第193話 昔の弱い反応を今の物差しで見直すなら、同じだったところと違っていたところを混ぜない
朝の学院は、久しぶりに雲の切れ間から青空が見えていた。
生活観測区画の窓辺には淡い陽射しが差し込み、机の上に重ねられた記録紙の端を白く照らしている。雨の名残はまだ庭の石畳に残っていたが、昨夜より空気は軽く、開けた窓からは湿った土の匂いよりも、朝日に温められ始めた草の青い匂いの方が強く入ってきた。
アリシアは寝台から起き上がると、いつものように身体の状態を確認した。
胸部冷感はない。
震えもなく、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもない。身体疲労は一で、研究の続きを見たい気持ちはすでに八ほどあった。
昨日までの比較で、直近の無反応回には、小変動が入る前から東側奥部の基線がやや強く低下していたという特徴があった。
ただ、それだけで反応の有無を完全に分けることはできなかった。
似た開始状態を持ちながら、弱い反応が出た回もある。
だから今日見るのは、もっと前の記録だった。
以前、十呼吸でゆっくり立ち上げた途中に自然な微小揺れがあり、アリシア自身に非常に弱い感覚候補が出た一回。
今の意図的小変動試験ほど条件を揃えてはいない。
当時は東側奥部の追加低下も、今ほど細かく切り分けていなかった。
それでも、同じ物差しで見られる部分はあるかもしれない。
「今日、昔のやつ見る」
練習帳へ書きながら呟くと、窓辺で毛づくろいをしていたノアが顔を上げた。
『昨日から決まってたでしょう』
「うん」
『じゃあ何を確認してるの』
「気持ち」
『また数字?』
「見るの八。昔の記録が今の形に合ってほしい気持ち……」
アリシアは少し考えた。
「六」
『高い』
「でも直近の無反応回を外したくない気持ちは九」
『そっちの方が高いのね』
「今は」
昔の弱い感覚候補が、今見えている傾向へ綺麗に収まれば嬉しい。
けれど、そのために直近の無反応回を特殊例として押しやるのは違う。
昨日と一昨日の比較を経て、アリシアの中ではその順序が少し変わっていた。
「もし昔の記録が全然合わなかったら?」
『自分で聞くの?』
「先に考えとく」
『どのくらい残念?』
「四」
『で、捨てる?』
「捨てない」
『ならいいんじゃない』
「ノア、最近ちゃんと研究の話する」
『毎日同じこと聞かれてるから覚えただけ』
アリシアは少し笑い、練習帳を閉じた。
◇
子供は今朝も木箱を開けていなかった。
机の上には、昨日作っていた簡略線図と、交差候補、接近・終端候補の複写が並んでいる。
今日はさらに、透明度の低い薄紙が何枚か重ねられていた。
「それ何?」
アリシアが覗き込むと、子供は一枚を持ち上げた。
「場所重ねる」
「線を?」
「全部じゃない」
エルデン教師が隣で説明する。
「実物の線そのものを一本につなげるのではなく、各複写で確実に確認できる区間だけを別紙へ移して、位置関係を重ねています」
「つながってるか調べる?」
「正確には、“つながって見える区間があるか”を調べます」
子供は交差一と交差二の周辺を写した薄紙を重ねる。
二つの候補はかなり離れている。
間には見えていない部分が多く、一本の線として追えるわけではない。
ただ、双方の周辺にある緩い曲線の向きは、ある程度似ていた。
「同じ線?」
アリシアが聞くと、子供はすぐ首を振った。
「まだ」
「似てる?」
「似てるところある」
「じゃあそこまで」
「うん」
木箱を開けたい気持ちは二。
交差三候補を実物で見たい気持ちは六。
線の位置関係を紙で知りたい気持ちは九。
「紙の方が高い」
「今日は重ねるから」
『箱を閉じてる日の方が作業増えてない?』
ノアが机の下から言う。
「開けないとできることもある」
子供が答える。
その言葉にエルデン教師が少し笑った。
◇
顔のない存在は、朝の時点では寝台の横に立っていた。
胸の光は明るい一つと弱い四つ。
合計五つ見える。
昨日夕方は明るい一つと弱い二つだったため、数も位置も変わっている。
「今日は多い」
子供が言いかけ、すぐに紙へ書く。
「見えるの五つ」
言い直した。
多いという表現が悪いわけではない。
けれど、増えたことに良し悪しを乗せないため、まず事実を残す。
明るい一つは中央下寄り。
弱い四つは左上、左中央、右上、右下。
そのうち右上は特に薄い。
顔のない存在は少しして歩き始めた。
一歩。
長い停止。
次に二歩続ける。
そこからまた止まり、最後に一歩進んだ。
「四歩。一、二、一」
子供が記録する。
「朝から歩いた」
「うん」
「光変わった?」
歩行後に確認すると、見えている数は五つのままだった。
ただし左中央の弱い光が少し見えにくくなっている。
「数同じ。見え方だけ少し違う」
子供はそう書いた。
◇
朝食後、サーラと魔導具教師が来た。
人工刺激を行わないことは、今日も最初に伝えられた。
アリシアは特に驚かない。
「刺激希望は?」
「二」
「昨日と同じですね」
「うん」
「古い記録を見たい気持ち」
「八」
「今の傾向に合ってほしい気持ち」
「六」
「合わなかった場合の残念さ」
「四くらい」
「古い記録の条件が違うことは?」
「分かってる」
「どこまで同じ物差しで見られるかを確認する日です」
魔導具教師が言う。
「無理に今の六回へ入れません」
「別枠?」
「はい。まず参考比較です」
「同じ十呼吸でも?」
「当時と今では制御方法が違います。意図的小変動を一回だけ置いた条件でもありません」
「じゃあ、似てても同じじゃない」
「そうです」
アリシアはその言葉を練習帳へ小さく残した。
似ていることと、同じ条件であることは別。
今日はそこを崩さない。
◇
午前の授業は、魔術史の講義だった。
実習ではなく、長い机に生徒たちが並び、教師が古い学院制度の変遷について話す。
研究や地下構造に直接関係する内容ではなく、かつて学院の生徒がどのように選択授業を決めていたか、研究塔への立ち入り権限がどう変化したかといった一般史だった。
アリシアの隣には、昨日とは別の男子生徒が座っている。
講義の途中、その男子生徒が小さく紙を滑らせてきた。
見ると、教師が黒板へ書いた古い制度名を二種類並べ、「どっちが試験に出そう?」とだけ書いてある。
アリシアは少し迷ったあと、片方へ丸を付けた。
紙が戻る。
すぐまた来る。
今度は「俺もそう思う」と書いてあった。
アリシアは思わず口元を緩める。
教師がこちらを見た。
「何かありますか」
「ないです」
アリシアが答えると、周辺の何人かが小さく笑った。
男子生徒は前を向いたまま、肩だけ震わせている。
以前なら、周囲が笑った瞬間に身体が強張っていた。
今は恥ずかしさはある。
でも、それだけだった。
講義が終わったあと、男子生徒が紙を畳みながら言う。
「外したら恨む」
「知らない」
「丸つけたじゃん」
「自分でもそう思ってたんでしょ」
「責任分担」
「半分だけ」
「じゃあ落ちたら半分恨む」
アリシアは少し笑って教室を出た。
◇
昼前に生活観測区画へ戻ると、子供は薄紙を三枚重ねていた。
交差一と交差二周辺の曲線を重ねると、完全一致ではないが、一定方向へ伸びる線分が「同じ大きな曲線の別部分」に見える可能性が出ている。
ただし、中央の広い範囲が空白のままだ。
「ここ全部見えてない」
子供が指す。
「だから同じ線って言えない」
「うん」
「でも、つながるならこう?」
子供は鉛筆を持ちかけて止めた。
空白へ線を描こうとしていた。
「描く?」
アリシアが聞く。
子供は少し迷い、鉛筆を置いた。
「やめる」
「なんで?」
「見えてないから」
「想像の線なら別の色にしたら?」
エルデン教師が提案する。
「実線と混ぜなければ、仮のつながりを考えること自体は禁止しなくてもいいよ」
子供は少し考え、別の淡い色鉛筆を選ぶ。
確実に見えている線は黒。
見えていない部分を「もしつながるなら」と仮に結ぶ線は薄い灰色。
「これなら消せる」
「そうだね」
「一個だけ?」
「今日は一案だけにする?」
「うん」
子供は慎重に、空白を跨ぐ一本の薄い線を引いた。
それは確定した形ではない。
ただ、次にどの辺りを見れば連続性を確かめられるかを考えるための仮線だった。
◇
午後の解析では、古い十呼吸記録が机の上へ出された。
今の比較用紙とは書式も違う。
当時は入力側の立ち上がり波形、東側奥部の反応、アリシアの申告時刻、西側の記録が別々の紙に残されており、時間軸の合わせ方も現在ほど細かく統一されていなかった。
「これ、見づらい」
アリシアが正直に言う。
「当時は今の問いがありませんでしたから」
魔導具教師が答える。
「同じ記録でも、見る場所変わる」
「はい」
「でもあとから都合いいところだけ拾わない?」
「その危険があります」
「どうする?」
「先に、今日見る項目を固定します」
魔導具教師は新しい紙へ四つだけ書いた。
一つ、入力直前の平均傾斜。
二つ、入力直前の変動幅。
三つ、自然微小揺れ前後の東側奥部の追加変化。
四つ、アリシアの感覚候補と西側波形の大まかな時刻関係。
「これ以外見ない?」
「見えても、今日の主結論には使いません」
「後で別に見る?」
「必要なら」
アリシアは頷く。
◇
最初は入力直前の東側奥部開始状態だった。
古い十呼吸は、今の制御試験と同じ位置から始まっていない。
そのため絶対値ではなく、直前一定区間の傾きと変動幅だけを取り直す。
平均傾斜は、比較的平坦。
直近の無反応回ほど継続的に下がってはいない。
「昨日より平ら」
「はい」
「今の反応あり五回の範囲には入る?」
「大まかには」
アリシアの目が少し明るくなる。
「合ってる」
「一項目だけです」
「分かってる」
「今の気持ちは?」
サーラが聞く。
「嬉しい六」
「朝の“合ってほしい”が六でしたね」
「同じ」
次に変動幅。
こちらは少し大きめだった。
現在の六回と比べれば、中間より上。
ただし最大ではない。
「平らだけど揺れはある」
「そうです」
「直近無反応は下がりながら揺れも大きめ」
「はい」
「古い反応候補は平らだけど揺れあり」
「今の指標だけなら、その違いです」
アリシアはそこを紙へ書く。
開始状態の「傾き」と「揺れ」は同じものではない。
昨日までの比較でも分けていたが、古い記録で見るとさらに分かりやすかった。
◇
次に、自然微小揺れが入った時刻周辺の東側奥部を見直す。
当時の記録では、微小揺れのあとに非常に小さな変化がある。
ただし現在の「追加低下」と同じ定義で測ったものではなく、時間解像度も粗い。
「これ、追加低下?」
アリシアが尋ねる。
「候補です」
「今の五回みたいに言える?」
「そこまでは言えません」
「なんで?」
「入力側の自然揺れ自体が一回ではなく、細かい揺れが近接しています。それに東側の記録間隔も粗い。どの入力変化に対応したのかを一対一に決められません」
「でも何もないわけじゃない」
「はい。微小揺れ付近に、小さい低下候補はあります」
「直近無反応は?」
「同程度のものは確認できませんでした」
アリシアは紙を見つめる。
また少し、今の形に近い。
平坦寄りの開始状態。
自然な微小揺れ。
その付近で東側奥部に小さな低下候補。
そして自分に弱い感覚候補。
「合いすぎて怖い」
サーラが視線を上げる。
「怖さですか?」
「違う。きれいに見えすぎる感じ」
「数字なら?」
「四」
「それは残しておきましょう」
アリシアは頷いた。
「今、これも今のグループに入れたくなる」
「気持ちは?」
「八」
「高いですね」
「だって似てる」
「では、次を見る前に書きましょう。“現在の比較可能な六回には含めない”」
アリシアは少し不満そうな顔をしたが、そのまま練習帳へ書いた。
『古い自然微小揺れ十呼吸は参考記録。現行六回の比較群には入れない』
「これでいい?」
「はい」
『渋い顔してる』
ノアが机の下から言う。
「似てるのに」
『似てるから混ぜたくなるんでしょう』
「うん」
◇
次はアリシアの感覚候補と時刻。
当時の報告は、現在より曖昧だった。
「冷たいかもしれない」「中央寄り」「かなり弱い」といった言葉が残っているが、今のように〇・三や〇・五と細かく残してはいない。
それでも、自然微小揺れの後に違和感候補が出ている。
時間差は、おおよそ一呼吸以内とみなせる範囲だった。
「ここも近い」
「はい」
「でも昔の私、言い方曖昧」
「当時はそれが適切でした」
「今なら〇・三とか言いそう」
「そうかもしれませんが、過去記録へ今の数値を後付けしないでください」
「しない」
西側の弱波形は、さらに後に見える。
ただしこちらも現在ほど明瞭ではない。
「順番だけなら、今と似てる」
「大まかには」
「入力の揺れ、東側候補と私、あと西側」
「ただし東側とアリシアさんの細かな前後は不明です」
「そこも同じ」
「そこは一貫して測定上の限界があります」
アリシアは少し息を吐いた。
古い記録は、現在の形を証明してくれるわけではない。
でも完全に外れてもいない。
むしろ、条件は違うのに似た順序が見える。
◇
そこで若い観測員が別室から追加の紙を持ってきた。
古い十呼吸の中でも、似た自然微小揺れがありながらアリシアの感覚報告がなかった別記録が一つ見つかったという。
「あるの?」
アリシアがすぐ反応する。
「あります。ただ、条件はさらに違います」
「見たい」
「今日の主対象ではありません」
「でも見つかった」
若い観測員は少し迷い、魔導具教師を見る。
魔導具教師は紙を受け取り、机へ置かず手元に留めた。
「存在だけ知らせます」
「中身は?」
「次回候補です」
「なんで今日見ないの」
「今ここで見ると、今日の参考記録一つに対する整理と、別の無反応記録の比較が混ざります」
「でも反例かもしれない」
「だから明日以降、きちんと見ます」
アリシアは少し唇を尖らせた。
「知りたい九」
「記録します」
「今すぐ見たい八」
「それも」
『待つ練習ね』
ノアが言う。
「最近そればっかり」
『研究がそういうものなんじゃない』
「ノアが言うと腹立つ」
「でも、ここで新しい記録が一つ出てきたのは大事です」
サーラが穏やかに言った。
「今日の古い反応候補だけ見れば、“平坦な開始状態+微小揺れ+東側低下候補+アリシア感覚候補+西側後発”と、今の形にかなり似て見えます。でも似た自然揺れで無反応の過去記録があるなら、そこまで含めて初めて問いが進みます」
「……うん」
アリシアは少し時間を置いてから頷いた。
「今日これだけで、昔も同じだったって言わなくてよかった」
「そうですね」
「見つけてくれてよかった」
若い観測員が少し笑う。
「あとで怒られるかと思いました」
「なんで」
「今すぐ見せろって」
「言った」
「言いましたね」
室内に小さな笑いが起きた。
◇
解析をいったん終え、休憩に入る。
午後の陽射しは朝より強く、窓際の床には明るい四角形が伸びていた。
アリシアはその端に足先を置きながら、頭の中を整理する。
今日見た古い反応候補は、今の形にかなり似ていた。
でも、それを現在の六回へ加えることはできない。
条件が違う。
記録精度も違う。
そして、似た自然揺れで無反応だった古い記録が別にある。
「嬉しいけど、続き気になる」
ノアが隣で尻尾を揺らす。
『それ、毎日言ってない?』
「今日は違う」
『どう違うの』
「昔の記録にも、今の分け方を壊すかもしれないのがある」
『壊したいの?』
アリシアは少し考えた。
「見たい」
『質問に答えてない』
「壊れてほしくはない。でも、あるなら見たい」
『それなら前よりマシ』
「前なら?」
『都合いい方だけ見たがった』
「……ちょっとだけね」
『ちょっと?』
「かなりかも」
アリシアは小さく笑った。
◇
子供の方では、薄紙を重ねた作業が一区切りしていた。
交差一と交差二の周辺にある曲線は、仮線を一本入れると同じ大きな曲線の一部としてつながる可能性がある。
しかし別のつなぎ方もできる。
子供はそのことに気づき、灰色の仮線を二種類描いていた。
「二個ある」
アリシアが見る。
「こっちでもつながる」
「じゃあ一個に決められないね」
「うん」
「交差三候補はどっちに近い?」
「それも二つある」
エルデン教師が頷く。
「だから、次に実物を見るとしても、何を確かめたいかが少し変わりました」
「交差してるかだけじゃない?」
「まず交差候補として本当に一と二に似た構造か。それとは別に、その周辺の線の向きを確かめる価値があるかもしれない」
子供がすぐ言う。
「でも一回に一個」
「そうだね」
「じゃあ最初は交差だけ」
「それがいいと思う」
箱を開けたい気持ちは三まで上がっていたが、今日は開けない。
次の実物確認でも、見るのは交差三候補一点だけ。
周囲の線を追うのは別日にする。
◇
顔のない存在は夕方前に再び歩いた。
今度は最初に二歩続け、少し間を置いて二歩、最後に一歩。
合計五歩。
朝より二歩多い。
胸の光は明るい二つと弱い一つ、合計三つへ変わっていた。
「朝五つ。夕方三つ」
子供が記録する。
「位置も違う」
「歩いたら減った?」
アリシアが問いかけると、子供は首を傾げる。
「変わったのいつか見てない」
「そうだった」
「歩く前に三つだったかもしれない」
「うん」
因果関係は結ばない。
今日もそれだけだった。
◇
解析後、アリシアはすぐ生活観測区画へ戻らず、学院の渡り廊下を少し遠回りした。
廊下の向こうでは、来月の小展示へ向けて数人の生徒が掲示用の板を運んでいる。
昨日刺繍を見せてくれた女子生徒もいて、アリシアを見つけると片手を上げた。
「アリシア、ちょうどいい」
「何?」
「展示の紙、こっちとこっちどっちが見やすい?」
差し出されたのは二種類の見出し札だった。
一方は装飾が多く華やか。
もう一方は文字が大きく、余白が広い。
アリシアは両方を見る。
「こっち」
余白の広い方を指す。
「やっぱり?」
「遠くから見やすい」
「飾り少ないけど」
「作品あるなら、札が目立たなくてもいいんじゃない?」
近くにいた男子生徒が頷く。
「俺もそっち」
「じゃあ二票」
女子生徒はそのまま別の生徒へも聞きに行った。
アリシアの意見だけで決めない。
何人かに聞いて、最後は出す側が選ぶ。
その様子を見ながら、アリシアは少しだけ今日の研究を思い出した。
一つの記録だけで決めない。
似て見えても、別の例を探す。
でも、わざわざその考えを口にはしなかった。
「手伝う?」
女子生徒が戻ってきて聞く。
「何を?」
「札並べるだけ」
アリシアは少し迷ってから、頷いた。
「少しなら」
◇
十分ほど、展示板へ見出し札を仮置きするのを手伝った。
研究でも授業でもない。
魔術を使うわけでもない。
ただ、紙を置いて、離れて見て、少し位置を変える。
「こっち低い?」
「少し」
「これくらい?」
「うん」
「アリシア、意外と細かい」
「見えたから」
「研究の癖?」
「たぶん違う」
周囲の生徒たちが笑う。
アリシアも笑った。
全部を研究へ結びつけなくていい。
◇
夜。
生活観測区画の机へ向かうと、昼間の明るさが嘘のように窓の外は静かだった。
庭の端に設置された小さな魔導灯が、濡れた葉をぼんやり照らしている。
アリシアは練習帳を開いた。
まず、今日見た古い反応候補を書く。
『以前の自然微小揺れを含む十呼吸を、現在使っている開始状態の指標で参考比較した。現行の意図的小変動試験とは条件・記録精度が異なるため、現在の六回比較群には入れない』
次に開始状態。
『東側奥部の直前平均傾斜は比較的平坦で、現在の反応あり回の範囲に近い。変動幅はやや大きめだが最大ではない』
自然揺れ周辺。
『自然微小揺れ付近に、東側奥部の小さな低下候補が残っている。ただし現在の追加低下と同じ定義ではなく、入力側にも近接した複数の微小揺れがあるため、一対一対応は決められない』
主観と西側。
『私の弱い感覚候補は自然微小揺れ後、一呼吸以内に入る範囲。東側候補との細かな前後は不明。西側の弱波形はそれより後に見える。大まかな順序は現在の反応あり試験に似る』
そこまで書いて、少しだけ手を止めた。
今日の前半だけなら、かなり綺麗だった。
古い記録まで今の形に近い。
それが嬉しかった。
だからこそ、若い観測員が別の古い無反応記録を見つけてきたことが大事だった。
『ただし、似た自然微小揺れがありながら私の感覚報告がない古い記録が別に一件見つかった。今日は存在確認のみ。次回以降の比較候補』
アリシアはその一文を読み返す。
「明日見たい九」
ノアが机へ飛び乗る。
『知ってる』
「何で」
『夕方からずっと顔に出てる』
「また顔?」
『数字より分かりやすい時あるわよ』
アリシアは少し眉を寄せた。
「でも今日見なかった」
『偉い偉い』
「適当」
『ちゃんと明日残ってるでしょう』
「うん」
アリシアは続ける。
『今日の古い反応候補だけで“昔も今と同じ”とは言わない。条件差が大きい。似た無反応記録もあるため、次は同じ物差しでその記録を見て、どこが共通し、どこが違うかを比べる』
次に子供のことを書く。
『子供は交差一と交差二周辺の線を薄紙で重ねた。見えていない区間は黒線でつながず、灰色の仮線を使った。つなぎ方は一案ではなく二案出た。交差三候補はまだ実物未確認。次に箱を開ける場合も、まず交差部分だけを見る』
日常。
『魔術史の授業で隣の生徒と試験に出そうな制度名を予想した。展示準備で見出し札を並べるのを少し手伝った。余白の広い方が見やすかった』
ノアが紙を覗く。
『普通の日が増えたわね』
「研究もした」
『知ってる』
「普通もある」
『それでいいんじゃない』
アリシアは最後の欄へ筆を進めた。
『昔の記録が今の形に似ていることは嬉しい。でも、似ている記録だけを集めたら何でも綺麗になる。次に見るべきなのは、似た揺れがあったのに私が感じなかった記録』
そこまで書き、少しだけ考える。
そして一行足した。
『同じ揺れに見えるなら、違う結果になった理由を探す。実は同じ揺れではないなら、何が違ったのかを探す。どちらでも次へ進める』
今のアリシアには、それが少し嬉しかった。
反応が出れば進む。
出なくても進む。
綺麗に揃えば嬉しい。
揃わなくても見る場所が増える。
全部を同じ意味にする必要はない。
窓の外では、昼間より細く見える月が雲の端へ隠れかけていた。
明日見るのは、昔のもう一枚。
似たように揺れたのに、胸が冷たくならなかった記録だった。




