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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第197話 平らな始まりでも反応しないなら、見つけた条件を答えへ昇格させない


 朝の生活観測区画には、いつもより少し強い風が入っていた。


 窓を大きく開けているわけではない。それでも建物の角を回り込んだ風が細い隙間を通り、机の上へ重ねてあった紙の端を何度か持ち上げる。外では雲の切れ間から朝日が覗き、庭の石畳を照らしたかと思えば、数分もしないうちにまた白い影の中へ戻していた。


 アリシアは一度、窓際まで歩いてから振り返った。


 昨日は刺激をしなかった。


 その前日に反応した後半寄り条件と、さらに前に反応しなかった後半寄り条件を重ね、次から何を同じ尺度で残すかを決めた。


 入力側では、小変動の立ち上がり、戻り、直前の自然揺れ。


 東側奥部では、開始状態の平均傾斜と変動幅。


 結果として、東側追加低下、自分の主観、西側遅延弱波形。


 見るものは増えた。


 けれど、昨日の終わりには、そのことを以前ほど重く感じなかった。


 何を見ればいいか分からない状態と、見る項目が多い状態は違う。


 少なくとも今は、次の一回を同じ枠で残せる。


 アリシアは寝台脇の机へ戻り、練習帳を開いた。


 身体疲労は一。


 痛みや息苦しさはなく、胸部冷感もない。震えや頭痛、腕の重さも感じなかった。


 昨日までの分析を続けたい気持ちは七。


 人工刺激へ参加したい気持ちは七。


 どちらが強いというほどではない。


 少し考えたあと、アリシアはもう一つ書く。


『東側奥部の開始状態が平坦なら、反応が出ると思っている自分がいる』


 その下へ数字を置こうとして、筆先が止まった。


「……予想、七」


 窓辺で外を見ていたノアが片耳を向ける。


『思ったより信じてるじゃない』


「前の無反応は下がってたし、その次に反応したときは平らだったから」


『二回で?』


「二回だけじゃない。前の反応ありも平ら寄り多かった」


『でも、前に近い状態でも弱く反応した回があったでしょう』


「分かってる」


 少しだけ返事が早くなった。


 自分でも気づいて、アリシアは口を閉じる。


 ノアは追い打ちをかけなかった。


 しばらくしてから、アリシアの方が小さく息を吐いた。


「……平らだったら出る、って思いたい気持ちは八かも」


『そっちの方が大事そうね』


「うん」


 予想と、そうであってほしい気持ち。


 似ているようで違う。


 アリシアは二つを分けて書いた。


 平坦寄りなら反応すると予想する気持ち七。


 その予想に合ってほしい気持ち八。


 外れても記録したい気持ちは九。


「もし平らなのに何も出なかったら?」


 ノアが聞く。


 アリシアは少し長く考えた。


「残念……六」


『結構ある』


「昨日まで、そこ見てたから」


『じゃあ先に書いときなさい』


「もう書いた」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 もし今日、人工刺激があるとしても、東側奥部の開始状態は事前に知らされない。


 その状態を見て実施するかどうかも変えない。


 だから今の「平らなら反応すると思う」という予想は、何も見ていない自分の側の期待だった。


     ◇


 朝食前、子供は木箱を開けなかった。


 昨日も開けていない。


 机の上には、真正交差一・二と、弱い交差三候補の比較紙が残されている。ただ今日は、その三つを直接比べる作業ではなかった。


 子供は、交差一と交差二の周辺に伸びている線だけを別々の薄紙へ写し直していた。


「同じ線か見るの?」


 アリシアが近づくと、子供は首を横へ振る。


「同じか決めない。向きだけ」


「曲がる方向?」


「うん。ここは右へ曲がる。こっちはまだ分からない」


 途中まで追える線と、複写の擦れで消えている線。


 見えるところだけを写し、消えている部分は空白へしている。


「短線候補は?」


「今日はやらない」


「交差三は?」


「休み」


 子供は紙から目を上げずに答えた。


 実物を見たい気持ちは三。


 紙で線の向きを比べたい気持ちは八。


 怖さは二。


 木箱そのものを開ける理由はなかった。


「今日は一と二だけなんだ」


「いっぱい混ぜると、どれ見てるか分からなくなる」


 その返事を聞き、アリシアは少しだけ笑った。


「それは分かる」


『また似た者同士みたいな顔してる』


 ノアの声に、アリシアはすぐ視線を逸らした。


「してない」


 子供は意味が分からなかったらしく、二人を交互に見てから作業へ戻った。


     ◇


 朝食後、学院棟へ向かう途中で、いつもの女子生徒と合流した。


 今日は授業前に選択授業の話をする約束をしていたわけではない。それでも相手は、アリシアを見つけると自然に歩調を合わせてきた。


「昨日、冊子もう少し見た?」


「夜は見てない」


「私は見た。簡易調理、思ったより人気あるらしいよ」


「定員あるの?」


「あるみたい。だから第一希望にするか悩んでる」


 アリシアは少し考えた。


「私は植物管理の方が気になる」


「じゃあ別になるかもね」


 女子生徒はあっさり言った。


 その返事に、アリシアの足がほんのわずかに遅れた。


「……別でもいいの?」


「何が?」


「授業」


「そりゃ、取りたいの違ったら別でしょ」


 女子生徒は不思議そうな顔をした。


「一緒に取れたら楽しいけど、別の取ったらあとで話せばいいし」


「そっか」


「アリシア、もしかして合わせようとしてた?」


「ちょっとだけ」


「しなくていいよ。私も植物管理はそんなに興味ないし」


 悪意も遠慮もなく言われ、アリシアは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「はっきり言うね」


「だって興味ないもん」


「じゃあ私も簡易調理、そこまでじゃない」


「それでいいじゃん」


 二人はそのまま階段の前で別れた。


 友達なら、同じものを選ばなくてもいい。


 そんな当たり前のことを、アリシアは今さら少しだけ新しく感じていた。


     ◇


 午前の授業は、古い魔導具部品の分類だった。


 使われなくなった固定具、絶縁板、導線枠、小型の魔力受け、摩耗した留め金などを、用途ではなく材質と損耗状態で分ける。


 見た目が似ている部品でも、表面を軽く叩いた音や重さ、縁の削れ方で分類が違う。


 アリシアの卓では、途中から一つの部品を巡って意見が分かれた。


「鉄系でしょ」


 男子生徒が言う。


「でも軽いよ」


 別の女子生徒が手のひらへ乗せて眉を寄せる。


「表面だけ鉄じゃない?」


「中が違うってこと?」


 アリシアは部品を受け取り、裏側の削れた部分を見る。


 灰色の表面の下に、少し色の違う層が見えている。


「これ、被せてる」


「何を?」


「外だけ硬い金属。中、別の材質かも」


 教師を呼んで確認すると、その推測はほぼ正しかった。


 古い複合部材で、表面と芯材が違う。


「見た目だけだと分からないんだ」


 女子生徒が感心したように呟く。


 アリシアは部品を机へ戻した。


「削れてたから見えただけ」


「でも見つけたのアリシアじゃん」


 軽く褒められ、以前のように否定しようとして、やめた。


「うん」


 それだけ答えた。


     ◇


 昼前、生活観測区画へ戻った時点で、人工刺激を行う可能性が正式に伝えられた。


 アリシアは治療教師の確認を受ける。


 身体疲労一。


 恐怖二。


 参加希望八。


 痛み、息苦しさ、冷感、震えはいずれもなし。


 今日も候補は既存の三つ。


 滑らかな十呼吸。


 前半寄り小変動。


 後半寄り小変動。


 条件はアリシアへ知らされない。


 そして、昨日決めた五つの比較項目を、結果を見る前から固定して記録する。


「東側の開始状態、今どうなってるかは?」


「伝えません」


 魔導具教師が即答した。


 アリシアは少しだけ唇を尖らせる。


「聞いただけ」


「予想は?」


「平らなら反応すると思ってる七。そうであってほしい八」


「そこは朝と変わっていませんか」


「うん」


「もし開始状態が平らで、反応がなかったら?」


「残念六。でも続けて見たい九」


 サーラが記録する。


「条件自体を知りたい気持ちは?」


「九」


「終了後まで待てますか」


「待つ」


 少し不満そうな声だったが、アリシアは自分から手を引こうとはしなかった。


     ◇


 観測室の配置は、これまでと同じだった。


 条件を知っている設備担当者と若い観測員は別室側。


 アリシアから見える位置には、サーラ、治療教師、魔導具教師。


 ノアは少し離れた椅子の上で身体を落ち着けている。


 アリシアは開始前にもう一度参加意思を確認され、自分の口で「やる」と答えた。


 呼吸を整える。


 今日は、胸の感覚だけではなく、「自分が平坦な開始状態を期待している」という事実も頭にある。


 でも、東側の実際値は分からない。


 だから、その期待から何かを感じようとしても意味はない。


「探索してる感じ、六」


 アリシアが先に申告する。


「まだ何もないのに、ちょっと待ってる」


 サーラは余計な反応を見せず、記録だけを進めた。


 しばらく時間が流れる。


 アリシアの身体には普通の感覚がいくつもある。


 背中へ触れる椅子。


 指先の温度。


 襟元に触れる髪。


 右足の靴の中が少し蒸れている感じ。


 けれど、胸の奥に冷たさはない。


 数呼吸経った頃、アリシアは一度だけ眉を寄せた。


「左の鎖骨の上、ちょっと変。でも表面」


「冷感ですか」


「違う。服か髪」


 指で触れず、そのまま感覚が消えるのを待つ。


 少しすると、ほとんど気にならなくなった。


「消えた。六つ目じゃないと思う」


 また静かな時間が続く。


 アリシアは、今日は滑らかな条件なのではないかと思い始めた。


 だが前にも、反応が来ないことを理由に滑らかと予想したあと、実際には小変動が入っていたことがある。


 その記憶があるせいで、今度は予想そのものへ自信を持てない。


「滑らか予想、五。前半三。後半三……くらい」


「合計は気にしなくて構いません」


「分かってる」


 思わず少し笑いそうになる。


 候補は三つなのに、自分の気持ちはきれいな配分にはならない。


 そのまま試験は続いた。


 胸部冷感は、最後まで現れなかった。


 方向感もない。


 震えもない。


 痛みや息苦しさもない。


「最後までゼロ」


 終了の合図が出たあと、アリシアは少しだけ息を長く吐いた。


 何も感じなかったことへの失望は、まだ条件を知らない段階では大きくなかった。


 もし滑らかだったなら、これまでの傾向と合う。


 もし小変動だったなら、その方が重要になる。


「知りたい九」


「身体確認が先です」


「知ってる」


 返事には明らかに焦れた響きがあった。


     ◇


 治療教師の確認では異常なし。


 疲労は二。


 恐怖も二のまま。


 冷感残留なし。


 そこでようやく別室から記録が運ばれてきた。


 最初に条件が開示される。


「今日の実際条件は、前半寄りの意図的小変動です」


 アリシアは目を瞬いた。


「小変動、あったの?」


「ありました」


「でも何も感じなかった」


「はい」


 胸の奥に、小さな落差ができた。


 滑らかな十呼吸かもしれないと考えていた。


 それなら無反応でも、これまでの形へ素直に収まった。


 でも今日は、小変動があった。


「また、入力ありで無反応」


 アリシアが静かに言う。


「そうです」


 直近の後半寄り無反応回に続いて、意図的小変動が存在したのに自分が感じなかった回が、もう一つ増えた。


 以前は意図的小変動五回連続で弱い主観反応が出ていた。


 そこへ後半寄り無反応が一つ入り、その次の後半寄りでは再び反応。


 そして今日、前半寄りで無反応。


 もう「小変動が入れば大体感じる」という見方も、以前ほど単純ではない。


「残念……五」


 アリシアは自分から申告した。


 六ではなかった。


 まだ東側開始状態を見ていないからだ。


「次、東側見たい」


     ◇


 魔導具教師は、結果側より先に五つの固定項目を開いた。


 入力側。


 小変動の立ち上がり時間は、過去の前半寄り反応あり回と比較可能な範囲。


 戻り時間も、安全範囲かつ既存前半条件から大きく外れない。


 直前の自然揺れは一度、小さいものが記録されている。


「入力側、変じゃない?」


「少なくとも大きくは外れていません」


「前に反応した前半と比べると?」


「詳細差はありますが、比較不能とするほどではありません」


 アリシアの表情が少し変わる。


「じゃあ東側」


 紙が一枚開かれる。


 アリシアはそこを見た瞬間、言葉が止まった。


 刺激前の東側奥部基線。


 平均傾斜は、小さい。


 直近の無反応後半回より、はっきり平坦寄り。


 むしろ過去の反応あり群へ近い。


 変動幅も大きくない。


「……平ら」


 自分の声が、少し遠く聞こえた。


 サーラはすぐに何も言わなかった。


 アリシアが紙を見たまま、次の言葉を探すのを待っている。


「私、朝、平らなら反応するって予想七だった」


「はい」


「合ってほしい八」


「記録しています」


「でも、何も感じなかった」


「そうです」


 アリシアはしばらく紙から目を離せなかった。


 直近の無反応回では、東側奥部の開始状態が低下傾向だった。


 その次の反応回では、より平坦だった。


 だから、平坦さが一つの鍵なのではないかと思った。


 今日も平坦寄りだった。


 なのに自分は何も感じなかった。


「……ちょっと嫌」


 数字ではなく、言葉が先に出た。


 サーラは穏やかに尋ねる。


「何が嫌ですか」


「昨日まで、少し見えてきたと思ってた」


 アリシアは膝の上で指を組み直した。


「平らなら出やすいのかもって。もちろん決めてなかったけど……でも、思ってたより信じてた」


 声が少しだけ小さくなる。


「だから今日、平らだったのに何もなかったの、嫌」


 誰もすぐに「でも大事なデータです」とは言わなかった。


 それが、アリシアにはありがたかった。


 大事だということは分かっている。


 それでも、残念なものは残念だった。


 サーラがしばらくしてから聞く。


「今の残念さは?」


「七」


 試験直後より上がっていた。


「予想が外れたこと?」


「それも。あと、昨日の結果がすごく綺麗だったから」


 アリシアは口元を少し結ぶ。


「昨日、開始状態が平らで、東側が動いて、私も感じて、西側も出た。だから……やっぱりって思った」


「はい」


「今日、その最初のところだけ同じっぽいのに、その後がない」


 アリシアは一度目を閉じた。


 怒っているわけではない。


 怖いわけでもない。


 ただ、手にしかけた形がまた少し崩れたことが悔しかった。


     ◇


 その状態のまま、東側奥部の結果記録を見る。


 前半寄り小変動が入った周辺。


 追加低下は、確認できなかった。


 自然な基線変動の範囲に留まり、過去の反応あり前半回で見られたような比較可能な落ち込みはない。


「東側も出てない」


 アリシアが呟く。


「はい」


「じゃあ、私だけ外れたんじゃない」


「そうです」


 その言葉で、胸の奥の詰まりがほんの少し変わった。


 嬉しいわけではない。


 でも、自分の感覚だけが不安定だったという結果ではなかった。


 さらに西側の記録が開かれる。


 明瞭な遅延弱波形はない。


 通常の細かな揺れはあるものの、これまで反応あり回の後方で見られたものと同じ種類として切り出せる波形は確認できなかった。


 アリシアは三枚を順番に見る。


 東側追加低下なし。


 自分の冷感なし。


 西側遅延弱波形なし。


「また三つ一緒に出なかった」


「現時点では、そう整理できます」


 魔導具教師の言葉に、アリシアは少しずつ表情を戻した。


 平坦寄りの開始状態。


 意図的小変動あり。


 それでも、その後の三つが出ない。


「じゃあ……平らなら反応する、はもうだめ」


「少なくとも十分条件とは言えません」


「完全に関係ない?」


「それも言えません」


 アリシアは眉を寄せる。


「ややこしい」


 若い観測員が少しだけ苦笑した。


「平坦さが必要な一要素であっても、それだけでは足りない可能性があります。あるいは、実際には関係が弱い可能性もあります」


「今日だけでどっちか決めない」


「はい」


 アリシアは長く息を吐いた。


 残念さはまだ七近い。


 でも、それとは別に知りたい気持ちが上がってくる。


「なんで東側、動かなかったんだろ」


 その声には、さっきまでとは違う色が混ざっていた。


     ◇


 そこで、今日の前半無反応回と、過去の前半反応あり回を並べることになった。


 ただし解析を一気に進めすぎないため、今日は概略比較だけ。


 細かな全項目の重ね合わせは翌日以降へ回す。


 名目上はどちらも前半寄り小変動。


 最大幅は近い。


 小変動の位置も同じ候補帯。


 東側開始状態は、どちらも平坦寄り。


「ここまで似てる」


 アリシアが言う。


「でも結果違う」


「はい」


「入力の細かい形は?」


「差があります。ただ、今日は詳細解析まで入りません」


「どんな差?」


「立ち上がりと戻りに少し違いがあります。直前自然揺れの形も完全には同じではありません」


「またそこ」


「候補として残ります」


 アリシアは唇を少し尖らせた。


「結局、開始状態だけじゃ足りなくて、入力の細かい形も見ることになる」


「昨日決めた五項目が、さっそく必要になりましたね」


「……そう考えると、昨日決めといてよかった」


 少しだけ、気持ちが持ち直す。


 今日の結果が昨日までの候補を壊した。


 でも、昨日の分析そのものが無駄になったわけではない。


 むしろ、今日の反例を同じ尺度で残す準備になっていた。


「今の残念さ、五」


 サーラが頷く。


「下がりましたね」


「今日の方が、次比べやすいから」


「知りたい気持ちは?」


「九」


「朝と同じです」


「うん」


     ◇


 同日二回目の刺激は行わなかった。


 アリシア自身も求めなかった。


 むしろ、今日の前半無反応回をきちんと残してから次へ進みたい気持ちが強かった。


 解析室を出る頃には、午後の陽射しが廊下へ斜めに伸びていた。


 アリシアは途中で足を止め、窓越しに中庭を見る。


 昨日までなら、平坦な開始状態が一つの境目かもしれないと思っていた。


 今日は、その線を一度消す必要がある。


 完全に捨てるのではない。


 濃く引きすぎていた線を、少し薄くする。


「嫌だった?」


 隣を歩いていたノアが聞く。


「うん」


『まだ?』


「少し。でも、最初よりは平気」


『なんで』


「私だけ感じなかったんじゃなくて、東側も西側も出てなかったから」


 ノアはそれ以上何も言わなかった。


 アリシアも、無理に前向きな言葉を作らなかった。


     ◇


 生活観測区画へ戻ると、子供は午前に比べて少し散らかった机の前にいた。


 木箱は閉じたまま。


 交差一・二の線の向きを写した紙が増えている。


「どうだった?」


 アリシアが聞くと、子供は一枚を差し出した。


「一はこっちへ曲がる。二は途中まで似てるけど、その先見えない」


「じゃあ同じ線か分からないまま?」


「うん。でも、前より似てる場所は分かった」


「それならいいね」


 子供は頷き、それ以上説明しようとはしなかった。


 アリシアも自分の試験結果を話さなかった。


 必要がないからだ。


 同じ部屋にいても、それぞれ別のことをしていていい。


     ◇


 夕食前、顔のない存在は自分から立ち上がった。


 今日は子供がすぐ記録紙を取りに行かず、少し離れた位置から見守る。


 顔のない存在は二歩進み、長く止まったあと、さらに一歩だけ歩いた。


 それ以上は続けず、椅子へ戻る。


 胸の光については、その後に子供が確認した。


 明るい一つと弱い三つ。


 朝より配置は変わっていたが、変化した瞬間は見ていない。


「三歩。光は四つ。でも関係は分からない」


 子供が短く記録する。


 今日はそこで終わった。


     ◇


 夜。


 生活観測区画の窓から見える空には、昼間より厚い雲が戻っていた。


 アリシアは机へ座り、練習帳を開く。


 朝、自分が書いた数字が目に入る。


『平坦寄りなら反応すると予想七。そうであってほしい八』


 その下へ、今日の実際を書く。


『実際条件は前半寄り意図的小変動。入力側は既存比較範囲。刺激前の東側奥部開始状態は平坦寄り。平均傾斜は過去反応あり群に近く、直近の後半無反応回より小さい。変動幅も大きくない』


 そこで一度、筆を止めた。


 朝の自分なら、ここまで見れば少し期待したはずだ。


 でも結果は違った。


『東側追加低下は確認されず。私の胸部冷感・方向感・震えなし。西側にも比較可能な遅延弱波形なし』


 さらに一行空ける。


『平坦寄りの開始状態でも、その後の三つが出ない回ができた』


 その一文を書いたとき、昼間の残念さが少しだけ戻った。


 アリシアはすぐ次を書かず、窓の外を見た。


 雲の向こうに月があるのか、空の一部だけがぼんやり明るい。


 ノアは机の端へ飛び乗ったが、練習帳を覗き込まず、その隣に座った。


「昨日まで、結構信じてた」


『知ってる』


「八だったし」


『数字に出てた』


「今日、平らだったの見たとき嫌だった」


『それも聞いた』


「でも、消すのは違う」


 アリシアは練習帳へ視線を戻した。


『開始状態の平坦さは、反応発生の十分条件ではない。関係自体がないとはまだ言えない。必要条件の一部、反応しやすさへの寄与、別状態の代理指標などの可能性は残るが、現時点では強く扱わない』


 少し難しい書き方になり、自分で読み返す。


 それから横に、もっと自分らしい言葉を添えた。


『平らだから出る、とはもう思わない。でも、平らかどうかを見るのはやめない』


「こっちの方が分かりやすい」


『最初からそっちだけ書けば』


「正式っぽいのもいる」


『誰向けなの、その帳面』


「未来の私」


 ノアが小さく鼻を鳴らした。


 次に、今日の五項目について書く。


 入力小変動の立ち上がりと戻りは、既存の前半寄り反応あり回と比較できる範囲だが完全一致ではない。


 直前自然揺れは一回。


 東側開始状態は平坦寄り。


 変動幅は小さめから中程度。


 これだけでは、なぜ東側追加低下が出なかったか分からない。


『次は、過去の前半寄り反応あり回と今日の前半寄り無反応回を、同じ五項目で詳しく比較する』


 そこまで書き、アリシアは少しだけ口元を緩めた。


 後半寄りだけではなく、前半寄りでも「反応あり」と「無反応」が揃った。


 これは、単純な位置の違いでは説明できない。


 同じ候補帯の中で結果が分かれる二組目になる。


 後半寄り。


 反応ありと無反応。


 前半寄り。


 反応ありと無反応。


「これ、結構大事かも」


『何が?』


「前半でも分かれたこと」


『後半だけの問題じゃないってこと?』


「うん」


 アリシアは新しい一文を足した。


『後半寄りに続き、前半寄りでも反応あり/無反応が分かれた。候補位置そのものだけでは、その後の東側追加低下を決められない可能性が強くなった』


 まだ強く言いすぎていないか考える。


 少し迷い、「決められない」の前へ「単独では」を加えた。


 その方が今の記録には合っている。


 日常欄へ移る。


『友達は簡易調理、私は植物管理が気になっている。別の選択授業になってもいいと言われた。友達なら同じ授業を選ばないといけないわけではなかった』


 書いてから、アリシアは少し恥ずかしくなった。


「これ、当たり前?」


『かなり』


「でも分かってなかった」


『なら書いとけば』


「うん」


 子供の欄には、木箱を開けず交差一・二周辺の線方向を比較したことだけを短く残した。


 最後に、今日の感情を書く。


『平坦寄り開始状態で無反応だったことへの残念さは、一番高い時七。夜は三くらい。知りたい気持ちは九のまま』


 アリシアは筆を置かなかった。


 もう一つ、書きたいことが残っている。


『反応しなかった一回が増えたことで、前に見つけた形が弱くなった。でも、前の形を守るために今日を外す方が嫌』


 そこまで書いて、ようやく手を止めた。


 昨日までの自分が間違っていたわけではない。


 その時点にある記録で、最も気になるものを見ていただけだ。


 そして今日、新しい一回が増えた。


 だから見方も変える。


 それでいい。


 ノアが隣でゆっくり尻尾を動かした。


『明日は何見るの』


「前半の二つ」


『また重ねる?』


「うん。でも今日と昨日の後半とは分ける」


『一気に四つ見ないのね』


「混ぜると分かんなくなるから」


 アリシアは練習帳を閉じる。


 平らな始まりでも、東側奥部は動かなかった。


 自分の胸も冷えなかった。


 西側にも弱い波は届かなかった。


 見つけたと思った境界は、まだ境界ではなかった。


 けれど、その失望の向こう側で、新しい比較ができる形が生まれている。


 後半寄りだけではない。


 前半寄りでも、同じ名前の中で結果が分かれた。


 なら次に見るべきなのは、どちらの位置が正しいかではない。


 同じ位置に置かれた小さな変化が、東側奥部まで届く日と届かない日を、何が分けているのか。


 アリシアは消した灯りの向こうに残る窓の白さを見つめながら、今度はその問いを急いで答えへ変えなかった。

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