第215話 二つ目の無反応記録が長く残っていても、一つ目の足りない先まで埋まるわけではない
朝の生活観測区画では、昨日までより少し強い風が窓を鳴らしていた。
雲は高く、雨が降りそうな暗さはない。それでも庭の木々は枝先を絶えず揺らし、ときおり葉の擦れる音が室内まで届いてくる。窓際の椅子には顔のない存在が座り、外の動きを追っているのか、身体を庭の方へ向けたまま静かにしていた。
アリシアは共用机の端で朝食を食べながら、昨夜書いた紙を一度だけ読み返していた。
『無反応例二を見る前。例一より観測が長いか短いかだけで良し悪しを決めない。三つの終端を別々に残す。共通区間を残す。反応あり七例の時間窓との関係を見る。対象反応基準は変えない』
その下には、自分の望みも残っている。
『西側記録は、例一より長くあってほしいと思っている。できれば反応あり七例の最も遅い西側窓より後まで残っていてほしい。その方が“遅れて出ただけ”という可能性を減らせるから』
書いた時より、今朝の方が少し恥ずかしい。
「何で隠すの?」
向かい側に座っていた子供が尋ねた。
アリシアは反射的に紙を伏せていた。
「隠してないよ」
「隠した」
「ちょっとだけ」
「何書いてあるの?」
「今日見る記録に、こうなっててほしいって思ってること」
「当てたい?」
「当てたいのとは少し違うかな」
アリシアは紙をもう一度表へ向けた。
「長く残っててほしいの」
「何が?」
「西側の記録」
「何で?」
「昨日の一個目は、途中で記録が終わってたから。その後に反応が出たかどうかは分からなかったの」
「今日のは長かったら分かる?」
「長かったところまでは」
子供はしばらく紙を見ていたが、文字の内容を全部読もうとはしなかった。
「長いと嬉しい?」
「たぶん」
「短いと嫌?」
「ちょっと」
「じゃあ書いとくの?」
「うん。後から『最初からどっちでもよかった』って言わないために」
子供は納得したように頷いた。
それから自分の朝食へ戻る。
「私は今日、袋やる」
「昨日の続き?」
「うん」
「楽しみ?」
「七」
「結構楽しみなんだ」
「でも指刺す怖さ三」
「そっちは残ってるんだ」
「昨日刺さなかったから二でもいいかも」
「無理に下げなくていいよ」
「じゃあ三」
子供はパンを食べる。
その横でノアが器の水を飲み終え、顔を上げた。
『あなたたち、朝から何でも数字にするのね』
「ノアもやる?」
『嫌よ』
「今日研究ついてくる気持ち」
『三』
アリシアが目を丸くする。
「言った」
『今ので二になったわ』
「下がるの早い」
「でも来る?」
子供が尋ねる。
ノアは返事をせず、窓辺へ歩いていった。
アリシアと子供は顔を見合わせる。
「来るね」
「来る」
『聞こえてるわよ』
朝の部屋に、小さな笑い声が広がった。
◇
午前の授業が終わったあと、アリシアはすぐ研究室へ向かわなかった。
今日は午後の開始まで少し時間がある。
教室では、数人の生徒が窓際に集まり、強い風でずれた外側の日除け布を眺めていた。学院の職員が下から直そうとしているものの、上の留め具が一つ外れたらしく、布の端が風を受けるたび大きく膨らんでいる。
「飛んでいきそう」
女子生徒が窓枠へ手を置く。
「飛んだらどこまで行くかな」
「庭じゃない?」
「夢ないなあ」
「布に何の夢求めてるの?」
アリシアも少し離れた場所から外を見る。
日除け布がまた大きく持ち上がった。
下にいる職員が慌てて端を押さえ、近くの生徒たちから小さな笑いが起きる。
「手伝わなくていいのかな」
アリシアが言う。
「上から?」
「留め具近いし」
「先生に聞いてみる?」
教室に残っていた教師へ声をかけると、安全のため窓から身を乗り出さないことを条件に、内側の留め具を確認してほしいと言われた。
三人で窓際へ寄る。
「これ?」
「違う。そっちは窓」
「分かってるよ」
「今触ろうとしてたじゃん」
「確認しただけ」
「アリシア、こっちじゃない?」
友人が窓枠の上を指す。
小さな金具が半分外れていた。
「あった」
「届く?」
「……ちょっと高い」
「椅子持ってくる?」
「先生、椅子使っていいですか?」
許可を取ってから、低い踏み台を持ってくる。
友人が支え、アリシアが上へ乗った。
「押し込むだけ?」
「たぶん。無理ならやめよう」
「うん」
風が吹くたび、外側の布が引っ張られる。
金具も少し動く。
アリシアは力任せに押さず、風が弱まった瞬間を待った。
「今」
友人の声に合わせて留め具を押し込む。
小さく金属音がして、金具が元の位置へ戻った。
外の日除け布がぴんと張る。
「できた」
「下の人に言おう」
窓を開けすぎないようにしながら、職員へ合図する。
下から手が上がった。
「終わった?」
「うん」
踏み台から降りると、友人が笑う。
「アリシア、こういうの意外とやるよね」
「何が?」
「高いところ」
「これ高くないよ」
「私は嫌」
「さっき支えてたじゃん」
「支えるのと上るのは違う」
「じゃあ次も私?」
「よろしく」
「勝手に決めないでよ」
教師が少し離れた場所から言った。
「次は職員を呼んでください。今日は位置が低かったから頼みましたが、生徒が何でも修理し始めると困ります」
「はーい」
友人たちが返事をする。
アリシアも「はい」と答えた。
研究とは何も関係のない十分ほどだった。
それでも教室を出る頃には、午後の記録を見る前に少し肩の力が抜けていた。
◇
研究室へ入ると、ノアは当然のように後ろからついてきた。
「二だったのに」
『何が?』
「来る気持ち」
『昼寝する場所として悪くないからよ』
「研究見ないの?」
『見るわよ』
「じゃあ来る気あるじゃん」
『細かいわね』
昨日とほぼ同じ顔ぶれが机を囲んでいる。
中央には一冊の資料束だけが置かれていた。
前半寄りの意図的小変動を入れた、二つ目の無反応例。
アリシアは席へ着く前に、自分の紙を出した。
「昨日書いたやつ」
サーラが受け取る。
「確認してもいいですか?」
「うん」
サーラは内容を読み、学院長へ渡した。
「比較項目は昨日の規則と一致しています。希望についても記録されています」
「西側、長くあってほしい」
アリシアは自分でも口にした。
「昨日より長いだけじゃなくて、反応あり七個で一番後ろまで伸びた西側の窓より、できれば後まで」
「その理由は?」
「もしそこまで見て何もなかったなら、『本当はもっと遅れて出たのを見逃しただけ』って考えなくていい範囲が広くなるから」
「完全になくなるとは限りません」
「分かってる。もっともっと遅かった可能性までは消せない」
アリシアは一度息を吐いた。
「でも、昨日よりは言えること増える」
「はい」
副学院長が頷く。
「では、規則は変更せず進めます」
「うん」
◇
最初に入力記録が開かれた。
前半寄りに置かれた意図的小変動。
立ち上がりと復帰はいずれも既定の範囲内で、当時の試験記録にも入力異常は記されていない。
基準零点は、昨日と同じく入力開始。
「ここは変えない」
「はい」
魔導具教師が時間軸を合わせる。
「昨日は後半寄り、今日は前半寄りですが、基準の置き方は同じです」
「前か後ろかで零を変えたら比べにくくなる」
「その通りです」
アリシアは練習帳へ入力位置だけを簡単に書く。
今日知りたいのは、入力の形の細部ではない。
次に東側奥部の記録が開かれた。
アリシアは少し身を乗り出す。
こちらの事前状態は、昨日見た無反応例一ほど強い下降ではない。
以前の分析でも、比較的平らな側だったと整理されている。
それでも意図的小変動の後に、対象としている追加低下は現れなかった。
「ここ、前に大事だったよね」
「はい」
サーラが答える。
「最初の無反応例では東側奥部の事前下降が目立ったため、下降状態が反応を妨げた可能性を検討しました。その後、反応あり例にも近い下降状態があり、さらにこの二例目は比較的平らでも無反応でした」
「だから平らなら出る、でもない」
「現在の記録では、それだけでは説明できません」
アリシアは頷いた。
同じ話を何度も掘り返すために今日見ているわけではない。
「終端は?」
若い観測員が記録を送る。
時間軸は長く続いた。
入力後。
反応あり七例で東側奥部の時間窓が置かれていた範囲を越える。
さらに続く。
「昨日より長い?」
「東側奥部については、無反応例一よりわずかに長く記録されています」
「でも良い悪いじゃない」
アリシアが自分から言った。
「はい」
「反応あり七個の東側窓は全部入ってる?」
「十分に越えています」
アリシアは書く。
『無反応例二。東側奥部。対象追加低下なし。反応あり七例の東側時間窓範囲を越えて記録継続』
少し考えてから、その下へ、
『事前状態は比較的平ら。だが今日は事前状態だけで原因を決めない』
と付け足した。
◇
次はアリシア自身の状態記録だった。
当時の自分が映像記録の中で椅子に座っている。
今より少し緊張して見える。
姿勢が固い。
手は膝の上。
入力の存在は知らされていない。
時間が進む。
特に申告はない。
定型確認が入る。
『身体に変化はありますか?』
『ないです』
『胸の冷たさは?』
『ない』
アリシアは映像を見ながら、ほんの少し眉を寄せた。
「私、声固い」
『今よりね』
ノアが言う。
「この頃、毎回緊張してた」
「現在の印象と当時の記録は分けましょう」
副学院長が穏やかに言う。
「うん。今のは感想」
アリシアは練習帳へ書かない。
映像記録は続く。
試験区間が終わり、その後も状態確認が複数回残っていた。
冷感なし。
痛みなし。
息苦しさなし。
途中で水を飲む。
さらに少し後にも、冷感の確認がある。
『ないです』
「長い」
アリシアが呟いた。
「はい」
「昨日の私の記録より?」
「こちらの方が長く、同じ形式で確認が継続しています」
反応あり七例との比較が行われる。
「感覚窓全部より後?」
「はい。最も後方へ伸びた感覚窓の後端より後まで、対象冷感なしの定型確認があります」
アリシアは頷いた。
「じゃあ自分は、今回も反応ありで感じてた辺りより後まで確認できてる」
「はい」
書く。
ここまでは、昨日と似ている。
違いは長さだけだ。
けれど、長いこと自体を「良い記録」と呼ばない。
昨夜そう決めた。
アリシアは意識してその言葉を避けた。
◇
残るのは西側だった。
資料を開く前に、アリシアの指が止まる。
昨日、自分で書いた願いが頭へ浮かぶ。
長くあってほしい。
できれば、反応あり七例で最も遅くまで伸びた西側窓より後まで。
「今、期待いくつですか?」
サーラが尋ねる。
アリシアは少し迷った。
「八」
「高いですね」
「昨日書いた時より上がったかも」
「なぜでしょう」
「東側と私が長かったから。西側もって思ってる」
そこまで言うと、自分でも理由が分かった。
一つ目と同じだった。
二つが望む形になったから、三つ目にも続きを求めている。
「それも書く」
アリシアは余白へ一行足した。
『西側を見る直前。期待八。東側と自分の観測が十分長かったので、西側も長い形を求めている』
ノアが机の上の紙を見る。
『全部きれいに揃ってほしいのね』
「うん」
『研究の紙に美観を求めない方がいいんじゃない』
「分かってる」
『なら見れば?』
アリシアは頷いた。
「見る」
西側装置記録が開かれた。
基準零点が入力開始へ合わせられる。
通常範囲の細かな揺れ。
対象弱波形なし。
時間が進む。
昨日の無反応例一で西側記録が終わった位置に近づく。
アリシアの肩がわずかに固くなる。
線はまだ続いた。
「越えた」
思わず声が出る。
「はい」
若い観測員が答える。
さらに進む。
反応あり七例のうち、後方側に位置した西側時間窓が一つずつ比較位置を過ぎていく。
対象弱波形はない。
アリシアは瞬きを減らし、紙を見つめる。
最後に残ったのは、七例の中で最も後方へ伸びていた西側窓だった。
その後端へ近づく。
線はまだ終わらない。
そして、越えた。
「……越えた」
今度の声は小さかった。
「はい」
装置担当者が確認する。
「現在の反応あり七例で最も後方へ伸びている西側時間窓の後端を越えて、記録が継続しています」
アリシアの肩から力が抜ける。
口元がわずかに緩んだ。
「よかった」
言ってから、すぐに練習帳へ視線を落とした。
「嬉しい」
「そのまま書いて構いません」
サーラが言う。
アリシアは書いた。
『西側記録は、反応あり七例で最も後方へ伸びた西側窓の後端を越えて継続。対象弱波形なし。嬉しい。見逃しただけという説明が減る気がするから』
筆を止める。
「“減る気がする”でいい?」
「感情欄なら」
「結果には?」
「別に書きます」
アリシアは頷いた。
記録はさらに少し続き、その後で終わった。
「ここが終端?」
「はい」
「かなり長い」
「無反応例一より長い西側観測区間です」
「じゃあ、こっちは“遅れて出たのを見逃しただけ”じゃない?」
言った瞬間、学院長も副学院長もすぐには頷かなかった。
アリシアも、その沈黙で気づく。
「……七個と同じくらいの遅れなら、ってこと?」
「はい」
学院長が答えた。
「現在の反応あり七例で観測された遅延範囲を基準にすれば、この無反応例二は、その範囲を越えて西側記録が継続しています。その意味では、“既知の反応あり例と同程度の遅延で西側波形が生じていたが、観測終了が早すぎて見逃した”という説明は支持されにくくなります」
「でも、もっとずっと遅れて出た可能性は?」
「記録終了後については分かりません」
「やっぱりそこは残る」
「はい」
アリシアは少し考え、結果欄へ慎重に書いた。
『無反応例二の西側は、反応あり七例で既知の西側時間窓範囲を越えて観測され、その範囲内に対象弱波形なし。既知七例と同程度の遅延反応を観測終了で逃した説明は弱くなる。ただし観測終了後まで反応なしとは言わない』
書き終えると、満足感があった。
昨日より、確かに言えることが増えた。
それでも最後の一文は残る。
観測終了後は分からない。
その端を消してはいけない。
◇
三者の終端を並べる。
東側奥部。
アリシア状態。
西側装置。
今回の最短は、アリシアの定型状態確認だった。
ただし、その終端でさえ、反応あり七例における三者それぞれの既知時間窓を比較するには十分後方まで続いている。
「三つ全部が揃ってる共通区間も、七個で反応が出た範囲を越える?」
「対象ごとの時間窓を同じ基準零点上へ置いた場合、はい」
副学院長が答える。
「少なくとも現在の七例で三者の対象反応が確認された既知範囲は、この共通観測区間内に収まります」
アリシアは息を吐いた。
「じゃあ二個目は、かなりちゃんと“なかった”って言える?」
「“かなりちゃんと”では記録できません」
「分かってるよ」
アリシアは少し笑う。
「言い方考えて」
魔導具教師が紙へ文章を書く。
『無反応例二では、入力開始後、東側奥部・アリシア状態・西側装置の三者すべてについて、反応あり七例で対象反応が確認された既知時間範囲を越えるまで観測が成立していた。その共通区間内に対象三反応は確認されない』
「これなら?」
「うん」
「ただし」
「観測終わった後は分かんない」
「はい」
アリシアが先に言ったので、室内に小さな笑いが起こる。
「もう覚えた」
「重要なことです」
「でも毎回言う?」
『あなたが毎回その先まで広げそうなら言われるんじゃない』
「広げないよ」
『今さっき“見逃しただけじゃない”って言い切りかけたでしょう』
「……ちょっとだけ」
『ほら』
「ノア細かい」
『あなたが細かい研究してるから付き合ってるのよ』
◇
二つの無反応例が、初めて同じ机の上へ並んだ。
昨日までは一つずつ見ていた。
今日は、両方の終端と共通観測区間が確定したため、比較することができる。
アリシアは最初に西側を見る。
例一は、反応あり七例の最も遅い西側窓より前で記録が終わっている。
例二は、その後端を越えている。
「二個目の方が強い?」
「何についてですか?」
副学院長が尋ねる。
「無反応だったって言えること」
「西側の遅延反応を既知範囲内で見逃していないという点では、例二の方が観測範囲上の制約が少ないです」
「じゃあやっぱり強い?」
「その一側面については、そう表現しても構いません。ただし記録全体の価値を順位づけしないでください」
「一個目が悪いわけじゃない」
「はい」
アリシアは昨日の紙を見る。
『無反応例一が今日弱くなったわけではない。どこまで言える記録かが前より分かった』
その横へ、今日の紙を置く。
「二個目が長くても、一個目の続きが見えるわけじゃないんだよね」
「もちろんです」
「二個目で西側が出なかったから、一個目も記録が終わった後に出なかったことにはならない」
「はい」
アリシアはしばらく二枚を見比べる。
入力条件も完全に同じではない。
一つは後半寄り。
一つは前半寄り。
東側奥部の事前状態も違う。
詳細な入力波形の微細形状も同一ではない。
二つ目が長く観測されて無反応だったからといって、一つ目の失われた時間を代理できるわけではない。
「埋まらないんだ」
「何がですか?」
「一個目の西側の先」
アリシアは指で、例一の時間軸の終端より右側を示す。
「二個目がここまで長くても、一個目のこっちは空白のまま」
「その通りです」
「似た試験でも?」
「別の試験です」
「うん」
アリシアは練習帳へ書く。
『無反応例二の長い観測区間で、無反応例一の未観測区間を埋めない。二例は別記録。例一の終端後は例一について不明のまま』
ノアが紙を覗き込む。
『当たり前に見えるわね』
「うん。でも、さっきちょっと埋めたくなった」
『どうやって?』
「二個目で出なかったんだから、一個目もたぶん出なかったって」
『“たぶん”まで禁止なの?』
アリシアは先生たちを見る。
魔導具教師が答える。
「推測として考えること自体は禁止しません。ただし観測事実として埋めてはいけません」
「じゃあ、“二個目も出なかったから、一個目も遅れて出た可能性は少し下がるかも”は?」
「それを言うには、二例がどの程度同じ生成条件を持つかという別の検討が必要です」
「前半と後半も違う」
「はい。事前状態も完全には一致しません」
「じゃあ今は書かない」
「それが妥当でしょう」
◇
次に、反応あり七例と無反応二例を同じ表へ置いた。
ただし、九例を一つの平均へまとめることはしない。
それぞれの生データを残したまま、どの記録がどの時間範囲を観測していたかを並べる。
アリシアは表を見て、ゆっくり指を動かした。
「反応あり七個は、三つ全部ある」
「対象三反応が確認された七例ですね」
「無反応二個は、三つ全部ない」
「観測範囲内では、はい」
「でも一個目の西側だけ、七個で一番遅いところ全部までは見てない」
「はい」
「二個目は見てる」
「はい」
そこでアリシアは黙った。
以前なら、ここからすぐに理由を探したと思う。
なぜ反応ありと無反応に分かれたのか。
入力の位置か。
東側奥部の事前状態か。
細かな揺れか。
まだ見つけていない何かか。
今も知りたい。
けれど、表を見ただけで一つに決められないことも分かっている。
「二個目があるから、入力したら必ず三つ出る、はもっと言えないね」
「それは以前から言えません」
「うん。でも時間をちゃんと見ても、二個目は既知の反応時間より長く三つ全部見てて出てない」
「そうです」
「じゃあ、“本当は出てたけど全部遅くて見逃しただけ”で二個目を反応ありに戻すのは難しい」
「少なくとも現在の反応あり七例と同程度の時間構造を仮定する限り、そうなります」
アリシアは頷く。
「無反応二個目、ちゃんと残るんだ」
「はい」
その言葉を口にした時、少しだけ安心した。
反応が出た七例を見続けているうちに、無反応二例が「失敗しただけの記録」へ見えてしまう瞬間があった。
けれど二例目は、既知の反応時間を十分越えて観測しても、三つの対象反応が確認されていない。
何かが足りなかった。
あるいは、何かが違った。
何なのかは分からない。
でも、分からないからといって無反応を消す理由にはならない。
「入力の小変動だけじゃ足りない」
アリシアが静かに言う。
「現在の記録では、その理解が妥当です」
学院長が答えた。
「意図的小変動があった八例のうち、六例では東側奥部追加低下、アリシアさんの弱い感覚、西側弱波形が共に確認され、二例では確認されませんでした」
「二個目は、時間が足りなかっただけって説明もしにくい」
「はい。少なくとも既知の時間範囲に関しては」
「一個目は少し残る」
「西側については、観測終端上の制約がより大きく残ります。ただし東側奥部とアリシアさんについては、既知範囲を越えて確認されています」
アリシアは九例の表を見つめた。
六と二。
それだけなら、以前にも見た。
けれど今は、その「二」の中身が少し違って見える。
一つは西側の先が切れている。
一つは既知範囲を越えて三者とも確認されている。
同じ無反応でも、同じ強さで同じことを言えるわけではない。
「無反応も二個まとめない方がいい?」
「少なくとも生記録を捨てて一つの代表例にするべきではありません」
「でも二個とも無反応って分類は残す?」
「対象三反応が観測範囲内で確認されなかったという分類は維持できます。ただし観測範囲の差を注記します」
「分かった」
◇
休憩に入った時、アリシアは窓際へ移動した。
外では朝より風が弱くなっている。
雲の切れ間から陽光が落ち、学院の中庭を斜めに照らしていた。
ノアが隣の椅子へ飛び乗る。
『嬉しかった?』
「何が?」
『二個目の西側が長かったこと』
「うん」
『期待八だったものね』
「当たった」
『予想じゃないって朝言ってなかった?』
「……願いが叶った」
『なら最初からそう言いなさい』
アリシアは窓の外を見る。
「でも、思ってたほどすっきりしなかった」
『どうして?』
「二個目が長かったら、一個目の分も少し安心できると思ってたのかも」
『勝手に?』
「うん」
『別の紙なのに?』
「うん」
『欲張りね』
「そうかも」
ノアの尻尾が椅子の端から垂れる。
『でも二個目については、見たかったところまで見られたんでしょう』
「うん」
『じゃあ今日はそれでいいじゃない』
「一個目の空白は残るけど」
『空白を残す練習、ずっとしてるんじゃなかった?』
「……そうだった」
『忘れたの?』
「忘れてない」
『なら残しなさいよ』
「簡単に言う」
『消す方が面倒でしょう。過去に戻って装置を動かせないんだから』
アリシアは小さく笑った。
「それはそう」
◇
休憩後、研究班は今日の結論を増やしすぎないことにした。
九例を使って新しい因果仮説を作るのは次回以降。
今日は二つ目の無反応記録を現在の時間規則で処理し、一つ目との観測範囲差を確定したところまで。
それでも、アリシアには十分だった。
「次、何する?」
帰る前に尋ねる。
「候補はいくつかあります」
学院長が答えた。
「反応あり七例と無反応二例について、観測範囲の違いを保ったまま、入力側の既存比較項目と東側奥部の事前状態を再配置する方法があります」
「前に見たやつ?」
「同じ情報を、今回確定した時間情報と一緒に見ることになります。ただし、新しい項目を増やす必要があるかはまだ決めません」
「また原因探し?」
「原因を決めるのではなく、現在ある候補のうち、時間情報によって扱いが変わるものがあるかを確認します」
アリシアは考える。
「一個目の西側が短いから、無反応二個を完全に同じ重さで使えないところもある?」
「西側の“既知範囲全体にわたる非反応”という問いでは、そうです。ただし東側奥部やアリシアさんの非反応、入力情報、事前状態については別です」
「分けるんだ」
「必要なら」
「全部まとめない」
「はい」
アリシアは頷いた。
次の作業が見えてきた。
けれど今日はもうやらない。
資料が片づけられる。
九枚の記録は、それぞれ別のまま保管箱へ戻された。
◇
生活観測区画へ帰ると、子供の袋はまだ完成していなかった。
昨日の練習布ではなく、本番用らしい柔らかな布へ最初の数針が入っている。
「進んだ?」
「ここまで」
子供が見せる。
「昨日より真っすぐ」
「先生も言った」
「すごいね」
「でもここ変」
端の一針だけ大きくなっている。
「本当だ」
「やり直す?」
子供が職員を見る。
「気になるなら戻してもいいですし、そのままでも袋としては使えます」
「どうする?」
アリシアが尋ねる。
子供はしばらく考えた。
「そのまま」
「いいの?」
「最初の袋だから」
「そっか」
「次は小さくする」
アリシアは笑う。
「何入れるか決めた?」
「まだ」
「完成してから?」
「うん」
ノアが机の横を通る。
「ノアは入らないよ」
『まだ言ってるの?』
「耳も入れない」
『頼んでないわよ』
子供が楽しそうに笑った。
「研究、長かった?」
「うん」
「嬉しかった?」
朝の会話を覚えていたらしい。
アリシアは少し驚いてから答える。
「嬉しかったよ。西側の記録、長かった」
「じゃあ分かった?」
「一個は前より分かった。でも昨日の一個の分からないところは、そのままだった」
「今日の長いので分かんない?」
「別の記録だから」
「似てても?」
「うん。似てても別」
子供は針を置いた。
「じゃあ昨日のは、ずっと空いてる?」
「新しい記録が見つからなければ、たぶん」
「嫌?」
アリシアは少し考える。
「前よりは嫌じゃない」
「何で?」
「そこが分からないって分かったから」
子供は首を傾げた。
難しかったらしい。
「分かんないのが分かった?」
「うん」
「変」
「私もそう思う」
二人で笑った。
◇
その日の顔のない存在は、夕食前までほとんど椅子から動かなかった。
胸の十一の光については担当者が通常記録を取っているが、子供もアリシアも数を尋ねなかった。
夕方、窓の外の風が弱まり、庭の枝葉の動きが小さくなった頃、顔のない存在が自分から立ち上がった。
椅子の前でしばらく止まる。
一歩。
もう一歩。
そこで長く休む。
その後、三歩目へ進まず、身体の向きを変えて椅子へ戻った。
子供は観察用紙へ、
『二歩。途中で長く止まった。自分で戻った』
と書いた。
「昨日は一歩」
口にしてから、子供はアリシアを見る。
「今日は二歩。でも良くなったって書かない」
「うん」
「昨日より多いだけ」
「うん」
「明日ゼロかも」
「そうだね」
子供は鉛筆を置いた。
顔のない存在は、もう椅子へ座っている。
歩いた理由も、戻った理由も分からない。
それでよかった。
◇
夜。
アリシアは自室で二枚の無反応記録用紙を並べた。
例一。
例二。
昨日は例一だけだった。
今日は二枚ある。
それでも重ねない。
一枚目の西側時間軸は途中で終わる。
二枚目は、反応あり七例の最も後方へ伸びた西側時間窓を越えて続く。
見た目だけなら、二枚目の方がすっきりしている。
アリシアが望んでいた形でもある。
「二個目の方が好き」
声に出す。
寝台で毛繕いをしていたノアが耳だけを向けた。
『そう』
「止めないの?」
『何を?』
「好きって言うの」
『記録を書き換えないなら好き嫌いくらい勝手でしょう』
「二個目の方が、言えること多いから」
『ならそう書けば?』
「でも一個目を邪魔って思わないようにする」
ノアの舌が止まった。
『また邪魔にしそうなの?』
「少し」
『今度は何が邪魔?』
「二個目だけなら、“既知の反応時間より長く見ても出なかった”って綺麗に言える。でも一個目があるから、無反応二個ともそうだったとは言えない」
『ああ』
「だから一個目が短いの、ちょっと邪魔」
『前は四枚目が邪魔だったわね』
「……うん」
アリシアは苦笑した。
時間窓を七例見た時。
西側が自分の感覚窓と部分的に重なった記録を、例外にしたくなった。
今回は、観測時間が短い無反応例一を、きれいな説明の邪魔だと思い始めている。
形は違う。
でも、都合の悪い記録を遠ざけたくなる気持ちは同じだった。
「残す」
『誰も捨てろって言ってないわよ』
「自分に言った」
『なら好きにしなさい』
アリシアは練習帳へ書く。
『無反応例二の方が好き。既知の反応時間範囲を越えて三者を確認できているから。だから例一の西側観測が短いことを邪魔だと少し思った』
その下へ続ける。
『でも例二が長いことは、例一の未観測部分を埋めない。例一を除外する理由にもならない』
もう一行。
『二つを同じ“無反応”として分類しても、観測範囲の違いは消さない』
筆を置く。
ノアが寝台から机を見る。
『満足?』
「ちょっと」
『じゃあ寝れば』
「まだ早いよ」
『なら何か研究以外のことしなさい』
「何?」
『知らないわよ』
「言った本人が考えてよ」
『本でも読めば?』
「昨日途中だったのある」
『それでいいじゃない』
アリシアは研究用の練習帳を閉じ、本棚から一冊の小説を取った。
机に戻る。
数ページ読み進めたところで、研究のことが頭へ戻りそうになる。
けれど今日は紙を開かなかった。
物語の中では、旅人が山道で宿を探している。
研究室の東側奥部も、西側装置も出てこない。
当然だった。
それが少し可笑しくて、アリシアは一人で笑った。
◇
眠る前、窓を閉めようと立ち上がる。
風はほとんど止んでいた。
学院の灯りが遠くに見える。
今日見た二つ目の無反応記録は、アリシアが望んでいた通り長かった。
少なくとも現在の反応あり七例で三つの対象反応が現れていた既知時間範囲を越えて、東側奥部も、自分の状態も、西側装置も観測されていた。
それでも、三つは確認されなかった。
だから、意図的小変動が入れば必ず同じ三反応が続くわけではないという事実は、時間不足だけでは簡単に消えない。
けれど、一つ目の無反応記録の西側には未観測の先が残る。
二つ目がどれだけ長くても、その空白は埋まらない。
アリシアは窓を閉め、カーテンへ手をかけた。
七枚の反応あり記録も、二枚の無反応記録も、少しずつ形が違う。
きれいに揃わない。
都合よく一つの線にもならない。
けれど今は、その違いを消すより、違ったまま机へ置いておける。
次に九枚を並べる時も、一つ目の短い西側記録は短いまま残る。
二つ目の長い記録も長いまま残る。
どちらかをもう一方へ合わせる必要はない。
アリシアは灯りを落とした。
答えへ近づいた実感よりも、何を答えに使ってはいけないのかが一つ増えた感覚の方が強かった。
それでも以前の彼女なら、きっとそれを遠回りだと思っただろう。
今は違う。
埋められない空白を埋めないまま残せたことも、今日確かめた一つの結果だった。




