第205話 三本の時間帯が重なったなら、分からない順番を矢印でつながない
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、生活観測区画の窓には薄い朝靄が残っていた。
庭の向こうに並ぶ木々は輪郭だけが淡く霞み、昇り始めた陽の光が白い靄の奥でぼんやりと広がっている。昨夜は風が弱かったため、葉の表面には細かな露が残り、窓を開けると湿った草の匂いと冷たい空気が一緒に部屋へ流れ込んできた。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、少しだけ胸へ意識を向けた。
痛みはない。息苦しさもなく、胸の奥に冷たい感覚も残っていない。
今日は人工刺激を行う日ではない。
昨日決めた通り、反応が確認された七回のうち一回だけを選び、東側奥部の追加低下、自分の感覚、西側の遅延弱波形について、それぞれを一点の時刻ではなく「起きた可能性のある時間帯」として置き直してみる。
一回だけ。
作り方そのものに問題がないかを確かめる日だった。
寝台の端へ腰掛けたまま、アリシアは昨日の最後に見た三本の白い帯を思い出した。
東側奥部。
自分。
西側。
これまでは頭の中で、三つの出来事が左から右へ並んでいた。
東側が変わる。
六つ目がそれを感じる。
少し遅れて西側へ何かが伝わる。
そういう形が、一番分かりやすかった。
けれど、昨日確認した記録精度では、そこまで綺麗な矢印を引くことはできないかもしれない。
「……重なるかな」
小さく呟く。
枕元で丸くなっていたノアが、尻尾だけを動かした。
『朝一番から研究?』
「考えただけ」
『考えるのも研究でしょう』
「じゃあ、朝一番からちょっと研究」
『昨日は売店が先だったのに』
「今日は買うものないよ」
『干し肉』
「まだある」
『確認しただけよ』
アリシアは笑いながら立ち上がった。
「昨日二個食べたでしょ」
『二個しか、でしょう』
「普通の猫ってそんなに食べるの?」
『普通かどうか確認したくせに、もう疑うのね』
「ノアだから」
『便利な言葉にしないで』
制服へ着替えながら、アリシアは練習帳を開いた。
昨日書いた記録の下へ、今日の予定を一行だけ追加する。
『七回のうち一回だけ。三本の時間帯を作る。順番は先に書かない』
最後の部分へ二重線を引こうとして、やめた。
強調しすぎると、それ自体を守ることばかり考えてしまいそうだった。
普通に書いておけばいい。
◇
朝食後、共用机では子供が紙の端へ小さな印をつけていた。
木箱は今日も棚の上にある。
昨日、箱の縁からの位置を基準に写しの縮尺を見直した結果、交差二と接近二は、それまで考えていたより方向の一致が弱くなった。一方、交差一と接近一は完全一致ではないものの、方向的に近い候補として残っている。
今日の紙には、その二つだけが描かれていた。
「交差一と接近一?」
アリシアが覗き込む。
「うん。でも今日はつなげない」
「何見るの?」
「途中で曲がるなら、どのくらい曲がれば届くか」
子供は薄い灰色の線を一本引いていた。
確認済みの黒線とは違い、あくまで仮の線だ。
「まっすぐだと?」
「ちょっとずれる」
「曲げたら届く?」
「届くけど、曲げ方いっぱいある」
子供は別の補助紙を見せた。
そこには三種類の灰色の曲線が描かれている。緩く曲がるもの、一度直進してから曲がるもの、少し外側へ膨らんで戻るもの。
「全部つながるね」
「だから、つながるって決められない」
「そっか」
「一個しか届かなかったら、その形かもって思えたけど」
「三個ある」
「もっと作れる」
子供は少し困ったように笑った。
アリシアも紙を見る。
線と線の間に空白がある。
その空白を埋めようと思えば、いくらでも線を引ける。
どれも紙の上では成立する。
けれど、成立することと、実際に箱の表面へ刻まれていることは違う。
「じゃあ今日は?」
「曲げればつながる、だけ書く。でも形は決めない」
「うん」
アリシアはそれ以上口を挟まなかった。
子供も、木箱を開けたいとは言わない。
紙の上でできることがまだ残っている。
棚の箱は朝の光を受けて静かに置かれていた。
◇
学院へ着くと、教室では朝から小さな騒ぎが起きていた。
「ない」
昨日髪紐を返してきた女子生徒が、机の中を覗き込んでいる。
アリシアは鞄を置きながら尋ねた。
「何が?」
「筆記具入れ」
「昨日持ってたよ」
「持ってた。絶対持ってた」
「絶対?」
「たぶん」
「もう弱くなった」
近くの男子生徒が笑う。
「お前、昨日帰りに資料室寄ってなかった?」
「あ」
「そこじゃね?」
「でも、そのあと教室戻った気がする」
「気がするだけ?」
「うるさい」
女子生徒は机の中から教科書を一冊ずつ取り出し始めた。
アリシアも自分の席へ座ろうとしたが、相手の机の横に何か細いものが落ちているのが見えた。
「これ違う?」
「え?」
机と壁の隙間に、布製の筆記具入れが縦向きに挟まっていた。
女子生徒がしゃがみ込む。
「……あった」
「資料室関係なかったね」
「戻ってきたとき落としたのかな」
「絶対持ってたのは合ってた」
「そこだけ褒めないで」
男子生徒が肩を揺らして笑っている。
「アリシア、最近よく物見つけるな」
「昨日は見つけてないよ」
「前に買い物メモ拾ったじゃん」
「だいぶ前」
「覚えてるんだ」
「自分のことだから」
女子生徒が筆記具入れを机へ置き、アリシアを見る。
「ありがとう。お礼にまた焼き菓子――」
「いらない」
「早い」
「今度は見つけただけだから」
「髪紐も貸しただけだったよ」
「二日貸した」
「そこ重要なんだ」
「重要」
教室へ入ってきた別の生徒が「朝から何の話?」と首を傾げ、女子生徒が筆記具入れをなくした経緯を大げさに説明し始める。
アリシアは途中で自分の席へ戻った。
話の中心から外れても、気まずくはない。
机へ教科書を並べながら、周囲の笑い声を聞いていた。
研究室では、分からないことを分からないまま置くために何度も確認する。
教室では、なくしたと思った筆記具入れが机の横から出てきて、それで終わる。
どちらも同じ一日の中にある。
◇
午前の授業を終え、昼食後に研究室へ入ると、昨日見た三本の白い帯が机の中央に置かれていた。
今日は七回分ではない。
一枚だけだ。
選ばれたのは、反応ありの中でも比較的記録状態が良く、東側奥部と西側双方の基準信号が欠けずに残っている一回だった。
アリシアには、どの位置の意図的小変動だった回かも伝えられた。
後半寄り。
ただし、昨日反応が戻った最新の一回ではない。
もっと前に行った、同じく後半寄りの反応あり試験だった。
「これを選んだ理由は、反応が強かったからではありません」
学院長が最初に言った。
「うん。記録が揃ってるから?」
「そうです。時間帯を作る方法そのものを試すので、欠損が少なく、装置校正記録も残っている回を選びました」
「私の感覚は?」
「最初の違和感申告と、その後の冷感申告が両方記録されています」
「じゃあ作りやすい?」
「比較的、です」
アリシアは椅子へ座った。
ノアは今日も足元にいる。
サーラ、魔導具教師、若い観測員、安全管理担当、副学院長も揃っていた。
刺激試験ではないため、部屋の緊張は低い。
それでもアリシアは、三本の帯を前にすると少しだけ胸が落ち着かなかった。
「先に予想書く?」
自分から尋ねる。
学院長は少し考えた。
「今日は結果の有無を予想する試験ではありません。ただ、三本の順序について、すでに持っている予想を記録しておく意味はあります」
「私、東側が先だと思いやすい」
「昨日もそう話しましたね」
「西側は後ろだと思ってる」
「はい」
「私と東側は……昨日から分かんなくなった」
アリシアは練習帳へ書いた。
『見る前の予想:東側が私より先だと思いやすい。ただし昨日の精度確認後は自信なし。西側は比較的後ろにあると思う』
数字はつけなかった。
今日は必要ない気がした。
「できた」
「では、まず東側から作ります」
◇
東側奥部の記録紙が広げられた。
意図的小変動が入力された時点には、学院側の操作記録が別に残っている。
そこを基準の零として扱う。
ただし、東側奥部の追加低下が記録紙に現れた位置を、そのまま発生時刻にはしない。
装置内部の応答遅延。
記録紙の送り誤差。
当日の校正結果。
それらを含めて、「この区間のどこかで変化が始まった可能性が高い」という幅を作る。
魔導具教師が細い透明板を記録紙へ重ねた。
「この線が、紙面上で追加低下の始まりと判断した位置です」
「うん」
「ただし、校正上の遅れを戻すと、実際の変化開始はこの範囲まで前へ広がります」
透明板の上に、短い帯が描かれる。
アリシアは思わず身を乗り出した。
「思ったより太い」
「昨日見た数値を図にすると、印象が変わりますか?」
「うん。数字で見たときより、幅ある」
これまでは一本の縦線を想像していた。
実際には、小さな横長の帯だった。
「後ろ側は?」
「波形が明確に下降へ移った時点を上限にできます。少なくともここより後に開始したとは考えにくい」
「じゃあ、この間」
「現時点では」
アリシアは自分の用紙の一番上、「東側奥部」と書かれた帯へ鉛筆で薄く範囲を塗った。
最初から濃くはしない。
あとで修正する可能性があるからだ。
「次、私?」
「はい」
少し緊張した。
◇
当時の申告記録が読み上げられる。
最初の言葉は、「何か、少し変」。
その後、短い間を置いて、「冷たいかも」。
さらに方向を尋ねられ、「中央より少し右。でも東って言えるほどじゃない」と答えている。
アリシアはその文章を聞きながら、当時の感覚を思い出そうとした。
胸の奥。
皮膚ではない。
深いところへ冷たいものが一瞬触れたような、弱い感覚。
けれど、記憶はもう完全ではない。
「今思い出した感じを足しちゃ駄目だよね」
「はい」
サーラが答える。
「当時記録された内容だけを使いましょう」
「分かった」
自分の記憶より、当時の言葉を優先する。
少し変な気分だった。
自分の感覚なのに、今の自分より過去の記録の方を信頼する。
「最初の“何か変”は、六つ目の感覚だったって決める?」
「決めません」
「じゃあ、そこから冷たいって言ったところまで全部?」
「一つの案ではあります。ただ、それだけだと実際に感じ始めた時刻は最初の申告より前だった可能性が抜けます」
「あ」
アリシアは顔を上げた。
「感じてから喋るまでの分」
「そうです」
「そこ、分かんない」
「分かりません。ですから、現在の申告訓練で確認されている通常の発話遅延を参考幅として使う案があります。ただし、過去のあなたが同じ遅延だった保証はありません」
アリシアは眉を寄せた。
「今の私で昔の私を測る?」
「完全に同じとは扱いません。上限を広めに取るための参考です」
「……それならいいかも」
副学院長が口を開いた。
「むしろ、ここで幅を狭くしすぎる方が危険です。順番を決めたいからという理由で、都合よく申告遅延を短く見積もるべきではありません」
「うん」
結果として、アリシアの感覚帯は東側より少し太くなった。
最初の違和感申告より少し前から、冷感として言語化した時点まで。
その幅を二本目へ薄く塗る。
塗り終えてから、アリシアの手が止まった。
「……重なってる」
東側奥部の帯と、自分の帯。
二つはかなりの部分で重なっていた。
完全に同じではない。
東側帯の方が少し早い位置から始まっている。
アリシアの感覚帯は少し後ろまで伸びている。
けれど、その差だけで「東側が先」と言えるほど離れてはいない。
研究室が静かになった。
誰もすぐに解釈を口にしない。
アリシアは二本の帯を見つめた。
「東側が先に見えるけど……」
そこで止める。
自分でも分かる。
言いたい。
東側の帯の左端は、自分の帯より前にある。
なら東側が先ではないか。
けれど、帯は「実際の開始時刻」ではない。
その中のどこかだった可能性がある範囲だ。
東側が帯の後ろ側で始まり、自分の感覚が帯の前側で始まっていたなら、順番は逆にもなる。
「言えないね」
アリシアは小さく呟いた。
「はい」
学院長の返事は短かった。
「これだけ重なってるなら、東側が先って書けない」
「現在採用している幅では、そうなります」
「同時も?」
「同時だったとも決められません」
「そっか。重なるから同時、でもない」
「その通りです」
アリシアは鉛筆を持ち直した。
二本の帯の間へ矢印を描きたくなる。
けれど描かない。
代わりに余白へ、
『先後不明。重なりあり。同時とは限らない』
と書いた。
書き終えたあと、少しだけ胸がざわついた。
昨日から分かっていたはずなのに、図になると重かった。
東側奥部の変化を六つ目が感じ取っている。
その仮説はまだ残っている。
でも、この一回からは「東側が変化した後で六つ目が感知した」という順番すら確定できない。
「ちょっと嫌」
アリシアが言う。
サーラは隣で待った。
「東側が先なら、六つ目が東側を感じてるって考えやすかったから」
「はい」
「逆だったら、違うかもしれない」
「そうですね」
「同じ何かが両方に出てるだけかもしれない」
「その可能性も残ります」
アリシアは唇を結んだ。
答えが遠くなる。
けれど、それを理由に帯を細くするわけにはいかない。
「……この幅、狭くしたくなる」
「どうしてですか?」
「順番出るかもしれないから」
「では、狭くしますか?」
学院長が尋ねた。
アリシアはすぐに首を振った。
「しない。順番出すために変えるのは嫌」
言葉にすると、少しだけ楽になった。
「このままにする」
◇
休憩を挟んだあと、西側の帯を作った。
こちらはさらに慎重だった。
弱波形そのものが小さく、記録処理の影響もある。
波形の始まりを一点に置かず、明確に通常揺れから外れ始めた可能性のある区間と、処理上の時間幅を合わせる。
東側よりも長い帯になった。
「太い」
アリシアが思わず言う。
『あなた、今日それ何回目?』
「だって太いんだもん」
『研究用語としてどうなのよ』
「分かりやすい」
魔導具教師が苦笑した。
「正式記録では“時間窓が広い”と書いてください」
「うん」
西側の帯を三本目へ塗る。
今度は、見た瞬間に違いが分かった。
西側の帯は、東側とアリシアの帯より明らかに右側へ寄っている。
ただし、左端がアリシアの帯の後端へ少し近い。
完全に大きく離れているわけではない。
「西側は後って言える?」
アリシアが尋ねる。
「この一回について、採用した時間窓同士を比較する限り、東側奥部の窓より西側窓が後方に位置しています」
「私とは?」
「大部分は後方ですが、境界付近の不確実性をどう扱うかを決める必要があります」
「じゃあ、“私のあと”はまだ強く言わない?」
「その方がよいでしょう」
アリシアは三本を見た。
一番上と二番目は大きく重なる。
三番目は右へずれている。
これなら、
東側か自分。
その後、西側。
くらいには見える。
けれど、まだ一回だ。
「これ、七回全部同じなら強くなる?」
若い観測員が答える。
「同じ配置が繰り返されるなら、少なくとも時間的な配置の再現性については情報が増えます。ただし、それだけで因果関係は決まりません」
「うん。順番が同じでも原因とは限らない」
「はい」
「でも、七回全部見る価値はある?」
「私はあると思います。ただ、その前に今日作った時間窓の定義を固定した方がいいです」
アリシアは頷いた。
ここで一回目を見てから、二回目だけ都合よく幅を狭くしたり広くしたりすれば、比較にならない。
まず今日の作り方を確認する。
東側の装置遅延をどう含めるか。
自分の申告窓をどこからどこまでにするか。
西側の処理幅をどう置くか。
それを先に決める。
「今日は二回目やらない?」
「その予定です」
「よかった」
アリシアは素直に言った。
「疲れましたか?」
「ちょっと。でも、それより一回目見たあとに作り方変えたくなりそうだから」
「すでに変えたいところがありますか?」
「私の幅」
「狭くしたい?」
「少し」
アリシアは苦笑した。
「でも、狭くしたら東側が先に見えやすくなるから、今日は触らない」
学院長がゆっくり頷いた。
「それがいいでしょう」
◇
午後の授業では、簡単な実技があった。
二人一組で、小型の照明魔導具へ一定量の魔力を流し、光量を指定された範囲へ収める。
アリシアの相手は、普段それほど長く話すことのない女子生徒だった。
「先やる?」
「どっちでもいい」
「じゃあ私から。失敗したら笑わないでね」
「笑わないよ」
「ほんと?」
「たぶん」
「そこは絶対って言ってよ」
女子生徒が笑いながら魔導具へ手を置く。
最初の光は少し強すぎた。
「あっ」
教師が遠くから「上限を越えていますよ」と声をかける。
「先生、見なくていいところ見てる」
「見てるのが仕事だから」
アリシアが言うと、女子生徒が恨めしそうにこちらを見る。
「笑わないって言ったのに顔笑ってる」
「ちょっとだけ」
「裏切り者」
二回目は指定範囲に入った。
次はアリシアの番になる。
以前なら、失敗しないよう最初から慎重になりすぎたかもしれない。
けれど今日は、一度目を少し弱めに入れた。
光は下限ぎりぎり。
「弱い?」
「まだ範囲内!」
相手の女子生徒が測定板を見て声を上げる。
「ぎりぎりだね」
「でも成功は成功でしょ」
「うん」
「もう一回やって真ん中狙ってみる?」
「やる」
二回目。
今度は少し強める。
淡い光が安定し、測定板の中央付近で止まった。
「おお」
「真ん中?」
「だいたい。私より上手いの腹立つ」
「一回目はぎりぎりだったよ」
「じゃあ引き分け」
「何で勝負になってるの?」
「今決めた」
周囲では他の組も、光を強くしすぎたり、途中で消してしまったりしながら練習している。教師の注意と笑い声が混ざり、教室の天井には大小さまざまな淡い光が浮かんでいた。
研究室で三本の時間帯を睨んでいた数時間前とは、まるで違う空気だった。
アリシアはその違いを、わざわざ何かに結びつけなかった。
今はただ、指定範囲の真ん中近くへ光を入れられたことを少し喜んだ。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、子供は朝描いていた三本の灰色線を消さずに残していた。
ただし、どれにも印はついていない。
「決めなかったんだ」
「うん」
「増えた?」
「五個になった」
「増えたんだ」
「曲げ方変えたらもっとできた」
子供は困ったような、少し面白そうな顔をしている。
「だから、紙だけだと形決められない」
「箱見る?」
「まだ」
「どうして?」
「見るなら、途中全部じゃなくて一個だけ見たい。でもどこ見るか決めてない」
「そっか」
「明日も紙でいいかも」
アリシアは頷いた。
箱を開ければ答えが出るとは限らない。
むしろ、見たい場所を決めずに開ければ、あれもこれも確認したくなる。
以前、交差三候補を一箇所だけ見た日、子供の「もっと見たい」は一気に強くなった。
だから、開けること自体を進歩にはしない。
「今日ね、私も線引かなかった」
「何の?」
「順番の矢印」
子供が首を傾げる。
「矢印?」
「こっちが先で、こっちがあとっていうの」
「分かんなかった?」
「二つが重なった」
「じゃあ同じ?」
「同じかもしれないし、違うかもしれない」
「分かんないんだ」
「うん」
子供は少し考えたあと、自分の五本の灰色線を見た。
「いっぱいあるね」
「あるね」
二人で笑った。
◇
夜の生活観測区画は静かだった。
顔のない存在は今日は歩かなかった。
夕食後、一度椅子から腰を浮かせるところまではいったが、そのまま座り直し、窓の外を向いている。
子供も職員も促さなかった。
胸元には淡い光が見えていたが、位置を細かく追う時間にはしない。
アリシアは少し離れた机で練習帳を開いた。
今日作った三本の帯を、小さく写す。
一番上。
東側奥部の追加低下時間窓。
二番目。
自分の感覚申告窓。
三番目。
西側遅延弱波形の時間窓。
一回分だけ。
東側と自分は大きく重なった。
西側は比較的後方に位置した。
その下へ書く。
『この一回では、東側と私の先後は決められない。重なっているから同時とも決められない。西側は東側より後方。私との関係は境界の扱いを固定してから見る』
続けて、
『今日の結果を見てから時間窓を狭くしない』
と書いた。
その一文は少し恥ずかしかった。
実際に狭くしたくなったからだ。
自分の感覚窓を少し狭くすれば、東側が先という形がもっと綺麗になる。
けれど、それは自分が見たい順番へ記録を近づけることになる。
「ノア」
『今度は何?』
「今日、私の時間の幅、狭くしたくなった」
『知ってる』
「顔?」
『顔』
「そんなに出る?」
『あなた、自分で思ってるより分かりやすいわよ』
「嫌だな」
『今さら?』
アリシアは鉛筆を転がした。
「東側が先だったら、ちょっと嬉しい」
『どうして?』
「六つ目が東側の変化を感じてるって考えやすいから」
『考えやすいのと正しいのは別でしょう』
「うん。だから狭くしなかった」
『なら今日はそれで十分じゃない』
アリシアは少し黙った。
ノアの言葉が珍しく素直だったので、何か続くと思って待った。
「……それだけ?」
『何よ』
「毒舌ないの?」
『欲しいの?』
「いらない」
『じゃあ黙ってなさい』
少し笑う。
練習帳の日常欄には、朝の筆記具入れと午後の照明魔導具のことを書いた。
『筆記具入れは机の横にあった。見つけただけなのに焼き菓子を渡されそうになったので断った』
『照明魔導具は一回目が下限ぎりぎり、二回目は真ん中近く。相手の子と勝手に引き分けになった』
研究とは関係ない。
関係なくていい。
その下へ、子供の紙のことを書く。
『交差一―接近一は、途中を仮に曲げれば接続可能。ただし曲げ方は少なくとも五候補作れてしまい、紙だけでは形を決められない。箱は閉じたまま。次に実物を見る場合も、見る場所を先に一箇所へ絞る』
最後に顔のない存在について、
『今日は歩行なし。立ちかけて自分で座った。促さず』
とだけ残した。
◇
寝る前、アリシアは研究用紙をもう一度机へ広げた。
三本の帯。
矢印はない。
東側と自分の帯が重なっている部分へ、何も書かれていない。
そこが今日一番大事な空白だった。
以前なら、空白を見ると埋めたくなった。
東側が先。
六つ目が受け取る。
西側へ伝わる。
そう書けば、六つ目の神器が何をしているのかへ一歩近づいたような気持ちになれる。
けれど、本当に近づくためには、書けない矢印を描かない方がいい。
明日以降、今日使った時間窓の作り方を研究班で固定する。
そのあと、残る六回へ一つずつ同じ方法を当てる。
一日に全部やる必要はない。
途中で時間窓の定義に問題が見つかれば、そこで止める。
そして、七回を並べ終えたとき。
東側と自分の帯が毎回重なるのか。
離れる回があるのか。
西側はどの程度後方に残るのか。
初めてそこを比べる。
「明日、二個目?」
アリシアが尋ねる。
ノアは寝台の上で前足を舐めていた。
『先生たちが今日の作り方を認めたらでしょうね』
「うん」
『七個全部見たくなってる?』
「ちょっと」
『どのくらい?』
アリシアは一瞬考えた。
数字を言いかけて、やめる。
「今日は数字にしなくていい」
『珍しい』
「見たいけど、一個ずつでいいって思ってる」
『それなら寝なさい』
「ノア、干し肉食べる?」
『食べる』
「即答」
『そこを研究しないで』
アリシアは笑い、小さな包みから一つ取り出した。
ノアが受け取るのを見届けてから、三本の帯が描かれた紙を練習帳へ挟む。
今日、順番は分からなかった。
けれど、分からない理由は昨日より具体的になった。
何も知らない空白ではない。
東側の装置に幅がある。
自分の申告にも幅がある。
西側には別の幅がある。
その幅同士が重なるなら、そこへ矢印を描かない。
それだけのことを確かめるために、一日を使った。
以前のアリシアなら、遅いと思ったかもしれない。
今は違う。
一日かけて、一本の矢印を描かずに済んだ。
そのことの方が、答えに近づいたふりをするよりずっと大事だった。
灯りを消す直前、アリシアは練習帳の端から覗く三本の白い帯をもう一度見た。
明日も、まだ答えは出ないだろう。
それでも次の一回を、同じ物差しで置いてみたい。
最初の一枚に合わせるためではなく、本当に同じように重なるのかを確かめるために。
アリシアは今度こそ紙を閉じ、部屋の灯りを落とした。




