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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第188話 強さの違いまで見え始めたから、今日は何も足さない条件をもう一度混ぜておく



 朝の空には、薄い雲が何本か長く伸びていた。


 昨日ほど強い陽射しではないものの、雨の気配はない。生活観測区画の庭にはまだ朝露が残り、植え込みの葉先から落ちた雫が石畳に小さな跡を作っている。開けた窓から入る風は少し冷たく、机の上に置いた練習帳の端をゆっくり持ち上げていた。


 アリシアは寝台から起き上がる前に、自分の身体へ意識を向けた。


 昨日は人工刺激を行っていない。


 後半寄り小変動を入れた三回を中心に、入力波形、東側奥部の追加低下、自分の冷感、西側の遅れを分けて比較した。その結果、時刻の近さとは別に、少なくとも後半三回では東側奥部の変化量、自分の冷感、西側の弱い波形が大まかに同じ強・中・弱の順番へ並んで見えた。


 ただし前半二回まで入れると、その並びは綺麗には続かない。


 そこが昨日、新しく残った問いだった。


「冷感なし。身体も大丈夫」


 声にしてから、アリシアは練習帳を開いた。


 痛みや息苦しさ、震え、頭痛、腕の重さもなく、疲労は一程度。身体だけなら試験を行える状態だった。


 窓辺で毛づくろいをしていたノアが、前脚を舐めるのを止める。


『今日はやりたい?』


「七」


『昨日は三だったのに』


「昨日休んだから」


『分かりやすい』


「次を見たいのは八」


『何が来てほしい?』


 アリシアは答えかけて、口を閉じた。


 昨日までの自分なら、後半寄り条件をもう一度見たいと言ったかもしれない。


 東側奥部の追加低下量と自分の冷感強度がまた一緒に変わるのか。


 あるいは前半で大きな追加低下が出る日が来るのか。


 気になることはいくつもある。


 でも、それを口にすれば、その条件を待つ。


「言わない」


『前より学習した』


「昨日も言ったでしょ。条件決めるところから離れる」


『じゃあ先生に聞かれても?』


「候補ごとの希望は言わない」


『本当に?』


「……言いたくなるとは思う」


『そこは正直』


 アリシアは自分の気持ちを数字だけで残した。


 試験参加八。


 今日実施七。


 条件を知りたい八。


 反応してほしい五。


 今まで見え始めた形に合ってほしい五。


 崩れても記録したい九。


「守りたいは五」


『時刻の方?』


「たぶん」


『“たぶん”なのね』


「強さの並びはもう昨日崩れかけたから」


『五回続いた方が気になる、と』


「うん」


 言葉にすると、自分の中で何を守りたがっているのかが少し見えた。


 強さの規則ではない。


 前半なら弱い、後半なら強いという綺麗な線は、もう昨日の結果で単純には言えなくなった。


 それよりも、小変動が入った五回すべてで一呼吸以内に最初の違和感が現れていること。


 そこだけは、まだ崩れていない。


     ◇


 子供は朝から木箱の複写を広げていた。


 昨日の整理で、新しく見つけた三つ目の候補は、最初の二つの交差候補よりも、以前の「接近・終端候補」に近い可能性が出ている。


 線が交わっているように見えても、別角度の複写では片方が手前で薄くなっている。


「今日は箱見る?」


 アリシアが尋ねると、子供は紙を見たまま答えた。


「一個だけなら見たい」


「どれ?」


「これ」


 子供が指したのは、昨日までに交差候補から少し外れかけていた場所ではない。


 最初の二か所とは別に、複写の端近くで見つけたもう一つの浅い交差候補だった。線がかなり薄いため、これまで優先度を下げていた場所だ。


「新しい方?」


「うん。前の三個目は紙で接近っぽくなったから、今日はこっち」


「見たい気持ちは?」


「九」


「箱開けたいは?」


「五」


「触りたい?」


「二」


「怖さは?」


「二」


 子供は数字を言ったあと、箱の蓋へはまだ手を伸ばさなかった。


「エルデン先生来てから決める」


「うん」


『今日は二人とも待てる日なのね』


「ノアは?」


『朝ご飯待ってる』


「さっき食べた」


『次のを』


「早い」


     ◇


 顔のない存在は、朝の光の中で静かに椅子へ座っていた。


 子供は新しい十一の円を描いた紙を用意し、昨日の記録を見る前に胸の光を確認する。


「明るい二つ。弱い二つ」


 今朝は四つ見えていた。


 位置を一つずつ記録する。


 明るい一つは中央より少し上。もう一つは左寄り。弱い二つは右下と中央付近に見え、そのうち中央寄りの一つは角度によってかなり見えにくい。


「書いた」


「昨日の夕方は?」


 子供が前日の紙を隣へ並べる。


「明るい二つと弱い二つ。同じ」


「位置は?」


「一個だけ近い。三個違う」


「じゃあ内訳は同じだけど、位置は違って見える」


「うん」


 顔のない存在は、朝のうちは歩こうとしなかった。


 子供も無理に促さず、歩数欄を空けたまま記録を終える。


     ◇


 朝食後に来たのは、サーラと治療教師だった。


 身体確認では、アリシア自身が朝に調べた通り、冷感や震えはなく、痛みや息苦しさもない。頭痛や腕の重さもなく、疲労一。魔力循環にも大きな乱れは見つからなかった。


「怖さは?」


「二」


「参加意思」


「八」


「今日実施したい気持ちは?」


「七」


「条件を知りたい気持ち」


「八」


 サーラはそこまで記録したあと、昨日と同じように候補名を出さなかった。


「結果に何を望んでいるか、全体だけ聞きます。今まで見えている形に合ってほしい気持ちは?」


「五」


「違う結果でも残したい気持ちは?」


「九」


「何か感じてほしい気持ちは?」


「五」


「何も感じなくても受け取りたい気持ちは?」


「八」


「分かりました」


 アリシアは少しだけ拍子抜けした。


「今日は何が有力とか言わないんだ」


「言いません」


「先生たち、もう決めた?」


 サーラは僅かに微笑む。


「その質問にも答えません」


「ずるい」


「昨日、決めるところから離れたいと言ったのはアリシアさんです」


「言ったけど、知りたいのは別」


「それも記録されています」


 ノアが机の下から顔を出した。


『自分で首突っ込まないって決めて、首だけ伸ばしてる』


「うるさい」


 アリシアは頬を少し膨らませたものの、それ以上は聞かなかった。


 知りたい気持ちが九へ上がったことだけ申告する。


 サーラは何も言わず、その数字も記録へ加えた。


     ◇


 午前の授業は、屋外に近い半開放型の演習場で行われた。


 風属性の基本操作を応用し、小さな羽根を一定範囲から出さずに浮かせ続ける課題だった。魔力が強すぎれば羽根は上へ跳ね、弱ければ落ちる。左右へ偏れば、隣の区画へ流れてしまう。


 今日はいつもの女子生徒と同じ列だったが、別々の区画へ入る。


「先に落とした方負けね」


 女子生徒が言う。


「競争じゃない」


「今決めた」


「勝手」


「嫌?」


 アリシアは少し考えた。


「……嫌じゃない」


「じゃあ負けたら飲み物」


「昨日飲んだ」


「今日は別の味」


「毎日買わせる気?」


「負けなければいい」


 少し離れた位置にいた男子生徒が「また始まった」と笑う。


 女子生徒がそちらへ「参加する?」と声を飛ばし、男子生徒は両手を振って断った。


 教師の開始合図が入り、羽根が一斉に浮かぶ。


 アリシアは自分の区画中央へ意識を向けた。


 最初は安定している。


 隣の女子生徒も上手く保っている。


 しばらくすると、演習場へ外から少し強い風が入った。


 何人かの羽根が一斉に揺れ、周囲から小さな声が上がる。


 アリシアの羽根も右へ流れかけた。


 反射的に魔力を強めそうになり、寸前で止める。


 強く押し返せば、今度は反対へ飛ぶ。


 風そのものを消すのではなく、流れへ少しだけ合わせる。


 羽根は区画の端近くまで動いたが、外へは出なかった。


「危な」


 隣から女子生徒の声。


「そっちも」


「見てたの?」


「見えた」


「自分の見て」


「見てる」


 二人とも笑いながら集中を戻した。


 終了合図が入った時点で、どちらの羽根も区画内に残っている。


「引き分け」


「飲み物なし」


「じゃあ私が買う」


「何で」


「飲みたいから」


 競争の意味がなくなっている。


 アリシアは呆れながらも、嫌ではなかった。


 外から急に風が来たとき、以前の自分なら失敗を怖がって必要以上に力を入れていたかもしれない。


 今は、大きく返さず、その場で少し調整できた。


 それが妙に嬉しかった。


     ◇


 授業後、女子生徒たちと分かれて生活観測区画へ戻ると、エルデン教師がすでに来ていた。


 子供は朝に選んだ新しい交差候補を見せている。


「これなら、今の布位置でも見えそう」


 エルデンが複写を確認する。


「布動かさない?」


「動かさない」


「黒いの触らない?」


「触らない」


「見るの一個だけ?」


「一個だけ」


 子供はそこまで確認してから、アリシアを見る。


「開ける」


「怖さは?」


「二」


「見たいは?」


「九」


「途中で十になったら?」


「閉める」


 子供自身が蓋へ手を伸ばした。


 木箱がゆっくり開く。


 茶色い布の下から見える暗色の細長い物体は、これまでと同じ位置にある。冷たそうな鈍い表面へ複数の浅い線が走り、正面光だけではほとんど見失いそうなものもあった。


 エルデンが狙った一点へ細い魔導光を低い角度から当てる。


「最初はこっち」


 子供が僅かに身を乗り出す。


 新しい候補は、最初に確認した二つの交差よりかなり浅い。


 一方の線が緩く曲がりながら進み、その先へもう一本の直線が斜めに近づいている。


「重なってる?」


「まだ分からない」


「影、短い」


「そうだね」


 光を少しだけ動かす。


 交差しているように見えた場所で、最初の二か所にあった「一方がいったん途切れて、その先で再び現れる」特徴がはっきりしない。


 むしろ、曲線側が直線へ届く直前で浅くなり、そのまま消えているようにも見える。


「前の二個と違う」


 子供の声が少し低くなった。


「そう見える」


「反対から」


「一度だけ」


 光の角度を反転させる。


 影の方向は変わった。


 それでも、曲線が直線の向こう側へ明確に続いている様子は見えない。


「交差じゃない?」


「今の見え方なら、交差候補としては下げた方がいいかもしれない」


「接近?」


「接近か、途中で終わっている可能性。ただし摩耗や汚れで先が見えないだけかもしれない」


 子供はしばらく黙って線を見た。


 最初の二つと同じものが見つかることを期待していたのだろう。


 口元が少しだけ下がる。


「残念?」


 アリシアが聞く。


「三」


「見たい気持ちは?」


 子供はもう一度物体へ目を向けた。


「十」


 その数字を言った瞬間、自分で蓋へ手を伸ばした。


「閉める」


 エルデンが光を消す。


 蓋が静かに下りた。


 子供は箱の上へ両手を置かず、そのまま膝へ戻した。


「違った」


「うん」


「でも大事?」


「大事だよ」


 エルデンが複写へ印を加える。


「似た交差が二か所ある一方で、似て見えても違う場所がある。線刻全体が同じ重なり方だけで作られているわけではない可能性が出る」


「意味違う?」


「そこまではまだ言えない」


「うん」


 子供は少し残念そうなまま、それでも頷いた。


     ◇


 昼前、顔のない存在は四歩進んだ。


 最初の二歩は続けて、そのあと少し長く止まり、一歩ずつ二回進む。最後は椅子へ腰掛ける前にわずかに身体を揺らしたが、倒れそうになるほどではなかった。


「午前四歩。二歩、一歩、一歩」


 子供が記録する。


 胸の光は朝と同じ明るい二つと弱い二つ。


 ただし、朝に見えにくかった中央寄りの弱い光が今は少し分かりやすく、右下の弱い光は逆に淡くなっている。


「数は同じ。でも見え方違う」


 位置を記録し、そこまでで終える。


     ◇


 昼食後、サーラが生活観測区画へ戻ってきた。


「実施できますか」


 昨日と似た質問だった。


 条件は言わない。


 アリシアは一度、自分の身体を確認する。


 午前の授業による疲労は二。


 痛み、息苦しさ、胸部冷感、震えはない。


 怖さ三。


 参加意思は八のまま。


「できる」


「知らないまま開始することへ同意しますか」


「する」


「条件を知りたい気持ちは?」


「九」


「探したい気持ちは?」


「六」


「今までの形を守りたい気持ち」


「五」


「違う結果でも受け取る気持ち」


「九」


 サーラが頷いた。


 アリシアは立ち上がる。


 試験室へ向かう廊下は静かだった。


 今日は何が来るのか。


 後半か。


 前半か。


 滑らかな十呼吸か。


 考えないようにすることは、もう諦めている。


 ただ、それを答えだと思わない。


 それだけを意識した。


     ◇


 試験室の配置は、これまでと同じように整えられていた。


 設備担当と若い観測員は別室。


 記録板はアリシアから見えない。


 サーラと治療教師の位置も変わらない。


 ノアは後方の机へ座る。


 アリシアが椅子へ腰を下ろすと、室内の空気が少し乾いていることに気づいた。


 昨日より気温もわずかに高い。


 こういう違いまで条件になるのかもしれないと思いかけ、今はそこまで広げないようにする。


「最終確認です」


 疲労二。


 怖さ三。


 参加意思八。


 停止意思一。


 痛みや息苦しさはなく、冷感と震えもない。


「条件を推測していますか」


「してる」


「強さだけお願いします」


「七」


「反応してほしい気持ちは?」


「五」


「探したい気持ち」


「六」


「分かりました」


 サーラが試験開始を告げる。


 低い駆動音が床の下から伝わってきた。


     ◇


 アリシアは呼吸を数えなかった。


 正面の壁を見る。


 昨日まで何度も見た木目ではなく、今日は少し上にある小さな節へ視線を置く。


 開始直後、胸に何もない。


「感覚なし」


 少し時間が経つ。


 前半かもしれない、という予想が頭に浮かぶ。


「推測八」


「感覚は?」


「ゼロ」


「探したい気持ちは?」


「七」


 さらに待つ。


 何もない。


 前半寄り小変動なら、そろそろ何か来てもいいのではないか。


 そう思った瞬間、自分が勝手に時間を作っていることに気づく。


「今、前半を待ってる気がする」


「記録します」


「感覚なし」


 もう少し時間が進む。


 何も起きない。


 アリシアの中で予想が揺れる。


「前半じゃないかも。推測六」


「感覚は?」


「ゼロ」


 次に後半かもしれないという考えが浮かぶ。


 反応してほしい気持ちが六へ上がる。


 それも申告した。


 けれど、胸は静かなままだ。


 小さな冷たさもない。


 中央も、右側も、東寄りの曖昧な引かれる感覚もない。


「まだ何もない」


 時間が進む。


 後半を待っている自覚が出てくる。


「今、後半かもって思ってる。推測八」


「感覚は?」


「ゼロ」


 何もない。


 アリシアは眉を少し寄せた。


 もしかすると滑らかな十呼吸かもしれない。


 そう考えた瞬間、安心と残念が同時に胸へ浮かぶ。


「滑らかかもって思った」


「推測の強さは?」


「七」


「感覚は?」


「ゼロ」


 そのまま、さらに時間が過ぎた。


 一瞬だけ右の鎖骨に近い辺りがむず痒く感じたが、胸の内側ではない。


「右上、ちょっと痒い。でも神器の感じじゃない」


「別記録にします」


「うん。冷感ゼロ」


 むず痒さはすぐ消えた。


 確認できる冷感は、その後も現れなかった。


 身体を探したい気持ちは七まで上がったが、アリシアは「何かあるはず」と決めず、感覚がないことを何度かそのまま申告した。


 やがて試験本体の終了が告げられる。


『本体終了。復帰確認へ移行します』


 アリシアは少し長く息を吐いた。


「条件知りたい十」


 サーラの口元が僅かに緩む。


「身体確認後です」


「分かってる」


 言い方まで何度か同じになっていることに自分で気づき、アリシアは少し恥ずかしくなった。


「次から違う言い方する」


「何の話ですか」


「何でもない」


     ◇


 治療教師の確認では、冷感は最後までゼロ。


 震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもない。疲労は二、怖さ二。魔力循環にも異常はなかった。


 試験中に一瞬あった右上のむず痒さはすでに消えており、本人も神器関連の感覚とは明確に区別している。


「身体側は問題ありません」


 その言葉を聞いた瞬間、アリシアは魔導具教師の方を見た。


「教えて」


 記録板が回される。


「本日の条件は、滑らかな十呼吸です」


 アリシアは数秒、記録板を見たまま動かなかった。


 それから、肩の力がふっと抜ける。


「滑らかだった」


「はい」


「小変動なし?」


「意図的なものは入れていません」


「確認できる冷感なし」


「はい」


 嬉しさが上がる。


 けれど、前回ほど驚きはなかった。


 どちらかといえば、静かな納得に近い。


「これで滑らかな十、三回?」


「比較対象として扱えるものは三回です」


「三回とも確認できる冷感なし」


「そうなります」


 アリシアは小さく息を吸った。


「小変動あり五回は全部、一呼吸以内に弱い違和感。滑らかな三回は全部、確認できる冷感なし」


 魔導具教師がすぐに続ける。


「ただし、各回が完全に同一条件ではありません」


「言われると思った」


「なら先に言ってください」


「今日は先生の仕事取らない」


 サーラが笑う。


「昨日まで取りすぎましたからね」


 アリシアも少し笑った。


 それでも、嬉しさは消えない。


「嬉しい八」


「九では?」


「前なら九だったかも」


「なぜ八?」


「予想してた形に合ったから嬉しい。でも、合いすぎてるから一個引いた」


『数字の使い方が独特になってきたわね』


「分かればいいの」


     ◇


 東側奥部の記録を見る。


 今日も滑らかな十呼吸に対応する基準の低下は起きている。


 ただし、意図的小変動を入れたときに見られた追加低下は確認されていない。


「自然な細かい揺れは?」


 アリシアが聞く。


「あります。ただし基準範囲です」


「小変動あり五回の追加低下みたいなのは?」


「ありません」


「西側は?」


 別室から設備担当の声が返る。


『通常範囲の微細な変動のみです。これまで意図的小変動条件の後に見られたような明確な弱い遅延波形は確認していません』


 アリシアは記録板を見つめた。


「今日も三つ一緒だった」


「三つ?」


「東側の追加低下なし。私の冷感なし。西側の遅れた弱波形もなし」


「その組み合わせは、滑らかな条件ではこれまでと同じです」


「小変動ありだと、東側追加低下あり、私の違和感あり、西側弱波形あり」


「五回ではそうです」


 アリシアは少し前のめりになった。


「これ、時刻だけじゃなくて組み合わせもかなり分かれてきたよね」


「はい」


 魔導具教師は今度は素直に頷いた。


「ただし、入力側の微細な自然揺れ、東側奥部側の自然変動、観測精度の違いは残ります。それでも、意図的小変動を含む条件群と滑らかな条件群の差は、以前より見やすくなっています」


「六つ目が小変動を感じてる?」


 アリシアは言ってから、自分で首を振った。


「違う。まだそこじゃない」


「自分で止まりましたね」


「小変動のあとに東側奥部が少し余計に動いて、私も感じて、西側も後から動く。このまとまりがあるってだけ」


「現在の記録から言える範囲としては、かなり近いです」


「何が最初かはまだ分からない」


「はい」


「入力小変動そのものなのか、東側の追加低下なのか、その間の何かなのか」


「はい」


 アリシアは少し笑った。


「答え近そうで遠い」


『そのくらいでちょうどいいんじゃない?』


 ノアが机から言う。


「ノアがまともなこと言った」


『取り消すわよ』


     ◇


 試験後は追加刺激を行わなかった。


 今日の整理は最小限に留め、詳しい比較は翌日以降へ回す。


 それでも一つだけ、学院側で確認することになった。


 意図的小変動五回と滑らかな十呼吸三回について、入力・東側奥部・アリシア主観・西側の四段を同じ形式で並べる。


 これまでは個別の波形を重ねることが多かった。


 今度は「何がある/ない」「時刻がどの程度近い」「強さがどう違う」を同じ順番で見る。


「明日?」


 アリシアが尋ねる。


「人工刺激は行わず、比較を優先する案です」


「嫌ゼロ」


 自分でも即答しすぎたと思い、少しだけ笑う。


「今日、滑らか三回目取れたから」


「満足度は?」


「八」


「なぜ十では?」


「十にするとまた次欲しくなるから」


『数字に予防線張るな』


「気持ちだからいいの」


     ◇


 夕方、顔のない存在は五歩進んだ。


 最初に一歩、そのあと二歩、少し休み、さらに二歩。


 歩行後はしばらく椅子へ深く腰掛けていた。


 胸の光は明るい一つと弱い三つ。


 昼前は明るい二つと弱い二つだったため、見える総数は同じ四つでも内訳が変わっている。


「今は一個明るい、三個弱い」


 子供が位置を記録する。


「朝と同じ場所?」


「一個だけ近い。あとは違う」


「変わった時刻は?」


「見てない」


「今日の試験と関係ある?」


「分からない」


 子供はそれ以上何も付け足さない。


 人工刺激の有無にかかわらず、胸の光は変わる。


 歩数も変わる。


 その事実だけが今日も増えた。


     ◇


 日が傾き始めた頃、アリシアは授業中に言っていた飲み物の約束を思い出した。


「行ってくる」


 ノアがこちらを見る。


『今日は何味?』


「知らない」


『また草って言われるわよ』


「本当に草味あったらノアにあげる」


『いらない』


 休憩所へ行くと、女子生徒は自販魔導具の前で二本の瓶を見比べていた。


「遅い」


「研究だった」


「知ってる。どっちがいい?」


 一つは淡い赤。


 もう一つは薄い黄色。


「何味?」


「赤が木苺、黄色が蜂蜜檸檬」


「黄色」


「即決」


「昨日柑橘おいしかったから」


「じゃあ私は赤」


 二人で硬貨を入れ、それぞれ瓶を受け取る。


 今日は長椅子が埋まっていたため、廊下の窓際に並んで立った。


「研究どうだった?」


「何も感じなかった」


 女子生徒が少し驚いた顔をする。


「それ大丈夫なの?」


「大丈夫。むしろ今日はそれが大事だった」


「また分かんないやつ」


「うん」


「でも嬉しそう」


「嬉しい八」


「八なんだ」


「最近数字で言うの慣れた」


「じゃあこの飲み物は?」


 アリシアは一口飲む。


 蜂蜜の甘さのあとに酸味が少し残る。


「七」


「厳しい」


「おいしいよ」


「じゃあ私の木苺は?」


「飲んでない」


「一口いる?」


 差し出された瓶を見て、アリシアは少し迷った。


「いいの?」


「その代わりそっちも一口」


「交換?」


「そう」


 二人で瓶を交換し、一口ずつ味を見る。


 木苺は思ったより酸っぱかった。


「六」


「低い!」


「酸っぱい」


「そこがいいのに」


「蜂蜜檸檬の方がいい」


 女子生徒が大げさに不満そうな顔をし、アリシアは笑った。


 研究の結果が綺麗に分かれ始めていることも嬉しい。


 でも、今こうして飲み物の味で言い合っていることも、同じくらい大事だった。


     ◇


 夜の生活観測区画には、昼間より強い風の音が届いていた。


 窓は閉めている。


 それでも木々が揺れる音が遠くで続き、ときどき枝同士が擦れる乾いた音が混じる。


 アリシアは机へ向かい、今日の記録を練習帳へまとめた。


『今日は条件選択に関わらず、試験直前まで実施条件を知らないまま参加した。試験中は前半、後半、滑らかな条件を順に予想したが、確認できる胸部冷感は最後まで出なかった』


 試験中の右上のむず痒さについても別に残す。


『右鎖骨付近に一瞬むず痒さがあったが、胸の内側ではなく、これまでの六つ目関連の感覚とも異なったため別記録。冷感としては扱わない』


 次に条件を書く。


『終了後、滑らかな十呼吸だったと開示された。意図的小変動はなし。東側奥部では小変動条件時のような追加低下はなく、西側でも明確な遅延弱波形は確認されなかった』


 そこで少し手が止まる。


 数字だけなら、とても綺麗だった。


 意図的小変動あり五回。


 五回とも一呼吸以内に弱い違和感。


 滑らかな十呼吸三回。


 三回とも確認できる冷感なし。


 アリシアはそれを文章として続けた。


『現在、意図的小変動を加えた五回ではすべて、変動開始から一呼吸以内に最初の弱い違和感がある。滑らかな十呼吸三回では、確認できる胸部冷感は出ていない』


 その下へ、少し間を空けて書く。


『ただし、これは六つ目が小変動そのものを感じている証明ではない』


 ノアが机へ乗る。


『今日は大きく書かなかったのね』


「大きくしたい気持ちはある」


『どのくらい?』


「八」


『高い』


「でもやめた」


『偉い偉い』


「子供扱いしないで」


 アリシアは少しむっとしながら続きを書く。


『小変動条件では、入力側の変化に近い時間に東側奥部の微小追加低下があり、私の違和感があり、その後に西側弱波形が出る。滑らかな条件では、その組み合わせが今のところ確認されていない。どれを六つ目が直接拾っているのか、あるいは共通する別の状態変化があるのかは未確定』


 ここまで書くと、昨日までより少しだけ研究の形が整理された気がした。


 強さの問題と、あるなしの問題。


 時刻の問題。


 東側と西側の順番。


 全部を一つにしなくていい。


 今は、分けて置いておく。


「今日、滑らかで何か感じてたらどうだったと思う?」


 ノアが聞く。


 アリシアは筆を止めた。


「がっかり七って昨日言ってた」


『実際なら?』


「たぶん七か八」


『でも記録する?』


「九」


『じゃあ今日何もなかったから安心した』


「うん。七くらい」


『素直』


「守りたい気持ちあるから」


 アリシアはそれも残す。


『滑らかな条件で無反応だったことに安心七。今の区別が残ってほしい気持ち六。ただし、次に滑らかな条件で冷感が出た場合も重要なので隠さず残したい九』


 最後に、研究以外のことを書く。


『授業では風の演習をした。外から風が入ったとき、強く押し返さず少し合わせて羽根を残せた。夕方は友達と飲み物を交換して飲んだ。蜂蜜檸檬七、木苺六。相手は木苺の方が好きだった』


 書き終わったところで、アリシアは少し笑った。


 練習帳の同じページに、東側奥部の追加低下と飲み物の味が並んでいる。


 以前なら変だと思ったかもしれない。


 今は、その方が自分らしい気がした。


 研究だけをして生きているわけではない。


 六つ目の神器に選ばれたからといって、そのことだけで一日が埋まるわけでもない。


 子供は今日、三つ目の交差候補が最初の二つと違うかもしれないことを受け入れた。


 顔のない存在の光は、人工刺激のある日でもない日でも変わる。


 自分の実験も、同じように綺麗な結果だけを積んでいく必要はない。


 明日は今日の比較をする。


 五回の小変動と三回の滑らかな条件を、同じ形式へ並べる。


 そこでまた、今まで見えていなかった違いが出るかもしれない。


『次は五対三を勝ち負けみたいに数えない。どの条件で、入力・東側奥部・私・西側のどこが一緒に変わり、どこが別に動いているかを見る』


 その一文を書き終え、アリシアは練習帳を閉じた。


 風が窓の外を抜け、木々の葉を大きく揺らしている。


 同じ風を受けても、全部の枝が同じようには動かない。


 それでも、同じ瞬間に揺れ始める枝がある。


 今見ている記録も、少しだけそれに似ていた。


 何が同じ原因から動き、何が別の理由で強さを変えているのか。


 まだ名前は付けられない。


 けれど、何も見えなかった頃とは違う。


 そして、その違いを急いで一つの答えへまとめないことも、今のアリシアにはできるようになっていた。

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