第194話 似た揺れで感じなかった古い記録を開くなら、違いを探す前に本当に似ていたのかを確かめる
夜明け前に吹いていた風は、朝食の頃にはすっかり弱くなっていた。
生活観測区画の窓から見える庭では、昨日より乾いた石畳の上へ細い木漏れ日が落ちている。雲はまだ空の半分ほどを覆っていたが、その隙間を通る陽射しは明るく、窓辺に置かれた透明な薄紙や記録帳の角を淡く透かしていた。
アリシアは起きてすぐ身体の状態を確かめた。
胸の冷たさはない。震えもなく、痛みや息苦しさ、頭痛、腕の重さも感じない。身体疲労は一で、眠気もほとんど残っていなかった。
昨日見た古い記録は、現在の反応あり条件とかなり似ていた。
入力側に自然な微小揺れがあり、その周辺で東側奥部に小さな低下候補が見え、自分にも弱い感覚候補が残っている。その後に西側の弱波形が記録されていた。
条件や記録精度は違う。
だから現在の制御試験へ混ぜることはできない。
それでも、似ていた。
そして昨日の最後に、もう一枚の古い記録が見つかった。
似た自然微小揺れがあったのに、自分の感覚報告が残っていない一回。
今日はそれを見る。
「見たい九」
アリシアが練習帳へ書くと、寝台の端で尻尾を揺らしていたノアが顔を向けた。
『昨日も九だったでしょう』
「変わってない」
『で、今の形に合ってほしい気持ちは?』
アリシアは少し考えた。
「五」
『下がった』
「昨日の記録が似てたから、今日は逆に違っててもいい」
『本当に?』
「……違ってたら嬉しいかもしれない」
『何で』
「二つ比べられるから」
ノアは少しだけ目を細めた。
『無反応記録が今の仮説を壊しても?』
「そこは残念三」
『ちゃんとあるのね』
「ある」
アリシアはさらに書き足す。
今日の古い無反応記録が、昨日の反応候補記録とは違う条件であってほしい気持ち六。
本当に同じような条件だった場合でも、そのまま受け取りたい気持ち九。
「六もある」
『昨日までなら八くらいあったんじゃない?』
「たぶん」
『少しは学習してる』
「少しじゃない」
『自己評価高い』
アリシアは眉を寄せたが、反論はしなかった。
◇
子供は今朝も木箱を閉じたままにしていた。
机の上には、交差一と交差二、その周辺の線を写した薄紙が重ねられている。昨日は、見えていない区間を黒線で勝手につながず、仮のつながりだけを灰色で二案描いた。
今朝は、その二案のどちらにも合わない短い線分が一つ見つかっていた。
「これ、邪魔」
子供が困ったように言う。
アリシアが覗き込む。
灰色の仮線一では、その短い線分が途中から不自然に外れる。
仮線二でも、完全には合わない。
「どっちも違うかも」
「うん」
「消す?」
「灰色だから消せる」
子供は消しゴムを持ち、すぐには消さなかった。
「でも残した方がいい?」
エルデン教師が隣で問い返す。
「何で?」
「昨日その二案を考えた記録だから」
子供は少し考え、消しゴムを置いた。
「じゃあ×つける」
「消すんじゃなくて?」
「違うかもしれないって残す」
灰色の二案の横へ、小さく「短い線と合わない」と書く。
意味を読むための作業ではない。
今の目的は、自分たちがどの線を確実に見ていて、どこから先を想像しているのかを分けることだった。
「交差三候補、見たくなった?」
アリシアが尋ねる。
「八」
「箱は?」
「四」
「上がった」
「でも今日はまだ開けない」
「何で?」
子供は薄紙の短い線を指す。
「これ、別の複写にあるか探す」
「紙で先に?」
「うん」
アリシアは頷いた。
「その方がいいかも」
『二人とも、開けない理由を探すの上手くなったわね』
ノアが椅子の背から言う。
「開けない理由じゃない」
「先にできること」
子供もすぐ続ける。
『はいはい』
◇
顔のない存在は朝の時点で椅子に座り、両手を膝の上へ置いていた。
胸の光は明るい二つと弱い一つ。
合計三つ。
昨日夕方も三つだったが、位置は一致していない。
「明るいの、一個だけ昨日と近い」
子供が十一個の円へ位置を書き込む。
弱い一つは左下寄りで、今日は輪郭が比較的見やすい。
しばらくすると、顔のない存在は立ち上がった。
最初に二歩続ける。
そこで長く止まり、少し身体を前へ傾けたあと、一歩だけ進んで座った。
「三歩。二、一」
子供が記録する。
「昨日朝も三歩だった」
「同じ歩き方?」
「違う。昨日は一、一、一」
「じゃあ三歩だけ同じ」
「うん」
歩行後、胸光の数は変わらない。
ただ、弱い一つの輪郭が少し淡くなっていた。
そこまでをそのまま残した。
◇
朝食後、サーラと魔導具教師、若い観測員が生活観測区画へ来た。
若い観測員は昨日見つけた古い記録を抱えている。
まだ机へ置く前から、アリシアの視線がそこへ向いた。
「それ?」
「そうです」
「見たい」
「分かっています」
若い観測員が少し笑う。
サーラはいつもの状態確認から始めた。
「身体疲労」
「一」
「人工刺激希望」
「一」
「古い無反応記録を見たい気持ち」
「九」
「昨日の反応候補記録と違う条件であってほしい気持ち」
「六」
「もしよく似ていたら?」
「残念三。知りたい九」
「今の見方を守りたい気持ち」
アリシアは少し考えた。
「五」
「昨日より下がっていますね」
「昔の記録だから」
「どういう意味ですか」
「今の制御試験と同じじゃないから、壊れるって言っても全部は壊れない」
魔導具教師が頷いた。
「その区別は大切です。今日見る記録は参考比較です。現在の比較群へそのまま足すものではありません」
「うん」
「ではもう一つ」
サーラが少し間を置く。
「似ている部分を見つけたら、それを強く見たくなる気持ちは?」
「七」
「違いを見つけたら?」
「そっちも七」
若い観測員が苦笑する。
「今日は両方高いですね」
「どっちかあると思うから」
『欲張り』
ノアが窓辺から言う。
「両方見るんだからいいでしょ」
◇
午前中は通常授業へ出た。
今日は魔術実習ではなく、学院の共有倉庫で行われる備品管理の基礎だった。
魔導灯の予備石、訓練用の木剣、簡易結界札、練習用の筆記具など、実習で使われる品を数え、分類し、棚番号と照合する。
派手さのない授業だったが、複数人で動くため、倉庫の中はいつもより賑やかだった。
アリシアは四人組になり、一人が棚番号を読み、一人が帳面へ書き、一人が数え、残る一人が品物を戻す役になった。
「誰が数える?」
男子生徒が聞く。
「俺やると絶対ずれる」
「自覚あるんだ」
女子生徒が笑う。
「アリシア、数える?」
「いいよ」
アリシアは訓練用の簡易結界札を十枚ずつ束に分ける。
数えるだけなら簡単だと思ったが、途中で隣の棚から別班の生徒が声をかけてきたため、一度分からなくなった。
「今何枚?」
「……分かんなくなった」
「珍しい」
「話しかけた方が悪い」
「ごめんごめん」
相手の生徒が笑いながら離れる。
アリシアは少しだけ頬を膨らませ、最初から数え直した。
「十八」
「帳面は十九ってなってる」
記録役の女子生徒が言う。
「じゃあどっちか違う」
「もう一回やる?」
「二人で別々に数えよう」
今度はアリシアと男子生徒が同時に数え、どちらも十八。
帳面の方が一つ多かった。
「あ、前の棚の一枚入れてる」
「それだ」
女子生徒が書き直す。
「解決」
「最初から私が間違えたと思った」
アリシアが小さく言う。
「だって途中で分かんなくなってたから」
「でも二回目は合ってた」
「じゃあ名誉回復」
男子生徒が大げさに言い、周囲の二人が笑った。
アリシアも肩の力を抜く。
誰が間違えたかを責めるような空気ではない。
違ったら数え直す。
普通の授業でも、それで十分だった。
◇
昼前に戻ると、子供は朝見つけた短い線分について、別の複写を二枚探し出していた。
そのうち一枚では、同じ位置に似た短線がある。
もう一枚では紙の擦れが強く、見えるかどうか判断できない。
「一枚ある」
子供が少し嬉しそうに言う。
「じゃあ偶然の汚れじゃない可能性上がった?」
「でも同じ位置か、ちょっとずれてる」
エルデン教師が二枚を重ねる。
「複写の倍率が完全には同じでないから、位置補正が必要だね」
「今日やる?」
「午後、紙だけでできるよ」
「箱は?」
「まだ開けない」
子供自身が先に答えた。
箱を開けたい気持ちは四のまま。
線の位置を確かめたい気持ちは九。
触りたい気持ちは一。
怖さは二。
数字だけ見れば、実物を見ても安全域ではある。
でも、安全だから開けなければならないわけではない。
紙で進められるなら、今日は紙を使う。
◇
昼食後、解析室に古い無反応記録が広げられた。
昨日見た古い反応候補記録と同じ時期のものだが、実施日は別だった。
当時の書式なので、入力側、東側奥部、アリシアの申告、西側の波形がそれぞれ別紙になっている。
魔導具教師は最初に、今日見る項目を昨日と同じ四つへ固定した。
入力直前の平均傾斜。
同じ区間の変動幅。
自然微小揺れ周辺の東側奥部変化。
アリシアの主観報告と西側波形の大まかな時刻。
「昨日と同じ」
「同じ物差しで比較するためです」
「今日は追加しない?」
「気になるものがあっても、主比較には使いません」
「分かった」
アリシアは椅子へ座り、古い入力紙を見る。
最初に感じたのは、思っていたより昨日の反応候補記録と似ている、ということだった。
「これ……揺れ方近い」
自然微小揺れが二つ。
大きさは完全一致ではない。
間隔も少し違う。
けれど、現在の意図的小変動ほど意図的に孤立しているわけではなく、緩やかな立ち上がりの途中で細かな揺れがまとまって現れている。
「昨日見た昔のやつも、二つくらい近かった」
「そうです」
「全然違うのかと思ってた」
「だから見つけた時に候補へ入れました」
アリシアは少しだけ口を閉じる。
今日の記録が大きく違ってくれれば、簡単だった。
でも、簡単ではなさそうだった。
◇
最初に東側奥部の開始状態を見る。
平均傾斜は、昨日見た古い反応候補よりわずかに低下側。
ただし直近の無反応制御回ほど大きくはない。
現在の反応あり五回の範囲からも大きく外れてはいない。
「平ら寄り」
「はい」
「昨日の昔の反応ありと近い?」
「近いです」
「じゃあここで分かれない」
「そうですね」
変動幅も比較する。
こちらも中間程度で、昨日見た古い反応候補と大差はない。
「これも似てる」
「はい」
「開始状態の二つだけなら、ほとんど分けられない?」
「少なくとも大きな差は見つかりません」
アリシアの指先が記録紙の端を軽く押さえる。
残念さは三くらい。
朝考えた通りだった。
でも、それ以上に興味が上がる。
「じゃあ次」
「急がないでください」
「急いでない」
『声が急いでる』
ノアに言われ、アリシアは少しだけ口を尖らせた。
◇
次に、自然微小揺れ周辺の東側奥部記録を重ねる。
ここで最初の違いが見えた。
昨日見た古い反応候補記録では、自然微小揺れの近くに、小さいながら低下候補が一つ残っていた。
今日の無反応記録では、同じ付近に明確な追加低下が見つからない。
基線はゆっくり下がっている。
しかし、自然微小揺れに対応するようなもう一段の落ち込みは、少なくとも現在の読み方では切り出せない。
アリシアは紙へ顔を近づけた。
「……ない?」
「明確には」
「記録が粗いから隠れてる可能性は?」
「あります」
「でも昨日の古い方は、粗くても候補あった」
「そうです」
「今日のは?」
「同じ基準では、なし寄りです」
アリシアはすぐには口を開かなかった。
入力側の自然微小揺れは似ている。
開始状態も大きくは違わない。
でも東側奥部の追加的な低下候補が、一方にはあり、もう一方にはない。
「今の六回と似てる」
声が少し小さくなる。
「どの部分がですか」
「入力だけじゃ分からないところ」
直近の制御試験でもそうだった。
意図的小変動は入っていた。
でも東側奥部の追加低下が出なかったとき、自分も感じなかった。
今日の古い無反応記録も、入力側には自然微小揺れがある。
でも東側奥部に追加的な低下候補が見えない。
「私の感覚報告もないんだよね」
「ありません」
「じゃあ、古い二枚でも、東側の候補ありの方だけ私も感じてる」
「今確認できる範囲では」
アリシアの胸の中に、嬉しさと怖さがほぼ同時に上がった。
「嬉しい七。綺麗すぎて怖い五」
サーラがすぐ記録する。
「両方ですね」
「うん」
ノアは何も言わず、机の端からアリシアを見ていた。
◇
魔導具教師は、そこで結論を急がず、古い二記録を同じ尺度へ並べ直した。
入力側。
反応候補記録にも無反応記録にも、自然微小揺れがある。
開始状態。
平均傾斜、変動幅とも大きくは違わない。
東側奥部。
一方には微小な追加低下候補があり、もう一方には明確な候補がない。
アリシア主観。
一方は弱い感覚候補あり、もう一方は報告なし。
西側。
ここも違っていた。
昨日見た古い反応候補記録では、少し遅れて弱波形が残っていた。
今日の古い無反応記録では、その時刻帯に明瞭な弱波形は見当たらない。
「西側もない」
アリシアの声がさらに低くなる。
「現在の読み方では、比較可能な遅延波形は見つかりません」
「昔の二枚も四段で分けたら……」
「入力にはどちらも自然揺れがあります」
「でも、その後の三つが分かれる」
「そう見えます」
アリシアは少し背もたれへ身体を預けた。
昨日まで、古い記録は条件が違いすぎて、現在の形へ無理に当てはめないようにしていた。
今日も、その注意は変わらない。
それでも、似た二枚を直接比べると、現在と同じような「入力だけでは決まらない」分かれ方が見えた。
「これ、かなり大事?」
若い観測員が答える前に、一度息を整える。
「大事です。でも、強く言いすぎたくないです」
「理由?」
「古い記録だからです。東側奥部の解像度も、西側の記録精度も現在より低い。見えないものを“なかった”と断言しにくい」
「でも同じ読み方で片方は見える」
「はい。それは重要です」
「じゃあ、“古い二記録でも同じ傾向候補”くらい?」
「ちょうどいいと思います」
アリシアは頷き、そこまでを練習帳へ残した。
◇
ここでサーラが一度休憩を入れた。
窓を開けると、午後の風が少し強くなっている。
外からは別棟の実習で金属を打つ乾いた音が聞こえ、廊下を通る生徒たちの話し声も時折混ざった。
アリシアは立ち上がり、肩を回した。
「頭疲労四」
「身体は?」
「二」
「嬉しさは?」
「七のまま」
「怖さは?」
「四に下がった」
「何が怖かった?」
「綺麗すぎたこと」
「今は?」
「古い記録だから、完全じゃないって分かってる」
ノアが窓枠へ飛び乗る。
『綺麗だから怪しいって思えるようになったなら上等』
「ノアに上等って言われた」
『嫌なら撤回する』
「しなくていい」
アリシアは少し笑った。
◇
休憩後は、二つの古い記録の「入力側が本当に似ているか」を改めて細かく見ることになった。
ここで差が一つ見つかった。
反応候補記録の自然微小揺れは、最初の小さな膨らみから戻る途中でもう一度短い揺れが重なる。
一方、無反応記録は二つの揺れの間が少し長く、その間に基線が一度ほぼ元へ戻っている。
「同じ二つじゃない」
「そうです」
「反応ありの方が、重なってる感じ」
「近接度は高いです」
「じゃあ、東側追加低下が出た理由は入力の近さかも」
「候補です」
アリシアは反射的に頷きかけ、途中で止まった。
「でも、それを確認できる記録少ない」
「はい」
「今の意図的小変動は一個だけだから、直接比べられない」
「その通りです」
「じゃあ昔の二枚だけで“間隔が短いと東側が動く”は言えない」
「言えません」
さらに、反応候補記録の二つ目の揺れは、無反応記録より少し丸みがある。
戻りもわずかに遅い。
最大幅だけなら大差ないが、時間方向の形が違う。
「また形」
アリシアが呟く。
「入力波形は、一つの数字では表し切れません」
「幅だけ同じでも違う」
「はい」
「最初の頃からずっと残ってる」
立ち上がりの速さ。
小変動の位置。
尖り方。
戻り方。
直前の自然揺れ。
基礎出力。
今度は、自然揺れ同士の間隔まで出てきた。
「増える」
アリシアの声に少し困った響きが混じる。
「候補ばっかり」
魔導具教師は苦笑した。
「全部を一度に解く必要はありません」
「でも、どれが大事か分からない」
「だから、現在の制御試験では条件を増やしすぎないのです」
「昔の記録は、見つけるため?」
「候補を作るためには役立ちます。証明には向きません」
アリシアはその言葉を何度か頭の中で繰り返した。
「昔の記録で候補を作って、今の制御試験で見る」
「そういう使い方ができます」
「じゃあ今日の候補は、入力の細かい時間形と東側追加低下の有無」
「はい。ただし直前開始状態の影響も捨てません」
「増えたまま」
「増えたままでいいです」
アリシアは少しだけ息を吐いた。
分からないことを減らすために研究しているのに、見るほど候補が増える。
昔なら、その状態に焦っていたかもしれない。
今は少し違う。
候補が増えても、次に全部試す必要はない。
◇
子供の作業は、午後も箱を開けずに続いた。
朝見つけた短い線分について、二枚の複写の倍率を合わせると、位置はかなり近かった。
完全一致とは言えないが、単なる一枚だけの汚れよりは「実際にある線」の可能性が高くなる。
「これ、本物かも」
子供が言う。
「線そのものは?」
「候補」
「よし」
アリシアが笑う。
「褒めるの?」
「ちゃんと候補って言ったから」
「アリシアも候補いっぱい」
『二人とも候補だらけ』
ノアが口を挟む。
エルデン教師は薄紙へ小さな印を付けた。
「次に実物を見るとき、この短線まで一緒に確認する?」
子供は少し考える。
「しない」
「なぜ?」
「交差三候補だけ見るって決めた」
「覚えてたんだ」
「短い線は別の日」
「それでいこう」
箱を開けたい気持ちは五まで上がっていた。
それでも今日は開けない。
次に開ける時の一点も、すでに決まっている。
◇
夕方、顔のない存在は朝より多く六歩進んだ。
最初に一歩。
少し止まり、二歩。
さらに長い間を挟んで三歩続ける。
歩き終えると、その場で少し立ったまま止まり、やがて椅子へ戻った。
胸の光は明るい一つと弱い三つ。
朝は明るい二つと弱い一つだったため、総数は同じ四つでも内訳が変わった。
「六歩。でも光四つ」
子供が言う。
「朝も四つ」
「中身違う」
「位置は?」
「一個だけ近い」
子供は十一円図へ新しい位置を書き込む。
歩数が増えたから光も増えた、とはならない。
今日も別々に残した。
◇
解析を終えたあと、アリシアは学院の廊下で昨日の備品管理実習の同じ班だった女子生徒に呼び止められた。
「アリシア、これ落とした?」
差し出されたのは、小さな紙片だった。
アリシアが見る。
「違う」
「名前ないんだよね」
「何書いてあるの?」
「買うもの」
紙には、「糸、石鹸、封筒、乾燥果実」とだけ書かれている。
「誰のだろ」
「掲示板に貼っとく?」
「落とし物箱じゃない?」
「そうか」
二人で職員室近くの落とし物箱まで持っていく。
それだけで終わるはずだったが、途中でいつもの女子生徒と会った。
「何してるの?」
「買い物メモ拾った」
「乾燥果実あるなら私のかも」
「本当に?」
「嘘」
「やめて」
アリシアが思わず笑う。
「でも乾燥果実食べたい」
「また食べ物」
「またって何」
「ノアに言われた」
「猫に?」
「うん」
話が少しずれていく。
落とし物箱へ紙を入れたあと、三人で廊下を歩きながら、学院近くの売店で最近何が増えたかという話になった。
アリシアは聞く側が多かったが、ときどき質問されれば普通に答えた。
研究の話は出なかった。
それが少し嬉しかった。
◇
夜。
生活観測区画の窓の外では、細い雲が月の前を流れていた。
アリシアは机へ座り、今日の記録を開く。
最初に、古い無反応記録の扱いを書く。
『昨日見つかった、自然微小揺れがありながら私の感覚報告がない古い十呼吸記録を参考比較した。現在の制御試験とは条件・記録精度が異なるため、現行比較群には入れない』
次に開始状態。
『東側奥部の直前平均傾斜と変動幅は、昨日見た古い反応候補記録と大きくは違わなかった。したがって、この二指標だけでは古い反応候補/無反応記録を分けられない』
アリシアは一度筆を止める。
朝は、違う条件が見つかってほしい気持ち六だった。
最初の二指標では、期待したほど分かれなかった。
でも、その次が違った。
『自然微小揺れ周辺の東側奥部では、反応候補記録には小さな追加低下候補がある。一方、今回の古い無反応記録では、同じ基準で明確な追加低下候補を確認できなかった』
主観。
『反応候補記録では弱い感覚候補あり。無反応記録では感覚報告なし』
西側。
『反応候補記録には後発の弱波形あり。無反応記録では比較可能な明確な後発弱波形を確認できない』
そこまで書くと、現在の制御試験と似た並びが紙の上にも現れる。
入力側には変化がある。
でも、その後に東側奥部追加低下が現れる場合と、現れない場合がある。
現れた方では自分の弱い感覚候補と西側後発波形。
現れなかった方では、その二つも確認されない。
「また三つ一緒」
ノアが机の端へ乗った。
『古い記録でもね』
「でも古いから弱い」
『弱い?』
「証拠として」
『自分で分けられてるならいい』
アリシアは続きを書く。
『この古い二記録も、“入力に揺れがあるか”だけでは結果が分かれない。東側奥部に追加的な低下候補が出るかどうかと、私の感覚候補、西側後発弱波形の有無が一緒に分かれるように見える。ただし記録解像度が低く、欠測もあるため、現在の制御試験と同じ強さでは扱わない』
その次に、今日見つかった入力側の差。
『二つの古い記録の自然微小揺れは完全同一ではない。反応候補側は二つの揺れの間隔が短く、戻り途中へ次の揺れが重なる。無反応側は二つの間がやや長く、一度基線へ戻る時間がある。丸み、戻り方にも差がある』
アリシアは少し考えながら筆を進める。
『これが東側奥部追加低下の有無へ影響した可能性は候補。ただし古い二記録だけでは決めない。現在の意図的小変動試験は別条件なので、そのまま再現条件にしない』
「やりたくなる?」
ノアが聞く。
「何を?」
『揺れ二回入れて間隔変える』
アリシアは一瞬だけ黙った。
「……ちょっと」
『でしょ』
「でも今やらない」
『何で』
「新しい条件になるから」
今は、既存範囲の再現性と反例を見る。
古い記録から新しい候補が見つかったからといって、すぐ新しい波形を作るのは違う。
「先生に言ったら止められる」
『先生のせいにするな』
「私も止める」
『ならよし』
アリシアは研究欄の下へ、今日の日常も残した。
『備品管理の授業で結界札を数え直した。最初は私が間違えたと思われたが、帳面へ前の棚の一枚が混ざっていた。帰りに買い物メモの落とし物を届けた。友達と売店の話をした』
子供についても書く。
『子供は灰色の仮線二案に合わない短線候補を別複写でも見つけた。倍率補正後、位置は近い。交差三候補の実物確認より先に、紙で位置関係を整理している。次に箱を開ける場合も交差三候補一点だけを先に見る』
最後の欄で、アリシアはしばらく筆を止めた。
今日までの記録を見れば、六つ目が入力の揺れそのものを直接拾うという見方は、以前よりさらに弱くなっている。
入力側で何かが起きても、それだけでは足りない。
東側奥部に追加的な変化が出るとき。
自分の胸にも弱い感覚が現れやすい。
西側へ遅れた弱波形も出る。
けれど、まだそれらの間に一本の矢印を引くことはできない。
東側が原因なのか。
その前に別の状態変化があるのか。
東側と自分と西側が、同じものへ別々に反応しているのか。
何も確定していない。
それでも問いは少し変わった。
『次に知りたいのは、“入力に変化があるか”ではなく、“同じくらいの入力変化から東側奥部の追加低下が出る時と出ない時を何が分けるか”』
そこまで書き、アリシアは少し迷ってからもう一文足した。
『ただし、古い二記録で見つけた揺れ間隔の違いを、すぐ新しい実験条件にはしない。まず現在の既存条件の中で、東側が出る/出ない時に共通するものを探す』
今すぐ試したいものは増えている。
だからこそ、試さない。
その選択にも少しずつ慣れてきた。
ノアが練習帳の横で身体を丸める。
『今日は結構進んだ顔してる』
「進んだと思う」
『答え分かった?』
「全然」
『じゃあ何が進んだの』
アリシアは窓の外へ一度目を向けた。
月は薄い雲に隠れ、光だけがぼんやり庭へ落ちている。
「どこが入口じゃないか、少し分かった」
『入力の揺れだけじゃ足りないってこと?』
「うん」
そして、もう一度練習帳を見る。
「次は、東側が動く前のところ」
入力から東側奥部へ何が渡っているのか。
あるいは、何も「渡って」いないのか。
まだそこへ名前を付けることはできない。
けれど、昔の反応した一枚と、反応しなかった一枚を並べたことで、見るべき境界は少しだけ狭くなった。
アリシアは灯りを弱め、練習帳を閉じた。
似た揺れがあったのに、結果が違った。
その違いは、六つ目の胸へ届く前から、すでに東側の奥で始まっていたのかもしれなかった。




