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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第203話 七回に共通するものを探すなら、二回の無反応も同じ机から退けない


 翌朝、生活観測区画の窓から見えた空には、昨日までの雨雲がまだ薄く残っていた。


 夜のうちに雨そのものは止んでいる。庭の草には細かな雫が残り、石敷きの隙間にはところどころ浅い水が溜まっていたが、東の空には雲を透かした白い光が広がっていた。窓を少し開けると、濡れた土と葉の匂いを含んだ冷たい風が入り、夜のあいだ閉じていた部屋の空気をゆっくり入れ替えていく。


 アリシアは寝台の端へ腰掛けたまま、胸へ軽く手を当てた。


 昨日の冷たさは残っていない。


 痛みもなく、呼吸も普通だった。人工刺激を受けた翌日に感じることのある腕の重さもほとんどなく、身体だけを見れば学院へ普通に通える朝だった。


「今日は試験しないよね」


 独り言に近い声だったが、窓辺にいたノアの耳が動いた。


『昨日やったばかりでしょう』


「うん。だからしないと思う」


『分かってるのに聞くの?』


「確認」


『誰に?』


 アリシアは少し考えた。


「ノア?」


『私に試験日程の決定権があると思ってたの? 初耳だわ』


「ないけど」


『じゃあ確認になってないでしょう』


 もっともだった。


 アリシアは少し唇を尖らせながら立ち上がり、制服を手に取った。


 昨日は比較可能な試験が一つ増えた。


 後半寄りの意図的小変動。


 東側奥部の小さな追加低下。


 胸の中央よりわずかに右側に感じた弱い冷たさ。


 そして、その後に西側で確認された遅延弱波形。


 これで、比較可能な人工試験は十三回。


 滑らかな十呼吸は四回すべてで三つの下流反応が確認されず、意図的小変動を入れた九回では七回が反応あり、二回が無反応になった。


 昨夜もそこまでは練習帳へ書いた。


 けれど、数字が一つ増えたからといって、今日すぐ十四回目を加えたいとは思わなかった。


 昨日の一回を、十二回までの記録と並べたい。


 特に、反応があった七回だけではなく、無反応だった二回も同じ場所へ置いて見たい。


「今日は見る方がやりたい」


 着替えながらアリシアが言う。


『何を?』


「昨日のと、前の全部」


『十三回全部?』


「最初から細かくは見ないよ」


『ちょっと安心した』


「何で?」


『あなた、“全部見る”って言ったあと、本当に全部一日で見ようとすることあるから』


 否定しようとして、アリシアは口を閉じた。


 以前ならやっていたかもしれない。


「……今日はしない」


『それなら結構』


「でも、七回に共通するものは見たい」


『また“一個の原因”探しに戻る気?』


「違う」


 アリシアは制服の襟を整えながら、少し考えてから続けた。


「七回だけ見て共通してても、二回にもあったら分けるものじゃないでしょ。だから二回も一緒に見る」


 ノアはしばらく黙っていた。


『朝からちゃんとしたこと言われると調子狂うわね』


「褒めてる?」


『一応』


「一応いらない」


『じゃあ取り消す?』


「それも嫌」


『面倒くさい』


 アリシアは返事の代わりに枕を軽く投げた。


 ノアは難なく避けた。


     ◇


 朝食を終えたあと、子供は共用机に昨日の紙を広げていた。


 木箱は棚の上に置かれたまま、今日も閉じている。


 机にあるのは交差一、交差二、接近一、接近二を写した複数の紙と、縮尺を合わせるために使った薄い補助紙だった。


 アリシアが隣へ座ると、子供は接近一と接近二を別々の紙へ置いた。


「今日は何するの?」


「こっちとこっち、向きだけじゃなくて、離れ方見る」


「離れ方?」


「交差から線が出てるでしょ」


 子供は交差一の一方向を指でなぞる。ただし、確認済みの線を越えたところでは指を止めた。


「接近一が同じ線だったら、ここからここまで何もないところがある」


「うん」


「交差二と接近二も同じだったら、何もないところがある。でも長さが違う」


 アリシアは紙を覗き込んだ。


 昨日まで、方向が近いかどうかを中心に見ていた。


 今日はその間にある未確認部分の長さへ目を向けたらしい。


「じゃあ、どっちかはつながらない?」


「まだ分かんない」


 子供はすぐに首を振った。


「紙の写し方も違うし、途中で曲がるかもしれない。あと、見えてないだけで線あるかもしれない」


「そっか」


「だから今日は長さ書くだけ」


 紙の端にはすでに、小さな文字で「空いているところの長さは同じではない」と記されていた。


 その下には、


『つながるかどうかとは別』


 とある。


 アリシアはその一文を見て、少し笑った。


「何?」


「ううん。ちゃんと別にしてるなって」


「先生が、違うもの一緒にしない方がいいって」


「うん」


「アリシアもやってる?」


「今日はやる」


「昨日は?」


「昨日もたぶんやった」


「たぶん?」


「ちゃんとやった」


 子供が疑わしそうに見る。


 足元からノアの声がした。


『本人が一番信用されてないわね』


「ノアは黙ってて」


 子供が笑い、アリシアも結局つられて笑った。


 木箱を開けたい気持ちについて尋ねると、子供は少し考えてから「あるけど、今日は紙でいい」と答えた。数字を求めなくても、その言い方だけで今すぐ開けたいほどではないことが伝わってくる。


 アリシアもそれ以上聞かなかった。


 箱は閉じたまま。


 交差三候補も今日は触らない。


 短い線の候補も、まだ別の日に残されている。


 進んでいないように見えても、紙の上では少しずつ「分かっているところ」と「分かっていないところ」の境目が整っていた。


     ◇


 学院へ着く頃には雲がかなり薄くなっていた。


 昨日まで雨に濡れていた中庭では、用務員たちが水の溜まった場所へ砂を足している。校舎の窓もいくつか開け放たれ、廊下には乾き始めた木と湿った石の匂いが混ざっていた。


 アリシアが教室へ入ると、昨日髪紐を貸した女子生徒がすでに席にいた。


 しかも、髪紐はまだ髪についている。


 アリシアは立ち止まった。


 女子生徒が気づく。


「あ」


「……まだ使ってる」


「忘れてた」


「昨日返すって言った」


「帰りに返そうと思って、そのまま帰った」


「今返して」


「ちょっと待って。今日も髪まとまらないの」


 女子生徒は両手で髪を押さえながら、本気で困った顔をする。


 アリシアはしばらく相手を見た。


「じゃあ帰るまで」


「ありがとう!」


「二日目だからね」


「分かってる。明日は絶対返す」


「今日返して」


「そうだった」


 近くで聞いていた男子生徒が吹き出した。


「もうそれ、あげた方が早くない?」


「やだ。気に入ってるから」


「なら貸すなよ」


「困ってたから貸したの」


「アリシア、そういうとこ真面目だよな」


「何が?」


「貸した物は返してほしいけど、困ってたらまた貸すとこ」


 言われてみると、確かに少し矛盾している気がする。


 けれど、返してほしいことと、今困っている相手へ貸すことは別だ。


「別に変じゃないよ」


「うん、変じゃない」


 女子生徒は髪紐を指先で触りながら笑った。


「だから今日だけもう一回借りる」


「帰りに絶対ね」


「はいはい」


「“はい”一回」


「厳しいなあ」


 教室の周囲では、別の生徒たちも朝の準備を進めている。椅子を引く音、教科書を机へ置く音、窓際で昨日の雨について話す声が重なり、アリシアたちのやり取りもその中へ自然に溶けていった。


 誰かと話すために勇気を数えることはなかった。


 返してほしいものを返してと言うことにも、以前ほど身構えなかった。


 それは大きな出来事ではない。


 だからこそ、アリシアには少し嬉しかった。


     ◇


 午前の授業は文章読解だった。


 短い記録文を読み、書き手が直接書いている事実と、そこから読み手が推測できることを分ける。


 教師が黒板へ二つの欄を作った。


「今日は、書かれていることと、読んだ側が考えたことを混ぜない練習をします。簡単そうに見えますが、意外と混ざります」


 教室の後ろから誰かが「先生も混ざりますか」と尋ねる。


「混ざります。だから確認するんです」


 その答えに小さな笑いが起こった。


 配られた文章には、旅人がある村へ到着した日の様子が書かれている。


 道が濡れていた。


 宿の主人が火を強くした。


 旅人の靴には泥がついていた。


 空は夕方まで暗かった。


 そこから「雨が降っていた」と考えるのは自然だが、本文には実際に雨が降ったとは書かれていない。


「前の日の雨かもしれないしね」


 隣の女子生徒が小声で言う。


「雪が溶けたかもしれない」


 アリシアが返す。


「季節書いてないもんね」


「川があふれた可能性もある」


「それは村が大変じゃない?」


「可能性はある」


「広げすぎ」


 二人で笑いを堪える。


 教師が机の間を歩きながら、生徒たちの紙を確認していく。


 アリシアは「本文にあること」と「考えられること」の欄を埋めていった。


 途中、一瞬だけ研究の記録が頭をよぎる。


 意図的小変動がある。


 東側奥部の追加低下がある。


 自分が弱い冷たさを感じる。


 西側に遅れた波形がある。


 そこまでは記録。


 その間に何が起こっているかは、まだ考えられること。


 けれど、アリシアはその連想を紙へ書かなかった。


 これは授業の課題だ。


 旅人と村の文章を読む時間であって、自分の研究を整理する時間ではない。


 代わりに、本文に「宿の主人が火を強くした」とあることから「寒かった」と断定してよいかを考えた。


「料理かもしれない」


 アリシアが呟く。


「え?」


「火を強くしたの、寒いからじゃなくて料理かもしれない」


 同じ班の男子生徒が文章を見直す。


「確かに。夕飯作ってた可能性あるな」


「じゃあ“寒かった”は推測?」


「たぶん」


 三人で相談していると、教師が足を止めた。


「良いところに気づきましたね。火を強くした理由は本文にはありません。寒かった可能性はありますが、それを事実欄へ置くことはできません」


 女子生徒が小さく胸を張る。


「私たち正解」


「アリシアが気づいたんだけど」


「班だから私たちでいいの」


「そういうもの?」


「そういうもの」


 アリシアは少し笑い、答案の推測欄へ「寒かった可能性」と書いた。


 授業が終わる頃には、窓から差し込む光が朝より明るくなっていた。


     ◇


 昼前、研究室へ向かう廊下でサーラと合流した。


 今日は試験を行わない。


 そのことは正式に確認された。


「昨日の記録整理と、十三回全体の再配置を行います。ただし、一回ずつ最初から精査するのではなく、まず現在の固定項目で一覧を確認します」


「うん。私もそれがいい」


 アリシアは歩きながら答えた。


「反応あり七回だけじゃなくて、無反応二回も同じ表に置く?」


「もちろんです。滑らかな四回も外しません」


「よかった」


 サーラが横目で見る。


「外すと思いましたか?」


「思ってない。でも、言いたかった」


「では言えてよかったです」


 研究室へ入ると、すでに大きな机の上へ十三枚分の要約記録が用意されていた。


 ただし、以前のように大量の紙を無造作に並べてはいない。


 比較項目だけを抜き出した一覧と、必要なときだけ詳細へ戻れる原記録。


 机の中央には、入力側の五項目と下流三項目を記した大きな表が置かれている。


 学院長、副学院長、魔導具教師、安全管理担当、若い観測員も揃っていた。


「始める前に一つ確認しておきます」


 学院長が言った。


「今日は、新しい条件を決める日ではありません」


 アリシアは頷く。


「十三回を見て、次に何を比べるといいか考える日?」


「そこまでは構いません。ただし、今日見つけた違いを、その場で新しい刺激条件へ変換しないという意味です」


「分かった」


「特に、反応あり七回だけに共通する特徴を見つけたように思えても、無反応二回と滑らかな四回を確認するまでは判断を保留します」


「うん」


 ノアがアリシアの椅子の横で座り込んだ。


『朝言ってたことと同じね』


「そうだよ」


『先に先生に言われなくてよかったわね』


「ノア、今日ちょっと意地悪」


『いつもでしょう』


「それはそう」


 若い観測員が笑いを堪え、すぐ記録へ視線を戻した。


     ◇


 最初に見たのは、下流三項目だった。


 これは最も単純だった。


 滑らかな四回では、東側奥部の比較可能な追加低下なし、アリシアの確認された六つ目由来候補の冷感なし、西側の比較可能な遅延弱波形なし。


 意図的小変動あり九回のうち、七回では三項目がまとまって確認され、二回では三項目とも確認されていない。


 その表を見たアリシアは、以前よりも強く奇妙さを感じた。


「一個だけ出た回、ないんだね」


「現在の比較可能な十三回ではありません」


 サーラが答える。


「東側だけ出て私が感じなかったとか、私だけ感じて西側が出なかったとか」


「この整理対象ではありません。ただし、過去の低解像度記録や条件の異なる記録まで含めれば、単純には扱えない例があります」


「うん。昔のをここに混ぜない」


 アリシアは自分で言ってから、表へ目を戻した。


 十三回の範囲では、三つはまとまっている。


 それは以前から見えていた。


 今日の一回を加えても崩れなかった。


 だからといって、三つが同じ現象だとは限らない。


 どれが先かも決められない。


 ただ、人工的に作った入力の違いより、下流側三項目のまとまりの方が今のところ強く見える。


「ここは変わってないね」


「はい」


「じゃあ次、入力?」


 魔導具教師が表を一段ずらした。


 立ち上がり時間。


 戻り時間。


 固定された直前窓内の自然揺れの数と大きさ。


 そして、東側奥部の開始状態として平均傾斜と変動幅。


 この五つは、結果を見てから都合のいい違いを探さないために、前もって固定した項目だ。


 まず、反応あり七回だけを囲まない。


 十三回すべてを同じ順序で見る。


 アリシアは表の左端からゆっくり視線を動かした。


「立ち上がり……反応ありでも少し違う」


「そうですね」


「無反応二回も、反応ありの範囲からすごく外れてるわけじゃない」


「少なくとも、立ち上がり時間単独で明確に分離する形ではありません」


 次に戻り時間を見る。


 ここにも違いはある。


 しかし、反応あり七回だけが一方へ集まり、無反応二回だけが別の場所へ離れているわけではない。


「前に、丸さとか戻り方が気になったよね」


 アリシアが言う。


「はい。ただし“丸さ”は独立した固定指標にはしていません」


「結果見てから増やさない」


「そのままです」


 アリシアは少し残念だった。


 何か一つくらい、きれいに分かれていてほしい気持ちはある。


 昨日反応が出たことで、その期待はむしろ少し戻っていたのかもしれない。


 七回も反応したのなら、七回だけにある特徴が見つかるのではないか。


 そんな気持ちが、表を見る前からどこかにあった。


 けれど、立ち上がり時間は違う。


 戻り時間も違う。


 どちらにも重なりがある。


 アリシアは膝の上で指を組み直した。


「ちょっと、綺麗じゃなくて嫌」


 誰に向けるでもなく言う。


 学院長は慰めなかった。


 サーラも「でも良いデータです」とすぐには言わない。


 アリシアがその嫌さを自分で眺める時間を残してくれた。


「七回あるから、もう少し同じだと思ってた」


 しばらくして、アリシアは続けた。


「反応した七回の入力が、もっと似てると思ってた」


「そう期待していたんですね」


「うん」


「今見えている範囲では、完全には揃っていません」


「……うん」


 残念だった。


 けれど、昨日の無反応ではない。


 今日は予想を外されたというより、自分が欲しかった整った形が最初からなかったことを見せられている。


 その違いは小さいようで、アリシアにはかなり違って感じられた。


「次見よう」


 自分から言えた。


     ◇


 直前自然揺れの項目へ進む。


 固定窓の中で確認された小さな揺れの数と、そのおおよその大きさ。


 反応あり七回には、揺れがほとんどない回もあれば、一回ある回も、複数の小さな揺れが記録された回もある。


 無反応二回も同じだった。


 一方には小さな揺れが複数あり、もう一方には一回だけ。


「これも分かれない」


 アリシアが言った。


「少なくとも数だけでは」


 魔導具教師が指先で表を追う。


「大きさを含めても、現段階で二群を明確に分けるとは言えません」


「間隔は?」


 尋ねた瞬間、アリシアは口を閉じた。


 以前の古い記録で、自然揺れ同士の間隔が候補になったことがある。


 しかし、それは今の固定項目には含めていない。


「……今増やしたら駄目だね」


「詳細記録には残っています」


 魔導具教師が穏やかに答える。


「後日、別の解析項目として事前に定義してから見ることはできます。ただ、今日の十三回を見て都合よく分けるために使うべきではないでしょう」


「うん」


 アリシアは少し息を吐いた。


 気になる。


 見たい。


 でも、見られることと、今見るべきことは同じではない。


 次は東側奥部の開始状態。


 平均傾斜。


 以前、アリシアが最も期待した項目だった。


 強く下向いていた無反応回。


 比較的平坦だった反応回。


 そこから一度、「平らなら反応しやすいのではないか」と思った。


 ところが、その後に平坦寄りでも反応しない回が出た。


 昨日は完全な平坦ではなく、わずかに下向いていたのに反応した。


 十三回を並べれば、その崩れ方はさらに分かりやすかった。


「……混ざってる」


 反応あり七回の中にも傾きの違いがある。


 無反応二回のうち一回は強めの下向き。


 もう一回は平坦寄り。


 滑らかな四回にも、それぞれ異なる開始状態がある。


「平均傾斜だけなら、反応ありと無反応を一本の線で分けられないね」


「現状ではそうです」


 副学院長が答えた。


「変動幅も同様です。大きいから反応する、小さいから反応しないという並びではありません」


 アリシアは表の上へ視線を置いたまま、しばらく動かなかった。


 五つ。


 結果を見る前に決めた五つの項目。


 そのどれも、一つだけでは七回と二回をきれいに分けてくれない。


 以前なら、そこで五つを組み合わせたくなったかもしれない。


 傾斜がこのくらいで、揺れが一回で、戻りが遅ければ反応する。


 そうやって条件を足していけば、九回くらいなら何かしらの規則を作れてしまう気がする。


 けれど、それは危ない。


 目の前の九回に合う形を後から作っただけかもしれない。


「組み合わせれば、何か作れそう」


 アリシアが言った。


 若い観測員が顔を上げる。


「はい。作ろうと思えば、かなり多く作れると思います」


「だから今日は作らない?」


「私は、その方がいいと思います」


 アリシアは頷いた。


「私も」


 それでも、少し悔しかった。


 七回もあるのに。


 二回と違うものが、どこかにあるはずなのに。


 そう思ってしまう。


 アリシアはその気持ちを隠さず、机の端を指先で軽く撫でた。


「違うものがあるはずって思うのも、もう予想なんだよね」


 サーラがすぐには答えなかった。


「少なくとも、“今記録している五項目の中に必ずある”とは決まっていません」


「そっか」


「装置でまだ見ていない状態があるかもしれません。複数の要素が関係するかもしれません。あるいは、現在の差の一部が自然変動の範囲かもしれません」


「六つ目の側にも、まだ測ってない何かがあるかもしれない」


「可能性としてはあります。ただし、今それを原因として置くこともできません」


「うん」


 答えが見つからないから、見えない何かを答えにしない。


 それも今まで何度も学んだことだった。


     ◇


 休憩を挟んだ。


 研究室を出ると、午後の日差しが廊下へ伸びていた。


 昨日の雨が嘘のように明るい。


 アリシアは窓辺で水を飲み、しばらく中庭を眺めた。


 生徒たちが昼休みの残り時間を使って歩いている。濡れていた地面はかなり乾き、端の方にだけ水溜まりが残っていた。


「疲れた?」


 サーラが尋ねる。


「身体は平気。頭がちょっと疲れた」


「今日はここで終えても構いません」


「もう少し見る」


「どこまで?」


 以前なら「全部」と答えていたかもしれない。


 アリシアは研究室の扉を振り返った。


「前半と後半を全部細かくやるのはしない。今日の十三回を見て、次に何を見るか一個決めるところまで」


「分かりました」


「でも刺激の条件は増やさない」


「はい」


 そこまで言ってから、アリシアは少し笑った。


「同じこと何回も確認してるね」


「重要なことなら、確認して構いません」


「ノアならしつこいって言う」


『聞こえてるわよ』


 足元から声がした。


 いつの間にかノアが追いついている。


「言う?」


『今回は言わない』


「珍しい」


『同じ失敗をしないための確認と、同じ説明を何度もするのは別でしょう』


 アリシアは目を瞬いた。


「ノアがちゃんとしたこと言った」


『失礼ね』


 サーラが小さく笑い、三人で研究室へ戻った。


     ◇


 午後の後半は、十三回を条件位置で分けるところから始めた。


 滑らかな四回。


 前半寄りの意図的小変動。


 後半寄りの意図的小変動。


 すでに前半寄りにも反応ありと無反応があり、後半寄りにも反応ありと無反応がある。


 つまり、小変動を入れる位置だけでも結果は決まらない。


 この点は前の比較で確認済みだ。


 今日はそこから先へ無理に進まず、「反応ありの前半」と「反応ありの後半」に共通するもの、「無反応の前半」と「無反応の後半」に共通するものを、固定項目だけでざっと見た。


 しかし、やはりきれいには揃わない。


「前半と後半をまたいでも、反応あり七回だけの共通した数字はない」


 アリシアが言う。


「少なくとも、今の五項目を一つずつ見た範囲ではありません」


「じゃあ、位置を越えて反応あり同士を比べるなら……」


 そこで止まる。


 何を比べるべきなのか。


 今の五項目では足りない可能性がある。


 だからといって、新しい項目を思いつくまま増やしたくない。


 若い観測員が表を見ながら言った。


「一つ案があります。ただし、新しい測定項目ではありません」


 アリシアが顔を上げる。


「何?」


「今までは入力側の五項目を中心に反応あり・なしを分けようとしていました。でも、下流三項目が揃うこと自体はかなり一貫しています。次は、反応あり七回について、東側奥部の追加低下が始まるまでの時間帯を、既存記録の範囲で揃えて見直すのはどうでしょう」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 追加低下が起きるかどうかではなく、起きた七回の中でどの程度の時間関係があるかを見る。


 ただし、それを新しい原因探しに使うのか。


「それ、結果見てから増やす項目にならない?」


「なります。ですから今日すぐ解析には入りません」


 若い観測員は続けた。


「次の解析を始める前に、何をどう測るか定義する必要があります。それに、装置の時間分解能で意味のある比較ができるかも先に確認しなければなりません」


「私の申告時間は?」


「それはさらに注意が必要です。感覚が生じた時点と、言葉にした時点は同じではありません」


「うん」


 アリシアは椅子へ深く座り直した。


 面白そうだった。


 東側奥部の追加低下。


 自分の弱い感覚。


 西側遅延弱波形。


 三つが反応あり七回でまとまるなら、その時間関係をもう少し見たい。


 けれど、今すぐ開きたい気持ちと、今開くべきかは別だ。


「今日は案だけ?」


「はい」


「じゃあ、それが本当に測れるか確認してからにしたい」


「賛成です」


 魔導具教師が頷く。


「特に東側奥部と西側の記録系は同じ精度ではありません。見かけ上の数呼吸差を、そのまま物理的な遅延と扱わないための確認が必要です」


「私の言った時間ももっとずれる」


「そうです」


「じゃあ、三つの順番を決めるためじゃなくて……まず、どこまでなら比べていいか決める?」


「それが先でしょう」


 アリシアは練習帳へ短く書いた。


『次候補:反応あり七回の下流三項目の時間関係。ただし先に記録精度と比較可能範囲を決める。順番を決めるために急がない』


 書き終えてから読み返す。


 原因ではない。


 答えでもない。


 次に見てもよさそうな場所が一つ増えただけだ。


 それくらいが、今はちょうどよかった。


     ◇


 研究室を出る頃には、授業を終えた生徒たちが校舎から出始めていた。


 アリシアが中央廊下を歩いていると、朝の女子生徒が向こうから手を振った。


「あ、いた!」


「髪紐」


「第一声それ?」


「返すって言った」


「分かってるって」


 女子生徒は笑いながら髪をほどいた。


 細い紐が外され、少し癖のついた髪が肩へ落ちる。


「はい。二日間ありがとう」


「うん」


 受け取った髪紐は少し温かかった。


 アリシアは鞄へしまおうとして、女子生徒が何か持っていることに気づく。


「それ何?」


「これ?」


 小さな紙袋だった。


「お礼」


「髪紐だけだよ?」


「二日借りたから」


「いらない」


「もう買ったから受け取って」


 中には小さな焼き菓子が二つ入っていた。


「一個はノアに――って思ったけど、猫に甘いの駄目か」


『私は?』


 足元から即座に声が飛ぶ。


「ごめん、ノア。アリシアが二個食べて」


『理不尽』


「私が悪いの?」


「じゃあ一個ずつ……は駄目だよね」


『その気持ちだけ受け取っておくわ』


 ノアが妙に大人びた返事をし、女子生徒が笑った。


「今度、猫用の何か探しとく」


『話が分かるじゃない』


「ノア、急に態度変わった」


『当然でしょう』


 アリシアは紙袋を両手で持った。


「ありがとう」


「こっちこそ。また困ったら貸して」


「私のを?」


「うん」


「何で私が言うの?」


 二人で笑った。


 そこへ別の生徒が「帰るよ」と女子生徒を呼び、彼女は手を振って走りかける。


 数歩進んだところで、昨日入口の職員に注意されたことを思い出したらしく、急に歩きへ変わった。


 アリシアはそれを見て、また笑った。


 今日は研究室で何時間も数字を見た。


 七回と二回を比べた。


 綺麗な境界は見つからなかった。


 それでも、校舎を出るときに手の中に残っていたのは研究記録ではなく、髪紐と小さな焼き菓子だった。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は紙を片づけ終えていた。


 代わりに昨日の石が床へ並んでいる。


「接近二、終わった?」


 アリシアが尋ねる。


「今日は終わり」


「何か分かった?」


「近いけど同じじゃない」


「向き?」


「向きと、空いてる長さ。だから“つながるかも”は残すけど、“つながってる”にはしない」


「うん」


 子供はそこで、アリシアの持つ紙袋へ気づいた。


「それ何?」


「もらった」


「お菓子?」


「うん」


「二個ある」


 視線が露骨だった。


「……一個食べる?」


「いいの?」


「ノアは食べられないから」


『その言い方、私の分を奪われたみたいで腹立つわね』


「最初からノアのじゃないよ」


「半分にする?」


 子供が尋ねる。


 アリシアは紙袋の中を見た。


 二つとも小さな丸い焼き菓子だ。


「一個ずつでいいよ」


「いいの?」


「うん」


 二人で一つずつ取る。


 子供はすぐには食べず、匂いを嗅いだ。


「甘い」


「たぶん」


「アリシアの友達がくれた?」


 その言葉に、アリシアの手がほんの少し止まった。


 以前なら「友達」という言葉だけで胸の中が大きく揺れた。


 今も嬉しくないわけではない。


 ただ、確認する必要はもうなかった。


「うん。髪紐貸したお礼だって」


「そっか」


 子供はそれ以上何も言わず、焼き菓子を一口食べた。


「おいしい」


「よかった」


 アリシアも食べる。


 外側が少し硬く、中は柔らかい。香ばしい匂いのあとから、穏やかな甘さが広がった。


 顔のない存在は少し離れた椅子に座っていた。


 子供がそちらを見る。


「これは食べられない?」


 職員が首を振る。


「今はまだ、こちらが安全だと確認したもの以外はやめておきましょう」


「分かった」


 子供は無理に勧めなかった。


 代わりに、自分の焼き菓子を見せるように少し持ち上げる。


「甘いよ」


 顔のない存在から返事はない。


 それでも胸元の淡い光が、呼吸のようにわずかに揺れて見えた。


 アリシアは数えなかった。


     ◇


 夜、練習帳を開いたアリシアは、今日の研究欄を昨日より短くまとめた。


『十三回を同じ固定項目で一覧確認。下流三項目は、反応あり七回ではまとまり、無反応二回と滑らか四回ではまとまって出ていない』


 次の行。


『入力側五項目のどれか一つだけで七回と二回を分ける形は見つからない。組み合わせを後から作れば説明らしいものは作れそうなので、今日は作らない』


 さらに少し間を空けた。


『次に見る候補は、反応あり七回の東側追加低下・私の感覚・西側遅延波形の時間関係。ただし、先に記録精度と比較可能な時間幅を決める。私の申告には言葉にするまでの遅れがある。順番を先に決めない』


 筆を置く。


 今日見つかったのは、原因ではない。


 むしろ、今ある五つの数字では簡単に分けられないことの方がはっきりした。


 少し残念だった。


 その気持ちはまだ残っている。


 けれど、嫌ではなかった。


 七回に共通する何かを探したいなら、七回だけを見てはいけない。


 二回の無反応も、四回の滑らかな試験も、同じ机へ置いておかなければならない。


 それを今日は、自分からできた。


 アリシアは日常欄へ移った。


『髪紐が返ってきた。お礼に焼き菓子を二個もらった。子供と一個ずつ食べた。ノアは食べられなかった』


『余計な一文があるわね』


 寝台の上から声が飛んでくる。


「事実だよ」


『悪意を感じる』


「事実と考えたことは分けないと」


『今日の授業をそう使うのやめなさい』


 アリシアは笑った。


「ノアが食べられなかった、は事実」


『“かわいそうだった”って書いたら推測?』


「私がかわいそうって思ったなら、私の感想」


『思った?』


「……ちょっと」


『なら一個くらい猫用を用意しなさい』


「私がもらったお菓子なのに」


 ノアが不満そうに尻尾を振る。


 アリシアはその様子を見ながら、もう一行書いた。


『明日、売店でノアが食べられるものがあるか見る』


『素晴らしい研究成果ね』


「研究じゃないよ」


『知ってる』


 その返事が少し柔らかかった。


 アリシアは練習帳を閉じようとして、最後に今日の子供の記録を思い出した。


『接近二は交差二の一方向と向きが少し近いが、完全一致しない。未確認部分の長さも接近一側と同じではない。接続候補は残すが、接続とはしない。箱は閉じたまま』


 交差三候補も、短い線候補も今日は動いていない。


 顔のない存在については、窓辺で過ごしたことと、夕方に子供の方へ身体を向けていたことだけを簡単に残した。


 それで十分だった。


     ◇


 眠る前、アリシアは今日の大きな一覧表を思い返した。


 十三回。


 数字だけなら、まだ少ない。


 滑らかな四回。


 意図的小変動あり九回。


 反応あり七回。


 無反応二回。


 その七回だけを囲めば、何か答えらしいものが見える気がする。


 けれど、二回を外した瞬間に、その答えは都合のいいものへ変わる。


 アリシアはもう、それをしたくなかった。


 反応した日だけが正しい日ではない。


 感じられた日だけが価値のある日でもない。


 無反応だった二回は、六つ目が黙っていた失敗ではなく、七回と何が違うのかを問い続けるために必要な二回になっている。


 そして今日、五つの固定項目ではその違いを簡単に切り分けられなかった。


 だから次は、別の場所を見る。


 ただし、今度も結果を見てから都合よく物差しを作るのではない。


 まず、どこまでなら同じ時間として比べられるのかを決める。


 東側奥部の追加低下。


 自分の弱い感覚。


 西側の遅れた波形。


 三つが同時に現れるように見える七回の中で、本当にどこまで時間関係を比べられるのか。


 それを確かめるところから始める。


 答えを出すのは、そのあとでいい。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 枕元ではノアが丸くなる。


「明日、猫用のおやつ見に行く?」


『忘れなければね』


「忘れないよ」


『研究室に入ったら忘れそう』


「……先に売店行く」


『賢明ね』


 暗くなった部屋の中で、アリシアは少し笑った。


 明日は、七回の時間を比べるための物差しを考える日になるかもしれない。


 けれど、その前に売店へ寄る。


 どちらも明日の予定だった。


 今のアリシアには、それでよかった。

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