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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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200/331

第200話 反応した日としなかった日を全部並べても、分かったことと分からないことを同じ線で囲まない

朝の生活観測区画には、昨日よりも柔らかな光が入っていた。


 空には薄い雲が広がっているものの、雨の気配はない。庭では低い木の枝を小鳥が何度か揺らし、そのたび葉の間から細かな影が石畳へ落ちた。窓を閉めていても、学院の方角から朝の鐘がかすかに聞こえてくる。


 アリシアは目を覚ますと、すぐに起き上がらなかった。


 昨日の試験を頭の中で思い出す。


 滑らかな十呼吸。


 東側奥部の開始状態は平坦寄り。


 それでも東側奥部に追加低下はなく、自分の胸部冷感もなく、西側に比較可能な遅延弱波形も現れなかった。


 これで、比較可能な滑らかな十呼吸は四回。


 今のところ四回とも、三つの結果は出ていない。


 対して、意図的小変動を入れた条件では反応した回もあるが、反応しなかった回もある。


 前半寄りにも。


 後半寄りにも。


 少し前までなら、そこから一番強そうな違いを選び、「これが原因かもしれない」と早く名前を付けたくなっていた。


 今も、その気持ちはなくなっていない。


 ただ、昨日の夜に書いた数字は五だった。


 滑らかな条件で無反応が続いたことを、「これで決まった」と思いたい気持ち。


 朝になっても、完全には消えていなかった。


 アリシアは寝台から降り、練習帳を開く。


 身体疲労、一。


 痛み、息苦しさ、冷感、震えはなし。


 人工刺激を受けたい気持ちは一。


 昨日までの試験をまとめて見たい気持ちは九。


 そして、少し迷ってからもう一つ書いた。


『小変動が必要だと思いたい気持ち 六』


「上がってる」


 自分で呟く。


 窓辺にいたノアが振り返った。


『昨日、五じゃなかった?』


「昨日は“これで決まったと思いたい”が五。今日は“小変動が必要だと思いたい”だから、ちょっと違う」


『細かい言い訳みたいね』


「違うよ」


『じゃあ説明して』


 アリシアは少し考えた。


「滑らかな方で四回何も出てないから、小変動が何かに必要なのかもって思ってる。でも、小変動があっても出なかった回が二回あるから、それだけじゃ足りないのも分かってる」


『それで六?』


「うん。必要だったら、今までの形が結構きれいになるから」


『きれいになってほしい気持ちも混じってそうね』


 アリシアの筆が止まった。


 少しだけむっとしてノアを見る。


 けれど否定できなかった。


「……それも六」


『同じじゃない』


「同じ数字でも意味違う」


『便利ね、数字』


「そういう使い方じゃない」


 言い返しながらも、アリシアはその下へ書き足した。


『きれいな説明になってほしい気持ち 六』


 書いてしまうと、少しだけ楽になった。


 自分が何を期待しているか分かっている方が、知らないふりをして記録を見るよりいい。


     ◇


 朝食前、子供は木箱を棚から下ろしていなかった。


 昨日、短線候補について紙上で位置と向きを確認したばかりだ。


 既存の二つの灰色仮線には、どちらにも綺麗には収まらなかった。


 だからといって第三の仮線を作ることもせず、実物の箱を開けることもしなかった。


 今日は机に、別の紙が置かれていた。


 交差一と交差二だけを大きく写したものだ。


「また二つ?」


 アリシアが聞く。


「うん」


「今日は何見るの?」


「線が来る向きと、出る向き」


 子供は交差位置の前後を指先で示した。


 交差一では、一本の線がやや斜めから入り、交差位置を越えた先で少し方向を変えて見える。


 交差二でも似た構造はある。


 ただし、角度は同じではない。


「同じ印か見る?」


 子供は首を振る。


「そこまでは分からない」


「じゃあ向きだけ?」


「うん。近いか、違うか」


 アリシアは少しだけ机へ身を寄せた。


 交差一と二。


 どちらも「交差」としては確認済みだが、同じ形の中に属するのか、まったく別の部分なのかは不明だった。


「箱、見たい気持ちは?」


「三」


「紙は?」


「八」


「じゃあ今日も開けないね」


「うん」


 子供は迷わなかった。


 今は、箱を開ければ何か分かるかもしれないという誘惑より、紙の上で見えるところを整理したい気持ちの方が強い。


     ◇


 朝食後、学院へ向かう途中で、アリシアはいつもの女子生徒と合流した。


 今日は選択授業の話ではなかった。


「お昼、食堂行く?」


「行くと思う」


「じゃあ席取っといて。午前最後の先生、たぶん延びるから」


「私が?」


「嫌?」


「嫌じゃないけど」


「じゃあお願い」


 あまりにも自然に頼まれたため、アリシアは数歩進んでから、ようやく少し不思議な気持ちになった。


 席を取る。


 それだけ。


 でも以前の自分なら、「どの席がいいか」「他の友達も来るのか」「隣を空ければいいのか」と考えすぎていたかもしれない。


「何人?」


 念のため聞く。


「私とアリシア。あと、たぶんミナも来る」


「三人」


「うん。窓際空いてたらそこ」


「分かった」


 それで済んだ。


     ◇


 午前の授業は、基礎結界の応用だった。


 防ぐための壁を作るのではなく、決められた範囲へ弱い魔力を均一に広げ、その中に入った物体の位置だけを把握する。


 簡易的な検知結界である。


 今日は一人ずつではなく、三人一組だった。


 アリシアたちの班では、一人が魔力を供給し、一人が形を維持し、もう一人が検知結果を読み上げる。


 最初の役割分担で、男子生徒がアリシアを見る。


「形維持やる?」


「なんで?」


「得意そうだから」


 以前にも似たようなことを言われた。


 アリシアは少し考えてから首を横へ振った。


「最初、読み上げやりたい」


「珍しい」


「やったこと少ないから」


「じゃあ俺が形やる」


 結界の中へ教師が小さな木片を投げ入れる。


 アリシアは魔力感覚の揺れを読み取る。


「右奥……たぶん、端から二つ目」


 実際には三つ目だった。


「外した」


「一個だけ」


「一個でも外れ」


「厳しいな」


 二回目は中央近く。


 今度は合った。


 三回目では二つの木片が同時に入れられ、一つは読めたが、もう一つを見落とした。


 役割を交代する。


 形を維持する番になると、今度は中央付近が少し薄くなった。


「アリシア、真ん中抜けてる」


「分かってる、今直す」


「怒ってる?」


「怒ってない」


「声ちょっと怖かった」


「集中してるだけ」


 班の二人が笑った。


 アリシアも、少し遅れて笑った。


 最後には三人とも全部の役割を一度ずつ行い、教師から合格をもらった。


 上手くできた役もあれば、そうでない役もある。


 それで授業は終わった。


     ◇


 昼休み、アリシアは約束通り食堂へ先に向かった。


 窓際の三人席が空いていた。


 自分の盆を置き、向かいと隣の席へ鞄を一つずつ置くわけにもいかないので、近くにいた給仕係へ確認してから、席札を二枚借りる。


 しばらくすると、女子生徒二人が慌ただしく入ってきた。


「ほんとに延びた!」


「先生、最後の説明長すぎ」


「席ここ」


「助かった」


 アリシアの向かいに一人、隣へもう一人が座る。


 今日の昼食は焼いた白身魚と豆の煮込み、それに少し辛い赤いソースが添えられていた。


 隣の女子生徒が、そのソースをほとんど全部魚へかける。


 アリシアは思わず見た。


「そんなにかけるの?」


「辛いの好き」


「私、これでも多い」


「一口いる?」


「いらない」


「即答」


「絶対辛い」


 向かいの女子生徒が笑う。


「アリシア、辛いの苦手なんだ」


「苦手。口ずっと痛くなる」


「子供みたい」


「痛いものは痛いよ」


「じゃあこっちの豆少し交換する?」


 向かいの生徒が、自分の皿の温野菜を示した。


 アリシアは少し迷ったあと、自分の豆の煮込みを少し分けた。


「これなら」


「ありがと」


 代わりに温野菜を受け取る。


 何か特別な約束をしたわけでもない。


 研究の話もしない。


 ただ授業の先生が話を伸ばしたことや、午後の課題、食堂の辛いソースの話をして昼食を終えた。


 帰り際、席を頼んできた女子生徒が言う。


「次、私が取るね」


「別に交代制じゃなくてもいいよ」


「じゃあ空いてた人」


「それでいい」


 アリシアは笑った。


     ◇


 午後、生活観測区画へ戻ると、今日は人工刺激を行わないことが告げられた。


 昨日が試験日だったので、予想通りだった。


「今日は全体整理をします」


 サーラが言う。


「ただし、全部の波形を一枚に重ねて“何か”を探すわけではありません」


 アリシアはすぐ頷いた。


「今まで決めた分類だけで見る?」


「はい。まず大きな区分と、固定五項目、それから結果側三項目です」


 今日の目的は、新しい違いを探すことではない。


 現在の比較可能な制御試験を、いったん同じ枠へ戻すこと。


 前半だけ。


 後半だけ。


 滑らかだけ。


 ここ数日、それぞれ別々に見てきた。


 今日は、それらを混ぜるのではなく、「どこまでならまとめて言えるか」を確認する。


     ◇


 解析室の大きな机へ、記録が一列に並べられた。


 滑らかな十呼吸が四回。


 意図的小変動を含む条件が八回。


 その八回の内訳は、前半寄りと後半寄り。


 反応ありは六回。


 無反応は二回。


 アリシアはその数を聞き、一度だけ眉を上げた。


「最初の頃、五回続けて反応してたんだよね」


「はい。そのあと後半寄りで一回無反応が入り、同じ後半寄りの別回では再び反応しました。その後、前半寄りでも無反応が一回増えています」


「だから今は六対二」


「意図的小変動を含む試験だけなら、そうです」


 アリシアは一列に並んだ記録を眺める。


 少し前までは、小変動あり五回連続反応という並びが強く見えていた。


 そこへ一つ目の反例が入り、さらに二つ目も加わった。


 形は崩れた。


 けれど、完全に消えたわけでもない。


 魔導具教師が最初に滑らかな四回を示す。


「この四回は、現在の比較基準では共通して、東側奥部の追加低下なし、アリシアさんの六つ目らしい冷感なし、西側の比較可能な遅延弱波形なしです」


「四回とも」


「はい」


「開始状態は同じじゃない」


「同じではありません。平坦寄りの回もあれば、それより傾きがある回もあります」


「だから、滑らかで反応なしなのを開始状態だけでは説明できない」


「そう考える方が自然です」


 アリシアは頷く。


 次に、意図的小変動を含む八回。


「こちらは六回で結果側三項目が揃って現れ、二回では三項目とも確認できませんでした」


「一個だけ出た回は?」


「現行の比較可能試験にはありません」


 アリシアの視線が止まる。


「東側だけ出て私が感じないとか、私だけ感じて西側が出ないとか?」


「現在のこの制御試験群では、ありません」


 古い記録には精度や条件の違いがある。


 曖昧な候補や欠測もある。


 だから、すべての過去記録へ同じことを言えるわけではない。


 それでも、現在の管理された比較群だけに限れば、三つは揃っている。


「ここが一番残ってる」


 アリシアが静かに言う。


「現時点では、そうですね」


     ◇


 次に前半・後半の位置で分ける。


 前半寄りには、反応ありも無反応もある。


 後半寄りにも、反応ありも無反応もある。


「だから位置だけじゃ決まらない」


「はい」


「じゃあ開始状態」


 後半の二例では、無反応回の方が刺激前の平均傾斜が強く低下側へ向いていた。


 反応回の方が平坦だった。


 しかし前半の反応あり/無反応二例では、どちらも比較的平坦で近い。


 さらに昨日の滑らかな無反応回も平坦寄りだった。


「これも単独では決まらない」


「はい」


「直前の自然揺れ」


 回数や幅には差がある。


 だが、反応ありだけをきれいに一群へまとめる形にはならない。


「立ち上がりと戻りも?」


「同じです。差はありますが、現時点で反応あり/無反応を一つの境界で分けられません」


 アリシアは机の上の紙を順番に見た。


 昨日まで、一つずつ見た内容だ。


 全部並べると、少し違って見える。


 答えになりそうだったものが、順番に「それだけでは足りない」へ変わっていく。


 前半か後半か。


 開始状態の傾き。


 変動幅。


 直前の自然揺れ。


 立ち上がり。


 戻り。


 どれも記録する価値はある。


 けれど今の段階では、どれか一つだけで結果を決められない。


「じゃあ、今言えるのって思ったより少ない」


 アリシアの声に落胆はあった。


 でも、強くはない。


 サーラが尋ねる。


「何が言えると思いますか」


 アリシアはすぐ答えず、一度全体を見渡した。


「滑らかな四回では、今のところ三つとも出てない」


「はい」


「小変動ありでは、反応した回も、しなかった回もある」


「はい」


「反応した六回では、東側追加低下と、私の感覚と、西側遅延波形が一緒にある」


「はい」


「無反応二回では三つともない」


「その通りです」


 アリシアはそこで止まった。


「……それくらい?」


「それが、現在かなり安全に言える範囲です」


 若い観測員が答える。


 アリシアは少しだけ苦笑した。


「十二回やって、それくらい」


「十二回やったからこそ、“それくらい”まで減らせたとも言えます」


 サーラの言葉に、アリシアは何も返さず紙を見る。


 確かに、最初の数回だけならもっとたくさん言えた。


 早い変化だから。


 後半だから。


 平坦だから。


 自然揺れがあるから。


 そういう説明を作ろうと思えば、いくつも作れた。


 回数が増えたことで、その多くが弱くなった。


「分かったことが減ったんじゃなくて、言っちゃだめなことが増えた?」


「良い表現ですね」


「嬉しくないけど」


 室内に小さな笑いが起きた。


     ◇


 そこでサーラは、新しい紙を三枚だけ用意した。


 一枚目。


『現在かなり言えること』


 二枚目。


『候補として残すこと』


 三枚目。


『まだ言わないこと』


 アリシアは紙を見比べる。


「分けるの?」


「今日はそれだけやります」


「新しい仮説作らない?」


「作りません」


「分かった」


 一枚目へ書かれる。


 現在の比較可能な滑らか十呼吸四回では、結果側三項目がいずれも確認されていない。


 現在の意図的小変動あり八回では、六回で東側奥部追加低下・アリシアの弱い感覚・西側遅延弱波形がまとまって確認され、二回では三項目とも確認されていない。


 現在の反応あり六回では、三項目のまとまりが崩れていない。


「ここまで」


 アリシアが言う。


「はい」


 二枚目。


 小変動の存在は、反応発生に関係する強い候補。


 東側奥部の刺激前平均傾斜と変動幅。


 小変動の立ち上がりと戻り。


 直前自然揺れの回数と幅。


 これらは今後も固定記録する。


 ただし、現時点では単独の決定因子として扱わない。


「位置は?」


「前半・後半も条件分類として残します。ただし位置単独で結果は決まりません」


「うん」


 三枚目。


 小変動が必ず必要である。


 東側奥部追加低下がアリシアの感覚を直接起こしている。


 アリシアが感じることが西側波形を生じさせている。


 東側が西側へ情報を送っている。


 六つ目が東側と西側を中継している。


 特定の開始傾斜に閾値がある。


 小変動の特定形状が鍵である。


 それらは、まだ言わない。


 アリシアは三枚目の方が長くなっていくのを見ながら、少し複雑そうな顔をした。


「言わないこと多い」


「それだけ候補を区別できるようになったということです」


「最初は全部言いたかった」


「今も?」


 聞かれて、アリシアは少し考えた。


「ちょっとは」


 正直に答える。


「六つ目が東側の何かを感じてる、とか。東西をつないでる、とか。言えたらすごく分かりやすい」


「はい」


「でも、まだ言えない」


「そうですね」


 アリシアは三枚目へ視線を戻した。


「じゃあ消さないで、ここに置いとく」


     ◇


 休憩に入った頃には、午後の光が解析室の床へ長く伸びていた。


 アリシアは廊下へ出ると、壁際の窓を少しだけ開けた。


 風が入ってくる。


 朝より暖かい。


 少し離れたところで、若い観測員と設備担当者が何かを話していたが、アリシアは聞きに行かなかった。


 次にどの条件を使うか。


 今後、何回繰り返すか。


 そうした話は、条件を知らない状態で参加するなら、自分から離れていた方がいい。


「気にならない?」


 ノアが足元から聞く。


「気になる」


『聞きに行かないの?』


「行かない」


『珍しい』


「聞いたら次の予想変わるかもしれないから」


 アリシアは窓の外を見る。


「今は、前半でも後半でも滑らかでもいい」


『本当に?』


「……滑らかで反応出たら、かなりびっくりする」


『じゃあ全然平等じゃない』


「予想はあるよ。でも選ばない」


 ノアはそれならいいというように、窓の下へ座った。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は朝の比較を終えていた。


 交差一と交差二では、交差へ入る線の角度にも、出たあとの角度にも差がある。


 ただし、複写精度と隠れている部分があるため、それが本当に形の違いなのか、見える範囲の違いなのかは確定できない。


「同じじゃなかった?」


 アリシアが聞くと、子供は少し考えた。


「同じとは言えない。でも違うともまだ言えない」


「難しいね」


「うん」


「箱開ける?」


 子供は棚の木箱を一度見た。


 そのあと首を横へ振る。


「今日はいい」


「見たい気持ちは?」


「四。でも紙で分かったところ、まだ書いてない」


「じゃあ先にそっちだね」


「うん」


 子供は交差一と二の紙へ、それぞれ矢印を小さく付け始めた。


 矢印はあくまで「見える線が向いている方向」であり、線がその先へ必ず続くという意味ではない。


 その区別も、今では本人が理解していた。


     ◇


 顔のない存在は、午後のほとんどを椅子で過ごした。


 胸には、確認できた時点で明るい一つと弱い二つ。


 子供は位置を記録したが、立ち上がるまで待とうとはしなかった。


 しばらくすると、顔のない存在は自分から窓の方へ身体を向けた。


 庭で小鳥が枝を揺らしている。


 顔がないため、何を見ているのかは分からない。


 それでも身体の向きだけは、しばらく窓へ向いたままだった。


 子供も隣から庭を見る。


「鳥いる」


 返事はない。


「小さい」


 それでも返事はない。


 子供は記録紙へ手を伸ばさなかった。


 二人はただ同じ窓の方を向いていた。


     ◇


 夕方、アリシアは食堂前の廊下で昼の二人とまた会った。


「辛いの、夜もあるよ」


 昼に赤いソースを大量にかけていた女子生徒が言う。


「いらない」


「まだ何も勧めてない」


「絶対勧める顔してた」


「分かるようになったね」


 隣の女子生徒が笑う。


「アリシア、これから食べる?」


「今日は生活区画で食べる」


「そっか。また明日」


「うん。また明日」


 それだけのやり取りで別れる。


 言ったあと、アリシアは少しだけ歩みを緩めた。


 また明日。


 以前なら、そういう言葉を自分から自然に返すことにも、少し時間が必要だった気がする。


 今日は考える前に出ていた。


     ◇


 夜。


 生活観測区画が静かになってから、アリシアは練習帳を開いた。


 今日は人工刺激をしていない。


 それでも書きたいことは多かった。


 最初に、現在の比較可能な制御試験をまとめる。


『滑らかな十呼吸 四回。現在、東側追加低下・私の冷感・西側遅延弱波形はいずれも四回ともなし』


『意図的小変動あり 八回。反応あり六回、無反応二回』


『反応あり六回では、東側奥部追加低下・私の弱い感覚・西側遅延弱波形がまとまって確認されている』


『無反応二回では三つともなし』


 数字だけを見ると、何か言いたくなる。


 滑らかは四分のゼロ。


 小変動ありは八分の六。


 でも、そこで「だから小変動が必要」と書かない。


 アリシアは一行空けた。


『今かなり言えるのは、ここまで』


 その下へ、候補を書く。


『小変動の存在は強い候補。ただし小変動ありでも二回無反応なので十分ではない』


『刺激前の東側奥部平均傾斜・変動幅、入力立ち上がり・戻り、直前自然揺れは固定して記録継続。ただし単独の原因扱いをしない』


『前半/後半の位置単独でも結果は決まらない』


 さらに、今日作った三枚目を思い出す。


『まだ言わないこと』


 少しだけ笑いそうになる。


 普通なら「分かったこと」を書きたい。


 でも今日は、言わないことの方が多かった。


『東側奥部追加低下が私の感覚の直接原因とはまだ言わない』


『東側から西側へ何かが送られているとも言わない』


『六つ目が中継しているとも言わない』


『小変動が必要条件だともまだ言わない』


『閾値も決めない』


 そこまで書き、アリシアは筆を止めた。


「いっぱい」


 ノアが机の横から覗き込む。


『何が?』


「言わないこと」


『言いたいの?』


「言いたい」


『じゃあ書けば?』


「だめ」


『自分で分かってるなら聞かないで』


「ノアが聞いたんでしょ」


『そうだっけ』


「そうだよ」


 アリシアは少し笑い、最後の整理へ進む。


『今のところ、一番崩れていないまとまりは、東側奥部追加低下がある回には私の弱い感覚と西側遅延波形もあり、追加低下がない回には二つもないこと』


 ただし、因果順序は確定しない。


 入力が東側を動かしたのか。


 別の見えない状態が三つを同時に動かしたのか。


 六つ目がその一部を感じているだけなのか。


 まだ分からない。


『次の優先は、新しい刺激条件を増やすことではなく、既存三候補を同じ記録枠で繰り返し、自然に異なる開始状態を集めること』


 ここは以前から変わっていない。


 むしろ今回の全体整理で、その必要性が強くなった。


 好きな条件だけを選ばない。


 後半だけ追わない。


 前半だけ追わない。


 平坦な開始状態の日だけ実施しない。


 小変動が入りそうな日だけ選ばない。


 滑らかな条件も残す。


 反応ありも無反応も、同じ記録として置く。


 アリシアはその下に、朝の自分へ返すように書いた。


『小変動が必要だと思いたい気持ち 朝六。夜四』


『きれいな説明になってほしい気持ち 朝六。夜三』


 ノアが横から見て、少し鼻を鳴らした。


『減ったじゃない』


「今日は言えないこといっぱい見たから」


『残念?』


「少し。でも、前より嫌じゃない」


『何で?』


 アリシアはすぐには答えなかった。


 机の上に今日の三枚の紙はない。


 学院側に残してきた。


 それでも頭の中には、はっきり残っている。


 言えること。


 候補として残すこと。


 まだ言わないこと。


「分からないの全部同じじゃなくなったから」


『どういう意味?』


「まだ分からないけど、今言っていいことと、まだ言っちゃだめなことは前より分かる」


 ノアは数秒黙った。


『それ、結構進んだんじゃない』


「そうかな」


『知らないけど』


「最後に逃げた」


『研究者じゃないから』


「便利」


『猫だから』


 アリシアは笑った。


 日常欄へ移る。


『昼、友達の席を二人分取った。辛いソースは食べなかった。豆と温野菜を少し交換した』


 研究とは何の関係もない。


 だから、それでいい。


『授業は検知結界。読み取りを一回外して、一回は二個のうち一個見落とした。形維持も中央を薄くした。最後は合格』


 子供について。


『交差一・二の前後方向を紙上比較。似る部分と違う部分あり。ただし複写・隠れ部分があるため同一形/別形は決めない。箱は開けず』


『顔のない存在は午後、確認時に明るい一・弱い二。歩行を待たず。しばらく子供と同じ窓の方を向いていた』


 最後の行へ進む前に、アリシアは窓の外を見た。


 夜の庭は暗い。


 昼間、小鳥が止まっていた枝も見えない。


 研究を始めたばかりの頃は、答えに近づくほど、言えることが増えていくのだと思っていた。


 実際には逆のこともある。


 記録が増えたからこそ、簡単には言えなくなる。


 前は言えそうだったことが、言えなくなる。


 でも、それは後ろへ戻ったのではない。


 間違って言える範囲が狭くなっただけなのかもしれない。


 アリシアは最後に書いた。


『十二回分を並べたら、答えは増えなかった。でも、どこから先をまだ答えにしてはいけないかは前より分かった』


 少し考え、その下にもう一行だけ加える。


『次の一回も、答えに合うかではなく、今の枠へそのまま置く』


 練習帳を閉じる。


 二百回目の夜だからといって、何かの正体が分かったわけではない。


 六つ目には、まだ正式な名前さえない。


 なぜアリシアが選ばれたのかも、何を感じているのかも、東側奥部の反応が何なのかも、東と西の間に本当に何かが通っているのかも分からないままだ。


 けれど、分からないものの扱い方は変わった。


 感じたから答えではない。


 反応したから成功でもない。


 何も起きなかったから失敗でもない。


 嬉しい記録だけを残さず、嫌な一回も同じ机に置く。


 言いたいことと、言っていいことを分ける。


 それを繰り返した先にしか、六つ目へ近づく道はないのだろう。


 窓の外で、一度だけ枝が風に揺れた。


 アリシアはその音を聞きながら、今夜は新しい仮説を書かなかった。


 まだ名前を付けないまま残しておくことも、もう以前ほど怖くなかった。

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