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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第189話 五回と三回を数えるだけでは見えないから、同じ並びの中にあるズレを拾い直す



 朝の生活観測区画には、昨夜の風が少しだけ残っていた。


 窓の外では庭木の細い枝がゆっくり揺れ、葉が重なり合うたびに乾いた音を立てている。空は明るく晴れていたが、陽射しはまだ低く、窓から差し込んだ光は床の奥まで細長く伸びていた。机の端へ置かれた昨日の記録紙も、その光の中で白く浮かび上がっている。


 アリシアは目を覚ますと、寝台の上で身体の状態を確かめた。


 昨日は滑らかな十呼吸を受け、確認できる胸部冷感は最後まで現れなかった。


 試験後にも残留症状はなく、今朝も胸の冷たさや震えはない。痛みや息苦しさ、頭痛、腕の重さもなく、疲労を数字にするなら一程度だった。


 身体は静かだった。


 けれど、頭の中はすでに昨日の記録へ向いている。


「今日は試験なくていい」


 窓辺から外を見ていたノアが振り返った。


『昨日もそれ言ってた気がする』


「昨日は試験した」


『朝の時点ではやりたい七だったでしょう』


「今日は違う」


『どのくらい?』


「今日やりたい二。比較したい九」


『極端』


「昨日、滑らかな三回目だったから」


 アリシアは枕元の練習帳を開く。


 意図的小変動を含む条件は五回。


 そのすべてで、小変動開始から一呼吸以内に最初の弱い違和感がある。


 一方で、比較可能な滑らかな十呼吸は三回。


 そこでは三回とも、確認できる胸部冷感が出ていない。


 数だけを見ると、かなり綺麗だった。


 だからこそ、今日は数ではなく中身を見る。


「五対三って書くと、勝負みたい」


『昨日自分でそう書いてたじゃない』


「勝ち負けみたいに数えないって書いた」


『そこは読んだ』


「じゃあ言わないで」


『からかえるところは使う』


 アリシアは少し眉を寄せたが、そのまま朝の数字を残した。


 身体状態良好。


 人工刺激希望二。


 比較希望九。


 今の区別が残ってほしい気持ち六。


 違う結果でも記録したい気持ち九。


「安心は?」


『何の?』


「滑らか三回とも何もなかったこと」


『それ自分で聞くの?』


「昨日は七だった」


『今日は?』


 少し考える。


「六」


『下がった』


「一晩寝たから」


 安心はある。


 でも、昨日より少し落ち着いている。


 結果を守りたい気持ちもあるが、それだけで今日一日を使いたくはなかった。


     ◇


 子供は朝から木箱を開けるつもりがないようだった。


 机の上には、昨日確認した新しい浅い候補の複写と、これまでの交差候補、接近・終端候補が並べられている。


「今日は紙?」


 アリシアが聞くと、子供は頷いた。


「昨日違ったから、もう一回絵で見る」


「箱開けたい気持ちは?」


「二」


「見たいのは?」


「線は九」


「昨日のところ、残念だった?」


 子供は少し考えた。


「昨日は三。今日は一」


「下がったんだ」


「違うのもあるって分かったから」


「そっか」


 最初の二か所では、片方の線が重なる場所で一度途切れて見え、その向こうで再び続くような特徴が確認された。


 昨日の候補ではそれが見られず、むしろ曲線側が別の線へ届く前に浅くなり、消えているようにも見えた。


「今、交差候補二個。接近とか終わり候補二個?」


「まだ候補」


「うん」


「ほかにもあるか紙で探す」


『箱を開けなくても随分忙しいわね』


 ノアが机の脚元から言う。


「紙の方が安全」


『知ってる』


「じゃあいいでしょ」


 子供は軽く笑い、また複写へ視線を戻した。


     ◇


 朝の顔のない存在は、寝台の端に腰掛けていた。


 子供が新しい十一個の円を描いた紙を持って近づき、胸の光を一つずつ確認する。


「明るい一つ。弱い三つ」


 四つ見える。


 位置は、明るい一つが中央より少し下。弱い三つは左上、右中央、右下へ散っている。そのうち右下の一つはかなり淡く、見る角度によって輪郭がほとんど消えた。


 子供は今朝見えた状態を先に書き終えてから、昨日夕方の記録を隣へ置く。


「昨日も四つだった」


「内訳は?」


「明るい一つ、弱い三つ。同じ」


「位置は?」


「二個近い。二個違う」


「じゃあそう残そう」


 顔のない存在は朝のうちには歩かなかった。


 昨日は時間帯によって四歩や五歩を進んだが、今日は座ったまま。


 子供はそれを「少ない」とは書かず、歩行なしの欄だけ埋めた。


     ◇


 朝食後、サーラと魔導具教師、それから若い観測員が生活観測区画へやって来た。


 今日は人工刺激を行わないことが最初から伝えられた。


 アリシアの表情が少し緩む。


「嫌ゼロ」


「まだ聞いていません」


 サーラが笑う。


「先に言った」


「では記録します」


「今日は五回と三回並べる?」


「並べます。ただし、最初から全部重ねません」


 魔導具教師が机へ数枚の大きな紙を広げる。


「入力側、東側奥部、アリシアさんの主観、西側。この四段を同じ順番で並べます」


「昨日言ってたやつ」


「はい」


「何から?」


「まず“ある・ない”です」


 アリシアは少し意外そうに瞬いた。


「強さじゃなくて?」


「強さを見る前に、何が現れたかを整理します」


 若い観測員が横から補足する。


「強さは今、主観値と装置値の精度が違いますから。最初から細かく比べると、綺麗に見えすぎる可能性があります」


「じゃあ丸と空欄みたいにする?」


「近いです。ただし、“ない”と“確認できない”は分けます」


「そこ大事」


 アリシアが頷く。


 完全に何もなかったことと、弱すぎて分からなかったことは同じではない。


 最近の記録では、その区別を以前より丁寧に残せるようになっている。


     ◇


 午前の授業へ出る前に、身体確認だけ済ませた。


 冷感、震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはなし。疲労一、怖さ一。人工刺激がない日なので参加意思は聞かれず、代わりに解析へ参加したい気持ちを聞かれた。


「九」


「高いですね」


「昨日の続きだから」


「授業は?」


「行く」


「解析より?」


 アリシアは少し迷った。


「授業七、解析九」


『比較するものじゃないでしょう』


「聞かれたから」


「私はそこまで聞いてません」


 サーラが笑い、アリシアは少し頬を赤くした。


     ◇


 午前の授業は、少人数で行う古代文字基礎だった。


 木箱の線刻とは直接関係のない、学院生なら一度は学ぶ一般教養に近い授業である。


 板書には古い交易記号や簡単な所有表示が並び、教師は「似た形でも時代や地域が違えば意味が変わる」と説明していた。


 アリシアはその言葉を聞いた瞬間、木箱の線刻を思い出した。


 けれど、すぐに同じものとは考えない。


 エルデン教師も、これまで見えている線刻が代表的な地下管理文字とは一致しないと話している。


 似て見えるだけで結ぶのは危険だ。


「これ、読める?」


 隣の女子生徒が小声で聞いてきた。


 板書の端にある三文字の短い表示。


「二文字目だけ」


「私、一文字目だけ」


「合わせたら二文字」


「最後誰かに借りる?」


「先生に聞けばいいでしょ」


「正論」


 前の席にいた男子生徒が振り返り、最後の一文字を指で空中へ書いた。


「これ、“倉”じゃない?」


「聞こえてた?」


「普通に聞こえる」


 女子生徒が少し恥ずかしそうに顔を伏せる。


 アリシアは笑いを堪えながら板書へ目を戻した。


 結局、三文字は「東倉庫」を示す古い略記だった。


「当たった」


「一文字だけね」


「十分」


 授業が終わったあと、女子生徒がノートを閉じる。


「午後また研究?」


「今日は試験なし。記録見る」


「じゃあ終わるの早い?」


「分かんない」


「最近ずっと分かんないって言ってない?」


「研究だから」


「便利な言葉」


「本当に分からないの」


「じゃあ終わったら中庭来て。みんなでカードやるから」


「みんな?」


「三人くらい。昨日一緒にいた子も来る」


 アリシアの返事が少し遅れる。


 二人で食堂へ行ったり図書室へ座ったりするのは、少し慣れてきた。


 でも、複数人の中へ自分から行くのはまだ緊張する。


「怖い?」


 女子生徒が聞いた。


 アリシアは思わず笑った。


「何で数字聞く先生みたいに言うの」


「最近アリシアが数字で答えるから」


「……三」


「じゃあ来れる?」


「たぶん」


「来れなかったらまた今度」


 いつものように、無理には引っ張られなかった。


 そのことが、アリシアにはありがたかった。


     ◇


 午後、生活観測区画へ戻ると、四段比較の準備が整っていた。


 一番上が入力。


 二段目が東側奥部。


 三段目がアリシアの主観。


 四段目が西側。


 意図的小変動五回と、滑らかな十呼吸三回。


 ただし、紙の上には条件名が目立つ形で書かれていない。


 小変動ありの五枚には小さな印。


 滑らかな三枚には別の印。


 並び順も実施順そのままではなかった。


「何で混ぜたの?」


「見た瞬間に“こっちは五回全部ある”と数えないためです」


 魔導具教師が答える。


「先入観を減らすため?」


「少しでも」


「私、どれがどれか分かるかも」


「分かっても構いません。ただ、最初から結論の形を見せないだけです」


 アリシアは椅子へ座った。


「じゃあ見る」


     ◇


 最初に見たのは入力段だった。


 小変動ありの条件では、十呼吸の立ち上がり途中に一度だけ意図的な小さな変化が置かれている。


 滑らかな条件では、それがない。


 ただし、滑らかといっても完全な直線ではない。装置由来の微細な揺れや自然変動は残っている。


「ここ、滑らかな方にも少し揺れある」


 アリシアが指す。


「あります」


「でも意図的小変動より小さい」


「はい」


「形も違う」


「多くはそうです」


 一枚だけ、滑らかな条件の中に少し大きめの自然揺れが見える。


 けれど、その回でもアリシアの確認冷感はなかった。


「これ、前に自然揺れある十で弱い候補出たやつより小さい?」


「小さいです」


「じゃあ“揺れが一個でもあれば感じる”ではない」


「そう考える材料になります」


「意図的か自然かも大事?」


「それ自体が重要なのではなく、形や幅、立ち上がり、周囲の状態が違う可能性があります」


 アリシアは頷く。


 人工か自然かを六つ目が見分けているとは考えない。


 違うのは、人間側が作ったかどうかではなく、実際の波形かもしれない。


     ◇


 二段目、東側奥部。


 ここで差はかなり分かりやすかった。


 意図的小変動を入れた五回では、すべて小変動付近に微小な追加低下が確認されている。


 大きさは揃わない。


 後半の最初が比較的大きく、次が中間、その次は小さい。前半二回も弱い側に入る。


 一方、滑らかな三回では、その追加低下に相当するものは確認されていない。


 基準となるゆっくりした低下はある。


 しかし、途中に重なるもう一段の小さな落ち込みがない。


「ここは五と三で分かれる」


 アリシアの声が少し低くなる。


「現時点では」


「五回全部あり。三回全部なし」


「はい」


「私と同じ」


「その比較は次です」


 サーラが止める。


「分かってる」


 アリシアは少し笑った。


 急がない。


 今は東側だけを見る。


 同じ位置でも強さは揃わない。


 小変動ありなら追加低下が出る。


 滑らかでは出ていない。


 そこまで。


     ◇


 三段目に、自分の主観記録が並ぶ。


 意図的小変動五回。


 どれも最初の違和感が小変動開始から一呼吸以内。


 冷感強度は〇・三から〇・五程度。


 方向は不揃い。


 震えは、最初の強い反応に近い条件を除けばほぼない。


 滑らかな三回は、確認できる胸部冷感なし。


 ただし一回、皮膚寄りの一瞬の違和感。


 別の一回、右鎖骨寄りのむず痒さ。


 どちらもアリシア自身が六つ目関連の冷感とは別に分類している。


「こう見ると、“何もなかった”でも本当に何もなかったわけじゃない日ある」


 アリシアが言う。


「身体には様々な感覚がありますから」


「でも私は分けられた」


「はい」


「それも大事?」


「とても」


 若い観測員が答える。


「もし何でも神器反応に入れていたら、滑らかな条件でも二回“反応あり”になっていました」


「じゃあ今の差、私がちゃんと違うって言えたから残ってる」


「そうですね」


 アリシアは少しだけ胸を張りそうになり、自分で気づいてやめた。


「嬉しい七」


『数字使う場所増えすぎ』


 ノアが机の端から言う。


「気持ちだから」


『何でも数字にすればいいと思ってない?』


「分かりやすいときだけ」


 サーラが少し笑った。


「今のところ使い分けはできています」


『先生が認めた』


「ほら」


『得意げになるな』


     ◇


 四段目、西側。


 意図的小変動五回では、いずれも東側とアリシアの最初の違和感より後に、弱い波形が現れている。


 大きさは東側追加低下と似た傾向を持つ回も多い。


 滑らかな三回では、そのような明確な遅延弱波形は確認されていない。


「ここも五と三」


「はい」


「でも西側はいつも後」


「明確に読める範囲では」


「じゃあ私が西側を直接感じてるっていうのは、今のところ合いにくい」


「その見方は以前より強まりました」


「東側は?」


 アリシアは二段目と三段目を見比べる。


「細かい順番分からない」


「はい」


「同じ一呼吸以内くらいの窓」


「その理解でいいです」


「入力小変動が先なのは分かる?」


「装置側の記録では、小変動を加えた時刻は分かります」


「そのあと東側追加低下と私の申告が近い」


「はい」


「でも東側が先か私が先かは、まだ分からない」


「申告までの遅れもありますから」


 アリシアは息を吐いた。


「ここずっと残る」


「今の装置と申告方法では、簡単には消えません」


「もっと細かく言う練習したら?」


「無理に瞬間申告させると、今度は感覚を探す方が強くなる可能性があります」


「そっちが悪くなる」


「そうです」


 精度を上げれば良いとは限らない。


 測るために本人の状態を変えてしまえば、別の条件になる。


 そのことも、もう理解できる。


     ◇


 四段を全部並べ終えると、紙の上には一つの形が見えた。


 意図的小変動あり。


 入力側に小変化。


 東側奥部に追加低下。


 アリシアに弱い違和感。


 西側に遅れた弱波形。


 一方、滑らかな条件。


 意図的小変動なし。


 東側奥部の追加低下なし。


 確認できる胸部冷感なし。


 西側の明確な遅延弱波形なし。


「かなり分かれてる」


 アリシアが静かに言う。


 若い観測員も、以前ならすぐ興奮したかもしれない。


 今日はしばらく紙を見てから答えた。


「分かれています」


「先生、落ち着いてる」


「前に何度も怒られましたから」


「怒ってない」


『止められてただけでしょう』


 ノアが言う。


 少しだけ笑いが起きる。


 そのあと魔導具教師が、比較紙の端へ一本線を引いた。


「ただし、この二群だけで全記録を説明できるわけではありません」


「最初の自然微小振動があった十呼吸」


「はい」


「そこでは意図的小変動じゃないのに弱い候補が出た」


「そうです」


「五呼吸の速い条件も」


「そこにも過渡的な小さな増幅がありましたが、同じ形ではありません」


「十八呼吸は比較的滑らかで無反応」


「はい」


 アリシアは紙を見つめた。


 今の五対三だけなら、かなり綺麗だ。


 でも、それ以前の記録には曖昧なものがある。


 自然な微小揺れを含んだ十呼吸で、弱い候補が出た回。


 速い五呼吸で明瞭な反応が出た回。


 滑らかな十八呼吸で何も出なかった回。


「じゃあ、“意図的小変動があるかないか”じゃなくて、ある種類の変化があるかないか?」


 魔導具教師は少し考えてから答えた。


「今はその方が安全です」


「小さい変化の形とか速さとか、前後の状態とか」


「はい」


「それに東側奥部が追加で動く」


「少なくとも今の制御条件では、そこが一緒に出ています」


「六つ目はそのどこかに反応してる候補」


「その範囲なら」


 アリシアは少しだけ嬉しそうに頷いた。


 以前より、言える範囲が広がっている。


 でも、名前はまだ付けない。


     ◇


 解析の途中、子供の机ではエルデン教師が複写を見ていた。


 昨日の浅い候補は、今日改めて紙だけで比べると、最初の二つの交差候補より接近・終端候補に近い。


 さらに別の複写で、もう一か所だけ線同士が重なりそうな場所が見つかった。


「これ、次見る?」


 子供が聞く。


「候補にはできる」


「前の二個と同じかもしれない?」


「紙だけでは分からない」


「箱開けたい三」


「今日開ける?」


「開けない」


「理由は?」


「昨日開けたから。今日は紙で見つけたから、それでいい」


 エルデンは頷いた。


「じゃあ候補だけ残そう」


 子供は印を付ける。


 交差候補が一つ増えた可能性。


 ただし実物未確認。


 それ以上は進めない。


     ◇


 午後の後半、顔のない存在が立ち上がった。


 最初に一歩進み、長めに止まる。その後二歩を続け、さらに一歩ずつ二回進んで、合計五歩で椅子へ座った。


「午後五歩。一歩、二歩、一歩、一歩」


 子供が記録する。


 胸の光は明るい二つと弱い一つ。


 朝は明るい一つと弱い三つだったため、見えている総数も内訳も変わっている。


「今は三つ」


「変わった瞬間は?」


「見てない」


「位置は?」


「明るい一個は朝と近い。もう一個違う。弱いのも違う」


 子供は記録したあと、少し考えて言う。


「今日は人工刺激ない」


「うん」


「でも変わった」


「うん」


「やっぱり試験だけじゃない」


「そうだね」


 それだけを確認し、意味は付けなかった。


     ◇


 解析が終わったのは、まだ夕方には少し早い時間だった。


 アリシアは中庭へ向かうか迷った。


 午前中に誘われたカード遊び。


 三人くらい来ると言っていた。


 怖さは三。


 でも、行けないほどではない。


「行く?」


 ノアが廊下の途中で尋ねる。


「……行く」


『珍しく迷ったあと行く方選んだ』


「うるさい」


『褒めてる』


「今日それ多い」


 中庭の一角には、四人掛けの石机が置かれている。


 そこに女子生徒と、昨日授業で同じ組になった男子生徒、それから別の女子生徒がいた。


「来た!」


「本当に来た」


「何でみんな来ないと思ってたの」


「アリシアだから」


「どういう意味」


 少しだけ笑いが起きる。


 カードは、数字と簡単な属性記号を組み合わせて出す遊びだった。


 難しい規則ではない。


 けれどアリシアは最初、どのタイミングでカードを出せばいいのか迷った。


「これ出せる?」


「出せる」


「本当に?」


「疑いすぎ」


 男子生徒が笑う。


「負けても何もないから」


「それは分かってる」


「顔が研究みたいになってる」


「なってない」


 女子生徒が吹き出した。


「なってる」


 アリシアは少し頬を赤くしながらカードを出す。


 その一枚は規則上問題なかった。


「できた」


「普通のことだから」


「初めてなんだからいいでしょ」


 何度か遊ぶうちに、少しずつ迷わなくなる。


 一度、相手の出したカードを見落として間違えた。


 けれど笑われても、逃げたいとは思わなかった。


 自分も一緒に笑えた。


 十五分ほどのつもりが、気づけば三十分近く経っていた。


     ◇


 夜、生活観測区画へ戻ると、窓の外は穏やかだった。


 朝まで残っていた風も弱まり、庭の木々はほとんど動いていない。


 アリシアは机へ座り、今日の比較を練習帳へまとめた。


『今日は人工刺激なし。意図的小変動を含む五回と、滑らかな十呼吸三回を、入力・東側奥部・自分の感覚・西側の四段で同じ形式に並べた』


 まず、ある・ない。


『意図的小変動を含む五回では、小変動付近の東側奥部追加低下、私の弱い違和感、西側の遅延弱波形が今のところ全て確認されている。滑らかな三回では、その三つは確認されていない』


 そこで一度、筆を止める。


 かなり綺麗だ。


 でも、すぐ下へ続ける。


『ただし、滑らかな条件でも自然な微細揺れは残る。意図的小変動条件も毎回完全同一ではない。また、以前の自然微小振動を含む十呼吸では弱い感覚候補があり、速い五呼吸でも明瞭な反応があったため、“人が意図的に小変動を入れたかどうか”そのものが条件ではない』


 ノアが机へ乗った。


『今日は慎重ね』


「五と三だけ見たら言いたくなるから」


『何を?』


「小変動があると感じるって」


『言えば先生に止められる』


「だから書かない」


『学習した』


 アリシアはさらに書く。


『今言えるのは、ある種類の小さな変化を含む条件では、東側奥部の追加低下・私の弱い感覚・西側の遅れがまとまって現れることが増えている、というところまで』


 次に、時刻。


『小変動条件では、私の最初の違和感は五回とも小変動開始から一呼吸以内。西側の明確な弱波形はその後。東側奥部追加低下と私の申告の細かな前後関係はまだ決められない』


 強さ。


『強さは揃わない。後半三回では東側奥部追加低下、私の冷感、西側弱波形が大・中・小に近い順で変わったが、前半二回を含めると単純ではない。主観数値の細かさにも限界がある』


 そして今日、少し嬉しかったこと。


『滑らかな条件中にあった皮膚寄りの違和感やむず痒さを、六つ目関連の冷感と分けて残せている。何でも反応として数えないことも、比較を支えている』


 この一文を書いたところで、少しだけ口元が緩んだ。


 自分の感覚を疑うというより、丁寧に扱えるようになった。


 全部を神器のせいにしない。


 でも、変な感覚を消してしまわない。


 その中間が少しずつ取れるようになっている。


「今日の嬉しいは?」


 ノアが聞く。


「研究八」


『日常は?』


「カード七」


『負けた?』


「二回」


『それで七』


「楽しかったから」


 アリシアは研究記録の下へ、短く日常のことも書いた。


『授業では古代文字基礎。午後は中庭で友達たちとカードをした。複数人で遊ぶのは少し怖さ三だったが、途中から二くらい。楽しかった七』


 「友達たち」という書き方に、自分で少し驚く。


 一人ではない。


 いつもの女子生徒だけでもない。


 まだ名前を呼び合うほど親しくない相手もいる。


 それでも、一緒に遊んだ時間を「友達といた」と書いてもいい気がした。


 アリシアは最後に、次へ向けた欄を開ける。


 人工刺激は、明日すぐ必要ではない。


 今日かなり整理できた。


 次に試すなら、三候補方式を続ける。


 ただし、目的は五対三をもっと綺麗にすることではない。


 むしろ、この分かれ方がどこまで残るかを見る。


『次の刺激では、意図的小変動条件か滑らかな条件かを自分で選ばない。今の区別が続くか、初めて崩れるかを見る。新しい強さや速度はまだ増やさない』


 筆を止める。


 今の記録は確かに綺麗だ。


 だから嬉しい。


 でも、綺麗だから答えではない。


 五回と三回という数は、物語の終わりではなく、次にどこを疑うべきかを教えてくれるだけだ。


 アリシアは練習帳を閉じる前に、最後の余白へもう一文だけ書いた。


『揃った回数を増やすより、揃っている理由を間違えない方が大事』


 書き終えた文字を見つめ、少しだけ息を吐く。


 東側奥部。


 自分の胸の弱い冷たさ。


 西側へ遅れて届く弱い波。


 その三つが、同じ小さな変化の周囲で現れることは増えている。


 でも、それらが何を共有しているのかはまだ分からない。


 六つ目が何をしているのかも、まだ名前を付けられない。


 それでいい。


 今は、名前より先に残っている形がある。


 そして、その形が本物なら、次に違う日が来ても消えはしない。


 違った一枚も含めて、どこまでが同じだったのかを考え直せる。


 窓の外では、静かな夜の庭に淡い月明かりが落ちていた。


 アリシアはその光を少しだけ眺めてから、今度こそ練習帳を閉じた。

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