第195話 同じ後半寄りをもう一度使うなら、反応したかではなく始まる前から最後までを一つにして残す
朝の空には薄い雲が広がっていたものの、雨の気配はなかった。
生活観測区画の庭では、ここ数日続いた雨で柔らかくなった土を整えるため、学院の管理担当者が朝早くから植え込みの周囲へ細かな砂利を足している。金属製の小さな鋤が土へ触れる音が、ときどき開いた窓から室内まで届いた。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、両手を膝へ置いたまましばらく動かなかった。
昨日まで三日続けて、人工刺激は行っていない。
直近の無反応回を起点に、現在の制御試験六回を見直し、さらに古い反応候補と無反応記録まで開いた。その結果、入力側に似た揺れがあるだけでは、その後の東側奥部追加低下、自分の弱い感覚、西側の遅延弱波形が必ず現れるわけではないことが、以前より強く見えてきた。
けれど、それはまだ答えではない。
昨日の最後に残った問いは、もっと手前だった。
同じくらいの入力変化を与えたとき、東側奥部が追加で動く回と動かない回を、何が分けるのか。
今日は、久しぶりに人工刺激を行う可能性がある。
条件は知らされていない。
そもそも本当に今日実施するかも、朝の時点ではまだ確定していなかった。
「身体疲労一」
アリシアは練習帳へ書く。
痛みなし。
息苦しさなし。
胸の冷たさなし。
震えなし。
人工刺激へ参加したい気持ち七。
昨日までの分析を続けたい気持ち八。
結果が出てほしい気持ち六。
東側奥部の開始状態と結果が昨日までの候補に合ってほしい気持ち――。
そこで筆が止まった。
「八かも」
窓辺で外を眺めていたノアの耳が動く。
『高い』
「だって今日やるなら見たい」
『何を』
「刺激前の東側が平らだったら反応して、下がってたら出ないとか」
『まだそれ、候補でしょう』
「うん」
『なのに八』
「だから先生に言う」
アリシアは少し迷ったあと、数字を八のまま書いた。
「隠しても仕方ない」
『最近それは上手くなった』
「褒めてる?」
『半分』
「また半分」
ノアは返事をせず、庭を行き交う管理担当者の動きを追った。
◇
子供は朝から木箱の前に座っていた。
ただし蓋には触れていない。
机へ並べられているのは、交差三候補の複写と、ここ数日紙上で見つかった短線候補、それから交差一・交差二周辺の線を重ねた薄紙だった。
昨日までに、交差一と交差二を一本の大きな曲線としてつなぐ仮線を二案考えたが、どちらにも素直には収まらない短い線が見つかった。
その短線らしきものは別の複写にも近い位置で確認できたため、一枚だけの汚れとは言い切れなくなっている。
「今日は開ける?」
アリシアが聞くと、子供はすぐには答えなかった。
交差三候補の紙を見る。
木箱を見る。
もう一度紙へ戻る。
「開けたい五」
「見たいは?」
「交差三は九」
「触りたい?」
「一」
「怖さ」
「二」
数字としては十分に低い。
それでも、子供は蓋へ手を伸ばさなかった。
「今日は?」
「まだ決めない」
「朝に決めなくてもいいね」
「うん」
エルデン教師も横から口を挟まない。
見たい気持ちが九だからといって、それをそのまま開ける理由にはしない。逆に怖さが二だからといって、開けても問題ないと周囲が決めることもしない。
子供自身が、いつ見るかを選ぶ。
「交差三見るなら一か所だけ?」
「うん」
「短い線は?」
「別の日」
「周りの線も?」
「見ない」
「決まってるね」
「いっぱい見たくなるから」
子供は少し照れくさそうに言った。
アリシアはそれ以上勧めなかった。
◇
顔のない存在は、朝の観察では胸に四つの光を見せていた。
明るい一つと弱い三つ。
明るい光は中央より少し右上にあり、弱い三つは左上、中央下、右下に散っている。
子供は十一個の円へ位置を写し、昨日の夕方の図を横へ並べた。
「昨日と近いの、一個」
「同じ場所?」
「近いだけ」
顔のない存在は朝食前には歩かなかった。
一度だけ椅子から立ち上がり、数呼吸そのまま立位を保ったあと、また座る。
「立った。でも歩かなかった」
子供は歩数をゼロのまま残し、その横へ立位だけを書き足した。
アリシアは何も意味づけしなかった。
◇
朝食後、サーラと魔導具教師が生活観測区画へ来た。
今日は治療教師も一緒だった。
その姿を見ただけで人工刺激が確定したとは考えないよう、アリシアは自分へ言い聞かせる。治療教師が来る日は他にもあるし、昨日までスタッフの顔や配置そのものが条件を知らせる手がかりになると何度も確認してきた。
サーラはいつもの椅子へ座る。
「身体状態から確認します」
「疲労一。痛みなし、息苦しさなし、冷たさなし、震えなし」
「怖さ」
「二」
「人工刺激への参加希望」
「七」
「実施された場合、反応が出てほしい気持ち」
「六」
「東側奥部の開始状態と、その後の結果がここ数日の候補に合ってほしい気持ち」
「八」
サーラが筆を止める。
「高いですね」
「自分でも思った」
「具体的には、どうなってほしいですか」
アリシアはすぐ答えず、膝の上で指を組み直した。
「刺激前の東側が前より平らで、それで追加低下が出て、私も感じたら……やっぱりって思いそう」
「西側も?」
「後から出たら、もっと」
「逆の場合は?」
「開始状態が平らなのに何も出なかったら、候補弱くなる」
「そのときの残念さは?」
「五くらい」
「分かりました」
魔導具教師が記録を覗き込む。
「今日は、もし人工刺激を実施する場合でも、東側奥部の開始状態はアリシアさんへ事前には知らせません」
「終わったら?」
「確認します」
「私が予想するのは?」
「止めません。ただし、装置の値を見られない状態での予想なので、記録は別扱いです」
「分かった」
「それから重要な点があります」
魔導具教師は少し声を落ち着けた。
「東側奥部が平坦かどうかは、こちらが直接操作する条件ではありません」
「うん」
「今日もし刺激を入れるとしても、入力側を既存範囲に合わせるだけです。東側奥部がどういう開始状態になるかは、観測対象として残します」
「平らになるまで待ったりしない?」
「それをやると別の選別になります」
アリシアは少し考えてから頷いた。
「いい状態の時だけやったら、あとで分からなくなる」
「そういうことです」
今日は「反応しやすそうな日に試す」のではない。
参加可能な身体状態で、安全条件が整い、学院側が事前に決めた実施基準を満たしているなら、その時点の東側奥部開始状態ごと記録する。
それが平らでも、下がり気味でも。
結果が出ても、出なくても。
◇
午前の授業は、学院の掲示物を題材にした文章整理の演習だった。
長い案内文から必要な情報だけを抜き出し、「誰に」「いつ」「どこで」「何を」「何のために」伝えるかを整える。
アリシアの組には、いつもの女子生徒と、別の男子生徒が一人ずつ入った。
「これ長すぎない?」
女子生徒が配布された案内文を見て眉を寄せる。
内容は、来月から始まる選択授業の申し込みについてだった。
申し込み期間。
提出場所。
第一希望から第三希望まで記入すること。
定員超過時の扱い。
変更希望の締め切り。
注意事項が一枚へ詰め込まれている。
「全部大事そう」
男子生徒が言う。
「でも掲示なら、最初に何すればいいか分からないと読まないかも」
アリシアが紙の上を指で追う。
「締め切りと提出場所、上にした方がいい」
「選択授業名は?」
「それも」
「結局いっぱいある」
三人で苦笑する。
最終的には、最初の大見出しへ申し込み期間と提出先を置き、希望の書き方と定員超過時の扱いをその下へ分けた。
細かな例外は一番下。
教師が巡回してきて、三人の紙を見る。
「分かりやすいですね。ただ、変更締め切りが少し目立たなさすぎます」
「あ」
男子生徒が声を漏らす。
「そこ大事だった」
「下に埋めた」
女子生徒が笑う。
アリシアは変更締め切りの位置を一段上へ動かした。
「一個見やすくしたら、別の大事なの隠れた」
「よくあります」
教師はそう言って次の班へ移る。
女子生徒がアリシアを見る。
「全部目立たせたら結局全部目立たないし、難しいね」
「うん」
「研究も?」
「もっと」
アリシアが即答すると、二人が笑った。
「やっぱり?」
「候補いっぱいある」
「じゃあ今の掲示みたい」
「ちょっと似てるかも」
研究の話を詳しくするつもりはなかった。
でも、普通の授業の中で自然に一言だけ出るくらいなら、以前ほど身構えなくなっていた。
◇
昼前に生活観測区画へ戻ると、子供はまだ箱を開けていなかった。
「決めた?」
「午後、開けたい」
アリシアが近づく。
「交差三?」
「うん」
「今の数字は?」
「見たい九。箱開ける六。怖さ二。触りたい一」
「やりすぎそうは?」
子供は少し考える。
「六」
「昨日より高いね」
「紙でいっぱい見たから、本物見たら周りも見たくなると思う」
エルデン教師がそれを記録する。
「では、見る前に終了条件をもう一度決めよう」
「交差三だけ」
「光は?」
「最初はいつもの浅い角度。一回見て、必要なら反対から一回」
「周囲の線は追う?」
「追わない」
「短い線候補は?」
「見ない」
「布は?」
「動かさない」
「物体には?」
「触らない」
「見たい気持ちが十になったら?」
「閉じる」
「怖さが上がったら?」
「言う」
子供は一つずつ答えた。
実物確認は午後。
それ以上は今日やらない。
◇
昼食後、アリシアは治療教師の簡単な診察を受けた。
脈拍、呼吸、魔力の乱れ。
どれにも問題はない。
そのあと、人工刺激を実施する可能性があると正式に告げられた。
候補はこれまでと同じ範囲。
滑らかな十呼吸。
前半寄りの小変動。
後半寄りの小変動。
どれが選ばれているかは知らされない。
アリシアは開始直前の時点でも参加意思八、怖さ二。
痛み、息苦しさなし。
そしてもう一度、自分の意思で開始に同意した。
◇
観測室の中は、これまでとほとんど同じ配置だった。
アリシアが座る椅子。
前方の机。
サーラ。
治療教師。
ノアは少し離れた定位置。
条件を知る設備担当者と若い観測員は、今日も別室側にいる。
見える範囲の人間がどの条件でも同じように動くよう、準備の順番まで統一されていた。
アリシアは両手を膝へ置く。
呼吸を整える。
今、自分が一番気にしているのは、小変動の位置ではなかった。
東側奥部の開始状態。
ただし、その値は見えない。
だから想像しても分からない。
「開始前、何か予想ありますか」
サーラの問いも、候補に触れない一般的なものだった。
「条件は分からない。東側が平らだったらいいなって思ってる八」
「身体の感覚は?」
「ゼロ」
「胸部冷感」
「ゼロ」
「探索している感じ」
「五」
「では、そのまま残します」
準備が進む。
アリシアは目を閉じなかった。
呼吸の数を数えすぎないようにする。
正確な開始時刻を自分で特定しようとすると、そこから前半・後半の予想へ引っ張られることはすでに分かっていた。
何かを感じたら言う。
感じなければ言わない。
それだけに戻す。
数呼吸が過ぎた。
何もない。
胸の奥はいつも通り。
肩へ服が触れる感覚、背中が椅子へ当たる感覚、指先の温度。
普通の身体感覚はいくつもある。
けれど、これまで六つ目関連として記録してきた冷たさとは違う。
「胸、ゼロ」
アリシアが静かに申告する。
「ほかに気になる感覚は?」
「右の手首ちょっと痒い。でも別」
「記録します」
また時間が進む。
途中で、アリシアは「今日は滑らかかもしれない」と思った。
直近の無反応回でも、反応がなかなか来なかったため滑らかを予想していた。
その記憶が頭へ浮かぶ。
「今、滑らか予想六」
「理由は?」
「まだ何もないから」
「了解です」
その予想のあとも、すぐには何も起きない。
アリシアは自分が胸の奥を探していることに気づき、探索傾向を六と申告した。
その数値を口へ出したことで、少しだけ力が抜ける。
探したからといって、ないものを作らない。
しばらくして。
胸の中央よりほんの少し右側。
深いところに、冷たさとは言い切れない小さな違和感が触れた。
アリシアの眉がわずかに動く。
「……何か、〇・二くらい」
サーラは表情を変えない。
「冷たさですか」
「まだ分からない。違和感」
「位置」
「中央より少し右。深い」
アリシアはそれ以上言葉を足さない。
感覚は消えず、次の呼吸でほんの少し輪郭がはっきりした。
「冷たい。〇・三」
声は小さい。
「方向は?」
「東……かもしれない。でも低い。二か三」
「震え」
「なし」
「痛み、息苦しさ」
「なし」
冷たさは強くならなかった。
〇・三ほどのまま一呼吸に届かない程度で薄れ、その後は胸の奥から消えた。
「ゼロに戻った」
アリシアが告げる。
室内は静かなままだ。
誰も結果らしい反応を見せない。
ノアも口を閉ざしている。
試験は規定時間まで続き、最後まで新しい冷感はなかった。
◇
終了後、アリシアは少しだけ背もたれへ身体を預けた。
「疲労二」
「怖さは?」
「二」
「結果を知りたい」
「十に近い九」
「やりすぎそうな気持ち」
「六」
「では、身体確認のあとで開示します」
「すぐじゃないの?」
「先に状態確認です」
アリシアは不満そうに見えたが、素直に治療教師の診察を受けた。
異常なし。
冷感残留なし。
胸痛なし。
呼吸問題なし。
魔力の乱れも確認されない。
そこでようやく、設備担当者と若い観測員が別室から入ってきた。
若い観測員は三枚の記録板を抱えていた。
アリシアの視線が一気にそこへ集まる。
「まず条件から?」
「はい」
魔導具教師が一枚目を机へ置いた。
「今日の実際条件は、後半寄りの意図的小変動です」
アリシアの目が少し大きくなる。
「また後半?」
「はい」
「直近で反応しなかったのと同じ候補」
「候補区分としては同じです。波形が完全一致という意味ではありません」
「小変動の幅は?」
「既存の安全範囲内。直近無反応回と大きく外れていません」
「形は?」
「それは後で比較します」
アリシアはすでに次の紙を見たがっていた。
「東側」
「その前に、今日一番見たかった開始状態です」
魔導具教師が二枚目を開く。
アリシアは呼吸を少し止めた。
小変動が入る直前の東側奥部基線。
今日の記録は、直近の無反応回より明らかに平坦だった。
完全な水平ではない。
自然な細かな変動はある。
それでも、ここ数日比べてきた平均傾斜で見るなら、過去の反応あり五回の中心付近に入る。
「平ら……」
「直近無反応回よりは」
「変動幅は?」
「中程度です」
「反応ありの範囲?」
「入っています」
アリシアの胸に、試験中とは別の熱が上がる。
嬉しい。
その気持ちはすぐに分かった。
「嬉しい八」
サーラが記録する。
「候補に合った嬉しさですか」
「うん」
「原因だと思いたい気持ち」
「九」
『出た』
今まで黙っていたノアが初めて口を開いた。
「だって」
『先に九って言えるだけマシ』
「分かってる。まだ原因じゃない」
アリシアは紙から一度目を離した。
「次見たい」
◇
東側奥部の本体記録が開かれる。
入力側の後半寄り小変動が入った直後。
ほぼ同じ時間帯に、東側奥部へ小さな追加低下が現れていた。
直近の無反応回では見つからなかった、基線からもう一段だけ落ちる微小変化。
大きさは、過去の後半寄り反応回の中では小さい側。
しかし測定誤差だけでは片づけにくい。
「ある」
「あります」
「私が感じた時刻は?」
若い観測員が別紙を重ねる。
アリシアが最初に「〇・二くらいの違和感」と申告した位置は、小変動開始から一呼吸以内。
東側奥部追加低下も同じ窓に入る。
どちらが先かは、今日も決められない。
「また近い」
「はい」
「冷たさ〇・三になったのは、その少し後」
「申告上はそうです」
「でも感じ始めと報告の遅れある」
「あります」
「じゃあ順番決めない」
「そうしてください」
アリシアは強く頷いた。
そして三枚目。
西側記録。
そこには、東側奥部追加低下とアリシアの感覚候補より少し遅れて、弱い波形が一つ現れていた。
大きさは小さい。
ただし直近の無反応回で見られなかった種類の遅延弱波形だった。
「三つ戻った」
アリシアが呟く。
「東側、私、西側」
「はい」
「入力は同じ後半寄りで、前は三つなし。今日は三つあり」
「そこが今日の重要点です」
魔導具教師は入力記録も隣へ並べる。
「だから、“後半寄りの意図的小変動なら反応する”でもありません」
「分かってる」
「同じ候補区分でも、結果が分かれた」
「うん」
「そして今日は、開始前の東側奥部基線が直近無反応回より平坦でした」
アリシアは紙へ視線を戻した。
「候補に合ってる」
「一回増えただけです」
「それも分かってる」
言葉は少し強かった。
嬉しさが大きい。
だからこそ、先生たちが慎重な言い方をすることも理解できる。
理解できるけれど、嬉しいものは嬉しい。
「でも、嬉しい」
「それはそのままでいいです」
サーラが穏やかに言う。
「八?」
「まだ八」
「残してください」
◇
そこで、直近無反応回と今日の反応回を並べた。
どちらも後半寄り。
意図的小変動の最大幅は近い。
基礎出力も大きくは離れていない。
小変動位置も同じ候補帯。
ただし完全に同一波形ではない。
今日の方が立ち上がりがわずかに丸く、戻りもほんの少し遅い。
直前入力側の自然揺れは、直近無反応回では二度連続していたのに対し、今日は目立つ揺れが一度だけ。
そして東側奥部開始状態は、今日はより平坦だった。
「違うの三つくらいある」
アリシアが言う。
「大きく分ければ」
「入力の直前揺れ、入力の細かい形、東側の開始状態」
「はい」
「どれが効いたか分からない」
「そうです」
アリシアは少しだけ口を尖らせた。
「せっかく反応戻ったのに」
『一個の原因まで付いてくると思った?』
「少し」
『欲張り』
「知ってる」
若い観測員が、今日の追加低下量を過去の後半反応回と比較する。
今日は小さい側だった。
アリシアの冷感も〇・三。
西側弱波形も小さい。
この三者の「強さ」がまた大まかに近い方向へ並んで見える。
けれど、過去の前半条件まで広げると綺麗な比例関係にはならない。
「発生したかどうかと、強さは分ける」
アリシアが自分から言う。
「はい」
「今日は発生した方」
「そうです」
「開始状態が平らだったのが発生に関係する候補。でも冷たさ〇・三だった理由までは別」
「その整理でいいです」
アリシアは練習帳へ二本の線を引いた。
一つ目は「出る/出ない」。
二つ目は「出た後の大きさ」。
同じ紙に書いても、混ぜない。
◇
今日は二回目の刺激を行わなかった。
人工刺激は一条件のみ。
身体にも問題はないが、反応が戻ったからもう一度確かめよう、とはしない。
「もう一回やりたい気持ち?」
サーラに聞かれ、アリシアは少し考えた。
「七」
「高いですね」
「でもやらない」
「理由は?」
「今やったら、同じ条件でも開始状態変わるかもしれないし、今日の一回をちゃんと見る方が先」
「分かりました」
「あと嬉しいから、もう一回同じ結果欲しくなる」
「それも残します」
「七」
『自己申告が忙しい』
ノアが言い、アリシアは少し笑った。
◇
人工刺激後の休憩が終わる頃、子供が木箱を開けることを決めた。
アリシアの試験とは時間を分け、観測者も必要最小限にする。
子供の数字は、交差三候補を見たい九。
箱を開ける六。
怖さ二。
触りたい一。
やりすぎそう六。
あらかじめ決めた通り、今日は交差三候補一点だけ。
木箱の蓋がゆっくり開かれる。
布は動かさない。
暗色の細長い硬質物も、見えている範囲から一切動かさない。
浅い線刻が、斜めから差し込む光の中へ浮かび上がった。
「ここ」
子供が指ではなく、紙上の対応位置を示す。
エルデン教師が光をいつもの基準角度へ合わせる。
交差三候補。
複写では二本の線が重なっているように見えた場所だ。
最初の角度から見ると、一方の線は確かにもう一方へ近づいている。
そして交差部らしき位置で、かなり浅くなる。
「先、ある?」
子供が小さく聞く。
「急がず見よう」
光は動かさず、全員が少し姿勢を変えて観察する。
浅くなった線は、交差位置を越えた先にも、ほんの短い区間だけ続いているように見えた。
ただし、真正交差一・二ほどはっきりしていない。
「続いてる……?」
子供の声にも迷いがある。
「候補」
エルデン教師が言う。
「一方向だけなら、交差後に続いているように見える」
「反対から見る?」
「続けられますか」
「うん。怖さ二。見たい九」
光を反対側の浅い角度へ移す。
今度は、先ほど続いて見えた部分の輪郭が弱くなった。
完全に消えるわけではない。
しかし、真正交差一・二のように「片方が交差位置で一度見えにくくなり、その先で再びはっきり続く」とまでは言えなかった。
「違う」
子供が呟く。
「一と二ほどはっきりしないね」
「交差じゃない?」
「それもまだ決めない」
エルデン教師は紙へ記録する。
交差三候補。
第一方向では交差後の短い続きらしき線分あり。
逆方向では続きが弱く、摩耗、浅刻、汚れ、接近・終端との差を排除できない。
真正交差一・二より確度低。
「弱い交差候補?」
アリシアが言う。
「それが一番近い表現でしょう」
「三個目確定じゃない」
「はい」
子供は少し残念そうだった。
「残念四」
「見たい気持ちは?」
「十」
その瞬間、子供自身が蓋へ手を伸ばした。
「閉じる」
「うん」
決めていた通りだった。
周囲の短線候補を見たい気持ちはある。
このまま少し光を動かせば、近くの線も見える。
けれど今日は見ない。
木箱の蓋がゆっくり閉じられた。
「見たかった」
閉じたあとで子供が言う。
「うん」
「でも十だった」
「ちゃんと止められた」
「残念四」
「明日消えるかも」
「消えなくてもいい」
子供が答えた。
アリシアは少し驚き、それから笑った。
「それ、私が朝言ったやつみたい」
「聞いてた」
『また聞かれてた』
ノアの声に、子供が小さく笑った。
◇
夕方、顔のない存在は四歩進んだ。
最初に一歩。
少し止まって二歩。
最後に一歩。
胸の光は、朝の明るい一つと弱い三つから、明るい二つと弱い一つへ変わっていた。
総数は四から三へ減っている。
「朝歩かなかった。夕方四歩」
子供が記録する。
「朝は立っただけだったね」
「うん」
「光は?」
「三つ」
「変わった時見た?」
「見てない」
「じゃあそこまで」
今日は人工刺激があった。
でも、顔のない存在の光や歩行と結びつけることはしない。
観察時間も変化時刻も一致していない。
◇
夕方の学院では、選択授業案内の新しい掲示が張り出されていた。
午前の授業で使った模擬案内とは別物だが、内容は似ている。
アリシアが廊下を歩いていると、同じ演習班だった男子生徒が掲示板の前で腕を組んでいた。
「分かりやすい?」
「何が?」
「今日やったから気になる」
アリシアも隣へ立つ。
申し込み期間は上部。
提出場所も大きい。
変更締め切りは、その少し下へ目立つ囲み付きで置かれている。
「授業のより分かりやすい」
「本物だからな」
「先生が作ったのかな」
「俺らが作ったら締め切り一個埋めたし」
「直したでしょ」
「途中でな」
別の女子生徒も掲示を見に来る。
「何選ぶ?」
急に聞かれ、アリシアは少し考えた。
「まだ決めてない」
「研究系?」
「それ以外も見たい」
「意外」
「なんで」
「絶対研究系だと思った」
アリシアは一瞬だけ言葉を止めた。
以前なら、自分でもそう思っていたかもしれない。
六つ目のことを知りたい。
東側地下も知りたい。
でも、それだけが学院へいる理由ではなくなってきている。
「普通のも見たい」
「じゃあ一緒に案内見ようよ」
「今?」
「今じゃなくても。締め切りまだ先だし」
「うん」
それだけの約束だった。
具体的な日も時間も決めない。
でも「一緒に見る」という言葉を、アリシアは以前ほど怖がらなかった。
◇
夜。
生活観測区画は静かだった。
窓の外では風が少し戻り、庭の木々が低い音を立てている。
アリシアは机へ座り、今日の記録を開いた。
最初に朝の気持ちを書く。
『試験前、東側奥部の開始状態と結果が、ここ数日の候補に合ってほしい気持ち八。結果が出てほしい六』
次に実際条件。
『候補非通知。実際条件は後半寄りの意図的小変動。直近の無反応回と同じ候補区分だが、詳細波形は完全同一ではない』
身体反応。
『小変動後一呼吸以内の範囲で、深部の違和感約〇・二。続いて胸部冷感約〇・三。中央より少し右。東方向の確信は低い。震えなし。痛み、息苦しさなし』
東側奥部。
『小変動直前の開始状態は、直近無反応回より平坦。平均傾斜は過去反応あり回の範囲内。変動幅は中程度。小変動付近で微小な追加低下あり』
西側。
『東側追加低下・主観反応より後に、小さい遅延弱波形あり』
そこまで書いたあと、アリシアは少しだけ筆を浮かせた。
今日の結果は、ここ数日考えていた候補にかなり合っている。
直近無反応回。
後半寄り小変動あり。
東側開始状態は低下傾向が強め。
東側追加低下なし。
自分の冷感なし。
西側遅延弱波形なし。
今日。
同じく後半寄り小変動あり。
東側開始状態はより平坦。
東側追加低下あり。
自分に弱い冷感あり。
西側遅延弱波形あり。
「綺麗」
アリシアが呟く。
『また怖いやつ?』
ノアが机へ飛び乗る。
「嬉しい方が大きい」
『原因だと思いたい九』
「まだ八くらいある」
『一個下がった』
「細かい波形も違うから」
アリシアは続きを書いた。
『今日の一回は、“東側奥部の直前状態が比較的平坦な時に追加低下が出やすい”候補と整合する。ただし、直近無反応回との差は開始状態だけではない。入力側の直前自然揺れ、意図的小変動の細かな立ち上がり・戻りにも差があるため、開始状態だけを原因とはしない』
さらに、発生と強さを分ける。
『今日の追加低下・主観冷感・西側弱波形はいずれも小さい側。発生有無の候補と、発生後の大きさを決める条件は分けて考える』
ノアが紙を見下ろす。
『今日は反応戻ってよかった?』
「うん」
『反応しない方が情報増えたかもよ』
アリシアは少し考える。
「それでも今日は嬉しい」
『じゃあそれでいい』
「でも、直近の無反応も消えない」
『消したら今日との比較できないしね』
「うん」
アリシアはその言葉を別の形で記録する。
『今日反応したことで、直近無反応回が間違いになるわけではない。むしろ同じ後半寄り候補で結果が分かれたため、候補名だけでは足りないことがはっきりした』
子供の欄へ移る。
『子供は交差三候補を実物で一点だけ確認。第一浅角度では交差後に短い続き候補が見えたが、逆角度では弱く、真正交差一・二と同じ挙動とは確認できなかった。交差三候補は“弱い交差候補”として保留。見たい気持ち十で予定通り閉じた。短線候補や周囲の線は見ていない』
日常。
『文章整理の授業で選択授業案内を作った。夕方、本物の選択授業案内を見た。研究系だけではなく、普通の授業も見たいと答えた。友達と今度案内を見るかもしれない』
最後に、今日一番大事だと思うことを書く。
『これからは、入力条件だけではなく、刺激が入る直前の東側奥部開始状態を必ず同じ窓で記録する。ただし、その状態によって実施日を選別しない。平坦でも傾いていても、そのまま結果と組にして残す』
アリシアは筆を止めた。
もし「平らなときだけ試す」ようになれば、平らでない日に何が起こるかを失う。
直近の無反応回が価値を持ったのは、まさに自分たちの望む状態を選ばなかったからだった。
だから、東側奥部の開始状態は「整えるもの」ではなく、「見るもの」。
今はそれでいい。
「ノア」
『何』
「次、平らじゃない日に当たったら、ちょっと嫌かも」
『反応しないかもしれないから?』
「うん」
『で、やめる?』
アリシアは首を横へ振った。
「安全なら、やる」
『じゃあいいんじゃない』
「でも嫌は嫌」
『それも書いとけば』
アリシアは少し笑い、最後に小さく書き足した。
『次に東側奥部が低下傾向の開始状態だったら、反応しない結果を予想してしまうと思う。予想したこと自体を事前記録し、その予想に合わせて試験を中止したり条件を変えたりしない』
練習帳を閉じる。
今日、六つ目は再び弱く冷えた。
けれど、そのこと自体よりも大事なのは、同じ後半寄りという名前の中で、反応した日と反応しなかった日が並んだことだった。
違いは、小変動の瞬間だけにはなかった。
その前から東側奥部がどう動いていたか。
入力側がどんな細かな形を持っていたか。
まだ候補はいくつも残っている。
だから次に必要なのは、新しい刺激を増やすことではない。
同じ範囲の中で、違う始まり方の日をもう一度拾うことだった。




