第185話 四度続いたからこそ、五度目を増やす前にどこまで同じだったのかを分けて見る
翌朝、生活観測区画の窓を叩いていたのは、雨というより細かな霧に近い水滴だった。
空は白く、庭の向こうに立つ木々の輪郭も少しぼやけている。石畳は濡れて黒く沈み、屋根の端から落ちる雫が一定の間隔で小さな音を立てていた。
アリシアは目を覚ますと、すぐには身体を起こさなかった。
昨日の試験で感じた冷たさは、もう胸のどこにも残っていない。
中央より少し右。
最初は冷感とも言い切れなかった、〇・二か〇・三ほどの違和感。
その後、弱い冷たさとして輪郭を持ち、やがて消えた。
頭の中にはまだその感覚が残っているが、身体そのものは静かだった。
痛みはない。
息苦しさもない。
震えもなく、頭痛や腕の重さもない。
疲労は一程度。
「今日、試験しなくていい気持ち……九」
枕元の練習帳へ書きながら、アリシアは小さく呟いた。
窓辺のノアが顔を向ける。
『高いわね』
「昨日も夜に九だった」
『下がってない』
「うん」
『次をやりたい気持ちは?』
「六」
『そっちは下がった』
「昨日、四回目出たから」
『満足した?』
「満足っていうより……一回止まって見たい」
『何を?』
「四回全部」
ノアが少しだけ目を細める。
『昨日も見たでしょう』
「並べただけ」
『違うの?』
「うん。昨日は、前半二回と後半二回が全部近かったって見た。でも、全部どこまで同じだったかはまだちゃんと見てない」
『強さとか?』
「それも。あと私の怖さとか、待ってたかとか、東側の落ち方とか、西側の遅れとか」
『朝からよくそんなに出るわね』
「昨日寝る前ずっと考えてた」
『寝なさいよ』
「寝た」
『そこは聞いてない』
アリシアは少しだけ笑った。
前なら、四回続いたならすぐ五回目がほしくなっていた。
今も、見たい気持ちがなくなったわけではない。
でも、四回目が出たこと自体より、その四回が本当に同じ種類として並べられるのかの方が気になっていた。
「同じ一呼吸以内でも、同じじゃないかもしれない」
『また面倒なところ見つけたわね』
「だって、最初の後半は〇・五くらいだった。前半は〇・三、次の後半は〇・四、昨日の前半も〇・三くらい」
『綺麗に見えるじゃない』
「だから怖い」
『綺麗だと喜んで、綺麗だと怖がって、忙しいわね』
「しょうがないでしょ」
アリシアは練習帳の端へ、小さく「嬉しい八、怖さ二」と書いた。
昨日の夜は嬉しさ九だった。
一晩眠ったことで、少し落ち着いている。
でも、価値が下がったわけではない。
◇
隣の寝台では、子供がすでに目を覚ましていた。
木箱は閉じたまま。
その横には、昨日までに見つけた新しい交差候補の複写が何枚か並んでいる。
「今日は箱?」
アリシアが聞く。
子供はすぐには答えず、紙を一枚持ち上げた。
「明日の私に聞くって昨日言った」
「うん」
「今日の私、見たい」
「どのくらい?」
「九」
「箱開けたいは?」
「五」
「怖さは?」
「二」
「触りたい?」
「二」
「じゃあ開ける?」
子供は木箱を見た。
しばらく見たあと、もう一度紙へ戻る。
「まだ分からない」
「五だから?」
「五だからじゃない」
「何で?」
「見る場所がまだ一個に決まってない」
アリシアは少し驚いた。
昨日は一つ目の新しい交差候補を有力に見ていた。
けれど、複写を重ねているうちに、別の候補も気になってきたらしい。
「二個見たい?」
「うん」
「じゃあ一個に決めるまで開けない?」
「そうする」
『この子も随分面倒になってきたわね』
「ノア」
『褒めてる』
「絶対違う」
子供は少しだけ笑った。
◇
朝の顔のない存在は、寝台へ横向きに腰掛けていた。
子供は新しい十一個の円を描いた紙を持ち、昨日の記録を見ずに胸の光を確認する。
「明るい一つ。弱い三つ」
四つ見えている。
昨日の夕方も、明るい一つと弱い三つだった。
内訳は同じ。
けれど位置を先に書く。
明るい一つは中央より少し上。
弱い三つのうち一つは右寄り、二つは下側に離れて見えた。
「書いた」
「昨日の見ていいよ」
前日の夕方記録を並べる。
「明るいの近くない」
「弱いのは?」
「一個だけ少し近い。二個違う」
「じゃあ、数と内訳は同じだけど位置は違うように見える」
「うん」
弱い一つはかなり淡く、角度を少し変えると見失いそうになる。
子供は「弱くなった」とは書かず、「今はかなり見えにくい」とだけ残した。
顔のない存在はまだ立とうとしない。
歩数欄は空白のままだった。
◇
朝食後、生活観測区画へ来たのはサーラだけだった。
それを見て、アリシアは少し安心する。
「今日は人工刺激なし?」
「その予定です」
「よかった」
「嫌では?」
「一」
「低いですね」
「昨日取れたから」
サーラは椅子へ座り、いつもの身体確認を行った。
冷感、震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはすべてなし。
疲労一。
怖さ二。
次の試験への参加意思は七。
今日すぐ実施したい気持ちは三。
「結果が崩れてほしくない気持ちは?」
アリシアは少し考えた。
「四」
「昨日は?」
「試験前は五。終わったあと、たぶんもっとあった」
「今は下がっていますね」
「四回並んだから、逆に崩れるところも見たい」
「見たい?」
「嫌だけど」
「どちらですか」
「嫌だけど見たい」
サーラが少し笑った。
「両方記録します」
「うん」
「今日は四回分の比較をもう少し分けて見ます」
「やっぱり?」
「アリシアさんも同じことを考えていましたか」
「一呼吸以内ってまとめてるけど、その中身同じじゃないかもしれない」
「その通りです」
サーラは一枚の紙を机へ置いた。
「昨日まで、私たちは“時刻が近い”ことを中心に見ていました。今日はその近さを壊さずに、何が違っていたのかを整理します」
「強さ?」
「強さだけではありません。開始位置、東側奥部の追加低下量、アリシアさんの主観強度、方向感覚、期待、怖さ、探索意識、西側波形の遅れなどです」
「多い」
『自分で朝言ってたじゃない』
「言ったけど、多いものは多い」
◇
午前中、アリシアは通常授業へ出た。
今日は魔術史でも制御実習でもなく、簡単な共同演習だった。
三人一組で一枚の地図を見ながら、指定された地点までの最短経路と安全経路をそれぞれ考える。
アリシアは最近よく話す女子生徒と、もう一人の男子生徒と同じ組になった。
「最短これじゃない?」
女子生徒が地図の中央を指す。
細い山道を抜ければ距離は短い。
ただし、雨天時に足場が悪くなる印が付いている。
男子生徒が首を振った。
「今の季節設定ならこっちだろ。川沿い」
「遠いじゃん」
「安全経路も出せって言われてる」
「じゃあ最短と安全で分ければいい」
アリシアが言う。
二人がこちらを見る。
「最短は山道。でも安全は川沿い。答え二つでいいんじゃない?」
「それだ」
「最初からそう書いてある問題だった」
女子生徒が笑う。
「私たち何で一個にしようとしてたんだろ」
「一番いい道を決める問題だと思った」
「アリシア最近そういうの得意だよね。答え一個にしないやつ」
その言葉に、アリシアは少しだけ黙った。
地下の研究を連想したからではない。
自分自身のことを言われたような気がした。
「前は苦手だった」
「そうなの?」
「一個決めたくなってた」
「今は?」
アリシアは地図を見ながら答える。
「二個あってもいいと思う」
「便利になった」
「便利って何」
女子生徒と男子生徒が笑った。
アリシアも少しだけ口元を緩めた。
共同演習の後半では、別の組の答えと比較する。
最短経路は同じでも、安全経路は二通りに分かれていた。
教師はどちらも条件次第で成立すると説明した。
同じ問いに、条件によって複数の答えが残る。
アリシアはその話を聞いても、今日は地下のことへすぐ結びつけなかった。
ただ、今の自分は前よりこういう曖昧さを嫌わなくなったと思った。
◇
授業から戻ると、生活観測区画では顔のない存在が立ち上がっていた。
子供は少し離れた場所で見ている。
最初に一歩。
少し長く止まり、そのあと二歩を続ける。
さらに短い間を空けて一歩進み、そこで椅子へ腰を下ろした。
「午前四歩。一歩、二歩、一歩」
子供が記録する。
昨日午前も四歩だったが、区切り方は違う。
「同じ四だけど違う」
「うん」
胸の光を確認すると、明るい一つと弱い三つ。
数と内訳は朝と同じ。
ただ、朝にかなり見えにくかった弱い一つが、今は少し輪郭を取り戻している。
「今は朝より見えやすい」
「いつ変わった?」
「見てない」
「じゃあそれだけ」
子供は頷いた。
◇
午後の解析には、魔導具教師と設備調整担当、若い観測員も加わった。
今日は全員が生活観測区画へ集まっている。
試験をしないため、昨日のように立ち位置を揃える必要はない。
机の上には、意図的小変動を入れた四回分の記録が並べられた。
アリシアは椅子へ座り、一番最初に確認する。
「四回とも、小変動から一呼吸以内?」
「はい」
魔導具教師が答える。
「ただし“一呼吸以内”の中で、全く同じではありません」
最初の後半寄り試験では、小変動開始後、アリシアの最初の曖昧な違和感がかなり早い段階で出ている。
その次の前半寄りでは、同じく一呼吸以内だが、少し遅い。
条件非通知で行った後半寄りでは、その中間。
昨日の前半寄りは、二度目の前半と近い。
「前半二回が近い?」
「今の記録精度では、そう見えます」
「後半も二回近い?」
「大まかには」
「じゃあ前半と後半で違う?」
「そこまで言えるかが今日の一つ目の問題です」
若い観測員が紙を指す。
「人の申告には言葉にするまでの遅れがあります。同じ感覚が出ても、すぐ“何かある”と言えた日と、一呼吸近く確認してから言った日では記録時刻がずれます」
「私、最初の頃は確認してから言ってた」
「最近は“何かある”の段階でも申告するようになっています」
「じゃあ前半後半の差に見えてるものが、私の言う速さの違いかもしれない」
「その可能性があります」
「面倒」
『今日それ何回目?』
「まだ一回」
『数えてない』
アリシアはノアを睨み、それから記録へ戻った。
◇
二つ目に比べたのは、冷感の強さだった。
後半寄りの最初の試験では、およそ〇・五。
前半寄りでは〇・三程度。
条件非通知の後半寄りでは〇・四前後。
昨日の前半寄りでも〇・三程度。
「前半弱い」
アリシアが言う。
「そう見えます」
魔導具教師が答える。
「でも決めない?」
「まだです」
「理由は基礎出力?」
「それもあります」
前半寄りの小変動は、十呼吸の立ち上がり途中でも比較的早い位置へ入る。
後半寄りは、基礎出力がより高い位置まで上がってから加わる。
意図的小変動そのものの幅や形を近づけても、それが乗る土台の状態は同じではない。
「前半の方が東側奥部の追加低下も少し弱い?」
「二回とも、その傾向があります」
「後半二回は少し大きい」
「はい。ただし差は小さく、設備側の自然な揺れも重なっています」
「じゃあ私の冷たさが〇・三と〇・五なのも、東側の追加低下量に合ってるように見える」
「見えます」
「でも二回ずつ」
「はい」
「少ない」
「はい」
アリシアは自分で言って、少し笑った。
「先生より先に言った」
『また仕事取ってる』
「ノアは黙ってて」
◇
三つ目は、方向感覚だった。
最初の後半寄りでは、東寄りかもしれないという低い確信があった。
最初の前半寄りでは、方向はほぼ取れなかった。
条件非通知の後半寄りでは、やはり東寄りかもしれない程度。
昨日の前半寄りも、東寄りかもしれないが自信は低かった。
「こっちは揃わない」
「はい」
「じゃあ方向は今あんまり使えない?」
「補助的な記録として残しますが、現時点の主軸にはしにくいです」
「強さより時刻」
「今のところは」
「方向より時刻」
「はい」
アリシアは三つの項目を練習帳へ書き写した。
強さは少し傾向が見える。
方向は不安定。
時刻は四回とも近い。
全てが同じように揃っているわけではない。
そこが、今日一番分かりやすい違いだった。
◇
四つ目は、期待と探索意識だった。
最初の後半寄り試験では、何か反応が戻ってほしいという期待はあったが、意図的小変動の正確な時刻は知らなかった。
二度目の前半寄りでは、「前回より早い位置に移す」と知らされていたため、早い時間帯への期待が高かった。
条件非通知の後半寄りでは、三候補のどれが来るか知らず、途中では滑らかな十かもしれないと考えていた。
昨日の前半寄りでは、学院側が前半条件を有力視していると知っていたため前半予想は高かったが、実際には前半を待っている間には感覚が出ず、「前半ではないかもしれない」と思い始めた直後の小変動に近いところで初めて違和感が出ている。
「期待の形、全部違う」
アリシアが言う。
「はい」
「それでも時刻は近い」
「そうです」
「だから期待だけでは説明しにくい」
「以前よりは、そう言いやすくなりました」
「でも期待の影響がゼロとは言えない」
「はい」
「全体として何か来るって知ってるもんね」
「そうですね」
若い観測員が少し考え込む。
「次に期待だけをもっと弱くするなら、人工刺激そのものがある日かない日かも隠したいところですけど」
アリシアがすぐ顔を上げた。
「それ、できる?」
サーラが首を横へ振る。
「安全面と同意の問題があります。今日は刺激があるかもしれない、ではなく、刺激を行う可能性に事前同意する形なら検討はできますが、本人が何も知らない日に突然刺激することはしません」
「それは嫌」
「ですよね」
「でも、試験室に座って、今日は刺激あるかないか知らないなら?」
「将来的な候補にはなります」
「怖さ上がりそう」
「今考えるだけなら?」
アリシアは少し考えた。
「五」
「相談値ですね」
「うん」
「なら今すぐ採用しません」
「分かった」
ノアが尻尾を一度動かした。
『また新しい面倒を増やした』
「でも大事かもしれない」
『そうやって増えるのよ』
◇
五つ目は、西側の弱い波形だった。
意図的小変動を入れた四回では、すべて西側にも後から弱い波形が出ている。
ただし、開始点がかなり弱く、波形全体の大きさも毎回揃わない。
「後半二回の方が少し強い?」
「大まかにはそう見えます」
「前半は弱い?」
「はい。ただし東側追加低下の大きさと似た傾向でもあります」
「じゃあ東が大きく動いたら西も少し大きい?」
「候補です」
「私の冷たさも?」
「そこまで一つの線で結ぶのはまだ早いです」
「三つとも一緒に大きくなってるように見えるけど」
「見える、までです」
アリシアは少し悔しそうに口を尖らせた。
「全部“見える”で止まる」
『研究ってそういうものなんじゃない?』
「昨日も言った」
『便利な台詞は使い回すのよ』
「ノアが一番AIみたい」
『何それ』
「知らない」
◇
解析はそこで終わらなかった。
魔導具教師は、四回の入力波形そのものも拡大した。
意図的小変動は同程度へ揃えている。
けれど、本当に完全に同じではない。
後半の二回では、小変動の立ち上がりが僅かに丸い。
前半の二回では、少しだけ鋭く見える。
「これ、違う」
アリシアが指す。
「はい」
「小さいけど」
「小さいです」
「それで感覚変わる可能性ある?」
「分かりません」
「また分からない」
「だから残します」
設備調整担当が説明を続ける。
「意図的小変動の最大幅だけを合わせても、立ち上がり方や戻り方が微妙に違います。前半と後半では基礎出力が違うため、装置側の応答も完全には同じにできません」
「じゃあ前半〇・三、後半〇・四とか〇・五が出てるのが、位置じゃなく波形形状のせいかもしれない」
「可能性はあります」
「東側の追加低下の違いも?」
「あります」
アリシアは椅子へ深く座り直した。
「四回揃ったと思ったら、いっぱい違う」
「それが今日の収穫です」
「収穫って言われると嬉しくなるから嫌」
『嬉しいんでしょう』
「八」
「朝と同じですね」
サーラが笑った。
◇
昼を少し過ぎた頃、子供の机では別の比較が進んでいた。
エルデン教師が来て、新しく見つけた二つの交差候補を既存の複写と照らし合わせる。
一つ目は、別角度の写しでも二本の線が同じ場所へ集まっている。
二つ目は、写しによっては一方の線が手前で消えて見え、交差候補としては弱い。
「一個目の方がいい?」
子供が聞く。
「今なら」
「じゃあ一個に決める」
「今日見る?」
子供は木箱を見る。
「見たい九。箱開けたい五。怖さ二。触りたい二」
「どうする?」
「……開ける」
アリシアが少し離れた場所から顔を上げた。
今日は人工刺激がない。
自分の解析も一段落している。
子供は箱の前へ座ると、先に条件を確認した。
「布動かさない。黒いの触らない。光だけ。一個だけ」
エルデンが頷く。
「途中で見たい気持ちが十になったら?」
「閉める」
「怖さ五で?」
「相談。六で閉める」
「分かった」
子供が自分で蓋を開ける。
茶色い布は前回と同じ位置にあり、その隙間から暗色の細長い物体が見えている。
表面の線刻は、正面の光だけではやはり浅く、場所によっては途中で消えて見えた。
エルデンは新しく候補にした一か所へだけ、細い魔導光を当てる。
「最初はこの角度」
「うん」
浅い光が入ると、二本の線の縁に小さな影ができた。
子供が身を乗り出しそうになり、自分で止まる。
「ここ、重なってる?」
「まだ分からない」
「片方、切れて見える」
「うん」
最初に確認した交差候補と似ている。
片方の線が、交差部の手前まで続き、重なる場所で一度見えにくくなる。
反対側ではまた浅い線として続いているように見える。
「反対からも」
「一回だけね」
光の角度を逆へ変える。
影の出方は変わった。
それでも、同じ線が交差部付近で一度切れて見える。
「同じ」
「そう見えるね」
「前のと似てる」
「似ている」
子供の声が少し弾む。
「見たい十」
その言葉が出た瞬間、自分でも気づいたように口を閉じる。
数秒、交差候補を見た。
そして手を蓋へ伸ばす。
「閉める」
「うん」
エルデンは止めなかった。
蓋が静かに下りる。
子供は少し長く息を吐いた。
「怖さ三」
「上がったね」
「前と似てたから」
「嬉しい?」
「九」
「もう一個見たい?」
「九」
「今日見る?」
「見ない」
子供は首を振った。
「十になったから閉めた」
「うん」
エルデンは新しい複写へ印をつける。
「今日の候補は、最初の交差候補と似た影の出方をした。二か所で似た特徴が出たことは一か所だけより価値がある」
「線の順番分かる?」
「可能性は少し上がった。でもまだ断定しない」
「二個でも?」
「二個だからこそ、三個目が違ったら大事になる」
子供は少し考えた。
「同じの増やすだけじゃない」
「そう」
その言葉を聞いたアリシアは、思わず自分の机の四回分の記録へ目を向けた。
似たものが増えるほど嬉しい。
でも、違うものが出たときの価値も上がる。
自分たちも同じだった。
◇
夕方、顔のない存在は午前より少し長く立っていた。
最初に二歩。
そこで止まり、しばらくしてから二歩進む。
さらに一歩だけ前へ出て、合計五歩で椅子へ座った。
「夕方五歩。二歩、二歩、一歩」
子供が記録する。
午前は四歩。
数だけなら増えているが、そこに評価は付けない。
胸の光は明るい二つと弱い二つ。
朝と午前は明るい一つと弱い三つだった。
「今は二つ明るい」
「いつ変わった?」
「見てない」
「じゃあ、夕方はそう見えるだけ」
「うん」
位置を記録してから朝の紙と比べる。
一つは近い。
残りは違う場所に見える。
今日も、木箱を開けた時刻との直接的な関係はない。
人工刺激も行っていない。
子供はそこを結びつけなかった。
◇
夜、雨はほとんど止んでいた。
窓の外では濡れた庭が暗く光り、屋根から落ちる雫の間隔も朝よりずっと長くなっている。
アリシアは机へ座り、今日一日の解析を練習帳へまとめていた。
『今日は人工刺激なし。身体への残りもなし。四回の意図的小変動試験を、時刻だけでなく強さ、方向、期待、東側奥部、西側波形、入力形状に分けて比較した』
その下へ、少し時間をかけて書く。
『四回とも小変動開始から一呼吸以内に最初の違和感が出ている。ただし、一呼吸以内の細かな時刻差は、私が言葉にするまでの速さも含むので、そのまま前半と後半の差にはできない』
次に強さ。
『前半二回は〇・三程度、後半二回は〇・四〜〇・五程度に見える。東側奥部の追加低下も後半側が少し大きく見える。ただし基礎出力や入力波形の細かな形が違うため、前半と後半の位置だけが原因とは言えない』
方向。
『方向感覚は揃わない。東寄りかもしれない回もあるが、自信が低い。今の主軸にはしない』
期待。
『期待の形は四回とも違う。それでも、実際の小変動よりかなり前に先行して冷感が出た記録はない。期待だけで説明するには少し足りなくなっているが、影響がないとは言えない』
西側。
『西側の弱い波形は四回とも後から出た。後半側の方が少し大きく見えるが、東側奥部の追加低下量や入力形状とも関係しているかもしれない』
そこまで書くと、アリシアは筆を置いた。
「四回揃った、だけじゃなくなった」
ノアが机へ上がる。
『がっかりした?』
「逆」
『嬉しい?』
「八」
『朝から変わらない』
「いっぱい違うって分かったから」
『普通は揃ってる方が嬉しくない?』
「揃ってるところと揃ってないところが分かった方が、次何見るか考えやすい」
『本当に研究者みたい』
「学生」
『はいはい』
アリシアは少しむっとしながら、さらに一行足した。
『今一番揃っているのは、強さでも方向でもなく、小変動と最初の違和感の時刻が近いこと』
その下へ、少し大きく書く。
『でも、四回全部が同じ試験ではない』
ノアが覗く。
『今日は“まだ少ない”じゃないの?』
「それも書く」
『二つも大きくするの』
「大事だから」
『大事が多い』
「研究ってそういうものなんじゃない?」
今度はアリシアが言った。
ノアの耳が動く。
『それ私の台詞』
「便利だから使った」
『返しなさい』
アリシアは笑った。
そのあと、子供の記録にも目を向ける。
今日、二つ目の交差候補で、最初のものと似た影の出方が確認された。
でも、それで線刻全体の意味が分かったわけではない。
子供も、二か所似たからこそ、三か所目が違えば大事だと教えられている。
『子供の線刻も、似た交差候補が二か所になった。ただし線の意味も刻んだ順番もまだ未確定。箱は見たい気持ち十で閉じた』
そこまで書いてから、アリシアは自分のことを思い返す。
四回似た。
だから五回目も同じであってほしい気持ちは、まだある。
でも、五回目が違ったら困るだけではない。
むしろ、どこで違うのかを見るために必要になる。
「次、小変動ありで何も感じなかったら?」
ノアが聞く。
「嬉しくはない」
『うん』
「がっかりたぶん六」
『高い』
「でも知りたい八」
『また両方』
「うん」
アリシアはそれも書いた。
『次に小変動ありで確認できる感覚が出なかった場合、がっかりはすると思う。でも、それは今までの四回を無駄にする記録ではなく、“毎回ではない”と分かるための記録になる』
さらに考える。
「滑らかな十で感じたら?」
『もっとがっかり?』
「七」
『上がった』
「今の形が崩れるから」
『でも記録する?』
「九」
『そっちも高い』
「だって大事」
アリシアは練習帳へそのまま残した。
最後に、次の試験への希望を書く。
『次の人工刺激は明日でなくてもいい。今は休息と比較を優先したい。次に実施するなら、三候補方式を続ける気持ち七。新しい強さや新しい速度へ進む気持ちは四。今までの範囲でもう少し繰り返しを見る方を優先したい』
筆を置き、しばらく窓の外を見る。
雨上がりの庭は暗い。
けれど、濡れた石畳だけが微かな灯りを返している。
四回続いたから、答えに近づいたと思った。
それは間違いではない。
でも、四回続いたからこそ、その四回がどこまで同じで、どこから違っていたのかを見る必要が出てきた。
感覚の強さ。
方向。
東側奥部の追加低下。
西側の遅れ。
自分の期待。
設備側の小さな波形差。
一つの「同じ」に見えていたものの中から、いくつもの違いが出てきた。
それでも、時刻の近さだけは残っている。
だから今は、そこを急いで名前へ変えなくていい。
六つ目が何をしているのかを決めるより先に、その近さがどこまで続き、どこで崩れるのかを見る。
アリシアは練習帳を閉じた。
五度目を取りに行くことは簡単だった。
けれど、四度分を一度ばらして見たことで、次に増やす一枚が何のための一枚になるのかは、昨日より少しだけ分かるようになっていた。




