第186話 揃ってきた時刻を確かめるために、次に何が来るかを決めるところから離れる
雨上がりの朝は、昨日までとは違う匂いがした。
夜のうちに雲が東へ流れたらしく、生活観測区画の窓から見える空には薄い青色が戻っている。庭の石畳にはまだ水が残り、朝日が差すたびに細かな光を返していた。濡れた土と葉の匂いが窓の隙間から入り込み、遠くでは学院へ向かう生徒たちの話し声が、いつもよりはっきり聞こえてくる。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、胸の中央へ手を当てた。
昨日は人工刺激を行っていない。四回分の記録を細かく分けて比較しただけで、地下へも入らず、生活観測区画と授業の間を行き来して一日を終えている。
そのため身体は軽かった。胸部の冷たさや震えはなく、痛みも息苦しさもない。頭痛や腕の重さもなく、疲労を数字にするなら一程度だった。
「今日、試験できると思う」
窓辺で前脚を伸ばしていたノアが、ゆっくり顔を上げる。
『身体が、でしょ』
「うん」
『気持ちは?』
アリシアはすぐには答えず、枕元から練習帳を取った。
昨日までは、次の人工刺激も三候補方式を続けたい気持ちが七だった。ただ、何を選ぶのかを自分の前で話されると、その時点で期待が生まれることも分かっている。
前半寄りが有力だと聞いてしまったとき、自分は実際の条件を知らないのに前半を待った。
それでも、実際の小変動が来る前には冷感が出なかった。
その記録は大切だった。
けれど、毎回わざと期待を作って試す必要はない。
「参加したいは八」
『高い』
「今日やりたいは……六」
『微妙』
「やってもいい。でも、今日何をやるか決めるところにはいたくない」
ノアの耳が動いた。
『昨日より一歩進んで面倒なこと言い始めたわね』
「だって、私が前半がいいとか後半がいいとか言ったら、それだけで待つでしょ」
『滑らかがいいって言っても待つ』
「うん」
『何も言わなくても何か待つ』
「それは……そう」
『人間って不便』
「猫は?」
『待ってるふりして寝る』
「役に立たない」
『失礼ね』
アリシアは少し笑いながら練習帳へ書き込んだ。
身体状態は良好。参加意思八。今日実施六。条件を知りたい気持ちは七。自分で条件選択へ関わりたい気持ちは二。
最後の数字を書いたところで、少しだけ手が止まる。
「二なんだ」
『自分で書いたんでしょうが』
「前なら九くらいあった気がする」
『前なら条件どころか、刺激の強さまで横から口出してたんじゃない?』
「そこまではしてない」
『似たようなものよ』
言い返そうとして、やめた。
全部を知りたいと思っていた頃があった。
何が起きるか、いつ起きるか、次に何を試すか。知らないことが怖かったから、知ることで自分の側へ引き寄せようとしていた。
今は、知らない方が価値を持つ場面があると分かる。
それは少し怖い。
でも、怖いまま任せることもできるようになっていた。
◇
子供は朝食前から、木箱ではなく複写の束を机へ広げていた。
昨日、新しい交差候補を浅角度の光で確認した結果、最初に見つけた交差候補と似た影の出方が二か所で確認されている。どちらも、一方の線が重なる場所でいったん見えにくくなり、その先で再び続いているように見えた。
ただし、それが「あとから刻まれた線が上を通っている」証拠なのかは、まだ分からない。
「今日は箱開ける?」
アリシアが机の向こうから尋ねると、子供は首を振った。
「今日は紙」
「見たい気持ちは?」
「線を知りたいのは九。箱開けたいのは三」
「下がったね」
「昨日見たから」
子供は三枚の複写を横へ並べた。
「三個目探す」
「交差?」
「うん。でも同じのじゃないのも探す」
「違うの?」
「前の二個と違う重なり方があったら大事って言ってた」
アリシアは小さく頷いた。
「そうだね」
『二人して都合の悪いもの探すのが趣味になってない?』
「趣味じゃない」
「大事」
子供まで真顔で答えたので、ノアは一瞬黙った。
『……増えた』
「何が?」
『面倒なのが』
子供が笑う。
アリシアもつられて笑い、朝の生活観測区画には少しだけ軽い空気が広がった。
顔のない存在は、その声の近くで静かに椅子へ座っている。
子供は笑いが収まってから、新しい十一個の円を描いた紙を持って近づいた。
今朝見える胸の光は、明るい二つと弱い一つだった。
昨日夕方は明るい二つと弱い二つだったが、先に現在位置を記録する。中央寄りに明るい一つ、右下寄りにもう一つ。弱い光は左上側に見え、少し身体の角度を変えると輪郭が曖昧になった。
「今は三つ」
子供はそれだけを口にし、位置を書き終えてから昨日の記録を隣へ置いた。
「一個近い。二個違う。昨日の弱い一個は今見えない」
「消えた?」
アリシアが聞くと、子供は少し考えてから首を横へ振った。
「見えないだけ」
「うん」
それ以上は決めない。
顔のない存在も立とうとはせず、歩行欄は空白のまま朝の記録を終えた。
◇
朝食を終えてしばらくすると、サーラと治療教師が生活観測区画へやって来た。
今日は魔導具教師も設備担当も一緒ではない。
そのことに気づいたアリシアは、昨日までなら「今日は試験しないのかもしれない」と考えていたかもしれない。
今も、その考え自体は浮かんだ。
けれど口にはしなかった。
「身体を見ますね」
治療教師の声に頷き、椅子へ座る。
胸部の冷感や震えはなく、痛みと息苦しさもない。頭痛、腕の重さ、魔力循環にも問題は見つからず、疲労は本人申告と同じく一程度だった。
確認が終わると、サーラが記録用紙を開いた。
「参加意思は?」
「八」
「今日実施したい気持ちは?」
「六」
「怖さは?」
「二」
「条件を知りたい気持ちは?」
「七」
ここまでは朝と同じだった。
サーラは一度だけ紙へ視線を落とし、それから尋ねる。
「結果に対する希望はありますか」
候補名は出さない。
前半、後半、滑らか。
どれが来てほしいかも聞かない。
アリシアはその質問の仕方に気づいたが、それ自体を深く考えすぎないよう、今ある気持ちを探した。
「今までの形に合ってほしい気持ちは……五」
「崩れても記録したい気持ちは?」
「九」
「何か感じたい気持ちは?」
「五」
「何も感じない結果でも受け取りたい気持ちは?」
「八」
サーラは数字だけを記録する。
「今日、実施する可能性があります」
「可能性?」
「はい」
「やるって決まってない?」
「私からお伝えするのはそこまでです」
胸の奥に、小さな緊張が生まれた。
これまでは「今日は人工刺激を行う」と決まってから試験室へ向かうことが多かった。今日は、まだその手前にいる。
「私が決めるところにいないようにするため?」
「それもあります」
「誰が決めるの?」
「アリシアさんが今ここで知る必要はありません」
「……うん」
知りたい気持ちが七から八へ上がった。
それを申告すると、サーラは静かに書き加える。
「嫌ですか」
「嫌じゃない。気になる」
「怖さは?」
「三」
「続けられますか」
「うん」
アリシアは膝の上で指を組んだ。
条件を知らないだけではない。
今日、本当に試験をするのかさえ、この時点では確定情報として渡されていない。
ただし、本人の同意なく突然刺激されるわけではない。
もし実施するなら、その前に試験室へ入り、身体確認をして、開始の同意をする。
そこは変わらない。
知らない部分と、自分が選べる部分が分かれている。
それを確認すると、怖さは三のまま上がらなかった。
◇
午前の授業は、学院の中庭に近い演習室で行われた。
雨が上がったため窓が大きく開けられ、湿った風が教室の中を通っている。机の上には色の違う小さな魔石がいくつも置かれ、今日はそれを魔力の性質ごとに分類する課題だった。
アリシアは最近話すようになった女子生徒とは別の組になった。
同じ卓にいるのは男子生徒二人と、ほとんど話したことのない女子生徒一人。
最初は少し緊張した。
研究関係の大人と話すことには、ずいぶん慣れた。
けれど、同年代の知らない相手と何でもない話をする方が、今でも難しいことがある。
「これ、土じゃない?」
向かいの男子生徒が褐色の魔石を持ち上げる。
「色だけなら」
もう一人が答える。
「色だけじゃ駄目なの?」
「先生、見た目で決めるなって最初に言ってた」
「聞いてなかった」
小さな笑いが起きる。
アリシアは魔石へ指先を近づけ、流れている魔力を慎重に読む。
「風だと思う」
三人の視線が集まり、肩がわずかに固くなった。
「何で?」
「表面じゃなくて、中の流れが軽い。土ならもう少し……留まる感じがあるから」
言葉を探しながら説明する。
女子生徒が同じように魔力を探り、目を丸くした。
「本当だ。これ風だ」
「色、罠じゃん」
「だから先生が言ったんでしょ」
今度はアリシアも笑えた。
少し離れた卓では、いつもの女子生徒がこちらを見ている。
目が合うと、何も言わずに親指を立てられた。
何に対してなのか分からない。
たぶん、知らない相手と普通に話していることに気づいたのだろう。
アリシアは少し恥ずかしくなり、視線を魔石へ戻した。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
授業の終わりには、最初ほとんど話したことのなかった女子生徒から「これも見てもらっていい?」と自然に魔石を渡された。
「私が決めていいの?」
「一緒に見るだけ」
「それなら」
二人で確認し、結局どちらも分からなくなって教師を呼んだ。
正解は水だった。
「全然違った」
「二人とも外れたね」
「うん」
顔を見合わせて笑う。
正解できなかったことより、分からないまま一緒に教師を呼べたことの方が、アリシアには少し嬉しかった。
◇
授業後、廊下へ出ると、いつもの女子生徒が追いついてきた。
「今日、普通だったね」
「何が?」
「知らない子と喋ってた」
「見てたの?」
「見える位置だったから」
「恥ずかしい」
「なんで?」
「分かんない」
女子生徒は笑いながら、階段の手前で立ち止まった。
「午後は?」
「まだ分からない」
「研究?」
「するかもしれないし、しないかもしれない」
「何それ」
「私も知らない」
「じゃあ暇だったら図書室来る? 地理の課題やるから」
アリシアは一瞬だけ返事を迷った。
午後に試験が入れば行けない。
入らなければ行ける。
「行けたら行く」
「それ、来ない人が言うやつ」
「本当に分からないの」
「じゃあ来たら席空ける」
「うん」
女子生徒はそれだけ言って、別の廊下へ曲がっていった。
約束とは少し違う。
来られなくても怒られない。
来られたら席がある。
アリシアは、その曖昧さが心地よかった。
◇
昼前に生活観測区画へ戻ると、子供はまだ木箱を開けていなかった。
複写の上には、小さな印が三つ増えている。
「見つけた?」
「三個ある」
「交差?」
「一個はたぶん。二個は分からない」
子供は一番左の複写を指した。
線が緩く曲がった先で別の線へ重なるように見える場所がある。ただし、これまで確認した二か所より線が浅く、複写だけでは本当に交差しているのか判断しにくい。
「これ見たい?」
「八」
「箱は?」
「四」
「今日開ける?」
「開けない」
「何で?」
「昨日開けたから」
子供は迷いなく答えた。
「紙でまだ見れる」
「そっか」
自分で止まる理由が、「怖いから」だけではなくなっている。
まだできることがあるから、箱を開けない。
アリシアはそれを聞き、少しだけ嬉しくなった。
◇
顔のない存在は昼前に立ち上がった。
最初に二歩進み、そこで長めに止まる。次に一歩、そのあと少し間を置いて二歩進み、合計五歩で窓辺の椅子へ腰を下ろした。
子供は歩数だけでなく、区切り方も記録する。
胸の光は朝と同じく明るい二つと弱い一つだったが、朝に見えにくかった弱い光は今の方が少し輪郭を捉えやすい。
「数は同じ。弱いのは今の方が見える」
位置も記録する。
朝と完全には重ならない。
それでも、意味は付けない。
窓の外では雲がさらに薄くなり、濡れた庭へ明るい日差しが落ち始めていた。
◇
昼食を終えたあと、サーラがもう一度やって来た。
今度は治療教師も一緒だった。
その二人を見た瞬間、アリシアの胸の奥に緊張が走る。
「試験?」
「実施できますか」
質問はそれだけだった。
条件は言わない。
候補も言わない。
アリシアは自分の身体へ意識を向けた。
午前の授業による疲れは少しある。
疲労二。
痛み、息苦しさ、冷感、震えはない。
怖さは、朝より一つ上がって四。
「できる」
「参加意思は?」
「八」
「停止したい気持ちは?」
「一」
「条件を知りたい気持ちは?」
「九」
正直に答える。
サーラは表情を変えずに記録した。
「それでも、知らないまま開始することへ同意しますか」
アリシアは数秒黙った。
条件を知りたい。
ものすごく知りたい。
前半なのか。
後半なのか。
滑らかなのか。
昨日、四回を細かく分けて見たせいで、どの条件が来ても気になることが増えている。
もし前半なら、また〇・三程度なのか。
後半なら〇・四以上になるのか。
滑らかなら、三回目も何も感じないのか。
どれも見たい。
だからこそ、今は知らない方がいい。
「同意する」
言葉にすると、緊張が少しだけ強くなった。
怖さは四のまま。
五には上がらない。
「では試験室へ移動します」
◇
試験室は、以前より静かに感じられた。
設備担当も若い観測員も見えない。魔導具教師はいるが、アリシアの正面からは記録板が見えない位置に座っている。
サーラと治療教師の位置も、前回と同じだった。
椅子へ腰を下ろすと、背中に冷たい感触が伝わる。
窓は閉じられている。
外の音はほとんど届かず、魔導具の低い駆動音だけが床の下から微かに響いていた。
ノアはいつもの場所へ座った。
今日は何も言わない。
アリシアは一度だけノアを見る。
金色の目がこちらを見返した。
それだけで十分だった。
「最終確認です」
治療教師が静かな声で言う。
疲労二、怖さ四、痛みと息苦しさはゼロ。冷感、震えもなく、頭痛や腕の重さもない。参加意思八、停止意思一。
サーラが続ける。
「何かを探してしまいそうな気持ちは?」
「六」
「反応してほしい気持ちは?」
「五」
「無反応でも受け取りたい気持ちは?」
「八」
「条件を推測していますか」
アリシアは迷った。
「してる」
「内容は聞きません。推測の強さだけ」
「六」
「分かりました」
これまでなら、何を予想しているかまで記録したかもしれない。
今日は聞かない。
アリシアの頭の中には、三つ全部が浮かんでいた。
前半かもしれない。
後半かもしれない。
滑らかかもしれない。
そのどれかを一番にしようとすると、待ち始めてしまう。
「始めますか」
「うん」
同意を確認してから、試験が始まった。
◇
低い駆動音がわずかに変わった。
アリシアは呼吸を数えない。
胸の中央へ意識が集まりすぎないよう、正面の壁を見る。
木目の一本が、途中で緩く曲がっている。
そこへ視線を置きながら、自分の身体だけを完全に忘れない程度に待つ。
最初は何もない。
「感覚なし」
サーラが記録する。
少し時間が経つ。
アリシアの中で、前半かもしれないという考えが浮かんだ。
すぐ申告するべきか迷い、今は候補名そのものを聞かれていないことを思い出す。
「推測が七に上がった」
「記録します」
「探したいも七」
「怖さは?」
「四」
感覚はない。
胸の中央も、左右も静かだった。
さらに時間が進む。
前半を過ぎた気がする。
けれど呼吸を数えていない以上、それ自体が正しいか分からない。
次に、滑らかな条件かもしれないという考えが強くなる。
「推測変わった」
「強さは?」
「七」
「感覚は?」
「ない」
アリシアは自分の指先が少し強く膝を押していることに気づき、力を抜いた。
反応してほしい気持ちが上がっている。
「反応ほしい、六」
「記録します」
「でも探してるのも七」
何も起きない。
昨日までの形が頭にある。
小変動が入れば、一呼吸以内に何か来るかもしれない。
滑らかなら来ないかもしれない。
その知識を消すことはできない。
だから、今感じていないという事実だけを口にする。
「まだゼロ」
時間が進む。
そして、不意に胸の奥へ意識が引かれた。
冷たい、とはまだ言えない。
けれど何かが触れたような、ごく薄い違和感がある。
「……何かあるかも」
声を出した瞬間、自分でも緊張が上がるのが分かった。
「場所は?」
「中央。少し右かも」
「冷感ですか」
「まだ分からない」
「強さは?」
「〇・二くらい」
アリシアは急いで名前をつけず、次の呼吸を待った。
違和感は残った。
表面ではない。
以前、滑らかな条件で一度だけ感じた皮膚寄りの妙な感覚とも違う。
胸の内側に薄く存在している。
「少し冷たい。〇・三」
「震えは?」
「ない」
「痛み、息苦しさは?」
「ゼロ」
「怖さは?」
「四」
冷たさは強くならなかった。
〇・三ほどで輪郭を持ち、そのあとゆっくり薄くなる。
「東とか西は?」
サーラの問いに、アリシアは少し待った。
「分からない。方向なし」
「分かりました」
さらに時間が経つと、冷感は〇・二を下回った。
「もうほとんど分からない」
その後、新しい感覚は出なかった。
アリシアの頭の中では、条件を当てたい気持ちが急激に強くなっていた。
今のは何だったのか。
前半だったのか。
後半だったのか。
もし滑らかだったら、今までの形が初めて崩れる。
その可能性に気づいた瞬間、胸の冷感とは別の緊張が走る。
「今、滑らかだったらどうしようって思ってる」
「記録します」
「がっかりしそう七」
「それでも記録を受け取れますか」
「受け取る」
返事は少し早かった。
「知りたい九」
「身体確認後です」
「分かってる」
試験本体が終了し、復帰確認へ移る。
アリシアは背もたれへ身体を預けた。
冷感はもうない。
ただ、結果を待つ緊張だけが残っていた。
◇
治療教師が時間をかけて状態を確認する。
胸部冷感はゼロへ戻っている。震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもなく、魔力循環にも異常は見つからない。
疲労は二。
怖さは三。
身体側に問題がないことが確認されてから、サーラが魔導具教師へ目を向けた。
「開示してください」
魔導具教師が記録板を回す。
「本日の条件は、後半寄りの意図的小変動入り十呼吸です」
アリシアはしばらく何も言わなかった。
滑らかではない。
まず、そのことに安堵した自分がいた。
胸の奥が少し軽くなる。
でも、その安堵に気づいた瞬間、少し恥ずかしくもなる。
「今、ほっとした」
「どのくらいですか」
「七」
「形が崩れなかったから?」
「うん」
アリシアは正直に答えた。
「でも、それだけで喜びたくない」
魔導具教師が記録を示す。
「では時刻を見ましょう」
今日の小変動は、立ち上がりの後半寄りに置かれていた。
以前の二回の後半条件と近い位置。
ただし完全に同じ時刻ではなく、設備側の状態に合わせて僅かな差がある。
「私の最初の“何かあるかも”は?」
「小変動開始後です」
「どのくらい?」
「今回も一呼吸以内です」
アリシアの指先が記録板の縁へ近づき、触れる直前で止まる。
「五回目」
「意図的小変動条件としては五回目です」
「五回とも?」
「今の記録では、小変動開始から一呼吸以内に最初の違和感があります」
部屋は静かだった。
別室にいる若い観測員の反応は見えない。
その静けさが、かえって数字の重さを感じさせる。
「今日、〇・三だった」
「はい」
「前の後半二回より弱い」
「そうですね」
アリシアはすぐそこへ気づいた。
以前の後半寄りでは〇・五前後と〇・四前後だった。
今日は同じ後半寄りでも〇・三程度。
「じゃあ、昨日見えた“後半の方が強い”は崩れた?」
「少なくとも、後半なら〇・四以上になるとは言えなくなりました」
「……ちょっと嬉しい」
「崩れたのに?」
「昨日、強さは揃ってないって言ったから」
サーラが小さく笑った。
「都合の悪い記録を歓迎できていますね」
「でも時刻は揃った」
「はい」
「そっちは嬉しい九」
アリシアは一度言ってから、自分で少し眉を寄せる。
「やっぱり守りたい気持ちもある」
「どのくらい?」
「六」
「上がりましたね」
「五回になったから」
「それも残しましょう」
◇
東側奥部の記録を重ねると、今日も小変動の近くに微小な追加低下があった。
ただし、その量は以前の後半二回より小さい。
むしろ、前半寄りで観測された追加低下に近い範囲だった。
「だから冷たさも〇・三だった?」
アリシアが尋ねる。
「そう見える可能性はあります」
魔導具教師は慎重に答えた。
「でも今日の入力小変動そのものは?」
「最大幅はこれまでと大きく外れていません。ただ、立ち上がりと戻りの細部は完全一致ではありません」
「基礎出力は後半だから高い」
「はい」
「それでも東側の追加低下は小さかった」
「そうです」
昨日までなら、前半だから追加低下が小さく、後半だから大きいという単純な並びに見えかけていた。
今日の記録はそこを崩した。
後半寄りなのに、東側奥部の追加低下は小さい。
アリシアの冷感も弱い。
「位置だけじゃない」
「その可能性がさらに高まりました」
「じゃあ、東側の追加低下の大きさと私の冷たさが一緒に動いてる?」
「今回を加えると、少なくとも確認する価値は上がりました」
「五回分で並べる?」
「今日は刺激後なので、まず簡単な確認までです。細かい比較は次の分析日に回しましょう」
アリシアは少しだけ不満そうにしたが、すぐ頷いた。
「今日全部やらなくていい」
「成長しましたね」
「前からできる」
『嘘』
それまで静かにしていたノアが口を挟み、室内に小さな笑いが生まれた。
緊張が少しほどける。
◇
西側では、今日も後から弱い波形が確認された。
ただし、こちらも以前の後半条件より小さい。
開始はアリシアの最初の違和感より後。
この順番だけは、これまでの意図的小変動条件と大きく変わらない。
「東が小さい、私も弱い、西も小さい」
アリシアは三つを見比べる。
「並んでるように見える」
「見えます」
「でもまだ五回」
「はい」
「入力の形も違う」
「はい」
「日も違う」
「そうですね」
「私の疲れとか期待も違う」
「その通りです」
アリシアは椅子へ背を預けた。
「いっぱい残る」
その声に落胆はなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
答えが遠ざかったわけではない。
一つの答えへ急いで飛びつかずに済むだけの材料が増えた。
◇
生活観測区画へ戻った頃には、午後の日差しが窓の奥まで入り込んでいた。
子供は木箱を開けず、午前に見つけた三つの候補を別角度の複写で探していた。
「試験した?」
「した」
「感じた?」
「少し」
「何だった?」
「後半の小さい揺れ」
子供は少し考える。
「同じだった?」
「時刻は近かった。でも強さは前の後半より弱かった」
「違うのもあった」
「うん」
子供は自分の紙を見る。
「こっちも三個目、違うかもしれない」
「どれ?」
一つの候補は、別角度の複写では二本の線が接触する前に片方が薄くなっているように見えた。
以前「接近・終端候補」とした場所に少し似ている。
「交差じゃないかも」
「じゃあ、それも残す?」
「うん」
箱を開けなくても、一つ候補が減るかもしれない。
あるいは、別の種類へ移るかもしれない。
子供はそれを嫌がらなかった。
◇
夕方、顔のない存在は六歩進んだ。
最初に二歩、少し休んで一歩、そのあと三歩。最後の三歩は途中で止まらなかったが、椅子へ座ったあともしばらく身体を動かさず休んでいた。
胸の光は明るい一つと弱い二つ。
朝と昼前は明るい二つと弱い一つだったため、見えている数は同じ三つでも内訳が変わっている。
子供は位置を先に書き、それから朝の紙と比べた。
「明るいのは朝の一個と近い。弱いの二個は違う」
「変わった瞬間は?」
「見てない」
「試験の時間とは?」
「分からない」
アリシアが聞くと、子供は首を振った。
「ずっと見てないから繋げない」
「うん」
それで終わる。
六歩歩いたことも、胸の明暗が変わったことも、今日の人工刺激と結びつける材料にはしなかった。
◇
日が傾く頃、アリシアは午前に声をかけられた図書室のことを思い出した。
試験後の身体確認は終わっている。
追加の解析も今日は行わない。
「図書室行っていい?」
サーラに聞くと、少し意外そうな顔をされた。
「もちろんです。疲労は?」
「二」
「無理はしないでください」
「課題するだけ」
『研究よりよほど健全ね』
「ノアも来る?」
『静かなところ嫌いじゃない』
「寝るだけでしょ」
『本は読めないから仕方ないでしょう』
学院の図書室は夕方でも明るかった。
高い窓から橙色の光が入り、長机の上へ斜めに伸びている。授業を終えた生徒が何人も残っており、紙をめくる音や小さな囁き声が静かな空間へ溶けていた。
午前の女子生徒は、本当に席を一つ空けていた。
「あ、来た」
「来た」
「研究終わった?」
「今日は終わった」
「じゃあ地理手伝って」
「私も終わってない」
「一緒に終わらせればいい」
アリシアは隣へ座った。
研究の話は、それ以上聞かれなかった。
地図を広げ、街道と河川の位置を確認し、分からない地名を資料集から探す。
途中で女子生徒が完全に違う地方の地図を見ていたことに気づき、二人で声を抑えて笑った。
「これ、全然違う」
「なんで言わなかったの」
「今気づいた」
「十分くらい無駄にした」
「私も見てた」
「二人とも駄目じゃん」
静かな図書室なので大声では笑えない。
口元を手で隠し、肩だけが小さく揺れる。
その時間は、今日の小変動とも東側奥部とも関係がなかった。
だからこそ、アリシアには心地よかった。
◇
夜。
生活観測区画へ戻ると、窓の外には久しぶりに星が多く見えていた。
アリシアは机へ座り、練習帳を開く。
今日の記録をどこから書くか少し迷った。
以前なら、まず「五回目も出た」と書いていたかもしれない。
今は違う。
『今日は、自分が実施条件を決める場から離れた。試験を行う可能性だけ聞き、実施前に改めて同意した。条件は知らないまま開始した』
そこから身体状態と気持ちを書く。
『試験前は疲労二、怖さ四、参加意思八。条件を知りたい気持ちは九。何かを探してしまいそうな気持ち六、反応してほしい五、無反応でも受け取りたい八。条件の推測はあったが、候補名は口にせず強さだけ記録した』
筆先を少し止める。
試験中、自分は何度か条件を予想した。
前半かもしれないと思った。
次には滑らかかもしれないと思った。
その間、感覚はなかった。
そして、実際の後半寄り小変動が入ったあと、一呼吸以内に違和感が出た。
『実際は後半寄り小変動。小変動開始後、一呼吸以内に中央付近からやや右で違和感。最初〇・二程度、その後弱い冷感として〇・三程度。方向は取れず。震え、痛み、息苦しさなし』
さらに、その下へ今日一番気になった違いを書く。
『後半寄りなのに、以前の後半条件より冷感が弱かった。東側奥部の追加低下も以前の後半条件より小さく、西側の遅れた弱波形も小さかった。前半か後半かだけで強さが決まるようには見えなくなった』
ノアが机の端へ座る。
『嬉しい?』
「九と七」
『何が?』
「時刻が五回近かったのが九。強さの綺麗な並びが崩れたのが七」
『崩れて嬉しいの?』
「ちょっと」
『変な子』
「知ってる」
アリシアは次の行へ進む。
『意図的小変動を入れた条件は五回になり、今のところ五回とも小変動開始から一呼吸以内に最初の違和感がある。ただし、冷感の強さは同じ位置でも揃わない。入力形状、東側奥部の追加低下量、その日の状態など、まだ分けて見るものがある』
そこまで書いたところで、手が止まった。
五回。
四回より一つ増えただけ。
それでも、同じ時刻関係が続いたことは嬉しい。
守りたくなる。
だからこそ、その気持ちも残す。
『この時刻関係が次も残ってほしい気持ち六。崩れた場合でもそのまま記録したい気持ち九』
さらに、今日の別の出来事を書く。
『普通の授業で、あまり話したことのない生徒たちと一緒に魔石を調べた。二人で間違えて先生を呼んだ。夕方は友達と図書室で地理の課題をした。研究以外のことをしている時間も楽しかった』
楽しさを数字にするか迷った。
少し考えて、七と書いた。
焼き菓子を食べた日とは違う。
今日は課題をして、一緒に間違えただけだ。
でも、その「だけ」が以前より大切に思える。
最後に、次の試験について考える。
明日は人工刺激を休んでもいい。
今日得た五回目を、昨日と同じように細かく比較したい。
特に、同じ後半寄りなのに弱かった理由を見たい。
入力の小変動そのもの。
東側奥部の追加低下。
自分の感覚。
西側の遅れ。
その四つが、強さの面でも一緒に動いているように見えるのか。
それとも、今日だけ偶然近かったのか。
『次は新しい条件を増やすより、今日の弱い後半条件を以前の二回と比べたい。刺激を続けて答えを取りに行くより、同じ名前でまとめていた条件の中の違いを見る』
書き終え、アリシアは練習帳を閉じなかった。
最後の空白をしばらく見つめる。
今日、自分は試験条件を決めるところから離れた。
何が来るかを知らないまま座り、途中で何度も予想を変えた。
それでも、予想した時刻ではなく、実際に小さな変化が入ったあとに感覚が現れた。
嬉しい。
かなり嬉しい。
けれど、その一方で、昨日まで綺麗に見えかけていた「前半は弱く、後半は少し強い」という並びは崩れた。
五回目は、同じものを一つ増やしただけではなかった。
揃っているものを一つ強くし、揃っていないものを一つ増やした。
アリシアは最後に一文だけ書き加えた。
『同じ結果が増えたんじゃない。残った共通点と、崩れた共通点が一つずつ増えた』
その文章を読み返し、今度こそ練習帳を閉じる。
窓の外では、雨雲の消えた夜空に星が瞬いていた。
次に必要なのは六回目を急いで取ることではない。
今日弱くなったものが、どこで一緒に弱くなり、どこでは別々に動いていたのか。
そこを見れば、五回続いた時刻の近さが、ただ綺麗に並んだ記録なのか、それとも六つ目へ続く何かの輪郭なのかを、もう少しだけ慎重に確かめられる。
そして明日、その比較を終えても答えが出なければ、それでいい。
以前なら耐えられなかったその余白を、今のアリシアは、次へ進むために必要な場所として残しておけるようになっていた。




