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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第192話 刺激の前から動いていたなら、違いは一瞬ではなく始まる前の数呼吸に残っている



 翌朝、学院の屋根を覆っていた雲は薄くなり、生活観測区画の窓から差し込む光には久しぶりに少しだけ暖かさが戻っていた。


 雨上がりの庭では、石畳の隙間に残った水が細い筋になって流れている。植え込みの奥では小鳥が何度か短く鳴き、遠くの講堂からは早朝の準備をする生徒たちの声がかすかに聞こえた。静かな区画ではあるが、学院そのものが目を覚ましていく気配は、ここにもちゃんと届いている。


 アリシアは窓を少しだけ開けたあと、机へ向かった。


 今日は起きてすぐ試験について考えたわけではない。


 昨日、解析の最後に「次に見る場所」を決められたことで、頭の中に少し余白が戻っていた。


 反応した過去五回と、反応しなかった直近一回。


 小変動そのものの最大幅や大まかな位置では、無反応だった一回だけを明確に分けられなかった。


 その代わり、刺激へ入る前の東側奥部の状態に気になる違いがあった。


 直前の平均傾斜。


 そして、その区間の変動幅。


 今日はまず、その二つを同じ方法で比べる。


「刺激したい二」


 アリシアが練習帳へ数字を書き込むと、椅子の背に乗っていたノアが前脚を伸ばした。


『昨日と同じくらい?』


「昨日は一だった」


『じゃあ上がってる』


「でも二」


『やりたいっていうより、結果見たい方でしょう』


「そっちは八」


 アリシアは少し考え、さらに数字を足す。


 昨日見つけた東側奥部の開始状態が本当に違っていてほしい気持ちは七。


 違わなくても受け取りたい気持ちは九。


「七もある」


『原因だと思いたい気持ち?』


「昨日よりは下がった」


『でもまだ結構ある』


「見る場所決めたから」


『決めた場所から何か出てほしいのね』


「うん」


 アリシアは素直に認めた。


 昨日の段階では、直前の緩やかな低下を「原因」にしたい気持ちが九まで上がった。


 今朝は少し落ち着いた。


 それでも、今日の比較で昨日の一回だけがきれいに外れれば、きっと嬉しい。


 そして、その嬉しさに引っ張られて線を引きたくなる。


「先生に言う」


『何を?』


「違っててほしい七」


『先に言うならいいんじゃない』


「ノア、最近まとも」


『最近じゃなくて元から』


 アリシアは少しだけ笑った。


     ◇


 子供は今朝も木箱を開けていなかった。


 昨日、紙上だけで整理した「交差一」「交差二」「交差三候補」「接近一」「接近二」の五つが、机の上に離して並べられている。


 今日は新しい紙が一枚追加されていた。


「何これ?」


 アリシアが覗く。


「線だけ写した」


 子供が見せたのは、線刻そのものの意味や形を完全に写し取った図ではない。


 既存の複写から、今見えている範囲の線だけを簡略化し、どこに交差候補や接近候補があるのかを位置関係だけで残したものだった。


「全部つなげた?」


「つなげてない」


 よく見ると、線は途中で何度も切れている。


 複写で確実に追えるところだけが短い線分として描かれ、その先に同じ線が続くと断定できない場所には、わざと空白が残されていた。


「こことここ、同じ線かもしれない。でも決めてない」


「だから空けたんだ」


「うん」


『ずいぶん用心深い地図ね』


 ノアが紙を見下ろす。


「つながってるって書いたら、あとでそう見えそうだから」


 子供の言葉に、アリシアは一瞬だけ黙った。


 昨日、自分も似たことをしていた。


 違いが見つかれば、そこを原因だと思いたくなる。


 紙の上で線をつないでしまえば、その先も同じ一本の線に見えてしまう。


「空白、大事だね」


「うん」


「箱開けたい?」


「二」


「交差三候補見たい?」


「七」


「昨日より下がった」


「紙でやることあるから」


 子供は満足そうに紙へ戻った。


     ◇


 顔のない存在は、朝食前にすでに立っていた。


 子供が十一の円を描いた記録紙を持って近づくと、胸には明るい二つと弱い二つ、合計四つの光が見えている。


 位置は中央上、左下、右中央、右下。


 昨日の夕方と比べると、近い位置にあるものは二つだった。


「今日は四つ」


「歩くかな」


 アリシアが少し離れたところから見ていると、顔のない存在はすぐには進まなかった。


 立ったまま、しばらく身体をわずかに左右へ揺らしている。


 やがて一歩だけ前へ出し、そのまま長く止まった。


 続いてもう一歩。


 さらに少し間を空けて一歩進む。


 合計三歩で椅子へ戻った。


「朝三歩。一歩、一歩、一歩。間長め」


 子供が書く。


「光、歩いたあとも同じ?」


 もう一度確認する。


「明るい二つ、弱い二つ。数同じ」


「見え方は?」


「右下の弱いの、少し見にくくなった」


 そこまでで記録を終えた。


     ◇


 朝食後に来たのは、サーラと魔導具教師だった。


 今日は若い観測員の姿がない。


 別室で整理作業をしているらしく、比較表だけが先に届けられていた。


「人工刺激は行いません」


 サーラが最初に告げる。


「はい」


 アリシアはすぐ頷いた。


「反応薄いですね」


「今日は分かってた気がする」


「予想していた?」


「昨日の続きあるから」


「希望は?」


「刺激二。分析八」


「昨日の開始状態が本当に違っていてほしい気持ち」


「七」


「もし昨日が特別ではなかったら?」


 アリシアは少し考える。


「がっかり四」


「比較を続けたい気持ちは?」


「八」


「分かりました」


 サーラはそこまで記録し、魔導具教師へ視線を向けた。


「今日は数値化したものを見ます。ただし、数字が出ると人は線を引きたくなるので、それだけ注意してください」


「私?」


「全員です」


「先生も?」


「もちろん」


 魔導具教師が苦笑する。


「観測側も都合のいい説明へ寄ることはあります」


 アリシアは少しだけ意外そうな顔をした。


 自分だけが気をつけるのではない。


 見る側も同じ。


「じゃあ先生たちも数字ある?」


「ありません」


「作ればいいのに」


「何の数字ですか」


「原因にしたい気持ち」


「それは少し怖いですね」


 サーラが笑い、室内の空気が柔らかくなった。


     ◇


 午前の授業は、学院の中庭脇にある小さな実習区画で行われた。


 今日は植物魔術に使う薬草の見分け方を学ぶ。


 魔力そのものを使う授業ではなく、葉の形、茎の色、香り、表面の細かな毛、折ったときに出る汁の色などを観察して分類するものだった。


 アリシアは四人卓へ入り、いつもの女子生徒とは別の組になった。


 机の上には似た葉を持つ三種類の薬草が置かれている。


「全部同じに見える」


 向かいの男子生徒が困ったように言う。


「こっちだけ葉先丸い」


 別の女子生徒が指す。


「でもこっちも丸くない?」


「少し尖ってる」


 アリシアは黙って一枚ずつ持ち上げた。


 色はほとんど同じ。


 葉脈の入り方も似ている。


 ただ、三枚目だけ表面の光の反射が弱い。


「これ、毛ある」


「どこ?」


「触ると少しざらざら」


 三人が順番に触る。


「あ、本当」


「じゃあこれが白風草?」


「白風草は茎が赤いって書いてある」


「茎、緑だ」


「違う」


 四人で資料を見ながら照合する。


 アリシアは一つの特徴だけで決めず、葉先、茎、表面を順番に確認していった。


 最後に教師が答え合わせへ来る。


「三つとも正解です」


 男子生徒が小さく拳を握る。


「やった」


「毛見つけたのアリシア」


「でも茎見たのそっち」


「全員で当てたってことにしよう」


 誰か一人が答えを出したわけではない。


 そのことが、今日は妙に心地よかった。


 教師が次の卓へ移ったあと、女子生徒がアリシアへ小声で言う。


「こういう細かいの好きそう」


 アリシアは少し迷ってから頷く。


「嫌いじゃない」


「研究もこんな感じ?」


「もっと面倒」


「じゃあやりたくない」


「私もたまに思う」


 女子生徒が笑った。


 アリシアもつられて笑う。


     ◇


 昼前、生活観測区画へ戻ると、子供は朝の簡略図に新しい印を増やしていた。


 ただし、線を増やしたのではない。


 「ここから先は見えていない」「この線とこの線が同じか不明」という空白に、小さな点だけを付けている。


「点は何?」


「分からないところ」


「全部?」


「全部じゃない。次に紙探したいところ」


 エルデン教師が隣で説明する。


「空白のうち、別の複写があれば補える可能性がある場所だけ印を付けています。箱を開ける前に、既存資料で埋められるか確認します」


「交差三候補は?」


「まだ紙だけです」


「見たい?」


 子供は少し考える。


「七。箱は二」


「なら今日も開けなくていいね」


「うん」


 以前なら「知りたい」が高ければ、すぐ実物を見たくなっていた。


 今は、知りたいことと箱を開けたいことが別の数字として動いている。


     ◇


 午後の解析は、昨日決めた二つの指標から始まった。


 魔導具教師が大きな紙へ六回分の値を並べる。


 一つ目は、小変動直前の一定区間における東側奥部の平均傾斜。


 二つ目は、同じ区間の変動幅。


 数値は細かすぎる小数を並べず、装置の精度に合わせて一定範囲へ丸めてある。


「細かくしないの?」


「細かく見える方が正確とは限りません」


「測れてないところまで数字出すとだめ?」


「その通りです」


 アリシアは頷き、六つの値を見る。


 反応あり五回。


 無反応一回。


 まず平均傾斜。


 昨日の無反応回は、確かに低下側へ傾いている。


 六回の中では最も大きい。


「昨日が一番下がってる」


「はい」


 アリシアの目が少し明るくなる。


「じゃあ――」


 言いかけて、止まった。


「原因候補」


「はい」


「まだ」


「はい」


 次に変動幅。


 ここでも昨日は大きめだった。


 だが一番ではない。


 過去の反応あり一回が、わずかに上回っている。


「こっちは一番じゃない」


「そうです」


「じゃあ“揺れが大きいと出ない”は違う」


「少なくとも単純には」


 アリシアは少し肩の力を抜く。


 平均傾斜だけなら、昨日が最も大きい。


 変動幅はそうではない。


「二つ両方合わせたら?」


「そこが次です」


 魔導具教師が散布図に近い簡単な配置図を出す。


 横方向が平均傾斜。


 縦方向が変動幅。


 六回を点として置く。


 昨日の無反応回は右寄りの高め。


 反応あり五回は左側に多い。


 しかし一つだけ、昨日に比較的近い位置にある反応あり回があった。


「近いのある」


 アリシアの声が少し落ちる。


「あります」


「これ、反応した?」


「しました」


「冷感は?」


「約〇・三です」


「東側追加低下も?」


「あります。ただし小さい側です」


 アリシアは黙って二つの点を見比べた。


 完全に分かれない。


 昨日だけが孤立していれば、かなり分かりやすかった。


 でも反応ありの一回が近くにいる。


「がっかり?」


 サーラが尋ねる。


「三」


「朝は四の予定でしたね」


「思ったより平気」


「なぜ?」


「昨日だけ特別じゃないって分かったから」


 言いながら、アリシア自身が少し意外そうな顔をする。


 原因候補が弱くなった。


 なのに、思ったほど落ち込まない。


「昨日より、線引きたい気持ち減ったかも」


「今いくつですか」


「五」


「朝七でした」


「うん」


 数値を作って比較したことで、むしろ自分が飛びつきかけていたことが見えた。


     ◇


 魔導具教師は、反応ありで昨日に近かった一回を詳しく開いた。


 それは前半寄りではなく、後半寄りの中でも比較的弱い冷感だった回である。


 東側奥部の追加低下も小さめ。


 西側の遅延弱波形も弱い。


「昨日に近い開始状態だったのに、少しは反応した」


 アリシアが言う。


「はい」


「でも追加低下は小さい」


「はい」


「じゃあ開始状態が悪いほど、追加低下が小さくなる可能性?」


「候補にはなります。ただし二点だけで線は引けません」


「昨日は追加低下なし。こっちは小さい」


「そうです」


「ほかの後半は開始状態もっと平らで、追加低下大きいのもある」


「大まかには」


 アリシアの指が、三つの後半条件を順に追う。


 比較的平坦な開始状態で大きめ追加低下。


 中間。


 昨日に近い傾きで小さい追加低下。


 そして昨日はさらに傾きが強く、追加低下なし。


 綺麗に見えそうだった。


 その瞬間、アリシアは手を止める。


「これ、並べたら階段みたい」


「見えますね」


「危ない?」


「かなり」


 魔導具教師はすぐ答えた。


「三、四点だけで並び順を作ると、偶然でもかなり綺麗に見えます」


「でも気になる」


「気になるのは問題ありません」


「仮説にするなら?」


「“東側奥部の直前傾斜が、その後の追加低下の出やすさや大きさに関係する可能性”までです」


「六つ目じゃなくて、まず東側」


「はい」


 アリシアはそこで少し息を吐いた。


 大事な切り分けだった。


 昨日までは、自分の冷感が出たかどうかへ意識が向きやすかった。


 でも今は、その前に東側奥部で追加低下が出るかどうかを見る。


「私の反応は、その次」


「そうした方が整理しやすいでしょう」


「もし東側追加低下が大きいのに私だけ反応しない回が出たら?」


「とても重要です」


「逆に東側なしで私だけ感じたら?」


「それも重要です」


「今はまだ、そこ分かれてない」


「はい」


 これまでの制御試験では、東側奥部の追加低下とアリシアの弱反応は、あるときは一緒にあり、直近一回では一緒になかった。


 まだ両者が別々に動く記録がない。


 だからこそ、直接関係なのか共通原因なのかは決められない。


     ◇


 サーラはそこでいったん解析を止め、全員に休憩を入れた。


 窓が開けられる。


 午後の風は朝より乾いていて、室内へ溜まった紙と魔導具の匂いを少しずつ外へ押し流していく。


 アリシアは椅子から立ち、背中を伸ばした。


「頭疲れた」


「数字いくつ?」


「三」


「身体は?」


「二」


『数字を聞かれるのに慣れすぎ』


 ノアが窓際から言う。


「でも便利」


『そのうち“お腹すいた七”とか言い出すわよ』


「今は四」


『もう言った』


 サーラが堪えきれず笑い、魔導具教師も肩を揺らした。


「昼食後なのに四なんですね」


「頭使ったから」


「理屈になってません」


 少しだけ空気が緩む。


     ◇


 休憩後は、今日の二指標をさらに古い記録へ広げるかどうかを相談した。


 すぐ全部見ることはしない。


 候補に挙がったのは三種類だった。


 以前の自然な微小揺れを含む十呼吸。


 速い五呼吸。


 滑らかな十八呼吸。


 いずれも、今の意図的小変動試験とは完全に同じ条件ではない。


「次に見るならどれ?」


 アリシアが尋ねる。


「一番近い条件からです」


 魔導具教師は、以前の自然微小揺れを含む十呼吸を指した。


「ここでは弱い感覚候補が出ています。ただし意図的小変動ではありません」


「東側追加低下は?」


「当時の記録精度では、今と同じ定義で切り出していません」


「見直せる?」


「一部は可能です」


「じゃあそれ」


「今日はまだ開きません」


「また?」


 アリシアが少し不満そうな顔をする。


「今日の比較結果を先に固定します。後から別条件を足すと、今の基準自体が動く可能性があるので」


「分かった」


 返事は早かったが、表情には少し未練が残っていた。


     ◇


 生活観測区画の別側では、子供が午後も線図を見ていた。


 古い複写の一枚から、交差三候補の近くにある短い線分と似た位置関係を見つけたらしい。


 ただし、紙が擦れていて途中が見えない。


「これ、続いてる?」


 アリシアが見る。


「分からない」


「箱見たくなった?」


「五」


「上がった」


「でも今日は開けない」


「なんで?」


「今見たら、続いてるって思いたいから」


 アリシアは思わず子供の顔を見た。


「それ、誰かに言われた?」


「言われてない」


「すごいね」


 子供は少し照れたように複写へ目を戻す。


「アリシアもやってる」


「何を?」


「原因って思いたい気持ち数字にしてた」


 ノアがすぐに喉を鳴らす。


『見られてた』


「……見られてた」


 アリシアは少し恥ずかしくなりながら笑った。


     ◇


 夕方、顔のない存在は朝より多く五歩進んだ。


 最初に二歩。


 長めの間を挟んで一歩。


 さらに二歩を続ける。


 歩行後の胸光は、明るい一つと弱い二つ。


 朝の四つから三つへ減っている。


「歩数増えたけど、光は減った」


 子供が記録する。


「今までにも似たのあった?」


 アリシアが聞く。


「ある」


「じゃあ珍しくない?」


「同じではないけど、増える減るは一緒じゃないことある」


「うん」


 顔のない存在は椅子へ深く座り、その後はしばらく動かなかった。


 今日も変化した瞬間は直接見ていない。


 意味づけはしない。


     ◇


 解析が終わる頃には、窓の外の光が少し黄色くなっていた。


 アリシアは資料を片付けながら、今日の結論を自分なりに短く言葉へまとめようとした。


「昨日だけ変だった、ではない」


「はい」


「でも昨日は直前の東側奥部の低下傾斜が、六回で一番大きかった」


「はい」


「ただ、近い開始状態でも反応ありの回が一つある」


「そうです」


「だから傾斜だけでゼロか一かは決まらない」


「現在はそう見ます」


「でも、追加低下の強さには関係あるかもしれない」


「候補です」


 アリシアは満足そうに頷いた。


 昨日ほど「原因を見つけた」という気持ちはない。


 その代わり、「見る場所が少し狭まった」という感覚がある。


「今日の満足七」


「朝は?」


「分からない」


「比較後の今だけでいいです」


「七」


 サーラが記録する。


     ◇


 帰り道、学院の廊下には展示募集の紙がまだ貼られていた。


 昨日刺繍を出すかもしれないと言っていた女子生徒が、掲示板の前で小さな布を持っている。


「できたの?」


 アリシアが声をかける。


「試しだけ」


 差し出された布には、小さな花の模様が刺繍されていた。


 深い青の糸を中心に、端へ少しだけ銀糸が使われている。


「あ、青にした」


「アリシアが言ったから」


「私が決めたの?」


「最終的には私。でも青いいって言ってたから試した」


 アリシアは布をじっと見る。


「銀、少しだけならいい」


「でしょ?」


「全部銀より好き」


「じゃあこれでいこうかな」


 女子生徒は嬉しそうに布を畳んだ。


 自分の意見が、そのまま相手の選択を決めたわけではない。


 でも、参考にはされた。


 その距離感が、アリシアには心地よかった。


     ◇


 夜、生活観測区画の窓からは細い月が見えていた。


 机の上に灯りを置き、アリシアは今日の記録を開く。


 最初に、朝の気持ちを書く。


『昨日の開始状態が本当に特別であってほしい気持ち七。違わなくても受け取りたい九。比較後、前者は五くらいまで下がった』


 続いて、今日の二指標。


『過去の反応あり五回と、直近の無反応一回について、小変動直前の一定区間を同じ方法で比較した。指標は東側奥部の平均傾斜と変動幅の二つ』


 平均傾斜では、直近無反応回がもっとも低下側へ大きかった。


 変動幅は大きめだが最大ではなく、反応あり回の一つがそれ以上だった。


『このため、“直前変動幅が大きいと無反応”という単純な分け方はできない』


 次に二つを組み合わせた結果を書く。


『直近無反応回は、平均傾斜が強く、変動幅も大きい側にある。ただし、その近くに反応あり一回が存在するため、二指標だけで反応有無を完全には分けられない』


 アリシアはそこで筆を止めた。


 昨日だったら、少し残念に思っていたかもしれない。


 今は違う。


 完全に分かれなかったからこそ、傾斜が「反応の有無」ではなく「東側奥部追加低下の出やすさや強さ」に関係している可能性が見える。


『近い開始状態を持つ反応あり回では、東側奥部の追加低下が小さい側だった。比較的平坦な開始状態の後半回では、より大きい追加低下が出た例がある。そのため、直前傾斜が追加低下の出やすさ・大きさに関係する可能性を候補として残す。ただし点数が少なく、偶然の並びも否定できない』


 ノアが机へ上がり、練習帳を横から見る。


『今日は慎重』


「昨日も慎重だった」


『昨日は内心九だったでしょ』


「今日は五」


『成長』


「子供にも見られてた」


『あの子よく見てるわよ』


「恥ずかしい」


『悪い見本にならなくてよかったじゃない』


「それ褒めてる?」


『半分』


 アリシアは少し口を尖らせ、それでも続きを書く。


『次は、以前の自然微小揺れを含む十呼吸を、同じ開始状態の指標で見直す候補。今の意図的小変動条件と完全同一ではないため、直接比較ではなく参考として扱う』


 研究の下には、今日の日常を書く。


『薬草分類で四人組になった。一人で答えを出さず、葉、茎、表面をそれぞれ見て三種類を分けた。友達の刺繍は深い青に少し銀が入っていた。全部銀より好きだった』


 少し考え、子供のことも書く。


『子供は線図で、つながりを確認できない場所を空白のまま残していた。今日、箱を開ければ線が続いていると思いたくなるから開けないと言った』


 その一文を書いたとき、アリシアはしばらく紙を見つめた。


 空白を埋めない。


 原因を早く決めない。


 見たいものがあるときほど、そこへ線を引かない。


 今の自分たちがやっていることは、少し似ている。


「ノア」


『何』


「分からないところ、空白でもいいんだね」


『今さら?』


「前は埋めたかった」


『今も埋めたいでしょう』


「うん。でも待てる」


 ノアは少しだけ目を細めた。


『それなら十分じゃない』


 アリシアは最後に一文だけ書き足した。


『昨日の一回だけを説明する答えを探すのではなく、東側奥部が“次の変化を受けやすい状態”と“受けにくい状態”に分かれるのかを見ていく』


 ただし、その言葉にも少し迷った。


 受けやすい。


 受けにくい。


 それさえ、まだ仮の表現だった。


 アリシアは小さく括弧を付け、その横へ「仮」と書く。


 完全な答えではない。


 でも、昨日より問いは少し形を持った。


 入力へ何かを加えた瞬間だけではなく、その前から東側奥部がどう動いていたか。


 六つ目の反応を考えるなら、刺激そのものばかりを見ていては足りない。


 窓の外では、雲の切れ間をゆっくり流れる月明かりが庭へ落ちていた。


 次に見るのは、昔の記録の中に残る「刺激の前」だった。

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