第212話 最後の一枚が四枚目に似ていても、七枚全部を二つの組には分けない
朝の空は、昨日よりもずっと高く見えた。
夜のうちに雲の大半が流れ去ったらしく、生活観測区画の窓から見える東の空には薄い青が広がっている。雨を含んだ庭の土はまだ濃い色をしていたが、石畳の表面はほとんど乾き、植え込みの葉に残った雫だけが朝日を受けて細かく光っていた。
アリシアは朝食を終えると、窓辺へ立った。
胸に冷たさはない。
痛みも息苦しさもない。
昨日の備品整理で使った腕には少しだけ重さが残っているものの、日常生活に支障が出るほどではなかった。
それより気になるのは、研究室に残した七枚目だった。
「今日、見られるかな」
窓枠の上で外を眺めていたノアが耳だけをこちらへ向けた。
『昨日は“明日絶対とは決めない”って言ってたわね』
「言った」
『朝になったら?』
「見たい」
『そこは変わらないのね』
「うん。でも昨日みたいに、先にやることが出てきたらそっちやる」
『少しは学習してるじゃない』
「少しって何」
『褒めたのよ』
「絶対違う」
アリシアは小さく笑い、机の上に置いた練習帳を開いた。
昨夜の最後の記録が目に入る。
『七枚目が離れても、六枚目と同じとは限らない。重なっても、四枚目と同じとは限らない。最後の一枚を、先に作った二つの答えへ押し込まない』
昨日の自分が残した言葉だった。
今朝読んでも、変えたいとは思わない。
ただ、そのすぐ下へ一行だけ加えた。
『見たい気持ちは強い。西側には後ろへ離れてほしい気持ちも残っている』
そこで筆を止める。
「これでいい」
『毎朝、自分に注意書きする生活になってきたわね』
「忘れないためだから」
『あなた、忘れてはいないでしょう』
「忘れなくても、都合よく小さくするかもしれない」
ノアが振り返った。
からかう言葉が来ると思ったが、黒猫はしばらく何も言わなかった。
『そこまで分かってるなら、書いておけばいいんじゃない』
「うん」
アリシアは練習帳を閉じた。
今日七枚目を見ることになっても、ならなくても、朝の自分はここまででいい。
◇
午前の学院では、昼前から小さな騒ぎが起きていた。
事件ではない。
中庭へ続く回廊の一角で、昨日の雨を避けるため屋内へ移されていた鉢植えを、元の場所へ戻していたのである。
園芸担当の生徒だけでは数が多すぎたらしく、休み時間に通りかかった生徒たちまで声をかけられていた。
「水上さん、今暇?」
友人に呼び止められ、アリシアは足を止める。
「次の授業までなら」
「一個だけ手伝って。これ外に戻したいんだけど、私一人だとちょっと怖い」
指されたのは腰ほどの高さまで伸びた植物だった。
鉢そのものは大きくないが、枝が横へ広がっている。
「折れそう」
「でしょ? だから反対側持って」
「うん」
二人で鉢を持ち上げる。
思ったより軽い。
ただし枝が邪魔だった。
「そっち引っかかる」
「待って、今避ける」
「葉っぱ顔に来た」
「ごめん」
「私じゃなくて植物に言って」
「植物に謝るの?」
「折ったら謝る」
「折らないでよ」
慎重に回廊を抜ける。
外へ出ると、昨日までの湿気を含んだ風が頬へ触れた。日差しは暖かいが、日陰に入るとまだ少し涼しい。
中庭では十人ほどの生徒が鉢を運んでいた。
「それ、こっち!」
園芸担当らしい上級生が手を振る。
「壁から少し離してください。雨水が落ちる場所なので」
「ここ?」
「もう少し右です」
二人で位置をずらす。
「この辺?」
「はい、ありがとうございます」
鉢を下ろした瞬間、友人が腰を伸ばした。
「よし。労働した」
「一個だけじゃん」
「一個でも労働は労働」
「昨日私、箱いっぱい運んだよ」
「じゃあ今日は休んでいい」
「もう運んだ後に言わないで」
近くで別の鉢を置いていた男子生徒が笑った。
「水上さん、最近普通に突っ込むようになったよな」
突然言われ、アリシアは目を瞬いた。
「……前はしなかった?」
「してたかもしれないけど、もっと小さかった気がする」
「声が?」
「たぶん」
友人が横から口を挟む。
「最近は私にも普通に文句言うよ」
「それ、良いことなの?」
「良いでしょ。黙って全部許されるより」
「私、そんなに文句言ってる?」
「昨日も言った」
「何を?」
「私が甘いもの勧めた時」
「それ文句じゃない」
「じゃあ反論」
「それなら……してるかも」
三人で笑う。
アリシアは少しだけ頬が熱くなるのを感じたが、以前のようにその場から離れたいとは思わなかった。
自分が変わったのか。
周りが慣れたのか。
たぶん両方なのだろう。
けれど、どちらが先だったかを考える必要はなかった。
上級生が次の鉢を指している。
「すみません、もう一つだけお願いできますか?」
友人が即座に答えた。
「アリシアがやります」
「何で私だけ?」
「昨日いっぱい運んだから慣れてる」
「今日は休んでいいって言ったじゃん」
「撤回」
「早いよ」
笑い声が中庭へ広がった。
結局、二人でもう一鉢運んだ。
◇
昼休みが終わる頃、アリシアは少しだけ緊張していた。
午後の研究予定はすでに決まっている。
今日は人工刺激なし。
過去記録の再評価だけ。
そして研究班から、体調と精神状態に問題がなければ七例目へ進む予定だと伝えられていた。
最後の一枚。
反応ありとして残っている過去記録のうち、まだ現在の時間窓規則で再処理していない最後の例。
食事は普通に食べた。
友人とも話した。
身体の状態も悪くない。
それでも、研究室へ近づくほど胸の奥が少し落ち着かなくなる。
西側には離れてほしい。
昨日も書いた。
今朝も書いた。
七例目が後方へ離れれば、自分はきっと嬉しい。
六例目の時よりも、さらに強く。
逆に、四例目のように重なれば嫌だと思う。
それも分かっている。
「アリシア」
研究室へ向かう途中、ノアが足元から声をかけた。
「何?」
『歩くの速い』
言われて初めて気づいた。
「……ほんと?」
『私が少し走ってる』
「ごめん」
アリシアは歩幅を緩めた。
『急いでも七枚目は逃げないわよ』
「分かってる」
『なら普通に歩きなさい』
「うん」
廊下の窓から、昼の日差しが斜めに差し込んでいる。
研究室まであと少し。
アリシアは一度だけ深く息を吸い、今度はノアと同じ速度で歩いた。
◇
研究室へ入っても、七枚目は机の上になかった。
代わりに昨日決めた記録用紙が置かれている。
六例分の記録がすでに転記され、その下に七例目の空欄があった。
アリシアは席へ座る前に、その空欄をしばらく見た。
「今日は、まず体調確認から始めます」
サーラが言う。
アリシアは頷いた。
「身体の疲れは二くらい。昨日の腕の重さはほとんどない。胸の冷たさもないし、痛みも息苦しさもない」
「恐怖や不安は?」
「七個目を見るのが怖いのは少しある。でも止めたいほどじゃない」
「結果への期待は?」
アリシアは練習帳を出した。
「朝に書いた。西側には後ろへ離れてほしい。見たい気持ちも強い」
「今も変わりませんか?」
「変わらない。むしろ研究室に来たらちょっと強くなった」
「その状態で続けられそうですか?」
「うん」
サーラは他の担当者へ視線を向ける。
治療担当、安全担当からも問題なしの確認が返った。
学院長が口を開いた。
「では、昨日決めた記録方法を最後に確認してから七例目へ進みます」
「うん」
副学院長が記録用紙を示す。
「新しい“明確分離”“境界近接”という閾値は作らない。アリシアさんの感覚時間窓と西側時間窓に共通区間がなければ、その間隔をそのまま記録する。共通区間があれば重複幅を記録する」
「時間窓全体の図も残す」
「はい。そして中心的配置が前方側か後方側かは、境界間隔とは別に記録します」
「七個目見てから変えない」
「その通りです」
アリシアは一度頷いた。
「じゃあ、見たい」
◇
七例目の資料が運ばれてきた。
それは新しい実験結果ではない。
過去に行われた、反応ありの制御記録。
現在までに何度も概要は見ている。
けれど、今の時間窓規則で細かく再処理するのは初めてだった。
まず入力操作の基準時刻を零へ合わせる。
当時の校正記録を確認する。
装置の型式。
記録送りの遅延。
内部処理の幅。
欠損の有無。
誰も結果を急がない。
七例目だからといって手順を省略しない。
若い観測員が記録を一つずつ読み上げ、別の担当者が照合する。
アリシアは待っている。
早く見たい。
それでも途中の計算を覗き込まない。
まず東側奥部の時間窓が作られた。
「東側奥部、確定しました」
一本目の帯が置かれる。
アリシアは視線を落とした。
「前の六個と、そんなに離れてない」
「はい。現在の七例の中では近い範囲です」
「次、私?」
「はい」
当時の申告記録が確認される。
七例目では、最初の発話が少し曖昧だった。
『……今、何かあったかも』
その後、短い間を置いて、
『冷たい。胸のところ』
と続いている。
アリシアは記録を聞きながら、以前決めた規則を思い出した。
「最初が“何かあった”だから、そこから?」
「最初の発話時刻より前へ、既定の発話前不確実幅を置きます。その後の“冷たい”という明確化までを含めます」
「一個目の時に直したのと同じ?」
「はい。最初から“冷たい”と言えた例だけ窓が不自然に狭くならないよう、同じ考え方を使っています」
「うん」
その規則を作った時には、七例目の形を見ていない。
だから今日は触らない。
二本目の帯が置かれる。
東側奥部とアリシア感覚。
大きくは離れていない。
かなりの部分が重なっている。
「また重なった」
アリシアが小さく言う。
「はい」
「ここは七個とも近いんだね」
「“近い”を厳密な分類語として使うなら定義が必要ですが、視覚的には同じ時間帯周辺へ集まっています」
「あ、そっか」
アリシアは苦笑した。
「普通の言葉まで難しくなってきた」
『そのうち“隣”にも定義が必要になるわよ』
「それは嫌」
『安心しなさい。私が隣にいる時は隣よ』
「そこは決めていいんだ」
『猫の規則は私が決めるの』
研究班から小さな笑いが起こる。
張り詰めていた肩が少し緩んだ。
けれど、残るのは西側だった。
アリシアは笑みを収める。
ここからだ。
◇
西側記録の再処理が始まった。
装置は東側と型式が異なる。
弱い波形のため処理幅も広い。
これまでの六例と同じ規則で、当時の校正値を当てる。
アリシアは手を膝の上へ置いた。
指先が少しだけ強く組まれる。
離れてほしい。
また思った。
七例目も後ろへ離れてくれればいい。
そうすれば、西側が後方側にあるという並びがさらに見やすくなる。
四例目の重なりは残る。
捨てない。
それでも、最後の一枚まで後ろなら安心できる。
「計算終わりました」
若い観測員の声がした。
紙が置かれる。
アリシアは西側の帯を見た。
すぐには意味を言葉にできなかった。
西側の中心的配置は、やはり後方側にある。
そこは六例までと同じだった。
けれど、アリシア感覚窓の後端と、西側時間窓の前端。
二つの帯は、わずかに重なっていた。
「……重なってる」
声が少し低くなった。
「はい」
「四個目みたい」
言った瞬間、サーラは否定も肯定もしなかった。
「まず、昨日決めた形式で記録しましょう」
「……うん」
アリシアは視線を紙から外せなかった。
離れてほしかった。
七枚目。
最後の一枚。
きれいに後ろへ離れてほしかった。
それなのに、重なっている。
大きな重なりではない。
西側の中心そのものは後方側にある。
けれど、帯の端には共通部分がある。
昨日までなら「四例目だけ」と言えた。
今は違う。
七例目も重なった。
「嫌だ」
小さな声が出た。
研究班は急かさなかった。
アリシアは唇を結び、しばらく紙を見つめる。
「……嫌だった」
もう一度言う。
「離れてほしかったから」
サーラが穏やかに尋ねる。
「続けられますか?」
「うん。でも、ちょっと待って」
「もちろんです」
アリシアは目を閉じなかった。
紙を見たまま、自分の中に出てくるものを追う。
四例目だけじゃなかった。
その言葉が最初に浮かぶ。
次に、
じゃあ西側は後じゃないのかもしれない。
という考えが来た。
さらに、
でも中心は後ろ。
という反論が自分の中から返ってくる。
頭の中で二つの考えがぶつかる。
どちらかへすぐ寄りたくなる。
七枚目が重なったから、昨日までの後方傾向を弱くしたくなる気持ち。
逆に、重なりが小さいから「ほとんど離れている」と扱いたくなる気持ち。
両方あった。
「……今、二つある」
アリシアが言った。
「何がですか?」
「一個は、“四個目だけじゃなかったから、西側が後ろって考えも駄目かも”って気持ち。もう一個は、“ちょっとしか重なってないから離れてることにしたい”って気持ち」
ノアが机の端からアリシアを見る。
『忙しいわね』
「うん」
『どっちにするの?』
「どっちにもしない」
答えたあと、アリシアは息を吐いた。
「昨日決めた通りに測る」
「分かりました」
副学院長が頷いた。
◇
七例目の重複幅が測られる。
四例目と同じ「部分重複」ではある。
しかし、幅は同じではなかった。
「……四個目より狭い」
「はい」
「どれくらい?」
正式値が読み上げられる。
アリシアはその数字を練習帳へそのまま写さず、研究班の記録用紙を見た。
七例目。
西側中心配置――後方側。
アリシア感覚窓との関係――部分重複。
重複幅――実測値。
時間窓全体――図を保持。
「四個目と七個目、同じ組にする?」
アリシアが尋ねた。
「“部分重複がある”という一点では同じです」
魔導具教師が答える。
「しかし、同じ時間配置とは言いません。重複幅も違いますし、窓全体の幅、中心間隔も同一ではありません」
「昨日書いた通りだ」
「何を?」
「重なっても四枚目と同じとは限らないって」
アリシアは練習帳を開き、昨夜の一文を見せた。
サーラがそれを読んで、小さく頷いた。
「結果を見る前に書けていますね」
「うん」
少しだけ救われた気がした。
七例目が重なったこと自体は嬉しくない。
でも、重なった瞬間に四例目と同じ箱へ入れなくて済んだ。
「じゃあ、七枚全部並べる?」
「そうしましょう」
◇
七枚の記録が机いっぱいに並んだ。
今まで空いていた最後の場所が埋まる。
アリシアは少し椅子を後ろへ引き、全体を見る。
東側奥部。
自分の感覚。
西側。
七例。
同じ規則で作られた時間窓。
同じ形式で残された配置。
西側中心は、七例すべてで後方側にある。
アリシア感覚窓と西側窓の関係では、五例に共通区間がなく、二例に部分重複がある。
だが、共通区間のない五例も間隔は同じではない。
部分重複の二例も重複幅は違う。
「五と二」
アリシアが呟いた。
すぐに昨日の自分を思い出す。
「……また数えた」
『数えるなとは誰も言ってないでしょう』
「でも、五対二って思った」
『思うのは勝手よ』
「多数決しない」
『それも昨日言ってたわね』
副学院長が六例までの用紙へ七例目を加える。
「件数を数えること自体に問題はありません。問題になるのは、その件数だけで別の結論へ飛ぶことです」
「五例は離れて、二例は重なった。これは言っていい?」
「現在の時間窓規則において、アリシアさんの感覚窓と西側窓の共通区間がない例が五例、部分重複を持つ例が二例。これは記述できます」
「でも“五例では西側が後に起きて、二例では同時に起きた”は駄目」
「はい」
「重なっても同時とは限らないから」
「その通りです」
アリシアは七枚を見る。
以前なら、ここで一つの図にしたかったかもしれない。
東側。
自分。
西側。
左から右へ矢印を引く。
そんなきれいな図。
けれど七枚は、きれいに同じ形をしていない。
東側奥部と自分の感覚も、例によって重なり方が違う。
西側は全体として後方へ寄っているが、感覚窓との境界関係は一定ではない。
「平均にしたら?」
アリシアが尋ねた。
「何を平均しますか?」
副学院長に聞き返され、言葉に詰まる。
「……中心?」
「中心間隔を平均することはできます」
「重複幅は?」
「それも数値化できますが、離れている例と重なっている例を同じ尺度へ置く方法を先に決める必要があります」
「じゃあ平均作れば、もっと分かりやすい?」
「分かりやすくなる部分はあります。ただし、七例の違いが隠れる可能性もあります」
アリシアは四例目と七例目を見る。
「今はやらない方がいい?」
「私は、今日すぐに行う必要はないと考えます」
学院長が答えた。
「七例目を処理した直後です。まずは七例を個別記録として残し、今日見えたものを整理するところまでで十分でしょう」
「平均は後でもできる?」
「はい」
「七枚は後から戻せる?」
「もちろんです」
「じゃあ今日は並べたままがいい」
誰も反対しなかった。
◇
研究班は七例から現在言えることだけを、一つずつ確認した。
七例すべてが反応ありとして選ばれた記録であること。
東側奥部の追加反応、アリシアの弱い感覚、西側の弱波形が同じ記録群で確認されていること。
時間窓へ再処理すると、東側奥部とアリシア感覚は七例とも近い時間帯に配置されるが、その窓は重なったり、わずかに離れて見えたりしており、固定した先後関係を断定できないこと。
西側の中心的配置は七例すべてで後方側。
しかしアリシア感覚窓との境界では五例が非重複、二例が部分重複。
したがって、西側が他二者より遅い方向へ配置される傾向は見えるが、「必ず後に発生する」という一点的な発生順序は現在の精度では確定できない。
アリシアは途中で口を挟んだ。
「“傾向”って言っていいの?」
「現在の七例では、西側時間窓の中心がすべて後方側ですから、その配置傾向を記述することはできます」
「でも原因は?」
「分かりません」
「西側が返事してるとか?」
「そこまでは言えません」
「東側から西側に何か送ってる?」
「未確定です」
「六つ目が途中にいる?」
「それも未確定です」
アリシアは少し唇を尖らせた。
「分からないの多い」
『今さら?』
「七枚全部見たから、もうちょっと減ると思ってた」
『七枚見たら謎が七分の一になる規則でもあるの?』
「ないけど」
『なら仕方ないでしょう』
サーラが少し笑う。
「ただ、減った不確実性もあります」
「どこ?」
「以前は、三つの反応が同じ記録に現れることは分かっていても、その内部の時間配置をかなり粗くしか扱えていませんでした。今は少なくとも、西側の中心的な時間配置が七例すべてで後方側にあること、東側奥部とアリシアさんの感覚は現在の記録精度では先後を固定できないほど近いことが見えています」
「答えじゃないけど、前より狭くなった?」
「はい。ただし狭くなった範囲から外へ飛び出さないことが大切です」
アリシアは頷いた。
全部は分からない。
でも、何も分からないわけでもない。
その間にいる。
◇
そこで研究を終える予定だった。
けれど、アリシアには一つ気になることが残った。
「反応なかった二個は?」
部屋の空気が少し変わる。
人工的な小変動を入れたにもかかわらず、東側奥部の追加低下も、アリシアの感覚も、西側の明瞭な弱波形も確認されなかった二例。
「時間窓作れない?」
「反応が確認されていないため、同じ意味での三つの時間窓は作れません」
魔導具教師が答えた。
「そっか」
「ただし、入力時刻と、その後どこまでを無反応確認区間とするかは記録できます」
アリシアの視線が上がる。
「それ、比べる?」
「今日はしません」
学院長の答えは早かった。
けれど拒絶ではない。
「なぜ?」
「今、七例目までの再処理が終わったばかりです。ここで無反応例の新しい時間評価へ入ると、別の問いを同じ日に始めることになります」
「……そっか」
「反応あり七例で時間窓をどう扱うか。その一区切りをまず残しましょう。無反応例を時間の観点からどう比較するかは、次の検討候補にできます」
アリシアは少し残念だった。
七枚目を見たら、次が見えた。
その次へすぐ行きたくなる。
以前と同じだ。
けれど、今日はもう十分だった。
「じゃあ書くだけにする」
練習帳へ、
『次の候補。無反応二例について、入力後のどこまでを「反応なしとして確認できた区間」と言えるか。ただし今日はやらない』
と記す。
『今日はやらない』まで書いたところで、ノアが覗き込んだ。
『自分で自分を止める文章が増えたわね』
「止めないと増えるから」
『何が?』
「やりたいこと」
『それは元気で結構』
「研究の話」
『研究以外も増やしなさい』
「授業も友達もあるよ」
『ならよし』
アリシアは少し笑った。
◇
研究室を出る頃には、西日が廊下の奥まで差し込んでいた。
今日は雨の気配がない。
開け放たれた窓から風が入り、壁際の掲示紙をわずかに揺らしている。
アリシアは歩きながら、七枚目の形を頭の中へ戻していた。
重なった。
嫌だった。
でも、四枚目と同じではなかった。
そこまで考えたところで、廊下の先から友人が歩いてきた。
「あ、アリシア」
「今帰り?」
「うん。そっちは?」
「研究終わった」
「最後の一個見た?」
昨日、購買で話したことを覚えていたらしい。
「見た」
「どうだった?」
アリシアは少し迷う。
研究内容を詳しく話す必要はない。
「思ってたのと違った」
「悪かった?」
「嫌だった。でも、悪いって決まったわけじゃない」
友人が眉を寄せる。
「難しい」
「私も難しい」
「じゃあ昨日の甘いのもう一個買う?」
「今日はいい」
「何で?」
「昨日食べたから」
「一日一個まで?」
「そういう決まりじゃないよ」
「じゃあ買えばいいのに」
「何でそんなに食べさせたいの?」
「私が買いたいから」
「自分の理由じゃん」
「一人で買うと食べすぎた感じする」
「二人でも食べた量は変わらないよ」
「気分が違う」
アリシアは吹き出した。
「じゃあ付き合う」
「やった」
研究室で感じた重さが少しだけほどける。
七枚目の結果は変わらない。
でも、それを抱えたまま友人と購買へ行ってもいい。
◇
生活観測区画へ戻った時、子供は共用机に二枚の紙を並べていた。
方向候補一。
方向候補二。
昨日まで別々に見ていた二つを、今日は同じ向きへ揃えて置いている。
「七個目見た?」
アリシアの顔を見るなり尋ねられた。
「見た」
「離れた?」
「ちょっと重なった」
「嫌だった?」
「うん」
「捨てた?」
「捨ててない」
子供は頷いた。
「じゃあ七個になった?」
「なった」
「全部同じ?」
「違った」
「そっか」
それだけで納得したらしい。
アリシアは子供の紙を見る。
「そっちは?」
「並べた」
「一と二?」
「うん。向きは似てるところもある。でも、曲がるところが違う」
「同じ線?」
「まだしない」
子供は紙の間へ指を置く。
「ここがないから」
「うん」
「あと、同じ線だったらって考えると、こっちでいっぱい曲がらないと来ない」
「でも、いっぱい曲がれないとはまだ分からない?」
「分かんない」
「じゃあ残す?」
「灰色で残す」
確認済みの黒線とは違う。
仮の線は灰色。
空白は空白。
子供はその区別を崩さなかった。
「箱、開けたい?」
「今日はいい」
「見なくて大丈夫?」
「紙でまだできる」
「そっか」
アリシアはそれ以上勧めなかった。
子供も七枚目について詳しく聞かなかった。
互いにそれぞれの紙を見る。
同じ机にいる。
それだけだった。
◇
夕方、顔のない存在は共用空間の端に座っていた。
今日は歩かなかった。
立ち上がることもなかった。
胸の十一の光については担当者が通常通り記録している。
子供は一度だけそちらを見たが、観察用紙へ歩数を書くことはなかった。
「今日は歩かないね」
小さく言う。
「うん」
「昨日は三歩」
「今日はまだゼロ」
「悪い?」
アリシアは首を振った。
「分かんない」
「昨日より少ないけど?」
「少ないのは歩数だけ。悪いかは分かんない」
子供は少し考えてから頷いた。
「じゃあゼロだけ書く?」
「担当の人が記録してるなら、今日は書かなくてもいいんじゃない?」
「うん」
子供は自分の絵へ戻った。
顔のない存在は、そのまま静かに座っている。
何も起きない時間も生活の一部だった。
◇
夜。
アリシアの机には、初めて七枚すべてが並んだ。
横一列には置けないため、上に四枚、下に三枚。
番号順。
七枚目だけを特別な位置へ置かない。
四枚目も離さない。
どれも同じ透明な保護紙へ入っている。
「全部揃った」
『時間窓の再処理はね』
「うん」
『神器の謎は?』
「全然揃ってない」
『なら勘違いしなくて結構』
「しないよ」
アリシアは椅子へ座り、七枚を見渡した。
朝は、最後の一枚が後ろへ離れてほしかった。
今も、離れていた方が嬉しかったと思う。
七枚目の重なりを見た瞬間、胸の奥に落ちた残念さはまだ少し残っている。
けれど、最初ほど強くはない。
「七枚目、嫌いになりそうだった」
『紙を嫌うの?』
「結果を」
『で?』
「今は……嫌いっていうより、困る」
『研究には便利そうな相手ね』
「何で?」
『困る記録の方が考えるでしょう』
「でも、嬉しい記録も考えるよ」
『嬉しい時は都合よく考える危険が増えるって、あなた自身が散々やってたじゃない』
「……そうだけど」
反論しきれない。
アリシアは四枚目を指で示す。
「前はこれだけだった」
次に七枚目。
「今は二個」
『部分重複が?』
「うん。でも同じじゃない」
『そうね』
「五個は重ならなかった。でも、それも同じじゃない」
『そうね』
「じゃあ、二組に分けない」
ノアが目を細める。
『誰か分けろって言った?』
「私が分けたくなるから言ったの」
『なるほど』
アリシアは練習帳を開く。
今日の記録を、急がず書いていく。
『七例目。東側奥部と自分の感覚窓は大きく重なる。西側中心配置は後方側。ただし自分の感覚窓と西側窓には部分重複あり』
『見た瞬間、嫌だった。最後も離れてほしかったから』
『四例目と七例目は、部分重複がある点では同じ。しかし重複幅も窓全体も同一ではない』
『非重複の五例も、間隔は同一ではない』
そして最後に、
『七例を「離れた五」「重なった二」の二種類だけにしない。件数は残すが、各例の窓も残す』
と書いた。
筆を置く。
「これで七個終わり」
『今日はね』
「明日すぐ無反応二個やるのは駄目かな」
『さっき“今日はやらない”って書いたばかりなのに、もう明日の話?』
「明日は今日じゃないよ」
『屁理屈が上手くなったわね』
「じゃあ明後日?」
『私に決めさせないで』
アリシアは笑った。
研究したい気持ちはまだ残っている。
七例を見終えたから終わりではない。
むしろ次の問いが増えた。
反応がなかった二例を、時間の面からどう見るのか。
反応あり七例の中で、西側の後方配置がどの程度安定しているのか。
東側奥部と自分の感覚の近さを、今より細かく見る方法があるのか。
けれど、それらを今夜一つずつ始める必要はない。
七枚を見終えた今日は、七枚が揃ったことだけを受け取ればいい。
アリシアは机の端に手を置いた。
七枚目が来る前、そこには空白があった。
どんな線が入るのか分からない場所。
今、その空白は埋まった。
けれど答えで埋まったわけではなかった。
少し重なった一本の時間窓が増え、代わりに「四枚目だけ」という見方が消えた。
減ったものもある。
増えたものもある。
それでいいのだと思う。
「ノア」
『何?』
「七個目、見てよかった」
『嫌だったんでしょう?』
「嫌だった。でも、見てよかった」
『なら今日はそれでいいんじゃない』
「うん」
ノアは寝台の上で丸くなった。
アリシアは七枚を一枚ずつ重ね、透明な保護紙ごと資料箱へ戻していく。
一例目。
二例目。
三例目。
四例目。
五例目。
六例目。
七例目。
最後まで順番を変えなかった。
都合のいい五枚を先にまとめることもしない。
重なった二枚を別の束へすることもしない。
七枚すべてを同じ箱へ戻し、蓋を閉じた。
その箱の中には、まだ一つの答えにならない七つの記録が入っている。
けれど今のアリシアには、一つになっていないことそのものが、以前ほど不安には感じられなかった。




