第208話 三回続いた西側の遅れを四回目にも求めるなら、崩れたときに最初の三回まで捨てない
昼前から吹き始めた風が、学院の中庭に残っていた雨上がりの湿気を少しずつ追い払っていた。
朝はまだ薄い雲が空を覆っていたが、二時間目の授業が終わる頃には青空の方が広くなり、校舎の窓から差し込む光も昨日より強い。開け放した窓から風が入るたび、教室の後方へ貼られていた掲示物の端がぱたぱたと揺れ、その音に何人かの生徒が振り返っていた。
「また剥がれそう」
アリシアの斜め前に座る女子生徒が言った。
先日貼り直したばかりの紙らしい。上の角が少し浮き、風を受けるたびに壁から離れている。
「先生に言う?」
「授業終わったらでいいんじゃない?」
「でもその前に落ちそう」
「じゃあ押さえてくる」
女子生徒が席を立とうとしたところで、教師が教卓から顔を上げた。
「今行くと、次の問題を説明している間ずっと掲示物を押さえる係になりますよ」
「それは嫌です」
「では座っていてください。後で留め直します」
教室に笑いが広がる。
アリシアも小さく笑いながら、開いていた教本へ視線を戻した。
今日は魔力計算の基礎復習だった。
複雑な術式を組むのではなく、指定された出力を一定時間維持するために必要な魔力量を求める。数字そのものは難しくないが、途中で単位を一度変換しなければならず、そこで間違える生徒が多かった。
アリシアも一問目で間違えた。
隣の男子生徒が途中式を覗き込み、首を傾げる。
「そこ、一桁多くない?」
「……あ」
「俺もさっきやった」
「言わなかったことにして」
「もう見た」
「忘れて」
「無理」
「じゃあそっちの間違いも見せて」
「何で交換条件なんだよ」
男子生徒が笑いながら自分の紙を少しずらした。
確かに似た場所で間違えている。
「同じじゃん」
「だから気づいたんだよ」
「偉そうに言えないね」
「助けたんだから少しくらい偉そうにさせろよ」
「ありがとう。でも偉くはない」
「厳しいな」
教師がこちらを見る。
「二人とも、答え合わせは私の説明が終わってからにしてください」
「はい」
「すみません」
アリシアは口元を押さえ、男子生徒も前を向いた。
以前なら、教師に注意された時点で身体が固くなっていたかもしれない。
周囲の視線が気になり、その後しばらく発言できなくなったかもしれない。
今は少し恥ずかしいだけだった。
数分後には、さっきの間違いを自分で直し、次の問題へ進んでいる。
窓から入る風がまた掲示物を揺らした。
けれど今度は誰も立たなかった。
◇
昼休み。
アリシアは中庭の端にある長椅子で昼食を取っていた。
今日はいつもの女子生徒だけではなく、授業で隣だった男子生徒と、もう一人の女子生徒も一緒だった。特に約束していたわけではない。食堂が混んでいたため外へ出たところ、たまたま同じ場所へ集まっただけだ。
ノアは長椅子の下の日陰へ寝そべっている。
「アリシア、それ少なくない?」
向かいの女子生徒が、アリシアの昼食を見る。
「普通だよ」
「パン一個とスープだけじゃん」
「朝食べたから」
「私なら午後死ぬ」
「死なないで」
「比喩だよ」
『この子、言葉を真面目に受け取りすぎるところあるから気をつけなさい』
「ノアに言われたくない」
「ノアは昼何食べるの?」
「使い魔用の肉、持ってきた」
『その言い方やめて。“使い魔用の肉”だと餌っぽいでしょう』
「使い魔用の干し肉」
『あまり変わってないわね』
アリシアが小さな包みを開くと、ノアは何も言わずに起き上がった。
男子生徒がその様子を見て笑う。
「めちゃくちゃ食べたそうじゃん」
『違うわ。品質確認よ』
「食べるんだろ?」
『確認のためには必要でしょう』
「便利だな、その言い方」
アリシアは干し肉を一片だけノアへ渡した。
黒猫は匂いを確かめてから食べ始める。
「美味しい?」
『悪くない』
「この前もそれ言ってた」
『評価が同じなんだから仕方ないでしょう』
そこで話は別のことへ移った。
午後の授業。
次の休日。
購買に新しい菓子が入ったらしいという話。
誰かが先日の小テストで一問だけ答えを一行ずらして書いたという話。
アリシアは全部の話題で中心になるわけではなかった。
聞いているだけの時間もあった。
それでも居心地は悪くない。
研究のことを考えなかったわけではない。
今日、四例目を見る可能性がある。
昨日まで三例続けて、西側の時間窓は東側奥部や自分の感覚より後方へ位置した。
次もそうであってほしい。
昨夜からその気持ちは変わっていない。
けれど、昼食の間ずっとそれだけを考えているわけでもなかった。
「アリシア?」
「ん?」
「聞いてた?」
「途中から聞いてなかった」
「正直だな」
「何の話?」
「休日に購買開いてるかって話」
「開いてないんじゃない?」
「ほら、やっぱり知らない」
「聞いてなかったから」
また笑いが起きた。
アリシアも笑う。
それで十分だった。
◇
午後の授業が終わったあと、研究室へ向かった。
今日は朝から人工刺激の予定はない。
過去の反応あり記録について、固定した時間窓の方法を適用する作業を続けるかどうか。それだけが研究予定だった。
部屋へ入ると、昨日までの三枚がそれぞれ別の記録板へ挟まれている。
一枚目。
東側奥部とアリシア感覚の窓が大きく重なる。
二枚目。
両者の間にごく細い隙間があるが、境界不確実性まで含めれば先後確定には足りない。
三枚目。
部分的に重なる。
そして三例とも、西側は比較的後方に位置している。
アリシアは鞄を置き、椅子へ座る前に言った。
「今日、四個目見る?」
「その前に昨日の記録確認です」
副学院長が答える。
「三例目の時間窓作成過程を別担当者にも再確認してもらいました。規則からの逸脱はありませんでした」
「じゃあ間違いなし?」
「“規則通り作られた”という意味では問題ありません。ただし時間窓そのものが真の発生時刻を完全に表している、という意味ではありません」
「そこは分かってる」
『今のはかなり自然に言えたわね』
「何が?」
『“分かってる”』
「いつも言うよ」
『前ならその後に三つくらい確認してたでしょう』
「確認したら駄目?」
『駄目とは言ってないわ』
「じゃあいいでしょ」
ノアは机の端へ飛び乗り、尻尾を前足へ巻きつけた。
学院長が今日の資料を閉じたまま、アリシアを見る。
「四例目へ進む前に、昨日の予想について確認しておきますか?」
「うん」
アリシアは自分から練習帳を開いた。
昨夜書いた文章を読み返す。
『もし次、西側が前だったら、かなり嫌かもしれない』
その下にはまだ何もない。
「今も同じ?」
サーラが尋ねる。
「同じ。西側は後ろであってほしい」
「東側とアリシアさんの関係については?」
少し考える。
「そこは……昨日より、どっちでもいいかも」
『本当に?』
ノアの声が入る。
アリシアは眉を寄せた。
「東側が先だったら嬉しい。でも、昨日重なったから、次も重なるかもしれないって思ってる」
「では、“どちらでもいい”というより、期待が少し弱くなった?」
サーラの問いに、アリシアは頷く。
「うん。西側の方が気になる」
それを練習帳へ書く。
『四例目を見る前:東側と自分の先後より、西側が後方に続くかを気にしている。西側が後ろであってほしい』
少し迷ってから、
『前へ来たら嫌だと思う』
と加えた。
「書いた」
「では始めましょう」
◇
四例目に選ばれたのは、記録の保存状態が良好な前半寄りの反応あり試験だった。
前半寄りだから選んだわけではない。
校正資料、入力記録、東側奥部の観測紙、アリシアの当時の申告、西側装置の処理記録がすべて残っている。
「これ、どの時のか覚えてる?」
アリシアが記録用紙を見ながら尋ねる。
「条件名を聞けば思い出す可能性がありますが、今は必要ありません」
魔導具教師が答える。
「時間配置を作ることが目的ですから、まず記録だけで進めます」
「分かった」
最初は東側奥部。
入力操作時点を基準零へ置く。
当日の校正値を確認し、装置内部の応答遅延と記録送りの誤差を加える。
手順はこれまでと同じだった。
アリシアは数字を一つずつ追わず、帯が完成するまで待った。
四本目の東側時間窓が描かれる。
「次、私?」
「はい」
当時の申告記録が開かれる。
この回のアリシアは、最初に短く、
『……今、何かあった?』
と尋ねていた。
その後、
『胸の奥。ほんの少し冷たい』
と続いている。
アリシアは記録を読んで、少し首を傾げた。
「質問してる」
「はい」
「これ、“感じた”って言ったのと同じにしていい?」
研究室の空気が止まった。
魔導具教師が記録へ視線を落とす。
若い観測員も手を止めた。
「……よい指摘です」
「また問題?」
「可能性があります」
アリシアはすぐに紙から手を離した。
「じゃあ、まだ重ねない」
「そうしましょう」
これまで固定した申告窓の規則では、最初の口頭申告から前方へ一定の不確実幅を取り、その後冷感として明確化された位置までを後端とする。
しかし今回の最初の発言は、
『今、何かあった?』
だった。
感覚の存在を申告しているとも読める。
一方で、何かを感じたという断定ではなく、外部刺激があったかを確認しただけとも読める。
「これ、私が刺激入ったか探してた可能性もある?」
アリシアが尋ねる。
「あります」
「でも胸の奥って後で言ってる」
「はい。その後の冷感申告は明確です」
「じゃあ最初の質問を入れるかどうかで、私の窓が変わる?」
「変わります」
アリシアは唇を閉じた。
昨日まで三例を処理した。
そして四例目で、固定したはずの方法に新しい曖昧さが見つかった。
面倒だと思った。
同時に、少し嫌だった。
西側が三回続いたあとで、四回目を早く見たい。
なのに、その前で止まった。
「……これ、今日四個目まで行けないかも」
「可能性はあります」
副学院長が答える。
アリシアは椅子の背へ身体を預けた。
残念だった。
予想が外れるより前に、予想を確かめるところまで行けないかもしれない。
『不満そうね』
「不満」
『正直でよろしい』
「でも、ここ無視したら駄目なのも分かる」
サーラがアリシアを見る。
「なぜそう思いますか?」
「この質問を申告に入れるかどうか、四個目の結果見てから決めたら駄目だから」
「はい」
「もし入れた方が西側より前になるなら入れて、入れない方が後ろになるなら入れない、とかできちゃう」
「その通りです」
アリシアは机へ戻り、練習帳へ書いた。
『四例目。自分の最初の言葉が質問形だった。「今、何かあった?」を感覚申告に含めるか固定規則だけでは決まらない。結果を見る前に扱いを決める』
そこまで書くと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
◇
研究班は、西側記録をまだ開かなかった。
東側時間窓は作成済み。
アリシアの感覚窓は保留。
その状態で議論する。
「質問形だから全部除外、では駄目?」
アリシアが尋ねる。
「それも一案ですが、内容によります」
サーラが答えた。
「たとえば“今、胸が冷たくなった?”と本人が自分の感覚について確認している場合と、“今、刺激を入れた?”と外部操作だけを尋ねている場合では意味が違います」
「私のは“何かあった?”」
「曖昧ですね」
『過去のあなた、もう少し詳しく喋りなさいよ』
「その時の私に言って」
『今言ってるわ』
「届かないよ」
若い観測員が小さく笑ったが、すぐに記録へ戻る。
「前後の行動記録があります」
「何してた?」
「発言の直前、アリシアさんは胸元へ右手を動かしています」
アリシアの目が少し開いた。
「それ書いてあるの?」
「はい。観測員の補助記録です。“右手を胸部中央付近へ移動。その直後に質問”」
「じゃあ感じてた?」
言ってから、アリシアは自分で首を振った。
「……とは限らないか」
「はい。姿勢を直しただけかもしれません」
「でも情報ではある」
「そうです」
学院長が考え込む。
「今回の目的は、感覚が実際に始まった一点を再構成することではありません。記録から合理的に置ける不確実な範囲を作ることです」
「じゃあ、曖昧なら広くする?」
「その可能性があります」
「最初の質問を完全に捨てず、でも“ここで感じた”とも決めない?」
「はい」
魔導具教師が紙へ二つの位置を示した。
一つは質問発言。
もう一つは明確な冷感申告。
「開始側について、質問発言の直前に通常の発話不確実幅を置く。ただし、この質問を“確定感覚申告”とは扱わず、開始候補の最も早い境界としてのみ使う。後端は明確な冷感申告まで取る。これならどうでしょう」
「窓、広くなる?」
「はい。これまでの三例より広くなる可能性があります」
「それで四個目だけ広くしていいの?」
「質問形の曖昧な初回発言がある記録に同じ規則を適用するなら、です」
「残りにも同じのがあったら?」
「同じ扱いにします」
「最初の三個に質問形なかった?」
「再確認します」
ここで、過去三例の申告記録がもう一度開かれた。
一例目。
最初は感覚の違和感を直接述べている。
二例目。
最初から冷感。
三例目。
胸部の変化を直接申告。
質問形はない。
「じゃあ三個は変わらない?」
「今回提案した補助規則を採用しても、三例の時間窓は変わりません」
「四個目と、これから同じ形式が出た時だけ使う」
「そうなります」
アリシアは少し考えた。
「これ、四個目の西側まだ見てないから決めてもいい?」
「はい。ただし採用するなら、四例目の配置がどうなっても変更しません」
「うん」
研究班で確認し、申告窓の固定規則へ補助項目が加えられた。
曖昧な質問形発言が最初にあり、かつ直後に感覚の明確化が続く場合、その質問を確定申告とは扱わない。しかし感覚開始可能性を完全には捨てず、質問発言前の不確実幅を開始候補境界として含める。
その結果、四例目のアリシア感覚窓は、これまでより広くなった。
「東側と重なるね」
「はい」
東側奥部の時間窓と、アリシアの広い感覚窓はかなり重なる。
「また先後分かんない」
「この二つについてはそうです」
アリシアは頷いた。
そこへの残念さは、昨日より小さかった。
今日は最初から、西側の方を気にしている。
そして、そのことを自分でも知っていた。
◇
「西側、開ける?」
アリシアが尋ねた。
学院長は時計を見る。
「時間としては可能です。ただし、ここまでで規則の補足が一つ入りました。疲労はどうですか?」
アリシアは身体を確かめる。
人工刺激はないため、冷感や痛みの安全確認とは少し違う。
頭が重いわけではない。
集中もまだ続いている。
「大丈夫。見たい」
「見たい理由は?」
「三回続いたのが四回目も続くか知りたい」
隠さない。
「結果が嫌でも今日は止めない?」
「結果を見た後は、そこで終わる。五個目には行かない」
「分かりました」
西側記録が開かれた。
アリシアの背中が自然に少し伸びる。
若い観測員が処理方式を確認する。
魔導具教師が当日の装置状態を照合する。
西側は東側より時間幅が広い。
それは変わらない。
開始位置の不確実性も大きい。
だからこそ、これまで三例で後方へ寄っていたことが少しずつ気になり始めていた。
「作ります」
紙へ帯が引かれる。
アリシアは最初、意味を理解できなかった。
西側の帯は、後ろにある。
けれど。
「……近い」
昨日までより、明らかに近かった。
西側時間窓の前端が、アリシアの広い感覚窓の後端へ食い込んでいる。
重なっていた。
大きくではない。
しかし、三例目までのように明確な空白があるわけでもない。
東側奥部との関係では、西側の大部分が後方にある。
それでもアリシア感覚窓とは部分的に重なる。
アリシアは紙を見たまま黙った。
胸の奥へ、重いものが落ちる。
予想していたほど酷くはない。
西側が東側より完全に前へ出たわけではない。
それでも、「三回続いた形」はそのまま四回目へ伸びなかった。
「……嫌」
小さく言った。
誰もすぐに言葉を返さなかった。
「これ、嫌だ」
アリシアはもう一度言った。
鉛筆へ伸びかけた手を止め、膝の上へ戻す。
何をしたかったのか、自分でも分かった。
アリシアの感覚窓を少し狭くしたかった。
さっき追加したばかりの質問形の開始候補を外せば、西側との重なりは減るかもしれない。
明確な「冷たい」という申告だけを使えば、もっときれいに離れるかもしれない。
そんな考えが、一瞬で浮かんだ。
「私の窓……」
声が途中で止まる。
サーラが待っている。
ノアも黙っている。
アリシアは紙を見る。
西側との重なり。
さっき、自分たちで決めたばかりの規則。
まだ西側を開く前だった。
だからこそ決めた。
「……狭くしたくなった」
ようやく言う。
「質問、入れなくてもいいんじゃないかなって」
サーラは静かに頷いた。
「そう思いましたか」
「うん」
「今は?」
「まだ、ちょっと思ってる」
アリシアの指先が膝の上で握られる。
「だって、“何かあった?”って聞いただけだもん。冷たいって言ったのは後だから。質問は本当の感覚じゃなかったかもしれない」
「その可能性はあります」
「じゃあ……」
「同時に、本当の感覚が始まったため質問した可能性もあります」
「……うん」
「どちらか分からないから、先ほど広く残すと決めました」
「うん」
分かっている。
全部分かっている。
それでも嫌だった。
三回続いたものが崩れる。
たったそれだけで、紙の幅を少し動かしたくなる。
昨日、自分は「結果が嫌でも残す」と言った。
ノアは、明日の自分へ格好いい約束を押しつけるなと言った。
その意味が今になって分かった。
昨日の自分は、今日のこの嫌さを知らなかった。
「少し休む?」
学院長が尋ねる。
アリシアはすぐに首を振らなかった。
目を閉じ、一度深く息を吸う。
「……うん。ちょっとだけ」
◇
研究室を出た。
廊下の窓から見える空は、午前よりさらに青くなっていた。
風はまだ強い。
中庭の木が揺れ、葉の裏側が何度も白く見える。
アリシアは窓辺へ立たず、壁際の長椅子へ座った。
ノアが隣へ飛び乗る。
しばらく、どちらも話さなかった。
「三回しかなかったのに」
『何が?』
「西側が後ろだったの」
『三回あったでしょう』
「でも、まだ三回だった」
『そうね』
「何であんなに四回目も同じだと思ったんだろ」
『同じだと思ったというより、同じであってほしかったんでしょう』
「うん」
アリシアは両手を膝の上で組む。
「四個目も、西側の大部分は後ろなんだよね」
『そう見えるわね』
「東側より後ろなのも、たぶん変わってない」
『それは先生たちと確認しなさい』
「うん」
『私に研究結果の判定をさせないで』
「してないよ」
『今しかけたでしょう』
アリシアは少しだけ笑った。
けれど、すぐに笑顔は薄れる。
「三回が全部なくなったわけじゃない?」
『四回目が違ったら、最初の三回の紙が燃えるの?』
「燃えない」
『じゃあ残ってるでしょう』
「でも、共通じゃなくなる」
『“四回全部で完全に同じ”ではなくなるわね』
「うん」
『それ以上は私に聞かないで。研究室へ戻って聞きなさい』
「分かった」
ノアは尻尾の先でアリシアの腕へ軽く触れた。
『嫌なのは、もう少し嫌なままでいいんじゃない?』
「いいの?」
『紙を直さないなら』
アリシアは少し俯いた。
「直さない」
『なら戻れるまで座ってなさい』
「うん」
数分後、風が一度強く吹き、廊下の開いた窓から冷たい空気が流れ込んだ。
アリシアはその風を頬に受けてから立ち上がった。
◇
研究室へ戻る。
「ごめんなさい」
「謝る必要はありません」
サーラが答える。
「続きを確認できますか?」
「うん」
アリシアは席へ戻った。
四枚目の紙は、休憩前と同じ場所にある。
誰も線を動かしていない。
アリシア自身の時間窓も、西側の帯もそのままだ。
「まず、何が変わったか確認したい」
「どうぞ」
「三回目までは、西側が私の窓より後ろで離れてた」
「二例目と三例目では明確な分離でした。一例目は比較的後方ですが、境界の扱いはやや慎重です」
「四個目は、私の窓と少し重なった」
「はい」
「東側とは?」
魔導具教師が紙を確認する。
「西側時間窓の前端と東側奥部時間窓の後端は近いですが、中心的な範囲は西側が後方です。ただし“東側のすべてが西側より確実に前”と一点的な先後で表現するのは避けた方がよいでしょう」
「じゃあ、四個目で西側が前になったわけじゃない」
「はい。そういう結果ではありません」
「でも、私より必ず後とも言えなくなった」
「この一例では、現在の時間窓が部分的に重なっていますから、その通りです」
アリシアは頷く。
嫌だったものの形が、少し具体的になった。
全部崩れたわけではない。
ただ、昨日までより単純ではなくなった。
「三回続いた西側後方って、間違いだった?」
「いいえ」
学院長が答えた。
「処理した三例では、その配置だった。それは変わりません。四例目で異なる重なり方が出たことで、“反応あり記録では常にアリシアさんの感覚窓より西側が明確に後方へ分離する”とは言えなくなった、ということです」
「三回を消すんじゃなくて、言える範囲を狭くする?」
「そう考えるのが近いでしょう」
アリシアは練習帳を開いた。
休憩前に書いた、
『前へ来たら嫌だと思う』
という一文がある。
その下へ書き足す。
『前へ来たわけではなかった。でも、自分の感覚窓と西側窓が部分的に重なった。嫌だった。質問形の申告を外して自分の窓を狭くしたくなったが、西側を見る前に決めた規則なので変えない』
そこで一度鉛筆を止める。
続ける。
『最初の三例は消えない。四例目が増えたので、「西側は必ず自分より明確に後ろ」とは言わない』
書き終えると、胸の中の重さが少しだけ減った。
◇
その日は四例目で終了した。
五例目には進まない。
研究班は、四例目の申告窓補助規則と西側時間窓作成過程を別担当者でも再確認することにした。
また、残り三例の中に質問形の初回発言があるかどうかについても、時間配置を作る前に文章形式だけを確認する。
アリシアは片づけながら、四枚の記録を順番に見た。
「次、もっと怖いかも」
「何がですか?」
若い観測員が尋ねる。
「今度は、西側が重なるか離れるか気にするから」
「予想を書きますか?」
「書く。でも……」
アリシアは少し考えた。
「次は、当てたいって書くんじゃなくて、どっちが出たら自分が嫌かを書こうかな」
「それもよいと思います」
「今は、また重なったら嫌」
『もう十分書けてるじゃない』
ノアが言う。
「まだ正式に書いてない」
『あなた、本当に予想紙だけで一冊使いそうね』
「使わないって」
『信用しておくわ』
「その言い方絶対信用してない」
アリシアは少し笑った。
◇
生活観測区画へ戻った時、子供は共用机ではなく床に座っていた。
大きな紙を広げ、その周囲に小さな紙片を並べている。
木箱は今日も閉じたまま。
「何してるの?」
「先生と見た」
子供が顔を上げる。
「昨日の曲がり方?」
「うん。近い二個に丸つけたけど、丸は“本当っぽい”じゃなくて、“今見えてる曲がりに近い”って書いた」
大きな紙の端に、その説明が加えられている。
五種類の灰色仮接続は全部残っている。
そのうち二案だけ、確認済みの刻線で見えている曲がり方に比較的近い。
「箱開けた?」
「開けてない」
「見たくならなかった?」
「なった」
「どのくらい?」
子供は少し考えた。
「かなり。でも今日は紙の日だからやめた」
「そっか」
アリシアは隣へ座った。
大きく外へ膨らむ仮線も、まだ消されていない。
「これ、まだ嫌い?」
「ちょっと」
「残してるね」
「嫌いだから違うってできないから」
子供は当たり前のように言った。
アリシアはその言葉を聞いて、一瞬だけ四例目の紙を思い出した。
けれど、研究の話はしなかった。
「この丸二個、形違うね」
「うん。こっちは少しずつ曲がる。こっちは途中から曲がる」
「どっちが近い?」
「場所による」
「難しいね」
「うん。でも紙なら怖くない」
子供はそう言って、紙片を一枚ずつ戻していった。
◇
夕食前。
顔のない存在は、今日は一度だけ椅子から立ち上がった。
歩き出すかと思ったが、その場でしばらく立っている。
子供は床で紙を片づけており、アリシアは少し離れた机で教本を開いていた。
誰も促さない。
やがて顔のない存在は一歩だけ進み、その後、自分から椅子へ戻った。
胸元の淡い光については担当者が通常記録を取っている。
アリシアは顔を上げたが、歩数を増やしてほしいとは思わなかった。
「今日は一歩だったね」
子供が言う。
「うん」
「昨日は歩かなかったっけ?」
「昨日は……」
アリシアは少し考える。
「座ってた時間長かった気がする」
「忘れた?」
「細かいのは」
「紙見れば分かる?」
「たぶん」
子供は頷いた。
「じゃあ今は見なくていいね」
「うん」
それで話は終わった。
◇
夜。
アリシアは自室の机へ四枚の記録を並べた。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
四枚目。
最初の三枚だけを見れば、西側は後ろに並んでいるように見えた。
四枚目でも、西側の中心的な範囲は比較的後方にある。
けれど、アリシア感覚の時間窓とは部分的に重なった。
一本の綺麗な階段にはならなかった。
アリシアは四枚目を手に取る。
自分の感覚窓は広い。
最初の質問形発言を開始候補へ含めたからだ。
もしそこを外せば。
また考える。
外せば、もっと綺麗になるかもしれない。
アリシアはその考えが浮かんだこと自体を、今度は嫌がらなかった。
「まだ狭くしたい」
『そう』
ノアは寝台の上で前足を舐めている。
「でも変えない」
『そう』
「ノア、反応薄くない?」
『毎回“偉い偉い”って言ってほしいの?』
「いらない」
『ならいいでしょう』
アリシアは四枚目を戻した。
「三回続いたの、なくなってないんだよね」
『研究の話なら先生に聞きなさいって言ったでしょう』
「結果じゃなくて」
『何よ』
「私が三回続いたの見て嬉しかったこと」
ノアが前足を止める。
「四回目が違ったからって、あの嬉しかったのまで馬鹿だったことにはならない?」
『ならないんじゃない?』
「本当?」
『その時は三枚しかなかったんでしょう。その三枚を見て嬉しかった。それだけじゃない』
アリシアは四枚を見つめる。
「じゃあ、今日嫌だったのも?」
『明日五枚目を見てどうなっても、今日嫌だったことは今日のことでしょう』
「そっか」
『感情まで後から改竄する必要ないわよ』
「改竄って言い方怖い」
『研究してる子にはちょうどいいでしょう』
アリシアは笑った。
それから、練習帳の日常欄へ今日のことを書いた。
『魔力計算で一桁間違えた。隣も同じところで間違えていた。先生に二人で注意された』
『昼、中庭で四人で食べた。購買の新しい菓子の話を途中から聞いていなかった』
『ノアは干し肉を「悪くない」と言った。二回目なのでたぶん好き』
『余計な推論を日常欄へ書くな』
「ノア、勝手に読まないで」
『声に出してるでしょう』
「……出てた?」
『最後だけね』
「じゃあノアが悪い」
『どういう理屈よ』
アリシアは笑いながら、その一文を消さなかった。
次に研究欄へ戻る。
『四例目で、西側が自分の感覚窓と部分的に重なった。最初の三例だけなら見えた「西側は明確に後ろ」という形は、そのままでは四例すべてに広げられない』
少し間を置き、
『でも、西側が比較的後方にある傾向そのものまで消えたとはまだ言わない。四例目の窓が広い理由も含め、同じ方法で残りを見る』
と書いた。
最後に、次の記録を見る前の自分について一行だけ残す。
『次も西側が重なったら嫌だと思っている。離れたら安心すると思う。どちらでも、その気持ちで帯の位置は変えない』
鉛筆を置く。
机の上には、綺麗ではない四枚がある。
一回目と三回目では東側と自分が重なり、二回目ではわずかに離れ、四回目では自分の申告窓が広くなったことで再び大きく重なる。
西側も、最初の三例ほど単純ではなくなった。
見つけかけた形が崩れるのは、やはり嫌だった。
けれど四枚目を捨てれば、三枚目までの形を守ることはできる。
それをした瞬間、守ったはずの三枚まで意味が変わってしまう気がした。
自分が見たいものだけを残した三枚になるからだ。
アリシアは四枚目を他の記録と同じ透明袋へ入れた。
端を揃える。
どれか一枚だけ裏返すこともしない。
「ノア」
『今度は何?』
「四個目、嫌いだけど残す」
『知ってるわよ』
「言いたかっただけ」
『なら好きに言いなさい』
「うん」
窓の外では、昼間の強い風がようやく弱まり始めていた。
木々の葉が時折揺れ、その隙間から夜空が見える。
三回続いたものが四回目で少し崩れた。
だからといって、最初の三回が嘘になるわけではない。
四回目だけが邪魔な記録になるわけでもない。
今はまだ、五回目がどちらへ並ぶのかも分からない。
アリシアはその分からなさを、昨日より少し重く感じていた。
それでも、机の上から一枚も外さなかった。
次に増える紙がどんな形でも、まず五枚目として同じ場所へ置くために。




