第181話 反応が三度重なった翌日だから、四度目を取りに行く前に何も足さない時間を見る
朝の生活観測区画には、窓を開けるか迷う程度の涼しい風が流れ込んでいた。
昨夜から空を覆っていた薄い雲は東の方からほどけ始めており、庭の木々にはところどころ朝日が落ちている。石畳の端では昨晩の露がまだ小さく光っていたが、中央付近はすでに乾き、早起きした小鳥が二羽、何かを探すように隙間をつついていた。
アリシアは寝台の上で身体を起こし、いつものように自分の状態を順番に確かめた。
胸に冷たさはない。息苦しさもなく、指先を伸ばしても震えは感じなかった。頭痛や腕の重さもなく、昨日の試験後に二まで上がっていた疲労も、眠ったあとは一程度まで下がっている。
身体だけなら、綺麗な朝だった。
けれど頭の中には、昨日見せてもらった三枚の記録が残っている。
第176話の後半寄り。
第178話の前半寄り。
そして昨日、どの条件が来るのか知らされないまま受けた後半寄り。
三度とも、意図的な小変動が入った時刻からおよそ一呼吸以内に、胸の違和感が現れた。
アリシアは枕元へ置いていた練習帳を開いた。昨夜書いた最後のページには、嬉しさの勢いで文字が少し右上がりになっているところがある。
「次、やりたい気持ち……八」
自分で呟いてから、その下へ別の数字を書き足した。
「今日やりたいは、五」
窓辺で朝日を浴びていたノアの耳が動く。
『同じじゃないの?』
「違う」
『どう違うのよ』
「次はやりたい。でも今日じゃなくてもいい」
『あら』
ノアがゆっくり顔を向けた。
驚いたというより、本当にその答えがアリシアから出たのか確認しているような目だった。
「何、その顔」
『成長したなと思って』
「褒めた?」
『半分くらい』
「残り半分は?」
『昔なら朝ご飯より先に試験室へ行こうとしてたなって』
「そこまでじゃない」
『東側へ行きたい九とか十とか言ってた子が何を』
言い返そうとして、アリシアは口を閉じた。
否定しきれない。
「……じゃあ、昔よりはまし」
『随分素直ね』
「昨日の結果が嬉しかったから」
『嬉しかったら普通は急ぎそうだけど』
「だから急ぎたくないの」
アリシアは練習帳へ目を落とした。
「三回近かったのに、今日すぐ四回目やって変なの出たら、昨日までの三回が間違いだったって思いそう」
『変なのって?』
「滑らかな十なのに冷たくなったり、小変動があるのに何も感じなかったり」
『あり得るわね』
「うん。でも、それが出たら本当は大事なんでしょ」
『先生たちは喜びそう』
「私はたぶん、最初ちょっと嫌」
そこまで言ってから、アリシアは自分の胸へ手を置いた。
昨日の冷感はもうない。
残っているのは記憶だけだ。
「だから、今日すぐやると、私が三回の方を守りたくなるかもしれない」
ノアはすぐには返さなかった。
毒舌を挟むかと思ったのに、黒い尻尾だけが窓枠の上を一度ゆっくり揺れる。
『それ、自分で分かるようになったのは大きいんじゃない』
「……今日は半分じゃなく褒めた?」
『七割』
「残り三割」
『調子に乗るから』
「やっぱりノアだった」
アリシアが小さく笑ったところで、隣の寝台から布の擦れる音がした。
子供が起き上がり、眠そうに二人を見ている。
「今日は試験?」
「たぶんしない」
「なんで?」
「昨日したから」
「休む?」
「それもある。あと、昨日までの紙をちゃんと見る」
子供はしばらく考え、それから自分の机へ視線を向けた。
そこには木箱そのものではなく、エルデン教師と一緒に見てきた線刻の複写が重ねてある。
「私も紙見る」
「箱は?」
「まだ開けない」
「見たい気持ちは?」
子供は少しだけ考えた。
「四」
「線知りたいは?」
「九」
「変わらないね」
「うん。紙でまだできる」
アリシアは頷いた。
昨日、自分も似たことをした。
新しい刺激を入れなくても、残っている記録から見られるものはある。
同じやり方ではない。
それでも、急いで次へ触れないという点だけは少し似ていた。
◇
顔のない存在は、今朝は寝台へ深く腰掛けていた。
昨日の夕方は明るい一つと弱い二つ、合計三つの光が見えていたが、子供はその記録を先に開かなかった。十一個の円だけが描かれた新しい紙を持ち、現在見えているものを一つずつ確認していく。
「明るい一つ。弱い三つ」
四つ見えている。
弱い三つのうち、一つはかなり淡い。
子供は「消えそう」とは書かず、円の横へ「角度で見えにくい」と記した。
「位置、書いた」
「昨日の見ていい?」
「うん」
アリシアが答えると、子供は前日の夕方記録を横へ置いた。
内訳は昨日夕方と異なっている。昨日は明るい一つ、弱い二つ。今朝は明るい一つ、弱い三つ。
「今は一個多く見える」
「うん」
「新しく光った、じゃない?」
「そこ見てない」
「そうだね」
位置を比較すると、明るい一つは昨日夕方に記録した明るい光と近い場所に見えた。ただし完全に同じ位置かどうかは分からない。弱い三つのうち一つも昨日の弱い光に近いが、残り二つは比較できるほど近くなかった。
「歩くかな」
子供が顔のない存在を見る。
「分からない」
「今日はまだ座ってる」
「じゃあ歩数はまだ書かないね」
「うん」
そのまま朝の観察を終えた。
以前なら、昨日より見える光が一つ多いことに何か意味を探したくなっていたかもしれない。
今は、今朝四つ見えるという事実だけでいい。
◇
朝食を終えた頃、生活観測区画へサーラがやってきた。
今日は魔導具教師も設備調整担当も一緒ではない。手には昨日の記録の写しを持っているものの、試験用の器材は何もない。
それを見た瞬間、アリシアは少しだけ肩の力が抜けた。
「今日はない?」
「人工刺激は行わない予定です」
「嫌、一」
サーラが目を瞬く。
「昨日の夜は次の滑らかな十をかなりやりたそうでしたが」
「やりたいは八」
「今日やりたいは?」
「五だった。でも今、ないって聞いて四になった」
『減るの早いわね』
「決まったなら考えなくていいから」
サーラは少し笑い、記録紙へそのまま数字を書き込んだ。
「身体状態は?」
「冷たさゼロ、震えなし、痛みゼロ、息苦しさゼロ、頭痛ゼロ、腕も平気。疲れ一」
「恐怖は?」
「二」
「昨日の結果をもう一度確かめたい気持ち」
「八」
「昨日の三回一致が崩れてほしくない気持ちは?」
アリシアはすぐ答えなかった。
朝、ノアへ話したことを思い返す。
「……六」
「高いですね」
「うん」
「それも、今日刺激を入れない理由になります」
「私が結果守ろうとするから?」
「それだけではありません。身体側の残留、期待、昨日の刺激後の地下側状態も見たいです。ただ、アリシアさん自身が“昨日までの結果を守りたい”と自覚しているなら、その状態を記録しておく価値はあります」
「悪いこと?」
「いい悪いではありません」
サーラは向かい側の椅子へ腰掛けた。
「結果が嬉しければ、その結果をもう一度見たいと思うのは自然です。問題になるのは、その気持ちがあることを無視して、何も影響していないように扱うことです」
「数字にしたら消えるわけじゃない」
「はい」
「六のまま試験する日もある?」
「あります。その場合は、六であることを含めて記録します」
アリシアは少し考え、頷いた。
「じゃあ今日は、六がどうなるかも見る?」
「それも一つです」
サーラは昨日の記録を机へ置いた。
「それと、今日は三回の時刻関係をもう少し細かく見直します。昨日までは“小変動開始から約一呼吸以内”という比較でしたが、その一呼吸の中にも違いがあります」
「もっと細かくするの?」
「できる範囲でです。ただし、設備側の記録精度とアリシアさんの申告時刻の誤差がありますから、細かくした数字をそのまま真実とは扱いません」
「一呼吸以内より細かく見えても、細かく見えるだけかもしれない」
「そういうことです」
『朝から面倒な話してるわね』
ノアが椅子の下から言う。
「聞いてたの?」
『聞きたくなくても聞こえるのよ』
◇
午前中、アリシアは通常授業へ戻った。
昨日は試験を優先して生活観測区画で課題を進めたため、教室へ入るのは一日ぶりだった。
廊下には授業開始前の生徒たちが行き交い、開いた窓から入る風が掲示板の紙を小さく揺らしている。中庭側からは訓練用の木剣がぶつかる乾いた音が聞こえ、別棟へ向かう上級生たちの笑い声が階段の方へ遠ざかっていった。
アリシアが教室へ入ると、昨日ノートを貸してくれた女子生徒がすぐ気づいた。
「今日は来た」
「昨日も学院にはいたよ」
「教室に、って意味」
「分かってる」
「じゃあ言わせないで」
女子生徒は笑いながら、隣の椅子を少し引いた。
「昨日の課題、四問目間違ってたよ」
「え」
「先生が答え出してた」
「どこ?」
「そこ気になる?」
「気になる」
「研究より?」
「今はこっち」
自分で答えてから、アリシアは少し驚いた。
女子生徒も同じだったらしく、一瞬だけ目を丸くしたあと、机の下からノートを出す。
「じゃあ、ここ。式の二段目」
アリシアが覗き込むと、確かに符号を一つ取り違えていた。
「……ほんとだ」
「昨日、自信ある顔してたのに」
「してない」
「してた」
「どんな顔」
「私は間違ってません、みたいな顔」
『普段の顔じゃない』
足元からノアが口を挟む。
「ノアまで」
近くに座っていた別の生徒が小さく笑った。
以前なら、自分たち以外から笑い声が聞こえただけで肩が固くなっていたかもしれない。けれど今日は、アリシアも少し頬を赤くしただけでノートへ視線を戻した。
授業は基礎魔術理論だった。
教師が黒板へ複数の魔力経路を書き、同じ出力へ至る場合でも経路によって消耗や安定性が変わることを説明する。アリシアは途中、一瞬だけ地下の波形を連想しかけたが、すぐ目の前の問題へ戻った。
何でも地下へ結びつける必要はない。
これは授業で、今は学生としてここにいる。
授業の終わりに短い演習問題が配られたとき、隣の女子生徒が小声で言った。
「今度は符号間違えないでね」
「そっちも昨日一問間違えてたでしょ」
「覚えてた?」
「覚えてる」
「意外と根に持つ」
「ノアの影響」
『人のせいにしないで』
今度は周囲の二、三人も笑った。
アリシアは少し恥ずかしかったが、逃げたいとは思わなかった。
◇
同じ頃、生活観測区画では、子供がエルデン教師を待ちながら線刻の複写を整理していた。
アリシアが昼前に戻ると、机の上には昨日示された二つの観察候補のうち、一つだけに小さな丸が付いている。
「決めた?」
「こっち」
子供が指したのは、最初に浅い角度の光で見た交差候補から少し離れた位置だった。
二本に見える線が近づき、片方がもう片方の下へ入り込んでいるようにも見える。ただし複写だけでは、本当に交差しているのか、一方が途中で止まっているのか判断しにくい。
「もう一個は?」
「今日は見ない」
「どうしてこっち?」
「紙で分かりにくい方」
「なるほど」
「箱開けたい四。怖い二。触りたい二。ここ見たい八」
「八なんだ」
「うん。九じゃない」
「何で?」
子供は少し考えた。
「先生来るまで待てるから」
アリシアは思わず笑った。
「九でも待てると思うよ」
「でも今日は八」
「そっか」
その答えでいい。
数字に一般的な意味を押しつける必要はない。
今日の子供が八だと思ったなら、それが今日の八だった。
◇
昼食前、顔のない存在は寝台から立ち上がった。
今朝は長く座ったままだったが、立ち上がると最初の三歩をゆっくり続けて進んだ。その後、身体を少し左へ向けて立ち止まり、しばらくしてからさらに一歩だけ進み、近くの椅子へ腰を下ろした。
「午前四歩。最初三歩、それから一歩」
子供が記録する。
昨日の午前も四歩だった。
けれど、歩き方は違う。
「同じ四だけど違う」
「何が?」
「昨日は二歩と二歩。今日は三歩と一歩」
「うん」
胸の光を確認すると、明るい一つと弱い三つという朝の内訳はそのままに見えた。ただ、朝に「角度で見えにくい」と記録した一つは、今は正面からでも輪郭が分かる。
「今は見える」
「いつ変わった?」
「見てない」
「じゃあ今見える、だけだね」
子供は頷いた。
昨日の人工刺激から一夜が経っている。
今日の東側奥部には今のところ大きな自然変動もない。
それでも、十一の光の見え方は一定ではない。
だからといって、それを地下の何かと結びつける材料はまだなかった。
◇
午後、エルデン教師が生活観測区画へやってきた。
今日は資料室の担当者を連れていない。昨日比較に使った資料の写しを数枚だけ持ち、子供の机へ向かう。
「決めた?」
「一個だけ」
「見せて」
子供は丸を付けた複写を差し出した。
エルデンはそれを確認し、木箱の方を見る。
「今日は箱を開けてもいい?」
子供はすぐには答えなかった。
自分の数字を一度思い返すように、膝の上で指を動かす。
「開けたい四。怖い二。ここ見たい八。触りたい二」
「開ける?」
「うん。でも見るだけ」
「布は?」
「動かさない」
「中の黒いものは?」
「触らない。動かさない」
「光だけ変える?」
「うん」
エルデンは頷いた。
「途中で見たい気持ちが十になったら?」
「止める」
「怖さが上がったら?」
「五で相談。六で閉める」
「分かった」
アリシアは少し離れた場所へ座った。
ノアも机の端へ飛び乗ったが、箱へ顔を近づけることはしない。
子供自身が木箱の前へ座り、両手を蓋へ置く。
しばらく動かなかった。
以前、この箱を開けるたびに身体へ力が入っていた頃とは違う。怖さがなくなったわけではないが、何を見るのかを先に決めていることで、呼吸はかなり落ち着いている。
「開ける」
「うん」
アリシアはそれだけ返した。
蓋がゆっくり持ち上がる。
中の茶色い布は、前回観察を終えた位置のまま残っていた。その隙間から暗色の細長い物体が見え、表面には浅い線がいくつも走っている。
子供はすぐ対象へ近づかない。
まず、布も物体も前回から明らかに動いていないように見えることを確認する。
「大丈夫」
エルデンが照明具を持ち上げた。
「光を変えるよ」
「うん」
正面から当たっていた光が弱まり、代わりに横から浅い角度で細い光が入る。
線刻の凹凸に、ごく小さな影が生まれた。
子供は丸を付けていた位置だけを見る。
「……こっち」
指は伸ばさない。
視線だけで場所を示す。
エルデンも身を寄せすぎず、同じ場所を確認した。
「見える?」
「一本、ここまで来てる」
「もう一本は?」
「下……?」
子供の眉が寄る。
「違う。止まってる?」
「まだ決めなくていい」
「うん」
光の角度をほんの少し変える。
影の出方が変わった。
先ほど一本に見えた線の端に、非常に浅い続きのようなものが見える。
「ある」
「何が?」
「線。薄い」
「どちらへ続いてる?」
「こっち」
子供は複写の上へ鉛筆を置き、見えた方向だけを書き足した。
実物には触れない。
エルデンがさらに角度を少し変えると、二本の線が完全に交差しているというより、一方が浅くなりながらもう一方へ近づき、その付近で見えにくくなっているようにも見えた。
「先生」
「うん」
「これ、交差じゃないかも」
「私も今はそう見える」
「じゃあ前のと違う?」
「少なくとも、同じ見え方ではないね」
子供の目が少し輝いた。
「見たい九」
「続ける?」
「もう一回だけ角度変えたい」
「どの方向?」
子供は照明具ではなく、複写を見ながら考えた。
「もう少し低く」
「分かった」
光がさらに寝かされる。
浅い線の縁に長い影が伸びた。
その瞬間、子供の身体がわずかに前へ傾いた。
「……あ」
アリシアも息を止めかけたが、何も言わない。
「何が見えた?」
エルデンが静かに尋ねる。
「こっちの線、途中で浅くなってる」
「うん」
「それで、もう一個の近くで見えなくなる」
「そう見えるね」
「交差してるんじゃなくて、終わってるかもしれない」
「可能性はある」
「見たい十」
子供はそう言ったあと、数秒だけ実物を見続けた。
それから自分で蓋へ手を伸ばす。
「閉める」
「うん」
誰も止めない。
誰も「もう少しだけ」と言わない。
蓋が静かに閉じられた。
子供は両手を膝へ戻し、少し長く息を吐いた。
「怖さ?」
「三」
「上がったね」
「もっと見たくなったから」
「見たい十なのに閉められた」
「十だから閉めた」
その答えを聞いて、エルデンが小さく頷いた。
「今日分かったのは、この候補が最初の交差候補とは違う見え方をすること。それだけにしておこう」
「交差じゃないって決まった?」
「決まってない」
「線が終わってる?」
「それもまだ」
「じゃあ、交差じゃないかもしれない」
「それなら書ける」
子供はすぐ複写へ向かった。
箱はもう開けない。
◇
アリシアの方では、人工刺激を行わないまま、午後の解析だけが進められた。
魔導具教師から送られてきた三回分の時刻記録には、設備入力開始、意図的小変動開始、東側奥部追加低下、アリシアの最初の違和感申告、西側遅延波形開始が、それぞれ別の印で記されている。
細かく並べると、三回とも完全に同じ順番ではなかった。
設備上の小変動開始と東側奥部追加低下は非常に近い。
ただし記録精度の範囲では、どちらが必ず先だと断言できない回もある。
「ここ、同時に見える」
アリシアが第178話の記録を指す。
「測定間隔の中へ両方入っています」
サーラが答えた。
「じゃあ小変動が先で東が下がった、ってまだ言えない?」
「設備を操作した側では入力が先ですが、私たちが記録している“小変動”がどの地点の波形を指すかによって意味が変わります」
「難しい」
「はい」
「設備で命令した時刻は分かる?」
「分かります。ただし命令から実際の補助連絡線内の波形変化までに、極めて短い遅れがある可能性があります」
「その途中を測れてない」
「現状では十分には」
アリシアは紙の上で指を止めた。
「じゃあ、私が感じてるのが小変動そのものか、東側の追加低下か分けるには、時刻だけじゃ足りない」
「その可能性が高いです」
「でも西側は遅い」
「西側の記録可能な波形は、三回とも後です」
「そこは分かれる」
「はい」
若い観測員が通信越しに口を挟んだ。
『次に滑らかな十をやる意味は、ここですね。意図的小変動を抜いた状態で、東側奥部に同じ追加低下が出ないなら――』
「待って」
アリシアが止めた。
『はい?』
「次の条件、私に言わないんじゃなかった?」
通信の向こうが静かになった。
サーラが口元を押さえる。
『……今の忘れてください』
「無理」
『ですよね』
『だから喋るなって言われてたでしょうに』
ノアが呆れた声を出す。
『すみません』
若い観測員の落ち込んだ声に、アリシアは少し笑った。
「でも、滑らかな十が候補なのは昨日から知ってるから大丈夫」
『助かりました』
「次から気をつけて」
『はい』
以前なら、大人側の失敗に遠慮して「大丈夫です」とだけ答えていたかもしれない。
今は、自分の試験条件に関わることなら普通に注意できる。
その変化を、アリシア自身は特に意識していなかった。
◇
解析の後半では、三回の冷感強度を無理に一本の線へ並べないことが改めて確認された。
約〇・五、〇・三、〇・四。
数だけ見れば中間へ戻ったようにも見えるが、設備側の微小変動形状も、本人の心理状態も、地下側の基礎状態も完全には同じではない。
「強い揺れほど冷たい、にはならない?」
「今の記録だけでは言えません」
「前半と後半でも基礎の出力違うもんね」
「はい」
「じゃあ、時刻の近さが今一番揃ってる」
「現時点ではそう見えます」
アリシアは三枚の紙を見つめた。
「これ、嬉しい九から下がってない」
「崩れてほしくない気持ちは?」
サーラに聞かれ、少し考える。
「朝六。今は……五」
「下がった理由は?」
「崩れても、崩れたこと見るしかないって思ったから」
「嫌では?」
「嫌。たぶんすごくがっかりする」
そこは誤魔化さなかった。
「でも、滑らかな十で感じたら、今まで見てなかったものがあるってことになる」
「はい」
「小変動ありで次に感じなかったら、毎回じゃないって分かる」
「はい」
「だから嫌だけど、見た方がいい」
サーラは少しだけ表情を柔らかくした。
「その状態なら、次の比較へ進む準備は昨日より整っていると思います」
「明日?」
「それはまだ決めません」
「やっぱり」
◇
夕方になると、生活観測区画の窓から差し込む光は少し赤みを帯びていた。
顔のない存在は昼過ぎから長く休んでいたが、日が傾き始めた頃にもう一度立ち上がった。最初に二歩進み、そこでしばらく止まったあと、さらに三歩進んで椅子へ座る。
「夕方五歩。二歩と三歩」
子供は午前の四歩と並べて書いた。
多いから良いとはしない。
胸の光は、明るい二つと弱い一つに見えた。
「今は三つ」
「朝は四つだったね」
「うん。でもいつ変わったか見てない」
子供は位置を書き終えてから朝と午前の紙を並べた。
「明るい一個は朝と近い。もう一個は違う。弱いのも違う」
「今日の箱見た時間とは?」
アリシアが聞きかけ、子供が首を傾げた。
「分からない」
「そうだね」
箱を見たことと、光の見え方が変わったこと。
同じ日に起きただけでは関係にならない。
アリシアは自分で聞いてから、そのことをもう一度確認した。
◇
夕食後、エルデン教師から短い追加報告があった。
今日確認した二つ目の候補については、「交差候補」から一段弱め、「接近・終端候補」として別記録にするという。
一本がもう一本の下を通っている証拠はなく、浅角度照明ではむしろ途中で浅くなり、近接部付近で見えなくなっているように見えた。ただし摩耗や汚れ、照明角度の影響もあるため、線が本当にそこで終わっているとは断定しない。
「名前変わった」
子供が言う。
「仮の名前ね」
アリシアが返す。
「交差じゃない?」
「交差じゃないかもしれない、が増えた」
「じゃあ前の交差候補の方が交差っぽい?」
「今のところは」
子供は少し考え、紙へ二つの候補を並べた。
「次、前の方もう一回見たい気持ち七」
「今日十まで上がったから、明日は?」
「箱休む」
「決めたんだ」
「うん。紙見る」
『この部屋、休む判断だけ上達しすぎじゃない?』
ノアが言う。
「いいことでしょ」
『悪いとは言ってない』
◇
夜が深くなる頃には、昼間の雲がほとんど消えていた。
生活観測区画の窓からは細かな星が見え、庭の木々も昼間より静かになっている。遠くの学院棟から聞こえていた生徒たちの声も途絶え、時折、夜番の足音だけが廊下の向こうを通り過ぎた。
子供は今日の線刻記録を整理したあと、先に寝台へ入った。
顔のない存在も横になっている。
アリシアは机の小さな灯りだけを残し、練習帳を開いた。
今日、人工刺激はなかった。
それでも書くことは少なくない。
『第180話の翌日。身体への残りは確認できなかった。冷感、震え、痛み、息苦しさ、頭痛、腕の重さはなし。朝の疲労一。三回の時刻一致が崩れてほしくない気持ちは朝六、午後五』
そこまで書き、少し考える。
数字が一つ下がった理由を、もう少し残したかった。
『下がったのは、結果を信じなくなったからではない。むしろ信じたい気持ちはまだ強い。でも、次に違う結果が出たとき、それを邪魔な結果として扱わない方がいいと思えるようになった』
書き終えたところで、ノアが机へ上がってきた。
『随分真面目ね』
「今日試験なかったから」
『試験ない日の方が書いてない?』
「考える時間あった」
『普通の授業のことは?』
アリシアの筆が止まる。
「書く必要ある?」
『知らないけど。今日は学生だったんでしょう』
「いつも学生」
『研究室にいると忘れそうになるじゃない』
「忘れてない」
『じゃあ書けば』
アリシアは少しむっとしながら、ページの下へ一行加えた。
『授業の演習で符号を間違えた。隣の子に笑われた』
『それだけ?』
「十分」
『楽しかった?』
「……六」
『書きなさい』
「ノア、先生みたい」
『嫌ね』
アリシアは笑いながら続ける。
『恥ずかしさ三。楽しかった六。周りの子も笑ったけど、逃げたいは一だった』
書いたあと、その数字を少し長く見つめた。
以前の自分なら、周囲から笑い声が上がった瞬間に、その場から消えたくなっていたかもしれない。
今日は違った。
恥ずかしかった。
でも、嫌ではなかった。
「これも進んでる?」
『研究じゃない方はね』
「研究も進んでる」
『知ってる』
ノアは練習帳の横へ伏せた。
アリシアは次の欄へ移る。
『次の人工試験では、今日までと同じ三候補非通知方式を続ける案がある。私はその日の条件を知らない。滑らかな十が候補に含まれることは知っているけれど、実際にそれが来るかは知らない』
そこで、筆先が少し止まった。
もし滑らかな十が来て、何も感じなかったら。
第175話の結果と重なる。
小変動ありの三回とは違う側へ、もう一つ記録が増える。
その形は綺麗だ。
だからこそ、そうなってほしいと願ってしまう可能性もある。
逆に、滑らかな十で何かを感じたら。
今まで考えていた「小変動の有無」だけでは足りなくなる。
少し怖い。
でも、以前ほど嫌ではない。
『次の滑らかな十で無反応になってほしい気持ち、今は六』
アリシアは書いた。
『何か感じても記録したい気持ち、八』
数字を並べてみる。
少し変な気がして、アリシアは首を傾げた。
「無反応になってほしい六なのに、感じても記録したい八って変?」
『別に』
「両方ある」
『人間の気持ちが一個しかなかったら、あなたの練習帳もっと薄いでしょうね』
「それはそうかも」
アリシアは最後に、今日一日の結論ではなく、今の自分が次に持っていきたいものを書いた。
『三回近かったから、四回目も近くなってほしいわけではない。次に必要なのは、今までの形を守る結果ではなく、その形が本当にどこまで残るのかを見る結果だと思う』
筆を置く。
昨日の夜より、胸の中は静かだった。
三回の一致が消えたわけではない。
価値が下がったわけでもない。
むしろ、一日置いて見直しても、やはり無視できない関係に見える。
けれど今日は、その関係へ新しい刺激を重ねなかった。
子供も、線刻を一か所だけ見て、見たい気持ちが十になったところで箱を閉じた。
顔のない存在は朝、午前、夕方で歩き方と光の見え方を変えたが、その意味を誰も決めなかった。
何も進まなかった日ではない。
新しい答えを取りに行かなかっただけだ。
アリシアは灯りを落とす前に、閉じた練習帳の表紙を指先で一度撫でた。
次の試験で何が来るのか、自分は知らない。
滑らかな十かもしれない。
前半かもしれない。
後半かもしれない。
そして、そのどれであっても、自分が望んでいた通りの結果になる保証はない。
昨日までなら、その不確かさの中へ早く飛び込みたくなっていた。
今日は違う。
一日待ったことで、期待がなくなったわけではない。ただ、その期待を抱えたままでも、違う結果を受け取る準備が少しできた。
だから次は、反応を出すために座るのではない。
これまで三度続いた近さが、何も足さない条件の中でも現れるのか。
あるいは、何も起こらないまま終わるのか。
そのどちらでも、見たものをそのまま持ち帰るために座る。
アリシアはようやく、その違いを自分の言葉で考えられるようになっていた。




