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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第184話 前半を待っている自分ごと残したまま、本当に動いた時刻だけをあとから重ねる



 翌朝、生活観測区画の窓の外には、昨夜より濃い雲が広がっていた。


 雨は降っていないが、空は低く、庭の木々も色を少し失ったように見える。風は弱く、湿った空気だけが窓の隙間から細く入り込み、机の上に積まれた紙の端をわずかに揺らしていた。


 アリシアは目を覚ますと、身体を起こす前に胸へ意識を向けた。


 冷たさはない。


 震えもない。


 息苦しさもなく、頭痛や腕の重さもない。昨日は人工刺激を行わず、会議と通常授業、それから生活観測区画での記録整理だけで終えているため、疲労も一程度に落ち着いていた。


 身体だけなら、試験をしても問題なさそうだった。


 問題は、頭の中の方だった。


 昨日、学院側が次の有力候補として「前半寄りの小変動を条件非通知で再確認する」案を考えていることを聞いてしまっている。


 本来なら、三候補のどれが来るか知らない状態で受けるはずだった。


 今も、決定条件そのものは知らない。


 けれど「前半が有力」という情報は、もう消せない。


 アリシアは寝台の上で膝を抱え、しばらく窓の外を見た。


「前半だと思ってる気持ち……七」


 ノアが隣の窓辺で顔を上げる。


『昨日の夜と同じ』


「うん」


『試験したいは?』


「八」


『今日やりたい?』


「七」


『前半が来てほしい?』


 アリシアは少し考えた。


「六」


『下がった』


「来てほしいより、何が来てもちゃんと見たい方が上がった」


『そっちは?』


「八」


 ノアの尻尾が一度だけ窓枠を叩いた。


『随分立派なこと言うじゃない』


「茶化さないで」


『褒めたのに』


「ノアの褒め方、分かりにくい」


『毒舌猫に分かりやすさ求めないで』


 アリシアは少し笑った。


 笑うと、胸の緊張がほんの少しほどける。


 それでも、試験開始直後から前半を待ってしまう自分は想像できた。


「もし今日前半だったら、待っちゃうと思う」


『でしょうね』


「前半じゃなくても待つと思う」


『もっと面倒ね』


「だから今日は、待ってるって言う」


『誰に?』


「先生たちに」


『試験中も?』


「うん。前半を探してるって分かったら言う」


『それでいいんじゃない』


 アリシアは枕元の練習帳へ、今の数字を残した。


 前半予想七。


 試験参加八。


 今日実施七。


 前半希望六。


 結果をそのまま受け取りたい八。


 数字を書いてみると、自分の中で相反するものが同時に存在しているのがよく分かる。


 前半だと思っている。


 でも、前半であってほしい気持ちは少し下がっている。


 試験はしたい。


 けれど、結果が綺麗になることだけを望んでいるわけではない。


 それが今の自分だった。


     ◇


 隣では、子供が机の上へ昨日の複写を並べていた。


 木箱は今日も閉じたままだ。


 昨日、紙の上だけで新しい交差候補を二か所見つけた。


 一つは、二本の線が狭い角度で近づき、そのまま重なっているように見える場所。


 もう一つは、大きく曲がった線が別の線へ触れているように見える場所。


「今日はどっち見るの?」


 アリシアが聞く。


「一個目」


「箱開ける?」


「まだ」


「紙だけ?」


「うん。違う角度の写しにあるか見る」


 子供は複写を一枚ずつ重ねている。


「箱開けたいは?」


「三」


「一個目見たいは?」


「八」


「線知りたいは?」


「九」


「怖さは?」


「二」


 子供は答えたあと、アリシアの練習帳を見た。


「今日試験する?」


「たぶん」


「何来るか知らない?」


「一応知らない」


「一応?」


 子供が首を傾げる。


「前半が有力って昨日聞いちゃった」


「じゃあ前半かもって思う」


「うん」


「それでも知らない?」


「決まったって聞いてないから」


 子供は少し考えたあと、納得したように頷いた。


「箱も、交差っぽいけど交差って決まってないのと似てる?」


 アリシアは少し驚いた。


「……ちょっと似てるかも」


「思ってるのと、決まってるの違う」


「うん」


『子供に整理されてるわよ』


「ノアうるさい」


     ◇


 朝の顔のない存在は、寝台の端へ腰掛けたまま、静かに正面を向いていた。


 子供は昨日までと同じように、新しい十一個の円を描いた紙へ、今見える光を先に記録する。


「明るい二つ。弱い一つ」


 昨日夕方は明るい二つと弱い二つだった。


 今朝は三つ見える。


 けれど、子供は「一つ減った」とは書かない。


 位置を先に取る。


 明るい二つのうち一つは中央寄り、もう一つは下側。弱い一つは左寄りに見える。


「書いた」


「昨日の見る?」


「うん」


 前日の夕方記録を隣へ置く。


「明るい一個近い。もう一個違う。弱いのも違う」


「じゃあ今朝はそれだけだね」


「うん」


 顔のない存在はまだ歩かない。


 子供は歩数欄を空白にしたまま、紙を机へ置いた。


     ◇


 朝食後、サーラと治療教師が来た。


 少し遅れて魔導具教師も入ってきたが、設備調整担当の姿は見えない。


 アリシアはその違いに気づき、すぐ口を開いた。


「今日、設備の先生いない?」


 魔導具教師が少しだけ目を丸くした。


「別室にいます」


「昨日言ってたやつ?」


「はい。本人から見える動きの違いを減らすためです」


「もうやるんだ」


「できることから」


 アリシアは少しだけ緊張した。


 昨日の話が、今日すぐ運用へ反映されている。


 それは良いことのはずなのに、かえって「今日は本当に試験なんだ」と実感が強くなった。


「身体確認をします」


 治療教師がいつもの順番で状態を見る。


 冷感ゼロ。


 震えなし。


 痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもゼロ。


 疲労一。


 魔力循環にも目立った乱れはない。


 サーラが続ける。


「怖さは?」


「三」


「参加意思」


「八」


「今日実施したい気持ち」


「七」


「条件を知りたい気持ち」


「七」


「特定候補への希望は聞きません」


「うん」


「ただし、昨日聞いた情報の影響として、どの条件を予想しているかは記録しておきます。今は?」


「前半七」


「その予想を試験中に探してしまいそうな気持ちは?」


 アリシアは少し迷った。


「六」


「高いですね」


「うん」


「それでも参加しますか」


「する」


「理由は?」


「探してるって分かったら言えるから」


 サーラが頷く。


「停止意思は?」


「一」


「反応してほしい気持ち」


「五」


「結果が今までの形に合ってほしい気持ち」


「五」


「そのまま受け取りたい気持ちは?」


「八」


「分かりました」


 質問はそれ以上増えなかった。


 昨日までなら「前半への期待」「後半への期待」「滑らかな十への希望」と個別に聞かれていたかもしれない。


 今日はそこを避けている。


 質問だけでも変わる。


 そう気づいた後だからこそ、減った質問の存在をアリシア自身がはっきり感じた。


『今度は質問が減ったことを意識してるじゃない』


 ノアが言う。


「もう何しても気になる」


『諦めなさい』


「雑」


     ◇


 試験は午前中には行わなかった。


 設備側の安定確認と、東側奥部・西側補助連絡線の自然状態を数時間見る必要があるため、実施は午後へ回された。


 その間、アリシアは通常授業へ出た。


 今日は基礎魔力制御の実習ではなく、少人数で行う魔導具基礎の授業だった。


 机の上には、小さな光球を点灯させるだけの単純な訓練具が置かれている。


 目的は、魔力を一気に流すのではなく、一定量を安定して送り続けること。


「こういうの得意でしょ」


 隣の女子生徒が言う。


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「失敗したら恥ずかしいから保険」


「ずるい」


 女子生徒は笑いながら自分の訓練具へ手を置いた。


 開始合図と同時に、教室のあちこちで小さな光が点る。


 アリシアの光球は最初から大きさをほとんど変えず、淡く安定した。


 隣の女子生徒のものは、最初だけ少し明るくなりすぎた。


「あ」


「見ないで」


「昨日私に言った」


「昨日は昨日」


「ずるい」


「友達特権」


 昨日と同じ言葉を返され、アリシアは少しだけ笑った。


 その拍子に自分の光球が僅かに明るくなる。


「アリシアも動いた」


「今のはノアのせいじゃない」


『何もしてないわよ』


 近くの生徒が笑う。


 教師もこちらを見たが、注意するほどではないと判断したのか、そのまま次の列へ歩いていった。


 実習が終わったあと、女子生徒が声を潜める。


「午後、また研究?」


「うん。今日は試験になるかも」


「緊張する?」


「三」


「数字なんだ」


「最近そう聞かれるから」


「三なら平気?」


「平気っていうより、やれる」


「そっか」


 女子生徒はそれ以上踏み込まなかった。


「終わったらまた焼き菓子?」


「毎日は太る」


「そういうこと気にするんだ」


「気にするよ」


「じゃあまた今度」


「うん」


 それだけで会話は終わった。


 アリシアは教室を出ながら、昨日食堂で過ごした十五分ほどの時間を思い出した。


 今日また行かなくてもいい。


 昨日行けたことがなくなるわけではない。


 そういう関係が少しずつ増えている。


     ◇


 昼前、生活観測区画へ戻ると、子供は新しい交差候補の紙を見ていた。


 エルデン教師が持ってきた別角度の複写と重ねると、一つ目の候補は別の写しでも二本の線が同じ付近へ近づいているように見えた。


「消えてない」


 子供が言う。


「別の写しでも見える?」


「うん。でも重なってるかはまだ分からない」


「見たい気持ち上がった?」


「九」


「箱開けたいは?」


「四」


「怖さは?」


「二」


 エルデンが子供へ聞く。


「今日開けたい?」


 子供は複写と箱を交互に見た。


「……開けない」


「どうして?」


「今日九だから」


「十じゃないよ」


「でも明日見てもいい」


「なるほど」


 子供は紙へ視線を戻した。


「これ、本当に交差候補なら、前のと比べられる」


「そうだね」


「同じ重なり方なら、線の順番分かるかもしれない?」


「可能性は上がる。でも二か所だけで全部の線の順番が分かるわけじゃない」


「うん」


 アリシアは横で聞きながら、今日の自分と少し似ていると思った。


 前半の小変動でも同じような反応が出れば、時間関係の再現性は上がる。


 でも、それで六つ目の正体が分かるわけではない。


 似ているのは考え方だけだ。


 対象そのものを同じものとして繋げてはいけない。


     ◇


 顔のない存在は昼前になってようやく立ち上がった。


 最初に三歩進み、そこで長めに止まる。そのあと一歩だけ前へ出て、少し身体を傾けたあと、近くの椅子へ座った。


「午前四歩。三歩と一歩」


 子供が記録する。


 昨日午前は五歩だった。


 今日の方が少ない。


 けれど、それだけで後退とは書かない。


 胸の光は朝と同じく、明るい二つと弱い一つ。


 位置を確認すると、明るい一つは朝と近く、もう一つと弱い一つは少し違って見えた。


「今は朝と同じ三つ」


「見え方は?」


「弱いの、今は朝より見えやすい」


「じゃあそのまま書こう」


 子供は頷いた。


     ◇


 午後。


 試験室へ入る前に、アリシアはいつもより少しだけ足を止めた。


 昨日の会議で決めた通り、室内の配置が変わっている。


 サーラはいつもの位置。


 治療教師も同じ。


 魔導具教師は記録担当として後方。


 設備調整担当は見えない。


 若い観測員も別室へ移されている。


 記録板は完全にアリシアから背を向ける形で置かれた。


「変な感じ」


「人が少ないですか」


「うん」


『普段が多すぎるのよ』


「ノアも人数に入ってる」


『猫よ』


「知ってる」


 アリシアは試験用の椅子へ座った。


 手を膝へ置く。


 息を一度ゆっくり吐く。


 サーラが最終確認をする。


「痛みゼロ、息苦しさゼロ、頭痛ゼロ、腕の重さゼロ、疲労二、怖さ三、参加意思八」


「うん」


「前半を予想している気持ち」


「七」


「探してしまいそうな気持ち」


「六」


「反応してほしい気持ち」


「五」


「停止意思」


「一」


「途中、期待が上がったら申告できますか」


「できる」


「では始めます」


 アリシアは正面の壁を見る。


 昨日と同じ木目がある。


 けれど今日は、その木目を見ても箱の線刻を思い出さないようにするつもりはなかった。


 思い出すなら思い出す。


 前半を待つなら、待っていると申告する。


 何もかも消そうとする方が不自然だ。


『刺激開始』


 低い合図が響いた。


 アリシアの意識がすぐ胸へ寄りそうになる。


 自分でも分かった。


「今、前半待ってる」


「記録します」


「探したい七」


「怖さは?」


「三」


 まだ何もない。


 胸の中央も、右側も、あの弱い冷たさはない。


 アリシアは呼吸を数えない。


 けれど「早いところに来るかもしれない」という意識だけは消えない。


「今も何もない」


「記録します」


 しばらく続く。


 期待が少し上がる。


「前半かもって思ってる、八」


「感覚は?」


「ゼロ」


「探したい気持ちは?」


「七」


 何もない。


 前半を待っている。


 それでも何もない。


 アリシアは少しだけ眉を寄せた。


 もしかしたら、今日は前半ではないのかもしれない。


 その考えが浮かぶ。


「今、前半じゃないかもって思った」


「記録します」


「感覚は?」


「ゼロ」


 それから、ほんの少し時間が進んだ。


 アリシアが「今日は滑らかな十かもしれない」と考え始めた、その直後だった。


 胸の中央より少し右。


 はっきり冷たいわけではない。


 けれど、さっきまでとは違う。


 薄い何かが、内側へ触れたような感覚。


「……待って」


 サーラの視線がわずかに動く。


「何かありますか」


「今、何かある」


「冷感ですか」


「まだ分からない。中央よりちょっと右」


「強さは?」


「〇・二か、〇・三くらい」


「震えは?」


「ない。痛みも息苦しさもない」


 アリシアは呼吸を一度続ける。


 薄い違和感は消えない。


 むしろ、少しだけ輪郭がつく。


「冷たい……〇・三くらい」


「方向は?」


 アリシアは慎重に確認する。


「東っぽい……かもしれない。でも自信低い」


「怖さは?」


「四」


「続行できますか」


「できる」


 冷感は強くならなかった。


 一度〇・三前後まで形を持ったあと、そのまま少しずつ薄くなる。


「今〇・二くらい」


「他の症状は?」


「ない」


 さらに少し経つと、冷たさは曖昧になった。


「もう分からない。〇・一以下」


 その後は、何も起きなかった。


 アリシアはそのこと自体に少し驚いた。


 もし前半小変動だったなら、さっきの違和感がそれに近い可能性がある。


 でも、前半を待っていた時間には何もなかった。


 むしろ「前半じゃないかもしれない」と思い始めたあとに出た。


 それが嬉しいような、怖いような、不思議な感覚だった。


『刺激本体終了。復帰確認へ移行します』


 合図が入る。


 アリシアは長く息を吐いた。


「今、条件知りたい十」


 サーラが少し笑う。


「身体確認が先です」


「分かってる」


     ◇


 治療教師による確認では、胸部冷感はすでにゼロ。


 震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもない。


 疲労二。


 怖さ二。


 魔力循環にも大きな乱れはなかった。


「もういい?」


「身体側は問題ありません」


 アリシアはすぐ魔導具教師を見る。


「条件は?」


 魔導具教師が記録板をこちらへ向けた。


「前半寄り小変動です」


 アリシアは動かなかった。


 目だけが記録へ向かう。


「本当に前半?」


「はい」


「前にやった前半と近い位置?」


「可能な範囲で合わせています」


「私、最初ずっと待ってた」


「はい」


「でもそのとき何もなかった」


「記録されています」


「小変動はいつ?」


 魔導具教師が指を差す。


 試験開始後、前半寄り。


 以前、相対的に「早い位置」とだけ知らされていたときに入れた小変動と近い場所。


 ただし今日のアリシアは、学院側が前半を有力視していることは知っていたものの、実際に前半条件が選ばれたとは知らされていなかった。


「私が“前半じゃないかも”って言ったのは?」


 サーラが記録紙を重ねる。


「小変動開始より少し前です」


 アリシアの指が止まる。


「違和感は?」


「小変動開始後、一呼吸未満です」


「……また?」


「はい」


 部屋の空気が少し変わった。


 若い観測員がいれば、今頃かなり顔に出ていたかもしれない。


 今日は別室にいる。


 そのせいか、室内は思ったより静かだった。


「私、前半待ってたのに、その待ってたところでは出なかった」


「はい」


「前半じゃないかもって思ったあと、小変動が実際に入って、そのあと出た」


「記録上はそうです」


「じゃあ、期待だけで早いところに出たわけじゃない」


「少なくとも今日の試験では、前半を期待していた時間帯に先行して冷感が出たわけではありません」


「それ、結構大きい?」


 魔導具教師はすぐ答えなかった。


 少し記録を見てから言う。


「大きいです。ただし、“期待の影響を除けた”とは言いません」


「分かってる」


「今日は前半予想が七から八まで上がっていました。それでも小変動前には感覚ゼロだった。これは、単純に“前半を待っていたから感じた”だけでは説明しにくい材料になります」


「でも、何か来るっていう全体の期待はある」


「はい」


「身体の自然な揺れとかもある」


「はい」


「小変動そのものじゃなく、東側奥部の追加低下を感じてる可能性も残ってる」


「その通りです」


 アリシアは記録板を見つめたまま、少しだけ笑った。


「先に言えるようになった」


『先生たちの仕事取らないで』


「ノア」


     ◇


 東側奥部の記録もすぐ重ねられた。


 今日も、意図的小変動の近くで、ごく小さな追加低下が確認されている。


 大きさは、以前前半へ小変動を移したときと近い範囲。


 ただし完全一致ではない。


 アリシアの最初の「何かある」という申告と、東側奥部の追加低下開始は、今回も測定精度の範囲で近い。


 どちらが必ず先なのかは断定できない。


「また同じくらい?」


 アリシアが聞く。


「はい。細かい順番は言えません」


「西側は?」


『少し遅れて弱い波形が出ています』


 別室から設備担当の声が返る。


「前半に動かした分、西側も早くなった?」


『以前の前半条件と比べれば、広い意味では近い時刻帯です。ただし開始点が弱く、完全に同じ遅れとは言えません』


「私が感じたより後?」


『明確に読み取れる西側波形開始は後です』


 アリシアは頷いた。


 これまでと同じように、今のところ直接西側の波形開始を感じているという説明には合いにくい。


 それでも、東西の伝達や状態共有そのものが何なのかは分からない。


「今日の冷たさ、弱かった」


「〇・三前後ですね」


「前の前半も〇・三くらいだった」


「近いですが、同じ強さとまでは扱いません」


「分かってる」


 後半寄りでは〇・五前後、条件非通知の後半では〇・四前後。


 前半寄りは二回とも〇・三程度。


 数字だけ見れば綺麗に見える。


 でも、それだけで「前半は弱い」と決めるには少なすぎる。


「前半二回、後半二回になった?」


「意図的小変動条件だけなら、前半二回、後半二回です」


「滑らか二回」


「はい」


「……また綺麗」


『今日は九?』


 ノアが聞く。


 アリシアは少し考える。


「嬉しい九」


『やっぱり』


「でも怖さも三」


「結果が綺麗すぎる怖さですか」


 サーラが聞く。


「うん。あと、本当に何か見えてきたかもしれない怖さ」


 その言葉には、誰もすぐ返さなかった。


 今までは、分からないことが怖かった。


 答えが見えないことが不安だった。


 けれど最近は、逆の怖さも出てきている。


 本当に何かが再現され始めたとき、それが六つ目の神器の本質へ近づいているかもしれない。


 その可能性は、嬉しいだけではなかった。


     ◇


 試験後は、すぐ二回目の刺激を行わなかった。


 アリシア自身も求めなかった。


「もう一回やりたい気持ち?」


 サーラに聞かれ、アリシアは考える。


「六」


「今日もう一回は?」


「二」


「低いですね」


「今日の記録見たい」


「それが良いでしょう」


 午後の残りは解析へ回された。


 机には、意図的小変動を入れた四回分の記録だけが先に並べられる。


 最初の後半寄り。


 前半寄りへ移した回。


 条件を完全には知らされず、三候補の中から後半寄りが選ばれた回。


 そして今日の前半寄り。


 四回とも、小変動開始から一呼吸以内に最初の弱い違和感が出ている。


 強さは揃わない。


 位置も完全には揃わない。


 東寄り方向感覚も、ある回とない回がある。


 でも、最初の違和感が現れる時刻だけは近い。


「四回」


 アリシアが呟く。


「はい」


「前半二回とも、小変動の近く」


「はい」


「後半二回も」


「はい」


「しかも今日、前半待ってた時間には何もなかった」


「そう記録されています」


「これ、かなり強くなったよね」


 魔導具教師が頷く。


「“意図的小変動と最初の主観的違和感の時刻が近い”という観察は、これまでより再現性が上がりました」


「六つ目が小変動を感じてる?」


「そこまでは言えません」


「分かってる」


 アリシアは少し笑う。


「言ってみただけ」


『試すな』


 ノアが呆れた。


 サーラは記録を整理しながら続ける。


「今後は、同じ小変動でも感覚が出ない場合があるかを見る必要があります」


「小変動ありで無反応」


「はい」


「今は四回とも出てるから」


「そうです」


「滑らか二回は冷感なし」


「はい」


「じゃあ次も三候補?」


「候補です。ただし、連続して人工刺激を重ねない方がいいでしょう」


「明日は休み?」


「現時点では分析優先です」


「嫌は?」


 アリシアは少し考える。


「一」


「低い」


「今日かなり取れたから」


『満足した研究者みたいな顔』


「学生」


『毎回そこだけは譲らないのね』


     ◇


 子供の方では、午後も木箱を開けなかった。


 既存の別角度複写を見比べた結果、新しく見つけた一つ目の交差候補は、少なくとも二種類の写しで同じ位置に線が集まっているように見えた。


 ただし、最初に確認した交差候補と同じ「一方が途中で切れて見える」特徴までは、紙だけでは分からない。


「次、光で見る価値ある?」


 子供がエルデンに聞く。


「あると思う」


「布動かさない?」


「今の位置なら動かさなくても見える可能性が高い」


「黒いの触らない?」


「触らない」


「一個だけ?」


「一個だけ」


 子供はしばらく考えた。


「見たい九」


「箱開けたいは?」


「四」


「怖さは?」


「二」


「今日やる?」


「やらない」


「明日?」


「明日の私に聞く」


 エルデンが少し笑った。


「分かった」


 子供は複写へ丸を一つ付ける。


 それ以上は進めなかった。


     ◇


 夕方、顔のない存在は、午前より少し長く歩いた。


 最初に二歩進み、短く止まり、そのあと一歩、さらに二歩と続け、合計五歩で椅子へ座る。


「夕方五歩。二歩、一歩、二歩」


 子供が記録する。


 午前は四歩。


 数だけなら一つ増えている。


 けれど、「良くなった」とは書かない。


 胸の光は、明るい一つと弱い三つ。


「今は四つ見える」


「朝は三つだったね」


「うん。でも変わった瞬間見てない」


「位置は?」


「一個は朝と近い。二個は午前と近いかも。一個は違う」


「“かも”もそのまま残そう」


「うん」


 今日、人工刺激は午後に行われている。


 けれど顔のない存在の胸の光を、刺激直前から直後まで連続して見ていたわけではない。


 夕方に内訳が変わっていても、それだけでは関係を結べない。


 子供も、もうそこを急がなかった。


     ◇


 夜になる頃、朝から空を覆っていた雲は少しずつ薄くなっていた。


 月はまだ見えないが、窓の向こうの空には濃淡が生まれ、庭の木々の輪郭も昼間よりはっきりしている。


 アリシアは机へ座り、今日の練習帳を開いた。


 まず身体状態を書く。


『試験前、冷感・震え・痛み・息苦しさ・頭痛・腕の重さなし。疲労二。怖さ三。参加意思八』


 その下へ、今日重要だった期待の記録を残す。


『試験前から前半寄り条件を予想していた。予想七。試験開始後は前半を探している自覚があり、途中で予想八まで上がった。その時間には確認できる感覚なし』


 アリシアは筆を止める。


 ここが今日、一番大事だと思った。


 前半を待っていた。


 かなり意識していた。


 でも、その時間には何も感じなかった。


 そして「今日は前半ではないかもしれない」と考え始めた少しあと、実際の小変動が入った。


 その一呼吸以内に、弱い違和感が出た。


『小変動開始後、一呼吸以内に最初の違和感。中央より少し右。最初は冷感と断定できず、その後〇・三程度の弱い冷たさ。東寄りかもしれないが自信低い。震え、痛み、息苦しさなし』


 続けて東側奥部の記録を書く。


『東側奥部でも小変動付近に微小な追加低下。私の最初の違和感との細かな前後関係は測定精度上まだ決められない。西側の明確な弱い波形は後から出た』


 ノアが机の上へ飛び乗る。


『今日は大きい文字書かないの?』


「何を?」


『“まだ少ない”』


「書く」


『やっぱり』


 アリシアは少し大きめの文字で、その一文を残した。


『四回とも近い。でもまだ少ない』


『真面目』


「大事だから」


『昨日も同じこと言ってた』


「毎日大事」


 アリシアはさらに続ける。


『意図的小変動を入れた四回では、前半二回・後半二回とも、変動から一呼吸以内に弱い違和感が出た。滑らかな十呼吸では二回とも確認できる冷感なし。今のところ、感覚の強さより時刻の近さの方が揃っている』


 そこまで書くと、本当に形が見えてくる。


 前半でも。


 後半でも。


 小さな変化が入ったあとに、弱い違和感が現れる。


 一方で、同じ十呼吸でも、意図的小変動を加えない滑らかな条件では冷感が出ていない。


 けれど、六つ目が何を感じているのかはまだ分からない。


 入力された小変動そのものか。


 東側奥部に起きる追加低下か。


 その間にある、まだ測れていない何かか。


 アリシアは練習帳へそのまま書く。


『六つ目が“小変動”を感じている、と名前をつけるのはまだ早い。変動と感覚が近いことは増えているけれど、何を直接拾っているのかは分からない』


 ノアが横から覗き込む。


『名前つけたい気持ちは?』


「七」


『高いじゃない』


「だって四回」


『先生たちに言ったら止められるわね』


「分かってるから書かない」


『今書いた』


「これは気持ち」


『便利ね』


 アリシアは少し笑った。


 そのあと、研究とは別の欄も一つ作る。


『今日は授業で友達と同じ訓練具を使った。昨日ほど長く一緒にはいなかったけど、普通に話せた。楽しかった六』


 昨日は焼き菓子を一緒に食べた。


 今日は授業で少し笑っただけ。


 でも、どちらも「友達だった時間」だと思えた。


 研究の日常と、学生の日常。


 どちらかを選ぶ必要はない。


 最後に、次へ向けた気持ちを書く。


『明日は人工刺激なしでもいい気持ち九。今日の結果をもう一度見る気持ち九。次に試すなら、同じ三候補方式を続けたい八。ただし、小変動ありなら必ず感じると決めない。次に感じなかった場合も重要』


 筆を置く。


 今日、前半を待っていた自分は消えなかった。


 期待も消えなかった。


 それでも、期待していた時間と実際に感覚が現れた時間は同じではなかった。


 だから一つだけ、昨日より言いやすくなったことがある。


 単に「前半だと思っていたから感じた」だけでは、今日の記録は説明しにくい。


 けれど、それは答えではない。


 アリシアは窓の外を見た。


 雲の切れ間が少しだけ広がり、暗い空の奥に星が一つ見え始めている。


 四回。


 まだ四回。


 その少なさを忘れなければ、嬉しさを消す必要もない。


 アリシアは練習帳を閉じ、机の灯りを少し落とした。


 次に確かめるべきなのは、同じ形をもう一度作ることだけではなかった。


 今まで揃ってきた形が、どこで崩れるのか。


 小さな変化があっても感じない日があるのか。


 滑らかな条件でも何かを感じる日が出るのか。


 その違いまで受け取れたとき、ようやく今見えているものが、本当に六つ目へ続く道なのかを少しずつ考えられる。


 だから今日は、四回目の一致を答えにはしなかった。


 ただ、前より少しだけ重い記録として、丁寧に残した。

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