第211話 最後の一枚を見る前に境界を決めるなら、七枚目のための言葉にはしない
翌朝、雨は上がっていた。
生活観測区画の窓硝子には昨夜の水滴がまだ幾筋か残っていたものの、雲の切れ間から差し込む朝日は明るく、濡れた庭の石畳を淡く照らしている。窓を少し開けると、雨上がり特有の冷たい土と草の匂いが入り込み、室内に残る朝食のパンと温かい茶の香りへ静かに混ざった。
アリシアは食器を片づけたあと、自室から持ってきた練習帳を共用机へ置いた。
開いたのは、昨夜最後に書いたページだった。
『七枚目を開く前に、六枚だけを使って西側窓の分類規則を決める。七枚目がどこへ来ても、あとから境界を動かさない』
読み返してから、アリシアは少しだけ眉を寄せる。
「……分類、必要なのかな」
昨日までは必要だと思っていた。
西側の時間窓が、東側奥部や自分の感覚窓からどれほど離れているか。
明確に後方へ分離している。
境界が近い。
部分的に重なる。
そういう言葉を決めておけば、最後の記録を見たあとで都合よく呼び方を変えずに済む。
けれど、一晩経つと別の疑問が出てきた。
分類することで、本来は連続している時間窓の位置関係を、無理に箱へ入れることにならないだろうか。
『朝から難しい顔してるわね』
窓辺で毛づくろいをしていたノアが言った。
「昨日、分類決めるって書いたでしょ」
『書いてたわね』
「でも、決めない方がいいかもしれない」
『昨日と逆じゃない』
「うん」
『七枚目の結果見てないのに?』
「見てないから考えてる」
ノアは前足を止めた。
『じゃあ先生にそう言えば?』
「いいのかな。昨日決めたのに」
『“決める”じゃなくて、“必要なら決める”だったでしょう』
アリシアは記憶を辿る。
確かに、研究班も分類規則を必ず作るとは言っていなかった。
必要なら。
七例目を見る前に。
その二つだった。
「ノア、よく覚えてるね」
『あなたより話を聞いてるから』
「私も聞いてるよ」
『聞いてるのに翌朝悩んでるのは誰?』
「……私」
『でしょうね』
アリシアは練習帳へ一行だけ足した。
『朝になって、分類そのものが必要かも先に考えた方がいい気がした』
消さない。
昨日の自分と今日の自分が違っていても、どちらかをなかったことにする必要はない。
それから帳面を閉じた。
研究室へ行くのは午後だった。
◇
午前の学院は、雨上がりのせいかいつも以上に騒がしかった。
中庭へ出られなかった昨日の反動なのか、休み時間になるたび多くの生徒が回廊や庭へ流れていく。濡れた芝生へ踏み込んで靴を汚した生徒が友人に笑われ、教師から「泥を校舎へ持ち込まないように」と注意される声も聞こえていた。
アリシアの午前最後の授業は、魔法実技でも資料読解でもなかった。
今日は教室の備品整理を兼ねた共同作業の日で、学期中に使った練習道具や教材を棚ごとに戻していく。
研究とはまるで関係がない。
「これ、どこ?」
隣で木箱を抱えていた女子生徒が尋ねる。
木箱といっても、生活観測区画にある子供のものとは似ても似つかない。学院の印が焼き付けられた大きな教材箱で、中には練習用の石板が十枚ほど入っている。
「三段目じゃない?」
「三段目もういっぱい」
「じゃあ二段目?」
「札が違う」
二人で棚を見上げる。
教師が最初に「札を確認して戻してください」と言っていたため、勝手な場所へ押し込むわけにもいかない。
そこへ後ろから男子生徒が来た。
「それ隣の棚だよ」
「え?」
「石板は去年からこっち」
「札ある?」
「裏側」
三人で箱を動かすと、棚板の奥に小さな札が見えた。
「見えないよ、これ」
女子生徒が不満そうに言う。
「先生、札の位置悪くないですか?」
少し離れた場所で別の箱を確認していた教師が振り返った。
「去年、皆さんが棚を動かした時に札まで奥へ行ったんです」
「じゃあ去年の人たちが悪い?」
「責任転嫁が早いですね」
「でも私たち今年初めてです」
「それはそうですが、見つけた人が直せば来年の人が助かります」
女子生徒がアリシアを見る。
「やる?」
「やろう」
「素直だなあ」
「来年また言われるよりいいでしょ」
「来年この教室使うか分かんないじゃん」
「誰かは使うよ」
結局、三人で箱を戻したあと、奥へ隠れていた札を手前へ貼り直した。
それを見た別の班からも、「こっちも札見えない」と声が上がる。
「先生、これ全部やるんですか?」
「見つけたところだけで構いません」
「全部見つけない方が得じゃない?」
「聞こえていますよ」
教室のあちこちから笑い声が上がった。
アリシアも笑いながら、次の箱を持ち上げる。
「重っ」
「そっち持つ」
先ほどの男子生徒が反対側を持った。
「ありがとう」
「これ何入ってんの?」
「分かんない」
「箱に書いてあるだろ」
「そっち向きだから見えない」
「古い術式板だって」
「じゃあ重いね」
「納得するところそこ?」
二人で棚まで運ぶ。
途中、床に残っていた小さな水滴を踏みそうになり、アリシアが足を止めた。
「待って、濡れてる」
「危な」
後ろから来た女子生徒が雑巾を持ってくる。
「誰か雨の靴で入ったな」
「私じゃないよ」
「誰もアリシアって言ってない」
「先に言っとこうと思って」
「怪しい人の言い方じゃん」
「違うって」
また笑われる。
作業が終わる頃には、アリシアの腕は少し疲れていた。
それでも嫌な疲れではない。
棚は整い、隠れていた札もいくつか手前へ戻った。
最後に教師が教室を見渡し、「来年の人たちは少なくとも今年より迷わないでしょう」と言うと、誰かが「来年また全部動かされるかも」と返して、もう一度笑いが起きた。
アリシアは机へ戻りながら、自分の手のひらを軽く開いた。
研究室で紙を動かすのとは違う。
今日は朝から重い箱を運び、札を貼り直し、同級生に笑われた。
そんな時間が普通に一日の中へあることを、今では意識しなくても受け入れられていた。
◇
昼食後、アリシアは研究室へ向かう前に生活観測区画へ戻った。
子供は共用机で紙を広げている。
木箱は閉じたまま、少し離れた棚の上に置かれていた。
昨日言っていた通り、今日は接近二の方向を紙上で比べているらしい。
「どう?」
「まだ途中」
子供は確認済み部分の写しを二枚並べていた。
接近二へ向かう線の方向。
その周辺で確認できている曲がり方。
さらに、離れた位置にある黒線のうち、向きが近そうなもの。
「つながりそう?」
アリシアが尋ねると、子供はすぐには答えなかった。
鉛筆の先で二枚の紙の間にある空白を示す。
「ここがないから、まだ分かんない」
「うん」
「でも、こっちは向きが近い」
「方向候補?」
「二にする」
「昨日が一だったから?」
「うん」
紙の端へ『方向候補二』と書く。
アリシアはその文字を見てから、別の灰色線へ視線を移した。
「こっちは?」
「向きがちょっと違う。でも曲がったら来るかもしれない」
「じゃあ消さない?」
「消さない」
「そっか」
子供は紙を眺めたまま、小さく首を傾げた。
「候補って、何個まであっていいの?」
アリシアは答えに迷った。
「分かんない」
「いっぱいでも?」
「本当に残るなら、いいんじゃない?」
「見にくくならない?」
「なるかも」
「じゃあ減らしたい」
「減らせる理由があるなら?」
「うん」
子供は納得したように頷いた。
「嫌いだからは駄目」
「それは前に決めたね」
「曲がりすぎてるからも、まだ駄目」
「今見えてるより強く曲がる線がないって分かってないから?」
「うん」
子供の言葉は少しずつ長くなっている。
以前なら「分かんない」で止まっていたところを、自分なりの理由まで続けるようになった。
「アリシアは今日七個目?」
「まだ」
「見ないの?」
「見るかもしれないけど、その前に決めることがある」
「何?」
「……紙をどう呼ぶか」
言ってから、アリシアは少し笑った。
「変だね」
「名前?」
「名前っていうか、離れてるとか、重なってるとか」
「見れば分かるんじゃない?」
「分かるところもある。でも、ちょっとだけ近い時をどうするか決めたいの」
子供は考える。
「線みたい」
「似てるところはあるね。でも別のもの」
「うん」
それ以上は結びつけない。
アリシアは時計を見る。
「行ってくる」
「七個目見たら教えて」
「今日見るかまだ分からないよ」
「じゃあ決めたこと教えて」
「分かった」
◇
午後の研究室には、昨日までの六枚がすでに用意されていた。
七枚目はない。
少なくとも、アリシアから見える場所には置かれていなかった。
学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、若い観測員。装置担当者も一人いる。
アリシアが入ると、サーラが席を示した。
「今日は最初に分類の必要性から確認します」
「ちょうど言いたかった」
アリシアは鞄を置き、朝の練習帳を開いた。
「昨日は七個目の前に分類決めるって思ってた。でも朝になったら、分類しない方がいいかもしれないって思った」
「理由を聞いても?」
「無理に三種類とかにしたら、ちょっとずつ違うのを同じ箱に入れちゃうかもしれないから」
副学院長が頷いた。
「重要な点です」
「じゃあ、やらない?」
「結論を急がず、まず何のために分類を考えたのか確認しましょう」
机の中央へ六枚が並べられる。
アリシアは昨日と同じ配置を眺めた。
六例すべてで、西側時間窓の中心的な位置は東側奥部より後方側。
しかし、アリシアの感覚窓との関係は同一ではない。
明確に離れて見えるもの。
境界が近いもの。
四例目のように部分的に重なるもの。
「七枚目見てから、“これは離れてることにしよう”って変えないため?」
アリシアが言う。
「それが一つです」
魔導具教師が答える。
「もう一つは、七例を後から比較する時、同じ言葉が違う意味で使われることを避けるためです」
「でも、数字で距離を残せば分類いらない?」
若い観測員が少し身を乗り出した。
「私もそれを考えていました」
「数字にできる?」
「窓同士の境界距離なら可能です。ただし、重なっている場合は単純な正の距離ではなくなります」
「重なり幅にする?」
「それも可能です」
魔導具教師が紙を一枚出す。
「たとえばアリシア感覚窓の後端と、西側窓の前端の関係だけを見るなら、離れている場合は正の間隔、接していれば零、重なっていれば負の値として表す方法があります」
アリシアは紙を見た。
「それなら、明確とか近いとか決めなくていい?」
「一部はそうです。ただし問題もあります」
「どこ?」
「窓の後端と前端だけを使うと、それぞれの窓全体の幅や中心配置が見えにくくなります。以前確認した通り、端だけを一点時刻のように扱う危険があります」
「……そっか」
アリシアは椅子の背へ少し身体を預けた。
分類すると丸めすぎる。
数字だけにすると、今度は窓全体を忘れるかもしれない。
「面倒」
『研究に対する感想がどんどん率直になるわね』
ノアが足元で言う。
「だって面倒なんだもん」
「面倒だからこそ、簡単な分類へ逃げない方がよい場合もあります」
サーラの言葉に、アリシアは少し考える。
「じゃあ、六枚そのまま残す?」
「それが基本です」
「でも比較する言葉は?」
「必要最小限だけ事前に定義する方法があります」
副学院長が新しい紙を中央へ置いた。
「たとえば、“部分重複”だけは客観的に定義できます。二つの時間窓の区間が共通部分を持つ場合、部分重複と記録する」
「少しでも重なったら?」
「はい。境界不確実性を含めた現在の窓同士に共通区間があれば、です」
「じゃあ“明確に離れてる”は?」
「そこが問題です。“どれくらい離れたら明確か”という新しい閾値を作る必要がある」
アリシアはすぐに答えなかった。
七枚目がどこへ来るか知らない。
もし今日ここで「これ以上なら明確」と決めれば、七枚目がその境界のすぐそばへ来るかもしれない。
「作らなくていいんじゃない?」
自分でも少し驚くほど自然に言葉が出た。
「離れてるなら、距離をそのまま残せばいい。明確って名前つけなくても」
研究班が静かになる。
若い観測員が六枚へ視線を移した。
「それが最も情報を落とさないかもしれません」
「じゃあ“境界近接”もいらない?」
「近いという言葉にも閾値が必要ですからね」
魔導具教師が頷く。
「現段階では、部分重複の有無と、窓間の実際の間隔または重複幅を記録し、窓全体の図を必ず併記する。中心配置については、これまで通り前方側/後方側という記述を残す。これなら新たな恣意的境界を増やさずに済みます」
「七個目がどこに来ても同じ?」
「はい」
「七個目が、ほんのちょっとだけ離れてても?」
「その間隔をそのまま記録します」
「ほんのちょっと重なってても?」
「重複幅をそのまま記録します」
「じゃあ、“明確”とか“ほぼ”とか後から好きに言わない?」
「少なくとも一次記録では避けます」
アリシアは練習帳へ書き始めた。
『七例目を見る前の規則。西側と自分の感覚窓について、「明確分離」「近接」の新しい閾値は作らない。窓同士が重なるか、離れるかをそのまま記録する。離れるなら間隔、重なるなら重複幅を残す。時間窓全体の図も消さない』
さらに、
『西側の中心的配置が前方側か後方側かも別に残す。端の数字だけで窓全体を代表させない』
と加えた。
「これなら七枚目のために言葉作ってない?」
「はい」
サーラが微笑んだ。
「七枚目をどの分類へ入れるかではなく、七枚目がどの位置に来ても同じ形式で残せます」
「……こっちの方が好き」
『また好き嫌いで研究してる』
「方法として好きって意味」
『知ってるわよ』
ノアの尻尾が一度揺れた。
◇
そこで、すぐ七例目へ進むことはしなかった。
まず六例すべてへ新しい記録形式を当て直す。
新しいと言っても、時間窓自体を作り直すわけではない。
すでに固定規則で作成した帯をそのまま使い、西側とアリシア感覚窓の間隔、あるいは重複幅を追加で記録するだけだ。
「一例目から?」
「はい」
若い観測員が測定用の補助線を置く。
アリシアも横から見る。
数値そのものは、研究班の正式記録へ入る。
アリシアは自分の練習帳には細かな値を写さなかった。
今日は数字を暗記することが目的ではない。
一例目は離れている。
ただし間隔は大きくない。
二例目はより広く離れる。
三例目も離れる。
四例目は部分重複。
五例目は離れる。
六例目も離れる。
昨日まで「明確」「比較的」「近い」と言っていたものが、実際の間隔として並ぶ。
「思ってたのとちょっと違う」
アリシアが言った。
「どこがですか?」
「一個目、もっと離れてると思ってた」
「図を並べた時の印象でしょうか」
「うん。西側の窓が後ろにあるから」
魔導具教師が一例目を指す。
「中心位置は後方ですが、窓幅が広いため、アリシア感覚窓との境界間隔自体はそれほど大きくありません」
「中心と端、やっぱり別だ」
「はい」
「じゃあ、“六個のうち五個は明確に離れてる”って言ってたら、ちょっと危なかった?」
「どこを明確と呼ぶかによります。だからこそ、その言葉を一次分類として使わない判断に意味があります」
アリシアは一例目を見直した。
以前は「西側は後ろ」とだけ見ていた。
それ自体は間違いではない。
ただ、中心位置が後方にあることと、感覚窓との間に広い空白があることは別だった。
「四個目だけじゃないんだ」
「何がですか?」
「みんな少しずつ違う」
言ってから、アリシアは六枚全体へ目を向ける。
「四個目は重なってるから一番目立つけど、一個目と二個目も同じ離れ方じゃない。五個目と六個目も同じじゃない」
「そうですね」
「私、離れてるか重なってるかだけで見ようとしてた」
サーラが静かに頷く。
「分類は便利ですが、便利だからこそ失う情報もあります」
「じゃあ、七個目が離れても“六個同じ”って言わない方がいい?」
「少なくとも、同じ位置関係だったと一括りにする必要はありません」
「離れていた、という点は同じでも、間隔は違うかもしれない」
「はい」
アリシアは少し息を吐いた。
最後の一枚を見る前に、思っていたより大きなものが変わった。
結果ではない。
見る方法だった。
昨日まで、自分は七例目が「離れるか、重なるか」を気にしていた。
今も気になる。
けれど、その二つだけでは足りない。
どのくらい離れるのか。
どのくらい重なるのか。
窓全体はどこへ置かれるのか。
中心はどちら側にあるのか。
その全部を残した方がいい。
「七個目、今日見る?」
アリシアが尋ねた。
学院長はすぐに答えなかった。
「アリシアさんはどうしたいですか?」
「見たい」
「理由は?」
「最後だから」
言ったあと、自分で少し眉を寄せる。
「……それだけじゃない。六個を測り直したら、七個目がどこに来るかもっと気になった」
「疲労は?」
「少しある。授業で箱運んだから腕が疲れた。でも頭は大丈夫」
「今日の作業では、新しい比較形式を六例へ適用しました」
「うん」
「そこで終える選択もあります」
アリシアは七枚目がまだ出されていない机を見る。
見たい。
かなり見たい。
最後の反応あり記録。
七枚目。
西側が離れるのか、重なるのか。
その結果を今すぐ知りたい気持ちは強い。
けれど、今日は「分類を決める日」だった。
朝からそう思って来た。
実際には分類そのものを単純化し、より情報を残す形式へ変えた。
それだけでも十分進んだ。
「……今日は見ない」
言葉にすると、胸の中に小さな残念さが残った。
「本当に?」
サーラが確認する。
「うん。今見たら、今日決めたやり方が良かったかどうかを七個目の形で判断しそう」
研究班の何人かが視線を交わした。
「たとえば?」
「七個目が綺麗に離れたら、“この方法でよかった”って思うかもしれない。重なったら、“やっぱり分類作った方がよかった”って思うかもしれない」
アリシアは練習帳を閉じた。
「今日は六個だけで決めた方法を、六個だけのまま一晩置きたい」
学院長が頷く。
「分かりました。七例目は次回以降にします」
『また最後の一枚がお預けね』
ノアが言う。
「うん」
『残念?』
「かなり」
『じゃあ帰りに何か甘いものでも買えば?』
「ノア食べられないよ」
『あなたが食べればいいでしょう』
「珍しい」
『何が?』
「ノアが甘いもの勧めるの」
『人間の機嫌取りに便利なのは知ってるわ』
「言い方」
研究室に柔らかな笑いが広がった。
◇
研究室を出たあと、アリシアは本当に学院の購買へ寄った。
授業が終わった時間から少し経っていたため、店内は混雑の山を越えている。それでも何人かの生徒が棚の前に残り、菓子や筆記具を選んでいた。
「何買うの?」
偶然居合わせた友人が声をかけてくる。
「甘いもの」
「珍しいね」
「ノアが買えって」
「ノアが?」
「私が食べる用」
「どういう流れ?」
「研究で最後の一個見なかったから」
友人が数秒黙る。
「ごめん、途中が全部分かんない」
「説明すると長い」
「じゃあ甘いもの買うってところだけ理解する」
「うん」
二人で棚を見る。
焼き菓子。
蜂蜜入りの小さなパン。
果実を練り込んだ菓子。
「これ美味しかったよ」
友人が一つ指す。
「甘い?」
「かなり」
「じゃあそれ」
「即決なんだ」
「今日は甘い方がいい」
「何かあったの?」
「見たかったの我慢した」
「それは甘いのいるね」
事情を知らないのに、友人は真面目な顔で頷いた。
アリシアは笑う。
「何で分かるの?」
「我慢した後は甘いものって決まってるから」
「誰が?」
「私が」
「じゃあ友達の決まりじゃん」
「今日からアリシアも」
「勝手に増やされた」
結局、同じ菓子を二つ買った。
友人も一つ買い、その場では食べずに鞄へ入れる。
「明日感想教えて」
「今日食べるよ」
「じゃあ明日でいいじゃん」
「そっか」
それだけの会話をして別れた。
研究室で最後の一枚を見なかった残念さは、まだ残っている。
でも、少し軽くなった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供はすぐにアリシアへ近づいてきた。
「決めた?」
「決めた」
「七個目見た?」
「見てない」
「何で?」
「決めたやり方を、一回そのままにしたかったから」
「明日?」
「まだ分かんない。でも次に見る時は同じやり方」
子供は少し考えたあと、机へ戻る。
「こっちも決めた」
「何を?」
「方向候補二」
「見せて」
紙には、接近二から延びる可能性のある向きが薄い灰色で示されていた。
ただし、実線部分と灰色線の間には小さな空白がある。
「ここ、つなげなかったんだ」
「見えてないから」
「うん」
「でも、つながってたらこの向きかもしれない」
「候補だね」
「うん」
子供は少し嬉しそうだった。
「明日箱開けなくても、まだ紙でできる?」
「できる。接近一と二を並べたい」
「一緒の線か調べる?」
「違う」
子供はすぐに首を振った。
「向きだけ。つながってるとはまだしない」
「そっか」
アリシアは安心した。
「いいと思う」
「アリシアも七個並べる?」
「最後の一個見たらね」
「楽しみ?」
「楽しみ。でも怖い」
「どっちが強い?」
アリシアは少し考える。
数字で答える必要はない。
「今は楽しみの方がちょっと強い」
「じゃあ明日見たい?」
「見たい。でも先生たちと決める」
「うん」
◇
夕食後、生活観測区画には穏やかな時間が流れていた。
顔のない存在は今日は窓辺ではなく、共用机から少し離れた椅子へ座っている。
子供は方向候補の紙を片づけ、別の紙へ絵を描いていた。
ノアはアリシアの隣の椅子を占領している。
アリシアは購買で買った甘い菓子を少しずつ食べていた。
『そんなに甘いの?』
「かなり」
『顔が甘そう』
「顔で分かる?」
『眉間の皺がない』
「私いつもそんなに皺ある?」
『研究室では時々』
「嫌だな」
『自覚しなさい』
子供が絵を描きながら顔を上げる。
「おいしい?」
「おいしいよ」
「ノアは?」
『私は食べないわよ』
「甘いから?」
『そう』
「じゃあかわいそう」
『別にかわいそうじゃないわ』
「干し肉あるよ」
『……それなら後で』
アリシアが吹き出した。
「ノア、やっぱり干し肉好きじゃん」
『今それ関係ないでしょう』
その声に反応したのかどうかは分からないが、顔のない存在が少しだけ頭部をこちらへ向けた。
子供も気づいた。
けれど、何も言わない。
しばらくすると、顔のない存在は椅子からゆっくり立ち上がった。
一歩。
少し止まる。
さらに一歩進み、共用机の近くまで来た。
そこで長く立っていた。
子供は鉛筆を置いたが、呼びかけなかった。
アリシアも菓子を持ったまま待つ。
やがて顔のない存在は三歩目を踏み出し、子供の椅子から少し離れた場所で止まった。
胸元の十一の光は担当者が静かに記録している。
誰も光の数と歩行を結びつけない。
子供が小声で言った。
「ここまで来た」
「うん」
「何で?」
「分かんない」
「絵?」
「分かんない」
「お菓子?」
「分かんない」
『私の美声かもしれないわね』
アリシアと子供が同時にノアを見る。
『何よ』
「それはたぶん違う」
「うん」
『二人して失礼ね』
顔のない存在は、そのまましばらく立ってから自分で椅子へ戻った。
子供は観察用紙へ、
『三歩。共用机の近くまで。理由は分からない』
と書いた。
それ以上は足さなかった。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは六枚の記録を机へ並べなかった。
今日は、別の紙を一枚だけ置く。
研究室で決めた新しい記録形式だ。
西側時間窓とアリシア感覚窓。
部分重複があるか。
離れているなら、その間隔。
重なっているなら、その重複幅。
そして時間窓全体の図を必ず残す。
中心的配置も別項目として記録する。
新しい「明確分離」「境界近接」という閾値は作らない。
「分類しなかったね」
『したでしょう。“重なるか離れるか”は分けてるじゃない』
「でも三個の箱にはしなかった」
『そうね』
「昨日は、明確分離、境界近接、部分重複にしようとしてた」
『今日はやめた』
「うん」
アリシアは紙を見つめた。
「七個目がどこに来ても、数字そのまま残せる」
『そうね』
「ちょうど境目に来て困ることもない」
『境目を作らなかったんだから当然でしょう』
「……なんか、逃げた感じしない?」
ノアが顔を上げた。
『何から?』
「決めることから」
『必要のない線を引かないのが逃げなの?』
「分かんない」
『じゃあ先生に聞けば』
「明日聞く」
『素直ね』
「今日いっぱい考えたから」
アリシアは練習帳を開いた。
最後に今日のことを整理する。
『七例目を見る前に分類規則を決める予定だった。でも、「明確」「近い」の境界を新しく作ると、その境界自体が恣意的になる。だから新しい閾値は作らなかった』
『窓同士が離れるなら間隔を、重なるなら重複幅をそのまま残す。時間窓全体と中心配置も別に残す』
『六例を同じ形式で見直したら、離れている例同士も同じ距離ではなかった。四例目だけが違うのではなく、六例全部が少しずつ違う』
そこまで書いたところで、アリシアは少し長く手を止めた。
最後の一文をどうするか考える。
七枚目を見たい。
西側が離れてほしい。
その気持ちは何も変わっていない。
ただ、昨日までとは少し違う。
昨日は「離れるか、重なるか」を知りたかった。
今日は、その二つだけでは足りないと知った。
アリシアはゆっくり書く。
『七枚目が離れても、六枚目と同じとは限らない。重なっても、四枚目と同じとは限らない。最後の一枚を、先に作った二つの答えへ押し込まない』
書き終える。
ノアが寝台へ飛び乗った。
『で、明日見るの?』
「見たい」
『それは聞いた』
「でも、明日絶対とは決めない」
『じゃあ今日はそれでいいんじゃない?』
「うん」
アリシアは練習帳を閉じた。
六枚の記録は引き出しの中。
七枚目はまだ研究室にある。
最後の一枚を見る前に、答えの箱を作ることはやめた。
代わりに、どんな位置へ来てもそのまま残せる紙を作った。
それが正しいかどうかも、今夜の時点で大げさに決める必要はない。
ただ、七枚目が気に入った時にも、気に入らなかった時にも、同じ書き方ができる。
今はそれで十分だった。
窓の外では、雨雲がすっかり遠ざかっている。
雲の切れ間から見える夜空には、小さな星がいくつか浮かんでいた。
アリシアは灯りを落とす前に、机の上へ残した一枚の記録用紙を見た。
そこにはまだ、七枚目の線は一本もない。
空白のままだった。
けれど昨日までの空白とは違う。
どんな線が来れば嬉しいかを知ったうえで、それでもその線のために形を変えない場所として、静かに空いていた。




