第206話 二つ目の時間帯が少し離れたなら、一回目の重なりまで間違いだったことにはしない
朝から降っていた細い雨は、アリシアが学院へ向かう頃になっても止まなかった。
生活観測区画の軒先から外へ出ると、石畳は一面濡れており、薄灰色の空を映して鈍く光っている。強く降るわけではないが、傘へ落ちる雨粒が絶え間なく小さな音を立て、庭の土や草からは湿った匂いが立ち上っていた。
アリシアは傘を少し傾け、足元を歩くノアが濡れないようにする。
『もっと右』
「右?」
『私の尻尾が出てる』
「ノアが真ん中歩けばいいんじゃない?」
『猫に人間用の傘の都合を押しつけないで』
「私、左肩濡れてるんだけど」
『あなたは制服を乾かせるでしょう』
「ノアも毛乾くでしょ」
『自然乾燥と魔法を同列にしないで』
アリシアは傘を右へ寄せた。
そのぶん左肩へ細かな雨が当たる。
「これでいい?」
『よろしい』
「偉そう」
『濡れた猫を抱えることになるのはあなたよ』
「……それは嫌かも」
『でしょう?』
少し考え、アリシアはノアを抱き上げた。
『え』
「これなら濡れない」
『待ちなさい。解決方法が雑じゃない?』
「私も傘の真ん中歩ける」
『下ろしなさい』
「嫌なの?」
『嫌とは言ってないけど、朝の通学路で堂々と抱えられる予定ではなかったわ』
「じゃあ降りる?」
『……雨が止むまでこのままでいい』
「どっちなの」
アリシアが笑う。
少し先を歩いていた生徒が振り返り、腕の中の黒猫を見て微笑んだ。
「ノア、今日は抱っこなんだ」
『雨対策よ』
「自分で歩くの嫌になっただけじゃない?」
『違うわ』
「顔、眠そうだけど」
『あなたたち、朝から失礼ね』
生徒が笑いながら先へ進んでいく。
アリシアもその後を追った。
今日は人工刺激を行わない。
昨日、反応あり一回分について初めて三つの時間窓を作ったばかりだ。東側奥部の追加低下とアリシアの感覚は大きく重なり、西側の遅延弱波形は比較的後方へ位置した。
けれど、それはまだ一回だけの結果だった。
今日の予定は、いきなり二回目へ進むことではない。
まず昨日使った時間窓の作り方を、最初の結果を知った状態でも変更せず使えるのか、研究班全体で確認する。
そこで問題がなければ、二つ目の記録へ進む。
朝の時点では、それ以上は決まっていなかった。
◇
午前の授業が始まる前、アリシアは教室の窓際で濡れた左肩を布で拭いていた。
「そこだけ濡れてない?」
隣の席から声をかけられる。
「ノアに傘譲った」
「猫優先?」
「途中から抱いたから、それからは平気だった」
「最初から抱けばよかったじゃん」
「ノアが歩いてたから」
女子生徒が窓際へ寄り、床で毛繕いをしているノアを見る。
「猫って雨嫌い?」
『猫によるわ』
「ノアは?」
『毛が湿るのは好きじゃない』
「でもアリシアの肩は濡らすんだ」
『本人が傘を傾けたのよ』
「ノアが右って言ったからでしょ」
『聞かなければよかったでしょう』
「そういうこと言う?」
近くで教科書を出していた男子生徒が吹き出した。
「毎朝こんな感じなの?」
「だいたい」
『毎朝ではないわ』
「似たようなもんじゃん」
『あなた、私たちの朝をどれだけ知ってるのよ』
そんな話をしているうちに教師が入ってきた。
教室のざわめきが収まり、生徒たちはそれぞれの席へ戻っていく。
今日の午前は文章読解の授業だった。
古い交易記録から必要な情報だけを拾い、設問へ答える。
魔法も神器も関係ない。
荷車が何台通ったか。
どの村で積荷を増やしたか。
雨で何日足止めされたか。
アリシアは文章を読みながら、一箇所だけ分からなくなった。
記録の途中で、荷車の数が一台増えている。
けれど「追加した」とは書いていない。
隣の女子生徒も同じところで止まっていたらしく、小声で尋ねてくる。
「これ、どこで増えたの?」
「分かんない」
「前の村かな」
「でも前の村、荷物だけ増えてる」
「あ、本当だ」
二人で少し前まで戻る。
するとさらに前の段落に、故障した荷車の代わりとして別の一台を借りたという記述があった。
「ここじゃない?」
「あー……そこか。遠い」
「私も見落とした」
「先生、性格悪い」
前方から教師の声が飛んでくる。
「聞こえていますよ」
教室のあちこちで笑いが起きた。
隣の女子生徒は慌てて口元を隠し、アリシアも視線を紙へ落としながら肩を揺らした。
研究室へ行く前の時間は、そんなふうに過ぎた。
◇
昼食後。
研究室の窓にも細かな雨粒が残っていた。
朝より雨脚は弱まっているものの、空はまだ明るくならない。部屋の中では魔導灯が点けられ、昨日使った三本の帯が描かれた用紙が机の中央へ置かれていた。
アリシアは席へ着く前に、その紙を一度だけ見た。
一番上が東側奥部。
二番目が自分。
三番目が西側。
東側と自分は大きく重なり、西側は右側へずれている。
矢印はない。
「今日はこれ、変えないか確認するんだよね」
「正確には、昨日の一例を見たことで、時間窓の作成規則に結果依存の変更が入っていないかを確認します」
副学院長が答えた。
「結果依存……」
『昨日の絵が気に入らないから定規を削ってないかって話でしょう』
「削ってないよ」
『あなたはね』
ノアが机の端へ前足をかける。
魔導具教師が苦笑した。
「分かりやすい表現ではあります」
「定規を削るって書いていい?」
「正式記録にはやめてください」
「練習帳なら?」
「ご自由に」
アリシアは本当に書いた。
『一回目を見たあとで定規を削らない』
その横に小さく猫の耳を描く。
『なんで私なのよ』
「ノアが言ったから」
『そこまで記録しなくていいでしょう』
研究室の空気が少し緩んだ。
学院長は昨日の作成手順をまとめた紙を開いた。
「確認するのは三項目です。東側奥部の時間窓、アリシアさんの申告窓、西側弱波形の時間窓。それぞれ昨日と同じ基準で作れるかを確認します」
東側については、当日の装置校正記録、内部応答遅延、記録紙の送り誤差を含める。
アリシアについては、当時の最初の違和感申告から冷感として表現した時点までを基本とし、発話までの不確実分を広めに加える。ただし、現在のアリシアの反応速度を過去へそのまま当てはめない。
西側については、当日の記録方式と処理時間、弱波形が通常揺れから外れた可能性のある範囲を含める。
昨日確認した内容と同じだった。
「変えるところない?」
アリシアが尋ねる。
魔導具教師が答える前に、若い観測員が手を挙げた。
「一つ、検討したい点があります」
アリシアの視線がそちらへ向く。
「変える?」
「変えるというより、固定する前に確認したい点です。アリシアさんの申告窓について、最初の違和感から冷感申告までを基本にしていますが、記録によっては最初から『冷たい』と申告している回があります」
「あ……」
「その場合、“最初の違和感”と“冷感確定”がほぼ同じ位置になります。昨日と同じ規則を機械的に使うと、窓がかなり狭くなる可能性があります」
アリシアはすぐには答えなかった。
昨日の自分なら、狭くなると聞いて少し嬉しかったかもしれない。
東側との順番が見えやすくなるからだ。
けれど、今日はその前に別の疑問が出た。
「それ、本当にその回だけ私がすぐ分かったってこと?」
「そこが分かりません」
「言葉が早かっただけかもしれない?」
「はい。感覚自体が明瞭だった可能性もありますし、表現の選択が早かっただけかもしれません」
サーラが記録を見ながら続ける。
「ですから、“最初の違和感から冷感まで”だけを申告窓とすると、言葉選びの違いで時間精度が変わる危険があります」
「じゃあ、昨日の幅も変わる?」
「そこを今考えます」
アリシアは昨日の紙を見た。
結果を見てから変えない。
そう決めた。
しかし、今出た問題は「昨日の結果が気に入らないから」ではない。
二つ目以降へ同じ規則を適用しようとしたとき、規則そのものに曖昧さが見つかった。
「こういうのも変えちゃ駄目?」
アリシアが尋ねる。
学院長は首を横へ振った。
「いいえ。固定前に見つかった問題を無視する必要はありません。ただし、変更するなら昨日の一例にも遡って同じ変更を適用します」
「一回目だけ古いやり方にしない」
「はい」
「二回目だけ都合よく狭くもしない」
「その通りです」
アリシアは少し安心した。
何も変えないことが正しいわけではない。
結果に合わせて変えないことが大事なのだ。
◇
申告窓の扱いについて、研究班はしばらく話し合った。
アリシア自身も参加した。
ただし、過去の自分が「いつ感じ始めたか」を今の記憶で補うことはしない。
当時の記録だけを使う。
最終的に、最初の口頭申告が「何か変」でも「冷たい」でも、その言葉の種類で開始幅を変えないことになった。
口頭申告が記録された時点から、発話に至るまでの不確実時間を一定の広めの幅として前方へ取る。
その後、感覚内容が冷感として明確化された場合は、後端をそこまで伸ばす。
最初から冷感と申告された場合でも、開始側の不確実幅は同じ基準で残す。
「これなら、言葉が上手かった日だけ窓が細くならない?」
「その意図です」
サーラが答える。
「でも、感覚が本当に強くてすぐ分かった日も同じ幅になる」
「なります。そのため実際より広く見積もる回も出るでしょう」
「狭く間違うよりいい?」
「今回の目的が、無理に先後を確定しないことなら、その方が安全です」
アリシアは頷いた。
若い観測員が新しい規則を書き込む。
東側と西側についても再確認したが、現時点で同様の曖昧さは見つからなかった。
「じゃあ昨日の一回目も作り直す?」
「はい」
昨日の紙は捨てない。
旧案として残したうえで、新しい固定候補規則を使ってもう一度三本を作る。
東側は変わらない。
西側も変わらない。
アリシアの感覚窓だけ、開始側がわずかに広がった。
「もっと重なった」
新しい紙を見て、アリシアが言う。
「そうなりました」
「東側先って、さらに言えなくなったね」
「はい」
胸の奥へ、小さな残念さが落ちた。
昨日、自分の窓を狭くしたくなった。
今日の修正は逆だった。
むしろ広がった。
それでもアリシアは紙から目を逸らさなかった。
「これでいい」
サーラがアリシアを見る。
「残念ではありませんか?」
「少しは。でも、二回目だけ細くなるよりいい」
「そうですね」
「一回目も同じ定規でやり直したから」
ノアが机の端で尻尾を揺らした。
『定規、削るどころか少し太くなったわね』
「ノアのせいで定規って言葉が残ってる」
『分かりやすいでしょう?』
「うん」
『なら感謝しなさい』
「それは嫌」
『可愛くないわね』
小さな笑いが起きた。
けれどアリシアの視線は、もう新しい一回目の紙へ戻っていた。
東側と自分は、やはり重なる。
そこに矢印は引けない。
昨日の結論は弱くなったのではなく、むしろ同じ方向で慎重になった。
◇
休憩を挟み、研究班は時間窓の規則を「固定候補」として記録した。
まだ永遠に変えないわけではない。
装置校正に新たな問題が見つかったり、過去記録の形式に適用不能な例が出たりすれば、見直す可能性はある。
ただし、その場合も特定の結果だけに合わせて変更せず、対象となる全記録へ同じ変更を遡及適用する。
「二個目、見る?」
学院長がアリシアへ尋ねた。
参加を当然とはしない聞き方だった。
アリシアは身体の状態を一度確かめる。
刺激はない。
それでも長い記録比較は疲れる。
「大丈夫。見たい」
「途中で疲れたら止めましょう」
「うん」
二つ目に選ばれたのは、前半寄りの意図的小変動で反応が確認された過去記録だった。
これも反応の強さで選んだのではない。
校正記録が揃い、アリシアの口頭申告も欠けていない。
一回目とは候補位置が異なるが、今の目的は前半と後半の比較ではなく、同じ時間窓規則を別の反応あり記録へ適用できるかを見ることだった。
「これ、前に私が期待してた回?」
「どの意味ですか?」
「前半寄りだと思って待ってたやつ」
「違います」
「じゃあ、もっと前の?」
「はい」
アリシアは頷いた。
細かな過去の試験が増え、全部を頭だけで区別するのは難しくなっている。
だからこそ記録がある。
「じゃあ始める」
◇
まず東側奥部。
当日の装置校正を確認し、固定候補規則をそのまま当てる。
一回目より装置の送り誤差がわずかに小さい。
そのため、東側の時間窓も少し狭くなった。
「これ、狭くしていいの?」
アリシアが確認する。
「規則を変えたわけではありません」
魔導具教師が答える。
「当日の校正値が異なるためです」
「同じ計算をして、結果が違うだけ?」
「そうです」
「ならいい」
アリシアは二枚目の用紙へ東側帯を塗った。
次に、自分の申告記録を見る。
この回では、最初の言葉が「冷たい」だった。
まさに先ほど問題になった形式だ。
「これだったんだ」
「はい。固定前に一度記録形式だけを確認した際、この回があることに気づきました」
「結果の位置は見てない?」
「申告文の形式だけです。東側との位置関係はまだ重ねていません」
「うん」
新しい規則を使う。
最初から「冷たい」と言えていても、開始側の不確実幅は一回目と同じ考え方で取る。
アリシアは自分の帯を二本目へ塗った。
そして、鉛筆が止まった。
「……あれ」
一回目とは違った。
東側帯とアリシア帯は、ほとんど重なっていない。
境界同士が近い。
けれど、昨日の一回目のような大きな重なりではなかった。
東側帯の後端と、アリシア帯の前端の間に、ごく細い空白がある。
アリシアは顔を近づけた。
「離れてる?」
「現在の固定候補規則では、わずかに」
魔導具教師が答えた。
「じゃあ、東側が先?」
言ってから、自分で止まる。
研究室の誰も急いで答えなかった。
アリシアは紙を見たまま考える。
時間窓が離れている。
東側の窓が左。
自分の窓が右。
なら、この一回については東側が先だった可能性が高くなる。
昨日とは違う。
胸の奥が少し熱くなった。
嬉しい。
自分が以前から想像していた形に近い。
東側奥部が先に変わり、その後で自分が感じた。
「……嬉しい」
アリシアは隠さなかった。
「東側が先に見えるから」
サーラが静かに頷く。
「そう感じるのは自然だと思います」
「でも、すぐ矢印描いちゃ駄目?」
「まず、境界の距離が装置と申告の不確実幅に対して十分かを確認しましょう」
「うん」
魔導具教師と若い観測員が、二つの帯の境界を改めて確認する。
紙の線の太さ。
換算時の丸め。
校正値の誤差。
申告記録の記入時刻。
細い空白が、本当に意味のある分離なのか。
アリシアは待った。
さっきまでなら、離れていると分かった時点で「東側が先」と書きたかった。
今は鉛筆を置いている。
窓の外では雨が少し強くなり、ガラスへ当たる音が目立つようになった。
誰も喋らない時間が長くなる。
ノアも口を挟まない。
やがて魔導具教師が顔を上げた。
「完全な分離と呼ぶには、境界が近すぎます」
アリシアの肩がわずかに下がった。
「そっか」
「ただし、一回目より東側先行を示唆する配置であることは確かです」
「示唆?」
「東側窓の大部分がアリシアさんの申告窓より前にあり、採用した幅では重なりがほぼありません。ただ、境界の不確実性まで考えると、“確実に分離した”とまでは言わない方がよいでしょう」
アリシアは紙を見る。
「じゃあ、何て書く?」
副学院長が答える。
「たとえば、“東側先行候補。窓間はごく小さく分離するが、境界不確実性を考慮し先後確定には至らず”でしょうか」
「長い」
『研究ってそういうものよ』
「ノアが言うと腹立つ」
『私のせいじゃないでしょう』
アリシアは少し笑った。
それから、自分の言葉で短く書いた。
『一回目より東側先に見える。でも、まだ矢印は描かない』
正式記録は副学院長の表現を使う。
練習帳ならこれで十分だった。
◇
嬉しさは消えなかった。
けれど、さっきより少し落ち着いていた。
一回目は重なった。
二回目はわずかに離れた。
もし東側が必ず先なら、一回目の重なりは何だったのか。
測定精度のせいで隠れただけかもしれない。
本当にほぼ同時だったのかもしれない。
別の順番だった可能性もまだある。
「一回目、やり直したくならない?」
若い観測員が尋ねた。
アリシアは紙を二枚並べた。
「ちょっとなる」
「どこを?」
「東側の幅。もう少し狭くできないかなって」
正直に言う。
「狭くしたら、一回目も東側先になるかもしれないから」
サーラは何も言わず、続きを待った。
「でもしない」
アリシアは一枚目へ指を置いた。
「こっちは重なった。二個目が離れたからって、こっちまで離れてたことにしたら駄目」
「はい」
「二個とも同じじゃなくてもいいんだよね」
「もちろんです」
「同じ反応ありなのに?」
「反応ありという共通点があっても、時間配置まで完全に同じとは限りません」
アリシアはその言葉をゆっくり受け取った。
これまで、似たものを集めることに意識が向いていた。
反応ありには何が共通するのか。
無反応には何が欠けるのか。
それは今も大事だ。
けれど、反応あり七回の中に違いがあってもいい。
六つ目の感覚が生じるまでの細かな時間差が、毎回完全に同じとは限らない。
「じゃあ、一回目が間違いじゃない」
「間違いとは言えません」
「二回目も一回目を否定しない」
「はい。二つの記録が違う配置を示している。それが現在の情報です」
アリシアは二枚を少し離して並べ直した。
同じ形に重ねない。
違うまま置く。
◇
西側の時間窓を作る前に、休憩を入れた。
アリシアは研究室を出て、廊下の窓辺へ立った。
雨はまだ続いている。
中庭には大きな水溜まりができ、屋根から落ちる雫が輪を広げていた。
ノアが足元へ来る。
『残念?』
「どっちが?」
『完全に離れてなかったこと』
「ちょっと」
『嬉しい?』
「東側が先っぽく見えたのは嬉しい」
『忙しいわね』
「うん」
アリシアは窓ガラスへ指先を触れた。
冷たい。
もちろん六つ目の感覚ではない。
ただの雨の日の窓だ。
「でも、一回目まで変えなくてよかった」
『変えたかったでしょう』
「うん」
『それも顔に出てた』
「もう顔の話いいよ」
『便利なのよ、あなたの顔』
「ノアしかそんなこと言わない」
『周りが優しいだけよ』
アリシアは窓から離れた。
「戻る」
『もう平気?』
「平気。西側も見たい」
『なら行きなさい』
研究室へ戻ると、皆はそのまま待っていた。
急かされなかったことが少し嬉しかった。
◇
二回目の西側時間窓は、一回目よりさらに後方へ位置した。
処理幅そのものは広い。
それでも東側の帯とは明確に離れている。
アリシアの申告窓との間にも、一回目より大きな間隔があった。
「これは後って言える?」
アリシアが尋ねる。
「この一例では、西側窓はアリシアさんの申告窓より後方に分離しています」
「境界も?」
「はい。現在見積もっている不確実性を含めても、重なりません」
アリシアは初めて、二本目と三本目の間へ小さな矢印を描きかけた。
そして止める。
「描いていい?」
学院長は少し考えた。
「“時間配置として後方”を示す記号なら構いません。ただし、“アリシアさんの感覚が西側反応を起こした”という因果矢印にはしないでください」
「矢印だと原因みたいに見える?」
「見える可能性があります」
「じゃあやめる」
代わりに、二つの帯の間へ括弧を書き、
『この一回では分離』
とだけ記した。
「矢印使わないんですね」
若い観測員が少し笑う。
「後で見た私が勘違いするかもしれないから」
「よい判断だと思います」
「未来の私、信用ない」
『今のあなたもそこまで信用できないわよ』
「ノア」
『昨日窓を狭くしたがってたのは誰?』
「……私」
『でしょう?』
「でもしなかった」
『そこは偉い』
「また素直」
『毎回疑われると褒める気なくすわよ』
アリシアは口元を緩めた。
◇
その日の研究は、二つ目で終わった。
三つ目には進まない。
時間窓の固定候補規則を一度修正し、一回目へ遡って適用し直しただけでも、予定より多く頭を使っていた。
さらに二回目では、一回目と異なる配置が出た。
ここで勢いのまま三回目を開けば、「次は重なるのか、離れるのか」という期待が強くなりすぎる。
アリシア自身も、それを感じていた。
「三個目見たい」
研究終了時、アリシアは正直に言った。
「でも今日はやめる」
「理由は?」
学院長が尋ねる。
「今、次がどっちか当てたくなってるから」
「重なるか、離れるか」
「うん。研究じゃなくて、ちょっと答え合わせみたいになってる」
サーラが微笑んだ。
「では、今日はここまでにしましょう」
「うん」
アリシアは二枚の紙を重ねず、別々の記録板へ挟んだ。
一回目。
東側とアリシアが大きく重なり、西側が後方。
二回目。
東側とアリシアがごく小さく分離する配置だが、境界不確実性を考えると先後確定には至らない。西側はアリシアより後方へ明確に分離。
二つだけでも、同じではなかった。
それでよかった。
◇
生活観測区画へ戻る頃には、雨がほとんど上がっていた。
雲の切れ間から夕方の薄い光が差し込み、濡れた庭の葉が一斉に光っている。軒先からはまだ雫が落ちていたが、朝の冷たさより空気は柔らかかった。
共用机では、子供が紙を片づけていた。
「今日は箱見た?」
アリシアが鞄を置きながら尋ねる。
「見てない」
「紙?」
「うん。でも途中でやめた」
「どうしたの?」
子供は一枚の紙を見せた。
昨日まで、交差一と接近一の空白を仮につなぐ灰色線を何種類も作っていた。
今日はそのうち、曲がり方が極端なものを除こうとしたらしい。
けれど途中で止めた。
「どれが極端か、分かんなくなった」
「箱の線がどのくらい曲がるか分かってないから?」
「うん。見えてるところだけだと、少し曲がってるのもある。でも、もっと曲がる線がないって分かんない」
「じゃあ消さなかった?」
「消してない」
紙には五本の灰色線がそのまま残っている。
一本だけ薄く×をつけかけた跡があり、その上から小さく「まだ」と書き直されていた。
「消そうとした?」
「うん。でもやめた」
「どうして?」
「嫌いな形だから消すみたいになった」
アリシアは子供を見る。
「嫌い?」
「これ」
子供が指したのは、途中で大きく外へ膨らんでから接近一へ戻る線だった。
「遠回りだから、違う気がした」
「でも?」
「違うって分かってない」
「そっか」
アリシアは紙を見つめた。
自分も今日、似たことをした。
一回目の大きな重なりより、二回目のわずかな分離の方が好きだった。
東側が先という、自分の考えに近かったからだ。
でも、そこで子供へ「私も同じだった」とは言わなかった。
対象は違う。
子供は子供の理由で、自分の線を残した。
「残してよかったと思う」
それだけ言う。
「明日はどうする?」
「別の紙に、見えてる曲がりだけ集める」
「箱は?」
「開けない」
「うん」
子供は五本の灰色線を丁寧に重ね、紙袋へしまった。
◇
夕食前、顔のない存在は窓際の椅子から立ち上がった。
今日は子供もアリシアも近くにいたが、誰も声をかけない。
最初の一歩はゆっくりだった。
次の一歩までに少し間がある。
そこからもう一歩進み、立ったまま窓の外を向いた。
雨上がりの庭には、葉から落ちる雫が光っている。
顔のない存在が何を見ているのかは分からない。
胸元には淡い光がいくつか浮かんでいたが、アリシアは数えなかった。
子供も今日は記録紙を持っていない。
二人でただ、窓際に立つ姿を見ていた。
しばらくすると、顔のない存在は自分から椅子へ戻った。
「三歩だったね」
子供が小さく言う。
「うん」
「昨日は歩かなかった」
「うん」
「今日は歩きたかったのかな」
「分かんない」
「そっか」
子供はそれ以上聞かなかった。
アリシアも理由を探さなかった。
◇
夜。
雨雲は東へ流れ、窓の外にはところどころ星が見え始めていた。
アリシアは机に向かい、二枚の時間窓記録を前へ置いた。
一枚目は、昨日のものを今日の固定候補規則で作り直した版。
二枚目は、今日新しく作った前半寄り反応あり記録。
並べる。
一回目では東側と自分が大きく重なる。
二回目では、二つの帯の間に細い空白がある。
けれど、その空白は先後を確定できるほど強くない。
西側は二回とも後方。
特に二回目では、自分の申告窓からも明確に離れている。
アリシアは練習帳へ今日の要点を書いた。
『時間窓の作り方を固定する前に、私の最初の言葉が回ごとに違う問題が見つかった。最初から「冷たい」と言えた回だけ窓が細くならないよう、開始側の不確実幅を同じ考え方で取ることにした』
続ける。
『規則を変えたので、一回目にも戻って同じ変更をした。一回目は東側と私の重なりが少し増えた』
そこまで書き、少し笑う。
昨日なら嫌だったかもしれない。
今日は、必要な変更だったと分かる。
『二回目は東側窓と私の窓がごく小さく離れた。ただし境界の不確実性があるので、東側先行は候補。確定しない。西側は私より後方へ分離した』
さらに一行。
『二回目が一回目より好きでも、一回目を二回目に合わせない』
ノアが寝台から顔を上げた。
『好きって書いたの?』
「うん」
『研究記録に?』
「練習帳」
『ならまあいいけど』
「二回目の方が、東側が先っぽかったから好き」
『随分正直ね』
「隠したら、あとで自分が何でそっち信じたかったか分かんなくなるから」
ノアはしばらくアリシアを見ていた。
『あなた、昔より面倒な性格になったわね』
「悪くなった?」
『研究にはいいんじゃない? 普段まで全部疑い始めたら面倒だけど』
「普段はそんなにしないよ」
『本当に?』
「今日、授業の交易記録で荷車増えたところ探した」
『それは授業でしょう』
「友達の先生への悪口も聞こえてた」
『それは研究しなくていい』
「分かってる」
アリシアは笑い、日常欄へ短く書いた。
『雨。ノアを途中から抱いて学院へ行った。最初から抱けば左肩が濡れなかった』
『朝の文章読解。荷車が増えた理由は少し前に書いてあった。先生は性格が悪いらしい。本人に聞こえていた』
『それは書かなくていいでしょう』
「面白かったから」
『先生に見られても知らないわよ』
「研究の練習帳見ないでしょ」
『あなた、そのうち落とすわよ』
「落とさない」
『そういうこと言った人ほど落とすのよ』
「ノアが言うと本当に起きそうだからやめて」
アリシアは練習帳を閉じかけ、思い出してもう一度開いた。
子供のことも残す。
『箱は閉じたまま。交差一―接近一の仮接続五候補のうち、大きく外へ曲がる一案を除こうとしたが、実物で許される曲率が分からないため除外せず。「嫌いな形だから消す」ことを避けた。次は確認済み部分に実際にある曲がり方を紙で集める予定』
顔のない存在については、
『雨上がり、三歩。しばらく窓外を向いてから自分で座った。光は通常観測のみ』
とした。
◇
最後に、アリシアは二枚の時間窓記録を机へ並べ直した。
同じ反応あり。
同じように、入力後に東側奥部追加低下、自分の弱い感覚、西側弱波形が確認された記録。
けれど、時間帯の重なり方は同じではなかった。
一枚目には大きな重なりがある。
二枚目には細い隙間がある。
西側までの離れ方も違う。
アリシアは最初、その違いを少し嫌だと思った。
七回を並べれば、同じ順番が出てくる。
そんな期待がまだ残っていたからだ。
けれど、二枚目を一枚目へ合わせる必要はない。
一枚目を二枚目へ合わせる必要もない。
違うなら、違うまま七回を並べる。
そのあとで初めて、どこまでが共通しているのかを見る。
「次、三個目だね」
『明日とは限らないでしょう』
「うん」
『今日みたいに何か見つかったら、また止まるかもしれない』
「それでもいい」
アリシアは二枚の間へ指一本分の隙間を空けた。
「今度は、重なるか離れるか当てないようにしたい」
『無理じゃない?』
「何で」
『もう二種類見ちゃったもの。次を見たら絶対どっちか考えるわよ』
アリシアは反論しかけて、やめた。
「……考えるかも」
『でしょうね』
「じゃあ、考えてもいい。でも先に書く」
『何を?』
「次は重なる気がする、とか、離れる気がする、とか。思ったら先に書いて、そのあと記録を見る」
『また面倒なこと始めたわね』
「当てるためじゃないよ」
『分かってるわ。外れたときに紙へ八つ当たりしないためでしょう』
「八つ当たりはしない」
『窓を狭くしたくなるのも似たようなものよ』
「……じゃあ、しないため」
アリシアは新しい紙を一枚取り出した。
まだ三本の帯は描かない。
上の端へ、小さく一文だけ書く。
『三回目を見る前に、自分がどんな配置を期待しているかだけ残す。配置そのものは記録から作る』
書き終えると、鉛筆を置いた。
次の一回が、一枚目に似るのか。
二枚目に似るのか。
どちらにも似ないのか。
今は分からない。
ただ一つ、今日より確かになったことがある。
二つ目の記録が少し違って見えたからといって、一つ目まで違っていたことにする必要はない。
同じ答えへ揃えることと、同じ方法で比べることは違う。
アリシアは二枚の紙を重ねず、それぞれ別の透明袋へしまった。
窓の外では、雨雲の切れ間から小さな星が一つ見えていた。
明日になれば、また違う形が増えるかもしれない。
それでも、今度はその違いを消さずに残せる気がしていた。




