第204話 七回の順番を比べる前に、同じ一呼吸が同じ長さで残っているかを確かめる
翌朝、生活観測区画の窓から差し込んだ光は、昨日よりもはっきりしていた。
夜明け前には薄い雲が残っていたものの、朝食の時間になる頃には東の空が青く開き、濡れていた庭の石もほとんど乾いている。開けた窓から入ってくる風には昨日までの湿った重さがなく、木々の葉が擦れる軽い音と、少し離れた場所で職員が桶を動かす音が部屋の中まで届いていた。
アリシアは朝食を食べ終えると、いつものように胸や腕の状態を確かめた。
痛みはない。息苦しさもなく、胸の冷たさや震えも残っていない。
人工刺激を行った翌々日でもあるため、今日は最初から刺激試験を予定していなかった。昨日決めた通り、反応が確認された七回について、東側奥部の追加低下、自分の弱い感覚、西側の遅延弱波形という三つの時間関係を比較できるか、その前提を確認する日になる。
けれど、アリシアが朝一番に練習帳へ書いたのは研究のことではなかった。
『売店。ノア』
それだけ書いて、丸で囲む。
窓辺で毛繕いをしていた黒猫が顔を上げた。
『何よ、それ』
「忘れないように」
『名前だけ書かれると、私を売店へ持っていくみたいね』
「売らないよ」
『いくらなら売る?』
「売らないって」
『即答なのは評価するわ』
「何で朝から売られる前提なの」
『あなたが“売店、ノア”なんて書くからでしょう』
アリシアは練習帳を見直した。
確かに少し変だった。
その下へ小さく『食べられるもの探す』と書き足す。
『もっと怪しくなったわね』
「もういい」
練習帳を閉じると、共用机にいた子供が笑っていた。
「ノア、売られるの?」
「売らない」
『この子が朝から妙な記録を残してるだけよ』
「猫のおやつ買うんだよ」
「昨日のお菓子食べられなかったから?」
「うん」
子供は納得したように頷き、それから自分の前へ広げていた紙へ視線を戻した。
今日も木箱は棚の上にある。
蓋は閉じたままだった。
昨日は交差一と接近一、交差二と接近二について、線の向きだけでなく未確認部分の長さも比べた。方向が少し近く見える組み合わせはあるものの、紙の上で完全には一致せず、空白部分の長さにも差がある。
それでも子供は「つながらない」とは書かなかった。
見えていない途中で曲がる可能性もある。
写し取ったときの縮尺や角度にも誤差がある。
何より、箱の中の実物ではまだ確認していない部分が多い。
「今日は何するの?」
アリシアが尋ねると、子供は二枚の紙を持ち上げた。
「同じ大きさにしたつもりの紙、本当に同じ大きさか見る」
「線じゃなくて紙?」
「線も。でも、紙がちょっと違ったら、向きも長さも違って見えるかもしれないから」
アリシアは椅子を引いて隣へ座った。
二枚は別の日に作った写しだ。
交差一と接近一。
交差二と接近二。
これまでにも縮尺を合わせる作業はしているが、完全に同じ方法で写したわけではない。
「どうやって見る?」
「ここ」
子供は線そのものではなく、箱の縁から測った位置を示した。
「最初に書いたとき、端っこからここまでの長さも書いてある。だから、そっちを合わせる」
「線に合わせないんだ」
「線に合わせたら、つながってるように合わせちゃうかもしれない」
アリシアは一瞬、何も言わなかった。
その考え方が、今日これから自分たちがしようとしていることと少し似ているように感じたからだ。
けれど、それを口にはしなかった。
子供の箱と、東西地下の弱い反応は別のものだ。
やり方が似ているからといって、対象まで結びつける必要はない。
「端から合わせるんだね」
「うん。それで、線が近かったら近いって書く」
「合わなかったら?」
「合わなかったって書く」
「いいと思う」
子供は嬉しそうに笑い、薄い補助紙を重ね始めた。
アリシアは少しだけ手伝ったが、途中からは任せた。
今日は自分にも、別の物差しを確かめる予定がある。
◇
学院へ向かう途中、アリシアは本当に売店へ寄った。
朝の売店はまだ混雑していない。
授業前に筆記具や紙を買い足す生徒が数人いるくらいで、昼休みのような騒がしさはなかった。開け放たれた入口から朝の光が差し込み、棚に並んだ瓶や包み紙の端を白く照らしている。
「猫が食べてもいいものありますか」
店番の女性へ尋ねると、相手は一度アリシアを見て、それから足元のノアを見た。
「猫用?」
「うん」
『猫以外に見える?』
「ノア、黙ってて」
店番の女性が吹き出す。
「あるよ。学院の使い魔用に置いてる干し肉なら、塩も香辛料も使ってないから。この子が普通の猫と同じものを食べて大丈夫ならだけど」
「普通の猫と同じ……」
アリシアはノアを見る。
『その顔やめなさい』
「普通?」
『少なくとも食事については普通よ』
「口は普通じゃない」
『買わない気?』
「買う」
小さな紙包みを一つ買った。
会計を済ませて鞄へ入れようとすると、ノアがじっと見ている。
「今食べる?」
『授業前でしょう』
「一個だけ」
『あなた、そうやって自分から寄り道しておいて時間大丈夫なの?』
アリシアは廊下の時計を見る。
まだ余裕がある。
「大丈夫」
『なら一個』
包みを少し開き、小さな干し肉を取り出す。
ノアは床へ置かれるのを待たず、アリシアの指先から器用に受け取った。
数回噛んで飲み込む。
「どう?」
『悪くないわ』
「おいしい?」
『悪くない』
「おいしいんだ」
『二回言わせないで』
アリシアは笑いながら包みを閉じた。
昨日の焼き菓子を食べられなかったことは、大きな問題ではない。
ノア自身も本気で気にしていたわけではないだろう。
それでも昨日交わした約束を、研究室へ行く前にちゃんと一つ済ませられたことが、アリシアには少し嬉しかった。
◇
午前の授業が終わり、昼食を済ませてから研究室へ入る。
今日は机の上が昨日よりもすっきりしていた。
十三回分の一覧表は端へ寄せられ、中央には三種類の記録装置についてまとめた資料が置かれている。
東側奥部を観測している魔導計測器。
西側の補助連絡線付近を記録する装置。
そして、アリシア自身の申告記録。
昨日、若い観測員が提案したのは、反応あり七回について三つの下流項目の時間関係を見直すことだった。
だが、今日はまだ七回を比べない。
まず、それぞれの記録に書かれている「一呼吸」や時刻目盛りが、どこまで同じものとして扱えるのかを確認する。
「昨日までは、東側で追加低下が出て、私が感じて、そのあと西側って書いてたよね」
アリシアが椅子へ座りながら言った。
「概略としては、そう見える記録が複数あります」
魔導具教師が答える。
「でも今日は、その順番が本当にそこまで言えるかを見る?」
「その前段階です。各装置の記録時刻をどの程度合わせられるかを確認します」
「そこがずれてたら、順番もずれるから」
「はい」
学院長が資料の一枚をアリシアの前へ滑らせた。
「少し退屈かもしれません」
「大丈夫」
『そう言うときのあなた、だいたい退屈を甘く見てるのよね』
「ノアは寝ててもいいよ」
『あなたが分からない顔をしたときに笑う仕事があるから起きてる』
「そんな仕事ない」
周囲から小さな笑いが起こる。
緊張の強い刺激試験の日とは違い、研究室の空気は穏やかだった。
安全管理担当も今日は壁際で記録補助をしている。治療担当は常駐しておらず、必要時に呼べる通常配置へ戻っていた。
アリシアは資料へ目を落とした。
◇
最初に確認したのは、東側奥部の観測装置だった。
記録紙には細かな目盛りがあり、一定の間隔で基準信号が刻まれている。
「この線が一呼吸?」
「いいえ」
魔導具教師が即座に否定した。
アリシアは顔を上げる。
「違うの?」
「人の呼吸を基準にはしていません。これまで説明や申告の便宜上、“およそ何呼吸”という表現を使っていましたが、装置自体は一定周期の魔力時計で記録しています」
「じゃあ、一呼吸って私たちが後から言ってるだけ?」
「おおむねそうです。刺激の十呼吸という呼び方も、人が扱いやすいように換算したものです」
「……知らなかった」
「説明はしているはずですよ」
副学院長が静かに言う。
アリシアは少し考える。
「聞いたかも」
『聞いてなかった顔ね』
「聞いたけど忘れたの」
『もっと悪いじゃない』
「全部覚えられないよ」
「それで構いません」
魔導具教師が笑った。
「むしろ今日のように、時間差そのものを問題にするときに改めて確認する方が大切です」
東側奥部の装置は、基準となる魔力時計に対して比較的安定している。
ただし、記録紙へ線として出るまでには機械内部の遅れがある。
しかも、その遅れは完全なゼロではない。
「どのくらい?」
「現在の校正範囲では、この幅です」
教師が紙の上で細い区間を示した。
アリシアは眉を寄せる。
「思ったよりある」
「大きいですか?」
「私、東側が動いてすぐ感じたって思ってたから」
「その“すぐ”が、どこまでの時間差を意味するのかが今日の問題です」
アリシアは頷いた。
これまで「一呼吸以内」という表現を何度も使ってきた。
人工的な小変動のあと、東側奥部に追加低下が現れ、自分にも弱い冷たさが生じた。
それらが近い時間に起きていることは確かそうだった。
しかし、「東側が先に動き、その後でアリシアが感じた」と言い切れるほど精密なのか。
そこは別だった。
「じゃあ、私が感じた方が先だった可能性もある?」
研究室が少し静かになった。
学院長が答える。
「現時点では、その可能性を排除できません」
アリシアは胸へ手を置いた。
「そっか」
少しだけ落ち着かない。
東側が変わったから自分が感じる。
そう考えるのは分かりやすかった。
もちろん、それを確定したことはない。
共通の何かを感じている可能性も、別の状態が両方を生じさせている可能性も残していた。
それでも心のどこかでは、東側奥部の追加低下が先で、自分の感覚が後だと思っていたのかもしれない。
「嫌ですか?」
サーラが尋ねた。
アリシアはすぐには答えず、指先を制服の胸元から離した。
「ちょっとだけ。順番が一個あると思ってたから」
「一個?」
「小変動が入る。東側が下がる。私が感じる。西側があとから出るって」
自分で口にすると、かなりきれいな並びだった。
「でも、本当に分かってるのは最初の入力だけ?」
「入力の記録時刻にも装置上の誤差はありますが、学院側が操作した時点を別系統で記録しているため、他より基準を取りやすいです」
「じゃあ、入力のあとに三つがあるのは言える?」
「比較可能な反応あり記録では、その理解で大きな問題はありません。ただし三つ相互の細かな先後は、別に検討する必要があります」
「うん」
アリシアは練習帳へ書いた。
『入力より後に三つがあることと、三つの中の順番が分かることは別』
少し考えて、その下へ続ける。
『東側→私→西側だと思いやすかった。でも、東側と私はまだ順番を決めない』
◇
次は西側の記録装置だった。
こちらは東側と同じ型ではない。
設置時期も違い、記録方式にも差がある。
西側で確認される弱波形は小さいため、一定時間分をまとめて処理した記録も併用している。そのため、波形の立ち上がりが紙のどこへ現れるかには、東側とは異なる幅がある。
「西側の方がもっと曖昧?」
「細かな開始時刻については、そうです」
「でも遅いのは遅い?」
「反応あり七回を概観する限り、東側奥部の追加低下候補やアリシアさんの申告時刻より、後方に現れている傾向は保たれています」
「絶対?」
「“絶対”は使いません」
副学院長が答える。
「現在の記録精度を考慮しても、比較的後ろ側にある、と表現する方が安全でしょう」
「分かった」
アリシアは「西側は後」と書きかけ、止めた。
消して書き直す。
『西側は比較的後方に見える。精度確認後に七回を比較』
ノアが机の下から覗き込む。
『慎重ね』
「“後”だけだと決めたみたいになるから」
『成長したじゃない』
「今日、素直に褒めるね」
『猫用干し肉の効果よ』
「安い」
『もっと高いの買う?』
「そういう意味じゃない」
若い観測員が笑いながら記録板へ顔を伏せた。
◇
最後が、アリシア自身の申告だった。
これは機械より厄介だった。
「私、時計ついてないもんね」
「つけても解決しませんよ」
サーラが言う。
「感じた瞬間に時計を見るわけにはいきませんから」
「見たら遅れる」
「そうです」
試験中、アリシアは感覚があればすぐ申告する。
ただし、「感じる」と「口を開く」と「言葉が記録される」は同時ではない。
ごく弱い感覚の場合は、服の触れ方や髪、姿勢によるものではないかを一瞬確かめてから申告することもある。
実際、前半寄りの無反応試験では、左鎖骨付近に生じた表面的な違和感を六つ目由来の感覚とは判断せず、消失を確認している。
「反応ありのときも、私、考えてから言った回ある」
「あります」
「深い感じが先で、冷たいって言うまでちょっとかかったのも」
「記録されています」
若い観測員が過去の一枚を示す。
そこには、アリシアが最初に「何か変」と申告し、その後に「冷たいかも」と表現を変えた記録があった。
「じゃあ、“冷たい”って言った時刻を始まりにしたら遅すぎる」
「その可能性があります」
「でも“何か変”も、本当に六つ目だったか分からないことあるよね」
「はい」
アリシアは頬杖をつきそうになり、研究室なのでやめた。
「難しい」
『ついに本音が出た』
「最初から難しいと思ってるよ」
『顔が今までで一番嫌そう』
「だって機械なら直せるかもしれないけど、私の“感じた瞬間”は昔に戻って測れない」
言ってから、少し胸が沈んだ。
反応あり七回。
その七回で、自分は確かに何かを感じた。
けれど、その感覚が何秒、何拍、何呼吸目に始まったのかを、後から完全に取り戻すことはできない。
もっとちゃんと申告していれば。
もっと早く言えていれば。
そんな考えが浮かびかける。
サーラがアリシアの表情を見ていた。
「自分の申告が悪かったと思っていますか?」
アリシアは視線を落とした。
「ちょっと」
「それは違います」
声は強くなかったが、迷いがなかった。
「当時決めていた方法に従って、感じたことをできる限り早く報告していました。分からないときは分からないと報告し、服や姿勢かもしれないときも区別しようとしていた。後から別の分析をしたくなったからといって、当時のあなたに現在必要な精度まで要求することはできません」
「でも、もうちょっと早く言えた回もあるかも」
「あるかもしれません。反対に、急いで言えば誤報が増えたかもしれません」
アリシアは黙った。
「今後の試験で申告方法を改善することはできます。ただし、過去のあなたを失敗扱いする理由にはなりません」
研究室の空気が静かになっていた。
学院長も副学院長も口を挟まない。
アリシアは自分の手を見た。
弱い冷たさ。
〇・三程度。
〇・四程度。
もっと曖昧な、深いところの変な感じ。
それらを感じた瞬間、いつもすぐ言葉が見つかったわけではない。
それでも、分からないものを分かったふりはしなかった。
「……うん」
しばらくして、アリシアは顔を上げた。
「昔の私に、今のやり方でやれって言えないね」
「はい」
「じゃあ、七回の私の感覚は、点じゃなくて幅で見る?」
魔導具教師が頷いた。
「その方が適切だと思います。最初の違和感申告から、冷感として確定的に表現した時点までを一つの申告窓として扱える記録もあります。ただし、すべて同じ形式ではないため、七回を確認して定義する必要があります」
「機械も幅。私も幅」
「そうなります」
「一個の線に並べない」
「少なくとも、今の段階では」
アリシアはゆっくり息を吐いた。
朝までは、三つの出来事を横一列に並べるつもりだった。
東側。
自分。
西側。
それぞれに一本ずつ線を引いて、どれが先かを見ればいいと思っていた。
実際には、その一本一本が少し太い。
東側にも記録遅延の幅がある。
西側にはさらに別の処理幅がある。
自分の感覚は、言葉にするまでの時間を含む。
「順番じゃなくて、重なるかどうかを見る方が先?」
学院長がわずかに頷いた。
「それが今日の確認から自然に出てくる次の問いでしょう」
◇
昼過ぎ、いったん研究室を離れた。
今日は刺激を行わないため、午後の一部は通常の学院生活へ戻る。
アリシアが廊下を歩いていると、前方で三人の生徒が大きな布を運んでいた。
どうやら次の授業で使う背景布らしい。
幅があり、二人では端が床へ擦れてしまう。
「アリシア、ちょっと持って!」
以前から話すことのある男子生徒が、こちらを見つけて声をかけた。
「ここ?」
「うん、その端。階段まででいい」
「分かった」
アリシアは鞄を肩へ掛け直し、布の角を持った。
三人だった運搬が四人になる。
「これ重くない?」
「重くはないけど、でかい」
「昨日濡れたから干してたんだって」
「まだちょっと湿ってる」
「そこ床つくよ」
「あ、ごめん」
階段へ差しかかると、先頭の女子生徒が振り返った。
「ゆっくりね。前に落ちた人いるから」
「誰?」
「先生」
「先生なんだ」
アリシアが思わず笑う。
「しかも自分で“走るな”って言った直後」
「それ絶対笑われたでしょ」
「めちゃくちゃ笑われてた」
布の向こう側から別の男子生徒が「俺、その場いた」と声を上げる。
四人で速度を合わせ、階段を上がる。
途中ですれ違う生徒たちが壁際へ寄り、「でかっ」「何それ」と声をかけてくる。アリシアは布を落とさないよう注意しながら、誰かに見られていることをほとんど気にしていない自分に途中で気づいた。
以前なら、急に手伝いへ加わるだけでも緊張したかもしれない。
今は「端を持って」と言われたから持った。
それだけだった。
目的の教室へ着くと、四人で布を机の上へ置く。
「助かった。ありがとう」
「うん」
「今度なんか運ぶときも頼むわ」
「軽いやつなら」
「条件ついた」
「重いのはやだ」
「正直だな」
笑い声の中で手を振り、アリシアは自分の教室へ向かった。
研究のことを考えなかったのは、ほんの十分ほどだった。
それでも頭の中が少し軽くなった。
◇
夕方、生活観測区画へ戻ると、子供は朝とは違う紙を一枚だけ机に残していた。
「どうだった?」
アリシアが隣へ座る。
「端から合わせたら、昨日よりずれた」
「どっち?」
「両方。でも、交差一と接近一の方は向きがまだ近い」
「交差二と接近二は?」
「思ったより違った」
子供は紙の上を指した。
線そのものを重ねると近く見えた。
しかし、箱の縁からの位置を基準に縮尺を補正すると、交差二から延びる方向と接近二候補の向きには、昨日考えていたより大きな差が出たらしい。
「じゃあ、つながらない?」
「まだ書かない」
子供は首を振る。
「途中で曲がるかもしれないし、写した場所がちょっと違うかもしれない。でも、“向きが近い”は弱くする」
「うん」
「交差一と接近一は、“向きが近い候補”のまま」
「箱、開けたくなった?」
子供は棚の木箱を見る。
少しだけ長く見てから、アリシアへ戻った。
「なった。でも今日は開けない」
「どうして?」
「紙のずれがまだあるから。箱見ても、どこ見ればいいか増えそう」
その答えに、アリシアは静かに頷いた。
「そっか」
「アリシアは?」
「何が?」
「今日、研究した?」
「した。でも刺激はしてない」
「何見たの?」
「時間」
「時計?」
「時計みたいなの」
アリシアは少し考えた。
「同じ時間だと思ってたのが、本当に同じか見た」
「同じじゃなかった?」
「完全には」
「じゃあどうするの?」
「明日から、幅で見るかも」
子供は首を傾げたが、それ以上説明を求めなかった。
「そっか」
それだけ言い、自分の紙へ「交差二―接近二 向き近い? →前より弱い」と書き足した。
アリシアはその横顔を見てから、自分も練習帳を開いた。
◇
夕食後、顔のない存在は窓際の椅子から自分で立ち上がった。
近くに職員はいたが、手は出さない。
身体を少し前へ傾け、最初の一歩を出す。
そのまま二歩目。
そこで長く止まった。
子供は石を並べる手を止めて見ていたが、数を声には出さなかった。
顔のない存在はしばらく立ったまま身体を保ち、それからもう一歩だけ進んだ。
合計三歩。
歩き終えると椅子へ戻る。
胸元には淡い光がいくつか見えていたが、アリシアは位置を追わなかった。
職員が通常の観測記録だけを残している。
昨日と同じ三歩だったからといって、同じ状態とは限らない。
違う歩数なら進歩や後退というわけでもない。
今は、歩いた。
休んだ。
それだけでいい。
◇
夜。
窓の外では風が弱まり、虫の声が途切れず続いていた。
アリシアは机に向かい、今日の研究記録を整理した。
『反応あり七回の時間関係を見る前に、三種類の記録の時間精度を確認した』
続けて、東側奥部の観測装置、西側の記録装置、自分の申告について、それぞれ短くまとめる。
『東側の記録にも装置内部の遅れ幅がある。西側は記録方式が違い、開始時刻の幅がさらに大きい。私の感覚は、感じ始めた時点と最初の言葉、冷感として言えた時点が一致しないことがある』
そこで一度筆を止めた。
今日、一番大きかったのはこの先だ。
『だから、三つを一本ずつの時刻線として並べて順番を決めない』
もう一行。
『まず七回それぞれで、東側追加低下の時間窓、私の申告窓、西側遅延弱波形の時間窓を作れるか確認する。窓が重なるところは順番不明のままにする』
アリシアはその文章を読み返した。
昨日より答えから遠ざかったようにも見える。
昨日までは、
東側が動く。
自分が感じる。
西側が応じる。
そんな順序を薄く思い描いていた。
今日、それは崩れたわけではない。
ただ、まだ線として描けるほど確かではないと分かった。
東側と自分の感覚が近すぎれば、どちらが先かは決められないかもしれない。
西側は比較的後ろに見えるが、どれほど遅れているのかを比べるには装置の処理幅を含める必要がある。
分からないものが増えた。
けれど、不思議と昨日ほど残念ではなかった。
「ノア」
『何?』
寝台の上で丸くなっていた黒猫が片目を開ける。
「私、東側が先だと思ってた」
『知ってる』
「言ってた?」
『言葉にしてなくても、だいたい顔に出てたわよ』
「どんな顔?」
『“まだ決めてません”って言いながら八割くらい決めてる顔』
「そんな顔ないよ」
『あるわ』
アリシアは頬へ触れた。
「今日、なくなった?」
『少し』
「少しだけ?」
『全部なくなったって言ったら、あなた明日また別の何かを八割決めるでしょう』
「……するかも」
『でしょうね』
否定できなかった。
アリシアは笑い、練習帳の日常欄へ移った。
『朝、ノアの干し肉を買った。おいしいとは言わなかったけど、おいしかったらしい』
『勝手に推測欄へ入れないで』
「悪くないって二回言った」
『事実ね』
「すぐ食べた」
『それも事実』
「残りの包みずっと見てた」
『……見てない』
「見てた」
『その記録は削除しなさい』
アリシアは笑いながら、消さずに残した。
その下へ、午後に大きな布を運んだことも書く。
頼まれて、持った。
階段を上がった。
皆で先生が転んだ話をして笑った。
それだけの出来事だった。
けれど、アリシアにとっては、誰かに混ざるための準備をしなくても自然に手を伸ばせた時間だった。
最後に子供の記録を書く。
『箱は閉じたまま。箱縁基準で紙の縮尺を再確認。交差二と接近二の方向類似は前より弱くなった。交差一と接近一は方向的に近い候補を維持。ただし、どちらも接続とはしない』
交差三候補は今日も触れていない。
短い線候補も残っている。
急ぐ理由はなかった。
◇
翌日のための研究用紙が一枚だけ、練習帳の横へ置かれていた。
上には三本の横長の帯が描かれている。
東側奥部。
アリシア。
西側。
まだ何も塗られていない。
明日、まず一回分だけ試す予定だった。
七回を一度に並べない。
一つの反応あり記録を選び、当時の装置精度と申告内容から、それぞれの「起きた可能性がある時間の幅」を作る。
その三本が離れているのか。
重なるのか。
重なったなら、そこに勝手な順番を書かない。
一回で方法を確かめてから、次へ進む。
アリシアは白い三本の帯を見つめた。
昨日までは、そこへ三つの点を置くつもりだった。
点なら順番を決められる。
けれど、本当は幅がある。
幅が重なれば、どちらが先か分からなくなる。
それは不便だった。
少し悔しくもある。
でも、分からない順番を分かったことにするよりいい。
「明日、一個だけだね」
『七個全部やらないの?』
「やらない」
『本当に?』
「一個作って、作り方が変じゃないか見る」
『まともね』
「干し肉もうあげないよ」
『急に褒め言葉への罰が重くない?』
「あとで一個だけ」
『なら許す』
アリシアは灯りを少し落とした。
三本の白い帯は、まだ何も教えてくれない。
東側が先なのか。
六つ目の感覚が先なのか。
ほとんど同時なのか。
西側は本当にどれほど後なのか。
答えは一つも書かれていなかった。
けれど明日は、その空白へ答えを書く日ではない。
どこまでなら書いてよくて、どこから先はまだ書いてはいけないのか。
その境目を、一回分の記録から確かめる。
アリシアは空白の三本を残したまま練習帳を閉じた。
順番を知りたい気持ちは消えていない。
だからこそ、急いで順番を作らない。
今はそれが、六つ目へ近づくための一番遠回りではない道だと思えた。




