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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第216話 九枚を同じ机へ戻しても、違う長さの記録まで揃えてはいけない

朝の生活観測区画には、昨日まで吹いていた風の名残がほとんどなかった。


 窓の外では、庭の木々がときおり葉先を揺らす程度で、枝の間から差し込む光も落ち着いている。夜のうちに冷えた空気がまだ床の近くへ残っているのか、素足で歩けば少しだけ冷たそうだったが、共用机の周りには朝食の湯気と焼いたパンの匂いが広がり、部屋全体には穏やかな温かさがあった。


 アリシアは椅子に座り、両手で温かい飲み物の器を包んでいた。


 机の上に研究用の練習帳はない。


 昨日の夜、自分で閉じたままだ。


「今日は九個見るの?」


 向かいでパンを小さくちぎっていた子供が尋ねた。


「たぶん見る。でも、九個を最初から最後まで全部やり直すわけじゃないよ」


「並べる?」


「うん。今まで見た違いを、時間のことも一緒にして並べ直す感じかな」


 子供は口へ入れようとしていたパンを一度止めた。


「長いのと短いのも?」


「それも残す」


「同じ大きさにしない?」


「紙の大きさは同じかもしれないけど、記録の長さは揃えないよ」


「何で?」


 アリシアは器から立つ湯気を眺めながら、少しだけ考えた。


 昨日、自分が一度やりかけたことだった。


 二つ目の無反応記録が十分に長かったから、一つ目の西側記録の先も、きっと同じように何もなかったのではないかと思いたくなった。似た試験なのだから、同じような続きを想像してもいいのではないかと。


 けれど、それは記録されたことではない。


「短かった記録を、長かったことにしたくないから」


「昨日のやつ?」


「そう。一個目の無反応の西側は、途中で終わってるの。二個目はもっと長く残ってる。でも二個目が長いからって、一個目まで長く見たことにはできない」


「空いてるまま?」


「うん」


 子供は自分の皿へ目を落とした。


「私の線みたい」


 アリシアはすぐには返事をしなかった。


 木箱の中にある暗い物体、その表面へ刻まれているかもしれない細い線。見えていない途中を灰色の仮説線で埋めず、空白として残していることを言っているのだろう。


 似ている部分はある。


 けれど、何でも同じ話にしてしまうのも違う気がした。


「ちょっと似てるところはあるかも。でも今日は私の記録の話ね」


「うん」


 子供もそれ以上は重ねなかった。


 その隣では、顔のない存在がいつもの椅子へ座っている。胸元の光については朝の担当者が記録を終えたところだったが、アリシアは数を尋ねず、子供も紙を覗き込まなかった。


 窓辺の長椅子ではノアが身体を丸めている。


「今日、来る?」


 アリシアが声をかけると、片耳だけが動いた。


『その聞き方、最近増えてない?』


「だって来るか分からないから」


『来なかったことある?』


「ほとんどない」


『なら聞く必要ないでしょう』


「じゃあ来るんだ」


『勝手に結論を出さないで』


「来ないの?」


『行くわよ』


 アリシアは笑った。


 子供も小さく笑い、ノアは不満そうに尻尾の先を一度だけ揺らした。


 今日は人工刺激を行わない。


 過去記録を並べ直すだけの日だ。


 それでも、昨日までとは少し違う。


 反応が確認された七例と、対象としている三つの反応が確認されなかった二例。その九例を、今まで調べてきた入力側の違い、東側奥部の事前状態、そして今回整理した時間情報を保ったまま、一つの机へ戻す。


 何か新しい答えが出るとは決まっていない。


 むしろ、新しい答えを作るために並べるのではない。


 それを、アリシアは朝から何度か自分へ言い聞かせていた。


     ◇


 午前の学院では、選択授業についての案内が掲示板へ追加されていた。


 授業を終えて廊下へ出た生徒たちが、昼休み前のざわめきの中で足を止めている。窓から入る陽射しは昨日より明るく、廊下の石床には長い窓枠の影が並んでいた。


「増えてる」


 友人が掲示板の前で言った。


「何が?」


「体験日。植物管理、来週もあるって」


 アリシアも掲示を見る。


 以前少し興味を持った授業だ。


 薬草園や学院内の植栽を使い、魔力を帯びた植物の管理方法、土壌、水分、日照、魔力濃度の調整などを学ぶらしい。


「アリシア、これ気になってたよね?」


「うん。ちょっと」


「体験行く?」


「予定見てから」


「研究?」


「それもあるけど、他の授業も見たい」


「何か真面目」


「選ぶんだから見るよ」


「私はもう決めた」


「早い」


 友人は別の案内を指差した。


「生活魔導具実習。楽しそうじゃない?」


「何作るの?」


「知らない」


「決めたのに?」


「名前が楽しそうだったから」


 アリシアは思わず笑った。


「それで決めたの?」


「体験してつまらなかったら変える」


「決めてないじゃん」


「仮決定」


「便利な言葉」


 周囲でも何人かの生徒が、自分の候補を指差しながら話している。


 戦闘術の上級実習を選びたい男子生徒と、それを止める友人。薬草調合と治療補助のどちらにするか迷っている女子生徒。掲示板の下では、一年生らしい生徒が人の多さに入れず、少し離れたところから紙を覗き込んでいた。


 アリシアは植物管理の体験日だけ覚えようとして、すぐに諦めた。


「書いとこ」


 鞄から小さな手帳を出す。


 日付を書いていると、友人が横から覗いた。


「研究の手帳?」


「違うよ」


「本当に?」


「普通の予定」


「最近、何でも記録してそうだから」


「してない」


「朝ご飯とか」


「しないよ」


「猫が何回あくびしたかとか」


「それはノアが怒る」


「何の話?」


 後ろから別の男子生徒が混ざってきた。


「アリシアが猫のあくびを記録してるって」


「してない!」


 少し大きな声が出た。


 近くにいた生徒が二、三人こちらを見る。


 アリシアは一瞬だけ頬を熱くしたが、すぐに友人の肩を軽く押した。


「変なこと言わないでよ」


「ごめんごめん」


「でも黒猫ってよく寝てない?」


 男子生徒が尋ねる。


「それ本人の前で言わない方がいいよ」


「怒るの?」


「たぶん」


「怖いな」


「噛まないけど、ずっと嫌味言われる」


「そっちの方が嫌だな」


 昼休みを知らせる鐘が鳴り、廊下の人波が動き始める。


 アリシアは手帳を閉じた。


 植物管理の体験へ行くかはまだ決めない。


 研究の予定もある。


 ほかの授業も見たい。


 だから今日決めなくてもいい。


 以前なら、選べないことに少し焦ったかもしれない。


 今は、昼食の方が先だった。


「食堂行こう」


「今日何だっけ?」


「魚だったと思う」


「肉がいい」


「知らないよ」


 そんな話をしながら、アリシアは友人たちと階段を下りた。


     ◇


 午後の研究室には、いつもより大きな机が用意されていた。


 正確には、長机を三つ並べて一つの広い作業面にしている。


 窓から入る午後の光が紙へ直接当たりすぎないよう薄い布が下ろされ、室内には魔導具の微かな作動音と、紙をめくる乾いた音だけが響いていた。


「多い」


 アリシアは入口で立ち止まった。


 机の上には九つの資料束がある。


 反応あり七例。


 無反応二例。


 どれも表紙の色は同じだが、厚さが微妙に違う。


『今さら?』


 足元からノアが言う。


「一個ずつ見てた時より多く見える」


『九個なんだから九個分あるでしょう』


「分かってるけど」


 アリシアは自分の席へ向かった。


 学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、若い観測員、装置調整担当がすでに揃っている。今日は新しい刺激を行わないため、安全担当や治療担当は通常業務へ戻っており、必要時に呼べる状態だけ確保されていた。


「始める前に、今日しないことを確認します」


 副学院長が言った。


 アリシアは椅子へ座りながら頷く。


「原因を決めない」


「それも一つです」


「新しい項目を勝手に増やさない」


「はい」


「短い記録を長くしない」


「重要です」


「無反応二個を同じにしすぎない」


 副学院長の口元が少し緩んだ。


「よく覚えていますね」


「昨日それで失敗しかけたから」


「失敗はしていません」


「しかけた」


 アリシアは練習帳を開いた。


 昨日の最後に書いた文章が残っている。


『無反応例二の方が好き。既知の反応時間範囲を越えて三者を確認できているから。だから例一の西側観測が短いことを邪魔だと少し思った』


 その下には、例二で例一の未観測部分を埋めないという注意もある。


 アリシアはそこへ指を置いた。


「今日はこれ守る」


「はい」


 学院長が九つの資料を見る。


「今日の目的は、これまで別々に検討してきた情報を、同じ比較表へ戻すことです。ただし、同じ表へ置くことと、同じ条件として扱うことは別です」


「七個の反応ありも、全部同じじゃないもんね」


「その通りです」


「時間窓も違った」


「はい」


「無反応二個も観測の長さが違う」


「はい」


「入力が前半か後半かも違う」


「はい」


 アリシアは少し眉を寄せた。


「いっぱい違うね」


『今ごろ気づいたの?』


「前から知ってたけど、九個一緒だと多い」


『だから一個の答えに押し込むなって散々やってたんでしょう』


「ノア、今日はよく喋るね」


『あなたが入口からずっと同じこと言ってるからよ』


 若い観測員が笑いを堪えるように口元へ手を当てた。


 アリシアは少しだけノアを睨んだが、反論はしなかった。


     ◇


 最初に作られたのは、九例を縦に並べた比較表だった。


 横軸には、すでに採用済みの項目だけが置かれる。


 入力種別。


 意図的小変動の位置。


 立ち上がり時間。


 復帰時間。


 固定された事前区間内にある自然な揺れの回数と振幅。


 東側奥部の事前平均傾き。


 同じ区間のばらつき。


 東側奥部追加低下の有無。


 アリシアの対象感覚の有無。


 西側対象弱波形の有無。


 そして今回追加されたのは、新しい特徴量ではなく、それぞれの記録がどこまで成立していたかを示す時間情報だった。


「無反応だけ?」


 アリシアが尋ねる。


「主に重要になるのは無反応例ですが、反応あり七例についても元の時間窓と記録範囲は保持します」


「反応が出た後も記録は続いてたもんね」


「はい。ただし今日は、反応あり七例の窓を再計算しません。すでに固定したものをそのまま使います」


「また直したくなっても?」


「方法上の重大な問題が見つからない限りは」


 アリシアは頷いた。


 それならいい。


 七枚を見終えた時に決めた規則を、無反応二枚が加わったからといって動かさない。


 魔導具教師が表の上へ細い透明板を置いた。


 そこには九例の時間軸が同じ縮尺で印刷されている。


 反応あり例には、東側奥部、アリシア感覚、西側弱波形の各時間窓。


 無反応例には、それぞれの記録終端。


「これ、分かりやすい」


 アリシアが身を乗り出した。


 昨日まで一枚ずつ見ていたものが、同じ零点から横へ伸びている。


 無反応例一では、西側の線だけが他より早く終わる。


 無反応例二は三本とも長い。


「一個目、本当に西側だけ短いんだ」


「はい」


「昨日も見たけど、並べるともっと分かる」


「だからこそ注意が必要です」


 副学院長が言った。


「何に?」


「見た目が分かりやすいと、そこへ意味を付けすぎることがあります」


 アリシアは一度口を閉じた。


 確かに、今すぐ言いそうになった。


 無反応例一の西側だけ短い。


 だから何か特別なのではないか。


 しかし、短いのは現象の結果ではなく、保存されている記録の終端だ。


「西側が短いから無反応になったわけじゃない」


「少なくとも、その因果は言えません」


「装置記録がそこで終わってるだけ」


「はい」


「危なかった」


 アリシアは練習帳へ一言だけ書いた。


『記録終端を現象の特徴にしない』


 その横でノアが欠伸をした。


 アリシアはちらりと見る。


『何よ』


「何でもない」


『書いたら引っ掻くわよ』


「書かないよ」


 向かいにいたサーラが吹き出しそうになり、視線を紙へ落とした。


     ◇


 九例を並べたあと、まず入力側の既存項目から確認した。


 以前にも何度も見た情報だ。


 意図的小変動が反応あり六例にも無反応二例にも存在すること。


 前半寄りにも反応ありと無反応があり、後半寄りにも反応ありと無反応があること。


 立ち上がり時間や復帰時間だけで、六例と二例を完全には分けられないこと。


 自然な細かな揺れについては違いの候補が見えた記録もあるが、反応有無を一つの閾値で分けるほど単純ではないこと。


 アリシアは説明を聞くだけではなく、表の列を指で追った。


「これ、前にも思ったけど、反応あり六個が全部同じ側に固まってない」


「はい」


 魔導具教師が答える。


「立ち上がり時間だけで並べても、無反応二例の間へ反応あり例が入ります」


「復帰も?」


「同様です」


「揺れの数は?」


「分布に偏りらしいものを考えられる部分はありますが、現在の例数では一つの境界で分けられません。また、揺れを数える区間と基準は以前固定したものを使用しています」


「今日、数え方変えない?」


「変えません」


 アリシアは安心したように息を吐いた。


 以前なら、「もっと細かく見れば違いがあるかも」とすぐ言ったかもしれない。


 今もそう思わないわけではない。


 入力波形には、まだ測っていない特徴がいくらでもあるはずだ。


 けれど、反応ありと無反応を見た後で都合のいい特徴を探し続ければ、いつか何かしらは違って見える。


「新しいの探したくなる」


 アリシアが言った。


「何をですか?」


「この列じゃ分かれないなら、別の列」


 魔導具教師はすぐには否定しなかった。


「将来的に新しい特徴を検討すること自体は悪くありません。ただし、“この九例をきれいに分けられる特徴を見つけるまで探す”のは危険です」


「見つけたら答えっぽく見えるから?」


「はい。偶然の違いまで拾う可能性があります」


「じゃあ今は増やさない」


「今日はその予定です」


 アリシアは少し残念だった。


 新しい列を作れば何か分かるかもしれないという期待はある。


 その気持ちまで消す必要はない。


 だから練習帳の端へ、


『新しい特徴を探したい気持ちはある。でも今日は既存項目だけ』


 と書いた。


     ◇


 次は東側奥部の事前状態だった。


 平均傾きと、ばらつき。


 無反応例一は、九例の中でも下降側へ目立つ位置にある。


 以前、この記録だけを強く意識した時には、アリシアも研究班も「東側奥部がすでに下降している時には、追加反応が出にくいのではないか」と考えた。


 しかし、その後に反応あり例の中にも近い下降状態が見つかった。


 さらに無反応例二は、比較的平らな側に位置している。


「やっぱり二個目がいると、下降だけってもっと言えないね」


「はい」


「一個目だけなら、かなり怪しく見えたのに」


「そうですね」


「でも一個目の下降がなくなったわけじゃない」


「もちろんです」


 アリシアは表の二つの無反応例を交互に見る。


 無反応例一の下降は、今も目立つ。


 ただし「無反応だから下降していた」のではなく、「無反応例の一つに強めの下降が観測されていた」に変わった。


 似ているようで、意味は大きく違う。


「ばらつきは?」


「こちらも完全な分離はありません」


「無反応二個が同じところにいない?」


「はい。反応あり例と重なる範囲にあります」


「じゃあ今ある事前状態二個だけでも分かれない」


「現在はそうです」


 アリシアは背もたれへ少し身体を預けた。


 机の上に九例が並んでいる。


 情報は増えているのに、答えは簡単にならない。


 以前なら、そのことにもっと苛立っただろう。


 今も少しは悔しい。


 けれど、表を見ているうちに別の感覚も出てきた。


「時間の情報入れても、ここの並びは変わらないね」


「どういう意味ですか?」


 サーラが尋ねる。


「一個目の西側が短いって分かっても、東側の事前下降が強かったことは変わらない。二個目が長く見られてたって分かっても、平らだったことは変わらない」


「はい」


「時間を見たら、前に見た違いが全部ひっくり返るのかと思ってた」


「なぜそう思ったのですか?」


「新しい情報だから」


 サーラは少し笑った。


「新しい情報が、古い情報を消すとは限りません」


「増えるだけのこともある?」


「もちろんです」


 アリシアは表へ視線を戻した。


 九例は、昨日より複雑になった。


 けれど、前に見たものが間違いになったわけではない。


 どこまで使えるかが少し変わっただけだ。


     ◇


 ここで一度休憩になった。


 窓が少し開けられ、外の空気が入ってくる。


 午後の陽射しで室内は暖かくなっていたため、冷たい風が頬へ触れると気持ちよかった。


 アリシアは廊下へ出て、水を飲んだ。


 ノアも後からついてくる。


『顔が難しいわよ』


「難しいこと見てるから」


『それで何か分かった?』


「今まで分かってたことで、まだ使えるのと、使い方に注意がいるのが分かってきた」


『地味ね』


「地味」


『嫌?』


 アリシアは答える前に、窓の外を見た。


 中庭では何人かの生徒が次の授業へ向かって歩いている。遠くでは運動系の授業らしく、掛け声と笛の音が混じっていた。


「嫌じゃない。でも、九個並べたら何か一個くらい“これだ”って出るかと思ってた」


『朝は答えを作るためじゃないって言ってたでしょう』


「言った」


『昼には忘れた?』


「忘れてないよ。ちょっと期待しただけ」


『なら期待したまま戻ればいいじゃない』


「何で?」


『別に期待してはいけない規則はないんでしょう』


「記録変えなければ」


『ならそうすれば』


 ノアは廊下の陽だまりへ座った。


 アリシアはその横へしゃがむ。


「ノア、今日は真面目だね」


『いつも真面目よ』


「嘘」


『失礼ね』


「でもありがとう」


『急に気持ち悪いこと言わないで』


「何でよ」


『礼を言われるほどのこと言ってないもの』


「そういうところ」


『戻りなさい。休憩終わるわよ』


 ちょうど室内からサーラが顔を出した。


「アリシアさん、そろそろ再開します」


「はい」


 立ち上がる。


 ノアも当然のようについてきた。


     ◇


 休憩後、ようやく時間情報と反応有無を同じ表で見る作業へ入った。


 ここで研究班が最初に分けたのは、三つの対象だった。


 東側奥部追加低下。


 アリシアの対象冷感。


 西側対象弱波形。


「全部一緒にしないの?」


「最終的には三者の組み合わせも見ます。しかし、無反応例一では西側だけ観測終端の制約が大きいため、最初から三者を一つの○×へすると情報を失います」


「東側と私は、一個目でも既知の時間より後まで見てる」


「はい」


「西側だけ、一番遅い反応ありの後端までは行ってない」


「その通りです」


 透明板の上で、無反応例一の三本の線が示される。


 東側とアリシアは十分に長い。


 西側だけが短い。


「じゃあ東側だけなら、無反応例一も二も使える?」


「“反応あり七例で確認された既知時間範囲内に対象追加低下がなかったか”という問いなら、両方使えます」


「私も?」


「同じ考え方で、両方使えます」


「西側は?」


「無反応例二は既知七例の最遅後端を越えています。例一はそこまで届いていません」


「だから一個目を捨てる?」


「いいえ」


 副学院長の返答は早かった。


「何を問うかによって使える範囲が変わります」


 アリシアは少し考えた。


「一個目も、記録があるところまでは西側反応なし」


「はい」


「その範囲には、反応あり七個の西側窓も何個か入ってる」


「はい」


「でも全部じゃない」


「その通りです」


「じゃあ、“西側無反応かどうか分からない記録”でもない?」


「そこも重要です」


 魔導具教師が口を挟んだ。


「無反応例一は、西側について何も言えない記録ではありません。保存区間内に対象弱波形が確認されず、その区間は複数の反応あり例で西側波形が確認された時間帯を含んでいます。ただし、七例すべての既知時間範囲を覆ってはいない。それだけです」


「ゼロか百じゃないんだ」


「記録の多くはそうです」


 アリシアは思わず苦笑した。


「面倒」


「研究はそういうものです」


「先生、嬉しそう」


「そう見えますか?」


「ちょっと」


 魔導具教師が眼鏡を直す。


「否定はしません」


 若い観測員が小さく笑い、学院長まで口元を緩めた。


 張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。


     ◇


 次に、反応あり六例と無反応二例の「東側奥部追加低下」の列だけを抜き出した。


 滑らかな入力三例は、今回は別枠に置かれている。


 意図的小変動を含む八試行の中で、六例には東側奥部追加低下があり、二例にはない。


 時間範囲を確認した後でも、この二例の東側奥部記録は、既知の反応時間を覆っている。


「ここは二個とも残る」


 アリシアが言った。


「はい」


「時間不足で東側の追加低下を見逃したっていう説明は?」


「少なくとも反応あり七例で既知の東側時間範囲を基準にするなら、支持されにくいです」


「私の冷感も二個とも同じ?」


「はい。既知の感覚時間範囲を越えて定型確認が継続しています」


「じゃあ東側と私は、無反応二個ともかなり似た扱いができる」


「観測範囲という一点では」


 副学院長が補足した。


「入力位置、事前状態、波形細部まで同じという意味ではありません」


「分かってる」


 アリシアは練習帳へ書きながら答えた。


『東側追加低下と自分の対象冷感については、無反応二例とも既知反応時間範囲を越えて非確認。西側だけ例一に終端制約が大きい』


 そこで筆を止める。


「これ、前より無反応二個の違いが小さくなったところと、大きくなったところがある」


「どういう意味ですか?」


「東側と私は二個とも同じくらい使えるって分かった。でも西側は二個目の方が言える範囲が広い」


「はい。その整理でよいでしょう」


 アリシアは少し嬉しくなった。


 原因が分かったわけではない。


 それでも、九枚を並べた意味が一つ見えた。


 全部を同じ重さで使うのでもなく、一つ目を丸ごと弱い記録として捨てるのでもない。


 問いごとに使える範囲を分ける。


「一枚の記録に、一個の強さがあるわけじゃないんだ」


 アリシアが呟く。


 学院長が視線を上げた。


「続けてください」


「無反応例一は、西側の遅いところを見るには二個目より足りない。でも東側と私を見るなら、ちゃんと既知の時間を越えてる。だから“例一は弱い、例二は強い”って丸ごと決めるの変」


「その理解は重要です」


「昨日、ちょっと丸ごと順位つけてた」


「気づけたなら構いません」


「二個目の方が好きなのは変わらないけど」


『そこは頑固ね』


 ノアが机の端で言った。


「好きはいいんでしょ」


『勝手にすればって昨日言ったわ』


「覚えてた」


『私を何だと思ってるの』


「猫」


『そういう意味じゃないわよ』


 室内にまた小さな笑いが広がった。


     ◇


 作業はそこからさらに一時間ほど続いた。


 しかし、九例から新しい決定的な分離条件は見つからなかった。


 立ち上がり時間だけでは分かれない。


 復帰時間だけでも分かれない。


 固定事前区間の自然揺れも、現在の基準では完全な境界を作らない。


 東側奥部の平均傾きも、ばらつきも同様だった。


 時間情報を追加したことで無反応例の扱いは精密になったが、反応あり六例と無反応二例を分ける新しい原因が突然現れたわけではない。


 アリシアは表の上へ頬杖をつきそうになり、途中で姿勢を戻した。


「ないね」


「何がですか?」


「これなら絶対分かれるってやつ」


「はい」


「ちょっと残念」


「どのくらい?」


 サーラに尋ねられ、アリシアは数字を言いかけた。


 けれど、今日は安全確認ではない。


「普通に残念」


 そう答える。


 サーラが微笑んだ。


「それで十分です」


「でも、前みたいに何か新しいの探したくなってる」


「それも自然でしょう」


「今日探さない?」


「今日は既存項目と時間情報を同じ表へ戻すところまで、と最初に決めました」


「うん」


 アリシアは九枚を見る。


 まだ時間はある。


 身体も疲れていない。


 だからこそ、「もう一つだけ」と言いたくなる。


 波形の角度。


 小変動の左右差。


 復帰後の細かな揺れ。


 探せばいくらでも候補を作れる。


 その中に本当に意味のあるものがある可能性も、もちろん残っている。


 しかし、今この場で反応ありと無反応を見比べながら「違って見えるもの」を拾うのは危うい。


「次に新しい項目を増やすなら、どうするの?」


 アリシアが尋ねた。


 学院長は少し考えてから答えた。


「少なくとも、何を測るか、なぜ測るか、どう数値化するかを先に決める必要があります。そして可能なら、この九例だけを見て都合よく決めない方法を考えます」


「九個を隠して決める?」


「方法の一つです。あるいは、既存の理論や装置特性から事前に候補を限定することもできます」


「今日決める?」


「いいえ」


 アリシアは少し笑った。


「やっぱり」


「急ぎたいですか?」


「少し。でも、今決めたら“この九個を分けたい項目”を考えそう」


「私もそう思います」


「じゃあ今日は終わり?」


 副学院長が全員を見る。


 魔導具教師が資料を確認し、若い観測員も頷いた。


「区切りとしては適切でしょう」


 アリシアはすぐに立ち上がらなかった。


 机の上の九枚をもう一度見る。


 答えは出なかった。


 でも、無反応二例の扱いは昨日よりはっきりした。


 例一を丸ごと弱い記録と呼ばない。


 例二を丸ごと強い記録とも呼ばない。


 東側奥部について問う時。


 自分の感覚について問う時。


 西側の既知時間範囲全体について問う時。


 同じ一枚でも、使える範囲が違う。


「最後に一個書いていい?」


「どうぞ」


 アリシアは練習帳を開いた。


『九枚を同じ表へ置いても、全部を同じ条件にはしない。記録一枚ごとに“使える/使えない”を一個だけ付けない。何を聞くかで、使える部分が違う』


 少し考え、その下へ続けた。


『今日、原因は増えなかった。でも、雑にまとめていい記録も増えなかった』


 書き終える。


 ノアが横から覗いた。


『最後の方、あなたにしては格好つけてない?』


「いいでしょ」


『別に』


「気に入ったのに」


『聞いてないわ』


「顔に出てる」


『猫の顔を勝手に読むな』


「毎日見てるから分かるよ」


『研究対象にしないでよ』


「しないって」


 学院長が咳払いをした。


「片づけますよ」


「はい」


 アリシアは笑いながら練習帳を閉じた。


     ◇


 生活観測区画へ戻った時には、窓から差し込む光が橙色へ変わり始めていた。


 共用机では子供が昨日から作っている小さな袋を広げている。


 布の端は半分ほど縫い進められていた。


「進んでる」


「うん。でも遅い」


「急いでるの?」


「急いでない」


「じゃあいいじゃん」


「でも早く完成見たい」


「それは分かる」


 アリシアが隣へ座る。


 子供は針を持ったまま、少しだけ首を傾けた。


「研究、分かった?」


「原因は分からなかった」


「じゃあ何したの?」


「九個並べた」


「それだけ?」


「それだけじゃないよ」


 アリシアは少し笑いながら、机の上の袋を見る。


「一個目の無反応記録って、昨日まで二個目より使いにくいって思ってたの。でも今日、全部が使いにくいわけじゃないって分かった」


「全部?」


「東側の記録と私の記録は、見たい時間より長く残ってた。西側だけ、最後の方が足りないの」


「じゃあ東とアリシアは使う?」


「うん。聞きたいことによるけど」


「西は捨てる?」


「捨てない。あるところまでは使う」


 子供は少し考えた。


「半分?」


「半分っていうより、見えてるところまで」


「箱と同じって言わない方がいい?」


 アリシアは目を丸くした。


「何で?」


「朝、今日はアリシアの記録の話って言ったから」


 覚えていたらしい。


 アリシアは少し考えてから笑った。


「似てるって思うのはいいよ。でも同じものじゃないって分かってれば」


「分かってる」


「じゃあ大丈夫」


 子供は安心したように針へ視線を戻した。


「今日は箱やってない」


「袋の日?」


「うん」


「何入れるか決めた?」


「まだ」


「完成するまで決めないの?」


「途中で決めるかも」


「そっか」


 子供は慎重に針を通す。


 昨日より手つきは少し慣れている。


 それでも一針ごとの間隔は揃っていない。


 大きいところも、小さいところもある。


 子供は何度か止まりながら、そのまま進めた。


 アリシアは口を出さなかった。


 これは研究記録ではない。


 最初に作る小さな袋だ。


 少しくらい縫い目が違っていても、それを測る必要はなかった。


     ◇


 夕食の時間には、顔のない存在も共用机から少し離れた位置へ座っていた。


 今日は歩数を数えるために誰かが待っているわけではない。


 立たなければ立たない。


 歩かなければ歩かない。


 担当者は通常の観察だけを続けている。


 アリシアは食事をしながら、子供が袋へ何を入れるかという話を聞いていた。


「小さい石は?」


「重い」


「紙は?」


「折れる」


「木の実」


「虫出るかも」


「じゃあ何ならいいの?」


「まだ分かんない」


「ノアの毛」


『やめなさい』


 ノアの返事があまりにも早く、子供が笑った。


「一個だけ」


『嫌よ』


「落ちたやつ」


『勝手に拾えばいいでしょう。許可を求めないで』


「いいの?」


『今のは許可じゃないわよ』


「じゃあ拾う」


『話を聞きなさい』


 アリシアまで笑う。


 夕方の部屋には、研究室の張り詰めた静けさとは違う音がある。


 食器の触れ合う音。


 子供の笑い声。


 担当職員が食事を運ぶ足音。


 窓の外で鳴く鳥の声。


 九枚の記録は、ここにはない。


 それでよかった。


     ◇


 夜、自室へ戻ったアリシアは、研究用の練習帳を机へ置いたものの、すぐには開かなかった。


 代わりに昼間の予定手帳を取り出す。


 植物管理の体験日。


 生活魔導具実習の体験日。


 ほかにも気になっている授業が二つ。


 研究予定はまだ空欄の部分があるため、今すぐどれへ行けるかは分からない。


「ノア」


『何?』


「植物管理、行ってみようかな」


 寝台へ飛び乗ったノアが振り返る。


『行けば?』


「研究と重なったら?」


『研究の日をずらせないの?』


「内容による」


『なら決まってから考えればいいでしょう』


「普通」


『何を期待してるのよ』


「もっと嫌味」


『選択授業くらい自分で決めなさい』


「それそれ」


『面倒な子ね』


 アリシアは笑って、予定手帳を閉じた。


 その後で研究用の練習帳を開く。


 今日の最後に書いた二行がある。


『九枚を同じ表へ置いても、全部を同じ条件にはしない。記録一枚ごとに“使える/使えない”を一個だけ付けない。何を聞くかで、使える部分が違う』


『今日、原因は増えなかった。でも、雑にまとめていい記録も増えなかった』


 読み返すと、ノアに言われた通り少し格好をつけている気もする。


 消そうとは思わなかった。


 その下へ、今日の結果をもう少し具体的に残す。


 入力側の既存固定項目では、反応あり六例と無反応二例を完全には分離できない。


 東側奥部の事前平均傾きとばらつきでも、完全な分離はない。


 無反応例一と二の東側奥部追加低下・アリシア冷感については、どちらも反応あり例の既知時間範囲を越えて観測され、対象反応は確認されていない。


 西側については、無反応例二は既知七例の最遅窓後端を越えるが、例一にはその先の未観測区間が残る。


 そこまで書いたところで、アリシアの筆が止まった。


 次に何を見るべきか。


 すぐに新しい特徴を探したい気持ちは、まだある。


 九枚を見れば、違って見えるところはいくつも出てくるだろう。


 でも、それを今夜一人で探し始めるのは違う。


 何を測るのか。


 なぜそれを見るのか。


 どう決めるのか。


 そこから先に考えなければ、九枚を分けられる形を探しているだけになる。


 アリシアは最後に一文だけ書いた。


『次に新しい違いを探すなら、九枚を見ながら“違うところ探し”を始めない方法を先に決めたい』


 練習帳を閉じる。


 答えは今日も出ていない。


 意図的小変動があり、東側奥部に追加反応が出る時には、自分の弱い冷感と西側弱波形も共に現れている。


 意図的小変動があっても東側奥部の追加反応がない二例では、自分の冷感も西側の明瞭な対象波形も確認されていない。


 そのまとまりは残る。


 けれど、なぜ六例では三つが揃い、二例では揃わないのかは分からない。


 前半か後半かだけではない。


 東側奥部が平らか下降しているかだけでもない。


 今まで決めていた入力側の比較項目だけでも、きれいには分かれない。


 だからといって、答えがどこにもないと決まったわけではない。


 ただ、次に何を見るかを決める方法そのものが、今までより大事になっている。


 アリシアは机の灯りを消した。


 窓の向こうには、学院の夜の明かりが点々と残っている。


 九枚を同じ机へ置いた今日、原因を示す新しい一本の線は現れなかった。


 代わりに、一枚の記録を丸ごと「強い」「弱い」と決めず、問いごとに使える部分を分ける必要があると分かった。


 そしてもう一つ。


 次の違いを見つける前に、どんな違いなら見る価値があるのかを決めなければならない。


 九枚の中から答えらしい形を探し始めれば、きっと何かは見つかる。


 だからこそ、見つける前に決める。


 次に研究室の机へ九枚を広げる時、最初に置くべきなのは新しい測定項目ではなく、その項目を選ぶための理由なのかもしれなかった。

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