第199話 平らな始まりで何も入れなかった日にも動かないなら、小さな変化の意味をもう一度分けて考える
朝の空は、昨日とは違ってよく晴れていた。
夜明けの頃にはまだ薄い雲が残っていたらしいが、アリシアが目を覚ましたときには、生活観測区画の窓から淡い青空が見えていた。庭の石畳もすっかり乾き、昨日の雨を残しているのは、日の当たりにくい植え込みの奥と、軒下にできた小さな水溜まりくらいだった。
窓を少し開けると、冷たすぎない風が入ってくる。
アリシアは寝台の縁へ腰掛けたまま、しばらく胸へ意識を向けた。
何もない。
冷たさも、深い違和感もない。
痛みや息苦しさ、震えもなく、身体の疲れもほとんど残っていなかった。
昨日は人工刺激を行わず、その前日に反応しなかった前半寄り試験と、以前に反応した前半寄り試験を比較した。
大きな条件は似ていた。
入力側の固定三項目にも多少の差はあったものの、どちらが反応するかをきれいに分けられるほどではない。
東側奥部の開始状態にいたっては、二回とも平坦寄りで近かった。
それでも結果は違った。
一方では東側奥部の追加低下が起こり、自分の胸に弱い冷たさがあり、西側にも遅れて弱い波形が出た。
もう一方には、その三つがなかった。
以前より分からなくなった。
けれど、その「分からない」は、少し前とは違う。
見なければならない場所がなくなったわけではない。
今ある物差しだけではまだ分かれなかった、と言えるようになった。
アリシアは机へ移り、練習帳を開いた。
身体疲労、一。
人工刺激に参加したい気持ち、六。
昨日の比較をさらに考えたい気持ち、七。
次にどの候補が選ばれるか知りたい気持ち、八。
そこまで書いてから、少し迷う。
昨日の夜、自分は「今のところ一番崩れていないのは、東側奥部追加低下が出る回と、その後の自分の感覚、西側の波形が一緒に分かれることだ」と整理した。
なら、今日は何を期待しているのか。
『もし滑らかな十呼吸なら、東側奥部追加低下は出ないと思う』
書いたあと、数字を付ける。
「七……かな」
ノアが寝台の足元から顔を上げた。
『今度は滑らかな方を信じ始めたの?』
「信じるっていうより、今まで三回とも何もなかったから」
『三回で七』
「平らなら反応するよりは、今のところ崩れてない」
『昨日、嬉しい結果を正しい試験にしないって書いてたわね』
「書いた」
『じゃあ、何も起きなかった三回を今度は正しい滑らか試験にする気?』
アリシアの筆が止まった。
「……それは嫌」
『でしょ』
「でも予想するのはいいよね」
『予想は勝手にしたらいいんじゃない。試験を予想へ寄せなければ』
アリシアは少し考えて、数字の横へ書き足した。
『滑らかなら何も起きないと思う気持ち七。ただし、そうであってほしい気持ちは五』
「これなら違う」
『何が』
「予想と希望」
『最近そこばっかり細かくなるわね』
「大事だから」
『まあ、本人が言うなら』
ノアは大きく伸びをして、窓辺へ移っていった。
◇
朝食前、子供は久しぶりに木箱関係の紙を机へ出していた。
ただし箱そのものは棚の上に置いたままだった。
真正交差一。
真正交差二。
弱い交差三候補。
その周囲の線を写した薄紙。
そして、以前から別に残してある短線候補。
アリシアが近づくと、子供は最後の一枚だけを指で押さえた。
「今日はこれ見る」
「短い線?」
「紙だけ」
「箱は開けない?」
「開けない」
返事は迷いなく返ってきた。
短線候補は、紙上の二つの接続案のどちらにもきれいには収まらない位置にあった。しかも別の複写にも、縮尺を合わせれば似た位置へ短い線らしきものが見える。
だから、汚れや写し損ねではなく、実際に刻まれている可能性が少し高くなっている。
それでも、まだ実物確認はしていない。
「何見るの?」
「交差一と二から、どれくらい離れてるか」
「つながるかじゃなくて?」
「うん」
子供は薄紙を重ねながら答えた。
「つながると思って見ると、つなげたくなるから」
アリシアはそれを聞いて、少しだけ口元を緩める。
「じゃあ位置だけ」
「位置と向き」
「それなら二つ?」
「うん」
エルデン教師も、その範囲なら紙上だけで十分だと判断した。
短線候補は、交差一と交差二の中間よりやや外側。
向きは、これまで想定していた二つの灰色仮線のどちらとも完全には一致しない。
片方へ寄せれば角度が足りず、もう片方へ寄せれば位置がずれる。
「やっぱり入らない」
子供が少し困った顔をする。
「新しい灰色線、作る?」
アリシアが聞くと、子供はすぐには頷かなかった。
紙をしばらく眺め、首を横へ振る。
「今日は作らない」
「なんで?」
「短い線、本当にあるかまだ分かんないから」
「そっか」
「灰色増やすと、それが本当みたいになる」
その返事に、エルデン教師が小さく頷いた。
今日は位置と向きだけ。
そこから新しい接続案を作らない。
箱も開けない。
短線候補は、候補のまま残す。
◇
朝食後、学院へ向かう途中で、アリシアは一度だけ自分の鞄を開いた。
昨日まで使っていた筆の先が少し割れていることに気づいたからだ。
完全に書けないわけではない。
けれど細い線を書くと、二股に分かれる。
「どうしたの?」
後ろから声をかけてきたのは、選択授業の話をしている女子生徒だった。
「筆が割れてる」
「見せて」
アリシアが差し出すと、女子生徒は先を確認してから自分の鞄を探り、予備の筆を一本取り出した。
「今日これ使えば?」
「でもそっちのじゃない?」
「予備。二本ある」
「なくしたら?」
「じゃあ植物管理で何か育てたら一個もらう」
「筆一本と植物って釣り合わなくない?」
「じゃあ葉っぱ一枚」
「枯らしたら?」
「また枯らす話してる」
女子生徒が笑い、アリシアもつられて笑った。
「今日だけ借りる。帰りに返す」
「急がなくていいよ」
「忘れるから返す」
「そこはしっかりしてるんだ」
「借りたの持って帰る方が落ち着かない」
結局、アリシアは筆を借りた。
ただそれだけのことだった。
でも、自分の持ち物で困ったときに、誰かから自然に物を借りることにも、以前ほど抵抗がなくなっていた。
◇
午前の授業は、魔法史でも実技でもなかった。
学院内の共用室を使った、小規模な共同作業だった。
いくつかの授業で使う布、紐、簡単な工具、練習用札などを、次の班が使いやすいように整える。数を数えて帳簿へ記す備品管理とは違い、今回は乱れたものを戻し、傷んだものだけ脇へ避ける程度の軽い作業だった。
アリシアの班は四人。
机の上には長さの違う紐が何十本も置かれている。
「これ、長いのと短いの分ければいい?」
男子生徒が聞く。
「色も違うよ」
別の女子生徒が答える。
「じゃあ色ごと?」
「でも同じ色で長さ違う」
「面倒だな」
アリシアは一本ずつ見ながら、箱の仕切りを確認する。
「箱の中、縦に長さ、横に色って書いてある」
三人が一斉に箱を見る。
「ほんとだ」
「最初に見ればよかった」
「誰も見てなかったの?」
「アリシアも今見たじゃん」
「うん」
誰か一人だけが正しいわけではなく、全員で少しずつ見落とす。
そこから作業が早くなった。
色を分ける者。
長さを見る者。
傷んだ部分がないか確認する者。
箱へ戻す者。
アリシアは途中で、自分が一人で全部確認しようとしていることに気づき、手を止めた。
「これ、私、長さだけ見る」
「じゃあ俺、傷み見る」
「私は色」
自然に役割が分かれる。
それだけで作業はずっと楽になった。
終わった頃には、机の上に残っているのは交換が必要な三本だけだった。
「最初より早かったね」
女子生徒が言う。
「途中から」
「最初、全員勝手にやってたからね」
「アリシアも全部見ようとしてたし」
「見てた」
「研究の癖?」
「分かんない」
アリシアは少し笑った。
「たぶん私の癖」
◇
昼前に生活観測区画へ戻ると、今日は人工刺激を行う可能性があると伝えられた。
昨日は分析日。
身体状態も安定している。
既存安全条件の中で一回だけ実施する。
候補は変わらない。
滑らかな十呼吸。
前半寄り小変動。
後半寄り小変動。
条件はアリシアへ知らせない。
東側奥部の開始状態についても、終了まで伏せる。
「朝の予想、変わってますか」
サーラが確認する。
「滑らかなら何も起きないと思う七。そうであってほしいは五」
「参加希望は?」
「八」
「恐怖」
「二」
「身体疲労」
「一」
「痛み、息苦しさ、冷感、震え」
「全部なし」
治療教師の確認でも問題はなかった。
アリシアは椅子へ座る前、一度だけ胸元へ手を置いた。
「今日、滑らかだったとして、平らかどうかは教えてくれないんだよね」
「教えません」
「聞いただけ」
魔導具教師は笑わずに頷いた。
「終了後には、固定した五項目で開示します」
「うん」
◇
観測室は、ここ数回と同じ配置だった。
アリシアから条件決定側の動きは見えない。
サーラや治療教師の位置も変わらず、机の上へ置かれた紙の枚数も同じように整えられている。
ノアは少し離れたところへ座り、試験中は余計なことを言わない。
開始前、アリシアは改めて参加意思を確認された。
「やる」
自分の口で答える。
それから、呼吸を整えた。
今日も、何かを感じようとしている自分がいる。
胸の奥へ注意を向けすぎると、普段なら気にしない小さな感覚まで意味を持ち始める。
服の縫い目。
呼吸で動く胸骨。
少し冷たい室内の空気。
肩の位置。
身体には、いつも何かがある。
「探してる感じ、五」
アリシアが申告する。
以前より少し低い。
それでもゼロではない。
開始から何呼吸か過ぎる。
胸部に冷感はない。
方向感もない。
震えもない。
少しして、胸の中央より左側へ、一瞬だけ圧迫感のようなものを覚えた。
アリシアはすぐには口にしなかった。
一呼吸だけ待つ。
次の呼吸では消えていた。
「今、一瞬だけ左側に押される感じ。冷たくない。〇・一くらい。もう消えた」
「痛みですか」
「違う。息苦しくもない」
「方向感は?」
「ない」
記録だけされる。
それ以上、誰も意味を付けない。
アリシアも胸を触らず、そのまま待った。
その後は何も起きなかった。
試験の終わりまで、六つ目らしいと自分が考えられる冷感は現れない。
東方向の感覚もなし。
震えなし。
痛み、息苦しさなし。
「最後まで、冷たいのはゼロ」
終了の合図が出ると、アリシアは背もたれへ少し身体を預けた。
「予想は?」
サーラが尋ねる。
「滑らか六。前半三。後半三くらい」
自信はない。
何も感じなかったから滑らかだと思っているだけなのかもしれない。
前にも、その予想は外れている。
「条件知りたい九」
「身体確認後です」
「分かってる」
返事はしたものの、アリシアの視線は別室から記録が来る扉へ何度も向かった。
◇
身体確認では異常なし。
疲労二。
恐怖二。
胸部冷感残留なし。
先ほどの一瞬の圧迫感も再現しない。
治療教師が問題なしと判断したあと、ようやく記録が運ばれてきた。
魔導具教師が最初の紙を開く。
「今日の実際条件は、滑らかな十呼吸です」
アリシアの目が少し大きくなった。
「当たった」
「今回は」
「何も感じなかった」
「はい」
嬉しいというより、少し安心に近かった。
前回のように「何も感じなかったから滑らかだと思ったのに、実は小変動が入っていた」という外れ方ではなかった。
「でも開始状態まだ見てない」
「その通りです」
アリシアはすぐに気持ちを整える。
もし東側奥部の開始状態が強い低下傾向だったなら、今日の無反応は開始状態の影響とも考えられる。
逆に平坦なら、滑らかな入力そのものの意味が少し強くなるかもしれない。
そう考えた瞬間、自分がもう結果へ意味を寄せようとしているのに気づいた。
「……開始状態が平らであってほしい気持ち、今八」
自分から言う。
若い観測員が少し驚いて記録した。
「理由は?」
「平らでも滑らかなら何も起きないってなったら、小変動の意味が残るから」
言葉にすると、欲しい結果がはっきりする。
アリシアは少し苦い顔をした。
「結構思ってる」
サーラは否定も肯定もせず、頷いた。
「では、その状態で開示します」
◇
入力側は滑らかな十呼吸。
意図的小変動はない。
もちろん完全に無変動ではなく、装置由来や自然なごく小さい揺れはある。しかし、前半・後半条件で意図的に入れている範囲の変化は置かれていない。
立ち上がりと戻りは、これまでの滑らか条件と比較可能な範囲。
直前の自然揺れも小さく、特別大きなものではなかった。
そして東側奥部の開始状態。
紙が開かれた瞬間、アリシアの視線が止まる。
「……平ら」
直近の前半無反応回と近い。
以前の前半反応あり回とも、少なくとも平均傾斜だけなら近い側にある。
変動幅も大きくない。
「平均傾斜は?」
「反応あり前半回、昨日比較した無反応前半回の近傍に入ります」
「直近の後半無反応みたいな強い下がりじゃない」
「違います」
アリシアは数秒、何も言わなかった。
朝、自分が予想していた形に近い。
滑らかな十呼吸。
平坦寄りの東側開始状態。
そして主観反応なし。
「……嬉しい六」
少し迷ってから申告する。
「結果が合ったから?」
サーラに聞かれる。
「うん。でも、ちょっと嫌」
「なぜですか」
「嬉しいと、また信じすぎそうだから」
昨日、自分で書いたことが頭に浮かぶ。
嬉しい結果の方を正しい試験にしない。
「だから嬉しい六。これで決まったと思いたいのは……七くらい」
ノアが少し離れたところから片耳を動かしたが、まだ何も言わない。
◇
次は東側奥部の結果側だった。
滑らかな上昇が続いた十呼吸の中で、前半・後半小変動回に見られたような追加低下は確認できない。
基線は細かく揺れている。
けれど、それはこれまでの滑らか回で見られた範囲に近い。
「追加低下、なし」
「現時点の比較基準では、なしです」
「私もなし」
「はい」
最後に西側。
比較可能な明瞭な遅延弱波形は確認されなかった。
完全に平坦な線ではない。
小さな揺れはある。
しかし、東側追加低下を伴った反応あり回の後方で見られたような形ではない。
アリシアは三つの結果を見てから、椅子へ少し深く座った。
「また三つ一緒にない」
「はい」
「滑らかはこれで四回?」
「現在の比較可能な滑らか十呼吸としては、四回です」
「四回とも私の冷感なし。東側追加低下もなし。西側もなし」
「今のところは」
魔導具教師が最後に付け足す。
その言葉を聞いて、アリシアは少し笑った。
「今のところ、って言った」
「大事ですから」
「うん」
◇
今日の結果だけを見るなら、きれいだった。
平坦寄りの開始状態。
滑らかな入力。
東側追加低下なし。
アリシアの冷感なし。
西側遅延弱波形なし。
一方、平坦寄りの開始状態でも、前半小変動を入れた過去の反応あり回では三つが出た。
だから、開始状態が平坦であることだけでは足りない。
滑らかな入力では、少なくとも今までの四回、その後の三つが出ていない。
「これなら、小変動が必要って言っていい?」
アリシアが尋ねる。
サーラは少し考えてから首を横へ振った。
「“現在の比較可能な反応あり回では、すべて意図的小変動を含んでいる”までは言えます」
「必要条件は?」
「まだ強い言い方です」
「なんで?」
「観測していない種類の自然変動、装置で拾えていない細かな成分、過去の記録精度の問題があります。それに、滑らか条件はまだ四回です」
アリシアは少しだけ不満そうな顔をする。
「四回でも少ない」
「この問題では」
「何回なら多い?」
「今、数字を決めるべきではありません」
「そうだった」
自分で言ってから、小さく笑った。
「すぐ閾値作ろうとする」
「今日は回数の閾値ですね」
若い観測員が言い、室内に少し笑いが広がった。
緊張が緩む。
アリシアも笑いながら、もう一度記録を見る。
「じゃあ、“小変動の有無がまだ強い候補”くらい?」
「ただし“小変動があれば反応する”は、すでに二回崩れています」
「後半一回、前半一回」
「はい」
「だから小変動だけじゃ足りない。でも、今まで反応した回には全部ある」
「現行の比較可能試験では、そうです」
アリシアの目が少し細くなる。
「必要かもしれない。でも十分じゃない」
「候補としては、その表現が近いでしょう」
「候補として」
そこは忘れないように、アリシア自身が繰り返した。
◇
今日の試験はそこで終了した。
二回目は行わない。
アリシアも求めなかった。
むしろ、昨日までの二組と今日の滑らか回を、早く一度整理したかった。
ただし全てを同じ日に重ねるのではない。
今日は試験結果を残すところまで。
細かな比較は明日以降へ回す。
観測室を出ると、廊下へ午後の光が長く伸びていた。
窓の向こうでは、中庭を数人の生徒が横切っている。授業を終えた者、次の教室へ急ぐ者、壁際で立ち話をしている者。
アリシアは少しだけ足を止めた。
「嬉しい?」
ノアが隣から聞く。
「六って言った」
『今は?』
「五」
『下がった』
「考えたら、まだ四回だから」
『さっきまで四回って言って喜んでたのに』
「喜んでない。ちょっと嬉しかっただけ」
『似たようなものでしょ』
「違う」
アリシアは歩き出す。
「でも、滑らかな方が今のところ揃ってるのは嬉しい」
『何が嬉しいの?』
「全部分かんなくなったわけじゃないから」
昨日、固定五項目だけでは前半の反応ありと無反応を分けられなかった。
その結果に、以前ほど落ち込まなかったとはいえ、何も残っていないような感覚が一瞬だけあった。
今日、滑らかな条件ではまた三つとも出なかった。
それは一つの形を残してくれた。
だから嬉しい。
そして、嬉しいからこそ警戒しなければならない。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は午前の短線候補の紙をすでに片付けていた。
机には小さな布切れと糸が置かれている。
「何してるの?」
アリシアが尋ねる。
「絵の紙、角破れた」
昨日まで描いていた庭の絵の端が少し裂けていた。
それを保護するため、エルデン教師に教わりながら薄い布を裏へ当てているらしい。
「糊じゃないんだ」
「こっちの方があとで外せるって」
「失敗したら?」
「もう一回」
子供は細かな作業へ集中していた。
木箱の紙から離れたあとも、自分でやりたいことを見つけている。
アリシアは少しだけそばで見ていたが、手を出さなかった。
「短い線、どうだった?」
しばらくしてから子供の方が聞く。
アリシアは一瞬、自分の試験の話かと思ったが違う。
子供が自分の短線候補のことを聞いているわけでもない。
「私?」
「今日、試験した?」
「したよ」
「何かあった?」
「何も感じなかった」
「そっか」
子供はそれだけ言い、また布の位置を整えた。
詳しい説明は求めてこなかった。
アリシアも続きを話さなかった。
◇
夕方、借りていた筆を返しに教室へ寄った。
女子生徒はちょうど鞄へ教材を詰めているところだった。
「これ、ありがとう」
「もう返すの?」
「言ったでしょ」
「別に明日でもよかったのに」
「持って帰ると忘れそう」
「植物の葉っぱは?」
「筆返したからなし」
「じゃあ損した」
「何もあげる約束してない」
アリシアが筆を差し出すと、女子生徒は受け取りながら笑った。
「でも選択授業、植物管理にするなら見せてね」
「育ったら」
「枯れても」
「まだ言うの?」
「気になるし」
そのやり取りの途中で、別の生徒が会話へ加わってきた。
「植物管理って何育てるの?」
「まだ知らない」
「薬草もあるらしいよ」
「じゃあ俺も見ようかな」
会話は自然に広がった。
アリシアが中心になるわけでもなく、置いていかれるわけでもない。
数分だけ一緒に話してから、それぞれ帰る方向へ散っていった。
◇
夜になり、生活観測区画が静かになる。
子供は早めに自分の場所へ戻り、顔のない存在も今日は長い歩行をしなかった。
午後に一度立ち上がったものの、二歩進んだところで椅子へ戻った。胸の光は後から確認した時点で明るい二つと弱い一つだったが、変化した時刻は分からない。
子供はいつも通り、歩数と光を別々に記録した。
アリシアは自分の机へ座る。
練習帳を開いた瞬間、朝に書いた一文が目に入る。
『もし滑らかな十呼吸なら、東側奥部追加低下は出ないと思う。予想七。そうであってほしい五』
結果は、その予想に合った。
だからこそ、少し慎重になった。
『実際条件:滑らかな十呼吸。人工的小変動なし』
入力側はこれまでの滑らか試験と比較可能。
東側奥部開始状態は平坦寄り。
少なくとも直近の強い低下傾向を示した後半無反応回とは異なり、前半反応あり回・前半無反応回にも近い範囲。
そして結果。
『東側追加低下なし。私の冷感・方向感・震えなし。西側の比較可能な遅延弱波形なし』
アリシアはそこまで書いて、一度筆を止めた。
現在の滑らかな十呼吸は四回。
四回とも、三つが出ていない。
意図的小変動を含む試験では、反応ありと無反応の両方がある。
今の比較可能な範囲では、反応あり回にはすべて小変動が含まれている。
その形は確かに残っている。
ただし、「小変動があれば反応する」はもう成り立たない。
「必要かもしれないけど、足りない」
アリシアが小さく呟く。
ノアが机の端へ跳び乗った。
『また難しい顔してる』
「難しいから」
『今日、予想当たったんでしょ』
「当たった」
『なら喜べば?』
「喜びすぎるとだめ」
『面倒』
「私もそう思う」
アリシアは笑い、それから続きを書いた。
『現在の制御試験では、意図的小変動は反応あり回すべてに含まれる。一方、小変動ありでも東側追加低下・私の感覚・西側波形が出ない回が前半・後半に各一回ある。したがって、小変動は反応発生に関係する強い候補だが、それだけで十分ではない』
少し考え、「必要条件」とは書かなかった。
『必要である可能性は残る。ただし現時点では確定しない』
次に東側開始状態。
『今日の滑らか条件は開始状態が平坦寄りでも三つとも出なかった。これにより、平坦な開始状態だけでは反応を起こさないことがさらに明確になった』
アリシアはそこを読み返す。
昨日の前半無反応回でも、開始状態は平坦だった。
今日は滑らか条件でも平坦だった。
どちらも反応なし。
一方、平坦寄りで反応した回もある。
なら平坦さは、少なくとも単独のスイッチではない。
『開始状態は引き続き固定記録するが、それを見て試験を選ばない。今日も事前に知らされず実施できた』
そこまで書いたところで、アリシアは少し満足そうに息を吐いた。
何か一つを強くするたび、その反対側へも注意を向ける。
嬉しい結果を得た日は、特に。
日常欄へ移る。
『朝、友達から予備の筆を借りた。授業後に返した』
『共同作業で、最初は一人で全部確認しようとしていた。途中で長さだけ見る役にしたら楽だった』
少しだけ手が止まる。
一人で全部見なくてもいい。
それは研究の教訓として書く必要はない。
今日はただの授業でそうだった。
だから、そのまま残す。
子供について。
『短線候補は紙上で位置と向きだけ確認。二つの既存灰色仮線のどちらにも完全一致せず。今日は新しい仮線を作らなかった。箱は開けず』
『午後は庭の絵の破れを布で補修していた』
顔のない存在については短く。
『午後二歩で着座。確認時の胸光は明るい二、弱い一。変化時刻不明。歩行との関係は付けない』
最後に、自分の感情を書く。
『滑らかな条件で無反応だったことへの嬉しさ、開示直後六、夜四。これで形が決まったと思いたい気持ちは、開示直後七、夜五』
数字を眺める。
まだ高い。
完全には下がっていない。
「五もある」
『何が?』
「これで決まったって思いたい気持ち」
『じゃあ明日また下がるかもね』
「なんで?」
『あなたの研究、最近そういうの多いから』
アリシアは少しむっとした顔をした。
「嫌な予言しないで」
『外れたら喜べばいいでしょ』
「それも変」
ノアは楽しそうに尻尾を揺らした。
アリシアは練習帳の最後へ一行だけ足す。
『今は、小変動が“答え”ではなく、東側奥部が追加で動くために関係している候補の一つとして残る。ただし、何が足りないのかはまだ分からない』
そこで筆を置く。
滑らかな十呼吸では、今日も東側奥部は追加で落ちなかった。
自分の胸も冷えず、西側にも比較可能な遅延波形は現れなかった。
しかも今日は、東側奥部の開始状態が平坦寄りだった。
だから、平坦な始まりさえあれば何かが起こるわけではない。
その一方で、小変動を入れれば必ず起こるわけでもない。
入力側の小さな変化は、扉を開ける鍵そのものではないのかもしれない。
けれど今まで反応した回には、すべてその変化があった。
なら、鍵ではなく、何かへ触れる指なのか。
それとも、まだ見えていない条件が揃ったときだけ意味を持つ合図なのか。
そこまで考え、アリシアは自分で首を横へ振った。
比喩に名前を付けるのは、まだ早い。
窓の外には、よく晴れた夜空が広がっている。
今日見えた形を嬉しいからと太く描かず、昨日見えなかった違いを悔しいからと消さない。
その両方を同じ机の上へ置いたまま、次の一回を待つ。
今のアリシアには、その待ち方が少しずつできるようになっていた。




