第191話 反応しなかった一回を外れ値にせず、五回の方へ戻って違いを探す
夜のあいだに薄く降った雨は、朝になる頃には止んでいた。
生活観測区画の窓ガラスには細かな水滴が残り、外の庭では濡れた石畳が曇り空の光を鈍く返している。植え込みからは湿った土と葉の匂いが入り込み、遠くで学院の鐘が鳴るたび、静かな室内の空気がほんの少しだけ揺れたように感じられた。
アリシアは目を覚ましてもしばらく起き上がらなかった。
昨日の試験を思い出していたからではない。
正確には、思い出さないようにしても、すでに頭の中へあった。
後半寄りの意図的小変動。
入力側には確かに入っていた。
それなのに東側奥部の微小な追加低下は確認されず、自分の胸にも冷たさはなく、西側の明確な遅延弱波形も出なかった。
それまで五回続いていた並びが、初めて途切れた。
昨日の夜には、その一回を失敗だとは思わなくなっていた。
それでも朝になってみると、少しだけ胸の奥へ引っかかりが残っている。
アリシアは身体を確かめた。
冷感なし。震えもなく、痛みや息苦しさもない。頭痛や腕の重さもなく、昨日の試験による残り方は見当たらなかった。身体の疲労は一程度で、眠りも途中で何度か目を覚ますようなものではなかった。
「残念、まだ二ある」
声に出すと、寝台の足元で丸くなっていたノアが片耳だけ動かした。
『昨日三じゃなかった?』
「寝たら消えると思った」
『増えてないならいいんじゃない』
「でも二ある」
ノアはゆっくり頭を持ち上げた。
『消さなきゃいけないの?』
アリシアは答えず、枕元の練習帳を手元へ寄せる。
昨日最後に書いたのは、「五回続いたことより、六回目が違った理由の方が、今は知りたい」という一文だった。
今朝も、その気持ちは変わらない。
でも、だからといって残念さまで消えるわけではなかった。
「消さなくていい」
『じゃあ残しときなさい』
「うん」
アリシアは数字を書いた。
身体疲労一。
人工刺激希望一。
昨日の違いを比較したい気持ち九。
残念二。
昨日の結果をなかったことにしたい気持ちゼロ。
五回の方だけを正しいと思いたい気持ち三。
「三ある」
『何が?』
「五回の方が本物で、昨日だけ変だったって思いたい気持ち」
『ああ』
ノアは少しだけ尻尾を動かした。
『それ、先生に言った方がいいわよ』
「なんで?」
『今日の比較で都合いいところ見つけたら飛びつきそうだから』
「飛びつかない」
『昨日までの実績』
「……言う」
反論したものの、アリシア自身も分かっていた。
昨日の一回が崩れたからこそ、過去五回との違いを探す。
そのとき、「これが原因だ」と思えるものが一つ見つかったら、自分はたぶん嬉しくなる。
でも、その嬉しさと証拠の強さは別だった。
◇
子供は、朝から木箱には触れていなかった。
机の上には複写が五枚ほど広げられ、その中央に、昨日まで実物未確認だった新しい交差候補の写しが置かれている。
「今日は箱開ける?」
アリシアが聞くと、子供は首を横に振った。
「まだ紙」
「見たいのに?」
「見たい八。でも、紙で分かることある」
新しい候補は、二本の浅い線が斜めに重なるように見える。
これまで実物で確認した二つの真正交差候補と似ているようにも見えるが、複写では線の濃さが一定ではなく、どちらが上に見えるのかも角度によって曖昧だった。
「これ、一個目と線の曲がり方似てる」
子供が言う。
アリシアは隣へ座り、最初の交差候補の複写と見比べた。
「ほんとだ。でも同じ線かは分からない」
「離れてるから?」
「うん」
「つながってるか分からない」
「そう」
子供は紙の上で二本の線を指先で追う。ただし実物ではないので、指が線へ触れることに躊躇はない。
「これをAにして、こっちBにする?」
「名前つける?」
「意味じゃない名前」
「番号でもいいよ」
「じゃあ一、二、三?」
『そのまんま』
ノアが近くの椅子から口を挟む。
子供は少し笑った。
「でも分かりやすい」
最初に確認した真正交差候補を交差一。
二番目を交差二。
まだ紙だけの新候補を交差三候補。
接近・終端候補も、接近一、接近二とだけ書く。
文字や模様の意味を推測するための名前ではない。
ただ比較するときに混ざらないようにするための印だ。
「これなら、同じ線って決めないで比べられる」
子供が納得したように呟く。
「うん。三が一と似てても、一とつながってるとは限らない」
「同じ形でも別のところ」
「そうかも」
『朝から二人とも慎重』
「いいでしょ」
『別に悪いとは言ってない』
ノアはそれだけ言うと、窓際へ移動した。
◇
顔のない存在は、朝食前にはまだ寝台に腰掛けていた。
子供が十一の円を描いた記録紙を持って近づくと、ゆっくり胸元へ視線を向ける。
今朝見えている光は、明るい一つと弱い二つだった。
明るい一つは中央より少し左。
弱い二つは右上と下寄りにあり、下の一つは輪郭がかなり淡い。
「三つ」
子供は位置を描き込む。
「昨日夕方は四つだった」
「内訳は?」
「明るい二つ、弱い二つ」
前日の紙を確認すると、今朝と近い位置にあるのは一つだけだった。
顔のない存在はその後、一度立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。歩数としては数えず、「立位移行しかけて中止」とだけ別に記録する。
「歩けなかった?」
アリシアが聞くと、子供は少し考えてから首を振った。
「分からない。歩かなかっただけ」
その言葉に、アリシアは少しだけ目を細めた。
できなかったのか、しなかったのか。
そこを勝手に決めない。
子供も以前より自然にそれを言えるようになっている。
◇
朝食後、サーラと魔導具教師、若い観測員が生活観測区画へ来た。
治療教師は今日は簡単な状態確認だけをして別の業務へ戻るらしい。
人工刺激を行わないことは、最初に明言された。
アリシアはそれを聞いて、肩が少し緩む。
「安心?」
サーラが聞いた。
「三」
「刺激したくない気持ちですか」
「今日は一」
「昨日の比較をしたい気持ちは?」
「九」
「昨日の結果が外れであってほしい気持ち」
アリシアは少し驚いた顔をした。
「そこ聞くんだ」
「聞いておいた方がいいでしょう」
「三」
「昨日だけ変だったことにしたい?」
「三。でも、なかったことにしたいはゼロ」
「分かりました」
サーラは数字をそのまま記録する。
「今日の比較で、過去五回と昨日の違いが一つ見つかった場合、それを原因だと思いたい気持ちは?」
今度はすぐ答えられなかった。
アリシアは少し視線を落とし、机の端を指先で撫でる。
「……八」
若い観測員が小さく息を漏らした。
「高いですね」
「だって見つかったら嬉しい」
「だからこそ、先に残しておく価値があります」
魔導具教師が言う。
「今日は違いを探しますが、一つ見つけたから原因と決める日ではありません」
「分かってる」
「分かっていても八なんですよね」
「うん」
アリシアは少しだけ恥ずかしそうに頷いた。
「じゃあ、八のまま見る」
「それでいいです」
◇
午前の授業は、学院資料室の使い方を学ぶ短い実習だった。
研究区画で扱う正式記録とは別に、一般学生向けの資料室には地理、歴史、魔術基礎、過去の学院行事、古い卒業生記録などが整理されている。
今日は指定された題目について、紙の目録だけを使って必要な資料番号を探す。
アリシアはいつもの女子生徒と同じ卓ではなく、三人組の別卓へ入った。
最初に指定された題目は、「北方交易路の冬季閉鎖に関する過去十年の記録」。
「十年分全部?」
同じ卓の男子生徒が目録を見ながら呟く。
「閉鎖した年だけじゃない?」
女子生徒が別冊をめくる。
「でも題目は“過去十年の記録”だから、閉鎖なしの年も要るかも」
アリシアは少し考える。
「目録、年別じゃなくて交易路別にまとまってる」
「どこ?」
「ここの北方経路。たぶん枝番号で年が分かれてる」
三人で同じ箇所を覗き込む。
以前なら、知らない生徒二人に身体を寄せられただけで肩が固くなっていた。
今も少し緊張はする。
でも資料へ意識を向けていれば、その緊張だけに飲まれずにいられた。
「ほんとだ。じゃあこの十個?」
「十じゃない。二年分は同じ冊子」
「じゃあ八冊?」
「たぶん」
男子生徒が数え直し、女子生徒が資料番号を書き写す。
その途中で、別卓から「そっち早いな」と声が飛んできた。
「アリシアが見つけた」
男子生徒が普通に答える。
アリシアは少しだけ視線を上げた。
褒められたわけでも、特別扱いされたわけでもない。
ただ、自分が見つけたからそう言われただけだった。
それがちょうどよかった。
資料を実際に取りに行く段階では、八冊のうち一冊が別棚へ移されており、三人で棚番号を確認し直すことになった。
「目録合ってるのにない」
「返却待ち?」
「移動印ある」
アリシアが小さな印を見つける。
「補修棚」
「そんなのあるんだ」
「端に書いてある」
別の場所へ行くと、背表紙の角が剥がれた冊子が修繕待ちとして置かれていた。
三人で顔を見合わせる。
「見つかった」
「地味に大変だった」
「でも全部揃った」
女子生徒が満足そうに笑う。
その表情を見て、アリシアも少しだけ口元を緩めた。
研究の比較とはまったく違う。
でも、見つからないものをすぐ「ない」と決めず、場所を確認し直すことは少し似ている。
ただし、その考えを授業中にわざわざ口へ出すことはしなかった。
◇
昼前、生活観測区画へ戻ると、子供はまだ木箱を閉じたままにしていた。
交差三候補について、エルデン教師と複写だけを見比べている。
「一と二は、交差したところで片方が途切れて見える」
子供が説明する。
「三は紙だけだと?」
「どっちも途切れてるようにも見える」
「それだと判断しづらいね」
「うん」
エルデンは新候補の複写を少し離して見る。
「線が浅い上に、複写の濃淡もある。今開けても、見る角度を決めずに始めると何度も光を動かしたくなるかもしれない」
「じゃあ今日は開けない」
「そうする?」
「先に角度決める」
子供は迷わず答えた。
次に箱を開けるなら、正面からではなく、既存二候補で違いが最も見えやすかった浅い角度を基準にする。ただし一方向だけで決めず、必要なら反対方向を一度だけ確認する。
どこを見るか。
どの角度で見るか。
何回まで光を変えるか。
先に紙の上で決めてから実物へ進む。
「箱開けたい気持ちは?」
アリシアが聞く。
「三」
「線見たいは?」
「九」
「なら今日は紙で足りるね」
「うん」
子供は素直に複写へ戻った。
◇
顔のない存在は昼前に三歩だけ歩いた。
一歩進んだあと、かなり長く止まる。
それから二歩を続け、椅子へ戻った。
胸の光は朝の明るい一つと弱い二つから、明るい二つと弱い一つへ変化している。
「数は同じ三つ。明るいの増えた」
子供が記録する。
「位置は?」
「一個近い。二個違う」
「変わったところ見た?」
「見てない」
「朝より歩いたから光が変わった?」
アリシアがあえて聞くと、子供は少しだけ考えた。
「分からない。変わったの先かもしれない」
「そうだね」
その一言で終える。
◇
午後の解析は、最初から昨日の無反応回だけを見ることはしなかった。
魔導具教師が机へ並べたのは、過去の意図的小変動五回と昨日の一回、合計六回分の入力波形だった。
ただし、最初はアリシアの主観や東側奥部の記録を隠してある。
「先に入力だけ?」
「はい」
「どれが昨日かは?」
「分かると思いますが、明示はしません」
「当てる試験?」
「違います」
若い観測員が苦笑する。
「入力側だけを見て、どんな違いがあるかを先に拾います。反応ありなしを見ながら探すと、“昨日だけ違う特徴”を必要以上に重要視しやすいので」
「なるほど」
アリシアは椅子へ座り直した。
六枚の波形は、同じ尺度で並べられている。
前半寄り二回。
後半寄り三回。
そして昨日の後半寄り一回。
どれも最大幅は安全範囲内で、意図的小変動そのものも極端に大きな差はない。
でも、細かく見ると違う。
「この二つ、尖り方近い」
アリシアが前半寄りの二枚を指す。
「はい」
「こっちは丸い」
後半寄りの一枚。
「これも少し丸いけど、戻り早い」
別の後半条件。
さらに一枚。
「これ、昨日かな」
「理由は?」
「後半寄りで、前に見た平坦なところがある気がする」
「昨日ではありません」
アリシアが一瞬固まる。
「違うの?」
「違います」
ノアが机の下で小さく鼻を鳴らした。
『当てる試験じゃなくてよかったわね』
「うるさい」
アリシアは少し頬を赤くして、もう一度紙を見る。
自分は昨日の波形を見た記憶がある。
でも、記憶だけで完全に判別できるほど単純ではない。
それが少し悔しい。
同時に、良いことのようにも思えた。
「じゃあ見た目だけじゃ、昨日だけ変ってほどじゃない」
「そうです」
魔導具教師が頷く。
「最大幅や大まかな位置だけなら、昨日は過去の後半条件から大きく外れていません」
「でも反応しなかった」
「はい」
「細かいところ見る」
◇
次に比較したのは、小変動が入る直前の基礎出力だった。
前半寄り条件は当然、まだ出力が低い。
後半寄り条件は高い。
ただし後半の中でも、入れる位置には僅かな差があるため、基礎出力は完全には揃わない。
昨日の基礎出力は、過去三回の後半条件のうち中間付近だった。
「一番低くも高くもない」
「はい」
「じゃあ基礎出力だけでもなさそう」
「少なくとも単純な大小だけでは説明しにくいです」
次に、小変動の幅。
これも昨日が最小ではない。
最大でもない。
立ち上がりの鋭さも、過去の一回とかなり近い。
戻りの傾斜には差があるが、それだけなら別の反応あり回にも似たものがある。
「全部、昨日だけの特徴じゃない」
アリシアが少し困ったように呟く。
「今のところは」
「原因見つからない」
「今日は原因を見つける日ではありません」
「分かってる。でも八あるから」
「原因だと思いたい気持ちですね」
「うん」
自分で言った数字が、少し恥ずかしい。
それでも先に申告していたからこそ、今の焦りが何なのか分かる。
何か一つ見つけたい。
それが見つからないから、落ち着かない。
◇
そこで、魔導具教師は入力波形の直前部分を拡大した。
小変動そのものではなく、その数呼吸前。
「ここからは少し違いが増えます」
アリシアが身を乗り出す。
過去五回のうち四回では、小変動直前の入力は比較的落ち着いている。
残る一回だけ、ごく小さな自然揺れがある。
昨日の無反応回にも、直前に非常に小さいが幅のある揺れが二度見える。
「昨日、直前に揺れてる」
「はい」
「二つ」
「そう見えます」
「これが原因?」
言ってから、自分で口を閉じた。
サーラが何も言う前に、アリシアは首を振る。
「違う。原因候補」
「そうですね」
「でも過去五回の一回にも揺れある」
「あります」
「その回は反応した」
「はい」
アリシアは少し肩を落とした。
「じゃあこれだけでもない」
「ただし形は違います」
若い観測員が別室から補足する。
「過去の反応あり回の自然揺れは一度だけで短い。昨日は二度続いていて、その後の基線の戻りも少し遅いです」
「じゃあ累積?」
「候補です」
「装置が先に揺れたせいで東側が慣れたとか?」
魔導具教師は慎重に答える。
「“慣れた”という表現はまだ早いですが、直前状態が後続反応へ影響した可能性は考えられます」
「でも一回しかない」
「そうです」
「今日これ決められない」
「決めません」
アリシアは少しだけ唇を噛み、それから息を吐いた。
「八がまだある」
「原因にしたい気持ち?」
「七になった」
『減ったならよかったじゃない』
「ノア、ずっと聞いてたの?」
『暇だから』
◇
次に東側奥部の「開始状態」を見ることになった。
これまでは小変動後の追加低下ばかり注目していたが、その前に東側奥部がどの高さにあり、どの程度安定していたかも比較する。
六回分の基線を同じ尺度へ揃える。
そこで、昨日だけが完全に異常というわけではないものの、一つ気になる違いが見つかった。
「昨日、最初から少し下?」
アリシアが指す。
「絶対値としては、過去六回の中で低い側です」
「一番?」
「ほぼ一番低いですが、別の反応あり回もかなり近いです」
「じゃあ高さだけじゃない」
「はい」
しかし、もう一つ違いがある。
昨日は小変動へ入る前から、東側奥部の基線がごく緩やかに低下し続けていた。
過去の反応あり五回では、完全な水平ではないものの、直前数呼吸の傾きはもっと小さい。
「これ……止まってなかったんだ」
「緩やかな低下が続いています」
「小変動前から」
「はい」
「過去五回は?」
「直前区間だけなら、昨日より平坦です」
アリシアの目が少し大きくなる。
「東側がもう動いてる途中だったから、追加低下が出なかった?」
サーラはすぐに頷かなかった。
「候補です」
「でもこれ、昨日だけ?」
「今の六回では目立ちます」
「やっぱり原因かも」
嬉しさが一瞬上がった。
その自覚があった。
アリシアはすぐに練習帳へ数字を書く。
「原因だと思いたい九」
若い観測員が少し笑う。
「上がりましたね」
「だって昨日だけっぽい」
「だからこそ危ないですね」
「分かってる」
アリシアは記録紙から少し身体を離した。
「反応あり五回の中にも、もっと昔の自然条件にも似た傾きあるかもしれない」
「あります」
「あるの?」
「過去記録を広げれば」
「じゃあ見たい」
「今日すぐ全部は見ません」
「なんで?」
「今は比較対象を広げすぎないためです」
魔導具教師が穏やかに言う。
「まず制御条件六回の中で、“昨日は直前の東側基線低下が比較的大きかった”という事実だけ残します。そのあと、過去の自然条件や別速度条件に同じ傾きがあるかを見る方が安全です」
「一気に見たらだめ?」
「情報が増えすぎて、また別の似た特徴へ飛びつく可能性があります」
アリシアは少し不満そうに口を閉じた。
けれど、反論はしなかった。
「今日、ここで止める?」
「入力と東側開始状態までは整理します。西側や主観は昨日の結果が明確なので、今日は深掘りしません」
「一日一条件みたいに、一日一比較?」
「そこまで厳密ではありません」
サーラが笑う。
「でも、今は良い区切りです」
◇
解析の途中で昼休みを挟んだ。
アリシアは食堂へ行かず、今日は生活観測区画で子供と簡単な昼食を取った。
温かいスープと薄いパン。
雨上がりの湿った空気のせいか、普段より湯気が白く見える。
子供はスープへパンを少し浸しながら、朝の複写をもう一度見ていた。
「食べながら見るの?」
「汚さない」
「こぼしたら?」
「離してる」
ノアがテーブルの端から匂いを嗅ぐ。
『研究者みたいになってきた』
「研究者じゃない」
「私も学生」
『二人ともそこは否定するのね』
アリシアは少し笑い、スープを一口飲んだ。
午前の解析で見つかった、昨日の東側奥部の緩やかな基線低下。
気になる。
かなり気になる。
でも昼食の間は、あえて話さなかった。
考え続ければ、それがどんどん「原因」に見えてしまいそうだったからだ。
◇
午後、顔のない存在は朝より少ない二歩だけ進んだ。
最初に一歩。
少し長く止まったあと、もう一歩。
そのまま椅子へ座った。
胸の光は明るい一つと弱い三つ。
昼前は明るい二つと弱い一つだったため、総数も内訳も変化している。
「歩数少ないけど、光は増えた」
子供が記録しながら言う。
「だから歩数と光の数は一緒に増えるわけじゃない」
「今日だけならね」
「うん」
子供はすぐに言い直した。
「今日だけは違った」
「それならいいと思う」
アリシアは頷く。
最近は、誰かに止められる前に言葉を狭められることが増えた。
子供も、自分も。
◇
午後の後半は、昨日の無反応回と過去五回の「東側開始状態」だけを、さらに同じ尺度で見直した。
すると、昨日の特徴は一つだけではなかった。
直前の緩やかな低下に加えて、その前の時間帯で一度小さく持ち直す動きがあり、そこから再び下がっている。
過去五回では、似た動きがまったくないわけではない。
しかし、昨日ほど「持ち直し→緩い低下→小変動」という並びがはっきりしている回はなかった。
「これ、地下側がまだ落ち着いてなかった?」
アリシアが尋ねる。
「そう表現することはできます。ただし“落ち着いている状態”の定義を先に決めないと曖昧です」
「傾き?」
「傾きと、直前の変動幅です」
「じゃあ次、そこ数字にする?」
魔導具教師は少し考えた。
「可能です。ただし細かすぎる指標を作って、後から都合よく線を引かないよう注意が必要です」
「どうする?」
「最初は簡単にします。小変動直前の一定区間について、平均傾斜と変動幅を見る。その二つだけ」
「二つ」
「はい」
「それで昨日が本当に外れてるか見る」
「そうです」
「過去五回も同じ方法で」
「はい」
アリシアは少しだけ安心した。
原因が見つかったわけではない。
でも、「何を比べればいいか」が一つ具体的になった。
それだけで、頭の中のざわつきが少し減る。
「嬉しい六」
サーラが記録する。
「原因が分かった嬉しさでは?」
「ない。見る場所決まった嬉しさ」
「それなら六でいいですね」
「なんで先生が決めるの」
「決めてません」
室内に小さな笑いが広がった。
◇
夕方前、解析はそこで終わった。
人工刺激はもちろん行わない。
次の試験条件も決めない。
まず今日決めた二つの指標で過去六回を整理し、その後、古い自然変動記録や別速度条件へ広げるかを検討する。
「明日も刺激なし?」
アリシアが聞く。
「まだ決めていません」
「私はなしでいい」
「希望は?」
「二」
「分析は?」
「八」
「今日より下がりましたね」
「今日いっぱい見たから」
頭は少し疲れている。
身体疲労は二程度でも、考えることが多かった。
帰り支度を始めた若い観測員が、机の端から一枚の紙を落としかける。
「あっ」
アリシアが反射的に手を伸ばし、床へ落ちる前に受け取った。
「ありがとうございます」
「これ何?」
「今日使わなかった古い記録の索引です」
「見ていい?」
「今日はだめです」
「即答」
「アリシアさんが今見たら絶対広げるので」
「……否定できない」
ノアが小さく喉を鳴らした。
『自覚があるだけマシ』
アリシアは紙を返した。
◇
その日の夕方、学院の廊下では学内掲示板の張り替えが行われていた。
大きな行事ではない。
来月の選択授業案内や、図書室の返却期限、魔術具工房の臨時休室など、普通の告知ばかりだった。
アリシアは通り過ぎようとして、知っている女子生徒に呼び止められる。
「アリシア」
「何?」
「これ見て」
女子生徒が指したのは、学院内の小さな展示募集だった。
授業で作った簡易魔術具、写生、研究ノートの一部、手芸品など、希望者だけが廊下展示へ出せるらしい。
「出す?」
「何を?」
「何でも」
「研究は出せない」
「研究じゃなくていいでしょ」
「私、何も作ってない」
「授業の結界板とか?」
「あれ学校の」
「じゃあ絵」
「描かない」
「手芸」
「しない」
女子生徒は少し考えてから、隣の掲示へ目を移す。
「じゃあ見る側」
「それなら」
「私、刺繍出すかも」
「刺繍できるの?」
「失礼」
「知らなかっただけ」
「じゃあ出したら見て」
「うん」
アリシアは素直に頷いた。
そこへ別の生徒が「何出すの?」と加わり、女子生徒が自分の刺繍について話し始める。
アリシアは会話の中心にはならず、横で聞いていた。
それでも途中で色の相談を振られ、深い青と銀のどちらが合うと思うか尋ねられる。
「青」
「即答」
「銀だとちょっと目立ちすぎる」
「やっぱ青かな」
誰かの作品について意見を聞かれ、それに答える。
それだけのことだった。
けれどアリシアは、少し前なら「分からない」と逃げていたかもしれないと思った。
◇
夜になると、朝から残っていた雲が少し切れた。
生活観測区画の窓からは、狭い隙間に星がいくつか見える。
アリシアは机へ座り、今日の練習帳を開いた。
最初に書いたのは、昨日の結果に対する自分の気持ちだった。
『朝時点で残念二。昨日だけ外れだったことにしたい気持ち三。原因らしい違いを一つ見つけたら、それを原因だと思いたい気持ち八』
その下へ、今日の比較を書く。
『意図的小変動の過去五反応回と、昨日の無反応一回を入力側だけで比較した。最大幅、基礎出力、小変動位置、立ち上がりや戻りの大まかな形だけでは、昨日一回だけを明確に分けられる特徴は見つからなかった』
少し間を置く。
『昨日の小変動直前には、非常に小さい自然揺れが二度あり、その後の基線復帰も遅めだった。ただし過去反応回にも直前自然揺れを含む例が一回あり、“自然揺れがあったから無反応”とは言えない』
次に、東側奥部。
『昨日は小変動前から東側奥部の基線が緩やかに低下していた。過去五反応回の直前区間は、昨日より平坦なものが多い。また昨日は、それ以前に小さく持ち直してから再び低下する動きがあった』
アリシアは筆を止めた。
ここが今日、一番気になった場所だった。
原因だと思いたい気持ちは、途中で九まで上がった。
それも書く。
『これを原因だと思いたい気持ちは途中九まで上がった。しかし、過去の別条件や自然記録に似た開始状態がある可能性が残るため、現時点では“昨日の目立つ違い候補”まで』
ノアが机へ飛び乗る。
『ちゃんと狭めた』
「何?」
『原因って書いてない』
「書きたい気持ちはある」
『今は?』
「六」
『まだ高い』
「だって気になる」
アリシアは苦笑した。
「でも次やることは決まった」
『何?』
「小変動直前の一定時間で、東側奥部の平均の傾きと、揺れの幅を見る」
『それで昨日だけ違うか確認』
「うん」
『違わなかったら?』
アリシアは少しだけ考えた。
「残念四くらい」
『先に決めるの?』
「今の気持ち」
『で、記録は?』
「残す九」
『そこは安定してる』
アリシアは続ける。
『次は、過去五反応回と昨日の一回について、小変動直前の一定区間の①平均傾斜、②変動幅の二つだけを同じ方法で比較する。昨日が本当に目立つのかを確認してから、古い自然条件や別速度条件へ広げる』
その下へ、研究とは関係ない一日も書いた。
『資料室実習で、知らない生徒二人と北方交易路の記録を探した。見つからない一冊は補修棚にあった。夕方、友達が展示へ刺繍を出すかもしれないと言っていた。色は青がいいと思うと答えた』
ノアが横から覗き込む。
『今日は食べ物の点数ないのね』
「毎日食べ物じゃない」
『最近多かったから』
「今日は違う」
アリシアは練習帳を閉じる前に、もう一度最後の比較欄を見た。
昨日の無反応一回。
最初は、それが五回続いた綺麗な形を壊したように思えた。
今日は少し違って見える。
五回が正しくて一回が間違いなのではない。
反応した五回と、反応しなかった一回。
その両方が同じくらい必要だった。
もし昨日がなければ、入力側に小変動を入れること自体へ意識が寄り続けていたかもしれない。
東側奥部がその前からどう動いていたのか。
刺激を入れる瞬間の「開始状態」まで、ここまで真剣に見ようとはしなかっただろう。
『反応しなかった一回を外れにすると、その一回が教えている条件差を見失うかもしれない』
最後にそう書いた。
そして少し迷ったあと、その下へもう一文だけ足す。
『ただし、違いが見つかったからといって、それが理由とは限らない』
今日の自分には、その二つが同じくらい大事だった。
窓の外では雲の切れ間がゆっくり広がり、星の数が朝より少し増えている。
見えなかったものが、条件を変えれば見える。
けれど、見えたものにすぐ名前を付ければいいわけではない。
アリシアは灯りを少し落とし、練習帳を閉じた。
次に見るのは、新しい刺激ではない。
昨日まで見過ごしていた、刺激が入る前の数呼吸だった。




