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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第214話 一つ目の無反応記録を端まで見たなら、見えていない先まで静かだったとは書かない


 翌朝の生活観測区画には、薄い雲を通した白い光が満ちていた。


 昨夜ほど空気は冷えていないものの、窓を開けると朝の風には少し湿り気がある。庭の木々からは鳥の声が途切れ途切れに聞こえ、共用机では子供が朝食のパンを小さくちぎりながら、まだ眠そうな顔で湯気の立つ飲み物を見つめていた。


 アリシアも向かい側に座り、朝食を食べていた。


 研究用の練習帳は持ってきていない。


 今日は午後、反応が確認されなかった過去記録の一つを再評価する予定になっている。


 昨日決めた規則を使う最初の日だった。


「今日見る?」


 子供がパンを持ったまま尋ねた。


「たぶん一個」


「何もなかったやつ?」


「うん」


「何もないの見るの?」


「昨日もそれ聞いたよ」


「まだ変」


「私もちょっと変だと思う」


 アリシアは笑った。


 窓辺の椅子で丸くなっていたノアが片目を開く。


『何もないものを見るんじゃなくて、何も確認できなかった範囲を見るんでしょう』


「朝から長い」


『あなたが昨日一日かけて覚えたことを一言で言ってあげたのよ』


「一言じゃないよ」


『細かいわね』


 子供がノアを見る。


「ノアも行く?」


『気が向いたら』


「昨日もいた」


『昨日は昨日よ』


「今日も来るでしょ」


『決めつけないでくれる?』


 子供はパンを一口食べた。


「来ると思う」


 アリシアも頷く。


「私も」


『二人とも朝からうるさいわね』


 そう言いながら、ノアはまた目を閉じた。


 アリシアは温かい飲み物へ口をつける。


 昨日までは、「反応なし」という言葉を一つの結果として扱っていた。


 意図的小変動は入った。


 けれど東側奥部の追加低下は確認されなかった。


 自分も冷たさを感じなかった。


 西側にも、反応ありの時に見られた弱い波形は出なかった。


 それで終わりだった。


 今日は、その「なかった」がどこまで確認されていたのかを見る。


 少し不思議だった。


 反応ありの記録を見る時は、何かが現れる場所を探していた。


 今回は逆だ。


 線が現れなかった範囲の端を見る。


 けれど、何も起きていないから簡単というわけではないことは、昨日もう分かっていた。


「怖い?」


 子供がまた尋ねた。


 アリシアは少し考える。


「怖くはないかな」


「楽しみ?」


「ちょっと」


「何もないのに?」


「だから、どこまで何もなかったのか知りたい」


 子供の眉が寄る。


 まだ完全には納得していない顔だった。


「帰ったら教える」


「うん」


 アリシアは残りのパンを食べた。


     ◇


 午前の授業は、魔法史だった。


 今日は大きな事件や英雄についてではなく、学院が現在使っている授業用魔導具の一部が、昔どのような用途で作られていたのかを扱っていた。


 教卓には古い照明具の複製品が置かれている。


「これ、昔は照明じゃなかったんですか?」


 前列の生徒が尋ねた。


「原型は違います。夜間の街道で、一定間隔ごとに位置を知らせるための標識具でした」


 教師が複製品の側面を指す。


「現在の学院用は連続点灯しますが、当時は短い間隔で明滅していました。遠くからでも街道の位置が分かるようにするためです」


「じゃあ、持ち歩かなかった?」


「基本的には固定です。ただし地方によって使い方は異なります」


 アリシアは板書を写す。


 今日は研究のことを考えないつもりだったが、「一定間隔」「明滅」という言葉に少しだけ意識が引かれた。


 すぐに筆を止める。


 何でも研究へつなげなくていい。


 教師が次の説明へ進む。


 隣の席から小さな紙が滑ってきた。


 授業内容ではない。


『あれ、寮の廊下に欲しい』


 隣の女子生徒が書いたらしい。


 アリシアは横を見る。


 相手が小さく笑っている。


 アリシアも紙の端へ、


『何で?』


 と書いた。


 すぐ戻ってくる。


『夜、角で人とぶつかった』


 アリシアは笑いそうになり、口元を押さえた。


『普通の灯りついてるよね?』


『眠かった』


『灯りの問題じゃない』


 返す。


 女子生徒が肩を震わせた。


 教師がこちらを見た。


 アリシアと女子生徒は同時に姿勢を正す。


 何も言われなかった。


 教師は一瞬だけ目を細め、それから板書へ戻った。


 隣からまた紙が来る。


『危なかった』


 アリシアは今度は返さず、紙を裏返した。


 授業が終わるまで笑わないようにする方が大変だった。


     ◇


 昼休み。


 今日は友人たちと食堂の端の席へ座った。


 昨日までの雨の影響もなく、外で食べる生徒も増えているため、食堂内は少し空いている。開けた窓から風が入り、スープの湯気を横へ流していた。


「今日、研究?」


 友人がパンをちぎりながら尋ねる。


「午後」


「昨日もやった?」


「昨日はやった」


「毎日じゃん」


「一昨日はやってないよ」


「じゃあほぼ毎日」


「そうでもない」


 アリシアはスープを一口飲む。


「今日は昔の記録見るだけだから、身体に何かするのはないよ」


「ならいいけど」


 友人はそれ以上詳しく聞かなかった。


 向かいの男子生徒が話題を変える。


「そういえば、次の休みに雑貨屋行くんだろ?」


「何で知ってるの?」


「昨日廊下で話してたじゃん」


「聞いてたの?」


「通っただけ」


「来る?」


「髪飾り買う男に見える?」


 友人が男子生徒の髪を見る。


「似合うかも」


「やめろ」


「花ついてるやつ」


「絶対嫌だ」


「青なら?」


「色の問題じゃない」


 アリシアが笑う。


「じゃあ何見に来るの?」


「行くって言ってないだろ」


「今ちょっと行きそうだった」


「行かない」


 そこへ別の女子生徒が戻ってくる。


「何の話?」


「この人が髪飾り買う話」


「買わないって!」


 食卓に笑い声が広がった。


 アリシアはその中で、午後の研究を忘れていた。


 完全に忘れたわけではない。


 時間になれば行く。


 けれど、食事をしている間まで無反応記録の端を考え続ける必要はなかった。


     ◇


 午後の研究室へ入ると、ノアは結局アリシアの後ろをついてきた。


「やっぱり来た」


『うるさいわね』


「子供にも言っとく」


『好きにしなさい』


 今日は研究班の人数が少し絞られていた。


 学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、若い観測員、装置記録を扱う担当者。


 人工刺激を行わないため、安全担当や治療担当は近くに待機しているものの、机を囲んではいない。


 中央には一冊の古い記録束が置かれていた。


「今日扱うのは、意図的小変動を後半寄りへ置いた試験のうち、対象となる三反応が確認されなかった記録です」


 学院長が言った。


 アリシアは頷く。


 覚えている。


 この記録を最初に詳しく見た時、東側奥部の事前状態は比較的強い下降傾向を示していた。


 そのため一時は、「東側奥部がすでに下がっている時には追加反応が出にくいのではないか」という候補が浮かんだ。


 しかし、その後、近い下降状態でも反応ありの記録が見つかり、それだけでは説明できなくなった。


 今は別の問いを見る。


「昨日決めた規則を確認します」


 副学院長が紙を出した。


「入力開始を共通の基準零点とします。東側奥部、アリシアさんの状態記録、西側装置について、対象反応が確認されなかった記録範囲の終端をそれぞれ独立に残します」


「三つ全部について言う時は、一番短いところまで」


「正確には、三者すべての観測が成立している共通区間までです」


「うん」


「そして観測終了後については、反応がなかったとは述べません」


「分かってる」


 アリシアは少し姿勢を直す。


「見る」


     ◇


 最初に入力記録が開かれた。


 意図的小変動は、予定通り後半寄りに置かれている。


 立ち上がり。


 小さな頂点。


 復帰。


 入力自体に大きな異常はない。


「ここは前にも見た」


「はい」


「今日は入力の形を原因探しするんじゃないんだよね」


「主目的ではありません。ただし基準零点を確認するため、記録は保持します」


 入力開始位置が零へ合わせられる。


 そこから右へ、時間軸が伸びる。


「東側から?」


「はい」


 東側奥部の記録が開かれる。


 アリシアは少し身を乗り出した。


 事前から続く緩やかな下降。


 入力開始。


 その後も記録は続く。


 反応あり例で見られたような、追加的な小さな低下は確認されない。


 ただし、元からある下降傾向そのものは続いている。


「“何もなかった”っていうより、下がってはいるんだよね」


「その通りです」


 魔導具教師が答える。


「だから“変化なし”とは書きません。“対象としている追加低下が確認されない”です」


「前からの下がりはある」


「はい」


 アリシアは頷いた。


 言葉一つで意味が変わる。


 東側が何もしていなかったわけではない。


 今見ている特定の追加反応が確認されなかっただけだ。


「どこまで記録ある?」


 若い観測員が終端を確認する。


「入力開始から、ここまでです」


 補助線が引かれる。


 アリシアは時間軸の長さを見る。


 思ったより長い。


「七個の反応ありで、東側の窓があったところは全部入る?」


 尋ねてから、アリシアは少し迷った。


「それ聞いていい?」


「比較として確認することはできます」


 副学院長が答える。


「昨日決めた規則を、この七例に合わせて変えるわけではありません。過去記録が実際にどこまで残っているかを確定した後、その範囲と反応あり七例の時間窓を比較することは問題ありません」


「じゃあ?」


「東側については、反応あり七例で確認された東側奥部時間窓の範囲を十分に越えて記録が継続しています」


 アリシアは少し目を見開いた。


「じゃあ、東側は少なくともいつも出てた辺りより後まで見てた?」


「はい。この無反応例の東側記録については、そう言えます」


 練習帳へ書く。


『無反応例一。東側奥部。対象追加低下なし。記録は反応あり七例の東側窓が現れた範囲より後まで継続』


 書き終えてから、横に小さく加える。


『元からの下降はある。“変化なし”ではない』


「これ大事?」


「非常に」


 サーラが答える。


「対象反応がないことと、信号全体が完全に平坦であることは別です」


「うん」


     ◇


 次は、アリシア自身の状態記録だった。


 当時の観測記録には、試験中の表情、姿勢、申告、試験終了後の確認が残されている。


 入力開始。


 数呼吸。


 アリシアは特に申告していない。


 さらに時間が進む。


 観測員からの定型確認。


『冷たさは?』


『ない』


『痛み、息苦しさは?』


『ない』


 過去の自分の声を記録から読み、アリシアは少し不思議な気持ちになる。


「この時、何も感じてなかったの覚えてる」


「現在の記憶を記録へ追加しません」


「分かってるよ」


「確認です」


「うん」


 少し笑う。


 記録は続く。


 試験終了後にも、短い状態確認が入っていた。


 冷感なし。


 痛みなし。


 息苦しさなし。


 ただし、その後は通常の休息記録へ移っている。


「ここまで?」


「アリシアさんについて、試験由来の弱い冷感の有無を定型的に確認している区間としてはここまでです」


「その後も私そこにいたよね?」


「いました。ただし、同じ頻度・同じ形式で感覚確認を続けてはいません」


「じゃあ、いたからずっと冷たくなかったとは書けない」


「はい」


 アリシアは少しだけ唇を噛んだ。


 自分自身のことなのに。


 今なら「その後も感じなかった気がする」と言いたくなる。


 でも、過去の記憶は曖昧だ。


 当時の記録にないものを、今の感覚で埋めるべきではない。


「ここも、反応あり七個の私の窓より後まである?」


 比較が行われる。


「はい」


 若い観測員が答えた。


「反応あり七例でアリシアさんの感覚窓が置かれた範囲を越えて、定型確認が継続しています」


「じゃあ私も、いつも感じてた辺りは見てた」


「現在の七例との比較では、そう記述できます」


 アリシアは練習帳へ書く。


『自分。対象冷感なし。反応あり七例で感覚窓が置かれた範囲より後まで定型確認あり。ただし定型確認終了後まで“ずっとなかった”とは広げない』


 そこで一度筆を止めた。


「東側と私は、今のところちゃんと長い」


「はい」


「じゃあ西側も?」


「これから確認します」


 少し期待が出る。


 もし西側も十分長ければ、この無反応例では三つとも、反応あり七例で普段反応が現れていた範囲を越えて観測していたことになる。


 そうなれば、「見終わるのが早すぎて反応を逃した」という単純な説明は弱くなる。


 アリシアはそう考えた。


 そして、その考えに気づいた。


「……今、西側も長くあってほしいと思った」


 サーラがアリシアを見る。


「なぜですか?」


「そしたら、“短かったから見えなかっただけ”じゃないって思えるから」


「はい」


「でも、まだ見てない」


「そうですね」


 アリシアは練習帳の余白へ書く。


『西側を見る前。十分長く記録されていてほしいと思った。観測不足だけで無反応になった説明を減らしたいから』


 ノアが机の端へ前足を乗せた。


『最近、何を見る前にも自分の願望を発見するわね』


「出てくるから」


『昔からあったんでしょうけどね』


「前は気づかなかった」


『気づくようになったなら、それでいいんじゃない』


 アリシアは小さく頷いた。


「見る」


     ◇


 西側装置の記録が開かれた。


 最初の部分は問題ない。


 入力開始を基準零へ合わせる。


 西側には、反応あり例で見られた弱い遅延波形は出ていない。


 通常範囲の細かな揺れだけが続く。


 アリシアは時間軸を追う。


 東側奥部で反応が現れていた範囲を越える。


 自分の感覚窓が置かれていた範囲も越える。


 そして、西側の反応あり七例で弱波形が現れ始めていた時間帯へ入る。


「まだある」


「はい」


 若い観測員が記録を送る。


 時間軸がさらに伸びる。


 波形なし。


 もう少し。


 そこで、記録線が終わった。


 アリシアは瞬きをする。


「……ここ?」


「はい」


「終わり?」


「この試験条件として連続している西側記録は、ここまでです」


 アリシアは反応あり七例の時間窓比較表を見る。


「全部入ってる?」


 誰もすぐに答えなかった。


 装置担当者が七例分の西側窓を重ねず、横へ並べたまま位置を確認する。


「前方側の例は含みます」


「後ろのは?」


「最も後方まで伸びた西側時間窓の後端より、この無反応例の記録終端の方が前です」


 アリシアの肩から、少し力が抜けた。


 嬉しい方ではない。


「全部じゃない」


「はい」


「じゃあ、見終わるの早かった可能性ある?」


「可能性を完全には除外できません」


 研究室が静かになる。


 アリシアは紙を見る。


 西側の記録は短すぎるわけではない。


 反応あり七例のうち、複数例で西側弱波形が現れていた時間帯までは十分に入っている。


 しかし、最も遅い側まで全部を覆ってはいない。


「でも、全然見てないわけでもない」


「その通りです」


 魔導具教師が指で時間軸を示す。


「この無反応例の西側観測区間は、反応あり七例で西側波形が確認された時間帯の相当部分を含みます。しかし、七例すべての西側時間窓後端を越えるほど長くはありません」


「じゃあ、“西側は反応しなかった”って言っていい?」


「条件を付ける必要があります」


「観測された範囲では?」


「はい。“西側では、記録が継続していたこの区間内に対象弱波形は確認されなかった”です」


「それより後は?」


「記録からは分かりません」


 アリシアは唇を結んだ。


 昨日、自分で書いた。


 見えていない先まで静かだったとは書かない。


 今、その通りの記録が出てきた。


 少し嫌だった。


「……長くあってほしかった」


「先ほど書いていましたね」


「うん。だからちょっと残念」


 サーラは急かさず待つ。


「もし全部より長かったら、“遅れて出ただけ”はかなり言いにくくなった?」


「少なくとも、反応あり七例で観測された範囲よりさらに遅れて出た可能性を持ち出さなければならなくなります」


「でも今は、一番遅いところまでは見てない」


「はい」


「だから残る」


「残ります」


 アリシアは小さく息を吐いた。


「嫌だけど、仕方ない」


『紙にもっと長くなれって言っても伸びないわよ』


「分かってる」


『装置にも無理ね』


「分かってるって」


 少しだけ笑いが起きた。


     ◇


 三本の記録終端が並べられた。


 東側奥部。


 アリシア状態。


 西側。


 最も早く終わるのは西側だった。


 したがって、三者すべてについて「対象反応が確認されなかった」と一括して言える共通区間の終端も、西側記録の終端になる。


「ここまでが三つ全部見えてた時間?」


「はい」


「反応あり七個と比べると?」


 副学院長が比較表を置く。


「東側奥部の反応窓とアリシア感覚窓については、七例で確認された範囲を共通区間が十分に覆っています」


「西側は?」


「七例の西側窓すべてを覆うわけではありません。ただし複数例の西側波形出現範囲は含みます」


 アリシアは考える。


「じゃあ、この無反応一個だけで、“三つが出なかった理由は観測が短かったから”とも言えない?」


「はい」


「でも、“観測は十分長かったから絶対に出なかった”とも言えない」


「その通りです」


「真ん中だ」


「そうですね」


 アリシアは少し不満そうな顔をした。


「また真ん中」


『端を見に来たのに結論は真ん中なのね』


「ノア、うまいこと言った顔しないで」


『猫の顔はいつも同じよ』


「嘘。絶対違う」


 研究班の空気が少し和らぐ。


 けれど、アリシアはすぐ紙へ戻った。


 この無反応例は、思っていたより単純ではない。


 東側奥部と自分の感覚については、反応あり七例で通常それらが現れた時間帯より後まで確認されている。


 だから、少なくとも「東側とアリシアの反応が単に遅れていただけ」という説明は、現在の反応あり七例と同程度の遅れを想定する限り弱い。


 一方、西側は違う。


 かなりの範囲まで見ている。


 けれど、反応あり七例の最も遅い西側窓までは覆っていない。


「東側と私は、もっと強く“なかった”って言える?」


 アリシアが尋ねる。


「“強く”という表現より、観測範囲を具体的に書きましょう」


 副学院長が答えた。


「東側奥部については、反応あり七例で対象追加低下が確認された時間帯を越えて記録が継続したが、対象追加低下なし。アリシアさんについても、反応あり七例の感覚窓範囲を越えて定型確認が継続したが、対象冷感なし」


「西側は?」


「反応あり七例の西側窓の相当部分を含むまで記録されたが、最も後方まで伸びる窓の後端より前で記録終了。その記録範囲内では対象弱波形なし」


 アリシアは一つずつ書いた。


「長い」


『短くして間違うよりいいんじゃない』


「そうだけど」


『そのうち慣れるわよ』


「慣れたらもっと長くなりそう」


『研究者の帳面なんてそんなものでしょう』


「ノア、研究者の帳面見たことあるの?」


『この部屋に何冊あると思ってるの』


「勝手に見たの?」


『見える場所に開いてあるものを目に入れただけよ』


「それ、勝手に見たって言わない?」


『猫には適用されないわ』


「何その規則」


     ◇


 一つ目の無反応例について、もう一つ確認した。


 それは、三者の共通区間内で本当に対象反応候補がなかったのかという点だった。


 東側奥部には元からの下降がある。


 西側にも自然な小さな揺れがある。


 アリシアも姿勢を変えたり、呼吸の深さが変わったりしている。


 それらを後から「実は弱い反応だったのでは」と拾い始めれば、無反応例を無理に反応ありへ近づけることができてしまう。


「前に決めた対象反応の基準を使う?」


「はい」


 魔導具教師が答える。


「この記録だけ基準を緩めません」


「東側の普通の下がりを追加低下って言わない」


「はい」


「西側の小さい揺れも、反応ありの時の弱波形と同じ基準を満たさないなら拾わない」


「その通りです」


「私が今見て“この時ちょっと変だったかも”って思っても?」


「当時の申告記録を優先します。現在の記憶で過去の主観窓を作りません」


「うん」


 アリシアは過去の自分の記録をもう一度見る。


 冷感なし。


 痛みなし。


 息苦しさなし。


 当時の自分は、感じなかったと答えている。


 今の自分が、研究結果を知った状態で過去を見直せば、「本当は何かあったかもしれない」と思うことはいくらでもできる。


 でも、それは記録ではない。


「無反応を守るのも必要なんだ」


 アリシアが言った。


「どういう意味ですか?」


「反応ありにしたくなった時、勝手に小さい揺れを拾わない」


 サーラが頷く。


「はい。逆も同じです。無反応であってほしいから候補を捨てることもしません」


「今のところ候補ある?」


「既存の判定基準を満たすものはありません」


「じゃあ、この一個は今のまま無反応」


「観測範囲を明示したうえで、対象三反応の非確認例として維持します」


 アリシアは少し安心した。


 西側の終端が思ったより早かった。


 だからといって、記録全部が使えなくなったわけではない。


 逆に、十分だったと強く言い切れるわけでもない。


 使える範囲が狭くなっただけだ。


「これ、失敗した記録?」


 尋ねる。


「いいえ」


 学院長が答えた。


「観測時間に限界がある記録です。それは失敗と同義ではありません」


「でも今ならもっと長く取る?」


「今後同様の試験を行うなら、今回の再評価を踏まえて観測継続時間を設計する理由はあります」


「七個で一番遅かった西側より長く?」


「それだけを根拠に固定するのではなく、安全性、装置安定性、過去の遅延範囲などを含めて決めます。ただし、少なくとも今回のように“最も遅い既知例より前で西側記録が終わる”ことは避けたいですね」


「それは未来の試験の話?」


「はい。過去記録は変えません」


「分かった」


     ◇


 アリシアは机の端に置かれたもう一つの資料束へ目を向けた。


 前半寄りの意図的小変動を入れた無反応例。


 二つ目。


「今日はそっち見ない?」


「見たいですか?」


「見たい」


 即答した。


 そのあと少し考える。


「でも、一個目で西側の終わりが問題になった」


「はい」


「二個目も同じか知りたい」


「それは自然な次の問いです」


「じゃあ見る?」


 学院長はすぐには答えない。


 アリシア自身も、言いながら迷い始めていた。


 今、一つ目で新しい問題が出た。


 無反応例の観測区間は、三者で同じ長さとは限らない。


 さらに、西側については反応あり七例の最も遅い時間窓を完全には覆っていなかった。


 この状態で二つ目まで開けば、比較はできる。


 けれど、二つ目の記録終端が長かった場合、自分は一つ目を「悪い記録」、二つ目を「良い記録」と呼びたくなるかもしれない。


 逆に二つ目も短ければ、「無反応例はどちらも観測不足だった」と急いでまとめたくなるかもしれない。


「……やめる」


 アリシアが言った。


「今日は一個で」


 サーラが確認する。


「疲れましたか?」


「疲れはそんなにない。でも、二個目の長さが気になりすぎてる」


「それ自体は問題ではありません」


「うん。でも今、一個目を見たばっかりだから、二個目が長いか短いかだけで比べそう」


 少し間を置く。


「明日か次の時に、見る前に何を比べるか書いてから見たい」


「分かりました」


 学院長が資料束を戻すよう合図した。


 若い観測員が二つ目へ触れず、そのまま保管箱へ戻す。


 アリシアは少し名残惜しそうに見送った。


『自分で止めたのに未練たっぷりね』


「見たいものは見たいよ」


『なら明日まで覚えてれば?』


「絶対覚えてる」


『でしょうね』


     ◇


 研究室を出ると、午後の雲が少し薄くなっていた。


 廊下の窓から差す光は朝より明るい。


 アリシアはノアと並んで歩きながら、今日見た三本の終端を思い返していた。


「西側だけ短かった」


『一番短かった、でしょう』


「うん」


『短いって言うと何と比べてるか分からないわよ』


「研究室の外でも厳しい」


『あなたが気にしてるから言っただけ』


「ノアのくせに」


『どういう意味よ』


「何でもない」


 階段を下りる。


 途中、前から同じ学年の女子生徒二人が上がってきた。


「アリシア、今帰り?」


「うん」


「このあと食堂寄る?」


「生活観測区画戻る」


「そっか。また明日」


「うん。また明日」


 それだけで擦れ違う。


 ノアが少しだけアリシアを見上げた。


『自然になったわね』


「何が?」


『何でもない』


「言ってよ」


『嫌』


「何それ」


 アリシアは少し笑った。


     ◇


 生活観測区画では、子供が方向候補一と二の紙を並べたまま、別の作業をしていた。


 小さな布切れを何枚か重ねている。


「何してるの?」


「袋」


「作るの?」


「先生が教えてくれる」


 少し離れた場所に、生活担当の女性職員が針と糸を用意していた。


「今日は縫い方の練習です。箱とは関係ありませんよ」


「うん」


 アリシアは子供の隣へ座る。


「難しい?」


「まだ縫ってない」


「何入れる袋?」


「決めてない」


「じゃあ大きさは?」


「これくらい」


 両手で示される。


 かなり小さい。


「ノア入らないね」


『入る気ないわよ』


「耳だけなら?」


『やめなさい』


 子供が笑う。


 アリシアも笑った。


「研究どうだった?」


 子供が布を触りながら尋ねる。


「一個見た」


「何もなかった?」


「うん。でも、全部同じ長さまで見てたわけじゃなかった」


「どういうこと?」


 アリシアは少し考える。


「三個見てたものがあって、一個は他より早く記録が終わってた」


「じゃあ、その後は?」


「分かんない」


「何かあったかも?」


「あるかもしれないし、ないかもしれない。見てないから分かんない」


 子供は頷いた。


「でも見てたところはなかった?」


「うん。見てたところではなかった」


「じゃあ、そこまで」


「そう。そこまで」


 子供は布を机へ置く。


「二個目は?」


「今日は見なかった」


「明日?」


「まだ決めてないけど、次に見る」


「楽しみ?」


「かなり」


「何もないのに?」


「またそれ言う」


「だって変」


「私もそう思ってたよ」


 アリシアは笑った。


     ◇


 縫い物の練習が始まると、子供は箱の紙を完全に片づけた。


 職員から針の持ち方を教わり、最初は厚めの練習布へ大きな縫い目を作っていく。


「指刺さないでね」


「怖い?」


「三」


「数字で言うんだ」


「分かりやすいから」


「じゃあゆっくりね」


 アリシアは少し離れて見ている。


 一針。


 布を返す。


 もう一針。


 最初の二つは大きさがかなり違った。


「変」


 子供が言う。


「最初だから」


「こっち大きい」


「次ちょっと小さくしてみたら?」


「うん」


 職員が横から手を出しすぎず、必要な時だけ位置を教える。


 何度か縫ううちに、少しずつ間隔が揃ってきた。


 顔のない存在は共用空間の椅子へ座り、その様子へ身体を向けている。


 見ているのかどうかは分からない。


 今日はまだ立っていない。


 誰も歩かせようとはしない。


 ノアは窓辺で眠っている。


 研究の続きを考えることもできた。


 けれどアリシアは、子供の針が布を抜けるたびに糸が引かれていく様子を眺めていた。


「できた」


 十針ほど進んだところで、子供が布を持ち上げる。


「最初より揃ったね」


「うん」


「袋になる?」


「まだ」


「そっか」


「今日は練習」


「じゃあ袋はまた今度?」


「うん」


 子供は満足そうに布を机へ戻した。


 何でも一日で完成させなくていい。


 それをアリシアは研究の教訓として考えなかった。


 ただ、初めて縫った線が少し曲がっているのを見て、一緒に笑った。


     ◇


 夜、自室へ戻ると、アリシアは今日の記録を読み返した。


 反応あり七例の資料は開かない。


 机にあるのは、無反応例一について書いた一枚だけ。


 東側奥部の観測終端。


 自分の定型確認終端。


 西側装置の記録終端。


 三者共通区間。


 その中で対象三反応は確認されなかった。


 ただし、西側の記録終端は反応あり七例の最も後方まで伸びた西側窓後端より前にある。


 だから、その先まで「西側反応なし」とは書けない。


「前より弱くなったのかな」


 アリシアが呟いた。


 ノアは寝台の端で尻尾を揺らす。


『何が?』


「無反応一個目」


『記録が?』


「証拠として」


『私に聞く?』


「聞いてみただけ」


『先生に聞きなさい』


「やっぱりそれ」


『でも、記録そのものが昨日より弱くなったわけじゃないでしょう』


 アリシアは振り返る。


「どういうこと?」


『昨日まであなたが広く思ってただけじゃないの?』


 少し黙る。


 確かにそうだった。


 記録は変わっていない。


 西側装置が途中で終わっていた事実も、今日突然生まれたわけではない。


 自分たちが、そこまで細かく見ていなかっただけだ。


「弱くなったんじゃなくて、使えるところが分かった?」


『それなら私にも分かる言い方ね』


「ノアが言ったんじゃん」


『私はそこまで言ってないわよ』


「似たようなこと言った」


『人の手柄を猫に押しつけないで』


「普通逆じゃない?」


 アリシアは笑い、また紙へ向き直った。


 余白へ書く。


『無反応例一が今日弱くなったわけではない。どこまで言える記録かが前より分かった』


 続ける。


『東側奥部と自分については、反応あり七例で対象反応が現れた時間帯より後まで非確認を確かめられる。西側はかなりの範囲を見ているが、最も遅い既知の西側窓までは覆わない』


 もう一行。


『だから、単純な観測不足だけで全部を説明することもできないが、観測終了後に遅れて西側反応が出た可能性を完全に消すこともできない』


 書いてから、少し考える。


 これが今日の一番大きなところだった。


 白か黒かではない。


 使えるか、使えないかでもない。


 どこまで使えるか。


「二個目見る前に、何書く?」


『もう考えてるの?』


「だって決めたから」


『寝る前まで研究するなとは言わないけど、ほどほどにしなさいよ』


「ノアが言うと変」


『何が?』


「心配してるみたい」


『明日寝不足で歩くの遅くなったら私が困るの』


「やっぱり自分のためだった」


『当然でしょう』


 アリシアは微笑んだ。


 二つ目の無反応例を見る前に、自分が知りたいこと。


 終端が長いか短いかだけではない。


 東側奥部の記録はどこまで続くのか。


 自分の状態確認はどこまであるのか。


 西側はどこまで記録されているのか。


 三者共通区間はどこまでか。


 その区間は、反応あり七例の各時間窓と比べてどの位置までを覆うのか。


 そして、その中に対象反応候補が本当にないのか。


 アリシアは新しいページへ書いた。


『無反応例二を見る前。例一より観測が長いか短いかだけで良し悪しを決めない。三つの終端を別々に残す。共通区間を残す。反応あり七例の時間窓との関係を見る。対象反応基準は変えない』


 そこまで書き、筆先が止まる。


 もう一つ、今の自分の望みも書いておく。


『西側記録は、例一より長くあってほしいと思っている。できれば反応あり七例の最も遅い西側窓より後まで残っていてほしい。その方が“遅れて出ただけ”という可能性を減らせるから』


 書き終えると、少し胸が軽くなった。


 明日、二つ目が短かったとしても、この願いは消さない。


 長かったとしても、「やっぱり」と言って一つ目を捨てない。


「できた」


『何が?』


「明日の前のやつ」


『じゃあ終わり』


「まだちょっと――」


『終わり』


「ノアが決めるの?」


『もう灯り消す時間でしょう』


 時計を見る。


 思っていたより遅かった。


「……ほんとだ」


『でしょう』


 アリシアは練習帳を閉じた。


 灯りを落とす前、今日の無反応記録をもう一度だけ見る。


 何も起きなかった一枚。


 そう呼んでいた記録には、実際にはいくつものものが残っていた。


 東側奥部では、元からの下降が続いていた。


 自分は定型確認へ「冷たくない」と答えていた。


 西側装置は、弱波形を記録しないまま途中で観測を終えていた。


 そして、その終わりより先については分からない。


 何も起きなかった。


 その一言は、昨日より少し使いにくくなった。


 けれどアリシアは、それを不便だとは思わなかった。


 見えている範囲と、見えていない範囲が分かれた。


 分からない場所を、分かったことにしなくて済む。


 それなら、空白が残る方がいい。


 机の上には、まだ開いていない二つ目の記録のための紙が一枚置かれている。


 アリシアはそこへ何も足さず、灯りを消した。


 次の記録がどこまで続いているのかは、まだ知らない。


 だから今夜は、その先を想像で埋めなかった。

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