第190話 小さな変化を入れても何も感じない日が来たなら、昨日までの五回を捨てずに見直す
翌朝の空は、昨日までの晴れ間が少しだけ遠ざかっていた。
生活観測区画の窓から見える東の空には薄い雲が広がり、太陽はその向こうから淡い光だけを庭へ落としている。風はほとんどなく、昨夜まで揺れていた木々も今朝は静かだった。遠くで学院の始業鐘が鳴ると、その音だけが湿り気の残る空気の中をゆっくり渡ってきた。
アリシアは寝台の中で目を開けると、いつもの順番で身体の状態を確かめた。
胸部の冷たさはない。
震えもなく、痛みや息苦しさもない。頭痛、腕の重さも感じず、身体の疲労は一程度だった。
昨日は人工刺激を行っていない。
意図的小変動を含む五回と、滑らかな十呼吸三回を、入力、東側奥部、自分の主観、西側の四段に分けて整理した。
そこでは、かなり綺麗な違いが残った。
意図的小変動を含む五回では、東側奥部の微小な追加低下、アリシアの弱い違和感、西側の遅れた弱波形がすべて確認されている。
一方、滑らかな十呼吸三回では、その三つがいずれも確認されていない。
ただ、それが六つ目の神器が「小変動そのもの」を感じている証明ではないことも、昨日改めて確認した。
過去には自然な微細揺れを含む条件でも弱い感覚候補があった。
速い立ち上がりでは、意図的に小変動を入れていないのに明瞭な反応が出たこともある。
大切なのは、人間が何をしたかではない。
実際に何が起きたかだった。
「今日、試験したい……七」
アリシアが練習帳へ書くと、足元からノアの声がした。
『また上がった』
「昨日休んだから」
『何が来てほしい?』
「聞かないで」
『聞いただけ』
「答えたら待つから」
『じゃあ頭の中では?』
アリシアは少しだけ眉を寄せた。
「ある」
『何が?』
「言わない」
『そこまで徹底するようになったのね』
「昨日、五と三を綺麗に並べたから」
『だから?』
「次が何でも、その形に合わせたくなる」
アリシアは練習帳の余白へ数字を足す。
今の区別が残ってほしい気持ち六。
違う結果でも記録したい気持ち九。
条件を知りたい気持ち八。
条件選択へ自分が関わりたい気持ちは一。
「一まで下がった」
『もう選ばせてもらえなくなったとも言う』
「違う。私が離れたいの」
『はいはい』
ノアは窓辺へ飛び乗り、外を見た。
以前なら、何を試すかを知らないこと自体が怖かった。
今は逆だ。
知らないことが、比較を守るために必要になる。
もちろん、それでも知りたい。
でも、知りたいからこそ知らないまま座る。
その感覚には、少しずつ慣れてきていた。
◇
子供は今日も木箱を開けていなかった。
机の上には、これまで見つけた線刻候補の複写が整理されている。
浅角度の光で似た重なり方を確認した交差候補が二か所。
別の線へ近づきながら浅くなり、そこで途切れている可能性のある接近・終端候補が二か所。
そして昨日、複写上で新しく見つけた、まだ実物を確認していない交差候補が一か所。
「今日これ見る?」
アリシアが最後の一枚を指すと、子供は少し考えた。
「紙では見る」
「箱は?」
「三」
「その場所見たいのは?」
「八」
「怖さは?」
「二」
子供は複写を持ち上げ、窓から入る朝の光へ透かした。
「前の二個と同じなら嬉しい」
「違ったら?」
「昨日より平気」
「どのくらい?」
「残念二。でも知りたい九」
アリシアは少し笑った。
「私と似てる」
『似すぎてる』
ノアが窓辺から言う。
「何が」
『残念だけど見たい、ばっかり』
子供がノアを見る。
「大事だから」
『また二人で同じ顔する』
「ノアも何か調べればいいのに」
『昼寝場所なら毎日調査してる』
「それは調査じゃない」
◇
朝の顔のない存在は、窓の近くの椅子に座っていた。
子供は今日も昨日の記録を先に見ず、新しい十一個の円へ現在見えている胸の光を描き込む。
「明るい二つ。弱い一つ」
今朝は三つだった。
位置は、明るい一つが中央寄り、もう一つが右下。弱い一つは左側に見える。
昨日の夕方は明るい二つと弱い一つだったため内訳は同じだが、位置を比べると一つしか近くない。
「数は同じ。でも場所違う」
「見え方は?」
「弱いの、今日は分かりやすい」
それだけ書く。
顔のない存在は朝のうちに立とうとはせず、歩数欄も空白のまま残された。
◇
朝食を終えた頃、サーラと治療教師が生活観測区画へ来た。
今日は魔導具教師の姿がない。
アリシアは一瞬だけ「試験なしかもしれない」と思ったが、口にはしなかった。
サーラの持っている記録板も、普段とほとんど同じだった。
「身体確認から始めます」
治療教師が順番に状態を見ていく。
冷感、震え、痛み、息苦しさはすべてなし。頭痛や腕の重さもなく、疲労一。魔力循環にも異常は見られない。
「怖さは?」
「二」
「今日人工刺激を実施する場合の参加意思」
「八」
「今日実施したい気持ち」
「七」
「条件を知りたい気持ち」
「八」
サーラはそこまで記録すると、候補名には触れなかった。
「今までの区別が残ってほしい気持ちは?」
「六」
「違う結果でもそのまま報告する気持ち」
「九」
「何かを探してしまいそうな気持ちは?」
「五」
「昨日より少し低いですね」
「昨日いっぱい見たから」
アリシアは答えてから、少し間を置いた。
「今日、何やるかもう決めた?」
「その質問には答えません」
「やっぱり」
「残念ですか」
「知りたい九になった」
「上がりましたね」
数字だけが記録される。
アリシアはそれ以上追わなかった。
◇
午前中は通常授業へ出ることになった。
今日は学院の南棟にある実習室で、簡単な結界補修の基礎演習だった。
壊れた結界を一から作り直すのではなく、既存の流れを読み、弱っている一点だけへ魔力を足す。
派手さはないが、加えすぎると周囲の流れまで崩れるため、細かな制御が必要になる。
「こういうのアリシア得意そう」
いつもの女子生徒が隣の区画から言う。
「まだやってない」
「絶対上手いやつ」
「先に言わないで」
「期待されるの嫌?」
その言葉に、アリシアは一瞬だけ動きを止めた。
「……ちょっと」
「ごめん」
女子生徒がすぐ謝った。
「研究の方でそういうのある?」
「ある」
「じゃあ忘れて」
「授業なら大丈夫」
「本当?」
「うん。ちょっと気になっただけ」
アリシアは結界板へ視線を戻した。
期待という言葉に敏感になっている。
それ自体も、最近の実験の影響なのだろう。
でも、何でも研究へ持っていく必要はない。
「でも失敗したら笑っていいよ」
「許可出た」
「少しだけ」
「条件付きなんだ」
近くで聞いていた男子生徒が笑った。
演習が始まる。
アリシアは結界板へ魔力を流し、欠けた部分を探る。
最初は弱点が二か所あるように感じた。
片方へ魔力を足しかけ、少し違和感があって止める。
「違うかも」
隣から女子生徒が覗こうとする。
「見ないで」
「さっき笑っていいって」
「まだ失敗してない」
もう一度流れを読む。
弱っているのは、最初に見た場所より少し下だった。
そこへ必要量だけ魔力を足す。
結界板全体の光がゆっくり均一になる。
「できた」
「ほら得意だった」
「今言うならいい」
「難しいなあ」
女子生徒が笑い、自分の結界板へ戻る。
アリシアも笑った。
期待されることと、期待に合わせなければならないことは違う。
そんなことを、授業の最中に少しだけ思った。
◇
昼前に生活観測区画へ戻ると、子供は複写を見ながらエルデン教師を待っていた。
顔のない存在はその少し前に立ち上がったらしい。
「何歩?」
「三歩」
「どう歩いた?」
「二歩、そのあと一歩」
子供は記録紙を見せる。
朝は歩いていない。
昼前は二歩進み、一度長く止まってから一歩進み、そこで椅子へ座った。
胸の光は、明るい一つと弱い三つ。
朝の明るい二つと弱い一つから内訳も総数も変わっている。
「変わったとこ見た?」
「見てない」
「位置は?」
「一個近い。三個違う」
「それだけ書いた?」
「うん」
今日も、地下側との関係は考えない。
◇
昼食後、サーラがもう一度生活観測区画へ来た。
今度は治療教師も一緒だった。
「実施できますか」
昨日までと同じ問いだった。
アリシアは自分の身体へ意識を向ける。
授業後の疲労は二。
痛み、息苦しさ、冷感、震えはない。
怖さは三。
「できる」
「知らないまま開始することへ同意しますか」
「する」
「参加意思は?」
「八」
「条件を知りたい気持ち」
「九」
「探したい気持ち」
「六」
「反応してほしい気持ち」
「五」
「今までの区別が残ってほしい気持ち」
アリシアは少し考えた。
「六」
「違う結果でもそのまま残したい気持ち」
「九」
「分かりました」
それ以上は聞かれない。
アリシアは椅子から立ち上がった。
今日はどれが来るのか。
前半か。
後半か。
滑らかな十呼吸か。
頭の中では三つとも浮かんでいる。
でも、自分から一番を決めない。
それだけを意識して試験室へ向かった。
◇
試験室の配置は変わっていなかった。
設備担当と若い観測員は別室。
記録板は本人から見えない。
サーラと治療教師の位置も同じ。
魔導具教師だけが後方に座り、アリシアから波形が見えないよう記録板を斜めにしている。
ノアは少し離れた机へ飛び乗ると、今日は最初から丸くならず、前脚を揃えて座った。
アリシアは一度だけそちらを見た。
『何』
「何でもない」
『集中しなさい』
「ノアに言われた」
『珍しいでしょう』
少しだけ緊張が抜ける。
最終確認が始まる。
疲労二、怖さ三、参加意思八、停止意思一。痛みや息苦しさはなく、胸部冷感と震えもない。
「条件を推測していますか」
「してる」
「強さだけ」
「六」
「探したい気持ち」
「六」
「分かりました」
サーラが開始の合図を出した。
◇
低い駆動音が床の下から響き始める。
アリシアは呼吸を数えない。
正面の壁ではなく、今日は自分の膝の少し向こう、床に落ちた薄い影を見た。
最初は何もない。
「感覚なし」
少し時間が進む。
前半かもしれないという考えが浮かんだ。
「推測七」
「感覚は?」
「ゼロ」
探したい気持ちは六のまま。
何もない。
さらに時間が経つ。
アリシアの中で、前半ではないかもしれないという考えが強くなる。
「推測変わった。六」
「感覚は?」
「ない」
今度は後半かもしれない。
それとも滑らかな十呼吸かもしれない。
五回と三回の記録が頭にあるせいで、何も感じない時間が長くなるほど滑らかな条件を疑いたくなる。
「今、何もないから滑らかかもって思い始めた」
「推測の強さは?」
「七」
「探したい気持ち」
「七」
アリシアは膝の上で指を動かしそうになり、止めた。
何もない。
胸の中央にも、右側にも、これまでの弱い冷たさは来ない。
そのまま、さらに時間が進んだ。
「まだゼロ」
声にすると、少しだけ安心が混ざった。
もし今日が滑らかな十呼吸なら、今までの区別は残る。
そんな考えが浮かぶ。
「今、滑らかであってほしい気持ち七」
「記録します」
「でも条件はまだ分からない」
「はい」
さらに少し。
何もない。
突然、左肩の外側に服が擦れたような感覚がした。
アリシアは一瞬だけ目を動かす。
「左肩、服が触った感じ。でも冷たくない」
「神器関連候補に入れますか」
「入れない。表面」
「分かりました」
感覚はすぐ消えた。
胸部冷感はゼロのまま。
アリシアは次第に「今日は滑らかだ」と思い始めていた。
推測は八。
反応してほしい気持ちは四へ下がる。
「もう何もない方がいいって思ってる」
「どのくらい?」
「七」
「違う感覚が出たら?」
「言う」
サーラが頷く。
試験は続いた。
そして、最後まで確認できる胸部冷感は出なかった。
『刺激本体終了。復帰確認へ移行します』
合図が響き、アリシアは背もたれへ少し身体を預けた。
大きく息を吐く。
「今日は滑らかだと思う」
「推測の強さは?」
「九」
「開示は身体確認後です」
「うん」
以前なら、そこですぐ条件を聞こうとしていた。
今日は自分から待てた。
◇
治療教師の確認では、胸部冷感はゼロ。
震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもなく、魔力循環にも異常は見つからない。疲労二、怖さ二。
左肩の表面的な擦れ感も残っていない。
「身体側は問題ありません」
その言葉を聞いて、アリシアは魔導具教師を見る。
「教えて」
記録板がこちらへ向けられた。
「本日の条件は、後半寄りの意図的小変動入り十呼吸です」
アリシアは動かなかった。
しばらく、何を言われたのか理解できないように記録板を見ている。
「……後半?」
「はい」
「小変動、入れた?」
「入っています」
「私、何も感じてない」
「はい」
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
痛いわけではない。
怖いわけでもない。
でも、五回続いていたものが初めて途切れたという事実が、言葉になる前に身体へ重く落ちた。
「がっかり……」
数字がすぐ出ない。
アリシアは目を伏せ、膝の上の手を少し握った。
「六……いや、七」
サーラは急かさず、そのまま待った。
「守りたい気持ちは?」
「……七」
「上がりましたね」
「五回だったから」
アリシアの声は少し小さかった。
ノアも、いつものようにすぐ茶化さなかった。
部屋には短い沈黙が残る。
アリシアはそれを埋めようとせず、自分の中の残念さが少し落ち着くまで待った。
「でも」
やがて顔を上げる。
「見たい」
「何を?」
「東側」
魔導具教師が記録板を一枚めくった。
◇
今日の後半寄り小変動そのものは、確かに入っていた。
最大幅はこれまでの安全範囲内。
立ち上がり位置も、後半寄り条件として比較可能な場所にある。
形は完全同一ではないが、これまでの意図的小変動より極端に小さいわけでもない。
「入力はある」
アリシアが確認する。
「あります」
「じゃあ、“小変動ありなのに無反応”が初めて出た」
「はい」
残念さが胸に残る。
それでも次を見る。
「東側奥部は?」
記録が重ねられる。
アリシアの眉が僅かに動いた。
これまで意図的小変動条件では、小変動付近に微小な追加低下が確認されていた。
今日、その追加低下はほとんど見えない。
基準のゆっくりした低下はある。
しかし、これまで「追加」として分けられていた小さな落ち込みに相当するものは、あるとしても測定の揺らぎと区別しにくい程度だった。
「ない?」
「確認できる追加低下はありません」
「小変動入れたのに?」
「はい」
アリシアの目が記録板へ近づく。
「西側は?」
別室から設備担当の返事が来た。
『明確な遅延弱波形は確認できません』
アリシアは今度こそ完全に黙った。
入力小変動はあった。
けれど、東側奥部の追加低下は確認できない。
自分の胸部冷感もない。
西側の明確な遅延弱波形もない。
五回続いていたまとまりのうち、今日残ったのは最初の入力だけだった。
「……そっちが崩れた」
サーラが小さく頷く。
「そう見えます」
「私だけ反応しなかったんじゃない」
「はい」
「東側も、いつもの追加低下がない」
「はい」
「西側もない」
「その通りです」
胸にあったがっかりが、少し形を変えた。
五回続いていた自分の感覚が途切れた。
それは残念だった。
でも、ただ自分だけが反応しなかったわけではない。
「嬉しいって言うの変だけど……」
アリシアは言葉を探した。
「分かりやすい」
「何がですか」
「小変動入れれば必ず私が感じる、じゃなくなった」
「はい」
「入力だけでは足りないかもしれない」
「そう考える材料になります」
「東側が追加で動いた五回は、私も感じた。今日、入力は動いたけど東側が追加で動かなかったら、私も感じなかった」
「現時点では、その並びです」
アリシアの顔から、少しずつ沈んだ色が消えていく。
「じゃあ、六つ目が入力そのものを見てるって考えは弱くなる?」
魔導具教師は慎重に答えた。
「少なくとも、“入力小変動さえあれば反応する”という単純な見方は弱くなります」
「東側奥部の変化を感じてる?」
「候補としては相対的に上がります。ただしまだ直接とは言えません」
「その間の何かもある」
「はい」
「東側が追加で動く条件そのものを拾ってる可能性も」
「あります」
アリシアは記録板へ視線を落とした。
がっかり七だった。
今も、残念は残っている。
でも、知りたい気持ちはそれ以上に強くなっている。
「知りたい九」
「上がりましたね」
「だって、今日初めて違った」
ノアがようやく口を開いた。
『崩れてよかったじゃない』
「最初は嫌だった」
『今も?』
「嫌三くらい」
『随分下がった』
「だって、見る場所増えたから」
『結局それ』
アリシアは少しだけ笑った。
◇
若い観測員も別室から会話へ加わった。
『これ、かなり重要ですよ』
声には興奮が混じっていたが、以前ほど勢いだけで結論へ進まない。
『入力小変動あり。でも東側奥部追加低下なし、アリシアさん冷感なし、西側明確波形なし。今まで一緒に出てた三つが、入力と切り離された形です』
「一回だけだけど」
『はい。一回だけです』
「言えるようになった」
『成長してます』
「私みたいに?」
『そこ張り合います?』
室内に少し笑いが起こる。
魔導具教師は入力波形を拡大した。
「ただし、今日の小変動と過去五回の違いも見なければなりません」
「形?」
「はい。最大幅だけではなく、立ち上がり、戻り、基礎出力、その直前の自然揺れ。東側奥部が追加反応しなかった原因が、入力形状にある可能性も残ります」
「今日だけ地下側の状態が違った可能性も?」
「あります」
「昨日の自然状態とか」
「はい」
「私自身?」
「可能性は低く見えますが、完全には除けません。身体状態は良好でも、主観感度の日差はあり得ます」
「いっぱい残る」
「でも一つ減りました」
サーラが言った。
「何が?」
「“入力小変動が存在するだけでアリシアさんの感覚が生じる”という単純な説明です」
アリシアはその言葉をしばらく聞いていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「今日、失敗じゃない」
「もちろんです」
「むしろ欲しかった違う記録」
「はい」
「でも、出た瞬間は嫌だった」
「それも残してください」
サーラの声は穏やかだった。
「違う結果を大事だと分かっていても、実際に出たらがっかりする。それは矛盾ではありません」
アリシアは少しだけ目を伏せる。
「うん」
感情を正しくする必要はない。
研究に都合のいい人間になる必要もない。
残念なら残念でいい。
その上で、記録を捨てなければいい。
◇
今日はそれ以上の人工刺激を行わなかった。
アリシア自身も望まなかった。
「もう一回やりたい気持ち?」
サーラに聞かれ、少し考える。
「五」
「今日もう一回は?」
「一」
「低いですね」
「今日の一枚、ちゃんと見たい」
「では明日は分析優先でしょう」
「嫌ゼロ」
今度はサーラが笑った。
◇
生活観測区画へ戻ると、エルデン教師が子供と複写を見ていた。
木箱は閉じたままだ。
「試験どうだった?」
子供が聞く。
「今までと違った」
「感じなかった?」
「うん」
「残念?」
「最初七。今三」
「大事だった?」
「九」
子供は少し考え、自分の複写を見る。
「違うの出ても大事」
「うん」
「でも残念はある」
「ある」
二人とも、それで少し笑った。
アリシアは子供の複写を覗く。
「新しい候補どう?」
「まだ紙だけ。こっちは交差かもしれない」
「箱見る?」
「今日は見ない」
「何で?」
「紙でまだ見れるから」
子供は迷いなく答えた。
◇
夕方、顔のない存在は四歩進んだ。
最初に二歩。
少し長く止まってから、一歩ずつ二回。
歩行後は椅子へ座り、しばらく動かなかった。
胸の光は明るい二つと弱い二つ。
昼前は明るい一つと弱い三つだったため総数は同じ四つでも内訳が変わっている。
「今は二つ明るい」
子供が記録する。
「変わったところは見てない」
「今日の試験と関係ある?」
アリシアが尋ねると、子供は首を振った。
「分からない。ずっと見てなかった」
「うん」
人工刺激でいつもと違う記録が出た日でも、顔のない存在の光を無理にそこへ繋げることはしない。
◇
夕方の学院は、朝より少し風が出ていた。
アリシアは今日は友人との約束をしていなかった。
それでも生活観測区画へ真っ直ぐ戻らず、中庭の端にある長椅子へ少し座った。
ノアが隣へ飛び乗る。
『珍しい』
「何が?」
『誰もいないところで休むの』
「昔から一人は好き」
『昔は“好き”じゃなくて“人が怖いから一人”だったでしょう』
アリシアはすぐには返さなかった。
中庭では何人かの生徒が話している。
遠くの石机では、昨日カードをした生徒たちが笑っていた。
一人で座っていても、そこから逃げている感じはしない。
「今は、一人も好き」
『友達いるのに?』
「いても」
『両方?』
「うん」
ノアはそれ以上言わなかった。
アリシアは少しだけ風に当たり、気持ちが落ち着いてから生活観測区画へ戻った。
◇
夜。
机の灯りの下で、アリシアは今日の練習帳を開いた。
最初に書いたのは、結果ではなく自分の感情だった。
『今日は、意図的小変動を入れたのに確認できる胸部冷感が出なかった。条件を知らされた直後は、がっかり七。五回続いていた時刻の近さを守りたい気持ちも七まで上がった』
そこまで書き、少しだけ手を止める。
こういう数字を残すのは少し恥ずかしい。
でも、実際そうだった。
違う結果も大事だと何度も言っていた。
それでも本当に違う結果が来たら、胸が沈んだ。
それは消したくなかった。
続ける。
『ただし、今日違ったのは私だけではなかった』
その下へ、四段を並べる。
『入力側には後半寄りの意図的小変動あり。東側奥部では、これまで五回の小変動条件で確認されていた微小追加低下が今回は確認できない。私の胸部冷感もなし。西側の明確な遅延弱波形もなし』
アリシアは筆を置き、文章を読み返した。
昨日までは、入力、東側奥部、自分、西側が一つのまとまりのように見えていた。
今日、その一番最初だけが動いた。
でも、後ろの三つはついてこなかった。
「ノア」
『何』
「昨日まで小変動って言いすぎてたかも」
『何を今さら』
「小変動そのものが大事だと思いかけてた」
『思いかけてたわね』
「今日ので変わった」
『どう?』
アリシアは練習帳へ新しい文章を書く。
『入力側の小変動が存在するだけでは、東側奥部の追加低下も、私の感覚も、西側弱波形も必ず現れるわけではない可能性が出た』
そこで少し考え、さらに続ける。
『これまで私が感じた五回では、入力小変動だけでなく東側奥部の追加低下も一緒に出ていた。今日、入力小変動だけが出て東側奥部追加低下が確認できなかったとき、私も感じなかった。このため、六つ目が入力小変動そのものを直接拾っているという単純な見方は弱くなった』
ノアが練習帳を覗き込む。
『東側を感じてるって書かないの?』
「まだ」
『偉い』
「だって東側が先か私が先かも分からない」
『覚えてた』
「そこ大事」
『じゃあ何なら書ける?』
アリシアは少し考えた。
『東側奥部の追加低下が現れるような状態変化と、私の弱い感覚が関係している可能性は前より高くなった。ただし、東側奥部そのものを直接感じているか、両方に共通する別の変化があるかは未確定』
その文章に、自分で納得する。
次に、今日の感情の変化を残す。
『試験直後は残念七だったが、解析後は残念三。知りたい気持ち九。今までと違う記録が出たことで、見る場所が一つ増えた』
さらに、今日の別のことも書く。
『授業では結界補修。期待されると言われて少し気になったが、授業なら大丈夫だった。一人で中庭に座って休んだ。友達ができても、一人の時間が嫌いになったわけではないと分かった』
ノアが鼻を鳴らした。
『そこまで研究みたいに分析するの』
「違う。これは普通の記録」
『普通の記録って何』
「私の」
アリシアは少し笑った。
最後に、明日へ向けた欄を開く。
明日は人工刺激をしなくていい。
今日の後半寄り条件を、これまで反応した五回と比較したい。
特に見るべきなのは、入力の小変動そのものの細かな形。
基礎出力。
小変動直前の自然揺れ。
東側奥部の初期状態。
過去五回と今日の違い。
ただし、一日で原因まで決める必要はない。
『次は、“なぜ今日は東側奥部の追加低下が出なかったのか”を一つずつ比べる。入力形状だけで決めない。地下側の開始状態や自然変動も見る。原因が一日で分からなくてもいい』
そこまで書いてから、アリシアはしばらく筆を持ったまま動かなかった。
五回続いたものが、六回目で途切れた。
昨日までなら、それを「形が崩れた」と呼んでいた。
でも今は少し違う。
崩れたというより、境界が見えたのかもしれない。
入力へ小さな変化があれば何でも六つ目が感じる。
そういう単純な話ではない。
何かもう一つ、必要なものがある。
東側奥部が追加で動くことなのか。
その奥にある別の状態変化なのか。
まだ分からない。
けれど、五回続いた記録だけでは見えなかったものが、今日初めて見えた。
アリシアは最後の余白へ、ゆっくり書いた。
『五回続いたことより、六回目が違った理由の方が、今は知りたい』
書き終え、練習帳を閉じる。
窓の外では、薄い雲の向こうに月が滲んでいた。
綺麗な並びが一つ途切れた夜。
それでもアリシアは、昨日より答えから遠ざかったとは思わなかった。
むしろ初めて、「小さな変化がある」だけでは足りない場所まで来た。
次に見るべきものは、その足りなかった何かだった。




