第210話 六枚目まで後ろへ離れても、多数決だけで順番を決めない
朝から降り始めた雨は、昼を過ぎても弱くならなかった。
学院の石造りの建物を包むように細かな雨粒が落ち続け、窓硝子には幾筋もの水滴が細い道を作っている。遠くの校舎は白く霞み、中庭の木々も普段より色を濃くしていた。廊下を歩く生徒たちの靴底からは湿った音が聞こえ、玄関近くには使い終えた傘から落ちた水が薄い染みを広げている。
生活観測区画の窓辺で、アリシアはその雨を眺めていた。
机の上に研究資料はない。
五枚目までの時間窓記録は昨夜、自室で確認してからきちんと片づけた。六枚目のために空けた場所のことは覚えているが、朝からそこへ新しい紙を置くような真似はしていない。
今日、六例目を見ることは決まっていなかった。
それでも考えてしまう。
五例目では、西側の時間窓が東側奥部と自分の感覚より後方へ離れた。
見た瞬間に安心した。
そして、その安心のせいで四例目を邪魔に感じた。
昨日の夜、自分でそこまで書いた。
「……雨、長いね」
『雨に話を逸らしたわね』
窓枠の近くで丸くなっていたノアが、尻尾だけを動かした。
「逸らしてないよ」
『じゃあ何を考えてたの?』
「雨」
『その前』
「……六個目」
『でしょうね』
アリシアは窓から視線を外した。
「今日見るって決まってないよ」
『私も何も言ってないわ』
「でも、見るなら離れてほしい」
『それも昨日から変わってないわね』
「うん」
変わらない。
自分の望みを消そうとは思わなくなった。
西側が後ろへ離れてほしい。
東側奥部と自分の感覚の近くへ来てほしくない。
その方が、六つ目が西側ではなく東側の何かを捉えているという自分の中の考えに合う。
けれど、それは望みだ。
記録ではない。
「もし六個目も離れたら、たぶんもっと安心する」
『でしょうね』
「そしたら、四個目だけ変だってもっと思う」
『でしょうね』
「七個目も離れたら?」
『知らないわよ』
「六個離れて、一個だけ重なったら?」
『私を研究相談員にしないでくれる?』
「ノアなら何て思うか聞いただけ」
『一個だけ違うわね、とは思うでしょうね。でも一個だけ違うから捨てていい、とは思わないわ』
アリシアはノアを見る。
「ちゃんと答えるんだ」
『失礼ね』
「いつも先生に聞けって言うから」
『私が分からないことを分かったふりしないだけよ』
「……それ、大事だね」
『今さら私から研究姿勢を学ぶのやめて』
アリシアは少し笑った。
雨音は変わらず続いていた。
◇
午前の授業では、研究のことを考える暇があまりなかった。
今日の実習は魔力を使うものではなく、学院内で使用される簡易救護具の取り扱いだった。
包帯、固定布、簡易担架。
治療魔法を使える者がすぐそばにいるとは限らないため、怪我人を悪化させずに治療担当者へ引き渡すまでの基本を学ぶ授業である。
四人一組になったアリシアは、いつもの女子生徒とは別の班だった。
同じ授業を受けたことは何度もあるが、普段あまり話さない男子生徒二人と女子生徒一人。
以前なら、それだけで少し身体が固くなっていたかもしれない。
「誰が怪我人役やる?」
一人の男子生徒が言った。
「俺は嫌だ。前の班で担架から落とされた」
「それ、担架の練習で一番駄目なやつじゃない?」
女子生徒が笑う。
「落とされたっていうか、乗せる時に尻から床に落ちた」
「もっと駄目じゃん」
「じゃあ水上さんやる?」
突然振られ、アリシアは一瞬だけ目を瞬いた。
「私?」
「軽そうだし」
「……それ、褒めてる?」
「たぶん」
「先生に“たぶん”は不安になるって言われたばっかりなんだけど」
男子生徒が吹き出した。
「あ、それ聞いた。昨日だっけ?」
「昨日じゃない。さっき」
「今日かよ」
班の三人が笑う。
アリシアも小さく笑った。
「いいよ。やる」
「ほんと?」
「でも落としたら怒る」
「それは怒っていい」
床へ敷かれた練習用の布へ横になる。
天井を見上げると、普段とは教室の見え方がまるで違った。机の脚ばかりが目につき、立っている三人の顔は少し遠く感じる。
教師が前方から説明する。
「担架へ移す時は、一人だけ先に持ち上げないこと。声を合わせます。怪我人役も、怖ければすぐ申告してください」
「水上さん、怖い?」
「今は大丈夫」
「じゃあいくよ。一、二、三」
三人の腕が身体の下へ入る。
少し揺れた。
「待って、右肩ちょっと低い」
アリシアが言う。
「ごめん。直す」
「うん」
もう一度。
今度は安定して持ち上がった。
担架へ移される。
「どう?」
「大丈夫。落ちなかった」
「そこ基準なの?」
「最初に落とされた話聞いたから」
「言わなきゃよかった」
周囲の班からも笑い声が聞こえた。
授業はそのまま役割を交代しながら続いた。
アリシアも運ぶ側へ回り、身体の大きな男子生徒を三人で持ち上げようとして、思った以上の重さに全員で苦戦した。
「ちょ、待って、無理!」
「一回下ろそう!」
「本人笑わないで!」
「ごめん、でもお前ら顔が必死すぎる」
「重いんだから仕方ないでしょ!」
アリシアまで声を上げた。
教室のあちこちで同じような騒ぎが起こっている。
教師が呆れたように手を叩いた。
「遊ばない! 実際の怪我人は笑ってくれませんよ!」
教室が少し静かになる。
けれど完全には笑いが消えない。
アリシアも口元を押さえながら姿勢を直した。
研究とは何の関係もない。
東側も、西側も、時間窓も関係ない。
ただ、同じ授業を受けている生徒たちと、重いだの落とすなだの言いながら練習している。
それでよかった。
◇
昼休み。
食堂は雨のせいか、いつもより混んでいた。
外の中庭や回廊で食べる生徒たちまで屋内へ集まっているため、空席が少ない。湯気の立つスープや焼いた肉の匂いが広い室内に満ち、食器の触れ合う音と話し声が天井近くまで重なっていた。
「アリシア、こっち!」
いつもの女子生徒が手を上げる。
四人掛けの卓だった。
すでに二人座っている。
女子生徒と、以前何度か授業で一緒になった男子生徒。
「座っていい?」
「そのために呼んだんだけど」
「そっか」
アリシアは盆を置いた。
ノアは今日は生活観測区画に残っている。
「今日、救護具だったんでしょ?」
「うん」
「どうだった?」
「人って重い」
男子生徒が笑う。
「何その感想」
「班の人が重かった」
「本人に言った?」
「みんなで言った」
「ひどい班だな」
「本人も笑ってたから大丈夫」
話しながらスープを口へ運ぶ。
途中、友人が食後の飲み物を取りに席を立った。
「私の席取っといて」
「うん」
「ついでに何かいる?」
「いらない」
「了解」
友人が人混みへ消える。
卓にはアリシアと男子生徒だけが残った。
以前なら、少し困ったかもしれない。
共通の友人が戻ってくるまで黙っていればいいのか、それとも何か話した方がいいのか。
けれど男子生徒は特に気にした様子もなく、パンをちぎった。
「水上さん、選択授業決めた?」
「まだ。植物管理がちょっと気になってる」
「へえ。俺、植物は絶対無理だ」
「何で?」
「去年、寮の部屋に小さい鉢置いたら三週間で枯れた」
「水あげなかった?」
「あげた」
「多すぎた?」
「毎日」
「たぶん多い」
「やっぱり?」
普通に会話が続く。
友人が戻ってくるまで、気まずい沈黙はなかった。
戻ってきた女子生徒が二人を見て言う。
「何の話?」
「植物殺した話」
「言い方!」
「枯らしたんでしょ?」
「そうだけどさ」
三人で笑う。
アリシアはふと気づいた。
友人が席を離れても、別に困らなかった。
それを大きな成長だと考える必要もない気がした。
ただ、困らなかった。
それだけで十分だった。
◇
午後の授業を終え、生活観測区画へ戻る。
雨はまだ降っていた。
子供は窓辺近くの机で紙を見ている。
木箱は今日も閉じていた。
「今日は開けなかった?」
「うん」
「見たい?」
「ちょっと見たい。でも今日は紙でできた」
昨日比較していた接近一と二つの方向候補。
そのうち一つについて、子供は薄い灰色の丸をつけていた。
「これ?」
「向きはこっちの方が近い」
「つながる?」
「まだ分かんない」
「間がないから?」
「うん。あと、曲がる前の長さが違うかもしれない」
アリシアは紙へ顔を近づける。
確認済みの線は黒。
仮のつながりは灰色。
空白は空白のまま。
「じゃあ何て書くの?」
「向きが合うかもしれない候補」
「長いね」
「短くしていい?」
「私に聞かれても」
子供は少し考えた。
「方向候補一」
「それなら分かりやすいかも」
「決めたことにならない?」
「方向の候補って書いてるなら、つながったとは言ってないよ」
「じゃあそれにする」
紙の端へ小さく書き込む。
『方向候補一』
アリシアはその文字を見ながら、少しだけ今日の研究を思った。
六例目を見るかもしれない。
西側が後ろへ離れるかもしれない。
それでも、「順番確定」とは書けない。
似ている。
けれど、口にはしなかった。
子供の箱は子供の箱。
自分の研究は自分の研究だ。
「今日研究する?」
子供が尋ねた。
「まだ分からない」
「六個目?」
「覚えてたの?」
「昨日五個目って言ってたから」
「うん。見るなら六個目」
「離れてほしい?」
アリシアは少し驚いた。
「何で分かったの?」
「昨日、離れて嬉しかったって言ってた」
「……うん。離れてほしい」
「じゃあ離れなかったら嫌?」
「嫌だと思う」
子供は頷く。
「帰ったら教えて」
「また?」
「うん」
「結果じゃなくて?」
「どっちも」
昨日より要求が増えた。
「分かった」
◇
研究室へ向かったのは、午後の遅い時間だった。
人工刺激を行う日ではない。
六つ目の神器へ意図的な刺激を与える予定もない。
今日は過去記録の再評価だけである。
それでも、研究班はすぐに六例目を開かなかった。
「先に確認しておきます」
サーラが言った。
「昨日、五例目の西側時間窓が後方へ離れたことで安心した、と記録されています。現在、その気持ちは?」
「残ってる」
アリシアは椅子へ座りながら答えた。
「今日も離れてほしい。昨日より、ちょっと強いかも」
「なぜだと思いますか?」
「五個目が離れたから。六個目も離れたら、四個目だけ違うってもっと思えるから」
そこで一度言葉を切る。
「……思える、じゃないね。思いたくなるから」
「はい」
「あと、七個全部のうち六個が離れたら、かなり嬉しいと思う」
「まだ七例目は見ていません」
「分かってる。未来の話」
ノアが今日は研究室までついてきており、机の端からアリシアを見る。
『朝からずっと六個とか七個とか数えてるものね』
「ノアだって覚えてるでしょ」
『私は記憶力がいいの』
「私も悪くないよ」
『どうかしら』
「今それ関係ない」
少し笑いが起きた。
サーラは急かさず、その空気が落ち着いてから続けた。
「六例目を見ること自体に不安はありますか?」
「結果を見るのはちょっと怖い。でも、見たくないほどじゃない。身体は大丈夫」
「今日見ずに終える選択もできます」
「見る」
答えは迷わなかった。
「昨日は五個目が嬉しかった直後だったから止めた。でも今日は授業も受けたし、お昼も食べたし、間が空いた。今は続きだから急いで見るって感じじゃない」
「分かりました」
学院長が頷いた。
「では六例目へ進みましょう」
アリシアは練習帳を開く。
今日の予想を書く。
『六例目を見る前。西側が後方へ離れてほしい。離れた場合、四例目を例外扱いしたくなる可能性が高い。重なった場合は嫌だと思う。どちらでも既存の五例は変更しない』
少し考え、もう一文加える。
『六例目が離れても、六対一の多数決で発生順序を確定しない』
「これでいい?」
副学院長が文章を確認する。
「はい。特に最後は重要です」
「数が多い方が正しいわけじゃない?」
「単純にはそうなりません。六例が同じ傾向を示せば、その傾向が繰り返し観測されたという意味は強まります。しかし、時間窓そのものに不確実性がありますから、六対一という数だけで一点的な発生順序へ変換することはできません」
「うん」
アリシアは頷いた。
分かっているつもりでも、六枚目を見る前に聞いておきたかった。
◇
六例目の記録が開かれる。
今回選ばれたのも、過去の反応あり記録だった。
当時の入力操作時刻を基準零へ合わせる。
装置の校正記録を確認し、記録送りの遅延を補正する。
観測装置内部の処理遅延も、当時の型式に合わせて既定の規則で扱う。
これまでと同じ。
六例目だから規則を変えない。
結果を知らない段階で、昨日までと同じ手順を使う。
アリシアは計算途中の数値を追わず、完成した帯だけを見る。
「東側奥部、できました」
若い観測員が言った。
一本目の帯が置かれる。
基準零から少し後ろ。
これまでの例と大きく外れた位置ではない。
「次、私?」
「はい」
当時の申告記録が確認される。
六例目では、最初の言葉が比較的明確だった。
『冷たい。胸の真ん中より少し右』
アリシアは過去の自分の言葉を聞き、無意識に胸元へ手を置いた。
今は何も感じない。
記録の中の自分が感じていた冷たさを、今の身体へ再現しようとはしなかった。
「固定規則でいい?」
「はい。曖昧な質問形から始まっていませんので、通常規則を適用します」
申告時刻より前へ、人間側の反応遅延を含む不確実幅を置く。
後端も同じ方法で決める。
二本目。
東側奥部とアリシア感覚。
二つの帯は大きく重なっていた。
「また近い」
アリシアが呟く。
「はい」
「どっちが先かは?」
「この記録でも一点的には決めません」
「うん」
もう聞かなくても分かる。
それでも確認した。
そして、残る三本目へ視線を向ける。
西側。
ここが今日、自分が一番見たがっているところだ。
魔導具教師が当時の西側観測記録を確認する。
「保存状態は良好。欠損なし」
「校正値確認しました」
別の担当者が応じる。
計算が始まった。
昨日より、待っている時間が長く感じる。
アリシアは膝の上で両手を組んだ。
離れてほしい。
そう思う。
後ろへ。
東側と自分から離れて。
四例目のように重ならないでほしい。
その願いを消そうとはしない。
けれど紙へ手は出さない。
計算にも口を出さない。
帯ができるまで、ただ待つ。
「出ました」
若い観測員が紙を置く。
三本目の帯。
アリシアは息を止めた。
西側の時間窓は、東側奥部とアリシア感覚の帯より後方にあった。
しかも今回は、境界部分にも目立つ重なりがない。
明確な後方分離。
数秒、声が出なかった。
やがて肩がゆっくり下がる。
「……離れた」
「はい」
「六個目も」
嬉しい。
昨日より強い。
身体の奥に張っていた糸が緩んだような感覚があった。
アリシアは口元を押さえた。
「よかった……」
研究班はその反応を止めなかった。
サーラもすぐに分析へ移らない。
アリシアが自分の感情を見終えるまで待つ。
「嬉しい」
アリシアはもう一度言った。
「すごく安心した」
ノアが横から覗く。
『朝の予想通りね』
「うん」
『じゃあ次も予想通り?』
「……四個目?」
『そう』
アリシアの笑顔が少しだけ止まる。
六枚の紙を見る。
一例目。
二例目。
三例目。
四例目。
五例目。
六例目。
四例目だけ、西側と自分の感覚窓が部分的に重なっている。
「やっぱり……」
言いかけた。
例外。
その言葉が喉元まで来た。
けれど、アリシアは飲み込んだ。
「やっぱり、四個目が目立つ」
言い直す。
サーラが小さく頷いた。
「その表現なら、現在の配置をそのまま示しています」
「例外とはまだ言わない」
「はい」
「でも六個目が離れたから、昨日よりもっと四個目が気になる」
「それも自然です」
アリシアは練習帳へ書いた。
『六例目。西側は東側奥部と自分の感覚窓より明確に後方へ分離。見た瞬間、強く安心した。四例目だけがさらに目立って見えた』
次の行。
『“例外”と書きたくなったが、まだ書かない』
書いたあと、自分で少し笑った。
「書きたくなったことは書いた」
『ややこしいわね』
「でも本当だから」
『まあね』
◇
六例を横一列へ並べる。
昨日より紙の列が長くなった。
机の端まで使う。
研究班の何人かは立ち位置を変え、全体を見渡せる場所へ移動した。
「ここで、数を数える前に確認します」
副学院長が言った。
「六例のうち何例がどうだったか、という集計は後で行えます。ただし先に、各例の窓がどのように置かれたかを保ちます」
「平均にしない?」
「まだしません」
「一番早いところだけ比べたりも?」
「それも今はしません。窓の端だけを抜き出すと、不確実性の幅を持たせた理由が消えてしまいます」
アリシアは六枚を見る。
「じゃあ、このまま?」
「まずはこのままです」
魔導具教師が一例ずつ指し示す。
東側奥部とアリシア感覚は、六例すべてで近接する。
大きく重なる例。
部分的に重なる例。
細い隙間が見えるものの、境界不確実性を含めれば一点的な順序を確定できない例。
形は同一ではない。
それでも、現在処理した六例では互いに近い時間帯へ集まっている。
一方、西側は中心的な時間配置が六例すべてで後方側にある。
そのうち複数例では、アリシア感覚窓からも明確に離れている。
四例目では、広い感覚窓の後端と西側窓の前端が部分的に重なる。
「六個とも西側の中心は後ろ?」
「はい。現在の規則で作成した時間窓ではそうです」
「でも“西側は六個とも後で起きた”とは言わない」
「はい」
「何か変な感じ」
「どこがですか?」
「六個並んで全部後ろに見えるのに、“後”って決めちゃ駄目なの」
学院長は少し考えてから答えた。
「見えているものを弱く言う必要はありません。六例すべてで西側時間窓の中心的配置が後方側にある。それは現在の結果です」
「うん」
「しかし、“西側で実際の変化が起きた一点の時刻は、六例すべてで必ずアリシアさんの感覚より後だった”という文章は、現在の資料が直接示している範囲を越えます」
「窓だから?」
「そうです。私たちは本当の一点を見つけたのではなく、本当の時刻が含まれる可能性を捨てないよう幅を残している」
アリシアは六枚を眺めた。
「じゃあ、“後ろにある”と“後で起きた”は同じじゃないんだ」
「現在の記録精度では、区別した方がよいでしょう」
「……難しい」
『研究やめる?』
「やめない」
即答だった。
ノアが尻尾を揺らす。
『知ってた』
◇
若い観測員が新しい比較用紙を用意した。
そこには六例分の欄がある。
だが、アリシアは一つ気になった。
「これ、○と×にしない?」
「何をですか?」
「西側が離れたかどうか」
言ってから、自分で眉を寄せる。
「……駄目かも」
「なぜですか?」
「四個目を×にしたら、何が×なのか分からなくなる」
「その通りです」
副学院長が頷いた。
「明確分離、部分重複、境界近接など、現象を残す言葉の方がよいでしょう」
「○が多いって見たくなるし」
「それもあります」
アリシアは比較用紙へ自分で欄を作る。
『西側時間窓の配置』
その下に、
『明確な後方分離』
『境界近接』
『部分重複』
と書いた。
「でも、これも後で変わるかもしれない?」
「分類規則をより厳密にする必要が出れば、変更する可能性はあります。ただし変更するなら、七例目の結果を見る前に定義する方が安全です」
アリシアの手が止まる。
「七個目の前に?」
「はい」
「最後の結果見てから、“これは分離扱い”とか変えたら駄目だから」
「その危険があります」
「じゃあ今日決める?」
「急いで決める必要もありません」
「でも次に七個目見る前には決める?」
「必要なら」
アリシアは少し考えた。
分類を作りたい。
六例目が自分の望んだ形だった今なら、後方分離を広く取りたくなるかもしれない。
七例目まで同じ形にしたいから。
「今日は決めない方がいい気がする」
「理由は?」
「私、今すごく離れた方が嬉しいから」
サーラが頷く。
「では今日は、六例目の処理と六例全体の記述までにしましょう。分類基準が必要なら、次回の七例目を開く前に改めて検討します」
「うん」
アリシアは少し安心した。
今日も止まれた。
人工刺激をしない分析の日でも、止まる場所はある。
◇
その日の研究は、六例目までで終わった。
七例目は開かない。
最後の一枚だからこそ、勢いで見ない。
研究室を出る頃には、窓の外がかなり暗くなっていた。
雨は朝より弱くなっている。
回廊の屋根を打つ音も、細かな囁きのようになっていた。
「六個目、離れたね」
歩きながらアリシアが言う。
『見てたわよ』
「嬉しかった」
『それも見てた』
「四個目、もっと気になった」
『それも知ってる』
「ノア、今日何も新しいこと言わないね」
『あなたが全部自分で言うからでしょう』
「じゃあ何か言って」
『面倒ね』
「頼んでるのに」
ノアは少し前を歩き、振り返った。
『じゃあ一つだけ。七枚目がどうでも、今日の六枚目は消えないわよ』
アリシアは足を止めかけた。
「……うん」
『それだけ』
ノアはまた歩き出す。
アリシアもその後を追った。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供がすぐに顔を上げた。
「どうだった?」
約束を覚えている。
「六個目は離れた」
「よかった?」
「うん。すごく」
「じゃあ嫌じゃなかった?」
「今日はね。でも前に一個、重なったのがある」
「四個目?」
「覚えてるの?」
「昨日言ってた」
「うん。その四個目が、もっと邪魔に見えた」
「捨てた?」
「捨ててない」
「じゃあ大丈夫」
「昨日と同じこと言うね」
「だって捨ててないから」
子供にとっては単純らしい。
アリシアは椅子へ座る。
「そっちは?」
「方向候補一にした」
「他は?」
「残した」
「一個に決めなかった?」
「うん」
子供は紙を見せる。
接近一の先へつながるかもしれない方向候補。
しかし、間の未確認部分は空白のままだ。
もう一方の候補も消されていない。
「明日は箱開ける?」
「まだ分かんない」
「見たい?」
「見たい。でも、紙でもう一個やりたい」
「何?」
「接近二も向き比べる」
「そっか」
それ以上、アリシアは勧めなかった。
箱を開けるかどうかは子供が決める。
研究班が必要性と安全を確認する。
自分の六つ目とは別の話だ。
◇
夕食後、顔のない存在は共用空間の窓辺にいた。
外の雨を見ているのか、窓硝子を伝う水滴を見ているのかは分からない。
胸元の十一の光については担当者が通常記録を取っていた。
今日はアリシアも子供も数えない。
ただ同じ部屋で過ごす。
子供が紙へ雨粒の絵を描き、アリシアは魔法史の復習をする。
ノアは椅子を一つ占領して眠っていた。
しばらくして、顔のない存在が自分で立ち上がった。
窓辺から一歩。
少し止まる。
もう一歩。
そこで座り直す。
誰も「昨日より少ない」とは言わなかった。
子供が観察用紙へ、
『二歩。雨の窓の近くから』
とだけ書く。
アリシアはそれを横目で見て、また教本へ戻った。
何もかもを一つの物語へつなげる必要はない。
歩いたこと。
胸の光。
箱の線。
六つ目。
東側。
西側。
それぞれに記録があり、それぞれに分からないことがある。
同じ生活観測区画にあるからといって、同じ答えへ向かっているとは限らない。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは六枚の紙を机へ並べた。
昨日より一枚増えた。
机の幅が足りなくなり、二段に分ける。
一段目に三枚。
二段目に三枚。
四例目は下段の最初に置いた。
場所に意味はない。
ただ番号順に並べただけだ。
それでも四例目へ目が行く。
「目立つ」
『知ってる』
「六個目も離れたから、もっと」
『知ってるって』
「でも例外って書かなかった」
『偉い偉い』
「適当」
『褒めろって言ってないでしょう』
「言ってないけど」
アリシアは練習帳を開いた。
今日の研究欄を読み返す。
『六例目。西側は明確に後方分離。安心した』
『六例の西側時間窓は、中心的配置として全例で東側奥部より後方側。ただし窓の境界に重なり・近接があるため、一点的な発生順序は確定しない』
『四例目だけが目立つ。しかし除外しない』
『六対一の多数決で順番を決めない』
最後の一文をしばらく見る。
「六対一じゃないね」
『何が?』
「四個目も、西側の中心は後ろなんだから」
『そうね』
「重なってるかどうかで六対一って考えてた」
『じゃあ直せば?』
「うん」
アリシアは消さず、横へ補足を書く。
『訂正。六対一という数え方自体が雑だった。何を数えるかで意味が変わる。西側中心位置は六例とも後方側。自分の感覚窓との明確分離/部分重複は別の分類』
書いてから、少し笑う。
「危なかった」
『何が?』
「自分で“多数決しない”って書いたのに、その前に勝手に六対一にしてた」
『人間は数があると数えたがるのね』
「ノアだって十一の光、最初は数えてたでしょ」
『私は必要な時だけよ』
「本当?」
『疑うなら自分で思い出しなさい』
アリシアは笑いながら筆を置いた。
六枚を見る。
そして、七枚目のための場所を机の端に作る。
これで最後の未処理記録。
それを見れば答えが出る、とは思っていない。
七例すべてが同じ配置傾向になったとしても、それだけで六つ目の本質が分かるわけではない。
東側奥部が何なのかも分からない。
西側の弱い波形が何を示すのかも分からない。
六つ目が東側奥部の変化そのものを感じているのか、東側奥部と共通する別の状態を感じているのか、それともさらに別の仕組みがあるのかも分からない。
けれど、以前より一つだけ変わった。
分からないもの全部を、一度に答えへしなくていい。
今は、時間の関係だけを見る。
その中でも、記録が許す範囲だけを見る。
「七個目が離れたら、たぶんすごく嬉しい」
『でしょうね』
「重なったら、すごく嫌かも」
『でしょうね』
「でも、どっちでも見る」
『それは明日?』
「まだ決めてない」
『珍しく正しい答えね』
「珍しくは余計」
雨音が窓の向こうで細く続いている。
アリシアは七枚目のために空けた場所へ何も置かず、六枚をそのまま残した。
最後の一枚が来る前に、決めなければならないことがある。
何をもって「明確に離れた」と呼ぶのか。
境界がどこまで近づけば「近接」なのか。
部分的な重なりをどう記述するのか。
七枚目を見てから、その紙が綺麗に収まるよう規則を作ってはいけない。
結果より先に物差しを置く。
それが次にやることだった。
アリシアは練習帳の最後へ、明日の自分へ向けて一行を書いた。
『七枚目を開く前に、六枚だけを使って西側窓の分類規則を決める。七枚目がどこへ来ても、あとから境界を動かさない』
書き終えたところで、少し考える。
その下には何も足さなかった。
今日は、それで十分だった。




