第183話 次に前半を確かめたいからこそ、前半だと悟らせるものまで減らしておく
朝から、学院の空には薄い雲が広がっていた。
雨が降るほど重くはないものの、陽射しは布を一枚挟んだように柔らかく、生活観測区画の庭にも淡い灰色の光が落ちている。窓を少しだけ開けると、湿り気の少ない風が入り、遠くで鳴いた鳥の声と、朝番の職員が廊下を歩く規則的な足音が一緒に流れ込んできた。
アリシアは目を覚ますと、しばらく天井を見つめた。
昨日は、条件を知らされないまま滑らかな十呼吸を受けた。
確認できる冷感はなかった。
その結果は、一昨日まで見え始めていた形に綺麗に重なった。
意図的小変動を加えた三回では、その変化の近くに弱い違和感が出ている。
一方で、微細な揺れをできるだけ抑えた滑らかな十呼吸では、これまで二回とも確認できる冷感が出ていない。
嬉しかった。
けれど、昨日の夜に練習帳へ書いた通り、綺麗に並び始めたからこそ慎重になりたい気持ちもあった。
アリシアは身体を起こし、順番に自分の状態を確かめていく。
胸の冷たさはない。震えもなく、息苦しさもない。頭痛や腕の重さもなく、身体の疲労は一程度だった。
昨日の試験後にも残留は確認されていない。
今朝も身体だけなら問題はない。
「試験やりたい……七」
枕元の練習帳へ数字を書きながら、アリシアは小さく呟いた。
窓辺で外を見ていたノアが振り返る。
『昨日の夜は前半やりたい七だったわね』
「うん」
『変わってない』
「今はね」
『今日やりたいは?』
アリシアは少し考えた。
「五」
『低いじゃない』
「昨日も試験したから」
『前なら関係なかったのに』
「前の私の話、便利に使いすぎ」
『比較対象として優秀なのよ』
「嫌な比較」
アリシアは練習帳を閉じる前に、もう一つだけ数字を足した。
「前半が来てほしい気持ち、七」
『それ、言っていいの?』
「今ここだから」
『先生の前で聞かれたら?』
「たぶん言う」
『だったら前半を待つでしょうね』
「……そうなんだよね」
アリシアは眉を寄せた。
昨日の滑らかな十呼吸では、試験前の質問で「滑らかな十なら無反応になってほしい気持ち」を聞かれたことで、その条件を意識してしまった。
結果自体は無反応だった。
けれど、質問が期待を作ったことは間違いない。
「前半やりたいって先生たち知ってる」
『昨日自分で言ったからね』
「もし今日前半だったら、先生たちが何も言わなくても、私が勝手にそう思うかも」
『前半じゃなくても思うでしょうね』
「うん」
何を隠しても、自分の頭の中までは消せない。
それでも、外から余計な手がかりを増やさないことはできる。
「今日、試験しない方がいいかも」
『さっきやりたい七って言ってたじゃない』
「やりたいのと、今日やるのがいいのは別」
『またそれ言えるようになった』
「昨日も言った」
『定着したか確認してる』
「ノアまで観測員みたい」
『絶対嫌』
そこだけは強く否定され、アリシアは少し笑った。
◇
隣の寝台では、子供がまだ起きたばかりだった。
毛布を肩へ掛けたまま、自分の机へ目を向けている。
木箱は昨夜と同じ場所に置かれたまま、閉じている。
その隣には、最初の交差候補と、接近・終端候補を写した複写が二枚並べられていた。
「今日は箱どうする?」
アリシアが聞く。
子供はまだ少し眠そうな顔のまま考えた。
「開けない」
「すぐ決まったね」
「昨日も開けなかった」
「うん」
「今日も紙」
「何見る?」
「別の交差探す」
昨日、エルデン教師と相談していた内容だ。
最初に浅い角度の光で確認した一か所は、二本の線が重なっている可能性が高まっている。
二つ目は、交差というより一方が浅くなりながら別の線へ近づき、そこで見えにくくなっている可能性が出てきた。
一か所だけを何度も見て刻印順を考えるより、似た交差が他にもあるかを複写上で探す。
「箱開けたい気持ちは?」
「二」
「線知りたいは?」
「九」
「別の交差探したいは?」
「九」
「高い」
「紙だから」
子供はそこで少し考え、アリシアの方を見る。
「アリシアは今日試験?」
「まだ分からない」
「やりたい?」
「七」
「今日やりたい?」
「五」
「違う」
「うん」
「私も箱見たいはあるけど、今日は開けたい二」
「似てるね」
「でも線は九」
「私は前半を見たい七」
「前半?」
子供が聞いた。
アリシアは一瞬だけ説明しようとして、やめた。
「次に比べたいもの」
「それ来てほしい?」
「七」
「でも何来るか知らない?」
「そう」
「じゃあ待つの大変」
「そうなの」
子供は納得したように頷いた。
◇
朝の顔のない存在は、寝台の端へ腰掛け、両手を腿の上へ置いていた。
子供は今日も、前日の記録を先に見ない。
新しい十一個の円を描いた紙を出し、胸元へ見えている光を数える。
「明るい一つ。弱い二つ」
昨日の夕方には、明るい一つと弱い三つが見えていた。
今朝は三つ。
けれど、子供は「一つ減った」とは言わない。
位置を先に記録する。
明るい一つは中央より少し下。
弱い二つは左右に離れている。
「今は三つ見える」
「うん」
「昨日の見ていい?」
「書き終わったなら」
前日の夕方記録を隣へ置く。
「明るいの、一個近い」
「弱い方は?」
「一個少し近い。もう一個違う」
「じゃあ、それだけ残そう」
「うん」
顔のない存在はまだ歩こうとしない。
子供は歩数欄を空白にした。
◇
朝食後、サーラが一人で生活観測区画へやってきた。
魔導具教師も設備調整担当もいない。
試験器材らしいものも持っていなかった。
それを見たアリシアは、少しだけ安心した。
「今日は試験ない?」
「今のところ人工刺激は行わない方針です」
「やっぱり」
「予想していましたか」
「昨日やったから」
『こっちの子、昨日から急に連日刺激を警戒する側になったのよ』
「急にじゃない」
サーラは苦笑しながら椅子へ座る。
「身体確認はします」
アリシアはいつものように状態を答えた。
冷感ゼロ。
震えなし。
痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さもすべてゼロ。
疲労一。
「怖さは?」
「二」
「試験をしたい気持ち」
「七」
「今日実施したい気持ち」
「五」
「前半寄り条件を確かめたい気持ちは?」
アリシアは答える前にサーラを見た。
「それ、次から聞かない方がいいと思う」
サーラの筆が止まった。
「理由を聞いても?」
「私、前半やりたい七って思ってる。でも毎回それ聞かれたら、試験始まったときに前半を待つ」
「昨日の特定候補質問と同じ問題ですね」
「うん」
「では、今の七までは記録しますが、今後の試験前確認からは外しましょう」
「後半も滑らかも?」
「個別条件への希望は、必要な分析日には聞いても、試験直前には聞かない方が良さそうです」
「その方がいい」
サーラは記録用紙へ新しい線を引きながら続けた。
「実は学院側でも昨日、その点が議題に上がりました」
「質問の仕方?」
「はい。それから、質問だけではありません」
「ほかにもある?」
「あります」
サーラは少し間を置き、アリシアの表情を見る。
「職員の動きです」
「動き?」
「たとえば、前半寄り小変動の日だけ設備担当が開始前から記録板を頻繁に確認する。後半の日だけ若い観測員が途中から前へ乗り出す。滑らかな十の日だけ誰かが妙に落ち着いている。そういう違いも、アリシアさんが意識せず拾う可能性があります」
アリシアは目を瞬いた。
「そんなの分かるかな」
『あなた、サーラが心配してると声がちょっと硬くなるの分かるでしょう』
「分かる」
サーラがノアを見る。
「例として私を使わないでください」
『分かりやすいから』
アリシアは考え込んだ。
「じゃあ先生たちも、どの条件でも同じようにする?」
「可能な範囲で」
「途中で見る場所も?」
「はい。必要な安全確認は変えませんが、本人から見える行動差は減らします」
「若い先生、絶対顔に出そう」
「本人も自覚しています」
『じゃあ別室に置いとけば?』
「ノア」
「候補にはあります」
「あるんだ」
思わず笑いが漏れた。
それでも、内容は大事だった。
条件を知らせないと言っても、言葉だけを伏せれば十分とは限らない。
人は顔を見る。
声を聞く。
手の動きを見る。
いつもと違う沈黙に気づくこともある。
「私、そこまで見てるかな」
アリシアが言う。
「意識的には見ていなくても、影響する可能性はあります」
「じゃあ次は、先生たちも同じ顔」
『無茶言うわね』
「ノアが言ったんでしょ」
◇
午前中、アリシアは普通の授業へ出た。
今日は魔術理論でも実技でもなく、一般教養の歴史講義だった。
広い講義室には複数の学年から集まった生徒が座っており、いつもの教室より人数が多い。階段状の席へ差し込む光は曇り空のせいで弱く、代わりに前方の魔導灯が黒板を白く照らしていた。
講義内容は、古い街道整備と交易都市の成立についてだった。
地下設備とは関係がない。
神器とも関係がない。
アリシアは最初のうち、こういう授業だと少し安心する自分に気づいた。
何を聞いても実験へ繋げなくていい。
先生の言葉を、そのまま授業として聞けばいい。
隣には、最近よく話す女子生徒が座っている。
「今日眠くない?」
「まだ大丈夫」
「私はもう危ない」
「始まったばっかり」
「歴史は眠くなる」
「先生に聞こえるよ」
「聞こえないって」
そう言った直後、前方の教師がこちらを向いた。
女子生徒の背筋が伸びる。
アリシアは口元を押さえた。
「笑った?」
「ちょっと」
「友達を助けてよ」
「どうやって」
「先生がこっち見たら咳して」
「絶対嫌」
女子生徒は不満そうな顔をしたが、すぐ自分でも笑った。
講義が進むにつれ、街道の分岐と宿場の発展が黒板へ描かれていく。
アリシアは途中で、線が枝分かれしていく図を見た瞬間だけ東西補助連絡線を連想した。
けれど、すぐに視線をノートへ戻す。
似た形があるからといって、同じ意味ではない。
最近はそういうことも、前より自然に切り離せるようになっていた。
授業後、女子生徒がノートを閉じながら言う。
「午後も何かある?」
「たぶん研究の話」
「試験?」
「今日はしないと思う」
「じゃあ少し暇?」
「暇ではない」
「研究の話するんでしょ」
「うん」
「それを暇じゃないって言うんだ」
「言うよ」
女子生徒は少し考えてから、軽い声で言った。
「じゃあ、終わったら食堂の焼き菓子食べない?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「二人で?」
「ノアも来るなら三人」
『数に入れないで』
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
「研究終わる時間分からない」
「先にいたら待ってる。遅かったらまた今度」
その言い方が、アリシアには少し嬉しかった。
絶対に来てとも言われない。
来られなかったら関係が変わるわけでもない。
「行けたら行く」
「それでいいよ」
アリシアは小さく頷いた。
◇
昼前、生活観測区画へ戻ると、顔のない存在がちょうど立ち上がろうとしていた。
子供は少し離れた場所で見守っている。
顔のない存在は最初に二歩進み、そこで一度止まった。しばらく身体を揺らすようにしてから一歩進み、さらに短い間を空けてもう二歩続け、合計五歩で椅子へ座った。
「午前五歩。二歩、一歩、二歩」
子供が記録する。
昨日午前も五歩だった。
けれど歩き方は違う。
「同じ五」
「でも区切り違うね」
「うん」
胸の光を確認すると、朝と同じ明るい一つ、弱い二つが見えた。
ただし、弱い二つのうち片方は朝より見えにくい。
「今はこっちが見えにくい」
「位置は?」
「明るいのは朝と近い。弱い一個も近い。もう一個違う」
「それで残そう」
子供は頷いた。
◇
午後の会議には、サーラ、魔導具教師、設備調整担当、安全管理担当、若い観測員が参加した。
ただし今日は試験をしない。
机の上へ並べられているのは刺激用の操作板ではなく、これまでの試験前後に「誰がどこにいたか」「誰が何を質問したか」「どの時点で設備側を見たか」を簡単にまとめた記録だった。
アリシアはそれを見て、少し驚いた。
「こんなのも残してた?」
「一部です」
若い観測員が答える。
「全部ではないので、今後はもう少し統一しようという話です」
「先生が前に乗り出したとかも?」
「……そこまで細かく残ってないです」
『残せばいいのに』
「猫に言われたくない」
若い観測員は苦笑してから、少し真面目な顔へ戻った。
「ただ、自分でも反応が出そうな時間帯を知っていると、どうしても記録板を見る回数が増えると思います」
「私、それ見てたかな」
「分かりません。でも、分からないなら減らした方がいい」
「うん」
魔導具教師が新しい運用案を示す。
次回以降、アリシアが入室したあとに本人から見える場所では、三候補のどれであっても職員の立ち位置を同じにする。
設備操作を担当する者は、アリシアから直接見えない位置へ置く。
試験中、サーラが行う安全確認の質問も、必要がない限り条件によって増減させない。
若い観測員は生波形を直接見ず、別室で記録時刻だけを取るか、アリシアから見えない後方へ下がる。
「私、そこまで気づかないと思う」
アリシアがもう一度言う。
「その可能性もあります」
サーラは頷いた。
「ですが、気づかなかったことと影響を受けなかったことは同じではありません」
「そうだった」
最近何度も出てくる考え方だった。
自覚していない期待。
意識していない視線。
言葉にする前の違和感。
全部、なかったことにはできない。
「じゃあ、先生たちが何してるかも条件に入る」
「厳密には観測環境ですね」
「また増えた」
『喜びなさい。研究が増えたわよ』
「嬉しくない」
◇
次に問題になったのは、開始合図だった。
今までは毎回同じ「刺激開始」という合図を使っている。
それ自体は条件差を生まない。
ただし、前半寄りの小変動が入る場合、アリシアは開始直後から「早いところに来るかもしれない」と意識してしまう可能性がある。
「それ、どうしようもなくない?」
アリシアが言った。
「三候補を知ってる以上、前半も候補だって分かる」
「はい」
「開始した瞬間から待たないのは無理」
「完全には無理です」
「じゃあどうする?」
設備調整担当が答える。
「前半寄りといっても、毎回同じ呼吸位置へ固定しない案があります」
アリシアは目を瞬く。
「場所変えるの?」
「安全範囲内で、前半の中でも少しずらす」
「でもそれ、条件増える」
「増えます」
「今は同じ条件で確かめたいんじゃなかった?」
「その通りです」
サーラがそこで止めた。
「だから今回は採用しない方がいいでしょう」
設備調整担当も頷く。
「私も、今すぐやる案ではなく将来候補として出しただけです」
「じゃあ次は前と同じ前半位置に近づける?」
「可能な限り」
「私が早いところ待ってても?」
「それは記録する」
「分かった」
アリシアは少し考える。
「じゃあ、完全に期待なくすんじゃなくて、期待があるままでも時刻が合うか見る?」
「その言い方が近いです」
「前半だと知らない。でも前半が候補にあるのは知ってる」
「はい」
「だから早いところを待つ可能性はある」
「はい」
「それでも、もし実際の小変動の前に私が何か言ったら、それも大事」
「非常に大事です」
「小変動より前に“冷たい”って言ったら、期待だけでも出る可能性が上がる」
「そうですね」
「逆に、ずっと待ってたのに何もなくて、実際の小変動の近くでだけ出たら?」
「期待だけでは説明しにくくなります。ただし、それでも完全には除外できません」
「分かってる」
アリシアは少しだけ笑う。
「もう最後まで言わなくても分かるようになってきた」
『先生たちの止め方を覚えたのね』
「止め方って言わないで」
◇
会議の後半では、次回の実施候補そのものについて確認した。
有力なのは、三候補非通知方式を維持すること。
滑らかな十呼吸。
前半寄り小変動入り十呼吸。
後半寄り小変動入り十呼吸。
ただしアリシアには、当日どれを使うかだけでなく、学院側が何を優先しているかも伝えない。
「次、前半が有力って今言ってるじゃん」
アリシアが指摘すると、若い観測員が気まずそうな顔をした。
「今日の会議では、です」
「次の日に前半じゃない可能性もある?」
「あります」
「本当に?」
「はい」
サーラが横から補足する。
「今日の時点では前半非通知再確認の情報価値が高いと考えています。ただし、明朝の身体状態、地下側の自然変動、設備状態次第では実施を見送るか、別候補へ変える可能性があります」
「じゃあ、今日聞いた“前半有力”も記録しないとだめ」
「はい」
「次に試験する日、私、前半だと思うかも」
「その可能性があります」
アリシアは両手で顔を覆いたくなった。
「もう隠せないじゃん」
周囲に少しだけ笑いが広がる。
サーラは笑いながらも、すぐ真面目に戻った。
「完全には隠せません。だから次回からは、アリシアさんが参加する会議で“次の優先候補”まで決めない方法を考えています」
「今日で遅い」
「今回はそうですね」
『勉強になったじゃない』
「ノアは簡単に言う」
「でも、今回の失敗は小さいです」
魔導具教師が言った。
「前半が候補であることは元から知っていますし、前半を再確認したいという希望も本人にあります。新しく増えたのは“学院側も前半を高く評価している”という情報です」
「それがどれくらい影響するか分からない」
「はい」
「じゃあ次やるなら、期待が高い試験として扱う?」
「そうなります」
アリシアはしばらく考えたあと、頷いた。
「それならやってもいい」
「参加意思は?」
「今は七」
「怖さは?」
「三」
「前半だと思ってしまう可能性への不安は?」
「四」
「それでも条件非通知を続けたい?」
「八」
「分かりました」
◇
会議が終わったあと、アリシアはすぐ生活観測区画へ戻らなかった。
朝、女子生徒から誘われていた食堂の焼き菓子を思い出したからだ。
「行くの?」
廊下へ出たところでノアが聞く。
「うん」
『研究終わったら行けたら行く、だったわね』
「終わったから」
『珍しく約束っぽいもの守るじゃない』
「約束じゃない」
『でも行くんでしょう』
「行きたいから」
学院食堂の午後は、昼食時ほど混雑していない。
それでも何人かの生徒が残っており、窓際では上級生が本を読み、奥のテーブルでは三人組が小さな声で課題の相談をしていた。
焼いた小麦と蜂蜜の甘い匂いが漂う中、朝の女子生徒はすでに席へ座っていた。
「来た」
「いた」
「待ってたって言ったでしょ」
「遅かったらまた今度って」
「今日はまだいた」
アリシアは向かいへ座った。
女子生徒の前には二つの焼き菓子がある。
「これ一個?」
「うん。余ったら私が食べるつもりだった」
「じゃあ半分?」
「一個ずつ」
「お金」
「次なんか買って」
「それでいいの?」
「友達ってそういうもんじゃない?」
また、その言葉が出た。
昨日初めてはっきり言われたときほど驚かなかった。
でも、嬉しい。
「じゃあ次、私買う」
「覚えといてね」
「忘れない」
焼き菓子は外側が少し固く、中は柔らかかった。
蜂蜜の甘さが強すぎず、温かい茶によく合う。
アリシアは一口食べてから、少しだけ肩を緩めた。
「おいしい」
「でしょ」
「ノアは?」
『甘いのいらない』
「じゃあなし」
『聞いた意味』
女子生徒が笑う。
研究の話はしなかった。
相手も無理に聞かなかった。
授業で先生に見つかりそうになったこと。
実習室で失敗した別の生徒の話。
食堂の新しい焼き菓子が前のものより少し小さくなった気がすること。
そんなことだけで十五分ほど過ごした。
アリシアは途中、時計を何度も見なかった。
◇
生活観測区画へ戻ると、子供は複写へ新しい印をつけていた。
エルデン教師と一緒に、別の交差候補を紙の上だけで探していたらしい。
「見つかった?」
「二個あるかも」
「交差?」
「まだ候補」
子供が指した一つ目は、二本の細い線が狭い角度で近づき、そのまま重なるように見える場所。
二つ目は、片方が大きく曲がった先でもう一本と触れているように見える場所だった。
「どっちが見たい?」
「今は一個目八。二個目六」
「箱開けたい?」
「三」
「今日は開ける?」
「開けない」
「何で?」
「紙でまだ見る」
エルデンが横から言う。
「一つ目は、別角度の既存複写にも一部写ってるから、先にそっちを比べる」
「じゃあ箱なしでまだできるね」
「うん」
子供は満足そうに頷いた。
◇
夕方、顔のない存在はもう一度立ち上がった。
今度は一歩進んでから少し長く止まり、その後二歩を続け、さらに一歩進んだところで椅子へ座った。
「夕方四歩。一歩、二歩、一歩」
子供は午前の五歩と並べる。
胸の光は、明るい二つと弱い二つに見えた。
「今は四つ」
「朝は三つだったね」
「うん。でも増えたところ見てない」
「位置は?」
「明るい一つは朝と近い。もう一つは違う。弱いのは一個午前と近い。一個違う」
「それでいいね」
今日、人工刺激は行われていない。
東側奥部にも大きな自然変動は報告されていない。
だから十一の光と地下側を結びつける材料もない。
子供は数字と位置だけを残した。
◇
夜。
生活観測区画の窓の外では、昼間より雲が薄くなり、その隙間から月の光が庭へ落ちていた。
アリシアは机へ座り、今日の会議内容を練習帳へまとめている。
最初に書いたのは、試験をしなかったことだった。
『今日は人工刺激なし。身体への残りもなし。次に確かめたい気持ちはあるが、昨日の試験直後なので新しい刺激は入れなかった』
その下へ、今日一番大きかった問題を書く。
『条件の名前を隠すだけでは、完全に条件を隠せない。質問の内容、先生たちの立ち位置、見る場所、声や表情も手がかりになるかもしれない』
筆を止める。
今日の会議で、学院側が前半寄り条件を次の有力候補として考えていることまで知ってしまった。
そのことも隠さず書いた。
『次は前半寄り条件が有力だと聞いた。そのため、次の試験では私自身が前半を予想しやすい。これは消せないので、期待が高い状態として記録する』
ノアが机へ上がってきた。
『結局、次は前半だと思ってる?』
「七くらい」
『高い』
「先生たちが言ったから」
『自分でも前半やりたい七だったでしょう』
「両方」
『じゃあ次、開始直後から胸見つめるの?』
「それしないようにしたい」
『できる?』
「分からない」
『正直ね』
「でも、できなかったら言う」
『それでいいんじゃない』
アリシアはもう少し書き足した。
『前半を待ってしまうこと自体を失敗にしない。待っていた時間に何も感じなかったのか、小変動より前に何か感じたのか、実際の変動の近くで初めて感じたのかを分けて残す』
そこまで書いて、アリシアは一度筆を置いた。
今日、試験はしていない。
それでも次の試験は、昨日までと少し違うものになる。
設備の条件だけではない。
観測する人間たちの動きも揃える。
質問の順番も整える。
誰がどこを見るかまで意識する。
小変動を強くしたわけではない。
新しい速度を試すわけでもない。
けれど、比べるための周囲が少しずつ整っている。
「焼き菓子のことも書く?」
ノアが突然言った。
「また?」
『今日は研究よりそっちの方が普通だったでしょう』
「普通って何」
『友達とお菓子食べること』
アリシアは少し迷い、ページの端へ小さく書いた。
『授業のあと、友達と食堂で焼き菓子を食べた。楽しかった七。研究の話はしなかった』
書いてから、「友達」という文字をしばらく見つめる。
昨日は言われて驚いた。
今日は自分で書けた。
「楽しかった七」
『また上がってる』
「昨日は六だった」
『研究以外もちゃんと数字上がるのね』
「失礼」
アリシアは笑い、最後の欄へ戻る。
『次の試験で見たいのは、前半寄りの小変動を私が前半だと知らない形で受けたとき、最初の違和感がどこへ出るか。ただし今は学院側も前半を有力と考えていると知っているので、完全に予想のない状態ではない』
そこで少し考え、続きを書いた。
『だから、期待を消せた試験にするのではなく、期待があることを残したまま、それだけでは説明しにくい時刻関係がもう一度出るかを見る』
その書き方が、今の自分には一番正しい気がした。
期待しない人間になる必要はない。
嬉しくならない必要もない。
結果を守りたいと思わないようにする必要もない。
そういうものがあることを認めた上で、結果と混ぜないようにする。
アリシアは窓の外へ目を向けた。
雲の切れ間から出た月が、庭の石畳へ細長い光を落としている。
次の試験では、自分はきっと前半を意識する。
開始直後から、「今かもしれない」と思うかもしれない。
その期待より先に感覚が出るかもしれないし、何も出ないまま前半が過ぎるかもしれない。
実際の小変動が入っても、感じない可能性だってある。
どれが来ても、今までの形を壊すことにはならない。
形のどこまでが本当に残るのかを知るための一枚になる。
アリシアは練習帳を閉じた。
次に整えるべきものは、刺激の強さではなかった。
自分の期待も、先生たちの視線も、部屋の空気も含めて、どこまで同じ場所に置けるのか。
小さな違いを確かめるためには、その周りにある小さな違いまで見逃せなくなっていた。




