れ、子供の色鉛筆が机の上で転がって小さな音を立てた。
顔のない存在はもう一歩だけ進み、その後、自分で身体の向きを変えて椅子へ戻った。
子供は記録用の紙を取った。
「二歩」
書きかけて、少し考える。
「雨の窓の方?」
アリシアは答えなかった。
「どうだろう」
「見てた?」
「窓の方に身体は向いてた。でも雨を見てたかは分からない」
「じゃあ書かない」
「うん」
子供は紙へ、
『二歩。少し止まった。自分で戻った』
とだけ書いた。
「昨日より?」
アリシアが尋ねる前に、子供は首を横へ振った。
「比べない」
「そっか」
「今日は今日」
アリシアは少し笑った。
「うん」
それ以上、何も付け足さなかった。
◇
夜。
自室へ戻ったアリシアは、机の上に二冊の手帳を置いた。
一冊は研究用。
もう一冊は学院生活の予定用。
先に開いたのは予定用だった。
植物管理の体験日を確認する。
午後。
今のところ研究予定は入っていない。
「申し込もうかな」
『まだ言ってるの?』
寝台の上でノアが身体を伸ばした。
「今日、友達にも二つ行けばって言われた」
『なら二つ行けば』
「生活魔導具も?」
『私に聞かないでよ』
「ノアならどっち?」
『どっちも興味ない』
「そう言うと思った」
『なら聞くな』
アリシアは笑いながら、植物管理の体験日へ小さな丸をつけた。
申し込み確定の丸ではない。
忘れないための印だ。
それから研究用の練習帳を開く。
今日決めた五つの考え方を、自分の言葉で書き直していく。
仕組みや過去資料から、見る理由があること。
反応あり・なしを知らなくても同じ方法で測れること。
誰が測っても大きく変わらない定義を作れること。
九例をきれいに分けるためだけに境界を動かさないこと。
九例から見つけた候補は、それだけで答えにせず、別の記録で確かめること。
最後の項目を書いたところで、アリシアはしばらく筆を止めた。
別の記録。
その言葉は、少しだけ胸をざわつかせる。
新しい人工刺激を行うのかもしれない。
過去の別記録を探すのかもしれない。
同じ条件で再現を増やすのかもしれない。
まだ何も決まっていない。
けれど、自分は新しい記録を欲しがっている。
それも書いておく。
『次の記録は欲しい。でも、次の記録を取ること自体を目的にしない。何を確かめる記録なのか決めてからにしたい』
書き終え、少し考える。
さらに一行。
『今の候補では、入力前の自然な揺れの間隔が気になる。理由は、今の九例を並べる前の古い記録から候補が出ていたから。ただし、気になることと正しいことは別』
そこで筆を置いた。
今日、九枚は研究室にあった。
けれど、最初から机へ広げなかった。
違いを見つけることより先に、どんな違いなら確かめる価値があるのかを考えた。
その結果、答えは一つも増えていない。
それでも昨日とは違う。
昨日までは、九枚の中から六と二を分ける線を見つけたいと思っていた。
今日、その線が一本である必要さえないと知った。
全部を分けられない特徴にも意味があるかもしれない。
複数の条件が重なっているかもしれない。
まだ測っていないものがあるかもしれない。
そして、九枚を見て新しい違いに気づくこと自体は間違いではない。
ただし、その九枚に合わせて物差しを削り続け、ぴったり分かれた瞬間に「これが答えだ」と言ってはいけない。
アリシアは窓の外を見る。
雨はまだ続いていた。
暗い窓ガラスを細い水滴がゆっくり流れている。
明日、候補の測り方が決まるとは限らない。
自然揺れの間隔を正式な比較項目へ加えられるかもしれないし、定義がうまく作れず保留になるかもしれない。
局所形状の候補は、既存の立ち上がり時間や復帰時間と同じものを別の言葉で測っているだけだと分かるかもしれない。
どれもまだ決まっていない。
それでいい。
今夜のアリシアには、答えがないことより、答えに見えるものを自分で作ってしまう方が少し怖かった。
だから次に九枚へ触れる時は、違いを探す目より先に、その違いを測る物差しを置く。
そして、その物差しが九枚の結果を知らなくても作れたものなのかを、もう一度確かめる。
アリシアは練習帳を閉じた。
寝台へ向かおうとしたところで、予定手帳に付けた小さな丸が目に入る。
「植物管理……」
『今度は何?』
「やっぱり行きたいかも」
『行きなさいよ』
「研究入ったら?」
『その時考えなさい』
「うん」
今度は素直に頷いた。
研究の次の一手も、選択授業も、今夜すべて決める必要はない。
ただ、候補を残しておくことはできる。
それは答えを先延ばしにすることとは、少し違っていた。




