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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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198/331

第198話 同じ前半寄りで結果が分かれたなら、反応した一回だけを基準にしない



 翌朝、生活観測区画の窓には細かな雨粒が残っていた。


 夜のうちに短い雨が通ったらしく、庭の石畳はまだ濃い灰色に濡れている。軒先から落ちる雫が、一定ではない間隔で小さな水溜まりへ輪を作り、風が通るたび植え込みの葉からも遅れて水滴が落ちた。


 雲の向こうはすでに明るい。


 今日はこのまま晴れるのだろう。


 アリシアは寝台の中で目を開けたまま、しばらく窓の音を聞いていた。


 胸は冷たくない。


 痛みも、息苦しさも、震えもない。


 昨日の試験後に残るものは、身体には何もなかった。


 けれど頭の中には、一枚の記録がまだ残っている。


 前半寄りの意図的小変動。


 刺激前の東側奥部は、比較的平坦だった。


 それなのに追加低下は現れず、自分の胸にも何も起きず、西側にもこれまでの反応あり回と比べられるような遅延弱波形は出なかった。


 前々日までなら、「平坦な開始状態なら反応が出やすいのかもしれない」と考えていたところだ。


 昨日、その考えへ一つ穴が開いた。


 嫌だった。


 試験直後は、確かにそう思った。


 それでも一晩眠ってみると、昨日とは別のものが気になっている。


 以前にも、前半寄りの意図的小変動を使った試験があった。


 そのときには、東側奥部の追加低下も、自分の弱い冷感も、西側の後発波形も出ている。


 同じ前半寄り。


 片方は三つが出た。


 片方は三つとも出なかった。


 後半寄りで起きたことと、よく似ている。


 アリシアはようやく起き上がり、寝台脇の机へ移った。


 練習帳を開く。


 身体疲労、一。


 冷感、痛み、息苦しさ、震え、いずれもなし。


 人工刺激をまた受けたい気持ちは二。


 昨日と以前の前半寄り二回を比較したい気持ちは九。


 そこまではすぐに書けた。


 次の一行で筆が止まる。


『反応した前半回の中に、正しい違いがあると思いたい気持ち』


「……六、かな」


 口にすると、窓辺で雨上がりの庭を見ていたノアが片耳だけこちらへ向けた。


『昨日の八よりは下がったじゃない』


「昨日、思ってたのと違ったから」


『一回外れたくらいで素直になるものね』


「全部は素直になってない」


『だから六?』


「うん」


 アリシアは数字の横を筆先で軽くなぞった。


「反応した方には、何か違いがあってほしい。でも、今日見ても分かんなかったら……残念は三くらい」


『低いわね』


「昨日、一個崩れたから」


『慣れた?』


 そう聞かれて、アリシアは少し考えた。


「慣れたっていうより……最初から決まらないかもって思ってる」


 昨日、東側奥部の開始状態が平坦だったのに反応しなかったことは、まだ少し悔しい。


 ただ、その悔しさのせいで新しい一回を嫌いにはなりたくなかった。


 アリシアはもう一つ書き足す。


『反応した方を普通、無反応の方を失敗だと思わないようにしたい』


 書いてから、少しだけ首を傾げた。


「これ、変かな」


『変じゃないでしょう。あなた、嬉しかった方を贔屓しそうだもの』


「言い方」


『合ってる?』


「……合ってる」


 ノアの尻尾が一度だけ揺れた。


     ◇


 朝食前、子供は珍しく木箱関係の紙を一枚も広げていなかった。


 昨日まで交差一と交差二の周辺線を写していた机には、色鉛筆と一枚の絵だけが置かれている。


 庭の木だった。


 昨日まで緑一色だった葉の先には、今朝見た雨粒らしい淡い水色がいくつも加えられていた。


「今日は線、やらないの?」


 アリシアが隣へ立つと、子供は色鉛筆を動かしたまま首を横へ振った。


「やらない」


「交差一と二も?」


「明日でもいい」


「箱は?」


「見たいの二」


「絵は?」


「九」


「じゃあ今日は絵だね」


「うん」


 それで終わった。


 交差三候補を実物で見た日から二日が経った。


 けれど、だから次の一点を確認しなければならないわけではない。


 線刻は逃げない。


 木箱も、今のところ急いで開かなければならない理由はない。


 子供は緑色の鉛筆から灰色へ持ち替え、石畳を描き始めた。


 昨日まであれほど紙の線を追っていた姿からすると、不思議なくらいあっさりしている。


 アリシアはその横顔を少し眺めてから、自分も朝食の席へ向かった。


     ◇


 学院へ向かう頃には、雨は完全に上がっていた。


 外通路を使った生徒たちの靴底から湿った音が残り、石造りの廊下には大小の足跡が続いている。窓を開けた教室からは冷えた空気が流れ込み、いつもより少しだけ土と水の匂いが強かった。


 教室へ入る直前、横から声をかけられた。


「アリシア、これ違う?」


 女子生徒が手のひらに載せていたのは、細身の金属製の栞だった。


 黒に近い金属の表面へ、星のような細かな刻みが入っている。


 アリシアは受け取って表裏を見たが、覚えはない。


「私のじゃない」


「机の下にあったから、アリシアかと思った」


「なんで?」


 一瞬だけ本当に分からなかった。


 女子生徒は栞とアリシアを見比べる。


「黒いし」


 アリシアは数秒黙ったあと、思わず笑った。


「黒いもの全部、私のじゃないよ」


「でも似合いそうじゃない?」


 そう言われると、少しだけ嬉しい。


「それは……ちょっと嬉しいけど」


「じゃあ持ってく?」


「持ち主いるでしょ」


「だよね」


 二人で教卓へ持っていき、落とし物として置いておく。


 授業が始まる頃には持ち主らしい男子生徒が慌てて取りに来て、周囲から「アリシアのだと思われてたぞ」と笑われていた。


「なんで?」


 本人まで不思議そうにアリシアを見る。


「黒いかららしいよ」


「雑だな」


 近くの生徒たちから笑いが起きる。


 アリシアも、その中で普通に笑えた。


     ◇


 午前の授業は、魔力を通した細糸を使う実技だった。


 二人で一定の長さへ伸ばした魔力糸を、張力を大きく変えないまま輪にする。


 強くしすぎれば途中が硬くなり、弱ければ重さに負けてたるむ。単純そうに見えて、互いの手元を見ながら合わせなければ意外とうまくいかない。


 アリシアの相手は、これまで数度同じ班になったことがある程度の男子生徒だった。


「どっちからやる?」


「どっちでもいいよ」


「じゃあ俺から。昨日の練習で三回切ったけど」


「じゃあ今日は四回目あるかもね」


「始める前から縁起悪いこと言わないでくれる?」


 相手が苦笑し、アリシアも少し笑う。


 最初の一回は切れなかった。


 代わりに、輪へ曲げる途中で片側の張力が抜け、大きく垂れ下がった。


「切れなかったから進歩」


「それでいいの?」


「昨日よりは」


 次はアリシアが中心になって調整する。


 ところが、今度は力を入れすぎないことを意識しすぎて、輪の上側が柔らかく崩れた。


 男子生徒が少し嬉しそうな顔をする。


「アリシアも失敗するんだ」


「するよ」


「ちょっと安心した」


「なんで安心するの」


「なんか、もっと全部できる感じするから」


 以前なら、「そんなことない」と慌てて否定していたかもしれない。


 今日は崩れた魔力糸を見ながら、小さく肩を竦めた。


「できないのいっぱいある」


「じゃあ三回目、二人でやろう」


「うん」


 互いの張力を声で確かめながら作り直す。


 三度目の輪も完璧ではなかった。少し楕円になり、片側だけわずかに厚い。


 それでも教師は形を確認すると、合格印を付けた。


「これでいいんだ」


「合格は合格」


 男子生徒が満足そうに言う。


 アリシアも完成した輪を眺め、笑った。


 研究とは関係ない。


 何かの伏線でもない。


 ただ失敗して、二人でやり直して、授業を終えただけだった。


     ◇


 昼前、生活観測区画へ戻ると、今日は人工刺激を行わないことが正式に告げられた。


 昨日が試験日だった以上、アリシア自身もそのつもりだった。


「今日は前半の二回だけを見るんだよね」


「その予定です」


 サーラが用意した記録束を机へ置く。


「昨日の無反応回と、以前の前半寄り反応回です。後半の二回は今日は重ねません」


「混ぜない方がいい」


「どうしてそう思いますか」


 尋ねられ、アリシアは少し考える。


「後半で見えた違いが、前半にもあるって先に思っちゃいそうだから。最初から四枚並べたら、似たところ探したくなる」


「ええ。その影響は避けたいですね」


 解析室へ移動した時点でも、後半寄りの記録は机に出されなかった。


 左に昨日の前半無反応回。


 右に以前の前半反応あり回。


 まず、この二つだけを見る。


     ◇


 前回までなら、アリシアは最初に結果を見たがったかもしれない。


 どちらが反応した記録なのか、すでに知っている。それでも今日は、結果側の紙を伏せたまま入力側から比較する。


 名目上の条件は同じ前半寄り。


 小変動の最大幅は近い。


 基礎出力にも大きな開きはない。


 配置された時間帯も、同じ前半候補の範囲に入っている。


「大きく見ると、ちゃんと似てる」


「はい」


 魔導具教師が透明な比較紙を二枚重ねる。


「では、昨日決めた範囲だけ確認しましょう」


 見るのは三つ。


 小変動の立ち上がり。


 戻り。


 その直前に見える自然揺れ。


 反応あり回の立ち上がりは、無反応回よりほんの少し緩やかだった。


 一方、戻りは反応あり回の方がわずかに早い。


 昨日の無反応回は、立ち上がりこそ少し速いが、その後は反応あり回より僅かに長く尾を引いている。


「前みたいに、丸い方が反応とかにはならないね」


 アリシアが呟く。


 第195話で反応した後半回は、無反応後半回より少し丸い立ち上がりと遅い戻りを持っていた。


 だが前半二回では、同じ方向へ揃っていない。


「そうですね。少なくとも今の二組だけを使って、“立ち上がりがこうなら反応する”“戻りがこうなら反応する”とは言えません」


「直前の揺れは?」


 二回とも、目立つものは一つだった。


 回数では分かれない。


 幅は昨日の無反応回の方がわずかに小さい。


 ただ、その差は極めて小さかった。


「……これ、違いとしてはあるけど」


 アリシアは言いかけ、止まった。


 若い観測員が続きを待つ。


「原因って呼びたくなるほどじゃない」


「今の段階では、その方がいいでしょう」


「細かく見れば何か違うのは当たり前?」


「完全に同じ波形を自然に作ることはできませんからね」


 その言葉に、アリシアは少しだけ椅子へ深く座った。


 違いを探すことと、意味のある違いを見つけることは違う。


 見れば見るほど、差は必ず出てくる。


 だからこそ昨日、先に見る項目を固定した。


「今の三つだと、入力側だけでは分けられない」


「現時点ではそうです」


 少し残念なはずなのに、アリシアの表情は思ったほど曇らなかった。


「次、東側見たい」


     ◇


 東側奥部の記録が開かれる。


 アリシアは二枚を見て、しばらく何も言わなかった。


 昨日の無反応回は、すでに確認している。


 刺激前の平均傾斜は比較的小さく、平坦寄り。


 変動幅も大きくない。


 以前の反応あり前半回も、よく似ていた。


 完全に同じではない。


 しかし、一目で分かるほどの違いはない。


 平均傾斜を同じ窓で計算した数字も近い。


 変動幅にも大きな隔たりはなかった。


「……こっちはもっと似てる」


「そうですね」


「後半の二つは、ここが結構違ってた」


「ええ」


「でも前半は、反応ありと無反応で近い」


 言葉にしながら、昨日まで残っていた期待がもう一段だけ薄くなる。


 開始状態が平坦なら反応する。


 昨日、その考えは一度崩れた。


 今日はさらに、同じ前半寄りの中でも、平坦に近い二回が反応ありと無反応へ分かれていることが見えた。


「開始状態の傾きって、思ってたより弱いのかな」


 サーラはすぐ答えなかった。


「何に対して弱いと思いますか」


「反応するかどうかを決めるものとして」


「それなら、少なくとも単独で強く決める候補としては、以前より重みを下げた方がよさそうです」


「なくすわけじゃない」


「なくしません。後半二回では実際に差がありました。それが偶然だったのか、特定の組み合わせでは意味を持つのか、まだ分かりませんから」


 アリシアは二枚の記録をもう一度見た。


「位置によって効き方が違う、とかも考えられる?」


「考えることはできます」


「でも、それ書いたらまた候補増える」


「そうですね」


 魔導具教師が少し笑う。


「だから今は、可能性として頭に置くところまでです」


「新しい欄は作らない」


「その方がいいでしょう」


 アリシアも少し笑った。


     ◇


 そこで初めて、結果側の記録が開かれた。


 結果については、すでに分かっている。


 それでも同じ時間軸へ並べると、差は大きかった。


 以前の反応あり前半回では、入力小変動の後、東側奥部に小さな追加低下がある。


 近い時間帯に、アリシアが弱い冷感を申告している。


 さらに後方には、西側の遅延弱波形。


 一方、昨日の無反応前半回には、その三つが揃っていない。


 入力小変動は入った。


 開始状態も大きく違わない。


 現在固定している五項目にも、二つを明確に分けるほどの差は見つからない。


 それでも、その後だけが分かれた。


 アリシアは指先を紙の端へ置いたまま、しばらく動かなかった。


「……似てる方が気になる」


「どういう意味ですか」


「昨日までは、違うところを見つけたかった」


 アリシアは二枚を見比べる。


「でも、これだけ似てるのに結果が違うなら、そっちの方が変」


「“変”というより、今の記録項目では説明しにくい、でしょうか」


「うん。それ」


 言い直してから、アリシアは少し考える。


「じゃあ、今見てない何かがあるかもしれない」


「可能性はあります」


 返ってきた言葉に、アリシアの目が少し強くなる。


 そして、すぐに自分から止まった。


「でも探さない」


 若い観測員が思わず顔を上げた。


「探さない?」


「今日すぐには」


 アリシアは紙を指した。


「もっと前の波形とか、もっと細かい揺れとか、時間差とか、探そうと思えばいっぱい探せる。でも、それやったら、結果見てから違い作るみたいになる」


 サーラがゆっくり頷いた。


「そうですね」


「今の五つで分からなかったって残す」


「それが今日の大切な結果になります」


 アリシアはそこでようやく背もたれへ身体を預けた。


「困るけど」


「困りますね」


 若い観測員が真面目な顔のまま答えたため、アリシアが小さく吹き出す。


「そこは否定してよ」


「実際、困ってますから」


 サーラまで口元を緩めた。


 張っていた空気が少しだけ和らいだ。


     ◇


 休憩になり、アリシアは解析室を出た。


 朝の雨はすっかり上がり、廊下の窓から見える庭はほとんど乾き始めている。葉の奥に残った雫だけが、陽射しを受けたときに時々光った。


 壁際の長椅子へ腰を下ろし、水筒へ口をつける。


 サーラが少し離れた隣へ座った。


「今の残念さは?」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 朝は、分からなかったときの残念さを三と予想していた。


 実際に分からなかった。


 けれど、思っていたほど嫌ではない。


「二」


「低いですね」


「うん」


「なぜでしょう」


 アリシアは水筒を両手で持ったまま、庭を見る。


「似てるって分かったから」


 サーラは続きを急かさない。


「前は、反応した方に何か正しいのがあるって思いたかった。でも今の五つだと、そんなに分かれない」


「はい」


「だったら、反応した方だけ正しい形って思う理由が減った」


 言葉にすると、自分でも少し納得できた。


 反応があった記録の方が嬉しい。


 六つ目のことを知りたいアリシアにとって、何も起きない一回よりも、弱くても何かを感じた一回の方が心は動く。


 だから知らないうちに、反応した回を「成功」に近く扱いたくなる。


 けれど、試験として見れば違う。


 反応しなかった昨日も、条件から外れた失敗ではなかった。


 今の比較範囲では十分似ていて、それでも結果だけが違った。


「無反応の方を失敗にしたら、楽なんだけどね」


 アリシアがぽつりと言う。


「何が楽ですか」


「反応した方だけ見ればいいから」


 一度口にしたあと、首を横へ振った。


「でも、それやったら知りたいのと逆になる」


「ええ」


 サーラの返事は短かった。


 それで十分だった。


     ◇


 午後、生活観測区画へ戻ると、子供はまだ庭の絵を描いていた。


 朝より枝が増え、濡れていた石畳にも薄い陰影が入っている。


 顔のない存在は、机の少し離れた場所へ座っていた。


 子供が描いている間、今日はまだ歩行の記録も取っていないらしい。


「ずっと絵だったの?」


「途中でご飯食べた」


「それは知ってる」


「あと何もしてない時間もあった」


「そっか」


 子供が絵を持ち上げる。


「昨日より雨ある」


「今朝の?」


「うん」


「いいね」


 それだけの会話をしていると、顔のない存在がわずかに身体を動かした。


 子供はそちらを見る。


 すぐ記録紙へ手を伸ばさず、しばらく待った。


 顔のない存在は立ち上がらない。


 胸の光も、今いる位置から正確には数えにくい。


 子供は再び絵へ向き直った。


「見ないの?」


 アリシアが尋ねる。


「今はいい」


「気にならない?」


「ちょっと気になる。でも絵まだ終わってない」


 その返事に、アリシアは何も付け加えなかった。


 しばらくして絵が完成すると、子供の方から顔のない存在へ紙を見せた。


「できた」


 返事はない。


 それでも、相手の身体は紙へ向いた。


 子供は満足そうに頷いてから、ようやく絵を机へ置いた。


     ◇


 夕方、学院棟の廊下を歩いていると、先日一緒に選択授業の冊子を見た女子生徒が向こうから駆けてきた。


「アリシア、植物管理どうする?」


「たぶん第一にする」


「やっぱり? 私、簡易調理にしようと思う」


「そっか」


「別だね」


 その一言を聞いても、前のような引っ掛かりはほとんどなかった。


「うん。でも何作ったか教えて」


「じゃあ、アリシアも何育てたか教えてよ」


「枯れたら?」


「それも教えて」


「嫌だ」


「一番面白そうなのに」


 アリシアが少し眉を寄せると、相手は声を上げて笑った。


「まだ取ってもないのに枯らす話してる」


「そっちが言ったんでしょ」


 二人は廊下の途中まで一緒に歩き、それぞれ別の方向へ曲がった。


 同じ授業を取らなくても、次に話すことはある。


 それを今度は、頭ではなく感覚として理解できた気がした。


     ◇


 夕食前、顔のない存在が自分から椅子を立った。


 子供は今度は記録紙を取ったが、すぐ近くへ寄らず、いつもの距離を保っている。


 顔のない存在は一歩進み、少し間を空けてもう一歩。


 そのあと長く止まり、三歩目だけ進んでから椅子へ戻った。


 子供は紙へ記す。


 合計三歩。


 最初の二歩の間は短め。


 二歩目と三歩目の間は長い。


 胸の光は、その後に改めて確認した。


 明るい一つと、弱い三つ。


 朝の状態とは配置が違っている。


 ただし、いつ変わったのかは見ていない。


「歩いたから変わった、は書かない」


 子供が自分から言う。


「うん。変わった時見てないからね」


 エルデン教師が頷く。


 それ以上の意味は付けなかった。


     ◇


 夜。


 生活観測区画の机へ座る頃には、外の空はよく晴れていた。


 朝に雨を落とした雲はほとんど消え、窓の上方には小さな星がいくつか見える。


 アリシアは練習帳を開いた。


 まず、今日見た二つの前半寄り記録を整理する。


『前半寄り反応あり回と、昨日の前半寄り無反応回を、固定五項目で比較』


 入力側。


『立ち上がりは反応あり回の方がわずかに緩やか。戻りは反応あり回の方がわずかに早い。直前自然揺れは両方とも目立つもの一回。幅は無反応回の方がわずかに小さい』


 東側奥部。


『開始状態平均傾斜は両方とも平坦寄りで近い。変動幅にも大きな差なし』


 そこまで書き、アリシアは一度筆を置いた。


 結果側には、大きな差がある。


『反応あり回では、東側追加低下、私の弱い冷感、西側遅延弱波形あり』


『無反応回では三つともなし』


 五つの固定項目では、明確には分けられなかった。


 この一文を書くのに、以前ほど抵抗はなかった。


『現在固定している五項目だけでは、前半寄り反応あり/無反応を明確に分離できない』


 その下へ続きを書く。


『違いが存在しないことを意味しない。ただし、結果を見た後で新しい指標を多数追加して分けようとしない』


「本当に増やさないの?」


 机の反対側からノアが聞いた。


「今は増やさない」


『もっと細かく見れば、何か見つかるかもしれないのに』


「見つかると思う」


『じゃあ見ないの?』


「違うところなら絶対あるから」


 アリシアは練習帳の端を指で押さえながら答えた。


「でも、その違いが大事か分かんない。結果見てから探したら、何かは絶対見つかっちゃう」


『面倒ね』


「うん」


『それでもやるのね』


「面倒なのと、やりたくないのは別」


 ノアは尻尾の先を一度だけ机へ打ち付けた。


 アリシアは再び筆を取る。


『東側開始状態の平均傾斜は、単独で反応有無を決める候補として以前より重みを下げる。ただし後半寄りの反応あり/無反応間では差が見られたため、固定記録は継続する』


 さらに一行。


『候補位置についても、後半寄りで反応あり/無反応、前半寄りでも反応あり/無反応が存在する。位置単独では結果を決めない』


 そこまでは比較的すんなり書けた。


 次の一行では、しばらく筆先が動かなかった。


 今ある記録で、最も崩れていない部分。


 それは入力の位置でもなければ、開始状態でもない。


 東側奥部に追加低下が出た回には、自分の弱い感覚と西側後発波形も一緒にある。


 追加低下が確認できない回には、自分も感じず、西側にも比較可能な波形が現れない。


 もちろん、それが原因だという意味ではない。


 東側が自分へ何かを送っているとも決まっていない。


 ただ、現在の制御試験で最もまとまって残っている分かれ方はそこだった。


『今のところ、入力条件よりも、「東側奥部追加低下が出た回/出ない回」で、その後の私の感覚と西側波形がまとまって分かれている形の方が崩れていない』


 書いてから、「だから東側が原因」と続けたくなる自分を止める。


 そこまでは書けない。


 代わりに別の一文を加えた。


『次に知りたいのは、私が感じる条件より先に、東側奥部が追加で動く回と動かない回を何が分けているか。ただし新条件は増やさず、既存安全範囲の繰り返しで見る』


 アリシアはその一文を二度読み返した。


 少しだけ、今いる場所が見えた気がする。


 昨日は、平坦な開始状態という線が崩れた。


 今日は、前半寄り二回を現在の五項目では分けられなかった。


 それでも全部が崩れたわけではない。


 むしろ、どこがまだ残っているのかが少しはっきりした。


 反応した回だけを基準にしない。


 無反応の回も、同じ試験として置く。


 それをしなければ、残った形そのものが信用できなくなる。


 日常欄へ移る。


『魔力糸の実技。二人とも一回ずつ失敗して、三回目で合格した。完璧な輪ではなかったけど合格だった』


『選択授業は植物管理を第一候補にするかもしれない。友達は簡易調理。別の授業でも、あとで話せばいい』


 子供については、研究記録より少し柔らかい字になった。


『子供は今日は木箱を見ず、朝から庭の絵を描いた。箱を見たい二、絵九。午後に完成して、顔のない存在へ見せていた』


 顔のない存在。


『夕方三歩。一歩、短い間、二歩目、長い間、三歩目。胸光は確認時に明るい一、弱い三。変化時刻不明なので歩行との関係はつけない』


 最後に朝の自分が書いた数字へ戻った。


『反応した前半回の中に、正しい違いがあると思いたい気持ち六』


 その横へ、夜の数字を書く。


『今は三』


 減った。


 反応した回に答えがなかったからではない。


 無反応回が、反応した回より劣った記録ではないと分かったからだった。


 アリシアは最後に短く書く。


『嬉しい結果の方を、正しい試験にしない』


 ノアがその一文を横から読む。


『ずいぶん自分向けね』


「自分の帳面だから」


『明日には忘れてたりして』


「じゃあまた読む」


『便利』


「記録ってそういうものでしょ」


 ノアは少しだけ目を細め、何も言い返さなかった。


 アリシアは練習帳を閉じる。


 今日も、原因は見つからなかった。


 むしろ固定した五項目では、前半寄りの反応ありと無反応を綺麗には分けられなかった。


 それでも、何も得られなかったわけではない。


 後半でも結果が分かれた。


 前半でも結果が分かれた。


 開始状態が平坦でも、反応しない日はある。


 現在見ている入力細部が似ていても、その後が分かれることがある。


 ならば、反応した一回だけを「本来の形」にしてはいけない。


 反応しなかった一回を外へ追いやれば、最後に残る答えは、自分たちが選んだものになってしまう。


 窓の外では、雨上がりの夜空が静かに広がっていた。


 朝には葉の先へ残っていた雫も、もうほとんど見えない。


 それでも、雨が降らなかったことにはならない。


 見えなくなったものまで消したことにしないように。


 アリシアは机の灯りを落とし、暗くなった窓の向こうをしばらく眺めていた。

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