第213話 反応がなかった二回を空白と呼ばないなら、何も起きなかった時間にも端がある
七枚目までの時間窓を見終えた翌朝、アリシアは研究用の練習帳を開かなかった。
机の上には置いてある。
昨日の夜、七枚の記録を順番通り資料箱へ戻したあと、その隣へ置いたままにしていた。窓から差し込む朝日が黒い表紙の半分だけを照らし、閉じた帳面の上には薄い金色の帯ができている。
それでも手を伸ばさなかった。
代わりに制服の襟を整え、髪を結び直し、鞄の中身を確認する。今日の午前は通常授業が二つ、そのあと学年集会があり、午後の研究予定は入っていない。
「今日は開かない」
誰に言うでもなく呟くと、寝台の端で前足を舐めていたノアが顔を上げた。
『何を?』
「練習帳」
『開けば?』
「昨日いっぱい書いたから」
『じゃあ開かなければ?』
「……ノア、どっちでもいいでしょ」
『私の帳面じゃないもの』
「そうだけど」
アリシアは少しだけ練習帳を見る。
反応あり七例。
東側奥部。
自分の感覚。
西側弱波形。
七枚すべてを現在の規則で時間窓へ再処理した。
西側の中心的配置は七例とも後方側だったが、自分の感覚窓との境界関係は同じではなかった。五例では共通区間がなく、四例目と七例目では部分的な重なりがある。しかも非重複の五例も間隔はそれぞれ違い、重なった二例も重複幅は同一ではない。
昨日はそこまで見た。
次に何を見たいかも、もう分かっている。
反応がなかった二例。
入力には意図的な小変動があったのに、東側奥部の追加低下も、自分の弱い冷感も、西側の明瞭な弱波形も確認されなかった記録。
昨夜はすぐにでも見たかった。
けれど今日は研究予定がない。
「……学校行こ」
『最初からその予定でしょう』
「分かってるよ」
鞄を持つ。
練習帳は置いていった。
◇
午前の学院は、少しだけ浮ついた空気に包まれていた。
学年集会で次の月の行事予定が説明されるらしく、廊下にはいつもより大きな予定表が貼られている。何人もの生徒がその前で足を止め、授業変更や実習日の位置を確認していた。
アリシアも教室へ向かう途中で人だかりに巻き込まれた。
「見えない」
前に立っていた女子生徒が背伸びする。
「何が?」
「来月の第三週。実習あるって聞いたんだけど」
「右の下じゃない?」
「それ二年生」
「あ、本当だ」
アリシアは少し横へ移動し、人の肩越しに予定表を見る。
「三週目の水曜じゃない?」
「どこ?」
「真ん中の……あ、隠れた」
ちょうど背の高い男子生徒が前を横切った。
「ごめん」
本人も気づいたらしく、身体を屈める。
「そこまでしなくていいよ」
「いや、俺が完全に壁だったから」
「じゃあ壁、もうちょっと左」
「扱いひどくない?」
周囲から笑いが起こる。
男子生徒が本当に半歩左へ動くと、予定表の中央が見えた。
「水曜だ」
女子生徒が指差す。
「やっぱり」
「ありがとう、アリシア」
「うん」
「壁もありがとう」
「名前で呼べよ」
また笑いが広がった。
アリシアも口元を緩めながら、その場を離れる。
少し前までなら、人の集まっている掲示板には近づかなかったかもしれない。誰かに聞けば済むなら、後で友人へ尋ねたと思う。
今日はただ、人が見ていたから自分も見た。
それ以上でも、それ以下でもない。
教室へ入ると、友人がすでに席にいた。
「予定表見た?」
「見た」
「実習増えてるよね」
「一個だけじゃない?」
「一個増えたら増えてる」
「それはそうだけど」
「しかも水曜」
「水曜だと何かあるの?」
「前の日が体育」
「……それが?」
「筋肉痛」
「毎回なるの?」
「なる予定」
「予定に入れないでよ」
「身体は予定通りにならないから困る」
友人は真剣な顔をしている。
アリシアは思わず笑った。
「それなら体育で頑張りすぎなければいいじゃん」
「それができたら苦労しない」
「何で?」
「始まると勝ちたくなる」
「何と戦ってるの?」
「昨日の自分」
「急に格好よく言わないで」
始業を告げる鐘が鳴る。
教師が入ってくると、生徒たちはそれぞれの席へ戻った。
研究とは何も関係のない朝だった。
◇
学年集会は昼前に終わった。
講堂には数十人分の椅子が並び、教師たちから今後の予定や注意事項が伝えられた。実習、提出物、学院内施設の利用時間変更。途中で長い説明が続くと、後方の生徒たちが姿勢を崩し始め、教師に軽く注意される場面もあった。
アリシアは最後まで聞いていたつもりだったが、講堂を出たところで友人に尋ねられた。
「図書室の時間変更、何曜日だっけ?」
「……木曜?」
「金曜じゃなかった?」
「え」
近くにいた男子生徒が振り返る。
「金曜だよ」
「やっぱり」
「アリシア、聞いてなかった?」
「聞いてたよ」
「じゃあ何で木曜?」
「途中で混ざった」
「珍しい」
「私だって間違えるよ」
男子生徒が笑う。
「昨日も何か間違えてなかった?」
「それ別の人じゃない?」
「そうだっけ」
「たぶん」
「自信ないじゃん」
「だって昨日いっぱい人いたし」
会話をしながら教室へ戻る。
廊下の窓からは明るい陽光が入り、床へ長い四角形を作っていた。外では風に揺れる木々の葉がざわざわと鳴っている。
昼食の時間になっても、アリシアは研究の練習帳を持っていなかった。
そのことを途中まで忘れていた。
食事を終え、友人たちが次の休日に学院近くの店へ行く話を始めた頃になって、ようやく思い出した。
今日は帳面を置いてきた。
でも困っていない。
「アリシアも来る?」
「どこ?」
「聞いてなかったの?」
「最後だけ」
「雑貨屋。新しい髪飾り入ったらしいよ」
別の女子生徒が自分の髪を指す。
「私これ壊れそうだから見たいんだ」
「前に落としたやつ?」
「それは別の。あれは直した」
「髪飾り壊しすぎじゃない?」
「髪が悪い」
「髪のせいにするんだ」
「多いから仕方ないの」
アリシアはその髪を見る。
確かに量が多い。
「行けたら行く」
「研究ある?」
「まだ分かんない」
「じゃあ決まったら教えて」
「うん」
それだけで話は次へ移った。
アリシアが研究へ行くかもしれないことも、行かないかもしれないことも、友人たちにとって特別な話ではなくなっている。
それが少し嬉しかった。
◇
午後は研究をしなかった。
生活観測区画へ戻ったアリシアは、子供と一緒に窓際の卓上へ紙を広げていた。
ただし、木箱の線を調べているわけではない。
子供が描き始めたのは、庭の絵だった。
雨上がりの石畳。
植え込み。
窓から見える木。
顔のない存在がよく座る椅子。
「ここ、こんなに大きい?」
アリシアが木を指す。
「大きい」
「窓より?」
「絵だから」
「絵なら大きくていいの?」
「うん」
「じゃあノアも大きくする?」
「嫌」
『何でよ』
少し離れた椅子で丸くなっていたノアが顔を上げる。
「紙に入らない」
『そこまで大きくしろとは言ってないでしょう』
「じゃあこのくらい」
子供が紙の隅へ黒猫を描く。
胴が妙に長い。
「ノア、長い」
『私はそんな形してないわよ』
「猫」
『猫なら何でもいいと思ってる?』
「ノア」
『余計悪いわ』
アリシアが笑う。
子供も少し笑った。
机の反対側には方向候補一と二の紙が重ねて置かれている。
今日は触らないらしい。
「線やらないの?」
アリシアが尋ねる。
「今日は絵」
「そっか」
「明日やるかも」
「箱は?」
「まだ開けない」
「うん」
それで終わる。
進めない日を作ることに、子供も以前ほど不安を見せなくなっていた。
顔のない存在は窓から少し離れた椅子へ座り、庭の方へ身体を向けている。
今日は歩くかもしれない。
歩かないかもしれない。
誰も促さない。
アリシアは子供から色鉛筆を一本借り、庭の石畳へ薄く色を足した。
「そこ濃い」
「そう?」
「昨日の雨だから、こっちもっと濃い」
「見てたんだ」
「うん」
「じゃあ直す」
午後の時間は、そんなふうにゆっくり過ぎていった。
◇
研究の続きを始めたのは翌日だった。
朝から薄い雲が広がり、午後になっても日差しは強くならなかった。研究室の窓から入る光も柔らかく、机の上に置かれた資料の文字が白く反射することはない。
アリシアが入室すると、反応あり七例の資料箱は棚へ戻されていた。
代わりに、机の中央には何も置かれていない。
「今日は無反応例について、“何を比較できるか”を決めます」
学院長が最初にそう告げた。
「二個を見るんじゃないの?」
「まだ見ません」
アリシアは予想していたのに、少しだけ肩を落とした。
『顔に出てるわよ』
ノアが足元で言う。
「分かってる」
「残念ですか?」
サーラが尋ねる。
「少し。でも、前も先に決めたから」
「はい。今回も同じです」
アリシアは席につく。
「反応ないのに時間窓って作れるの?」
「そこから考えます」
魔導具教師が白紙を一枚出した。
「反応あり例では、東側奥部追加低下、アリシアさんの感覚、西側弱波形について、それぞれ“反応が存在した可能性のある時間範囲”を時間窓として扱いました」
「うん」
「しかし無反応例には、その反応自体が確認されていません。したがって、同じ意味の時間窓を作ることはできません」
「じゃあ何を見るの?」
「入力後、どの範囲までなら“少なくとも記録上は対象反応が確認されなかった”と言えるかです」
アリシアは少し考える。
「ずっと?」
「いいえ」
即答だった。
「何で?」
「記録が永遠に続いているわけではないからです」
「あ」
「観測が終わった後まで“反応しなかった”とは言えません」
アリシアは白紙を見る。
反応がない。
何も起きなかった。
その言葉は、どこまでも続くような気がしていた。
けれど記録には終わりがある。
「じゃあ、反応なしにも終わりがある?」
「正確には、“反応なしと確認できる観測区間”に終端があります」
「それが端?」
「はい」
アリシアは少し前のめりになった。
「始まりは入力?」
「そこも決める必要があります」
「入力より前も反応なかったら?」
「事前観測区間がありますから、記録上は入力前から対象反応がないことを確認できます。ただし今回知りたいのは、意図的小変動を入れたあとに反応が現れなかったことです」
「じゃあ入力の終わりから?」
「候補の一つです」
副学院長が別の紙へ簡単な横線を描く。
「入力自体にも幅があります。意図的小変動の開始点、頂点、復帰点。どこを基準に“その後”と呼ぶかで観測区間の長さが変わります」
アリシアは眉を寄せた。
「また先に決めること増えた」
『おめでとう』
「嬉しくない」
『研究ってそういうものでしょう』
「ノア研究してないじゃん」
『だから外から好き勝手言えるのよ』
若い観測員が笑いを堪えながら記録板へ目を落とした。
◇
まず、何を知りたいのかを整理した。
無反応例は二つある。
一つは後半寄りの意図的小変動を入れた記録。
もう一つは前半寄り。
どちらも入力自体は確認されている。
しかし、その後に東側奥部の追加低下は確認されず、アリシアの弱い冷感もなく、西側の明瞭な遅延弱波形もなかった。
「今までは、“なかった”って一個で書いてた」
アリシアが言う。
「はい」
「でも、どこまで見てなかったのかは二個で違うかもしれない?」
「その可能性があります」
「記録時間が違う?」
「まだ二例の詳細を開いていないので、今日はそれを確認しません」
「……徹底してる」
「結果を見てから規則を作らないためです」
アリシアは頬杖をつきそうになり、途中で手を止めた。
「じゃあ、先に“これだけ見てれば反応なし”って時間決める?」
「それも危険です」
「何で?」
「反応あり七例の西側波形がどの程度遅れて現れているかを利用して、必要な観測長を考える方法はあります。しかし“七例で最も遅かった西側より少し長ければ十分”とだけ決めると、その外側で起こる可能性を最初から切り捨てることになります」
「でも、ずっとは見られない」
「その通りです」
アリシアは口を閉じる。
観測には終わりがある。
終わった先は分からない。
なら「反応なし」という言葉には、必ず「観測した範囲では」がつく。
「……今までより言葉長くなる」
『あなたの研究、どんどん一言で説明できなくなってるわね』
「最初からできないよ」
『“分からない”なら一言よ』
「それで全部終わらせないで」
ノアの尻尾が机の脚へ一度当たった。
◇
話し合いは、観測区間の始点から始まった。
入力の開始。
意図的小変動が最も大きくなった位置。
復帰開始。
既定範囲へ戻った時点。
どれを使うか。
アリシアは最初、入力開始でいいと思った。
「一番早いから」
「何に対して早いのでしょう」
魔導具教師に尋ねられる。
「反応が起きるかもしれない時間」
「入力開始と同時に下流反応が始まる可能性を除外していないという意味では、その考え方はあります」
「じゃあ開始?」
「ただし、入力そのものがまだ形成途中の時間も含みます」
「それは駄目?」
「駄目とは限りません。ただ、“入力後の無反応区間”という名称には合わなくなります」
アリシアは少し考える。
「じゃあ名前変える?」
副学院長が頷く。
「その方が自然でしょう。“入力基準後”と決めるより、“入力開始を零点とした観測可能区間”として記録する方法があります」
「反応あり七個も零は入力開始?」
「比較用の基準時刻は同じ考え方で合わせています」
「なら、それがいい」
「まだ決定ではありません」
「分かってる」
アリシアは少し唇を尖らせた。
「最近それ言われる前に分かるようになった」
「成長ですね」
「先生に言われると、子供みたい」
『十五歳は十分子供よ』
「ノアよりは大きい」
『身体の話しかできないの?』
「猫に年齢で勝てるか分かんないから」
『失礼ね』
サーラが口元を隠して笑った。
張り詰めすぎないまま、議論は続く。
最終的に、無反応確認区間の始点は入力開始を共通基準の零点として扱うことになった。
ただし「入力後」という言葉は避ける。
入力形成中も含まれるためだ。
記録上は、
『入力開始を基準零点とした対象反応非確認区間』
とする。
「長い」
アリシアが紙を見て言った。
「略称を作りますか?」
「変な名前にならない?」
「では無理に作らなくても」
「それがいい」
◇
次は終端だった。
こちらの方が難しかった。
東側奥部の記録がどこまで連続しているか。
アリシアの状態確認がどこまで続いているか。
西側装置がどこまで同一条件で記録しているか。
三つは必ずしも同じ時刻で終わらない。
「一番短いところまで?」
アリシアが言う。
「三者すべてについて“反応なし”と一括して述べるなら、それが最も保守的です」
「一個だけ長く残ってても?」
「たとえば西側だけ記録が長ければ、その区間について“西側では明瞭な対象波形なし”とは言えます。しかしアリシアさんの感覚や東側奥部について同じ長さまで言うことはできません」
「じゃあ三個別々に端を作る?」
室内が少し静かになった。
若い観測員が記録板から顔を上げる。
「その方が情報を落とさないと思います」
「でも、三つ一緒に反応しなかったって比べたい時は?」
「その場合だけ、三者共通で観測できた区間を別に示す方法があります」
魔導具教師が三本の横線を描いた。
東側奥部。
アリシア。
西側。
それぞれ終端が違う仮の図。
三本すべてが存在する範囲だけを薄く囲む。
「ここが三者共通確認区間です」
「それより後は?」
「記録が残る対象については個別に評価できます」
「全部なかったとは言わない」
「はい」
アリシアは図をじっと見た。
反応がない。
その一言の中にも、こんなにたくさんの端があった。
「前は二個とも“何もなかった”って思ってた」
「実用上の要約としては間違いではありません」
サーラが答える。
「ただ、今は時間関係を詳しく見る段階ですから、“どこまで確認して何がなかったのか”を分ける必要があります」
「何もないのに、見るものいっぱいあるね」
『空っぽの箱だって、どこまで空っぽか確認するには箱の大きさが要るでしょう』
ノアが言う。
アリシアは少し考えた。
「珍しく分かりやすい」
『珍しくは余計よ』
「でも箱の外まで空っぽとは言えない」
『そういうこと』
「……ノア、研究できるんじゃない?」
『しないわよ。面倒だから』
「さっき私が言った時はからかったくせに」
『私は面倒なものを面倒と言って避けるの。あなたは面倒と言いながら近づくの。そこが違う』
「何か負けた感じする」
『勝負してないわよ』
◇
今日決めたのは、そこまでだった。
無反応二例の実際の資料はまだ開かない。
入力開始を共通零点にする。
東側奥部、アリシア状態、西側装置について、それぞれ対象反応を確認できなかった記録区間の終端を別々に残す。
三者をまとめて「反応なし」と比較する時は、三者すべての観測が成立している共通区間を別に示す。
観測終了後については何も断定しない。
そして、反応あり七例の時間窓を使って無反応区間を後から都合よく切らない。
「最後のやつ、大事?」
アリシアが尋ねる。
「重要です」
副学院長が答えた。
「なぜなら、反応あり七例の西側波形がすべてある範囲に収まっているからといって、無反応例の観測をその直後で切れば十分だと事後的に決めてしまうと、比較が七例の結果へ依存するからです」
「でも七個を参考にするの全部駄目?」
「いいえ。将来の新しい試験で必要観測時間を設計する際の参考にはできます。ただし、過去二例が実際にどこまで観測されていたかという事実を、七例に合わせて書き換えることはできません」
「あるものをそのまま見る」
「はい」
アリシアは練習帳へ今日の規則を書いた。
数行書いたところで手を止める。
「明日、二個見る?」
「体調と予定に問題がなければ、一例ずつ進めましょう」
「二個一緒じゃない?」
「一つ目で新しい問題が出る可能性があります」
「……出そう」
『期待するものじゃないでしょう』
「期待してないよ」
『顔がちょっと楽しそうだけど』
「だって、何が違うか知りたい」
ノアがため息をついた。
『本当に面倒な方へ歩いていくわね』
「今日は歩いてない。座ってる」
『そういうところよ』
研究室に笑いが広がった。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、子供は昨日描いた庭の絵を壁際へ立てかけていた。
今日は方向候補一と二の紙が机に戻っている。
「線やった?」
「少し」
「どうだった?」
「一と二を同じ大きさにした」
「昨日も並べてたよね」
「大きさ違った」
「あ」
よく見ると、昨日までの写しとは別に、箱の縁を基準に縮尺を揃えた二枚が作られている。
「こっちの方が比べやすい」
「うん」
「何か分かった?」
「向きが似てるところはある。でも、同じには見えない」
「じゃあ別の線?」
子供は首を振った。
「まだ分かんない。途中がないから」
「うん」
「明日も紙でやる」
「箱は開けない?」
「まだいい」
子供は自分で決めた。
アリシアはその横へ座る。
「私も今日は二個見なかった」
「何で?」
「何も起きなかった時に、どこまで何も起きなかったって言えるか決めてた」
子供の眉が寄る。
「何もないのに?」
「うん」
「何を見るの?」
「記録が終わるところ」
「終わった後は?」
「分かんない」
子供はしばらく考え、それから自分の紙の空白を指した。
「ここみたい?」
アリシアも見る。
確認済みの黒線と、別の確認済み線の間。
実物をまだ確認していない空白。
「少し似てる。でも同じじゃないよ」
「うん」
「こっちは物の線で、私のは時間だから」
「でも、ないところは分かんない」
「そうだね」
それ以上、二つを結びつけなかった。
◇
夕食後、顔のない存在は自分から椅子を離れた。
昨日は歩かなかった。
今日は立ち上がり、窓の方へ一歩だけ進む。
そこで止まった。
外を見るように身体を向けたまま、しばらく動かない。
子供は一度だけ観察用紙へ視線を落とした。
「一歩」
書く。
それだけだった。
「昨日ゼロで今日一」
口にしてから、子供は鉛筆を止める。
「でも良くなったとは書かない」
「うん」
「今日は一歩」
「それでいいと思う」
顔のない存在はその後、二歩目を踏み出さず椅子へ戻った。
胸の光については担当者が通常通り別紙へ記録している。
歩数との関係を誰も決めない。
生活観測区画には食器を片づける音と、窓の外から入る虫の声が静かに重なっていた。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは、朝には開かなかった練習帳を机へ置いた。
今日は開く。
研究室で書いた規則を読み返す。
『反応なしは無限の空白ではない』
その下へ、少し考えてから続きを書いた。
『記録がある範囲で、対象反応が確認されなかった。記録が終わった先まで“なかった”とは言わない』
さらに、
『東側奥部、自分、西側で記録の終端が違うなら別々に残す。三つまとめて言う時だけ、三つ全部が見えている範囲を使う』
と書く。
ノアは寝台の上で身体を伸ばしていた。
『今日はずいぶん地味な一日だったわね』
「学校は普通だったよ」
『研究の話』
「地味?」
『反応のない記録を見る前に、反応のない時間をどう書くか決めただけでしょう』
「大事だよ」
『知ってるわよ』
「じゃあ地味って言わないで」
『大事で地味なものはいくらでもあるでしょう』
「……それはそうかも」
アリシアは笑った。
明日、一つ目の無反応記録を見るかもしれない。
以前の後半寄りの試験。
意図的小変動は入った。
それでも東側奥部の追加低下も、自分の冷たさも、西側弱波形も確認されなかった。
今までは、その一行で済ませていた。
明日からは違う。
入力開始から、東側はどこまで見えていたのか。
自分の状態確認はどこまで続いていたのか。
西側装置はどこまで記録していたのか。
三つ全部が揃っていた時間はどれほどあったのか。
そして、その区間は反応あり七例で実際に確認された時間窓を十分に含む長さだったのか。
そこまで見て初めて、「少なくともこの範囲では出なかった」と言える。
「ノア」
『何?』
「何も起きなかった記録って、前はつまらないと思ってた」
『今は?』
「見るところ多い」
『嬉しそうね』
「ちょっと」
『末期だわ』
「何の?」
『研究好きの』
「病気みたいに言わないで」
ノアは答えず、前足へ顎を乗せた。
アリシアはもう一度練習帳へ目を落とす。
反応ありの七枚は、時間窓を持っていた。
そこには曖昧でも、反応が存在した可能性のある場所が描けた。
反応のなかった二枚には、その帯を同じようには描けない。
だからといって、真っ白な紙ではない。
入力があった。
観測が続いた。
その間、対象となる三つの反応は確認されなかった。
そして観測が終わる。
何もなかった時間にも、記録の上では始まりと終わりがある。
アリシアは最後に一行だけ足した。
『明日、一個目を見るなら、“何もなかった”を広げすぎない。でも、短くもしない。残っている記録の端まで、そのまま見る』
筆を置き、帳面を閉じる。
窓の外では雲の切れ間から月が少しだけ覗いていた。
明日見るかもしれない一枚には、反応を示す線は現れない。
それでも、その紙が何も持っていないわけではなかった。
どこまで見て、どこから先を見ていないのか。
その境界を知ることから、次の比較はようやく始まるのだった。




