第207話 三つ目を見る前に予想を書いたなら、外れたときほど紙を直さず残しておく
雨の名残は、翌朝になっても学院のあちこちに残っていた。
夜のうちに雲はほとんど流れ去り、東の空から差し込む朝日は昨日よりずっと明るい。けれど庭の土はまだ黒く湿り、低い石垣には小さな水滴が並んでいる。生活観測区画の窓を開けると、冷えた空気と一緒に濡れた草の匂いが入り込み、室内に残っていた朝食のパンの香りと混ざった。
アリシアは食器を片づけたあと、昨夜机へ置いたままにしていた一枚の紙を手に取った。
上端に、自分の字で一文だけ書いてある。
『三回目を見る前に、自分がどんな配置を期待しているかだけ残す。配置そのものは記録から作る』
まだ三本の帯はない。
東側奥部も、自分の感覚も、西側の弱波形も描かれていない。
昨日までの二例を知った自分が、次の結果を見る前に何を思っているのか。それだけを残すための紙だった。
『朝からそれ見るの?』
窓辺で前足を伸ばしていたノアが、欠伸の途中でこちらを見る。
「今書いた方がいいかなって」
『研究室へ行ってからでいいんじゃない?』
「記録を選ぶところ見たら、何か考えちゃうかもしれない」
『もう考えてるでしょう』
「考えてる」
『でしょうね』
ノアは伸びを終えると、窓枠へ座った。朝日を受けた黒い毛の輪郭が、ほんの少し青く光って見える。
アリシアは椅子へ座り、鉛筆を持った。
一例目では、東側奥部の時間窓と自分の感覚窓が大きく重なった。
二例目では、東側の方が前へ位置し、自分の窓との間にごく細い隙間ができた。ただし境界の不確実性まで含めれば、先後を確定できるほど強い分離ではなかった。
西側は二例とも後方だった。
それを知っている。
「……次も、東側が少し前な気がする」
『理由は?』
「二個目がそうだったから」
『一個目は重なってたでしょう』
「でも、二個目の方が好きだった」
『それは理由じゃなくて願望ね』
「分かってる」
鉛筆の先を紙へ置く。
『予想:東側が少し前、自分がその後。西側はさらに後ろ』
少し考え、もう一行加えた。
『理由:二回目の配置を見たあとで、その形が本当であってほしいと思っているから。記録から分かった理由ではない』
書き終えてから、アリシアは眉を寄せた。
「これ、予想っていうより願い?」
『半分くらいはそうでしょうね』
「じゃあ予想って書かない方がいい?」
『そこまで言葉を綺麗にしようとすると、また別の沼に入るわよ。“そう思っている”で十分じゃない?』
「……そっか」
消さずに、そのまま残した。
昨日、自分は二例目の配置を好きだと言った。
それも消さなかった。
なら、今日だけ急に格好のいい研究者になったふりをする必要はない。
アリシアは紙を鞄へ入れた。
◇
午前の学院は、昨日の雨が嘘だったように賑やかだった。
晴れたせいか中庭へ出ている生徒も多く、濡れた石畳を避けながら何人もの生徒が行き交っている。校舎へ入るところで、アリシアは前を歩いていた女子生徒が急に立ち止まったため、危うく背中へぶつかりそうになった。
「わ、ごめん」
「大丈夫。どうしたの?」
「髪留め落とした」
二人で足元を見る。
小さな銀色の髪留めはすぐに見つかった。けれど水溜まりの縁へ落ちたらしく、表面に泥がついている。
「あー……朝から最悪」
「洗えば取れるんじゃない?」
「次の授業まで時間ないんだよね。これないと横の髪邪魔だし」
女子生徒は肩ほどまである髪を手で押さえ、困った顔をした。
アリシアは自分の鞄を開ける。
筆記具。
練習帳。
小さな布。
予備の紐。
「これ使う?」
差し出したのは、黒に近い濃紺の細い髪紐だった。
「いいの?」
「予備だから」
「でもアリシア使わない?」
「今日はもう結んでる」
女子生徒は一瞬迷ってから受け取り、その場で横髪をまとめた。
「ありがとう。洗ったら返すね」
「紐はそのままでいいよ」
「いや返す。私、借りたもの忘れると気になるから」
「じゃあ、いつでも」
「うん。……これ結びやすい」
髪を整え終えた女子生徒が笑う。
「アリシア、こういうの何本持ってるの?」
「三本くらい」
「多くない?」
「前に切れたことあるから」
「準備いいなあ」
『研究用の予備より生活用品の予備の方がまともね』
足元からノアが口を挟む。
「ノア、それどういう意味?」
『そのままの意味よ』
女子生徒が笑いながら、ノアを見下ろした。
「この子、本当にずっとこんな感じなんだね」
「うん。ずっと」
『あなたもずっと言い返すでしょう』
「言わないとノアが勝った顔するから」
『猫の顔から勝敗を読むのやめてくれる?』
「分かりやすいよ」
話しながら三人で教室へ入る。
アリシアは席へ着いてから、貸した髪紐のことをほとんど考えなかった。
返ってくるかどうかも気にならない。
その程度のことが、今は普通にできた。
◇
午前の授業が終わり、昼食を済ませてから研究室へ向かう。
今日は人工刺激を行わない。
昨日までと同じく、過去の反応あり記録を一つずつ、固定した時間窓の作り方で見直していく日だった。
研究室へ入ると、昨日の二枚はすでに別々の記録板へ挟まれている。
重ねられていない。
アリシアはそれを見て少し安心した。
「三個目、もう決まってる?」
「候補は決めていますが、まだ時間配置は作っていません」
副学院長が答える。
「どの記録?」
「前半・後半の位置比較を目的に選ぶのではなく、今回も校正記録と申告記録が十分に残っている反応あり試験から選んでいます。今回は、以前行った後半寄りの試験です」
「一個目も後半だったよね」
「はい。ただし同じ試験ではありません」
アリシアは鞄から朝の紙を取り出した。
「見る前に書いてきた」
サーラが受け取る。
文章を読み、少しだけ目元を和らげた。
「二例目の形を望んでいる、と自分で書いたのですね」
「うん」
「それでも今日の記録を見ることに不安はありますか?」
「少し。でも、昨日よりは平気」
アリシアは一度息を吸った。
「もし重なってても、その紙を狭くしない」
『宣言するのはいいけど、実際そうなったら顔に出るでしょうね』
「顔に出ても紙を変えなければいい」
『そこは成長したわね』
「今日は普通に褒めるんだ」
『毎回疑うなら今後全部毒舌に戻すわよ』
「それは困る」
若い観測員が笑いを堪えながら資料を準備する。
学院長は三つ目の記録用紙を中央へ置いた。
「では、昨日固定した方法をそのまま使います。途中で適用上の問題が見つかった場合は、その場で止めます。結果を見てから幅を調整することはしません」
「うん」
「今日は一例だけです」
「分かってる」
アリシアは椅子を少し机へ寄せた。
◇
最初に作るのは東側奥部の時間窓だった。
入力操作時点を基準に、当日の装置校正記録を開く。
魔導具教師が数値を確認し、若い観測員が別紙と照合する。二人の手元で紙が何度か入れ替わるが、アリシアは途中の数字を覗き込まなかった。
結果を早く知りたい気持ちはある。
けれど、今は数字の一つ一つから自分で位置を推測しない方がいい。
「校正記録に欠損なし」
「送り誤差も許容範囲内です」
「内部応答遅延は当日の記録値を採用します」
やがて東側奥部の帯が描かれた。
アリシアはその位置を見る。
一回目や二回目と比べることはまだしない。
次は自分の申告窓だ。
当時の記録には、刺激条件を知らされていないアリシアが、しばらく何も言わずに座っていた様子が残っていた。
そしてある時点で、
『胸の奥が、ちょっと変』
と申告している。
その少し後に、
『冷たい。弱いけど』
と続く。
今のアリシアは、その記録を読んでも当時の感覚そのものを鮮明には思い出せなかった。
「これ、覚えてない」
「それで構いません」
サーラが言う。
「覚えていないものを、今の感覚で埋めないことの方が重要です」
「うん」
固定した規則に従い、最初の申告より前方へ発話不確実幅を取る。
後端は冷感として明確化した位置まで。
帯ができる。
「重ねます」
魔導具教師が言った。
アリシアは無意識に膝の上で手を組んだ。
朝、自分が書いた形。
東側が少し前。
その後に自分。
さらに西側。
その形が出てほしいと思っている。
紙が並べられる。
アリシアは目を瞬いた。
「……重なってる」
東側奥部の時間窓と、アリシアの感覚窓は重なっていた。
一回目ほど大きくはない。
しかし二回目のような細い隙間もない。
東側帯の後半と、アリシア帯の前半が、はっきり同じ範囲へ入っている。
アリシアは何も言わず、しばらく二本の帯を見つめた。
胸の中で、朝の予想が静かに崩れる。
強い失望ではなかった。
けれど「あ」と思った。
二回目の形が続かなかった。
それだけで、思っていたより心が沈む。
『顔』
ノアが小さく言う。
「分かってる」
『まだ何も言ってないわよ』
「言う前に分かった」
アリシアは頬を少し膨らませたが、すぐに息を吐いた。
「予想、外れた」
「そうですね」
サーラは慰めるような言葉を挟まなかった。
それがありがたかった。
「どのくらい重なってる?」
「一例目より狭く、二例目より明確に重なっています」
「境界の不確実性を入れなくても?」
「はい。現在の時間窓そのものが重なっています」
「じゃあ、東側先って言えない」
「この記録単独からは言えません」
アリシアは朝の紙を横へ置いた。
『予想:東側が少し前、自分がその後』
その下へ、
『外れた。三回目は重なった』
と書く。
鉛筆は止まらなかった。
「消さないんですね」
若い観測員が言う。
「何を?」
「朝の予想です」
「消したら、当たったみたいになるから」
『そこまで露骨な改竄する人はそうそういないと思うけど』
「でも恥ずかしいから消したくはなる」
『それは分かる』
「ノアも?」
『私は間違えないから分からないわ』
「今、分かるって言ったじゃん」
『一般論としてよ』
「ずるい」
小さな笑いが広がる。
アリシアも笑ったが、胸の奥にはまだわずかな引っかかりが残っていた。
笑ったから、すぐ消えたわけではない。
自分が望んでいた形が続かなかった。
それを少し残念だと思っている。
その気持ちごと置いておく。
◇
西側へ進む前に、学院長が一度手を止めた。
「アリシアさん。続けられますか?」
「うん」
「結果が予想と違った直後です。急いで西側を見て、何か一つでも予想通りのものを探したくなっていませんか?」
アリシアはすぐには答えなかった。
机の上には、まだ西側の帯がない。
確かに、見たい。
二回とも西側は後ろだった。
なら三回目も後ろなら、そこだけは続く。
「……ちょっと、なってる」
アリシアは指先で鉛筆を転がした。
「西側だけでも同じだったらいいなって思ってる」
「それ自体を止める必要はありません」
「でも先に書く?」
「そうしたいなら」
アリシアは朝の紙の余白へ書いた。
『東側と自分の予想は外れた。今、西側だけでも後ろであってほしいと思っている』
書いてから、少し恥ずかしくなる。
「私、願いばっかり書いてる」
『人間なんだからそんなものでしょう』
「ノアはないの?」
『あるわよ。今日の夕食に魚が出てほしい』
「そういうのじゃなくて」
『願いに格付けしないで』
副学院長が笑いながら資料を整えた。
「では、西側を確認しましょう」
◇
西側の記録装置は、東側より時間幅が広い。
型が異なり、弱い波形について一定時間分をまとめて処理する場合もあるため、どこから始まったかを一点で置くことが難しい。
昨日までと同じ規則を使う。
当日の処理方式を確認し、弱波形が通常揺れから外れ始めた可能性のある範囲を取る。
帯が描かれる。
アリシアは、その位置を見た。
「後ろ」
「はい」
東側奥部より後方。
自分の感覚窓よりも後方。
しかも今回も、アリシアの感覚窓とは重なっていない。
境界不確実性を含めても、間が残る。
胸の中で、少しだけ安堵が広がった。
アリシアはそれを隠さなかった。
「ここは予想通りだった」
「三例目まででは、そうですね」
学院長の言い方は静かだった。
三回とも西側が後方。
だからといって、七回すべてそうだとはまだ言わない。
アリシアも分かっている。
「三個続いた」
「はい」
「……でも三個」
『自分で止めたわね』
「ノアに言われる前に」
『成長したのか、私の台詞を覚えただけなのか微妙ね』
「成長した方にして」
『保留』
「そこ保留するんだ」
アリシアは三本目の帯を見ながら、正式記録とは別に自分の練習帳へ書いた。
『三回目:東側と私の窓は重なった。一回目ほど大きくない。二回目のような分離ではない。西側は後方へ分離』
その下へ、
『今の三例だけを見ると、西側が後ろにある配置は三回とも同じ。でも、東側と私の関係は同じではない』
と続けた。
そこまで書いてから、アリシアは三枚の紙を机へ並べてもらった。
◇
一枚目。
東側とアリシアは大きく重なり、西側は後方。
二枚目。
東側とアリシアの間にはごく小さな隙間がある。ただし境界不確実性を考慮すれば、先後確定には足りない。西側は後方。
三枚目。
東側とアリシアは部分的に重なり、西側は後方。
三枚を眺めていると、昨日までより少し違うものが見えた。
「東側と私は、毎回同じじゃない」
「そうですね」
「でも西側は今のところ全部後ろ」
「現在処理した三例では」
「うん」
アリシアは三枚を指で順番に触れた。
「じゃあ、東側と私のどっちが先か分からなくても、二つとも西側より前ってことは言える?」
研究室が少し静かになった。
魔導具教師が三枚を確認する。
「この三例については、そう表現できます。ただし、一例目ではアリシア感覚と西側窓の境界関係が二例目・三例目ほど明瞭ではありません」
「重なってた?」
「大きくは重なっていませんが、西側窓自体が広いため、境界の扱いには慎重さが必要です」
「じゃあ三個全部で“絶対前”とは言わない?」
「はい。ただ、東側追加低下とアリシア感覚が近い時間帯に集まり、西側が比較的後方へ位置するという配置は、現時点の三例で共通しています」
アリシアはその言葉を聞き、すぐには書かなかった。
嬉しかった。
朝に期待していた「東側→自分→西側」という一本の順番ではない。
けれど別の形が見え始めている。
東側と自分の細かな先後は分からない。
その二つに対し、西側が後ろへ寄っている。
「これ、二個を一緒にしちゃ駄目だよね」
「東側とアリシアさんの感覚を?」
「うん。“同じ時に起きる一個のもの”みたいに」
「現時点では避けるべきでしょう」
「重なってる回があっても、同じじゃない」
「はい」
「二個目みたいに少し離れて見える回もあるし」
「その通りです」
アリシアは練習帳へ書く。
『東側と私は、一つにまとめない。どちらが先か分からない回があることと、同じ現象だということは違う』
その一文を書いたところで、手が止まった。
前なら、近いものを見つけたら一つへまとめたくなった。
六つ目が東側の変化をそのまま感じている。
そうなら分かりやすい。
説明もしやすい。
けれど、時間窓が重なることは、それを証明しない。
東側とアリシアの感覚が同じ隠れた変化から生じている可能性も残る。
どちらかがもう片方を引き起こしている可能性もある。
今の精度では分けられない。
分けられないなら、無理に一つにしない。
◇
今日はそこで終了した。
四例目は開かない。
三例目が朝の予想を外し、その一方で西側後方という共通配置が三例続いた。
その状態で四例目を見れば、今度は「西側も後ろであってほしい」という期待がさらに強くなる。
「次、絶対西側見る」
片づけながらアリシアが言う。
「見るとは?」
「東側と私より、西側がどこか気にすると思う」
「でしょうね」
サーラが答える。
「今日、三例続きましたから」
「じゃあ次も先に書く」
『そのうち予想を書く紙だけで一冊終わりそうね』
「そこまでは書かない」
『どうかしら』
「ノア、最近私のこと信用してなくない?」
『逆よ。あなたならやりかねないと信用してるの』
「それ信用って言わない」
研究室にまた笑いが広がった。
アリシアも笑いながら資料を片づける。
ただ、三枚の時間窓記録だけは最後まで重ねなかった。
◇
研究室を出ると、午後の日差しが廊下へ斜めに差し込んでいた。
朝まで残っていた湿気はかなり薄れ、開いた窓からは乾き始めた土と木の匂いが入ってくる。
階段を下りたところで、朝に髪紐を貸した女子生徒が駆け寄ってきた。
「アリシア!」
「ん?」
「これ、ありがとう」
濃紺の髪紐が差し出される。
「もういいって言ったのに」
「返すって言ったから。あとこれ」
髪紐と一緒に、小さな包みが渡された。
「何?」
「焼き菓子。購買で買ったやつ」
「髪紐だけで?」
「別にお礼ってほどじゃないよ。私が食べたかったから二個買っただけ」
「じゃあ一個自分の?」
「もう食べた」
「早い」
「昼休みに」
女子生徒は笑った。
「それ、甘いやつだからノアにはあげない方がいいよ」
『言われなくても人間用の菓子なんて食べないわ』
「ノア、何でも欲しがると思ってた」
『偏見よ』
「この前干し肉喜んでたじゃん」
アリシアが言うと、ノアの耳がわずかに動いた。
『あれは使い魔用だったから評価しただけ』
「気に入ってたよね」
『悪くなかったと言ったの』
「同じじゃない?」
『違う』
女子生徒が笑う。
「じゃあ今度、ノアには干し肉買ってくる」
『余計な気遣いはいらないわ』
「いらないの?」
『……無塩なら止めはしない』
「やっぱり欲しいんじゃん」
廊下にいた別の生徒まで笑った。
ノアは尻尾を一度強く振り、先に歩き出す。
『帰るわよ、アリシア』
「まだ授業あるよ」
『知ってるわよ!』
アリシアは焼き菓子を鞄へ入れ、女子生徒と顔を見合わせて笑った。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、子供は窓際の机へ何枚もの細長い紙を並べていた。
木箱は閉じている。
今日は実物を開けないと決めていたため、机の端に置かれたままだ。
「何してるの?」
「曲がってるところ集めた」
昨日話していた通りだった。
確認済みの刻線について、紙写しの中から実際に見えている曲がり部分だけを抜き出し、縮尺を合わせて並べている。
交差一の周辺。
交差二の周辺。
接近一へ向かう線の一部。
どれも完全な形ではない。
「これが一番曲がってる?」
アリシアが一枚を指す。
「たぶん。でも端が見えてないから、もっと曲がるかもしれない」
「じゃあ昨日の灰色線は?」
「まだ全部残す」
「大きく曲がるやつも?」
「うん。今ある線より曲がってるけど、だからないとは言えない」
子供は少し考えてから、別の紙を出した。
「でも、近いのはこっち」
五種類の仮接続のうち、確認済みの曲率に比較的近い二案へ、小さな丸がついている。
「候補減らした?」
「消してない。近いって書いただけ」
「そっか」
「これならいい?」
尋ねられ、アリシアはすぐに答えなかった。
自分が判断することではない気がした。
「先生にも見てもらおう」
「うん」
「でも、消してないのはいいと思う」
「昨日アリシアもそう言った」
「そうだった」
子供が少し笑う。
「忘れた?」
「ちょっと」
「アリシアも忘れるんだ」
「忘れるよ」
「研究のことも?」
「全部は覚えてない。だから紙に書く」
「じゃあ同じ」
「そこは同じかも」
それ以上、二つの研究を結びつけなかった。
子供は紙へ戻り、アリシアは鞄を自室へ置きに行った。
◇
夕食後。
顔のない存在は今日は歩かなかった。
窓際の椅子へ座ったまま、子供が机で絵を描いている方向へ身体を少し向けている。
胸元には淡い光が浮かんでいたが、詳しい観測は担当者が別に行っていた。
アリシアは隣の椅子へ座り、朝にもらった焼き菓子を半分に割る。
『私にはないの?』
「甘いから駄目って言われたでしょ」
『欲しいとは言ってない』
「じゃあ聞かないで」
『会話よ』
「面倒」
『あなたに言われたくない』
焼き菓子は思っていたより甘かった。
表面は少し硬く、中は柔らかい。
アリシアがゆっくり食べていると、子供が絵を持ってくる。
「何描いたの?」
「雨のあと」
紙には庭の木と、大きな水溜まりが描かれていた。
その端に、小さな黒いものがある。
「これノア?」
「うん」
『ずいぶん丸いわね』
「猫だから」
『猫は全部丸いと思ってない?』
「座ってると丸い」
『まあ、それはそうだけど』
アリシアは笑った。
顔のない存在は椅子から動かない。
ただ、子供が絵を机へ置くまで、その方向へ身体を向けていた。
それだけだった。
◇
夜、自室へ戻ったアリシアは三枚の時間窓記録を机へ並べた。
今日は四枚目を用意しない。
朝に書いた予想紙を一番手前へ置く。
『予想:東側が少し前、自分がその後。西側はさらに後ろ』
その下に、
『理由:二回目の配置を見たあとで、その形が本当であってほしいと思っているから。記録から分かった理由ではない』
さらに午後、
『外れた。三回目は重なった』
『東側と自分の予想は外れた。今、西側だけでも後ろであってほしいと思っている』
と増えている。
アリシアはそこへ最後の一行を加えた。
『西側は後ろだった。だから嬉しかった。でも、嬉しかったことと三例の記録は別に残す』
鉛筆を置き、三枚を見る。
一回目と三回目では、東側と自分が重なる。
二回目では、ごく小さく離れる。
今の記録精度では、東側と自分の間に一本の矢印は描けない。
けれど西側は、処理した三例すべてで比較的後方にいる。
そこには少し形が見え始めている。
ただし、まだ三例。
残りは四例ある。
「ノア」
『何?』
「もし次、西側が前だったら、私かなり嫌かも」
寝台の端で丸くなっていたノアが顔を上げる。
『でしょうね』
「否定しないんだ」
『三回続いたものを気に入ってるんだから、四回目で崩れたら嫌でしょう。普通よ』
「でも、その時も残す」
『それはその時になってから言いなさい』
「今言ってもいいでしょ」
『宣言だけなら誰でもできるもの』
「厳しい」
『あなたが明日の自分に格好いい約束を押しつけないようにしてるのよ』
アリシアは少し黙った。
その言葉は、思っていたより優しかった。
「じゃあ、明日の私が嫌がってもいい?」
『いいんじゃない?』
「紙変えなければ」
『そうね』
「結果見て、ちょっと落ち込んでも?」
『勝手に落ち込みなさい。私が横にいるから』
アリシアはノアを見る。
黒猫はすでに顔を前足へ伏せかけていた。
「……うん」
『何よ』
「何でもない」
アリシアは練習帳を閉じた。
明日、四例目へ進むとはまだ決まっていない。
研究班が今日の記録をもう一度確認し、時間窓の作り方に問題がないと判断してからになる。
それでも次の紙を見る時、自分が何を期待するのかはもう分かっていた。
西側が後ろであってほしい。
三回続いた形が、四回目も続いてほしい。
その願いを消す必要はない。
ただ、その願いで線を動かさない。
机の上には三枚の記録が、それぞれ違う重なり方のまま並んでいる。
アリシアは一枚目を二枚目へ寄せることも、三枚目を一枚目へ合わせることもしなかった。
次にどんな形が来ても、同じ場所へ無理に収めないために。
今夜は、その三枚を三枚のまま残して灯りを消した。




