第182話 何も足さない十呼吸を知らずに受けて、それでも同じ冷たさが現れるのかを見る
翌朝、生活観測区画の窓には薄い曇りが残っていた。
夜の間に気温が下がったらしく、外の庭には白い靄が低く漂っている。木々の輪郭も少しだけ柔らかく霞み、まだ陽の届かない石畳には細かな露が一面に残っていた。窓際へ近づけば、冷えた空気の中に湿った土と草の匂いが微かに混じっている。
アリシアは目を覚ますと、すぐには起き上がらず、布団の中で身体の状態を順番に確かめた。
胸の冷たさはない。息苦しさもなく、指先を伸ばしても震えはなかった。頭痛や腕の重さもなく、昨日一日人工刺激を行わずに過ごしたためか、疲労も寝起きとして一程度に落ち着いている。
一昨日の試験では、当日の条件を知らされないまま座り、実際には立ち上がり後半へ小さな変動を一度だけ加えた十呼吸を受けた。
そのときも、アリシアの最初の違和感は変動の近くで現れた。
その前には、変動を前半へ移した条件でも、感覚の現れる時刻が一緒に前へ動いたように見えている。
そしてさらに前、同じような小さな変動を後半へ入れた最初の試験でも、やはり一呼吸以内に弱い違和感があった。
三度。
どれも強さは同じではない。
それでも、時間だけは不思議なほど近かった。
アリシアは枕元の練習帳を開き、昨夜最後に書いた数字を見た。
『次の滑らかな十で無反応になってほしい気持ち六。何か感じても記録したい気持ち八』
それを読んでから、今朝の自分へ同じ問いを向ける。
「無反応になってほしい気持ち……五」
窓辺で丸くなっていたノアが耳を動かした。
『下がった』
「うん」
『何か感じても記録したい方は?』
「八。そこは変わってないと思う」
『試験したい?』
「八」
『今日やりたい?』
アリシアは少し迷ってから、枕へ背を預けたまま答えた。
「七」
『昨日より上がったわね』
「一日空いたから」
ノアは前脚を伸ばし、ゆっくり身体を反らせるように伸びをした。
『何が来ると思う?』
「言わない」
『どうして』
「言葉にすると、それを待つから」
『もう考えてる顔だけど』
「だから言わないの」
『滑らかな十?』
「ノア」
『前半?』
「やめて」
『後半?』
「本当にやめて」
アリシアが枕を軽く持ち上げると、ノアは素早く窓辺から飛び降りた。
『暴力反対』
「投げてない」
『投げようとはした』
「そういうこと言うからでしょ」
少しだけ笑ったことで、朝から胸にあった緊張が和らいだ。
そのやり取りを聞いていたのか、隣の寝台で子供が小さく笑う。
「今日も、何するか知らない日?」
「うん」
「三つのどれか?」
「たぶん、そのままだと思う」
「何来てほしい?」
アリシアは子供へ視線を向け、今度は少し長く考えた。
「どれでもいいって言えるほどは、まだ平気じゃない」
「じゃあ何?」
「……見たままがいい」
「見たまま?」
「私がほしい答えじゃなくて、本当に起きたもの」
子供は少しだけ首を傾げたあと、ゆっくり頷いた。
「箱もそう」
「線?」
「うん。交差しててほしくても、違うなら違う」
「昨日見た二個目のところ、交差じゃないかもしれなかったもんね」
「でも最初のは、まだ交差っぽい」
「そうだね」
子供は自分の机へ視線を移した。
「今日は箱開けない」
「昨日言ってたね」
「紙見る」
「見たい気持ちは?」
「前の交差もう一回見たい七。箱開けたい三。触りたい二。線知りたい九」
「今は紙の方が強いんだ」
「うん」
『この部屋、研究者が二人いるみたいになってきたわね』
「私、研究者じゃない」
「私も」
『二人とも否定するのだけは速い』
◇
朝の顔のない存在は、寝台の上で両膝を少し立てるような姿勢を取っていた。
その格好のまま、子供が近くへ来ても動かない。
子供は昨日の記録を先に見ず、十一個の円だけが描かれた新しい紙を手元へ置き、現在見えている胸の光を一つずつ確認した。
「明るい二つ。弱い一つ」
昨夕も、明るい二つと弱い一つが見えていた。
けれど、子供は内訳が同じだからという理由だけで「同じ」とは書かない。先に今日の位置を描き、明るい二つが上下へ少し離れていること、弱い一つが中央からやや外れた場所にあることを残す。
「書いた」
「じゃあ昨日の見ていいよ」
アリシアが答えると、子供は前日の夕方記録を隣へ置いた。
「一個近い。二つ違う」
「数と明るさの内訳は同じだけど、位置は違って見えるんだね」
「うん」
弱い一つについては昨日より少し見えやすい気もしたが、子供は比較として断定せず、今朝の紙へ現在の見え方だけを書き足した。
「今日は立つかな」
「分からないね」
「昨日の朝も座ってた」
「そのあと午前は四歩だったね」
「今日はまだ歩いてない」
子供は歩数欄を空けたまま、朝の観察を終えた。
◇
朝食後、サーラと治療教師が生活観測区画へやってきた。
魔導具教師や設備調整担当の姿はまだない。それだけで、今すぐ試験へ入るわけではないと分かり、アリシアの肩から少しだけ力が抜ける。
「まず身体確認です」
アリシアは椅子へ座った。
痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはすべてゼロ。疲労一、胸部冷感ゼロ、震えもない。魔力循環にも大きな乱れは見られなかった。
「恐怖は?」
「三」
「試験参加意思」
「八」
「何が来るか知りたい気持ち」
「九」
「昨日より一つ下がりましたね」
「知らない方がいいって思えるようになったから」
サーラは少し表情を柔らかくした。
「反応してほしい気持ちは?」
「五」
「滑らかな十で無反応になってほしい気持ちは――」
そこまで聞かれたところで、アリシアの眉が動いた。
「それ聞かれると、今日滑らかな十なのかなって思う」
サーラもすぐ気づいたらしく、言葉を止めた。
「確かに、質問そのものが期待を作りますね」
「候補に入ってるのは知ってるけど、今聞かれると気になる」
「では、特定候補に対する期待は試験直前には聞かない方が良さそうです。今の値だけ記録し、次回以降は質問順も調整します」
「その方がいい」
アリシアは頷いたあと、少し困ったように自分の胸元を見た。
「今、ちょっと滑らかな十かもって思った」
「それも記録します」
「こういうの、どんどん増えるね」
「完全に消すのは難しいです」
「でも、言えば残せる」
「はい」
机の下からノアが顔を出す。
『質問するだけで条件の匂いがつくとか、人間って本当に面倒』
「ノアだってご飯の袋の音で分かるでしょ」
『あれは本能』
「期待も似たようなものかも」
『一緒にしないで』
◇
午前中は通常授業へ出ることになった。
今日は教室での座学ではなく、少し広い実習室を使う短い魔術演習だった。窓から入る朝の光はまだ弱かったが、天井の魔導灯が明るく、床へ引かれた白い線や簡易標的の輪郭がはっきりと見える。
生徒たちの話し声や、魔導板を机へ置く音が重なり、いつもの教室より少し賑やかだった。
アリシアは以前ほど、人の多さだけで身体を固くしなくなっている。
隣には、最近よく話す女子生徒がいた。
「今日、失敗したら笑っていい?」
「自分が失敗したら?」
「笑わないで」
「ずるい」
「友達特権」
その言葉に、アリシアの指が一瞬止まった。
「友達?」
「違うの?」
女子生徒はきょとんとしている。
からかっている様子ではない。
アリシアは少しだけ目を伏せたあと、小さく息を吐いた。
「……違わない」
「じゃあ決まり」
あっさり言われた。
それだけなのに、胸の奥が試験とは全く違う意味で温かくなる。
こういう言葉には、まだ慣れていない。
けれど以前のように、自分から否定して距離を戻したいとも思わなかった。
実技内容は単純な魔力制御だった。
決められた量の魔力を小型魔導板へ送り、中央の光を一定の大きさへ保つ。
アリシアは一度目、少しだけ強く流しすぎた。
「あ」
「珍しい」
「見ないで」
「さっき笑っていいって聞いた」
「私がいいとは言ってない」
『どっちもどっちね』
足元からノアが口を挟み、近くの生徒が小さく笑った。
アリシアは頬を赤くしながらも、以前のように周囲の視線へ身体を縮めることなく、二度目の魔力制御へ意識を戻す。
今度はほぼ指定範囲へ収まった。
「できた」
「悔しい」
「何で」
「私まだ三回目」
「練習すればいいよ」
「今ちょっと先生みたいだった」
「嫌」
「即答」
今度は周囲の二、三人も笑った。
アリシア自身も、少し遅れて笑う。
人に見られることへの怖さが完全になくなったわけではない。それでも、一度失敗したところを見られただけで、自分の全部を評価されたように感じることは減っていた。
◇
授業を終えて生活観測区画へ戻ると、今度は魔導具教師と設備調整担当が来ていた。
机の上には三候補の比較用記録だけが置かれ、今日どの条件を実施するのか分かる波形は見当たらない。
アリシアは席へ着く前に、意識して記録板から目をそらした。
「決まった?」
「決まっています」
「教えない?」
「教えません」
「分かった」
前よりも聞く回数が少なくなっている。
そのことに自分で気づき、アリシアは少しだけ嬉しくなった。
「授業後の疲労は?」
「二」
「怖さ」
「三」
「参加意思」
「八」
「条件を知りたい気持ち」
「八」
「下がりましたね」
「授業してたから。試験のことばっかり考えてなかった」
設備調整担当が今日の安全範囲を改めて確認する。
実施されるのは、事前に説明された三候補のいずれか一つ。
滑らかな十呼吸。
立ち上がり前半寄りへごく小さな変動を一度だけ加える十呼吸。
あるいは後半寄りへ同程度の小変動を一度だけ加える十呼吸。
どの条件でも最大低下幅、維持十五呼吸、復帰速度はこれまでの比較範囲へ近づけ、小変動が含まれる場合も既に安全確認された範囲を超えない。
「途中で追加はない?」
「ありません」
「条件を途中で変えることも?」
「ありません」
「じゃあ大丈夫」
アリシアは一度ゆっくり息を吸った。
「やる」
◇
試験は午後の早い時間に始まった。
部屋の空気は少し乾いており、昨日より気温が高い。装置の低い駆動音もいつも通りで、特別な振動や匂いはなかった。
アリシアは試験用の椅子へ座り、両手を膝へ置く。
ノアは斜め後ろの机。
サーラは本人の表情を確認できる位置に座り、設備側の記録板はアリシアから見えない角度へ向けられている。
「最終確認です。痛みゼロ、息苦しさゼロ、頭痛ゼロ、腕の重さゼロ、疲労二、怖さ三、参加意思八」
「うん」
「探したい気持ちは?」
アリシアは少し迷った。
「二」
「低いですね」
「今日は、何が来るかなるべく考えないようにしてた」
「反応してほしい気持ちは?」
「五」
「停止したい気持ち」
「一」
サーラが頷いた。
『刺激開始』
低い合図が室内へ響く。
アリシアは呼吸を数えなかった。
胸へ意識を集中しすぎないよう、正面の壁にある小さな木目を眺める。一本の線が途中で曲がり、薄くなって消えている。ただの壁材の模様なのに、子供が見ていた線刻を思い出してしまい、少しだけ可笑しくなった。
胸は静かだった。
冷感も震えもなく、痛みや息苦しさもない。
少し時間が進む。
何も起きない。
「今は何もない」
「記録します」
さらに時間が経つ。
アリシアの頭に、「今日は滑らかな十かもしれない」という考えが浮かんだ。
けれど、一昨日の試験でも途中で同じようなことを考えたあと、後半に小変動が入り、実際に違和感が出ている。
だから、この考えだけでは条件を当てたことにならない。
「今、滑らかな十かもって思った」
「記録します」
「感覚は?」
「ゼロ」
時間が続く。
胸の中央にも、少し右寄りにも、これまで小変動の近くで感じた曖昧な違和感は来ない。
何もない時間が長くなるほど、「そろそろ何か来るかもしれない」という期待が少しずつ強くなった。
「反応してほしい、六」
「探したい気持ちは?」
「三」
「怖さは?」
「三」
アリシアは目を閉じず、自然に呼吸を続ける。
しばらくすると、胸の右側へ本当に一瞬だけ、何かが触れたような感覚があった。
表情が僅かに変わる。
けれど、すぐには「冷たい」と言わない。
一度呼吸し、もう一度同じ感覚が続くか確かめる。
続かなかった。
「……今、一瞬だけ何かと思った」
「冷感ですか」
「分からない。探してたからかも」
「位置は?」
「右側。でも、胸の奥っていうより皮膚に近い気がする」
「神器反応候補として残しますか」
アリシアは少し考えた。
「入れない。別の違和感として残す」
「分かりました」
「冷感はゼロ」
その判断をしたあと、同じ感覚は戻らなかった。
さらに時間が過ぎる。
何も起きない。
今度は、無反応のまま終わってほしいという気持ちが自分の中で少し上がっているのが分かった。
「今、何もないまま終わってほしいって思った」
「どのくらい?」
「六」
「記録します」
「でも、冷たいのが来たらちゃんと言う」
「もちろんです」
ノアは珍しく何も言わなかった。
アリシアが自分の感覚へ向き合っている間は、余計な言葉を入れないつもりなのかもしれない。
そのまま、確認できる冷感は一度も現れなかった。
『刺激本体終了。復帰確認へ移行します』
合図が入ると、アリシアは少しだけ長く息を吐いた。
「終わった?」
「本体は終了です」
「冷感ゼロ」
「震えは?」
「なし。痛みも息苦しさもない」
復帰時間も問題なく終える。
身体には何も残っていない。
「今、条件当てたい九」
アリシアが言うと、サーラが少し笑った。
「身体確認が先です」
「分かってる」
◇
治療教師の確認は短かった。
痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはすべてゼロ。疲労二、怖さ二。魔力循環にも目立つ異常はない。
試験中に一瞬だけあった右側の違和感についても、本人がこれまでの神器関連冷感とは違うと判断したまま消失している。
「もういい?」
「身体側は問題ありません」
アリシアはすぐ記録板を見る。
「今日の条件は?」
魔導具教師が板をこちらへ向けた。
「滑らかな十呼吸です」
アリシアは数秒、何も言わなかった。
それから小さく息を吸う。
「小変動なし?」
「意図的な小変動は入れていません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、前に滑らかにしたときと同じ側」
「同じ分類です。ただし、完全に同一の波形ではありません」
「分かってる」
アリシアは記録を見る。
立ち上がりは約十呼吸。
最大低下幅は過去の比較範囲内。
維持十五呼吸。
復帰も大きな差はない。
そして、意図的小変動は加えられていない。
「東側奥部は?」
通信先から返事が来る。
『大きな追加低下は確認していません』
「小さい自然な揺れは?」
『基準範囲内の微細な変動はあります。ただし、小変動を入れた三回に見られた追加低下と同程度のものは確認していません』
「西側は?」
『明確な遅延波形は確認していません。通常変動範囲です』
アリシアは少しだけ机へ身を寄せた。
「私も冷感なし」
「はい」
「前に滑らかにしたときも、確認できる冷感はなかった。今日も、条件を知らないまま滑らかな十を受けて、冷感なし」
「現時点ではそうです」
「小変動を入れた三回では、三回とも違和感があった」
「弱い違和感候補が、それぞれ小変動の近くへ出ています」
胸の奥に嬉しさが広がる。
ただ、その感情は一昨日のように勢いよく跳ね上がるものではなかった。
「嬉しい……八」
『九じゃないのね』
ノアがようやく喋った。
「綺麗だから」
『またそれ』
「だって、小変動ありの三回では全部何か感じて、滑らかな二回では確認できる冷感なしって並んだ」
「ただし、まだ回数は少ないです」
サーラが静かに言う。
「うん」
「滑らかな二回も完全同一条件ではありません」
「うん」
「それでも差が見え始めていることは事実です」
「そこは言っていい?」
「はい」
アリシアは記録紙へ指を置いた。
「意図的小変動ありの三回では、三回とも小変動開始から一呼吸以内に最初の違和感。滑らかな十では二回とも、確認できる冷感なし」
「現在の比較記録としては、そう整理できます」
「今日も条件は知らなかった」
「はい」
「途中で滑らかな十かもって思ったけど、確信はなかった」
「はい」
「それでも何も出なかった」
「そうですね。ただし、それだけで期待の影響がないとまでは言えません」
「分かってる」
アリシアは少しだけ笑った。
「先生たち、最後に必ず止める」
『それが仕事なんでしょうね』
◇
午後の解析では、これまで行った十呼吸前後の比較記録が改めて机へ並べられた。
最初の二回には、設備側で自然に生じた小さな揺れが残っており、アリシアには弱い反応候補が出ている。
その後、微細な揺れをできるだけ抑えて滑らかにした十呼吸では、確認できる冷感がなかった。
さらに、滑らかな十呼吸を基礎にして意図的小変動を一度だけ加えた三回では、どの回も変動の近くへ弱い違和感が現れた。
そして今日、条件を知らされないまま受けた滑らかな十呼吸では、再び確認できる冷感は出なかった。
「こう並べると、かなりそれっぽい」
アリシアが言う。
通信越しの若い観測員も、少し興奮を抑えきれない声で返した。
『かなりそれっぽいです』
「先生まで」
『でも断定しません』
「先に言った」
『学習しました』
魔導具教師が最初の二回の波形を拡大する。
「ただし、自然に生じた微小振動と、後から意図的に加えた小変動は完全に同じ種類ではありません」
「形も違う」
「はい」
「それでも、揺れをかなり減らした滑らかな二回では冷感なし」
「今のところは、そうです」
「意図的小変動ありの三回では反応あり」
「はい」
アリシアはしばらく紙を見つめた。
「じゃあ次は、もっと強くするより、同じくらいの条件で確かめる方がいい?」
「有力候補です」
「小変動を強くするのは?」
「まだ急がなくていいでしょう」
「時刻をもっと増やすのも?」
「前半と後半はすでに試しています。後半は条件非通知でも再現しましたから、次に前半を条件非通知で入れる案はあります」
「滑らかな十をもう一回も候補?」
「あります」
「三候補方式をそのまま続ける?」
「それも可能です」
アリシアは少し考えた。
「三候補のままだと、私はどの条件を何回やってるか、その場では分かりにくい」
「それが利点でもあります」
「先生たちは分かってる」
「はい」
「私は終わるまで知らない」
「はい」
少し間を置いて、アリシアは頷いた。
「……それでいいかも」
サーラが本人の顔を見る。
「怖さは?」
「今考えるだけなら三」
「最初にこの方式を始めたときは五まで上がりました」
「一回やって、何されるか分からないって感じじゃないって分かったから」
「慣れも出ていますね」
「悪い?」
「必ずしも。ただ、慣れ自体が感覚報告へ影響する可能性は残します」
「何をしても条件が増える」
『研究ってそういうものなんじゃない?』
ノアがあくびをしながら言った。
◇
その日の子供は、木箱を開けなかった。
午後、エルデン教師が持ってきたのは昨日までの複写だけだった。
最初に浅い角度の光で確認した交差候補と、昨日「接近・終端候補」として分けた二つ目の場所。そこでは線の見え方が明らかに異なっていたため、今日は実物を見ず、紙だけで違いを整理する。
「最初のは、ここで線が切れて見える」
子供が指した。
「うん」
「反対から光当てても、同じところで切れて見えた」
「そうだったね」
「二個目は、一本が浅くなって、もう一本の近くで見えなくなる」
「うん」
「違う」
「少なくとも、見え方は同じではないね」
エルデンはそれ以上を急がない。
子供も今日は、答えへ飛びつくより二枚を見比べることを続けた。
「最初の方、重なってる可能性高い?」
「二個目よりは高い」
「どっちが先に彫られたかは?」
「まだ分からない」
「次、一個だけ見るなら最初?」
「それも候補だし、別の交差候補を探す方法もある」
「どっちがいい?」
「君が何を知りたいかによるね」
子供は少し考えた。
「線の順番」
「それなら、似た交差が別の場所にもあるか確かめる方が先かもしれない」
「一個だけだと、たまたまかもしれない?」
「そう」
少し離れたところで聞いていたアリシアは、思わず口元を緩めた。
一回の綺麗な結果をすぐ答えにしない。
やっていることは違っても、その考え方は自分たちと似ている。
「箱開けたい?」
アリシアが聞く。
「今日は三」
「線知りたい?」
「九」
「次の交差探したい?」
「八」
「怖さは?」
「二」
子供は紙を見たまま答えた。
「でも今日は紙だけ」
「うん」
◇
顔のない存在は、昼前にゆっくり立ち上がった。
朝から長く座っていたが、動き始めると二歩進んだところで一度止まり、そのあとさらに三歩進んだ。最後の一歩だけ少し足が遅れたように見えたものの、転びそうになることはなく、近くの椅子へ座った。
「午前五歩。二歩、止まって、三歩」
子供が記録する。
昨日午前は四歩だったが、数が増えたからといって進歩とは書かない。
胸の光は、朝と同じく明るい二つ、弱い一つに見えた。
「位置は?」
「一個は朝と近い。二つは違う」
「見え方は?」
「弱いの、朝より今は見えにくい」
「じゃあそれだけ書こう」
子供は頷いた。
午後の人工刺激中、顔のない存在は別の部屋で休んでいた。
刺激終了直後の胸の光を継続観察したわけでもないため、今日も地下側の実験との関連は結ばない。
◇
夕方、顔のない存在はもう一度立ち上がった。
今度は最初に一歩進み、少し長く止まった。その後二歩続け、さらに間を空けてもう一歩進み、合計四歩で椅子へ座る。
「夕方四歩」
子供は午前五歩の下へ記録した。
胸の光は、明るい一つと弱い三つ。
「今は四つ見える」
「朝は三つだったね」
「うん。でも増えたところ見てない」
「位置は?」
「二つは朝に近い。一つは午前と近い。一つは違う」
子供は円へ丁寧に印を付けた。
「今日も変わるね」
「理由は?」
「分からない」
「うん」
その返事も、もう特別な言葉ではなくなっていた。
◇
夜になると、朝の靄が嘘のように空は澄んでいた。
窓の外には細かな星が見え、庭の木々はほとんど風に揺れていない。生活観測区画の中も静かで、遠くの廊下を夜番が通る足音だけが、ときどき床の向こうを流れていった。
アリシアは机へ向かい、今日の結果を練習帳へまとめた。
『今日は三候補のうち実施条件を知らされない方式で試験を受け、終了後に滑らかな十呼吸だったと知らされた。意図的な小変動はなく、確認できる冷感や震え、痛み、息苦しさもなかった』
続けて、試験中に一度だけあった右側の違和感も残す。
『右側に一瞬だけ何かを感じたが、これまで胸の奥に出た冷感とは違い、皮膚に近いように感じた。持続もしなかったため、神器反応候補には含めず、別の違和感として記録した』
アリシアはそこで筆を止めた。
こういう曖昧なものを消さずに残すことも必要なのだと思う。
反応として数えない。
けれど、なかったことにもしない。
「今日、嬉しい八」
ノアが机へ上がる。
『昼から変わってない』
「うん」
『無反応になってほしい五だったから、願い通り?』
「そうなんだけど、願い通りだったからちょっと怖い」
『また綺麗すぎる?』
「うん」
『面倒ね』
「ノアが言う?」
アリシアは少し笑い、練習帳へ続きを書いた。
『これまでの十呼吸条件を全部同じものとして扱わない。最初の二回には自然な微小振動があり、どちらも弱い反応候補が出た。その後、微細な揺れをできるだけ減らした滑らかな十呼吸では確認できる冷感がなく、ごく小さな意図的変動を一回だけ加えた三回では、どれも変動の近くで弱い違和感が出た。今日は条件非通知の滑らかな十呼吸で、再び確認できる冷感はなかった』
そこまで書くと、紙の上に一つの形が見えてくる。
小変動ありの三回では、三回とも違和感が出た。
滑らかな十呼吸では、二回とも確認できる冷感がない。
あまりにも分かりやすい。
だからこそ、アリシアはその下へ少し大きめの文字を書いた。
『まだ少ない』
ノアが横から覗き込み、喉を鳴らした。
『そこだけ大きい』
「大事だから」
『前なら“分かった”って書いてたでしょうね』
「……書いてたかも」
『今は?』
「分かってきた、くらい」
『何が?』
アリシアはしばらく考えた。
「六つ目が何か、じゃない」
『うん』
「私が感じやすい条件の方」
『それも確定じゃない』
「だから、感じやすい条件の候補」
『それならまだいいんじゃない』
アリシアは自分の文章を少し書き換えた。
『六つ目の能力が分かったわけではない。ただ、私が弱い感覚を申告しやすい条件として、微小な変化を含む試験の方が、滑らかな条件より今のところ多く対応している』
筆先を止める。
何を直接感じているのかは、まだ分からない。
設備側の小変動そのものなのか。
それに伴う東側奥部の追加低下なのか。
その間で生じる別の変化なのか。
東西補助連絡線の仕組みも、六つ目の役割も、何一つ確定していない。
それでも、最初は形すら見えなかった問いが、少しだけ狭くなっている。
「次、また三候補?」
『先生たち次第』
「前半を、前だって知らないままもう一回見たい気持ち七」
『後半は?』
「六」
『滑らかな方は?』
「五」
『ちゃんと差あるのね』
「前半は、完全に場所を知らない形ではまだやってないから」
『前にやったときは“前回より早い”って知ってたものね』
「うん。だから今度、前半だと知らない状態で前半が来たらどうなるか見たい」
『また反応したら?』
「時刻の関係がもう少し強くなる」
『しなかったら?』
「前半と後半で違う可能性とか、日による差とか、他の条件を見る」
『随分すらすら出るわね』
「考えてた」
アリシアは少しだけ恥ずかしくなり、視線を練習帳へ戻した。
以前なら、結果が綺麗に並び始めた時点で、それを守りたくなっていた。
今も、その気持ちはある。
けれど、崩れる可能性を考えることが前より怖くない。
今日の滑らかな十呼吸では、確認できる冷感は出なかった。
それは嬉しかった。
でも、もし出ていたとしても失敗ではない。
今まで見えていなかったものが出ただけだ。
アリシアは最後の欄へ、そのことを書いた。
『今日、何も感じなかったことは、これまで見え始めていた形に合っていて嬉しかった。でも、次も同じになる保証はない。これから必要なのは“小さな変化があれば必ず感じる”と決めることではなく、どんな変化なら感じるのか、感じない場合があるのか、その時間関係がどこまで繰り返されるのかを確かめることだと思う』
窓の外では、夜風が少しだけ戻ってきた。
庭の葉が擦れ、静かな音を立てる。
一つの葉が揺れても、隣の葉まで同じように揺れるとは限らない。同じ風でも、枝の位置や重さによって動き方は変わる。
地下で見ている波形も、きっとそれほど単純ではない。
以前、微小な揺れをできるだけ抑えて滑らかにした十呼吸では、確認できる冷感は現れなかった。
そして今日も、何が来るか知らないまま受けた滑らかな十呼吸の中で、胸にあの冷たさは残らなかった。
それに対して、ごく小さな意図的変化を加えた三度の試験では、弱いながらも、その変化に近い時間で違和感が現れている。
まだ少ない。
それでも、最初の偶然だけでは片づけにくい違いになり始めていた。
アリシアは練習帳を閉じる。
次に見るべきなのは、この違いをもっと大きくすることではない。
同じ程度の小さな変化でも、条件や時刻が変われば感覚はどうなるのか。
そして、もし今までと違う結果が出たときに、それを邪魔なものとして避けず、そのまま持ち帰れるのか。
答えへ近づくために必要なのは、綺麗な形を守り続けることではなかった。
少しずつ崩れるかもしれない形の前にも、同じように座り続けることだった。




