第209話 五枚目がまた離れたとしても、四枚目を例外と呼ぶにはまだ早い
夜のうちに風向きが変わったらしく、翌朝の学院は昨日とは違う静けさに包まれていた。
雲は高く、東の空には薄い青が広がっている。生活観測区画の窓を少しだけ開けると、湿り気の少ない冷たい空気が入り込み、窓辺に置かれていた紙の端をわずかに持ち上げた。昨日のように何かが激しく揺れるほどではなく、カーテンがゆっくり膨らんでは戻る程度の穏やかな風だった。
アリシアは朝食を終えたあと、窓際の机で練習帳を開いていた。
昨夜の最後に書いた一文が、そのまま残っている。
『次も西側が重なったら嫌だと思っている。離れたら安心すると思う。どちらでも、その気持ちで帯の位置は変えない』
読み返すと、昨夜より少しだけ恥ずかしかった。
結果がどうなるか分からないうちから、離れてほしいとここまではっきり書いている。
けれど消そうとは思わなかった。
『朝になっても同じ?』
寝台の端で丸くなっていたノアが、片目だけを開けた。
「起きてたの?」
『今起きたのよ』
「じゃあ聞いてなかったことにして」
『無理ね。で、同じなの?』
アリシアは練習帳へ視線を戻した。
「うん。また重なったら嫌」
『そう』
「でも昨日より……」
そこで言葉を探す。
「昨日は、重なったのを見た瞬間に、私の窓を狭くしたくなったでしょ」
『なったわね』
「今日は、先にそうなるかもしれないって分かってる」
『それで?』
「分かってても、また狭くしたくなるかもしれない」
ノアは身体を起こし、大きく伸びをした。
『ずいぶん慎重な成長ね』
「成長って言っていいの?」
『知らないわよ。ただ、昨日より自分の面倒くささを先に知ってるだけでしょう』
「それ、褒めてないよね」
『褒めてほしいの?』
「いらない」
『ならちょうどいいわ』
アリシアは少しだけ笑った。
研究へ行くのは午後だ。
午前は授業がある。
昨日の四枚目が頭から消えたわけではない。それでも、朝から研究室へ向かう必要がないことに、少し安心している自分もいた。
今日はまず学生として一日を始められる。
それを以前ほど特別なことだとは思わなくなっていた。
◇
午前最後の授業は、実技ではなく魔法史だった。
教室の前方では教師が古い学院都市の成立について話している。窓側の席には柔らかな日差しが落ち、机の上に並ぶ教本や筆記具の影を長く伸ばしていた。
アリシアは途中まで真面目に板書を写していた。
ところが、前の席に座っていた女子生徒が急に振り返り、小声で尋ねてきた。
「アリシア、予備のペンある?」
「あるよ」
「貸して。私の、急に出なくなった」
アリシアは筆箱を開き、一本差し出した。
「これでいい?」
「ありがとう。あとで返す」
「うん」
それだけのやり取りだった。
女子生徒はすぐ前を向き、授業へ戻る。
アリシアも続きを書こうとしたが、数秒だけ貸したペンのことを考えた。
以前なら、返してもらうタイミングまで気にしたかもしれない。
授業後に相手が忘れていたら、どう声をかけるか。催促したら細かいと思われないか。そもそも安いペンだから、そのままあげた方が楽なのではないか。
そこまで考えてから、アリシアは自分で小さく首を振った。
貸した。
あとで返すと言われた。
それだけだった。
「水上さん」
「……はい」
「何か首を振るほど納得できない点がありましたか?」
教師がこちらを見ている。
教室の何人かが振り返った。
「あ、違います。授業じゃないです」
「では私の説明には納得していただけたということで?」
「はい。たぶん」
「最後の二文字で急に不安になりましたね」
小さな笑いが起こる。
アリシアは少し頬を熱くしながら教本へ視線を落とした。
斜め後ろから、いつもの女子生徒が囁く。
「たぶんは駄目でしょ」
「だって全部分かったかは自信ないし」
「正直すぎる」
「嘘つくよりいいよ」
「それ先生に言ったらまた拾われるよ」
アリシアは返事の代わりに口を閉じた。
授業が終わる。
借りたペンは、こちらが何も言う前に戻ってきた。
「助かった。ありがとう」
「うん」
「これ書きやすいね。どこで買ったの?」
「学院前の文具店。たぶんまだ売ってる」
「今度見てみる」
女子生徒は友人と一緒に教室を出ていった。
アリシアは戻ってきたペンを筆箱へしまう。
何も起きなかった。
貸して、使って、返ってきた。
そんな当たり前のことが、今では本当に当たり前のまま終わる。
『何笑ってるの?』
机の横に置いた鞄から、ノアが顔だけを出した。
「笑ってない」
『口元』
「ノアは細かい」
『あなたほどじゃないわ』
「それはそうかも」
否定しなかったことが面白かったのか、ノアは小さく鼻を鳴らした。
◇
昼食後、研究室へ向かう前に生活観測区画へ寄った。
子供は昨日と同じ大きな紙を机へ広げていたが、今日は線を増やしていなかった。
確認済みの交差一、交差二。
接近一、接近二。
弱い交差候補の交差三。
そして、未確認部分を無理につながないために残された空白。
灰色の仮線も五種類のまま残っている。
「今日は何するの?」
「見比べるだけ」
「どこと?」
「接近一と、昨日丸つけた二個」
子供は紙の一部を指差した。
昨日、確認済みの曲がり方と比較的近いとして丸をつけた二案だ。
「接近一がこっちにつながるなら、この向きになるかもしれない。でも間が見えてないから、つながるとは書かない」
「箱は?」
「閉じたまま」
机の少し離れた場所に木箱がある。
蓋は閉じていた。
「開けたい?」
「昨日よりちょっと」
「でも開けない?」
「今日は決めてないから」
「そっか」
子供は鉛筆を持ち直した。
「アリシアは今日、研究?」
「うん。昔の紙を見る」
「箱みたいな?」
「……ちょっとだけ似てるけど、違う」
「何が?」
「私のは、もう見た記録を同じやり方で並べてる。箱は、まだ見てないところがあるでしょ」
「うん」
「だから別」
自分で言いながら、アリシアは少し安心した。
似ているところがあっても、同じものにしなくていい。
方法が似ていても、対象同士に関係がある証拠にはならない。
子供も深く追及しなかった。
「じゃあ、終わったら教えて」
「何を?」
「嫌だったか」
アリシアは目を瞬いた。
「結果じゃなくて?」
「うん」
「……何で?」
「昨日、嫌だったって言ってたから」
研究内容そのものを話したわけではない。
けれど、生活観測区画へ戻った時のアリシアの様子を見ていたのだろう。
「分かった。覚えてたら」
「忘れないで」
「努力する」
『結果より感想を求められてるわよ』
ノアが言う。
「分かってる」
『珍しい研究報告ね』
「研究報告じゃないよ」
子供が二人を見比べ、少しだけ笑った。
◇
午後。
研究室へ入ると、昨日の四例目について再確認した結果が用意されていた。
「まずこちらからです」
副学院長が資料を示す。
「四例目の時間窓作成過程について、別担当者二名による再確認が終わりました。東側奥部、西側とも計算手順に問題はありません」
「私の質問のところは?」
「補助規則を適用した現在の広い窓で妥当、という判断です。ただし、これは“その時刻から確実に感覚が始まった”という意味ではありません。開始可能性を捨てないための境界です」
「うん」
「また、残る未処理記録三例について、内容を時間配置へ反映させず、初回発言の形式だけ確認しました。四例目と同じ種類の曖昧な質問形から始まる記録はありません」
「じゃあ、あの広いのは四個目だけ?」
「現在の七例ではそうなります」
アリシアは少しだけ眉を寄せた。
「それ、四個目が変な記録ってこと?」
「いいえ」
サーラがすぐに答える。
「記録のされ方が他と異なる、というだけです。反応そのものが特殊だったとはまだ言えません」
「分かった」
アリシアは昨日の紙を見る。
四例目だけ感覚窓が広い。
その広さが、西側との部分的な重なりを作っている。
だからといって都合よく除外はできない。
同時に、四例目の重なりだけを見て「西側の遅れがなくなった」と言うのも早い。
「今日、五個目まで見る?」
「アリシアさんの状態に問題がなければ、その予定です」
学院長が答えた。
人工刺激はない。
それでも、集中状態と疲労を確認する。
「身体は大丈夫。授業も普通だった」
『先生に“たぶん分かった”って言ってたけどね』
「それ関係ないでしょ」
「何かありましたか?」
「何でもないです」
アリシアはノアを睨む。
ノアは知らん顔で尻尾を揺らした。
「では、始める前に予想を記録しますか?」
「書く」
練習帳を開く。
昨夜の文章は残っている。
アリシアはその下へ、今日の状態を書いた。
『五例目を見る前。西側が自分の感覚窓から離れて後ろに出てほしい。そうなったら安心すると思う。また重なったら嫌だと思う。でも、離れても四例目を間違いとはしない』
最後の一文で手が止まった。
「これ、書いていい?」
「もちろんです」
「まだ五個目見てないけど」
「だからこそ意味があります」
アリシアは頷いた。
もう一つだけ加える。
『離れたら「やっぱり四例目だけ変だった」と思いたくなるかもしれない』
ノアが横から覗き込む。
『今日はずいぶん未来の自分を疑うのね』
「昨日、一回負けかけたから」
『何に?』
「見たい形に」
ノアは一瞬だけ黙った。
『なるほど』
それ以上、茶化さなかった。
◇
五例目に選ばれたのは、保存状態の良い後半寄りの反応あり記録だった。
条件名そのものに意味を持たせないため、アリシアは詳細を聞かない。
まず入力操作時点を基準零へ置く。
当日の装置校正。
記録送り。
観測装置内部遅延。
昨日までと同じ処理を使う。
東側奥部の時間窓が作られた。
帯は基準零から少し後ろへ伸びている。
次にアリシアの申告。
この記録では最初から、
『胸の中が少し冷たい』
と明確に述べていた。
「これは昨日みたいに迷わないね」
「はい」
サーラが頷く。
「固定規則をそのまま適用できます」
口頭申告までの人間側遅延を考慮し、前方へ不確実幅を取る。
後端も既定の方法で置く。
帯が完成した。
アリシアは二本を見る。
「……重なってる」
東側奥部とアリシア感覚の時間窓は、かなり重なっていた。
「うん」
少しだけ息を吐く。
もう、そのことには以前ほど大きく揺れなかった。
東側が先であってほしい気持ちはまだある。
けれど四例目までで、現在の記録精度では両者の一点的な先後を簡単に決められないことを何度も見ている。
「西側、まだ?」
「まだです」
「分かってる」
言いながら、アリシアは自分で笑った。
「急かした」
「急かしましたね」
若い観測員も少し笑う。
「ごめんなさい」
「気持ちは分かります」
「結果に影響しない?」
「私が急いで線を引かなければ大丈夫です」
「じゃあゆっくりやって」
「そうします」
西側の記録が開かれる。
部屋の空気が少しだけ変わった。
誰も大げさに構えたわけではない。
けれど、昨日の四例目を全員が知っている。
三例続いた後方分離。
四例目での部分的重なり。
そして五例目。
魔導具教師が当日の西側装置状態を確認する。
「記録状態、良好です」
「校正資料も揃っています」
若い観測員が答える。
時間窓の計算が始まった。
アリシアは途中の数字を見ない。
昨日、自分の感覚窓を狭くしたくなったことを思い出す。
今日は逆かもしれない。
もし西側が綺麗に後ろへ離れたら、今度はその結果を守りたくなる。
四例目を特殊扱いしたくなる。
だから、帯が完成するまで待つ。
「できました」
紙が置かれた。
アリシアの視線が、三本目の帯へ向かう。
東側奥部。
自分の感覚。
その二つより後方。
西側の時間窓は、明確に離れていた。
四例目のような重なりはない。
「……離れた」
胸の奥が緩む。
息を止めていたことに、その瞬間初めて気づいた。
「離れた」
もう一度言う。
嬉しい。
安心した。
その感情は、考えるより先に身体へ出た。
肩の力が抜け、握っていた手が開く。
「よかった……」
小さな声が漏れた。
誰も否定しなかった。
サーラも、学院長も、「喜ぶな」とは言わない。
しばらくそのまま待ってくれた。
アリシアは紙を見つめ続ける。
一例目。
二例目。
三例目。
四例目。
五例目。
五例目では、再び西側が後方へ離れた。
「嬉しいですか?」
サーラが静かに尋ねる。
「うん」
アリシアは素直に頷いた。
「かなり安心した」
「では、そのまま記録しておきましょう」
「うん」
練習帳へ書く。
『五例目。西側は東側奥部と自分の感覚窓より後方へ離れた。見た瞬間、安心した。嬉しかった』
そこまで書いて、手が止まる。
予想していた次の感情が来た。
「……四個目だけ」
誰も答えない。
アリシアは眉を寄せる。
「やっぱり、四個目だけ違う」
『来たわね』
ノアが机の端から言った。
「うん」
『朝から待ってたやつ』
「待ってない」
『書いてたでしょう。“思いたくなるかもしれない”って』
「……思った」
アリシアは四例目を見る。
広い感覚窓。
西側との部分的重なり。
五例目が綺麗に離れたことで、四例目だけが並びから突き出して見える。
「これ、例外?」
「まだ、その呼び方は避けた方がよいでしょう」
副学院長が答えた。
「なぜだと思いますか?」
アリシアはすぐには答えなかった。
五枚の紙を見る。
「五個しかないから?」
「それもあります」
「あと、四個目だけ私の窓の作り方が広い」
「はい」
「でも広くしたのには理由がある」
「はい」
「だから、“本当は離れてたのに記録の仕方で重なった”可能性もあるし、本当に近かった可能性もある」
「その両方を今は残す必要があります」
「……じゃあ、例外って言ったら、どっちか決めたみたいになる?」
「少なくとも、他の四例から外して扱う理由が確立したように聞こえる可能性があります」
アリシアは頷く。
「じゃあ言わない」
それでも、嬉しさは消さなかった。
「でも五個目が離れたのは嬉しい」
「それも消す必要はありません」
サーラが微笑む。
アリシアは練習帳へ続けた。
『すぐに「四例目だけ例外」と思った。でも、四例目を外す理由はまだない。五例目が離れたことと、四例目が重なったことを両方残す』
書き終える。
少しだけ、胸がすっきりした。
◇
五例の配置を一枚の比較表へまとめる。
ただし、一本の平均線にはしない。
一例ずつの時間窓を独立して並べる。
一例目では、東側奥部とアリシア感覚が大きく重なり、西側は比較的後方。
二例目では、東側奥部とアリシア感覚の間にごく細い隙間があるが、境界不確実性を考慮すると一点的先後を断定できず、西側は後方。
三例目では、東側奥部とアリシア感覚が部分的に重なり、西側は後方へ分離。
四例目では、東側奥部と広いアリシア感覚窓が大きく重なり、西側もアリシア感覚窓の後端と部分的に重なる。ただし西側の中心的範囲は比較的後方。
五例目では、東側奥部とアリシア感覚が重なり、西側は明確に後方へ離れる。
アリシアは並んだ五例を眺めた。
「西側、四個は離れてる?」
「“アリシア感覚窓と明確に分離している”という意味なら、扱いには少し注意が必要です。一例目も境界の幅がありますから」
「じゃあ、数だけで言わない方がいい?」
「現時点では、その方が安全でしょう」
「東側より後ろっていうのは?」
魔導具教師が五例を確認する。
「西側の中心的な時間配置は、五例すべてで東側奥部より後方側です。ただし、時間窓の端同士が近い例があります。したがって、“五例すべてで西側の一点的発生が東側より後”とまでは言えません」
「中心は後ろ。でも端は重なることがある」
「はい」
「それなら書ける?」
「記録上の記述としては妥当です」
アリシアは練習帳へ書く。
『五例時点。西側時間窓の中心的な配置は、五例とも東側奥部より後方側。ただし境界の重なりがあるため、発生順序を一点で確定しない』
次に、
『西側と自分の感覚窓は、複数例で明確に離れるが、四例目では部分的に重なる。今は四例目を除外しない』
と加える。
「これ、前より進んだ?」
アリシアが尋ねる。
「何を進んだと呼ぶかによります」
学院長が答えた。
「順番が分かった、という意味なら、まだです。しかし“何なら現在の記録から比較的安定して言えそうか”は、少しずつ狭まっています」
「狭まるのが進む?」
「研究では、そういう進み方もあります」
『あなたの好きじゃない進み方ね』
ノアが言う。
「前はね」
『今は?』
「……好きではないけど、嫌いでもない」
『面倒な答え』
「ノアが聞いたんでしょ」
研究室に小さな笑いが生まれた。
◇
そこで終える予定だった。
だが、アリシアは比較表を見ているうちに、一つ気づいた。
「先生」
「はい」
「残り二個?」
「未処理の反応あり記録は二例です」
「それ見たら七個全部になる?」
「現在、時間窓比較へ採用すると決めた反応あり記録については、そうです」
「じゃあ……」
言いかけて止まる。
今日、六例目まで進みたい。
そう思った。
五例目が自分の望んだ形だったからだ。
このままもう一枚見れば、さらに安心できるかもしれない。
あるいはまた崩れるかもしれない。
どちらにしても知りたい。
「もう一個見たい?」
サーラに先に言われた。
「……うん」
「理由は?」
「五個目が離れたから」
アリシアは正直に答えた。
「もう一個も離れるか見たい」
「では、今日はどうしますか?」
少し前の自分なら、「見たい」と答えたかもしれない。
人工刺激ではない。
身体的な危険もない。
時間も、あと一例処理できないほど遅くはない。
けれど、アリシアは五例目をもう一度見た。
嬉しかった。
安心した。
その直後だからこそ、六例目を見たくなっている。
「……やめる」
言葉にすると、少し惜しかった。
「今日は五個目で終わる」
「なぜですか?」
「今、離れたのが嬉しいから。次も離れてほしい気持ちが強くなってる」
アリシアは自分の胸元へ手を置いた。
「疲れてないけど、急いでる」
サーラの表情がわずかに柔らかくなる。
「分かりました。では六例目は別の日にしましょう」
「うん」
『意外ね』
ノアが言った。
「何が?」
『あなたなら“紙を見るだけだからもう一枚”って言うかと思った』
「思ったよ」
『でもやめた』
「うん」
『じゃあ意外で合ってるでしょう』
「私だって少しは変わるよ」
『知ってるわ』
ノアはあっさり答えた。
アリシアは少しだけ目を丸くしたが、何も返さなかった。
◇
研究室を出たあと、生活観測区画へ戻る。
子供はすでに紙を片づけ始めていた。
「終わった?」
「うん」
「嫌だった?」
朝の約束を本当に覚えていた。
アリシアは鞄を椅子へ置き、少し考える。
「今日は嬉しかった」
「嫌じゃなかった?」
「途中は嫌じゃなかった。でも、嬉しくなったあとに、前の嫌だった紙を邪魔って思いそうになった」
子供は首を傾げた。
「邪魔?」
「今日の紙と合わないから」
「捨てた?」
「捨ててない」
「じゃあいいんじゃない?」
あまりにも簡単に言われ、アリシアは少し笑った。
「うん。たぶん」
「箱の紙も、合わないの残してるよ」
「知ってる」
「嫌いな線も」
「うん」
「だから同じ?」
アリシアは一瞬考えた。
ここで「同じ」と言えば簡単だ。
けれど、研究対象そのものを結びつける必要はない。
「残し方はちょっと似てる。でも、見てるものは別」
「うん」
子供はすぐに納得した。
「今日、接近一はどうだった?」
「二個の丸のうち、こっちの方が向きは近かった」
「つながった?」
「まだ」
「そっか」
「でも、前より一個減らしたくなった」
「減らした?」
「減らしてない」
子供は得意そうに言う。
「明日見ても同じだったら、その時考える」
「偉いね」
「アリシアも捨てなかった?」
「捨てなかった」
「じゃあ同じくらい」
ノアが近くの椅子へ飛び乗る。
『採点が甘いわね』
「ノアは?」
「何が?」
『私は何点?』
子供が真剣に考え始めた。
「ノアは……」
『待って。本当に採点しなくていいわ』
「聞いたのノアでしょ」
『嫌な予感がしたのよ』
アリシアが笑う。
子供もつられて笑った。
◇
夕方、食事まで少し時間があった。
アリシアは共用机で授業の復習をしていた。
朝に貸したペンを使う。
魔力計算ではなく、魔法史のまとめだ。
顔のない存在は少し離れた椅子に座っている。
胸元の十一の光は担当者が通常観測していたが、アリシアは数えなかった。
しばらくして、その存在がゆっくり立ち上がる。
今日は二歩進んだ。
一度止まり、さらに一歩。
そのあと、机の端に置かれていた紙へ顔のない頭部を向けた。
子供が描いた線の紙ではない。
昼に使った落書き用紙だった。
そこには、丸い猫らしきものが描かれている。
「それノア?」
アリシアが子供へ尋ねる。
「うん」
『待ちなさい。どこが私なのよ』
「黒いから」
『丸すぎるでしょう』
「寝てるところ」
『私はこんな団子みたいにならないわ』
「なるよ」
「なる」
アリシアも加わる。
『二対一は卑怯でしょう』
顔のない存在は、しばらくその紙へ向いたままだった。
何を見ているのかは分からない。
猫だと認識しているかも分からない。
だから誰も意味を決めなかった。
やがて自分から椅子へ戻る。
子供は観察用紙へ、
『三歩。あとで猫の紙の方を見ていた。何を見ていたかは分からない』
と書いた。
「ノアの絵って書かないの?」
「猫か分かんないから」
『描いた本人が猫だと言ってるのに?』
「見てた方が猫って思ったか分かんない」
ノアが黙った。
アリシアは少し笑う。
「負けた?」
『何に?』
「慎重さ」
『勝負してないわよ』
◇
夜。
アリシアは自室の机で、五枚の時間窓記録を並べた。
四枚目だけが気になる。
それは変わらない。
五枚目が再び後方へ離れたことで、むしろ四枚目の形は目立つようになった。
けれど、昨夜とは違う。
昨夜は四枚目を見て、自分の窓を狭くしたくなった。
今日は五枚目を見て、四枚目を例外と呼びたくなった。
反対方向から、同じことをしかけている。
自分が見たい形を守ろうとしている。
「面白くない」
『何が?』
「私」
『今さら?』
「昨日は線を動かしたくなって、今日は紙を外したくなった」
『忙しいわね』
「結果に合わせてやり方変えるの、二日連続で違う方法思いついた」
『才能あるんじゃない?』
「嫌な才能」
『使わなければいいでしょう』
アリシアは四枚目を指で軽く押さえた。
「これ、六個目と七個目が離れたら?」
『知らないわよ』
「四個目だけになる」
『そうなるかもしれないわね』
「そしたら例外って言っていい?」
『先生に聞きなさい』
「やっぱり?」
『何回言わせるのよ』
アリシアは笑った。
けれど、問いそのものは練習帳へ残した。
『もし残り二例が後方分離しても、四例目をどう扱うかは結果を見てから都合よく決めない。除外条件があるなら、配置以外の理由が必要』
その下へ、
『四例目の申告形式が他と違うことは事実。ただし、それだけで反応自体を別物とはしない』
と書く。
そして、研究欄を閉じる前に今日の気持ちを残した。
『五例目が離れて嬉しかった。四例目が邪魔に見えた。邪魔に見えたことも記録する』
ノアが寝台からこちらを見る。
『今日はずいぶん嫌なことまで残すのね』
「忘れたら、次また同じことするかもしれないから」
『覚えててもするかもしれないわよ』
「それは言わなくていい」
『現実的でしょう』
「ノアはそういうところあるよね」
『今さらでしょう』
アリシアは練習帳を閉じた。
机の端には、朝に貸したペンがある。
今日は授業中に貸して、返ってきた。
昼には友人たちと話し、午後には五枚目を見て安心し、その安心のせいで四枚目を外したくなった。
全部が同じ一日だった。
研究だけをしていたわけではない。
学生だけをしていたわけでもない。
どちらか一方へ戻る必要もなかった。
アリシアは五枚の記録を重ねず、少しずつずらした状態で並べた。
一枚一枚が見えるように。
五枚目が綺麗だからといって、四枚目を下へ隠さない。
四枚目が崩しているからといって、最初の三枚の並びまで疑わない。
まだ二枚ある。
その二枚がどうなるかは分からない。
西側がまた離れるかもしれない。
再び重なるかもしれない。
もっと違う配置になるかもしれない。
そのたびに、自分はきっと何かを思う。
安心したり、嫌がったり、見たい形へ寄せたくなったりする。
それなら、その自分まで最初から記録の外へ追い出す必要はない。
結果へ手を入れなければいい。
「六個目、怖さは昨日より少ないかも」
『へえ』
「でも離れてほしい」
『でしょうね』
「そこは変わってない」
『変える必要あるの?』
アリシアは少し考えた。
「ないか」
『なら寝なさい』
「まだ早いよ」
『じゃあ静かにして』
「ノアが話しかけたんでしょ」
『最初に話しかけたのはあなた』
「……そうだっけ」
『そうよ』
窓の外には雲の少ない夜空が広がっていた。
明日すぐ六枚目を見るとは限らない。
別の授業もある。
生活観測区画の時間もある。
研究班側の再確認も必要になるかもしれない。
それでも、六枚目はいずれ開かれる。
その紙が五枚目の隣へどんな形で置かれるのか、今のアリシアには分からない。
ただ一つだけ、昨日より先に決められることがあった。
離れてほしいと思ったまま見る。
重なってほしくないと思ったまま見る。
そして、どちらが出ても五枚目までを並べ替えない。
六枚目のための場所を空けたまま、アリシアは机の上の記録を片づけた。




