第201話 答えを増やさない日にも、私たちの時間はちゃんと進んでいる
朝、アリシアが生活観測区画の窓を開けると、夜のうちに冷えた空気が細く部屋へ流れ込んできた。
空はよく晴れていた。東の低い位置にはまだ薄い雲が残っているものの、その縁は朝日に照らされて白く光っている。庭の草には露が残り、風が通るたび、葉の先に溜まった水滴が小さく震えていた。
昨日は人工刺激を行わなかった。
そして今日も、朝の時点で刺激を行わないことが決まっていた。
十二回分の制御試験を一度まとめたばかりで、学院側では記録様式と設備の確認を続けている。異常が見つかったわけではなく、試験を止めなければならない事情が生じたわけでもない。ただ、次の一回を急いで足すより、今使っている枠をきちんと維持できる状態にしてから再開する方がいいという判断だった。
説明を受けたとき、アリシアは素直に頷いた。
身体の状態は良かった。疲労は一程度で、胸部冷感も痛みも息苦しさもなく、腕の重さや震えもない。もし今日試験を行うと言われれば、参加したいと思える程度には調子が整っていた。
だからこそ、「今日も人工刺激はありません」と告げられた瞬間、胸の奥にほんの少しだけ残念さが生まれた。
けれど、その感情は以前のようには膨らまなかった。
「……そっか」
それだけ言って、アリシアは朝食のパンをちぎった。
向かい側の椅子に座っていたノアが、半分閉じていた目を少しだけ開く。
『何よ、その顔』
「どんな顔?」
『試験がないって聞いたわりには普通』
「普通じゃだめ?」
『前なら、“じゃあ今日は何を見るの”“昨日の記録は”“東側は”って、あと三つくらい聞いてたでしょう』
言われて、アリシアはパンを口へ運ぶ手を止めた。
確かにそうだった。
何かを調べない日があると、それだけで取り残されたような気持ちになることがあった。六つ目について分からないことがこれほど多いのだから、何もしない時間が惜しい。自分が休んでいる間にも、東側地下では何かが起きているかもしれない。
そんな焦りが、少し前までは当たり前にあった。
「今日は学院あるから」
『学院がなかったら?』
「……寝る」
『成長したわね』
「何が?」
『堂々と寝るって言えるところ』
「ノアにだけは言われたくない」
『私は猫だからいいの』
「便利だね、それ」
ノアは返事の代わりに尻尾を一度だけ揺らし、再び目を細めた。
アリシアは小さく笑ってから、残っていたパンを食べる。
研究をしない日。
その言葉だけなら、以前は何も進まない日という意味に近かった。
今朝は、そこまで重く感じなかった。
学院へ行けば授業がある。
昼になれば誰かと食事をするかもしれない。
帰ってくれば子供がいるし、顔のない存在もいる。ノアはたぶん、いつも通り好き勝手なことを言う。
それらは六つ目の正体を直接教えてくれるものではない。
けれど、それだけで一日が空白になるわけではなかった。
◇
学院へ着いた頃には、朝の冷たさが少し和らいでいた。
校舎へ入る生徒たちの声が石造りの玄関に重なり、靴音が廊下へ長く響いている。窓際では数人の生徒が昨日返された課題について話し、階段の近くでは教師に呼び止められた男子生徒が、提出物を忘れたらしく困った顔をしていた。
アリシアはその横を通り過ぎ、自分の教室へ入った。
「おはよう」
席へ向かう途中で声をかけられる。
いつも話すことが増えた女子生徒だった。
「おはよう」
「今日ちゃんと筆ある?」
アリシアは一瞬だけ意味が分からず、すぐ昨日のことを思い出した。
「あるよ」
「確認しないと、また私の使うかもしれないから」
「昨日は忘れたんじゃなくて、予備がなかっただけ」
「それを普通は困ったって言うんじゃない?」
「今日はあるから大丈夫」
アリシアが鞄の中を見せると、女子生徒は満足そうに頷いた。
ほんの短いやり取りだった。
それでも、教室へ入る前から何を話せばいいか考えなくて済んだことに、アリシアは少し遅れて気づいた。
声をかけられたから返す。
昨日のことを少しからかわれたから言い返す。
そのあと、それぞれの席へ行く。
会話が続かなかったことを失敗とも思わない。
それだけの自然さが、いつの間にか増えていた。
◇
午前の授業は二つ続いた。
一つ目は基礎史学で、学院のある地域に残る古い交通路についての講義だった。以前なら、地下の連絡線という言葉に近いものが出るたび、アリシアは東西地下のことを思い出していたかもしれない。
今日は教師が街道の変遷について話していても、地下へ思考が引っ張られることはなかった。
途中、教師が黒板へ描いた地図の川の位置を間違え、前列の生徒から指摘される。
「先生、それだと川が丘を登ってます」
教室のあちこちから笑いが起こった。
教師は数秒地図を眺め、自分の間違いに気づく。
「……皆さんは、今見た地図を絶対に試験で再現しないように」
さらに笑いが広がった。
アリシアも笑った。
そのまま授業は進んだ。
二つ目の授業では、小規模な班に分かれて短い資料を読むことになった。特別難しい内容ではなかったが、同じ文章でも人によって重要だと思う場所が違い、四人の意見は少しずつずれた。
アリシアは最初、自分の選んだ一文を言うのを少しためらった。
けれど、他の三人も意見が揃っていない。
なら、自分だけ間違えるわけではない。
「私はここだと思う」
紙の中央を指す。
「そこ?」
「最後の結果より、その前に決めたことの方が大事かなって」
向かいの男子生徒が資料を読み返す。
「俺は結果の方選んだ」
「どっちでも理由があればいいって先生言ってたよ」
隣の女子生徒が口を挟む。
「じゃあ両方残して、最後に理由書けば?」
結局、班では一つへ無理に絞らなかった。
教師へ提出した紙には、二つの候補と、それぞれを選んだ理由が残った。
アリシアは教室を出るまで、そのことを研究へ結びつけなかった。
違う候補を残す。
一つに決めない。
今の自分たちがしていることと似ていると言おうと思えば言える。
けれど、何でも六つ目へつなげなくてもいい。
授業は授業だった。
◇
昼休みを知らせる鐘が鳴ったとき、アリシアはまだ自分の机に向かっていた。
窓から入る風が、開いた練習帳の端を何度も持ち上げている。朝からよく晴れていた空には昼になって薄い雲が増え、校庭を横切る生徒たちの影も、日が隠れるたび淡くなったり濃くなったりしていた。
「アリシア、行かないの?」
斜め前の席から声をかけられ、アリシアは顔を上げた。
朝に筆のことを聞いてきた女子生徒が、すでに鞄を肩へ掛けている。その隣には、昨日の昼にも一緒だったもう一人の女子生徒がいた。
「行く。ちょっと待って」
「何書いてるの?」
「今日の課題」
「もう?」
「忘れそうだから、今のうちに」
「真面目」
「忘れるからだよ」
最後の一行を書き終えて筆をしまう。
二人は急かさず待っていた。
アリシアが立ち上がると、三人で教室を出る。
今日は誰も席取りを頼まない。
誰が先に歩くかも決めていない。
廊下が混んでいたため一度だけ二人と離れたが、階段の手前で自然に追いついた。
少し前なら、こういう小さなことにも意味を探していたかもしれない。
待っていてくれたから友達なのか。
一緒に食べる約束をしていないのに付いていっていいのか。
自分が混ざって迷惑ではないのか。
今は、そこまで考えなかった。
前を歩いていた女子生徒が振り返り、「今日混んでるね」と言う。
「うん」
それに答えて、また歩く。
それで十分だった。
◇
「今日ないじゃん」
食堂で席に着くなり、一人が卓上を見回して残念そうに言った。
「何が?」
「赤いやつ」
アリシアはすぐに昨日の辛いソースだと分かった。
「昨日いっぱい使ったからなくなったんじゃない?」
「私一人で一本使わないよ」
「使いそうだった」
「そんなに?」
向かいの女子生徒が笑いながらパンをちぎった。
「昨日かなりかけてたよ。アリシア、ずっと見てたし」
「だって赤かったから」
「赤いの嫌いなの?」
「色は嫌いじゃない。辛いのが嫌。口がずっと痛くなるから」
「それ昨日も言ってた」
「今日も辛いの嫌いだから」
近くの席からも笑い声が聞こえ、食器の触れ合う音が食堂全体に広がっている。昼時で席はほとんど埋まり、給仕台の前にはまだ短い列ができていた。
今日の昼食には、鶏肉と根菜を煮込んだ白いスープが付いていた。
昨日のような刺激の強いものはない。
アリシアはパンをちぎり、少しだけスープへ浸した。
「それおいしい?」
「うん」
「私もやろ」
向かいの女子生徒が真似をする。
もう一人は、その横で鞄を探り始めた。
最初は余裕のある顔をしていたが、次第に眉間へ皺が寄る。
「……ない」
「何?」
「午後の写本演習で使う定規」
「教室じゃない?」
「朝、家で使った気がする」
「じゃあ家じゃん」
「たぶん」
アリシアは少し考えてから、自分の鞄へ手を伸ばした。
午後は別の授業なので定規を使わない。
細い木製の定規を取り出し、机の上へ置く。
「私の使う?」
女子生徒が目を丸くした。
「アリシアは?」
「午後は使わないから。帰る前に返してくれればいいよ」
「借りていいの?」
「うん」
差し出すと、相手は受け取った。
そこで向かいの女子生徒が、何かに気づいたように笑う。
「昨日と逆じゃん」
「何が?」
「昨日、アリシアが筆借りてたでしょ。今日は貸す方」
「あ」
言われて、アリシアも気づいた。
定規を借りた女子生徒が、それを指先で持ち上げる。
「なくしたらどうする?」
「返して」
「植物の葉っぱ一枚で許してくれる?」
「定規返して」
「二枚」
「増えてもだめ」
「そこは厳しいんだ」
三人で笑った。
周りのざわめきに混じる程度の小さな笑いだったが、アリシアはしばらく口元に残った笑みを消せなかった。
誰かから物を借りる。
自分の物を貸す。
それだけのことが、以前の自分には思っていたより難しかった。
返してもらえなかったらどうしよう。
貸したことで相手に気を遣わせたら。
断られたら。
そんなことを先に考え、自分から何もしない方を選んでいた。
今は、明日までに返ってくればいいと思える。
もし忘れられたら、そのとき「返して」と言えばいい。
さっき冗談の中で何度も言えたのだから、たぶん本当に忘れられても言える。
そう思えたことの方が、定規を貸したことそのものより少しだけ嬉しかった。
◇
昼食を終え、午後の教室へ向かう途中で二人とは別れた。
一人は写本演習。
もう一人も別棟で授業がある。
アリシアだけが中央棟の二階へ向かう。
「定規、忘れないでね」
別れ際に言うと、借りた女子生徒は鞄を軽く叩いた。
「大丈夫。たぶん」
「たぶん?」
「絶対」
「今変えた」
「細かいなあ」
笑いながら二人は別の廊下へ曲がっていった。
アリシアも反対方向へ歩く。
周囲には同じ授業へ向かうらしい生徒が何人もいるが、近くに親しい相手はいなかった。
以前なら、一人になった瞬間に少しだけ安心していたかもしれない。
誰かに話しかけられる心配がない。
何を返せばいいか考えなくて済む。
今も一人で歩くこと自体は好きだった。
静かに考えられるし、自分の速度で歩ける。
ただ、さっきまで一緒にいた二人と離れたことに、不安はなかった。
一人が好きなことと、人といるのが嫌なことは違う。
少し前、庭の長椅子へ一人で座った日に見つけた感覚が、今では特別に確かめなくても身体の中へ馴染んでいる。
階段を上がる途中、窓から吹き込んだ風で壁際の古い案内紙がぱたぱたと鳴った。
アリシアはそれを一度だけ見て、午後の教室へ入った。
◇
午後の授業は、魔力を使わない筆記演習だった。
教師が短い文章を読み上げ、生徒は内容の要点を自分なりに記録する。全文を書き写すのではなく、後から見返したときに内容を思い出せる程度の情報を残す練習である。
「全部書こうとしないように」
教師が教壇から念を押した。
「私が喋った言葉を一字一句残すだけなら、皆さんではなく記録魔導具を置けば済みます。何を残すかを考えるところまでが今日の課題です」
教室のあちこちから小さな笑いが起こった。
アリシアも筆を持ちながら口元を緩める。
ところが始まってみると、思ったより難しかった。
教師が話す。
重要そうだと思って書き始める。
まだ書き終わらないうちに次の説明が来る。
それも必要に思えて追加すると、その次が来る。
途中から字が少しずつ小さくなり、最後には自分でも何を書いているのか怪しくなった。
一回目の読み上げが終わったところで、教室中から息を吐く音が重なった。
「難しい……」
隣の席の生徒が紙を見下ろして呟く。
アリシアも同じ気持ちだった。
教師は数分間の確認時間を取った。
アリシアの紙には、かなり多くの文字が並んでいる。
近くの男子生徒が横から覗き込み、目を丸くした。
「全部書いてない?」
「途中までは」
「先生、全部書くなって言ったじゃん」
「分かってたけど、どれを捨てるか分かんなかった」
「俺、逆に少なすぎた」
見せられた紙には三行しかなかった。
アリシアは思わず笑う。
「少なすぎるよ」
「どっちがまし?」
「たぶん真ん中」
「一番難しいこと言うな」
二回目の読み上げでは、少し意識して言葉を減らした。
重要だと思う単語。
その理由。
例外。
それだけを残す。
最初は「これも書いた方がいい」と手が動きそうになったが、一度止めた。
後で読み返して意味が分かるなら、全部を写す必要はない。
二回目の紙には、一回目よりずっと多く余白が残った。
教師が机の間を回り、アリシアの前で足を止める。
「一回目より読みやすくなりましたね」
「減らしました」
「減らすのも記録技術です。何を消したかではなく、何を残したかが後で分かるようにしてください」
「はい」
教師はそれ以上説明せず、次の机へ進んだ。
アリシアは自分の紙を見る。
一瞬だけ、昨日の解析を思い出しかけた。
言えることを分ける。
全部を一つに詰め込まない。
少し似ている。
けれど、そこで思考を止めた。
何でも研究の話にする必要はない。
これは筆記の授業で、自分は最初に書きすぎて失敗し、二回目で少し上手くできただけだ。
アリシアは紙を折り、提出用の箱へ入れた。
それで午後の授業は終わった。
◇
生活観測区画へ戻った頃には、午後の陽射しがかなり傾いていた。
玄関近くの床には窓枠の形をした明るい四角が伸び、風が入るたび庭の草が一方向へ倒れては戻っている。
いつもなら机にいることの多い子供の姿が見えなかった。
「外?」
アリシアが窓を見る。
庭にいた。
木箱も線の紙も室内に置いたまま、子供は地面へしゃがみ込んでいる。
少し離れた場所には、顔のない存在もいた。
ただし、観測をしているようには見えない。
アリシアが庭へ出ると、湿った土と草の匂いがした。
「何してるの?」
子供が顔を上げ、手のひらを開く。
白っぽい小石が三つ乗っていた。
「同じくらいの探してる」
「何に使うの?」
「並べる」
「何の形?」
「まだ決めてない」
「じゃあ、大きさだけ同じ?」
「うん。これくらい」
示された石は親指の先ほどだった。
地面にはすでに十個ほどの石が並んでいる。
白いもの。
灰色のもの。
少し茶色いもの。
丸いものもあれば、角の残ったものもある。
規則があるようにも見えるが、子供自身は特に説明しなかった。
「アリシアも探す?」
「どんなの?」
「これくらいで、ちょっと丸い」
「色は?」
「何でもいい」
「分かった」
アリシアもしゃがむ。
最初に拾った石は、少し大きすぎた。
「これは?」
子供が見比べる。
「大きい」
「じゃあ、こっち」
「細い」
「難しい」
「うん」
子供は真面目な顔で頷いた。
少し離れた場所からノアが二人を眺めている。
『何してるの、あなたたち』
「石探してる」
『それは見れば分かるわよ。何のために?』
アリシアは子供を見る。
子供もアリシアを見る。
二人とも少し考えたあと、子供が答えた。
「並べるため」
『……そう』
ノアはそれ以上聞かなかった。
何かを調べるためでも、記録するためでもない。
ただ似た大きさの石を拾い、並べる。
目的はそれだけだった。
アリシアはもう一つ拾った。
今度は少し丸く、ちょうどよさそうだった。
「これは?」
子供は自分の持っている石と重ねるように見比べる。
「いい」
「やった」
褒められたわけでもないのに、少し嬉しい。
アリシアはその石を子供へ渡した。
◇
しばらくして、顔のない存在がゆっくり立ち上がった。
アリシアは反射的にそちらを見た。
子供も気づいたが、手にしていた石をすぐには置かなかった。
顔のない存在は一歩進み、少し止まる。
もう一歩。
そこで長めの間があった。
以前なら、アリシアか子供、あるいは近くの観測員がすぐ記録板へ手を伸ばしていたかもしれない。
今日は庭へ記録板を持ち出していなかった。
窓辺にいた観測員も、こちらへ駆け寄らない。
ただ、安全だけを確認するように立っている。
子供が手のひらの石を一つ持ち上げた。
「これ、丸い」
顔のない存在は受け取らなかった。
腕も伸ばさない。
それでも身体の向きだけが、わずかに子供の手元へ寄ったように見えた。
子供はさらに差し出そうとはしなかった。
「ここ置くね」
足元へ石を置く。
顔のない存在はその石を踏まないようにするような動きで、一歩だけ横へずれた。
それが本当に石を避けたのか、たまたま同じ方向へ動いただけなのかは分からない。
アリシアは何も言わなかった。
やがて顔のない存在は椅子の方へ戻る。
歩数を数えようと思えば数えられた。
最初の二歩。
横への動き。
戻るまでの歩数。
胸元には光も見えていた。
けれど、アリシアは数えなかった。
子供も数えない。
今日、この庭に出てきた目的は観測ではなかった。
顔のない存在が椅子へ戻ると、子供はまた石を探し始める。
アリシアも土の上へ視線を戻した。
「これどう?」
「角ある」
「ちょっとなら?」
「ちょっとならいい」
「基準変わった」
「見つからないから」
「そういうのあり?」
「石だからいい」
アリシアは吹き出した。
窓辺の観測員も、聞こえていたのか少しだけ笑っていた。
◇
夕方になり、空気が冷え始めると、三人は室内へ戻った。
子供が拾った石は布の上へ並べられた。
結局、完全に同じ大きさのものばかりではない。
途中から基準が少し緩くなったため、端の方には明らかに細いものも混じっている。
「これ、大きいって言ったのに」
アリシアが最初に却下された石を指す。
「それは大きい」
「こっちは同じくらいじゃない?」
「それはいい」
「違い分かんない」
「違うよ」
「厳しい」
子供は満足そうに石を並べ替えた。
それからしばらくして、朝に使っていた線の紙を一度だけ開いた。
庭で拾った石は机の端に残したまま。
交差一と交差二の前後方向。
昨日までに付けた矢印。
今日は実物を見ていない。
「続きやる?」
アリシアが尋ねる。
「ちょっとだけ」
子供は交差一の紙と、以前から残している接近一の紙を並べた。
「こっちの向き、似てる?」
アリシアはすぐに答えなかった。
交差一から外側へ伸びて見える線の一方向と、接近一で確認できている線の方向。
紙の上だけなら、確かに近い。
けれど、二つの間には観測できていない空白がある。
実物上で一本の線として続いていることは確認していない。
「似て見える。でも、間がないから、つながってるとは言えないと思う」
「うん」
子供も最初からそのつもりだったらしい。
「向きだけ近い、って書く」
「それがいいと思う」
子供は紙の端へ丁寧に文字を書いた。
『交差一の外向きと、接近一の向きは近い。間は不明』
新しい灰色線は引かなかった。
以前なら、紙の上で繋がりそうな場所を見つければ、薄い仮線を一本増やしていたかもしれない。
今は、増やさないことも選べる。
「接近二も見る?」
アリシアが聞く。
子供は紙の束を一度見たあと、首を横へ振った。
「今日は見ない」
「疲れた?」
「ちょっと。でも、一個見たから」
「そっか」
「また別の日」
紙を閉じる。
箱は棚から下ろさなかった。
中身を見たい気持ちがなくなったわけではない。
それでも、今日一日を木箱だけで使う必要はなかった。
◇
日が沈む少し前、サーラが生活観測区画を訪れた。
研究資料の束は持っていない。
手元には、明日以降の予定を簡単にまとめた紙が一枚だけあった。
「設備側の確認は今日で終わりました」
アリシアは共用室の椅子から顔を上げる。
「何かあった?」
「大きな問題はありません。記録の同期と、入力側の確認窓をもう一度揃えました。明日以降は、これまでの条件で試験できます」
「新しい条件?」
「いいえ。今までの三候補のままです」
その答えに、アリシアの肩から少しだけ力が抜けた。
新しい条件を増やしたくないと決めたばかりだ。
学院側も同じ方針を維持している。
「明日やる?」
「まだ決めていません。朝の状態を確認してからです」
「条件もまだ?」
「選択前です」
そこまで聞いて、アリシアは口を閉じた。
以前なら、もう少し聞きたくなっていた。
滑らかを使う可能性が高いのか。
前半と後半のどちらを優先するのか。
今までの回数差をどう考えるのか。
でも、それを聞けば自分の予想が変わる。
誰かの言葉の選び方から、条件を推測しようとしてしまうかもしれない。
「じゃあ、聞かない」
サーラが少しだけ目を細めた。
「その方が助かります」
「でも、明日試験があるかもしれないって知ってるのはいい?」
「もちろんです。試験の可能性そのものを隠すことはしません。実施する場合は、その前に改めて身体状態と参加意思を確認します」
「分かった」
アリシアは頷いた。
その横でノアが尻尾を揺らす。
『ずいぶんあっさり終わったわね』
「何が?」
『前なら、もう三つくらい質問してたでしょう』
「朝も同じこと言ってなかった?」
『朝から成長してるか確認してあげてるの』
「いらない」
『親切なのに』
「余計なお世話」
サーラが小さく笑った。
「お二人とも、いつも通りですね」
「ノアがうるさいだけ」
『アリシアが素直じゃないだけよ』
今度はサーラも声を出して笑った。
研究の話が終わったあとに残った空気は、思っていたより柔らかかった。
◇
夕食前、昼に定規を貸した女子生徒が生活観測区画へ来た。
入口近くで職員へ声をかけ、許可を取ってからアリシアを呼んでもらったらしい。
「アリシア」
「どうしたの?」
「これ」
差し出されたのは木製定規だった。
「明日でもよかったのに」
「帰る前に返してって言ったじゃん」
「あ、そうだった」
「貸した本人が忘れてる」
「忘れてない。今思い出した」
「それを忘れてたって言うんだよ」
女子生徒は笑い、定規をアリシアへ渡した。
「助かった。ありがと」
「うん」
「じゃあまた明日」
「また明日」
あまり考えず、言葉が返った。
女子生徒はそのまま廊下を戻っていく。
アリシアは手の中の定規を見た。
返ってきた。
当たり前のことだ。
それなのに少しだけ嬉しい。
貸したから返ってきた。
信頼がどうとか、友達だからどうとか、そんな大きな言葉にしなくてもいい。
ただ、昨日借りて、今日は貸して、夕方に返ってきた。
その程度の出来事が、自分の毎日の中に普通に存在するようになった。
◇
夕食後、アリシアはすぐ練習帳を開かなかった。
今日は試験をしていない。
大きな解析もしていない。
学院側から新しい発見が伝えられたわけでもない。
だから、急いで何かを記録する必要はなかった。
共用室では、子供が昼に拾った石をまだ並べ替えている。
大きさ順でも、色順でもない。
本人の中には何か気に入った並びがあるらしく、ときどき一つだけ位置を変えては、少し離れて眺めていた。
顔のない存在は、少し離れた椅子へ座っている。
胸元の光を数えようと思えば見える距離だったが、誰も数えない。
ノアは窓際で丸くなっている。
アリシアは温かい飲み物を両手で持ちながら、その光景を眺めた。
この場所へ来たばかりの頃は、何もしない時間が落ち着かなかった。
六つ目が反応するかもしれない。
地下で何かが起きているかもしれない。
子供の木箱には何が入っているのか。
顔のない存在の胸にある十一の光は何なのか。
分からないものが同じ場所にいくつもあって、何もしないことが、それらから目を逸らしているように感じた。
今は違う。
分からないものがあるまま、夕食を食べる。
石を並べる。
猫が寝る。
友達へ定規を貸す。
授業で書きすぎて失敗する。
そういう時間が、謎を解く時間より劣っているとは思わなくなった。
「これ、どこがいい?」
子供が石を一つ持ち上げた。
アリシアは椅子から少し身を乗り出す。
「好きなところでいいんじゃない?」
「アリシアなら?」
「そこ」
列の端を指した。
子供は少し考え、まったく別の場所へ置く。
「聞いたのに」
「こっちの方がいいと思った」
「じゃあなんで聞いたの?」
「聞きたかったから」
アリシアは一瞬言葉に詰まり、それから笑った。
「そっか」
答えを採用するためだけに、誰かへ聞くわけではない。
聞いて、違うと思えば違う場所へ置く。
子供にとっては、それだけのことなのだろう。
アリシアもそれ以上考えなかった。
◇
夜が深くなり、子供が自分の寝床へ戻ってから、ようやくアリシアは机へ座った。
窓の外には薄い雲が広がり、星はところどころ隠れている。昼間より風が弱まり、生活観測区画の中には紙をめくる音と、遠くの時計が刻む小さな音だけが残っていた。
練習帳を開く。
最初に書いたのは、研究結果ではなかった。
『今日は試験なし。大きな解析なし』
そこまで書いて、筆を止める。
昨日までなら、その下へ十二回分の結果をもう一度書いていたかもしれない。
滑らかな条件ではどうだった。
小変動ありでは何回反応した。
東側追加低下と自分の感覚と西側遅延弱波形がどうまとまっていた。
けれど、それは昨日すでに整理した。
今日変わっていないものを、毎晩新しい発見のように書き直す必要はない。
アリシアは一行空け、サーラから聞いたことだけ残した。
『設備確認終了。明日以降、既存三候補で試験可能。条件選択はまだ。新しい記録項目追加なし』
研究欄は、それでほとんど終わった。
「少ない」
思わず呟く。
寝台の上で丸くなっていたノアが片目だけ開けた。
『何が?』
「研究のところ。全然書いてない」
『書くことないなら、それでいいでしょう』
「前だったら、何か書こうとしてたと思う」
『例えば?』
「昨日のまとめをもう一回書いたり、小変動が必要か考えたり、明日の条件を予想したり」
『全部、今日やらなくていいことじゃない』
「うん」
素直に頷けた。
空いている紙面を埋めなければならないような焦りもない。
アリシアは日常欄へ移った。
『昼、友達二人と食堂。昨日の辛い赤いソースはなかった。定規を貸した。夕方に返しに来てくれた』
少し考え、もう一文足す。
『昨日は私が筆を借りたので逆だった』
次に授業。
『筆記演習。一回目は書きすぎた。二回目は減らした。全部残さなくても、後で意味が分かるように書けばいいらしい』
研究との似たところを、また一瞬だけ考える。
けれど、やはり書かない。
今日の授業は今日の授業でいい。
子供については少し長くなった。
『朝は交差一・二の方向確認。夕方、交差一外向きと接近一の向きが紙上では近いことを確認。ただし間は未観測。接続とは扱わない。新しい灰色線なし。接近二は別日にする。箱は開けず』
その下へ、
『昼は庭で石を拾った』
と書く。
顔のない存在については、少し迷った。
歩数を正確に数えていない。
胸の光も詳細確認していない。
以前なら、観測できたのに記録しなかったことを勿体なく感じていたかもしれない。
今日は、その気持ちがほとんどなかった。
『昼、庭で子供の近くにいた。自分から立って動いたが、今日は正式な歩数記録なし。胸光も詳細確認なし』
さらに続ける。
『子供が石を見せた。受け取らなかった。手元の方へ身体を向けたように見えたが、意味は決めない』
それだけだった。
何歩だったか。
光はいくつだったか。
昨日より多いか少ないか。
今日は分からない。
それでも、その時間がなかったことにはならない。
アリシアは筆を持ったまま、昼の庭を思い出した。
土の匂い。
掌に乗せた小石の重さ。
「大きい」「細い」と何度も却下されたこと。
顔のない存在が子供の手元へ身体を向けたこと。
ノアが呆れていたこと。
どれも研究結果ではない。
けれど、思い返せばちゃんと一日の中に残っている。
最後に、朝の自分の状態を思い出した。
人工刺激に参加したい気持ちはあった。
試験がないと聞いたとき、少し残念だった。
それでも今は、今日試験をしなかったことへの残念さをほとんど感じていない。
『今日は答えが増えなかった。でも、嫌ではなかった』
書いたあと、アリシアは筆先を止めた。
紙へ落ちた影が、灯りの揺れに合わせて少し動く。
もう一行だけ続けた。
『研究しなかった時間が、空白には感じなかった』
ノアがいつの間にか寝台から降り、机の横へ来ていた。
『何それ』
「今日のこと」
『普通の日だったって書けば?』
アリシアはその言葉を聞いて、すぐには返事をしなかった。
「普通の日……」
『違うの?』
「違わない」
口にしてみる。
その瞬間、胸の奥に何かが大きく動いたわけではなかった。
涙が出るほど嬉しいわけでもない。
自分が変わったのだと強く実感したわけでもない。
ただ、少しだけ肩の力が抜けた。
研究をしなかったから普通なのではない。
試験をした日だって、授業へ行く。
友達と話す。
子供と食事をする。
ノアとくだらない言い合いをする。
生活観測区画で眠る。
研究も、学院も、この場所で過ごす時間も、どれか一つだけが本当の自分なのではない。
全部が少しずつ混ざって、今の毎日になっている。
「前はね」
アリシアが静かに言った。
ノアは机の横に座ったまま、急かさない。
「何も分からない日って、失敗した日みたいに思ってたかも」
『何も分からなかったの? 今日』
「六つ目のことは何も増えてない」
『それだけが一日じゃないでしょう』
「うん。今は分かる」
アリシアは指先で練習帳の端を撫でた。
「友達に定規貸したし、授業で失敗したし、石探したし。子供は私が選んだ場所に石置かなかった」
『最後のはどうでもよくない?』
「聞いたのに違うところ置いた」
『まだ気にしてたの』
「ちょっとだけ」
ノアが呆れたように目を細める。
アリシアは笑いながら、最後の一行を書いた。
『普通の日だった』
その文字を見ても、大げさな感動はなかった。
だからこそ、たぶん本当にそうなのだと思えた。
◇
練習帳を閉じても、アリシアはすぐに立たなかった。
明日、試験があるかもしれない。
どの候補になるかは分からない。
次の一回で反応するかもしれないし、何も起きないかもしれない。
現在残っている形が強くなることもあれば、また一つ反例が増えることもある。
少し前なら、その可能性を考え始めれば止まらなかった。
滑らかな条件で初めて何か出たら。
前半寄りでまた無反応だったら。
後半寄りで反応したら。
東側奥部だけが動いて、自分が何も感じなかったら。
いくつもの未来を頭の中へ並べ、その一つ一つに意味を付けたくなっていた。
今夜も、考えようと思えば考えられる。
けれど、アリシアは練習帳をもう一度開かなかった。
「寝る?」
ノアへ聞く。
『私はとっくに寝るつもりだったけど、誰かさんが長々書いてたから』
「待ってなくてよかったのに」
『待ってないわよ。ここが寝やすかっただけ』
「じゃあ先行って」
『命令されたくない』
「面倒くさい」
『お互い様』
アリシアは灯りを一つ消した。
共用室へ続く扉の向こうは、すでに静かになっている。
子供が並べた石は、たぶん明日の朝も机の上に残っている。
顔のない存在の胸には、今夜もいくつかの光があるのだろう。
地下では、見えていない何かが動いているかもしれない。
六つ目について分からないことは、昨日からほとんど減っていない。
それでも、今日一日が無駄だったとは思わなかった。
アリシアは窓辺へ行き、カーテンを閉める前に外を見た。
薄い雲の切れ間から、小さな星が一つだけ見える。
昼間、子供と石を拾った庭は暗く、どこに何が落ちていたのかもう分からない。
明日になれば、また試験をするかもしれない。
また数字を見て、波形を比べ、反応があったかどうかを確かめる。
そのときは、その一回を今までと同じ枠へ置けばいい。
答えに合うかどうかではなく、起きたことを起きたまま残す。
でも、それは明日になってからでいい。
今夜の生活観測区画には、研究結果を知らせる声も、装置の低い駆動音もなかった。
あるのは、遠くで誰かが扉を閉める音と、廊下を歩く職員の足音、それから寝台へ先に上がったノアが毛布の上で場所を整える小さな音だけだった。
アリシアはカーテンを閉じた。
答えを探さなかった一日にも、自分たちは食べ、話し、失敗し、笑い、誰かへ物を貸し、庭で石を拾った。
六つ目の正体には近づかなかったかもしれない。
けれど、自分の毎日はちゃんと先へ進んでいた。
何も進まなかった日ではない。
ただ、進んだものすべてに名前を付けなくてもいい日だった。




