第202話 次の一回を始めるなら、昨日の普通の日まで置き去りにはしない
翌朝、アリシアが目を覚ましたとき、最初に耳へ入ったのは雨の音だった。
強く降っているわけではない。細かな雨粒が生活観測区画の窓を一定ではない間隔で叩き、ときどき風に押されて硝子の上を斜めに流れていく。昨夜まで庭に残っていた乾いた土の色はすっかり濃くなり、昨日子供と石を拾った辺りには浅い水溜まりがいくつもできていた。
寝台の中でしばらく外を眺めてから、アリシアは身体を起こした。
頭痛はない。
腕の重さもない。胸の奥に残っている冷たさもなく、深く息を吸ってみても苦しさは感じなかった。
昨日、サーラから設備側の確認が終わったと聞いている。
今日から、既存の条件を使った試験を再開できる。
だからだろう。まだ誰からも今日実施するとは言われていないのに、目を覚ました直後から胸の奥に小さな落ち着かなさがあった。
「……やりたいんだと思う」
自分で口にしてから、アリシアは毛布を退けた。
窓辺で丸くなっていたノアの耳が片方だけ動く。
『何を?』
「試験」
『朝一番にそれを言うなら、まあそうでしょうね』
「でも昨日はなくても平気だった」
『昨日平気だったことと、今日やりたいことは別でしょう。どっちかしか持てない決まりでもあるの?』
アリシアは寝台から足を下ろしながら、少し考えた。
「……ない」
『じゃあ終わり』
「早い」
『朝から難しくするほどの話じゃないもの』
ノアは大きく伸びをすると、窓枠から軽く床へ降りた。
アリシアも着替えを始める。
昨日、研究をしなかった時間が空白には感じなかった。
それは本当だ。
友達と食事をして、定規を貸して、授業で書きすぎて、子供と庭で石を拾った。夜には「普通の日だった」と練習帳へ書いた。
だからといって、六つ目について知りたい気持ちまで小さくなったわけではない。
今日試験ができるなら、参加したい。
何が起こるのか見たい。
その二つが同時にあっても、昨日を否定することにはならなかった。
◇
朝食の席では、子供が昨日拾った石を二つ持ってきていた。
食卓の上へ置こうとして職員に止められ、少し不満そうな顔をしている。
「食べるところだから、あとでね」
職員が苦笑しながら言うと、子供は石を両手に握ったまま椅子へ座った。
「汚れてないよ」
「昨日外にあった石でしょう?」
「洗った」
「洗っても石は食器ではありません」
「食べないよ」
「そういう意味ではないんです」
近くで聞いていたアリシアが笑う。
子供は納得していない顔のまま、石を椅子の横に置いた。
「あとで並べる」
「昨日の続き?」
「うん。ちょっと変える」
「何に?」
「まだ決めてない」
昨日も同じことを言っていた。
先に形を決めて、そのために石を集めているわけではないらしい。並べながら気に入った形を探している。
アリシアはスープを飲みながら、その石をもう一度見た。
昨日なら自分も一緒に庭へ出られた。
今日は雨だ。
「外行けないね」
「うん。でも石あるからいい」
子供はあまり残念そうではなかった。
窓の向こうでは雨が続いている。顔のない存在はその窓の近くの椅子へ座り、庭ではなく、硝子を流れる水滴の方へ身体を向けていた。
胸元には淡い光が見える。
アリシアは一度そこへ目を向けたものの、数えなかった。
昨日に続いて観測を放棄したわけではない。
必要な時間には観測員が確認する。
ただ、朝食のたびに自分まで何個光っているか数えなくてもいいと思えるようになっただけだった。
「今日は学院?」
子供が尋ねる。
「午前は行くよ」
「午後は?」
「分からない。試験があるかもしれない」
子供が少しだけ顔を上げた。
「やるの?」
「まだ決まってない。できるようにはなったって昨日聞いた」
「やりたい?」
「うん」
答えてから、アリシアは少し笑った。
「でも、やらなくても怒らない」
「怒ってたことある?」
「怒ってはない」
『顔には出てたけどね』
ノアが横から口を挟む。
「ノアは黙ってて」
『都合が悪いとすぐそれね』
子供が小さく笑った。
アリシアも言い返そうとして、結局笑ってしまう。
研究が始まるかもしれない朝でも、朝食は昨日と大きく変わらなかった。
◇
学院へ向かう頃には、雨脚が少し強くなっていた。
正門から校舎までの石畳には水が浮き、軒下へ入る生徒たちが傘代わりの防水布を畳んでいる。濡れた靴底が床を滑るため、入口では職員が何度も「走らないように」と声を張っていた。
アリシアも髪の先についた水滴を払い、中央廊下へ入る。
「アリシア!」
後ろから呼ばれて振り向くと、昨日定規を借りた女子生徒が駆けて――途中で職員に睨まれ、急に歩きへ変わった。
「……走るなって言われた」
「今言われてたね」
「聞こえてた?」
「かなり」
女子生徒は少し恥ずかしそうに濡れた前髪を指で直した。
「今日、髪ひどくない?」
「ちょっと」
「そこは嘘でも大丈夫って言ってよ」
「聞いたから」
「アリシア、最近そういう返しするようになったよね」
「嫌?」
「面白いからいい」
相手は笑いながら、自分の前髪をもう一度押さえた。
アリシアは少し迷ったあと、自分の鞄を探る。中には髪をまとめるための細い紐が一本入っていた。
「使う?」
「いいの?」
「帰るまででいいよ」
「昨日は定規で今日は紐。私、借りすぎじゃない?」
「じゃあ貸さない」
「待って、借りる」
差し出した紐を素早く取られ、アリシアは思わず笑った。
昨日の貸し借りが特別な出来事ではなく、そのまま今日へ続いている。
それが妙に心地よかった。
女子生徒は廊下の窓を鏡代わりにして髪を結びながら、「変じゃない?」と尋ねた。
「さっきよりいい」
「最初がひどかったってこと?」
「自分で言ってたじゃん」
「そうだけど、他人から言われると違うんだよ」
「難しい」
「そのうち分かるよ」
「何が?」
「こういうの」
結局何を指しているのかは教えてくれなかった。
アリシアも深く追及せず、二人で教室へ向かった。
◇
午前の授業は、基礎魔術の実習だった。
今日使うのは小さな発光板で、一定量の魔力を流し、指定された明るさをできるだけ長く保つ。強く光らせるだけなら簡単だが、一定の状態を維持するには細かな制御が必要になる。
実習室には雨の日特有の湿った匂いが残っていた。
窓は曇り、外の校庭も白っぽく霞んでいる。机の上には同じ形の発光板が並び、開始前から何人かの生徒が指先で触れながら「今日は壊さない」と冗談を言っていた。
「壊した人がいるの?」
アリシアが近くの男子生徒へ尋ねる。
「前の組で一人、明るくしすぎたらしい」
「壊れた?」
「先生が止めたから無事。でも、廊下まで光ったって」
「見たかった」
口にした瞬間、男子生徒が意外そうにこちらを見た。
「アリシア、そういうの好きなんだ」
「壊れるのは嫌だけど、廊下まで光るのはちょっと見たい」
「分かる」
近くの女子生徒も話へ入ってくる。
「先生には絶対言えないけどね」
三人が小声で笑っていると、少し離れた教壇から教師がこちらを見た。
「聞こえていますよ」
実習室のあちこちから笑い声が起こる。
アリシアは慌てて発光板へ視線を戻したが、教師は怒ってはいなかった。
「壊さない範囲で、きちんと光らせてください。見物目的で限界を試さないように」
「はい」
何人もの声が重なる。
実習が始まると、室内のあちこちに淡い光が灯った。
アリシアは最初、少し強く魔力を入れすぎた。発光板が指定より明るくなり、慌てて出力を落とす。
今度は暗くなる。
「難しい……」
隣から声がした。
「そっちも?」
「明るくなったり暗くなったりする」
「私も」
アリシアはもう一度呼吸を整えた。
魔力を流す量を大きく変えず、指先へ意識を置く。
光は少し揺れたが、先ほどより長く一定の明るさを保った。
「お、できてる」
男子生徒が覗き込む。
「まだちょっと揺れてる」
「俺の見てから言って」
隣の発光板は明るくなった直後に急に暗くなり、また明るくなっていた。
「……すごいね」
「その言い方絶対褒めてないだろ」
「廊下までは光ってないから大丈夫」
「朝の話引っ張るなよ」
また笑いが起きた。
教師が近づいてきたため、三人とも今度は真面目に手元へ集中する。
アリシアは何度か失敗しながら、最後には指定された時間のほとんどを安定した明るさで維持できた。
研究とは関係ない。
六つ目も使わない。
ただの授業だった。
それでも上手くできれば嬉しいし、失敗すれば悔しい。
昨日までなら、それをわざわざ意識しなければならなかったかもしれない。
今日は、終わってから初めて気づいた。
◇
授業後、アリシアが廊下へ出ると、サーラが待っていた。
研究室へ来るよう急かす様子はない。
壁際へ寄り、生徒の流れが途切れるまで待ってから声をかけてくる。
「午前の授業、お疲れさまでした」
「うん」
「少し時間がありますか?」
その言葉だけで、アリシアの胸がわずかに速くなる。
けれど、すぐに試験だと決めつけない。
「あるよ」
「今日の午後、既存条件で一回だけ試験を行う案が出ています」
予想していた言葉だった。
それでも実際に聞くと、身体の内側が少し熱くなる。
「やりたい」
答えはすぐ出た。
サーラは頷いたが、そのまま開始の話へは進まない。
「では、いつもの確認をします。今の身体状態を教えてください」
アリシアは自分の身体へ意識を向けた。
授業の疲れは少しある。
ただ、重いほどではない。
「身体の疲れは二。胸の冷たさはない。痛いところもないし、息苦しさもない。頭痛も震えもないよ。試験はやりたい」
「不安は?」
「二くらい。何になるか気になる方が大きい」
そこまで答え、アリシアは一度口を閉じた。
以前なら、「何になると思う?」と聞かれれば自分から予想を話していたかもしれない。
今日はサーラも尋ねない。
アリシアも言わない。
「条件、もう決まってる?」
「はい」
その一言で、胸の奥が少しざわつく。
アリシアはサーラの顔を見た。
表情から読み取ろうとしている自分に気づき、すぐ視線を外す。
「……やっぱり、それ以上聞かない」
「分かりました」
サーラも余計な反応を見せない。
「開始前に、もう一度確認します。それまでは昼食と休憩を優先してください」
「うん」
アリシアが頷くと、足元にいたノアが何も言わずに歩き出した。
試験条件が選ばれた。
それだけで、朝までの普通の一日が急に研究の日へ変わったような気がした。
けれど、その感覚は長く続かなかった。
昼食の時間になれば腹は減る。
髪紐を貸した友達とも約束がある。
試験は午後の一部であって、今日全部ではない。
◇
昼休み、女子生徒は借りた髪紐をつけたまま食堂へ来た。
「これ、楽」
席に座るなり髪を触る。
「返してね」
「分かってるよ。昨日から貸し借りに厳しくない?」
「私のだから」
「正しい」
もう一人の女子生徒が笑いながらスープを運んできた。
今日は三人とも同じ焼き魚の皿を選んでいる。
「午後、何あるの?」
何気なく聞かれ、アリシアは一瞬だけ迷った。
研究の細かな内容は話せない。
でも、全部隠す必要もない。
「学院の用事がある」
「また遅くなる?」
「たぶん少し」
「じゃあ帰りは別かな」
「うん」
それだけで会話は別の話題へ移った。
誰も詳しく聞かない。
アリシアも説明しようとしない。
その距離がありがたかった。
しばらくすると、向かいの女子生徒が焼き魚の皮を綺麗に剥がし始めた。
「食べないの?」
「皮苦手」
「おいしいのに」
「アリシア食べる?」
「人の魚の皮はいらない」
「じゃあこっち」
「私もいらない」
「人気ない……」
三人で笑う。
アリシアはその途中でも、午後の試験を完全に忘れてはいなかった。
何が選ばれたのか。
滑らかな十呼吸なのか、前半寄りなのか、後半寄りなのか。
意識を向ければ、予想したくなる。
けれど、予想を止めるために必死になる必要もなかった。
思い浮かんだら、それが予想だと気づけばいい。
答えに変えなければいい。
「どうしたの?」
女子生徒に聞かれ、アリシアは顔を上げた。
「魚の骨見てた」
「そんな真剣に?」
「大きいから」
「変なの」
アリシアは笑った。
本当は少し試験のことを考えていた。
でも、それを説明する必要もなかった。
◇
昼食後、生活観測区画へ戻ると、子供は朝の石を机いっぱいに並べていた。
昨日より形が変わっている。
円でも線でもなく、中央に少し広い空間を残し、その周囲へ石が置かれていた。
「これ何?」
「まだ決めてない」
「朝からずっと?」
「途中で線の紙も見た」
机の端には、交差一と接近一を写した紙が置かれている。
箱そのものは棚の上にある。
蓋は閉じたままだ。
「何か増えた?」
「増えてない」
子供は石を一つ動かした。
「昨日、交差一のこっちと接近一の向きが近いって書いたでしょ」
「うん」
「今日は接近二を見ようと思った。でも、先に紙を重ねたら大きさが少し違ってたから、合わせるところまでやった」
「接近二は?」
「まだ比べてない」
「そっか」
子供は紙を持ち上げる。
複写された線は、記録した時期や写し方によってわずかに縮尺が違う。昨日までにも分かっていたことだが、方向を比較するなら、その違いを無視できない。
「合わせるの難しい」
「先生に聞いた?」
「紙の大きさ合わせるところだけ手伝ってもらった。線は自分で見る」
「いいと思う」
「午後、接近二見る」
「今日?」
「うん。でも箱は開けない」
アリシアは頷いた。
そこで「私も見る」と言いそうになり、やめる。
午後は自分の試験がある。
「私は試験行くから、一緒に見られない」
「いいよ」
子供の返事はあっさりしていた。
「あとで教える」
「うん」
少し前なら、自分がいない間に何か進むことへ寂しさを感じたかもしれない。
今は、それぞれにやることがあると思えた。
子供は子供の速度で紙を見る。
自分は自分の試験へ行く。
戻ってきたら話せばいい。
顔のない存在は、窓辺で雨を眺めていた。
今日は庭へ出られない。
硝子を流れる水滴が二つ重なり、太い筋になって下へ落ちる。その動きに合わせるように、顔のない頭部がほんの少し傾いた。
子供が気づいて、窓へ近づく。
「雨、見てる?」
返事はない。
それでも子供は隣へ立った。
アリシアはその二人を少しだけ見てから、試験へ向かう準備を始めた。
◇
午後の観測室は、昨日までの静かな生活観測区画とは空気が違っていた。
装置の低い駆動音。
紙を揃える音。
遠くの部屋で器具を確認する金属音。
窓のない室内では雨音こそ聞こえないものの、職員の外套に残った湿気の匂いがわずかに漂っている。
ただし、人の配置はこれまでと変わらない。
アリシアから見える位置にはサーラ、安全管理担当、治療教師。記録担当も決められた位置にいる。
条件を選んだ者や設備調整を担当する者は、アリシアの視界には入らない。
机上の紙の枚数も、候補によって変わらないよう揃えられていた。
アリシアは指定された椅子へ座った。
ノアはいつもの位置にいる。
ここへ来るまでいくつか軽口を言っていたのに、観測室へ入ってからは余計なことを話さない。
「開始前の確認をします」
サーラの声も、いつもと同じ高さだった。
アリシアは背もたれへ軽く身体を預け、呼吸を整える。
「疲れは二。痛みなし、息苦しさなし、胸の冷たさなし。震えもない。怖さは……二。やりたい気持ちは八」
一度でまとめて答えた。
サーラが記録を確認する。
「条件は、これまで使用している三候補のうち一つです。新しい強度、新しい速度、複数の意図的小変動は使用しません。東側奥部の開始状態も事前にはお伝えしません」
「うん」
「途中で違和感があれば、確信がなくても申告してください。衣服や姿勢によるものと思った場合も、そのまま言葉にしてください」
「分かった」
「参加しますか?」
アリシアは一度だけ息を吸った。
朝からやりたいと思っていた。
昼食を食べても、その気持ちは変わっていない。
「参加する」
「では開始します」
室内の空気が少しだけ締まった。
誰も大きく動かない。
アリシアは目を閉じなかった。
正面の何も書かれていない壁をぼんやり見ながら、胸の感覚へ注意を向ける。
条件を当てようとしない。
そう決めていても、完全に考えなくなるわけではなかった。
最初の数呼吸で何も起きないと、滑らかな条件かもしれないという考えが浮かぶ。
けれど、以前にも意図的小変動が入る前まで何も感じなかったことはある。
今の静かさだけでは何も分からない。
呼吸を続ける。
胸に冷たさはない。
鎖骨の周囲にも違和感はない。
指先も普通だった。
装置の音は一定に聞こえる。
もちろん、その音から条件を判別できるとは限らない。設備側もそれを避けるために配置を分けている。
アリシアは椅子の縁を握らないよう、両手を膝の上へ置いた。
何かを探そうとすると、身体の小さな変化まで全部意味があるように思えてしまう。
鼻先が少しかゆい。
背中に衣服が触れている。
右足の靴下がわずかにずれている。
どれも六つ目とは関係ない。
そう区別しながら待つ。
しばらくして、胸の中央よりわずかに右側に、何かが触れたような感覚があった。
アリシアの呼吸が一瞬だけ浅くなる。
「今、胸の中央より少し右に……何かあった」
サーラは表情を変えない。
「続けてください」
アリシアも言葉を足さず、感覚へ意識を戻した。
冷たいのか。
最初の瞬間には分からなかった。
皮膚表面ではない。
服が触れた感じとも違う。
胸の少し内側に、細い冷たさが生まれる。
「冷たい。弱い。たぶん、いつものに近い」
声を出したあとも、冷たさは長く続かなかった。
じわじわ広がるのではなく、小さな一点が存在を知らせ、そのまま薄くなる。
方向を考える。
東。
そう言いたくなる。
けれど、以前のように方向感がはっきりしているわけではない。
「方向は……東って言いたくなるけど、自信ない。中央より右って感じの方が強い」
治療教師が何かを書き留める。
アリシアはその手元を見ない。
ノアも黙ったままだ。
冷たさはさらに弱くなった。
「もうほとんどない。痛くない。息も普通」
その後は、新しい感覚は来なかった。
試験が終わるまで、アリシアは何度か胸へ注意を戻したが、先ほどの弱い冷たさを探し直そうとはしなかった。
一度消えたものを、期待で作り直したくなかった。
「終了です」
サーラの声が聞こえたとき、アリシアはゆっくり息を吐いた。
緊張していなかったつもりなのに、肩が少し硬くなっていた。
◇
すぐに条件は開示されなかった。
まず治療教師が身体状態を確認し、水を飲む時間が取られる。
アリシアは椅子へ座ったまま、胸元へ手を当てた。
もう冷たさはない。
先ほど感じたものが本当に六つ目由来なのか、それとも別の身体感覚だったのか。
早く結果を見たい気持ちはある。
ただ、以前のように「感じたから小変動だった」と決める気にはならなかった。
過去には、意図的小変動が入っても何も起こらなかった日が二度ある。
逆に、自分が何かを感じたときは東側と西側にもまとまった反応が出ているが、今の一回がそこへ加わるかは、記録を見るまで分からない。
『探しに行かないの?』
試験が終わったため、ノアがようやく口を開いた。
「何を?」
『答え。顔に“早く見たい”って書いてあるわよ』
「見たいよ。でも待ってる」
『へえ』
「何、その言い方」
『別に。待てるようになったのねと思っただけ』
「昨日も待てた」
『昨日は試験してないでしょう』
「……そうだった」
アリシアが少しむっとすると、ノアは満足そうに尻尾を揺らした。
そのやり取りのおかげで、開示を待つ数分が少し短く感じられた。
◇
記録確認室へ移ったとき、雨はまだ降っていた。
窓の高い位置にある小さな硝子から灰色の光が入り、机の上の紙を淡く照らしている。学院長、副学院長、サーラ、魔導具教師、安全管理担当、若い観測員が揃っていたが、誰も結果を大げさに扱う様子はなかった。
アリシアが席へ着く。
最初に開かれたのは、結果側ではない。
これまで決めている比較項目だった。
「今日の条件を開示します」
サーラが一枚目の紙を裏返した。
「後半寄りの意図的小変動です」
アリシアは紙を見た。
「後ろだったんだ」
自分では途中まで滑らかな条件かもしれないと思っていた。
感覚が来た瞬間には、小変動ありの可能性を考えたが、位置までは分からなかった。
サーラは次の紙へ進む。
「入力は比較可能範囲です。立ち上がり時間と戻り時間は、これまでの後半寄り候補から外れていません。直前固定窓には小さな自然揺れが一回ありますが、振幅は大きくありません」
アリシアは黙って聞いた。
以前なら、ここで過去の反応あり回と似ているかをすぐ尋ねていたかもしれない。
今日はまだ結果側を見ていない。
入力だけで答えを作らない。
「東側奥部の開始状態は?」
「平均傾斜はわずかに下向きですが、強い下向きではありません。変動幅も比較的小さい範囲です」
魔導具教師が補足する。
「平坦と呼ぶには少し傾いています。ただ、以前の強く下向いていた無反応回ほどではありません」
アリシアは一瞬、以前ならその情報だけで反応を予想していたことを思い出した。
平らなら出やすい。
下がっていれば出にくい。
そう思いたかった時期があった。
けれど、平らな開始状態でも無反応だった回がすでにある。
今日のわずかな下向きが何を意味するかは、まだ分からない。
「これだけだと、どっちか決められないね」
「はい」
サーラはそれ以上評価しなかった。
五つの固定項目を確認してから、ようやく結果側の紙が開かれる。
アリシアは無意識に背筋を伸ばした。
「東側奥部には、意図的小変動の後に小さな追加低下が確認されています」
胸の奥が少しだけ動いた。
次の記録。
「アリシアさんの申告した弱い冷感は、その近傍です。ただし、装置側記録と口頭申告には記録上の遅れがあるため、前後関係を細かく断定できる精度ではありません」
それも、今までと同じ注意だった。
最後に西側。
「西側では、その後に小さな遅延弱波形が確認されています」
三つ。
今日も揃った。
アリシアはすぐには口を開かなかった。
嬉しい。
反応が出たことそのものもそうだが、十二回を整理したあと最初の一回で、これまで崩れにくかったまとまりが再び見えたことが嬉しかった。
けれど、その嬉しさに任せて「やっぱり」と言うのは違う。
昨日の夜、自分は答えを探さなかった。
今日、反応が出たからといって急に答えが見つかったことにはならない。
「……これで、比較できる試験は十三回?」
アリシアが尋ねる。
「入力側の確認では、今日の回も比較可能として扱えます」
魔導具教師が答えた。
「では十三回です」
若い観測員が手元の記録を確認する。
「滑らかな十呼吸が四回。意図的小変動ありが九回。そのうち反応あり七回、無反応二回になります」
アリシアは数字を聞き、紙へ視線を落とした。
小変動ありの九回中七回。
反応ありの七回では、東側奥部追加低下、自分の弱い感覚、西側遅延弱波形が揃う。
無反応の二回では、その三つが揃って存在しない。
滑らかな四回でも、同じ三つは確認されていない。
形は少し強くなった。
でも、今日一回増えただけだ。
「小変動があったから反応した、とはまだ言わない」
アリシアが言う。
学院長は静かに頷いた。
「その通りです」
「でも、小変動がない四回では出てなくて、小変動がある九回のうち七回では三つが一緒に出てる」
「そこまでは現在の記録として言えます」
「今日も、東側が動いた回に私の感覚と西側が一緒だった」
「はい」
アリシアは少し迷った。
「……私が感じたから西側が動いた、とは言えない」
「言えません」
「東側が動いたから私が感じた、とも、まだ言えない」
「それも同じです」
サーラの返事は短い。
けれど、その短さがありがたかった。
アリシア自身が分かっていることを、長く説明し直されない。
分からない部分は分からないまま、今ある記録だけを見る。
副学院長が紙の一部を指した。
「今日の回で一つ確認しておきたいのは、開始状態です。強い下向きではないものの、完全に平坦でもありません。それでも反応がありました」
「うん」
「以前の平坦寄り無反応回と合わせても、やはり平均傾斜だけで分けるのは難しいでしょう」
「捨てる?」
「いいえ。固定項目として記録は続けます」
アリシアは少しだけ笑った。
「それ、私も同じこと言おうと思った」
「では先に言ってしまいましたね」
「うん」
副学院長の口元にも、ごく小さな笑みが浮かんだ。
◇
そこから先は、今日一回だけを使った詳細な原因探しには進まなかった。
入力の立ち上がりと戻り。
直前自然揺れ。
開始状態の平均傾斜と変動幅。
結果側三項目。
決めていたものを記録し、既存の一覧へ一行追加する。
それ以上は翌日以降の比較へ回す。
若い観測員が一度だけ、新しい紙を取り出しかけた。
「今日の冷感の位置を、中央・右寄りで別項目に――」
途中で手が止まる。
本人が自分で気づいたらしい。
「……いえ、やめます。結果を見てから項目を増やすことになりますね」
魔導具教師が頷いた。
「主観記録の文章として残せば十分です。比較指標へ昇格させるなら、別途先に決めるべきでしょう」
アリシアはそのやり取りを見ていた。
少し前なら、新しい違いを見つけたことに期待していたかもしれない。
中央より右だった。
過去の感覚と位置が違う。
そこに意味があるのではないか。
けれど、今はすぐ飛びつかなかった。
「私、方向も自信なかったよ」
「その申告もそのまま残します」
サーラが答える。
「東と言い切らなかったことも含めて記録です」
「うん」
アリシアは自分の胸へ軽く手を当てた。
もう何も感じない。
今日の弱い冷たさを思い出そうとすれば思い出せるが、その記憶まで精密な測定器のように扱うつもりはなかった。
自分は感じたものを言う。
装置は装置の記録を残す。
それぞれを無理に同じものへしない。
その方が、今は落ち着いていられた。
「今日はここまでにしましょう」
学院長が告げた。
アリシアは反射的に「もう一回」と言いかけなかった。
以前なら、反応が出た直後こそ確かめたいと思ったはずだ。
今も確かめたい。
同じ後半寄りをもう一度やればどうなるのか。
次が滑らかなら本当に何も起きないのか。
気になることはいくらでもある。
けれど、今日の身体は今日の身体だ。
同じ日に続ければ、二回目は同じ開始状態ではなくなる。
「うん。終わる」
そう答えると、サーラが記録紙を閉じた。
◇
観測室を出たあと、廊下でノアがようやく大きく伸びをした。
『で?』
「何?」
『嬉しいんでしょう』
アリシアは少し歩いてから頷いた。
「嬉しい」
『素直ね』
「だって反応あったから」
『“答えが分かった”じゃなくて?』
「それは分かってない」
『つまらない』
「何が?」
『前なら私が止める役だったのに、自分で止まるじゃない』
「いいことでしょ」
『私の仕事が減る』
「楽できるよ」
『それはいいわね』
結局どちらなのか分からない。
アリシアは笑いながら歩いた。
窓の外では雨が少し弱くなっていた。屋根から落ちる水はまだ途切れないが、空の西側がわずかに明るくなっている。
「でもね」
アリシアが歩調を少し落とした。
「今日、試験してるとき、昨日のこと忘れてなかった」
『昨日?』
「石拾ったこととか、定規貸したこととか。ずっと考えてたわけじゃないけど、試験が始まったから、それ以外が消えた感じがしなかった」
ノアはしばらく黙って歩いた。
『それでいいんじゃない』
「うん」
『六つ目が何なのか分かった日でも、たぶん夕飯は食べるでしょうし』
「それは食べる」
『世界の秘密が分かっても?』
「お腹空くから」
『立派だわ』
「馬鹿にしてる?」
『褒めてる』
「絶対違う」
アリシアの声が廊下へ小さく響いた。
少し離れたところを歩いていた職員が振り返り、二人の様子を見て微笑んだ。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は共用室の床に座っていた。
紙が三枚並んでいる。
昨日見ていた交差一と接近一。
そして、今日は接近二の紙も加わっていた。
「ただいま」
「おかえり」
子供が顔を上げる。
「試験した?」
「したよ」
「どうだった?」
「反応あった」
それだけ答えた。
子供も詳しく聞かない。
「こっちも見た」
「接近二?」
「うん」
アリシアは外套を脱いでから、子供の横へ座った。
紙上の線には、以前から付けられている確認済み部分と、空白、候補部分が分けて残されている。
「どうだった?」
「交差二のこっち側と、ちょっと向き近い」
子供が指を置く。
「でも、同じくらいに合わせても、ぴったりじゃない。接近二の方が少し外に向いてる」
「じゃあ、つながらない?」
「分かんない」
返事は早かった。
「間が見えてないから。曲がるかもしれないし、別かもしれない」
「書いた?」
「これ」
紙の端に、
『交差二の一方向と接近二は少し近い。完全には合わない。間は不明』
と書いてある。
アリシアは頷いた。
「今日は箱見た?」
「見てない」
「見たくならなかった?」
「ちょっとなった。でも紙でできたから、そっちやった」
「そっか」
子供は紙を一枚ずつ重ねる。
「交差一と接近一は近い。交差二と接近二もちょっと近い。でも、だから同じ形ってしない」
「うん」
「交差三も入れない」
「弱い候補だから?」
「うん。あれ入れると、分かんないところ多くなる」
子供はそこで紙を閉じた。
「今日は終わり」
「早いね」
「朝からやってたから」
「じゃあ石は?」
「あとでやる」
研究と遊びを同じ机の上で切り替える。
アリシアはその様子を見て、昨日よりさらに自然になった気がした。
どちらかだけを一日中続けなくてもいい。
◇
夕方、雨が止んだ。
庭へ出ることはしなかったが、窓が少しだけ開けられた。
濡れた草と土の匂いが室内へ入り、昼までの湿った空気とは違う涼しさが広がる。
顔のない存在は窓辺から少し離れた場所に立っていた。
子供は床に石を並べている。
今日は中央の空間を昨日より狭くし、その周りへ石を置いていた。
「丸?」
アリシアが尋ねる。
「まだ」
「丸に見える」
「まだ決めてない」
「ずっと決めないね」
「決めなくても並べられる」
「確かに」
ノアが近くの椅子から鼻を鳴らした。
『あなたたち、最近そういうの得意ね』
「何が?」
『決めないこと』
アリシアは一瞬だけ研究を思い出した。
けれど、口には出さなかった。
「石の話だよ」
『そういうことにしておきましょう』
「本当に石の話」
子供は二人の会話を気にせず、次の石を置いた。
そのとき、顔のない存在がゆっくり身体の向きを変えた。
石の列の方へ向いているようにも見える。
しばらく立ったままだったが、近づきはしなかった。
子供も呼ばない。
ただ自分の作業を続ける。
誰かが動いたから、すぐ数える。
光ったから、すぐ意味を探す。
そんな時間ばかりではなくなっていた。
観測が必要なときには観測する。
それ以外には、同じ部屋でそれぞれの時間を過ごす。
生活観測区画という名前が、少しずつ本当に生活の場所へ近づいているようにアリシアには思えた。
◇
夜、アリシアは練習帳を開いた。
今日は昨日より研究欄へ書くことが多い。
それでも、最初から最後まで全部を書き写そうとはしなかった。
昨日の筆記演習を思い出したからではない。
研究の記録には別に正式な記録紙がある。
自分の練習帳には、自分が後で見返したいことを残せばいい。
『既存条件で試験再開。後半寄り意図的小変動。入力は比較可能範囲。直前自然揺れ小一回。東側奥部開始状態は弱い下向き、変動幅小さめ』
次の行へ進む。
『小変動後、東側奥部追加低下あり。胸中央より少し右に弱い冷感。方向は東と言い切れるほどではない。後に西側遅延弱波形あり』
さらに、
『比較可能試験十三回。滑らか四回は三項目なし。小変動あり九回は反応あり七、無反応二。反応あり七では東側追加低下・私の弱感覚・西側遅延弱波形がまとまる』
そこまで書いて、筆を止めた。
数字は昨日より一つ増えた。
七と二。
四。
十三。
けれど、それだけで新しい答えが生まれたわけではない。
『今日の一回で、今までのまとまりは少し増えた。でも、小変動があれば必ず反応する、には戻らない』
「戻らない」と書いたのが、自分でも少し面白かった。
一度、そう思いかけた時期があった。
反応が続けば、それが答えに見える。
反例が出れば揺らぐ。
また反応が出れば戻りたくなる。
けれど、今日は戻らなかった。
無反応だった二回を、反応が出た七回の邪魔者のように扱わない。
その二回があるからこそ、次に見るべきものが残っている。
アリシアは別の欄へ移った。
『学院。雨。発光板の実習。最初は明るくしすぎた。最後はだいたいできた』
少し考えて、
『友達に髪紐を貸した。朝の髪がひどいと言ったら怒られた。本人が先に言っていたのに』
と書く。
ノアが机へ飛び乗り、紙を覗き込んだ。
『それ書く必要ある?』
「ある」
『研究記録より詳しくなりそうね』
「こっちは私の練習帳だからいいの」
『昨日から急に日記っぽくなったわね』
「前から日常も書いてたよ」
『数字の隙間にね』
アリシアは筆先を止めた。
「……そうだったかも」
『今日は数字の方が隙間に見えるけど』
「それは言いすぎ」
『そう?』
ノアは紙の上へ前足を置こうとし、アリシアに押し戻された。
「乗らないで」
『細かい』
「インクつくよ」
『黒いから目立たない』
「紙につく」
『そっち?』
アリシアは笑いながらノアを机の端へ移動させた。
子供の欄には、
『接近二を紙上比較。交差二の一方向と少し近いが完全一致せず。間は不明。箱は開けていない』
と書く。
その下に、
『石はまだ何の形か決めていないらしい』
と加えた。
顔のない存在については、今日も細かな歩数や光の数を自分では残していない。
窓辺で雨を見ていた。
夕方、子供の石の方へ身体を向けた。
それだけを書いた。
最後に今日一日を思い返す。
朝、試験をしたいと思った。
学院へ行った。
友達へ髪紐を貸した。
発光板を明るくしすぎた。
昼食を食べた。
午後、試験をした。
弱い冷たさを感じた。
東側奥部に追加低下があり、西側にも遅れて弱い波形が出た。
戻って子供の紙を見た。
夕方は石を並べるのを眺めた。
昨日は「普通の日だった」と書いた。
今日は研究上の結果が一つ増えた。
それでも、昨日と今日がまったく別の種類の一日だったとは思わない。
アリシアは少し考え、最後に書いた。
『昨日は試験をしなかった。今日はした。でも、今日全部が試験だったわけじゃない』
文字を眺める。
ノアは何も言わなかった。
「変?」
『別に』
「珍しい」
『何か言ってほしいなら言うけど』
「いらない」
『じゃあ黙ってる』
アリシアは練習帳を閉じた。
◇
灯りを消す前、窓の外を確認すると雨雲はかなり薄くなっていた。
雲の切れ間から月明かりが落ち、濡れた庭の石がところどころ白く光っている。
今日の一回で、比較可能な記録は十三回になった。
意図的小変動が入った九回のうち七回で、東側奥部の追加低下、自分の弱い感覚、西側の遅れた波形がまとまっている。
その形は、昨日より少しだけ厚くなった。
けれど、二回の無反応は消えていない。
前半寄りでも後半寄りでも結果は分かれた。
平坦に近い始まりでも無反応の日があり、少し下向いた今日には反応が出た。
立ち上がりや戻り、自然揺れも、まだ一つだけで境界を作ってはいない。
だから次に見るものは、今日の成功を証明するための材料ではない。
十三回目を十二回までの形へ足したあと、それでも残る二回の無反応と七回の反応を、同じ物差しで見続けることだった。
アリシアはカーテンへ手をかける。
明日すぐに次の刺激を入れる必要はない。
今日の記録を、今日の身体から離して見直す時間も必要になる。
それに、子供は接近二を紙の上で比べ始めた。
友達へ貸した髪紐も、まだ返ってきていない。
「……あ」
思い出して、アリシアは振り返った。
ノアが寝台の上からこちらを見る。
『何?』
「髪紐」
『忘れてたの?』
「明日返してもらえばいい」
『へえ』
「何、その顔」
『別に』
「絶対何か言いたいでしょ」
『言わなくても分かるなら成長したわね』
「やっぱり言ってる」
アリシアは呆れながらカーテンを閉めた。
今日、研究の記録は一つ増えた。
それは嬉しい。
明日になれば、今日の一回を詳しく見返したくなるだろう。
それでも今夜、眠る前に最後に思い出したのは、東側地下の波形ではなく、友達へ貸したままの細い髪紐だった。
アリシアはそのことを、少しだけ気に入った。




